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TITLE:
失うことに耐えられない。
SUBTITLE:
~ The lost soul. ~
Written by BlueCat

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 僕は自分をドライなイキモノだと思っている。
 いや「比較的」ドライ、程度だろうか。
 周囲にさほど親密な人間を配さないで数十年も生きているので、よく分からない。
 人間は他者をしてどの程度からドライと評し、何を基準にウェットだと判定するのか、よく分からない。

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 それでも僕は独りでいることに最適化され、ほとんどの状況で他人を必要とせず、善意による他人の助力さえ必要とせず、単純な経済との交換による契約関係においてのみ、他人に仕事を任せるようになった。
 信頼している他人が居ないわけではないし、親しく思う人間がいないわけでもない。
 けれども18年後に死ぬ予定を立てている僕にとって、他人の記憶からフェイドアウトすることは必要なことであり、他人の記憶から消えるための積極的な手段として関わり合いをなるべく持たないようにしており、ために他人を必要としないことは重要なことなのだ。昔も今も。

 今後は親しい人間をなるべく作らないようにして、他人と接する機会を極力減らすようにと考えているうちに疫病が流行した。
 ネコノカミサマに願った覚えはないが、一層、誰かと親しくする機会はなくなった。

 その「孤独に対する最適化」という点において、僕は非常にドライな存在だろう。
 経済活動さえたったひとりで完結する環境にあって、誰かと協力しなければならない人を「弱いイキモノだ」と断ずることはきっと容易い。
 もちろん、そんなことはしない。
 そもそも弱いことが悪いことだとは思わないし、誰かに助けを求めたり、誰かと力を合わせることは弱いことだとは思わない。
 弱さというならば、誰に助けを求めることもできず、誰と力を合わせることもできないまま、孤独にあって自己処理能力をどこまでも高めてしまった僕の方がきっと弱いのだ。

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 世の中に、悲しみを持たないイキモノが居るとは僕には思えない。
 この世界に、痛みを知らないイキモノが居るとは僕には思えない。
 人間と呼ばれるイキモノのうち、すべての他者を餌にできるほどしたたかな者がいるとも思えない。
 きっとみんな優しくて、きっとみんな厳しさの中でときどき限界に気付く、それだけのことだと思う。

 ドライだとかウェットだとか、そんなことは外様が何となく揶揄したり、あるいはナルシスティックな演技のために使われるだけの相対表現だろう。

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 アヲの最後の信号を頼りに探したら、首輪から外された AirTag だけが、近所の公営住宅の駐輪場の屋根から発見された。
 じつに2mを超える高さで、アヲが単独で登れる高さではない。それに、首輪がない。

 数日おきに、散歩と称しては外を歩いていたのだが、まさか AirTag とだけ再開するとは思わなかった。
 付属のリングはカラビナのようなバネが仕込まれた頑丈なもので、首輪から外れるとしたら首輪と一緒に外れるはずだ。
 だからつい、姿無き他人の、形無き悪意を想像してしまう。きっとそんなことはないと信じたい。
 でも、信号位置が固定されたあたりから、アヲの姿を見なくなった。

 油断していた。
 いつか戻ってくると安心していた。慢心と呼んでもよい。
 根拠もなく、無理に捕まえようともせず、そのままの状態を放置したのは僕だ。

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 夕刻、食事に出ようと散歩ついでに(それでも)近所を歩いていて、警察官に職質を受ける。
(近所に警察の寮があり、その周辺をアヲはよく歩いていたので)
 猫を探しているのだと(敷地内を歩いていた理由を)説明し、首輪のことを尋ねられて、言葉を失う。

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 僕はきっと「永遠の6歳」を抱えているのだろう。
 本来的には大切に思う誰かを失う痛みに耐えられない。
 急に40年分も老成できるものではないらしい。

 本来ならあのあと思春期を迎え、様々な人間関係や社会/集団に属すうちに経験することを通じて、喪失に対する姿勢であるとか、考え方であるとかを身に付けるのではないのだろうか。

 僕の場合は、それをスキップしてしまった。
 ちょうど母親や父親に対して、反抗期を迎えた自分を持たなかったように。
(僕の反抗期は父親が死んだあと、30歳前後に始まった。ちなみにイヤイヤ期は25歳に訪れた)

 記憶している。思い出せる。
 僕はこの痛みに耐えられなかった。
 記憶か、自身の考え方か、あるいはそのいずれもが消えてしまえば良いと、心の底から願ったのだ。
 どうかこんな思いをしないで済むようにと、そうでないなら何もかも失われてしまえと、様々な感覚を遮断し、その塞いだ穴に自ら違和感を持たないよう、ドライな価値観を塗り込めたのだ。

 だから8歳から10歳になるまで、僕はほとんど泣かなくなったし、そして笑うこともなくなった。
 誰かに好意を持つこともなかったし、親に対してさえ親愛の情を感じることはなかった。
 食欲を感覚しなくなり、やがてそれらを感覚しなくなったプロセスまでも忘れた。
 思い出したら取り戻されてしまうそれを、もう思い出すことさえしたくなかったから。
 厳重に、幾重ものステップを踏んで。

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 幸いにして今の僕は色々な意味で孤独であり、思うさま悲しみを悲しむことができる状況にある。
 もちろん僕に内包されているいくつかの価値観は ── かつての僕の価値観の提供する諦念ではなく ── 諦めないこと、希望を捨てない選択肢を提示し続けている。
 僕は他人をあまり信じないけれど、自分の価値観については「僕のそれ」とは異なるとしても(だからこそ)信じることにしている。

 散歩に出るたび今後もこんなことになるとは思っていないし、そもそも飼い猫が居なくなった程度のことで自分がこんなに傷つくとは思っていなかった。職質を受けている最中に涙が止まらなくなるなんて思いもしなかった。

 かつてペットロスで悲しみに暮れる知り合いを、僕は「そんな大袈裟な」と苦笑さえしたのだ。
 今思うと本当に、酷いことをしたのだと思う。

 きっとそのとき、僕は悲しみを知らないイキモノで、痛みを知らないイキモノだった。
 因果応報とでもいうのだろうか。
 僕は自分の抱える悲しみを、自分だけで抱えるより方法がない。






 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Engineer]
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