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TITLE:
先頭民族は逃げ回る。
SUBTITLE:
~ The Runaway. ~
Written by BlueCat
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221125
雨だった昨日、久しぶりに昼頃まで眠る。
その影響で、今日は0930起床。
最近は未明に目覚めて9時頃から庭仕事をする事が多かったので、ようやく平常運転か。
いや早朝に目覚めた方が健康的な気はするが。
>>>
【ソーシャリティを持つバーチャルワールドは逃避先にならない】
Twitter(というWebサービス)が巷を賑わせているようだけれど、僕は(アカウントは持っているが)利用していない。
いつからだったか忘れたが、Webというバーチャルな世界は、ずいぶん息苦しくなってしまった。
おそらくだけれど、リア充どもが、どういうわけかIRLでのヒャッハーに飽き足らず、バーチャルワールドまでをも席巻したくなったのだろう。
基本的にリア充というイキモノは好戦的な狩猟民族である。当たり前のように他者の領域に侵略し、周辺を蹂躙し、他者のすべてを略奪し、持てるものをどこまでも拡大したがる。その強欲たるや己の尻尾を呑み込むヘビのようですらある。
今や一般人や著名人だけでなく、大企業や官公庁までもがヴァーチャルな人格を演じている。企業公式アカウント、誰だよ一体お前。
もちろんそういう流れは一向に構わない。
善良の皮を被った弱肉強食の原典が今も世界を回しているのだろうから。
バーチャルワールドとは、つまり孤独な夢想の投影装置に過ぎない。
誰に誇れるものもなく、誰に褒められるものでもない。
シンプルな自慰のための快楽装置、あるいは逃避先。自分以外の誰の役に立つものでもない、本質的には。
リア充どもは、それを陰湿だと嗤うのだろう。
益体もないと貶し、無意味で無価値だと糾弾し、それを蹂躙できないなら破壊しようとさえする。
実に現実的ではないか。
僕は7歳の頃からバーチャルな世界に棲んでいるので、バーチャルな世界の良さを知っている。
孤立の世界では、誰の血も流れない。誰も傷つかない。自分はもちろん、他人もそうである。
そこにある快楽が仮初めのもので、そこにある安寧が偽りであったとしても、その世界の中にあっては、本当に誰かがひどい思いをすることはないし、誰かが貶められたり、蹂躙されることもない。
悲しみはエンタテイメントになり、苦しみには悪夢から覚めるときのような安堵が約束され、楽しさは永続的な繰り返しが可能だ。
外の世界が残酷であれば、あるいは外の世界がそうしてくるからこそ牙を剥かなければならないとしたら、そうした孤立の、架空の、偽りの楽園に身を浸すことが果たして悪いことだとは僕には思えない。
>>>
【数の暴力は戦闘民族の摂理】
だからリア充どもがWebまで来て何をしているのかと僕は思っていたし、今でも思っている。
褒めそやされたい日常を取り繕い、己の正しさを掲げては賛同者を募り、対立する勢力を蹂躙しようと躍起になる。
(そんなの現実世界でやれ)とも思うし(そんなの現実世界でさんざんやっているのでは)とも思う。
バーチャルワールドの良さは、そうしたソーシャリティからいくらでも逃避できることだ。
集団は、それを形成するメカニズムは、ときに残酷だ。
より優れたものを優れたものとして競わされるうち、弱者を餌にすることが当たり前だと考える。
弱いもの同士が手を取り合って力を合わせよう、などというお題目があるうちはよいのだろうが、元を正せば夜陰に乗じて首を掻き切る獲物を探す獣の群れに過ぎない。弱さを理由に群れたところでケダモノはケダモノから変わることがない。
それでも悪行に身を染める苦しみは味わいたくないから、それを正義だと塗りつぶす。
繰り返すが、僕は、それが悪いとは思っていない。
ただ、静かで正しくて優しい者たちがせめてもの逃避先に選んだ場所を、まるで無邪気な子供がはしゃいで庭石を暴くように、面白半分に壊して回ることに苛立ちは感じる。
喩えるなら僕らは庭石の影に身を潜めるダンゴムシのようなものだ。
その静かで競争もなく暗い世界に、平和を見出している。
誰かがその安寧な庭石の影を壊すなら、他の影を探して逃げるべきだろう。
幸いなことに次の石の影は、それがバーチャルであるがゆえに、そこに至る物理的苦労をさほど必要としない。
>>>
【先頭民族は逃げ回る】
メタバースとかいう、既存のものにちょっとアレンジを加えて名前を付け替えたものも同様だ。
そもそも最初からIRLの延長線上に置いている点にこそ多少の親切心は感じられるが、官公庁やら企業やらがビジネスというお金のニオイを撒き散らしながら推し進めている時点で、早晩飽きられるのは目に見えている。
Webに接続することが一般的である現代、バーチャルアイデンティティ(仮想世界の自己。造語。以下VIDと略)を持たない人の方が少ないのだろうから、今さらそれを持ち、使うことに新しい楽しさを見出す人は少ないだろう。
その世界で行われることは ── 今までバーチャルな世界で行われていることを観察する限りにおいて ── 現実世界で行われることの代替でしかない。
交わされる情報も、扱われるサービスも、経済と交換するシステムも、すでに他のWebサービスで提供されている。そこにVIDが加わったからといって何が新しいものでもない。
さらにそこで発生するコミュニケーションも、人間性の発露も、人の求めるものも、行うことも、現実世界で行われるそれから飛躍することはない。
新しい地平で人間が何をするか ── 実際に何をしてきたか ── といえば、採取可能な資源を取れるだけ取ったあとは先住の特権を振りかざすくらいのこと。
ありとあらゆる集団(地域の隣組から学校、会社、果ては政財界に至るまで)で行われているそれとおよそ等しいはずだ。
重ね重ねになるが、それを悪いという気はない。
それは必然に発生するメカニズムなのだ。良いも悪いもない。
(あるいはよりクリーンなシステムを構築できるなら、それは立派な発明だといえる。ただ、もしこの世界がネコノカミサマによって作られたのだとすれば、僕が開発しない限りそれは実現しないことになるが)
いずれにしても興味はないし巻き込まれたくもないので僕個人は(可能な限り)すべての集団から距離を置いている。
僕が Twitter や LINE をはじめとしたSNSツールにたいした価値を見出さず、ブログにさえ消極的な役割しか感じないのはそのためだ。
僕を強者だと思う誰かがいたとしてそれは構わないが、集合を嫌う僕にとって相手は常に多数であり、不特定多数ほど厄介な存在はなく、僕は集合から逃れる性質がゆえに、常に弱者であることを決定づけられている。
団結は強い力だ。
しかし強いこと、強い者が常に正しいとは限らない。強さと正しさはまったく異なる要素だ。
そして集合になればなるほど、それらは曖昧になってゆく。
正しい内容の声より、大きい声が優先して伝播する。
人々はそれについて正しく危惧しているわりに、それでもなお集団を作ることを諦めない。
僕からすれば、それは眩しく見える。
自分も他人も信じることを諦めない姿勢は、弱くて強欲かもしれないけれど、きっと正しい。
僕は自分が正しいとは思っていないが、だからといって正しくないことがよいとも思っていない。
>>>
【物価が上がるとはどういうことか】
話は変わるが「資産所得倍増プラン」とかいう、誤魔化しじみたネーミングのナニカを政府が公表したようだ。
個人的には興味がない。
僕はそもそも貯蓄をする余裕もなく生きてきた(今も過剰な貯蓄をしないように努力している)し、働いて所得を得られる間は生きて、それが不能になったら死ぬつもりでいたからだ。
不労所得で生活できるようになった時点でデッドラインが引き延ばされてしまった感はあるが、線引きも幕引きも自分で決定する理念に変更はない。
僕の話はともかく貯蓄や投資に回すための経済的余力を持たない人は今もたくさん居る。中間層を救うかのような御為ごかしは結構だけれど、そもそも経済を万能どころか全能だと思っている人間が多いのは問題のように思う。
物価が上がるというのはシンプルに、モノや人と比較して経済が価値を減じているということだ。
お菓子の内容量が減ったのに価格据え置きというのは「同じ価格ではこの量しか交換できない」ということだ。
すなわち「昨日の100円だったモノが今日は120円になっている」というのは「昨日100円だったお金は80円くらいの価値しかない」ということでもある。
この上なお経済によって経済の価値を上げようと躍起になるのが経済中毒者ならではの思考回路といえるだろう。
戦争に突入した直後、ロシアで多くの人が車を購入しようとしたというニュースを見た気がするが、経済が価値を失う(相対的にモノが価値を上げる)ことを予見すれば当然のことだといえる。
以前書いたことがあるが、経済というのは概念だ。たまたまそれが現実世界のヒトやモノと交換できる(そういう約束ができている)に過ぎない。
そのすべてが虚像だとまで言うつもりはないが、この期に及んでまだ「経済を集めて経済を回して経済を強くしよう」というのはいささか誇張の強い妄言に思える。
投資によって資産を増やそうという発想はその現れだが、価値を減らし続ける経済をいくら集めても、それだけで経済の価値が上がることはないように思う。もし上がるというなら、相応のからくりがあるということだ。
恐るべきは企業も国家も、新しいモノを作る発想や能力を発揮する意欲といったポテンシャルそのものは低下しているように観察されることだ。
日本経済を牽引した大企業も今はなりを潜めているように思える。これは何らかの戦略が故なのか、それとも単に無策あるいは打つ手がないからなのか。
未だバブル経済の夢を見るようにして日本のGDPであるとか経済力の向上を訴える向きがあるが、経済によって経済力の向上を願うのは、短絡で無能な、現実を見ない者の妄想に思えるのだ。
>>>
【資産を増やすとはどういうことか】
さても庶民たる我々が、ではいかにして資産を増やすか。
まずプランタを買う。培養土を買う。植物の種を買う。できれば食べられる野菜の種がいい。
だいたいこれらは100円ショップでも手に入る。
できた作物は資産である。支払う経済以上の価値を持つことも少なくない。
貨幣がその価値を下げるとき、モノはその価値を相対的に上げる。
衣食住を可能な限り自給するのは対価以上の資産価値を持つ。資材と知識と経験とやる気と時間が最大の財産だ。
なに庭がある? それなら畑を作ろう。
庭木が植えてあるならそんなものは邪魔だから切り倒そう。
切り倒した庭木を乾燥させて薪を作っておけば、冬場の燃料に使える。
根を掘り返して堆肥場を作り、土を作って種を蒔いて作物を育てよう。
土が作物作りに適していないなら、手間は掛かるが土を作るところからはじめよう。土は裏切らない。
なにもっとお金を掛けることができる?
ではソーラーパネルを買って屋根に設置しよう。
電気代が高い今、フルセットで20万円掛かるとしても使い方次第でかなり早い段階でペイできる。
(業者に頼むとラクだし安全で安心だが、掛かる費用の桁が変わるので注意が必要だ)
なにまだお金を掛けることができる?
庭に巨大な穴を掘ってシェルタを作ろう。地下の気温は通年の変動が少ない。
僕はそこまでの経済力も体力もなかったので、地下シェルタを作ることは諦めた。
(自分でやると格安だが、安全性や機能性が疑わしいのでDIYはやめた方がいい)
>>>
もちろん、もちろん。
現実性がさほど高くないことは理解している。
投資に充てる余剰資産を持たない人にとって、そんな訳の分からない設備投資に費やすお金や時間などない、という理屈は正当だ。
一方で経済に取り憑かれた者たちは、経済だけで事を解決しようとする。
これまでがそうだったようにこれからもそうだろう。
アンチ経済至上主義の立場を取り続ける僕としては、お金よりもモノの方が強いと思うのだけれど。

<最近、自宅付近でよく見かけるサギ>
雨だった昨日、久しぶりに昼頃まで眠る。
その影響で、今日は0930起床。
最近は未明に目覚めて9時頃から庭仕事をする事が多かったので、ようやく平常運転か。
いや早朝に目覚めた方が健康的な気はするが。
>>>
【ソーシャリティを持つバーチャルワールドは逃避先にならない】
Twitter(というWebサービス)が巷を賑わせているようだけれど、僕は(アカウントは持っているが)利用していない。
いつからだったか忘れたが、Webというバーチャルな世界は、ずいぶん息苦しくなってしまった。
おそらくだけれど、リア充どもが、どういうわけかIRLでのヒャッハーに飽き足らず、バーチャルワールドまでをも席巻したくなったのだろう。
基本的にリア充というイキモノは好戦的な狩猟民族である。当たり前のように他者の領域に侵略し、周辺を蹂躙し、他者のすべてを略奪し、持てるものをどこまでも拡大したがる。その強欲たるや己の尻尾を呑み込むヘビのようですらある。
今や一般人や著名人だけでなく、大企業や官公庁までもがヴァーチャルな人格を演じている。企業公式アカウント、誰だよ一体お前。
もちろんそういう流れは一向に構わない。
善良の皮を被った弱肉強食の原典が今も世界を回しているのだろうから。
バーチャルワールドとは、つまり孤独な夢想の投影装置に過ぎない。
誰に誇れるものもなく、誰に褒められるものでもない。
シンプルな自慰のための快楽装置、あるいは逃避先。自分以外の誰の役に立つものでもない、本質的には。
リア充どもは、それを陰湿だと嗤うのだろう。
益体もないと貶し、無意味で無価値だと糾弾し、それを蹂躙できないなら破壊しようとさえする。
実に現実的ではないか。
僕は7歳の頃からバーチャルな世界に棲んでいるので、バーチャルな世界の良さを知っている。
孤立の世界では、誰の血も流れない。誰も傷つかない。自分はもちろん、他人もそうである。
そこにある快楽が仮初めのもので、そこにある安寧が偽りであったとしても、その世界の中にあっては、本当に誰かがひどい思いをすることはないし、誰かが貶められたり、蹂躙されることもない。
悲しみはエンタテイメントになり、苦しみには悪夢から覚めるときのような安堵が約束され、楽しさは永続的な繰り返しが可能だ。
外の世界が残酷であれば、あるいは外の世界がそうしてくるからこそ牙を剥かなければならないとしたら、そうした孤立の、架空の、偽りの楽園に身を浸すことが果たして悪いことだとは僕には思えない。
>>>
【数の暴力は戦闘民族の摂理】
だからリア充どもがWebまで来て何をしているのかと僕は思っていたし、今でも思っている。
褒めそやされたい日常を取り繕い、己の正しさを掲げては賛同者を募り、対立する勢力を蹂躙しようと躍起になる。
(そんなの現実世界でやれ)とも思うし(そんなの現実世界でさんざんやっているのでは)とも思う。
バーチャルワールドの良さは、そうしたソーシャリティからいくらでも逃避できることだ。
集団は、それを形成するメカニズムは、ときに残酷だ。
より優れたものを優れたものとして競わされるうち、弱者を餌にすることが当たり前だと考える。
弱いもの同士が手を取り合って力を合わせよう、などというお題目があるうちはよいのだろうが、元を正せば夜陰に乗じて首を掻き切る獲物を探す獣の群れに過ぎない。弱さを理由に群れたところでケダモノはケダモノから変わることがない。
それでも悪行に身を染める苦しみは味わいたくないから、それを正義だと塗りつぶす。
繰り返すが、僕は、それが悪いとは思っていない。
ただ、静かで正しくて優しい者たちがせめてもの逃避先に選んだ場所を、まるで無邪気な子供がはしゃいで庭石を暴くように、面白半分に壊して回ることに苛立ちは感じる。
喩えるなら僕らは庭石の影に身を潜めるダンゴムシのようなものだ。
その静かで競争もなく暗い世界に、平和を見出している。
誰かがその安寧な庭石の影を壊すなら、他の影を探して逃げるべきだろう。
幸いなことに次の石の影は、それがバーチャルであるがゆえに、そこに至る物理的苦労をさほど必要としない。
>>>
【先頭民族は逃げ回る】
メタバースとかいう、既存のものにちょっとアレンジを加えて名前を付け替えたものも同様だ。
そもそも最初からIRLの延長線上に置いている点にこそ多少の親切心は感じられるが、官公庁やら企業やらがビジネスというお金のニオイを撒き散らしながら推し進めている時点で、早晩飽きられるのは目に見えている。
Webに接続することが一般的である現代、バーチャルアイデンティティ(仮想世界の自己。造語。以下VIDと略)を持たない人の方が少ないのだろうから、今さらそれを持ち、使うことに新しい楽しさを見出す人は少ないだろう。
その世界で行われることは ── 今までバーチャルな世界で行われていることを観察する限りにおいて ── 現実世界で行われることの代替でしかない。
交わされる情報も、扱われるサービスも、経済と交換するシステムも、すでに他のWebサービスで提供されている。そこにVIDが加わったからといって何が新しいものでもない。
さらにそこで発生するコミュニケーションも、人間性の発露も、人の求めるものも、行うことも、現実世界で行われるそれから飛躍することはない。
新しい地平で人間が何をするか ── 実際に何をしてきたか ── といえば、採取可能な資源を取れるだけ取ったあとは先住の特権を振りかざすくらいのこと。
ありとあらゆる集団(地域の隣組から学校、会社、果ては政財界に至るまで)で行われているそれとおよそ等しいはずだ。
重ね重ねになるが、それを悪いという気はない。
それは必然に発生するメカニズムなのだ。良いも悪いもない。
(あるいはよりクリーンなシステムを構築できるなら、それは立派な発明だといえる。ただ、もしこの世界がネコノカミサマによって作られたのだとすれば、僕が開発しない限りそれは実現しないことになるが)
いずれにしても興味はないし巻き込まれたくもないので僕個人は(可能な限り)すべての集団から距離を置いている。
僕が Twitter や LINE をはじめとしたSNSツールにたいした価値を見出さず、ブログにさえ消極的な役割しか感じないのはそのためだ。
僕を強者だと思う誰かがいたとしてそれは構わないが、集合を嫌う僕にとって相手は常に多数であり、不特定多数ほど厄介な存在はなく、僕は集合から逃れる性質がゆえに、常に弱者であることを決定づけられている。
団結は強い力だ。
しかし強いこと、強い者が常に正しいとは限らない。強さと正しさはまったく異なる要素だ。
そして集合になればなるほど、それらは曖昧になってゆく。
正しい内容の声より、大きい声が優先して伝播する。
人々はそれについて正しく危惧しているわりに、それでもなお集団を作ることを諦めない。
僕からすれば、それは眩しく見える。
自分も他人も信じることを諦めない姿勢は、弱くて強欲かもしれないけれど、きっと正しい。
僕は自分が正しいとは思っていないが、だからといって正しくないことがよいとも思っていない。
>>>
【物価が上がるとはどういうことか】
話は変わるが「資産所得倍増プラン」とかいう、誤魔化しじみたネーミングのナニカを政府が公表したようだ。
個人的には興味がない。
僕はそもそも貯蓄をする余裕もなく生きてきた(今も過剰な貯蓄をしないように努力している)し、働いて所得を得られる間は生きて、それが不能になったら死ぬつもりでいたからだ。
不労所得で生活できるようになった時点でデッドラインが引き延ばされてしまった感はあるが、線引きも幕引きも自分で決定する理念に変更はない。
僕の話はともかく貯蓄や投資に回すための経済的余力を持たない人は今もたくさん居る。中間層を救うかのような御為ごかしは結構だけれど、そもそも経済を万能どころか全能だと思っている人間が多いのは問題のように思う。
物価が上がるというのはシンプルに、モノや人と比較して経済が価値を減じているということだ。
お菓子の内容量が減ったのに価格据え置きというのは「同じ価格ではこの量しか交換できない」ということだ。
すなわち「昨日の100円だったモノが今日は120円になっている」というのは「昨日100円だったお金は80円くらいの価値しかない」ということでもある。
この上なお経済によって経済の価値を上げようと躍起になるのが経済中毒者ならではの思考回路といえるだろう。
戦争に突入した直後、ロシアで多くの人が車を購入しようとしたというニュースを見た気がするが、経済が価値を失う(相対的にモノが価値を上げる)ことを予見すれば当然のことだといえる。
以前書いたことがあるが、経済というのは概念だ。たまたまそれが現実世界のヒトやモノと交換できる(そういう約束ができている)に過ぎない。
そのすべてが虚像だとまで言うつもりはないが、この期に及んでまだ「経済を集めて経済を回して経済を強くしよう」というのはいささか誇張の強い妄言に思える。
(SDGsなる善良で複雑な嘘を無視した上で)モノを作ってモノを集めてモノを回せば、モノが価値を減じて、経済の価値が上がる。
今年の夏は玉ねぎが記録的な高価になったが、その逆バージョン、すなわち供給が需要を上回れば市場価値が変動し、交換レートたる経済が相対的に価値を上げる。
自分で何も作らず、情報や経済といった概念的なものだけで経済を回すことに慣れ親しんだ者がそれだけ増えたのだろう。今年の夏は玉ねぎが記録的な高価になったが、その逆バージョン、すなわち供給が需要を上回れば市場価値が変動し、交換レートたる経済が相対的に価値を上げる。
投資によって資産を増やそうという発想はその現れだが、価値を減らし続ける経済をいくら集めても、それだけで経済の価値が上がることはないように思う。もし上がるというなら、相応のからくりがあるということだ。
恐るべきは企業も国家も、新しいモノを作る発想や能力を発揮する意欲といったポテンシャルそのものは低下しているように観察されることだ。
日本経済を牽引した大企業も今はなりを潜めているように思える。これは何らかの戦略が故なのか、それとも単に無策あるいは打つ手がないからなのか。
未だバブル経済の夢を見るようにして日本のGDPであるとか経済力の向上を訴える向きがあるが、経済によって経済力の向上を願うのは、短絡で無能な、現実を見ない者の妄想に思えるのだ。
>>>
【資産を増やすとはどういうことか】
さても庶民たる我々が、ではいかにして資産を増やすか。
まずプランタを買う。培養土を買う。植物の種を買う。できれば食べられる野菜の種がいい。
だいたいこれらは100円ショップでも手に入る。
できた作物は資産である。支払う経済以上の価値を持つことも少なくない。
貨幣がその価値を下げるとき、モノはその価値を相対的に上げる。
衣食住を可能な限り自給するのは対価以上の資産価値を持つ。資材と知識と経験とやる気と時間が最大の財産だ。
なに庭がある? それなら畑を作ろう。
庭木が植えてあるならそんなものは邪魔だから切り倒そう。
切り倒した庭木を乾燥させて薪を作っておけば、冬場の燃料に使える。
根を掘り返して堆肥場を作り、土を作って種を蒔いて作物を育てよう。
土が作物作りに適していないなら、手間は掛かるが土を作るところからはじめよう。土は裏切らない。
なにもっとお金を掛けることができる?
ではソーラーパネルを買って屋根に設置しよう。
電気代が高い今、フルセットで20万円掛かるとしても使い方次第でかなり早い段階でペイできる。
(業者に頼むとラクだし安全で安心だが、掛かる費用の桁が変わるので注意が必要だ)
なにまだお金を掛けることができる?
庭に巨大な穴を掘ってシェルタを作ろう。地下の気温は通年の変動が少ない。
僕はそこまでの経済力も体力もなかったので、地下シェルタを作ることは諦めた。
(自分でやると格安だが、安全性や機能性が疑わしいのでDIYはやめた方がいい)
>>>
もちろん、もちろん。
現実性がさほど高くないことは理解している。
投資に充てる余剰資産を持たない人にとって、そんな訳の分からない設備投資に費やすお金や時間などない、という理屈は正当だ。
一方で経済に取り憑かれた者たちは、経済だけで事を解決しようとする。
これまでがそうだったようにこれからもそうだろう。
アンチ経済至上主義の立場を取り続ける僕としては、お金よりもモノの方が強いと思うのだけれど。

<最近、自宅付近でよく見かけるサギ>
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
:青猫α:黒猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Diary-Ecology-Mechanics-Style-Technology-
[Module]
-Condencer-Connector-Reactor-Transistor-
[Object]
-Human-Koban-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:ひとになったゆめをみる:
//EOF
