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// TimeLine:221021
// NOTE:
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TITLE:
許しがたく不正で無能な者よ。
SUBTITLE:
~ Void creature. ~
Written by BlueCat
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//[Body]
221021
いつかここは畑になる。
そう思って開墾を始めた花壇は、今年も荒れるに任せたまま冬を迎えようとしている。
>>>
庭にあった金木犀の木を切り倒す。
金木犀は好きである。恨みはない。
ただ手入れが悪くて枝が修復困難に肥大していたことと、花壇に植えられた木々が生長したため樹間が狭く、日照や風通しが悪くなって病害虫が発生していたので、間引くことにした。
(本当は、隣の椿の木を切り倒したかったのだが、そちらは急ぐ必要がないので見送った)
庭仕事をしていてつくづく、人間(僕は猫だけれど)のエゴだとか業だとかの深さや強さを感じるし、それについて考え始めると少し心が痛む。
昆虫や植物でさえ、己の手を汚して殺すのは、つらいことだ。できればしたくない。
でもそれをしなければならない理由がある。あるはずだと思う。それともこれは思い込みなのだろうか。
しかし台所でゴキブリを見て放置することはむつかしいし、畑でバッタを見かけて笑顔で送り出すこともむつかしい。
ブロッコリィを茎だけ残して食い散らかされた悔しさを僕は忘れない。
それでもバッタを追って踏みつけるために足を上げるとき、心のどこかは躊躇う ── できれば殺したくない。
しかしそれをする理由がある。できればしたほうが良い理由がある。
葛藤と呼ぶほどでもないが、非常に強い抵抗を押し切って、僕は殺す。
虫だろうが草だろうが殺す。
邪魔だから。
嫌いだから。
気持ち悪いから。
たったそれだけの理由でも殺す。
きっと犬だろうが猫だろうが人だろうが、殺す「正当な」理由を見つけたら殺すだろう。
だから僕は正しさが嫌いなのだ。
正しさの名の下にすべてのエゴは正当化され、相対するエゴたちを駆逐し蹂躙し陵辱する。
貴様らに人権などないとばかり主張は否定され、行いまでも矯正することを強要される。
正しさの名の下に、人は人を奴隷にする。
いやまさかそんな大袈裟なことまで考えているわけではないけれど、抽象的に考えればそういうところにも行き着く。
正しき者は戦争の勝利者だ。
敗者に一切の権利はない。
好きに生きる権利も、好きに死ぬ権利さえも。
虫やら草木やらを殺しながら、僕は勝者である自身の正しさによって暗い気持ちになる。
もっと明るく「ヒャッハー! 汚物は消毒だァ!!」という昂揚した気分で殺戮を行いたい。
ありとあらゆる陵辱を、そうやって当たり前のようにして、奪えるものを奪い、虐げられるすべてを虐げ、この足で踏みにじることに無上の悦びを感じていたい。もしそれが可能なら。
しかし多くの生き物は、逃げまどい、悲鳴を上げ、抵抗する。当たり前である。
殺せば体液やら体組織が飛散し、死体の処理がある。昆虫だろうが植物だろうが、それは変わらない。
それを眺め処理することさえ、あるいは楽しめる人もいるのだろうか。僕には分からない。
>>>
おそらく僕がそうやって開墾している花壇が、畑になることを多くの人は予想もしていないだろう。
むしろ僕個人としては、いまだまともな畑になっていないことの方が驚きなのだが、僕が開墾しないあいだ、ハタケモドキはただの荒れ地に変わり、雑草が生い茂り、昆虫どもが蔓延る。
蔓延ったそれらを蹂躙するところからやり直しになる。今年はまさにそうだ。
正しさ至上主義の人たちというのは、どうも「多数派だから」「権利が/倫理が」「経済的に」などともっともらしい理屈で正しさを表明し、それを裏付けようとする。そんなデータはどこにでもあるから、誰だって何らかの理屈において正しいのである。
ために「言ったもの勝ち/声の大きいもの勝ち」の正しさを振りかざして、周囲を蹂躙してしまう。
最近だと、マイノリティデイなるもので、ちょっと茶目っ気のあるツイートをした企業が「なんちゃらマイノリティ」の団体から謝罪を迫られた、なんてニュースもあったが、みんなヒマそうでなによりである。
正しさは武器に使わないほうがいいものだし、絶対的なものでもない。
正しさで誰かを奴隷にするような人間になってはいけないし、誰かを傷つけるような過ちを繰り返す人間にもならない方がいい。
そういう意味であれば、中庸とか、平凡とか、平均とか、そういうものは素敵だと思える。
何でもないありよう。
誰でもない無能さ。
たしかに衆に秀でることは素晴らしいけれど、そうでない人間ものんびりぼんやり、文句を言いながらも楽しく暮らせることを目指すのが民主主義ではなかっただろうか。
正しいのは大いに結構だけれど、間違いだって無駄だって、文化的には大いに結構なものなのだから。
木を切り倒し、虫を踏みつけ、草を抜きながら思う。
それなら、正しくない自分のことも少しは許せそうだと。
私もいずれはこの身に含まれたリンを大地に返す日が来るから、もう少しだけ、許していてほしいと。
>>>
いつかここは畑になる。
たくさんのものを傷つけ、踏みつけ、殺し、陵辱し、その日の飢えをしのぐための糧食が生るだろう。
殺して殺して殺して。奪って奪ってなお奪って。
自然なるものと互いに、存続の妥協点を探りながら。
いつかここは畑になる。
そう思って開墾を始めた花壇は、今年も荒れるに任せたまま冬を迎えようとしている。
>>>
庭にあった金木犀の木を切り倒す。
金木犀は好きである。恨みはない。
ただ手入れが悪くて枝が修復困難に肥大していたことと、花壇に植えられた木々が生長したため樹間が狭く、日照や風通しが悪くなって病害虫が発生していたので、間引くことにした。
(本当は、隣の椿の木を切り倒したかったのだが、そちらは急ぐ必要がないので見送った)
庭仕事をしていてつくづく、人間(僕は猫だけれど)のエゴだとか業だとかの深さや強さを感じるし、それについて考え始めると少し心が痛む。
昆虫や植物でさえ、己の手を汚して殺すのは、つらいことだ。できればしたくない。
でもそれをしなければならない理由がある。あるはずだと思う。それともこれは思い込みなのだろうか。
しかし台所でゴキブリを見て放置することはむつかしいし、畑でバッタを見かけて笑顔で送り出すこともむつかしい。
ブロッコリィを茎だけ残して食い散らかされた悔しさを僕は忘れない。
それでもバッタを追って踏みつけるために足を上げるとき、心のどこかは躊躇う ── できれば殺したくない。
しかしそれをする理由がある。できればしたほうが良い理由がある。
葛藤と呼ぶほどでもないが、非常に強い抵抗を押し切って、僕は殺す。
虫だろうが草だろうが殺す。
邪魔だから。
嫌いだから。
気持ち悪いから。
たったそれだけの理由でも殺す。
きっと犬だろうが猫だろうが人だろうが、殺す「正当な」理由を見つけたら殺すだろう。
だから僕は正しさが嫌いなのだ。
正しさの名の下にすべてのエゴは正当化され、相対するエゴたちを駆逐し蹂躙し陵辱する。
貴様らに人権などないとばかり主張は否定され、行いまでも矯正することを強要される。
正しさの名の下に、人は人を奴隷にする。
いやまさかそんな大袈裟なことまで考えているわけではないけれど、抽象的に考えればそういうところにも行き着く。
正しき者は戦争の勝利者だ。
敗者に一切の権利はない。
好きに生きる権利も、好きに死ぬ権利さえも。
虫やら草木やらを殺しながら、僕は勝者である自身の正しさによって暗い気持ちになる。
もっと明るく「ヒャッハー! 汚物は消毒だァ!!」という昂揚した気分で殺戮を行いたい。
ありとあらゆる陵辱を、そうやって当たり前のようにして、奪えるものを奪い、虐げられるすべてを虐げ、この足で踏みにじることに無上の悦びを感じていたい。もしそれが可能なら。
しかし多くの生き物は、逃げまどい、悲鳴を上げ、抵抗する。当たり前である。
殺せば体液やら体組織が飛散し、死体の処理がある。昆虫だろうが植物だろうが、それは変わらない。
それを眺め処理することさえ、あるいは楽しめる人もいるのだろうか。僕には分からない。
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おそらく僕がそうやって開墾している花壇が、畑になることを多くの人は予想もしていないだろう。
むしろ僕個人としては、いまだまともな畑になっていないことの方が驚きなのだが、僕が開墾しないあいだ、ハタケモドキはただの荒れ地に変わり、雑草が生い茂り、昆虫どもが蔓延る。
蔓延ったそれらを蹂躙するところからやり直しになる。今年はまさにそうだ。
>>>
民主主義というのは「多数決的に正しさを決める基本原理」によると思う人が多いのではないだろうか。
間違いではないだろうが、おそらくさほど正しいわけではない。
先に述べたように、理屈によってさえ「正しき者」と「敗北したもの」は生まれ、敗者は相応の剥奪を受ける。
それが蹂躙や陵辱ではけっしてない、などと僕には言えないし思えない。
少なくとも僕はこれまでに1度「正しき者」によって人間関係や情報端末や財産までをも支配されかけたことがある。
復旧は容易ではなかったし、復旧が不可能な事象もあった。
僕は己が「誤った者」であり「敗者」であることを知っていたから ── 本来的に「誤り」がすなわち「敗北」になり、イコールで結ばれるものだとは思わないのだが ── 僕は譲歩し、自ら「敗北」し相手に下ったわけである。
論争というのは文字通り、争いであり、戦争である。
血が流れないだけで、敗者が蹂躙されうる可能性は否定できない。
理屈や論理や倫理が正しいなら、というのは勝者の驕りである。
正しさの名の下に、一歩踏み込めば、生き物たちは簡単に殺されてゆく。
たとえば家畜の大規模伝染があれば、大量の家畜がただただ殺される。
それが悪いと断ずることはできない。正しい処理である。
ただその正しさに胸を痛める人がいて、あるいは正しさを受け容れられない弱さや醜さを嗤う人もいるということだ。
一時期「論破」などという言葉がもてはやされたが、つまるところそれは一方的かつ短絡的に、論争に勝利することを指している。どうやら皆、勝ちたいらしい。
けれども議論において相手を論破などしてしまえば、一方的な勝者による蹂躙に終わってしまう。
勝者はそれでいいだろうけれど、敗者はどこに身を置けばよいのだろう。
>>>
民主主義の法治国家が選挙制度をもって政府組織を運営する場合、論理や理屈や倫理によって「多数決による暫定的な正誤判定」を行うはずである。
選挙そのものがそうであり、おそらく政府という組織内での判断も、論理を開示し、理屈を説明し、理解を広めて、多数決で有利になるようにと採決をとるはずである。
どの名前の、どの顔が言っているかではなく、その発言内容とその意味、そしてもたらされる結果が大事なはずである。
でなければ決定は1人の人間が行えばよく、組織で何人もの人間を必要とはしないし、そもそも組織内の「和気あいあいさ」なんてものは邪魔になるだけだと分かるだろう。
まぁ最近はこの「多数決処理」を政府が無視している傾向は強いが、きっと経済至上主義国家としての選択肢のなさがそのままカタチになっているのだろうと想像する。
なぜといって経済は多数決ならぬ少数決によって物事が決する事が多い。
世の中に広く浸透している「8:2の法則」に基づき、2割の人間が8割の力を保有している結果として考えれば必然だ。
経済至上主義において、意見の多寡は意味を持たない。
力があるかないか(ハイハイ期の終わりを気にかける親心を言い表しているのではない)だけのことである。
実力主義といえば聞こえはいいかもしれないが、その言葉がもてはやされた1990〜2000年代でも有能な人間はさほど多かったわけではない。
むしろ自分を安易に「有能だ」と信じていられる脳天気さに圧倒されることが多かった。
多くの人は、多くのシーンにおいて無能である。
ときどき限定された状況で、限定された条件において有能である。
誰でもそうだ。
眠っている猫より、起きている犬の方が利口で有能で、さらにいえば自由でさえある。
>>>
民主主義というのが何であるかといえば「妥協し合う策定」だと僕は思っている。
「多いから正しい」「正しいから少数派は従え」というのではなく「多数派だからここまで譲ってもらう」「少数派だからここまでは我慢してほしい」という互いの譲歩である。
仮に多数派が正しかったとしても、少数派を蹂躙していいわけではない。
少数派のために譲れる部分は譲らなくてはならない。
少数派をいいように自分たちのエサにしない。踏みにじらない。それが倫理だろう。
だから昨今の、少数派が倫理によって自分たちの正しさを主張する場面(「なんちゃらマイノリティ」たちがやたらと自己主張しているかのようにメディアが報道することで発生する見苦しさ)もまた、正しいわけではない。
多数決制と、実力(少数)決制の違いでしかない。
多数派だけれど、相手にここまで譲れる。
少数派だけれど、相手にここまで譲ってほしい。
そうやってお互いの妥協点を探す。
お互いの我慢の範囲を決め、お互いの譲れないポイントを擦り合わせる。
摩擦は発生するし、摩耗もあるだろうが、そのための議論であり、解決方法だ。
議論で論破して勝利するのは気持ちがよいだろう。
多数決や権利によって正しさを主張するのは気分がいいだろう。
相手をいいように陵辱できる歪んだ悦びに震える嗜虐心を否定する気はない。
しかし正しさの名の下に正しくないことをするのは、歪んだ欲を吐き出すのは、果たしてよいことだろうか。
貴様は恥ずかしくはないのか。
>>>
民主主義というのは「多数決的に正しさを決める基本原理」によると思う人が多いのではないだろうか。
間違いではないだろうが、おそらくさほど正しいわけではない。
先に述べたように、理屈によってさえ「正しき者」と「敗北したもの」は生まれ、敗者は相応の剥奪を受ける。
それが蹂躙や陵辱ではけっしてない、などと僕には言えないし思えない。
少なくとも僕はこれまでに1度「正しき者」によって人間関係や情報端末や財産までをも支配されかけたことがある。
復旧は容易ではなかったし、復旧が不可能な事象もあった。
僕は己が「誤った者」であり「敗者」であることを知っていたから ── 本来的に「誤り」がすなわち「敗北」になり、イコールで結ばれるものだとは思わないのだが ── 僕は譲歩し、自ら「敗北」し相手に下ったわけである。
論争というのは文字通り、争いであり、戦争である。
血が流れないだけで、敗者が蹂躙されうる可能性は否定できない。
理屈や論理や倫理が正しいなら、というのは勝者の驕りである。
正しさの名の下に、一歩踏み込めば、生き物たちは簡単に殺されてゆく。
たとえば家畜の大規模伝染があれば、大量の家畜がただただ殺される。
それが悪いと断ずることはできない。正しい処理である。
ただその正しさに胸を痛める人がいて、あるいは正しさを受け容れられない弱さや醜さを嗤う人もいるということだ。
一時期「論破」などという言葉がもてはやされたが、つまるところそれは一方的かつ短絡的に、論争に勝利することを指している。どうやら皆、勝ちたいらしい。
けれども議論において相手を論破などしてしまえば、一方的な勝者による蹂躙に終わってしまう。
勝者はそれでいいだろうけれど、敗者はどこに身を置けばよいのだろう。
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民主主義の法治国家が選挙制度をもって政府組織を運営する場合、論理や理屈や倫理によって「多数決による暫定的な正誤判定」を行うはずである。
選挙そのものがそうであり、おそらく政府という組織内での判断も、論理を開示し、理屈を説明し、理解を広めて、多数決で有利になるようにと採決をとるはずである。
どの名前の、どの顔が言っているかではなく、その発言内容とその意味、そしてもたらされる結果が大事なはずである。
でなければ決定は1人の人間が行えばよく、組織で何人もの人間を必要とはしないし、そもそも組織内の「和気あいあいさ」なんてものは邪魔になるだけだと分かるだろう。
まぁ最近はこの「多数決処理」を政府が無視している傾向は強いが、きっと経済至上主義国家としての選択肢のなさがそのままカタチになっているのだろうと想像する。
なぜといって経済は多数決ならぬ少数決によって物事が決する事が多い。
世の中に広く浸透している「8:2の法則」に基づき、2割の人間が8割の力を保有している結果として考えれば必然だ。
経済至上主義において、意見の多寡は意味を持たない。
力があるかないか(ハイハイ期の終わりを気にかける親心を言い表しているのではない)だけのことである。
実力主義といえば聞こえはいいかもしれないが、その言葉がもてはやされた1990〜2000年代でも有能な人間はさほど多かったわけではない。
むしろ自分を安易に「有能だ」と信じていられる脳天気さに圧倒されることが多かった。
多くの人は、多くのシーンにおいて無能である。
ときどき限定された状況で、限定された条件において有能である。
誰でもそうだ。
眠っている猫より、起きている犬の方が利口で有能で、さらにいえば自由でさえある。
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民主主義というのが何であるかといえば「妥協し合う策定」だと僕は思っている。
「多いから正しい」「正しいから少数派は従え」というのではなく「多数派だからここまで譲ってもらう」「少数派だからここまでは我慢してほしい」という互いの譲歩である。
仮に多数派が正しかったとしても、少数派を蹂躙していいわけではない。
少数派のために譲れる部分は譲らなくてはならない。
少数派をいいように自分たちのエサにしない。踏みにじらない。それが倫理だろう。
だから昨今の、少数派が倫理によって自分たちの正しさを主張する場面(「なんちゃらマイノリティ」たちがやたらと自己主張しているかのようにメディアが報道することで発生する見苦しさ)もまた、正しいわけではない。
多数決制と、実力(少数)決制の違いでしかない。
多数派だけれど、相手にここまで譲れる。
少数派だけれど、相手にここまで譲ってほしい。
そうやってお互いの妥協点を探す。
お互いの我慢の範囲を決め、お互いの譲れないポイントを擦り合わせる。
摩擦は発生するし、摩耗もあるだろうが、そのための議論であり、解決方法だ。
議論で論破して勝利するのは気持ちがよいだろう。
多数決や権利によって正しさを主張するのは気分がいいだろう。
相手をいいように陵辱できる歪んだ悦びに震える嗜虐心を否定する気はない。
しかし正しさの名の下に正しくないことをするのは、歪んだ欲を吐き出すのは、果たしてよいことだろうか。
貴様は恥ずかしくはないのか。
>>>
正しさ至上主義の人たちというのは、どうも「多数派だから」「権利が/倫理が」「経済的に」などともっともらしい理屈で正しさを表明し、それを裏付けようとする。そんなデータはどこにでもあるから、誰だって何らかの理屈において正しいのである。
ために「言ったもの勝ち/声の大きいもの勝ち」の正しさを振りかざして、周囲を蹂躙してしまう。
最近だと、マイノリティデイなるもので、ちょっと茶目っ気のあるツイートをした企業が「なんちゃらマイノリティ」の団体から謝罪を迫られた、なんてニュースもあったが、みんなヒマそうでなによりである。
正しさは武器に使わないほうがいいものだし、絶対的なものでもない。
正しさで誰かを奴隷にするような人間になってはいけないし、誰かを傷つけるような過ちを繰り返す人間にもならない方がいい。
そういう意味であれば、中庸とか、平凡とか、平均とか、そういうものは素敵だと思える。
何でもないありよう。
誰でもない無能さ。
たしかに衆に秀でることは素晴らしいけれど、そうでない人間ものんびりぼんやり、文句を言いながらも楽しく暮らせることを目指すのが民主主義ではなかっただろうか。
正しいのは大いに結構だけれど、間違いだって無駄だって、文化的には大いに結構なものなのだから。
木を切り倒し、虫を踏みつけ、草を抜きながら思う。
それなら、正しくない自分のことも少しは許せそうだと。
私もいずれはこの身に含まれたリンを大地に返す日が来るから、もう少しだけ、許していてほしいと。
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いつかここは畑になる。
たくさんのものを傷つけ、踏みつけ、殺し、陵辱し、その日の飢えをしのぐための糧食が生るだろう。
殺して殺して殺して。奪って奪ってなお奪って。
自然なるものと互いに、存続の妥協点を探りながら。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
:青猫β:赤猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Blood-Color-Convergence-Diary-Ecology-Life-Love-Mechanics-Style-
[Module]
-Condencer-Convertor-Generator-Resistor-
[Object]
-Garden-Human-Koban-
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[Cat-Ego-Lies]
:いのちあるものたち:家庭菜園ティストの狂気:
//EOF
