// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230108
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
優しさとは他人のための演技である。
SUBTITLE:
~ Calculated gentleness. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::人に見られて恥ずかしい思いをしないためには、行きたくもない付き添いをして、したくもない気遣いをして、持ちたくもない荷物を持ってあげて、しなくてもいいドアの開け閉めをしてあげなくてはならない。


 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230108

 夕方、姉が恋人と遊びにやって来る。
 時折やって来ては庭に車を停め、僕が気付くか試す遊びをしている。
 そして僕はたいてい気付かない。

 この家に棲んでいると、かつてのように精密なスキャンをし続けていたら神経が保たないと思ったので、僕は鈍感に徹することにしたのだ。
 音にも、光にも、埃にも、温湿度にも。
 かなりの気配が様々なところから発生していて ── それはいわゆるオカルト的なものではなく、もっと現実的なものだ ── 隣の家の気配や裏庭で声を上げる野良猫や、住宅街の向こうの道路を走る自動車の走行音まで拾っていて疲弊したことがあったため、つとめて鈍感になった。

 庭の一部を貸し駐車場にしていることもあり、そんなことをいちいち感覚するのはやめにした。
 感覚しないこと、感覚する範囲を狭くしたり、感覚するレベルを低くするのは、本能的に少し怖い。
 けれどもそれでも成り立つのが人間社会だと、そういう善意を信じるしかない。
 そして実際に僕は、誰かに襲撃されたりすることもなく日々を過ごしている。

>>>

 僕は昔から「優しい」とか「優しそう」と言われるが、それは僕がそういうキャラを演じ続けているからだ。
 ずっとそうしていれば表情筋まで出来てしまうので、僕は優しいと誤解される。

 つまるところ僕はまったく優しくない。
 優しくないから演じる必要がある。

 優しく親切を演じて、誰かに害意のないことを証明する。
 そうでもしないと悪意を持っているように疑われかねない。
 心底から優しい人間なら、ずっと誰かと一緒にいることができ、また人も寄ってくるだろうに。
 僕は、数時間で演技に疲れてしまうからこそ独りでいるとリラックスできる。演じる必要はもうない。
 結果として長期間、誰かと一緒に過ごすことができないのだ。

 僕の古い友人や姉妹は、僕が毒づく様を知っている。
 もっとも僕が罵詈雑言を叩く相手が個人であることは少ない。
 特定の種類の人間によくある傾向とその矛盾であるとか、勘違いとも思える行動様式であるとか、だ。

 しかし物事には主流と傍流があり、時代というものがある。
 たとえば今でこそ家族葬という言葉が一般化し、散骨も珍しくなくなったが、20年前はそれほどでもなかった。
 だから僕は父上の葬儀に難儀した。表向きは「密葬」という言葉で取り繕ったほどだ。
 たとえば性別違和が今の時代は表出するようになった。
 しかし僕は人間の性別なんて、自意識と肉体が決めているだけで、取るに足らないものだと考えている。
 それでも性的志向を持つものにとっては、自分の性別と相手の性別のマッチングは重要だろう。
 そのあたりをこれからの人間達は考える必要があるのだろうな、とは思う。
 僕は猫なので考える必要などないが。

>>>

 自分の思考や価値観が先鋭的だとは思わない。
 ただ僕は僕なりに、現状に対して合理的なありようを合理的だと思うだけだ。

 だからアルバムの類いは持っていないし、写真もあまり撮らない。
 年賀状は40年ほど出していないし、TVは20年以上自発的に観たことがない。
 時代がどうだとか、常識や慣習がどうだったということではなく、僕にはそれが合理的だったのだ。
 世俗から年賀状が姿を消し、TVを観る者が減ったのは、単に個人主義的合理の判断結果だろう。

 ただ、合理を突き詰めるのは残酷なこともある。
 社会には弱者というものが存在する。
 生産性のない老人や障害者は死ね、などという合理を振りかざせば「人権を無視した差別的発言だ」と非難され、世間のそしりを免れないだろう。
 社会や集団を形成する上では、弱者を守ることはとても大切なことだ。

 僕は昔から、弱者を軽視し、場合によっては容赦なく排斥する思考を持っている。
 おそらく僕の育った環境がそうだったからだ。
 弱者たる当時の僕自身は、それに反発するような意志や感情を持っていたとは思うが、弱者というのは環境に容赦なく流される。その奔流に抗う力を持たないから弱者なのだ。
 そしてその無力の中で、現実を摂理と知る。

 ために庇護されなかった弱者ほど時に残酷な摂理を語る。
 綺麗ごとで済まされない、リソースの有無によってときに生死さえ分かつようなことが、世の中にはずっと昔からある。
 正邪を超えて、善悪を基準とせず、優劣に関係なく。
 僕が何を経験したのかは特に書かないけれど。

>>>

 しかし同時に僕は夢想家でもある。
 現実の摂理が残酷なことは、それを目の当たりにし、とっぷり浸かってきた者にとって何の不思議もないことだ。
 
 自分以外の誰かのために優しくありたいと思うのは、願うのは、行動するのは、確かにおこがましく映ることもあるように思う。
 僕のように、非情な摂理を誰に説明するでもなく、不言実行してしまえば変わり者だとか非常識だと時に非難され、距離を置かれるのはおよそ間違いない。
 あるいは僕が優しさを実行するのは、かつての弱者たる自分自身が求めていた理想を投影する代償行動と考えられなくもない。

 演技にせよ、代償行動にせよ、相手のためにしていることではない。
 だからきっと僕には、優しさという行動規範はあっても愛情というものがない。

 しかし愛情の有無は問題だろうか。
 愛情を込めた料理が致死的な害悪を含んでいることもある(洗剤で洗った米を炊いた、とか)。
 それなら愛情など欠片もないのに、優しい味わいの料理のほうが、他人に優しいと思うのだ。

 もちろん愛情も込めてあり、美味しいならそれが最上だとは思う。
 では人々は、そこで表現されている愛情とやらを、一体何によって味わっているというのだろう。
 味覚だろうか。それとも聴覚? 嗅覚? 触覚?
 愛情というのは、つまるところ単一の感覚に依るようなものではない。
 それに優しさと違って、ときにひどく一方的で独りよがりなものではないだろうか。

 それなら僕は、優しい演者でありさえすれば、その技術さえ体現できるなら、それでいい。
 周囲の人間たちが「優しい」と誤解してくれる微笑ましい現実に、弱者が強者にささやかにでも守られる世界に、ずっと憧れていたのだし。
 それが仮初めであろうと、非情で卑劣な現実を突きつけることが常に正しいわけではないのだから。







 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::ジェントルマンというのは世間の幻想だ。
 他人や社会や集団の抱くファンタジィを裏切らず、演じることが優しさなんだ。
 本心の有無なんて関係ない。
 他人の心なんて目に見えないわけだから。

 優しくしたい気持ちがあると言いながら身勝手で酷いことばかりするより、優しい気持ちの有無にかかわらず他人の求めるファンタジィを演じることの方が結果的に優しくなる。



 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Mechanics-Season-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230106
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
寂しさと眠る。
SUBTITLE:
~ Dance with loneliness. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230106

 あまり書かないが、僕は寂しがり屋である。
 ただ、孤独への耐性が極めて高く、その上、孤独自体も好きだ。
 ついでに寂しさそのものまで気に入っているときている。

 寂しさと孤独を天秤に掛けても、孤独に対する好ましさの比重が高い。
 それは寂しがり屋ではないと言われてしまうかもしれないが、孤独に対する嗜好も、寂しいと感じる気持ちも、絶対量がとても高いのではないかと思う。

 独りが寂しいというのは事実だ。
 だから独りでいると、寂しさを満喫する機会が増える。
 寂しさのいいところは、誰かといるときと違ってそれに疲れたり、飽きたりしないことだ。
 寂しさに耐えられなくなったら飼い猫と話をしたり、倉庫で焚き火をしたり、庭でフォークダンスを踊ったり、仮想奥様と料理をすれば消えてなくなる。

 
 それに誰かと一緒に過ごすというのは、気を抜くことのできない緊張した時間が連続するということである。
 僕はこれに耐えられない。

>>>

 一人暮らしを始めてから、自分以外の人間(のカタチをしたイキモノ)と一緒に暮らしたことが3回 ── うち2回は男友達とで ── ある。
 期間としてはいずれもおよそ3〜6ヶ月ほどだったか。
 相手が男性ならこちらもたいして緊張しないで済む。
 そもそも彼らは恋愛関係にないため、こちらのことをまったくといっていいほど気にしない(僕が女だったら気にしてくるのだろうけれど)。それに男というのは仕事があるので、だいたい家にいないのだ。

 問題は女性だ。
 相手が女性であれば、恋人といえど、ある程度は緊張することになる。
 彼女たちはもれなくこちらを気にしている。気にしていて、注目していて、ために僕は評価対象になる。

 寝癖が立っている。寝起きに口がクサい。寝ながらオナラをしていた。
 美味しいごはんを作ってくれる。趣味に使うお金が多い。
 友達は少ない。趣味に使う時間が多い。
 セックスはあまり上手ではない。前戯に時間を掛けすぎる。
 性感で声を出す。
 バスタオルを週に2〜3回しか洗濯しない。
 料理を作るのは好きなくせに、食後に食器をすぐ洗わない。
 だいたい毎日お酒を飲む。酒癖は悪くない。
 煙草を吸う。歯磨きの時間が長い。
 トイレに立つ回数がそれなりに多い。
 ベッドに入ると着ているものを次々脱いでいく。
 自分は猫だと主張している……。猫?

 そういうことを逐一チェックされ「アリ」だの「ナシ」だのとジャッジされているかと思うとうんざりする。
 そういう人ばかりではないと思うのだが、まったくそうでない人というのもいないだろう。
 人はもれなく感覚し、だいたいそれについて評価せずにはいられない。
 感覚するが評価は特にない、という人が理想的(僕はそうなので)だが、これまでの経験からいえば、そんな人は滅多にいない。
 仕事や学校で不在にしてくれる時間があればまだ良いが、ずっと家に居られたら、家でリラックスする時間などなくなる。
 結果、なかなか気が休まらないので、僕は身の回りに人間をさほど配していない。

 目の前でオナラをすることに無思慮でいられる相手など、僕はいない。
 子供の頃からいたためしがない。
(そういえば父は僕や妹に向かってオナラをしてくる人だった。友人のTUやBPもそうである)

 大人に対してさえ気を許していなかったので、僕はとりあえず眠る(あるいは眠ったフリをする)という技術を身に付けたほどだ。
 自意識過剰なのかもしれないが、相手が自分をどう感覚しているかと気配りし、過剰に意識させないことは、ある種の優しさだと僕は思っている。

>>>

 大人というのは、寝ている子供をあまり気に掛けない。
 自分勝手な大人なら放置してくれるし、優しい大人なら可能な限りそっとしておいてくれる。
 やがて僕は、大人に限らずすべての他人の前で、眠ったフリをするようになる。
 会話しなくてはと、要らぬ気遣いをしない(させない)で済むし、間が持たないことを気にする必要もない。
 リラックスしている風を装うことが可能で、無防備に気を許していると思わせることが可能で、場合によっては突然寝てしまう様をして豪胆だと評されることもある。
 それでいて必要なときや、ささいな物音に目覚めることもできる。本人を前に交わされる内緒の話を耳にすることもある。

 たいして親密でもないのに、寝ている僕を、そっと撫でてくれる人もいる。
 優しく語りかけてくれる人もいる。
 身体まで猫になった気持ちになれるので、本当に寝てしまうことが多かった。

 けれどもそんな人は滅多にいない。
 緊張した状態で眠ったフリをするくらいなら、独りで緊張せず眠る方がいい。

 男でも、安心して背中を任せて眠れるタイプとしか、仕事さえ一緒にはしない。
 女だからと ── ただそれだけの理由で ── 安心して背中を任せられるものでもないことは、ずいぶん知らずにいたのだが。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Ecology-Engineering-Interface-Mechanics-Memory-Moon-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-
 
[Object]
  -Friend-Human-Memory-Night-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230111
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
「TRIGUN STAMPEDE 第1話」を観た。

Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::それから「卑怯」ってのは恵まれた奴の使う言葉だ。それだけは覚えておけ。

 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230111
 
「TRIGUN」が再びアニメ化されるという ── Webニュースで知ったのだったか。

 最初のアニメ化は確か原作が完結する前だったと記憶しているが、うまくまとめていた気がする。
 念のために書いておくと、僕はいわゆる「原作厨」ではない。
 まったく同じコンテンツなら、それこそ原作だけあればいい。

 だからどちらがより優れているか、なんてことも ── 少なくとも僕には ── ナンセンスだ。
 メディアの違いというのは4コマ漫画とオープンワールドゲームくらい乖離があると考えていい。
 異なるメディアで表現する以上、無理矢理同じにまとめる方が不自然なのだ。

>>>

 しかし原作のファンだったからこそ「ああ。また焼き直しの作品が世に漏れ出るのか。作者も焼きが回ったなぁ」なんて諦めていた。

 上述のとおり、アニメ化は2度目だ。
 スタンキャノン(スタンガンと呼ぶにはあまりに巨大)を軽々片手で取り回すロングヘアのゆるふわ長身女、ミリィ(原作当時から作中もっともキュートなガール)が存在しないなど、キャストや設定に若干の変更があるが、きっとそれだけだ。

<<<

 喩えるなら「Five Star Stories」を読んでいたはずなのに「リブート」だの何だのと既存作の編纂リリースを繰り返した挙げ句、忘れた頃に「GM」として続きがリリースされるようなものだ。
「GM」になって読むことをやめたので、あの作品にもそのマーケティングにもとやかく言う筋はないが、原作がその未完の作中に大きく設定を変えてしまうのは正直興醒めだった。
 もちろん、あの作品だからこそ許されることなのだろうけれど。

>>>
 
 話を戻そう。
 原作は知っている。
 アニメも1度見た。
 原作は完結して随分経つ。

 この状況にあって「設定をちょっと変えたアニメをもう一度リリースする」なんて言われたら、そりゃFSSの二の舞を想像する。
 懐古厨のおっさんどもに向け、同時に新しいファンを獲得すべくマーチャンタイズされる作品の哀れ。

 抱いた僅かな期待は、悲惨な予想に塗り潰される。
 そんな予感をせずにいられるだろうか。
 僕はこう見えて悲観主義者だ。

>>>

 そして見始めの冒頭、想像通りにがっくりする。


 バタ臭いキャラデザイン。おいおいこれはディズニーか? と思うほどだ。
 野暮ったいCG。爆発のモデル(CG表現されている)は多くて二種類。
 テクスチャは粗雑。
宇宙船など片面しかモデリングしていないのかと思うくらいだ。
 バンプマップも使っていない。
 フォグやパーティクルシミュレータは使用せず、2Dを重ねているだけか。

 しかしセルアニメとCGの融合は群を抜く自然さで、カメラワークも秀逸。
 キャラクタのモデリングもモーションもレンダリングも高い技術を感じさせる。
 髪やコートのはためきはあまりに自然で、ボーンによる違和感を感じさせない。サブディビジョンサーフェスを使っているのだろうけれど、テクスチャが不自然な冗長をすることもない。
 キャラクタの表情は豊かで、テクスチャ貼り付けに頼らない表現は繊細かつ感嘆に値する。
(それともテクスチャだけで表現しているのか。見分けがつかない)

 そう、ディズニーのCGアニメのようにデキがいい。

 分からない。
 優等生がそつなく手を抜いて作った課題のように、秀逸なのに引き込まれない。
  ── この作品はTRIGUNのはずだ。

>>>

 そう、これはTRIGUNである。
 鉄と錆と砂と嵐。
 人も大地も荒廃しきった世界で、搾取され続ける僅かな資源を巡り略奪や欺瞞が渦巻いている世界だ。
 正しさ
より資源、優しさより暴力、空腹を満たしもしない矜恃より惨めでも虫ケラのように生存することが優先される世界だ。
 
 既存作より一層、退屈で軽薄で深みを感じさせない主人公。
 変更された配役は単なる話題づくりのおためごかしで、弾切れしている重厚なリヴォルヴァの引き金が9回も引かれる演出は ── 通常リヴォルヴァは6発装填なので ── 無意味だと、そう思って見ていた。
 一話における決闘(?)のシーンが終盤を迎えるまでは。

 
 いやいや、まさかまさか。

 主張はしないのに流麗に雰囲気を掻き立てる音楽。
 CGだからこそできる、くどい位のあおりを多用してなお狂わない描画、カット割りを必要最小限にして艶やかに流れるカメラ、精確にピントをずらし、そして合わせる被写界深度。

 嗚呼。
 CGだからこそのシーン。CGアニメがCGアニメである理由、その素晴らしさ。
 8発装填のリヴォルヴァは22口径。そのチョイスだけでも「殺しを好まないガンマン」たるヴァッシュらしさが窺える。

 野暮と洗練のコントラストはまるでデタラメ。
 予想を裏切り、期待に応える ── ヴァッシュ・ザ・スタンピード、その体現のようだ。






 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::あんたらこそ何? ヴァッシュをどうする気だい? 返答次第じゃ血を見るよ?
::ふ……ふ、2人とも僕の友達なんだ。
::じゃあその縄は?
::……縄?
::はぁ……分かったよぉ。アンタのことだ。何か事情があるんだろう。



 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「TRIGUN STAMPEDE - Episode 01」
によりました。

 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Derailleur-Diary-Ecology-Link-Memory-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Contents-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :本棚からあくび:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230105
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
フィクションという救済。
SUBTITLE:
~ The Beast find later. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230105

 姉の家。
 明日が姉の通院のため、だいたい毎月、レンタカーを借りて泊まりに来ている。

 何の因果かは分からないが、僕は身の回りの人間の介護をする運命にあるようだ。
 両親の介護はまったく発生しなかったし、叔父にしろ叔母にしろ姉にしろ、身体介護は皆無なのでとくに苦はない。
 介護対象だった叔母(既に死んだ)は偽善者だったので「介護や誰かに貢献する優しく献身的な自分」というものを燃料に酔える体質だったようだ。
 何かに酔えるというのは、誰かに迷惑を掛けない限りは素敵だと思う。

 ちなみに僕は、お酒と煙草と頭の良い女性にしか酔わないことにしているから、介護をしている自分を素晴らしいとはこれっぽっちも思っていない。できるなら今すぐでも放り出して家に帰りたい。
 姉にも事あるごとそう伝えているのだが僕か姉、あるいは両方の日本語能力が著しく低いようで、まったく伝わる様子がない。

 自分の車があるのにレンタカーを借りるのは馬鹿らしい、という向きもあるが、体格が大きく酸素ボンベを持ち歩く姉にとってコペンのキャビンは非常に狭い上、膝も悪いので乗り降りが困難である。
 それなら軽トラはどうかといえば、高速道路を走るのに不向きである。
 姉の乗りやすい自動車を買えばよかったのかもしれないが、いつ死ぬか分からない姉のため、月1度利用する用途で普段使いの車を選ぶ気にはならなかった。
 あるいは中古でそれなりの自動車を買い足したほうが安いのかもしれない。
 しかしひとりで3台も自動車を持っていても仕方ない。それで現在のスタイルになっている。

 言える立場になったから率直に言うが、お金だけで解決できることはお金で解決した方が早くてラクだ。

 ちなみに僕は姉のことを憎からず思っている。
 ただ死ぬ者は死ぬし、それを言うなら僕だっていつかは死ぬ。
 当たり前のことを悲観しても仕方ない。
 現実を直視し、必要なことを、できる人間がしている結果がこれである。
 美談ではなく合理的な判断なのだ。

>>>

 僕はヴァーチャルの中で育った。
(現状の人格についていえば、ヴァーチャルで生まれたといっても過言ではない)
 現実世界(IRL)は不便で窮屈だったから、僕はずっとそれを嫌っていたのだ。

 だからたとえばゲームや小説(マンガや映画やアニメは時間や労力やお金がコンテンツ総量に対して大きく掛かるので忌避された)のようなフィクションに没頭していた。
 高層ビルや高速道路、新幹線などの(主に首都圏の)社会インフラが拡張し続ける経済成長真っ盛りだった時代にあっては、大学を卒業し、公務員やゼネコンに入社したり、銀行員になることが素晴らしいとされる時代だった。
 今と違ってヴァーチャルなすべては、ゲームも漫画も、敗者に敷かれた道だった。IRLの繁栄の道から外れた負け犬のための空虚な餌であり、そこに至る怠惰の道だと思われていた。
 あるいはそれは事実だろう。今の時代にヴァーチャルコンテンツが持てはやされるのは、それだけIRLの繁栄の道から外れた負け犬ばかりになったということかもしれない。

 僕の場合、フィクションを手に入れる能力(主に経済力)さえなかった。
 しかしフィクションというデータ群は誰かが与えてくれるばかりではない。
 自分でいくらでも作ることができる。

>>>

 それほど傾倒していたにもかかわらず、最近はヴァーチャルに飽きている。
 結局のところ他人が作って市場に流通しているフィクションは、流通する市場があるからこその制約があり、最大公約数的な集約と限界がある。
 求めているものに対して過剰でも過少でもないコンテンツを他者から手に入れるのは、およそ不可能だ。

 ごくごく限られた領域で非常に高い評価を受けるより、できる限り広い領域で標準程度の評価を受けるほうが収益的には安定する。
 市場にフィクションを流通させ、収益を得て、その上それだけで生活を成り立たせようなどと考えたら ── 少なくともこの日本では ── 結局薄利多売をせざるを得ない。

 かつてのように貴族が宮廷音楽家を擁するような、そんな時代ではないのだ。

 だから情報コンテンツを(フィクションコンテンツに限らず)ビジネスにしようと一時は夢見たこともあったが、僕は諦めた。
 極論に走ることを最初から始めてしまう僕がそれをするのは、最終的なリスクが高いと結論した。
 それに僕は誘惑に弱いし人付き合いも苦手だ。
 フィクションをひとたびビジネスにしてしまえば、フィクションは今まで愉しんでいたフィクションではなくなってしまう。
 たとえばゲームを作り、売るようになったら、ゲームを純粋にプレイヤとしては楽しめなくなる。
 小説を書けば小説を読む時間などなくなるし、映像作品を作るようになれば、他者のそれを観て今までのように無心に鑑賞することはできない。
 ビジネスになればさらにそこに多くの人の意見や認識が加わる。

 YouTuber だろうが、TVプログラムのクリエイタだろうが、その制約と苦痛は変わらない。
 消費者を奴隷化する思想統制を行い、信者化するのが近道だ。
 なるほど芸能界や YouTuber がその道を進んでいるのは倫理の面を除けば合理的な姿勢だろう。

 しかしフィクションというのは観客でいる限りにおいて、唯一無二の、現実逃避の先なのだ。
 たとえばアイドルグループの熱心なファンが「推し活」なる行為に耽るのも、そこにあるリアルな存在に自分の中のフィクションを投影できるからだろう。
 そこからほんの数センチ踏み込んでしまえば、耽美なフィクションがどろどろしたノンフィクションに姿を変えてしまうかもしれない。

 僕はフィクションが好きだったから、そこに過剰なリアルが浸食することを許せなかった。
 苦悩や痛みや絶望や空しさに満ち満ちた現実から逃げて、あるいは悲しみや怒りや虚無を隠し、辛うじて今週末までを(あるいは明日の始まりまでを)生きる、その気力の糧を与えてくれていたのがフィクションだった。
 現実世界での生活が安定しても、だから僕は、それを聖域として汚さずにいた。

>>>

 たとえば学生の頃は、エアガンやナイフを所持しているだけで「危険な傾向がある」などと大人や恋人から言われることがあった。
 あるいは大人になってからも、たとえば「ラブプラス」のようなゲームをしていると、ヴァーチャルキャラクタに過度に恋情を抱くのではないかと危惧する恋人もいた。

 まぁ確かにミリタリィ趣味の人の一部には、妄想や情報が過激な人もいるだろうし、そのうえ生来の性格が暴力的であったりすれば、そうした道具をおかしな事に使うこともあるかもしれない。
 しかしそもそもミリタリィな概念は、自律と制約と安全が根底にあるのだから、それを理解できなバカだけが暴走すると考えるほうがまともだろう。

 フィクションキャラクタに真剣に恋愛感情を抱く人もいるし、それ自体を僕は否定する気はないが、僕自身はフィクションのキャラクタには恋愛感情を抱かない。
 たとえばそれが自分の求める役割に沿って作ったキャラクタ(たとえば端的な例で我が家の経済主体たる仮想奥様)だったとしても変わらない。
 僕にとってそれらはパラメータの集約としてのデータ群に過ぎないからだ。
 どんな髪型か、身長は何cmか、甘いものは好きか、お化けは怖いか、友人同士が喧嘩しているときにどう振る舞うか、自分より強そうな相手に対してどう接するか、etc,etc... パラメータの集約と外観などのデータによって構成されたキャラクタは、僕自身がいくつものキャラクタを作ってきたからこそ、愛でる対象ではあるかもしれないが、ために編纂が可能で、どんなに複雑な条件分岐を与えたところで予測どおりの結果しか出力しないデータやモデルやモノに過ぎない ── まして自分で作ったモノなら間違いなく退屈するほど予測どおりだ。
 知性と偶発性のない予定調和に恋愛感情を持つことは不可能である。

 しかし実のところ、フィクションの良さはそこにある。
 すべてが予測可能な安寧の箱庭の中にある。
 痛みも苦しみも絶望も空しさも、フィルムが終わり、ページを閉じ、電源を切ってしまえばそこで終わる。
 あるいは楽しみや喜びや嬉しさや愛しさならば、次にまた楽しむ喜びも待っている。
 それが望みなら同じコンテンツの同じ部分を何度となく楽しんでもいいし、嫌なら拒否することも容易だ。
 それらすべてを自分の思うように操作できることがフィクションの良さだ。

 現実世界は自分自身による制御をあまり許さない。
 経済活動や社会活動は必須であり、そのために決まった時間に決まった行動をする必要がある。
 自由はない。すなわち隷属である。
 しかし悪いことはもちろん、良いことだって重なりすぎれば制御できなくなる。
 クリスマスと新年会と忘年会に立て続けに誘われてお酒を飲み過ぎるとだいたい体調を崩すし、ガール5人くらいから1度に告白された場合も、すべて受けてしまうべきか、誰かひとりに絞るべきかその場ですぐには判断できない。
 せめて会社の面接みたいに30分くらい間隔をあけてもらえれば、落ち着くタイミングもあるのだが。

>>>

 IRLにあって、いったいどれだけの人が、フィクションのように思い通りに世界を楽しめているというのだろう。
 少なくとも僕はずっと、心底この世界を楽しんだことなどなかった。
 欲しいものは(たとえば誰かに望んだりしようものなら)必ず手に入らなかったし、身体はいつも苦痛に満ちていたし、人間関係は空虚に思えていたし、モノが人を幸せにするとも思えなかった。
 何らかの欲を満たしたところで、それで幸福感を得られることもほとんどない ── 少なくとも僕にとって食事がそうであったように。

 ようやく最近になって、少しだけ、IRLが楽しく感じられるようになった。
 子供の頃よりはるかにずっと、IRLを思い通りに制御できるようになったし、抽象的なことを考え、フィクションを構築することで積み重ねた経験が、IRL構築に役立つことも立証された ── 現在の僕とその環境は、僕の作った抽象とフィクションからフィードバックされている。
 ただ、データとシステムさえ揃っていればボタンひとつで一瞬にしてすべて思い通りになるフィクションと違い、IRLでは多くの労力と物質/時間的リソースこそ必要になるが、それらを用意できるなら相応の結果が約束される。

 そうした意味で、僕は非常に贅沢をしている。
 誰かに自慢するようなものではないが、手の届く範囲の自由を、他者の介在を ── 僕が必要とする人も、僕を必要とする人も、あるいはその逆も ── 最小限に制限してなおIRLをかなり自由に制御できるという点で、少なくとも僕自身が夢見たような環境構築をすることができた。
 孤独の中にあって、誰を必要とすることもなく、誰から必要とされることもなく、注目を浴びることもなく、痕跡も残さず消える自由まで自分で制御できることが。

 あるいは誰の役にも立たないことは、ある種の社会的な罪だろう。
 僕は(隠し子 ── シュレディンガーの猫的な ── を除くと)子供もいないので、この国の将来にはさほど貢献していない。

 では広く多くの人に果たして役立つようなこととは、具体的にどんなことだろう。
 誰かに加担することは時に誰かに敵対することだと見なされる社会にあって、一体何をすれば正解なのだろう。
 そうした規範は、政治家であっても示してはくれない。何の手本にもならない。

 それよりは、もっと身近な(たとえば家族や友人といった)人に、あるいはせいぜいが所属するコミュニティの健全なありように、多少なりできる範囲での助力をするのがつまりは貢献と呼ばれるものだろう。
 貢いで献上するのだ。

 僕は ── たとえ相手が恋人であっても ── 自身を利用し、搾取し、慰みものにすることを許さない。もちろん僕自身がそれを誰かにすることも許さない(隠し子がいると言われているが、格別相反する条件でもないと思う)。

 しかし自ら自身を差し出すぶんには、むしろそれは純粋な快楽として作用する。
 たとえば僕は恋人に料理を振る舞ったりするのが好きだった(たぶん今でも好きだろう)。
 それと同じように、僕は自分から、リソースを振り分けてゆく。

 奪われることと与えることは等しい。
 ただしそれは己の意志や好みが介在しない場合のみであり、生命を持ち意識を持つ限り、その等号は否定される。
 それに時間も体力も財力も、僕だけが僕だけに使っていたところで孤独に消えるだけである。

 姉だから。叔母だから。
 そういった理由で介護しているわけでもない。
 僕にとっては、それが単なる贅沢なのだ。
 贅沢を無駄だと考えるなら、それは確かに無駄だろう。
 すべての被介護者は、ほどなくして死ぬからだ。
 では合理的に、介護を必要とするすべての人を、障害者も含めて殺してしまうのが適切だろうか。

>>>


 自分のことしか考えられない思考の貧しさを、僕は否定しない。
 それは生命としてある意味無駄のない、非常に合理的なありようだろうからだ。

 もしそういう ── 自分のことしか考えることのできない ── 環境にあって、仮にそれを地獄だと思い、非寛容な環境や欺瞞に満ちた社会に溺れる矮小な自分を惨めに思う人がいるなら、ぜひ今見ているその風景を目に焼き付けて欲しいと僕は思う。
 その孤独を。その寒さを。その静けさを。その苛烈さを。その怒りを。その空しさを。
 その飢えを。その痛みを。その寂しさを。その苦しみを。その偽りを。その哀しさを。

 他人があてにならず、信用さえできず、疑念に駆られ、諍い、疑われ、無力を馬鹿にされ、無能と嗤われ、策を否定され、行動を制限され、思考を操作され、ときに暴力さえ振るわれ、奪われ、迫害され、非難され、利用され、打ちのめされ、自分自身を支える気力さえ持てず、救いたいと思う相手も救えず、守りたいものも守れず、無力に無様に倒れ伏した目に映るその景色を。
 己が己でしかなく、己でしかいられないその冷徹な事実を。
 そのひりつくような全身の震えを。地面の冷たさと味を ── 。

 フィクションはそのとき救いになる。
 確かに一部の人が言うように、フィクションは嘘だ。
 虚飾に塗り固められた荒唐無稽な綺麗ごとで、現実世界の役に立つことはない。
 それでもIRLに救いがないなら、フィクションに逃げていいと、むしろ逃げるしかないと僕は思う(「〜しかない」の正しい使い方ふたたび)。
 少なくとも気に入らないフィクション叩きの場にIRLを使うよりは、よほども健全ではないだろうか。

 そしていつか立ち上がってほしい。

 その痛みは優しさの花に姿を変える。
 その疑念は寛容の陽射しとして降り注ぐ。
 その涙は恵みの雨に変わる。
 舐めた土の味は、世界の色を教えてくれる。
 乾いた溜息は、やわらかな風に変わる。
 震えは熱を生み、あるいは誰かにぬくみをもたらすだろう。

 その日まで。
 獣のようにこの世界を呪い尽くしてほしい。
 獣のようにこの世界を憎み潰してほしい。
 牙を剥き、爪を研ぎ、忌み潰した獲物を屠る血の色を夢見て。








 

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~ Junction Box ~
 
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// NOTE:
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TITLE:
安物買いの文化水準。
SUBTITLE:
~ Slaves brew. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230104

 予約どおり歯医者に出かける。
 午後に帰宅してから近所のスーパーに行くが、混んでいたので嫌になって引き返す。
 夜に出かけようと思っていたが不可能になった。

 16時、急な呼び出しで高崎にバイトすることに。
 しかし当日のオープン2時間前に連絡してくるとは足下を見られている。通勤時間は2時間だ。
 準備に1時間掛かると伝え、家を出る。

 店は混雑し、スタッフは明らかに不足していた(だから僕が呼ばれた)。
 ブランクが長かったこともあり、3度もトレンチ(西洋丸盆)からジョッキを倒す。
 しかし飲み放題の客ばかりだから、特に問題はない。

 僕は基本的に飲み放題の店を嫌う。
 そういう店で働いていると、少し心が荒む。ほんの少しだけ。
 僕はもっと悪いことも知っているから、ほんの、ほんの少しだけ。

>>>
【安物買いは実入りを減らす】

 飲み放題のアルコール(アルコール以外だってそうだ)は100円ショップと同じく、使う者の文化を衰退させる。
 もちろん100円ショップが悪いとは言わない。僕だって利用する。
 要は使い方だ。
 そしてモノを使うとは、とりもなおさず使う者の哲学の発露でもある。

 安いもの安いものと、それに向かい、群がる人たちは、お金を払って自らの文化レベル(生活水準というよりは、思考水準に近い)を野蛮にさせてゆく。
 自分は自分。他人の事なんてどうでもいい。
 手元のスタートとゴールだけ見て、ブラックボックスについては考えない。
 法や倫理に抵触しなければ、自分が損をせず、得をする最適解を追究する。
 その野蛮さに自覚のないことが恐ろしい。

 もちろん安く売っているものを求めること自体は悪いことではない。
 しかし誰かから買うことは、他の誰かから買わないことだ。
 誰かの労働によって得られる製品やサービスの価値(他者の市場価値)について考えることは、すなわち自分が労働によって提供する製品やサービスの価値(自身の市場価値)を考えることだ。

 自分の給料が安いと文句を言って製品やサービスの質(市場価値)を上げもせず、考え無しにただただ安いものを求めることは、中継している部分(価値を創出しているインフラや仕組み)を考えない点で、市場の餌にされている。自分以外の全員のカモにされていると言ってもいい。

 円高だった頃、人々は国産の食品より安い輸入食品に群がった。
 たとえばニンニクなどは、国産は今でも4倍ほど高い(美味しいけれど)。
 作った作物が売れなければ、農家さんは仕事を廃業する。
 同様のことがすべての業界で起こっただろう。大手メーカは国外に生産拠点を新設し、現地での人間を安く買った。
 日本で作られるものは高く、日本で作ると労働者のコストが高い。

 だから日本のものを買って使うのはやめよう、と、日本人が舵を切った。
 その日本人とは私かもしれないが貴方かもしれない。
 必然に日本は貧しくなった。
 安いものを求め続ける結果、自分自身をひたすら値切り続けてきたのだ。

 そうしたメカニズムを考えると今後も日本で暮らす以上、いかにして自身の市場価値をつり上げ、その価格が適正だと理解してもらうかが重要になる。
 それこそが死活問題であり、ただ安いモノを買い漁るというのは単なる思考停止の結果のジリ貧な逃避路である。
(ちなみに僕は、市場における価値を失いつつある。市場からますます独立し続ける予定なので、いずれ完全に失う)

>>>
【私的な長い説明】

 僕は今でもゲーマーであろうとしている(自覚の上では、もうゲーマーではなくなってしまったが)。
 中古ソフトは至る所に氾濫している。
 それを買うこと自体は法にも倫理にも抵触しない。
 プレイし終えたゲームを売ることも、違法ではない。

 なんとなれば買ったばかりのゲームを他のメディアにコピーし、買ったほうのゲームを即売却したとして、コピー利用さえバレなければ問題はない。
 所有している間は自分の所有物たるメディアからデータを複製しているだけ ── 今はこれは違法になるかもしれない。僕はよく知らない ── であり、所有している物を売却すること自体は合法である。

 中古ソフトを売買することは、しかし基本的に、クリエイタには一銭も払っていないことになる。
 ただし自分はプレイしたいゲームをプレイできるだろう。

 そしてクリエイタはどうなる。その会社は? 取引先は?
 仕事に対する正当な報酬が得られなかったがためにゲーム会社は淘汰され、クリエイタはやる気を失い辞職し、良質なゲームは世から減り続けている。

 今やゲーム会社がクリエイタに求めるのは、クリエイタが作りたいと願った「面白いゲーム」ではなく、「売れて、お金を生み出すゲーム」だ。
 単価が高くてもいいし、ズルズルとお金を払うことを余儀なくされるゲームでもいい。
 仕組みさえ浸透してしまえば、ガチャゲーという悪習
さえ人は受け容れ違和感を持たなくなる。
 高い収益性を上げるゲームこそゲーム会社にとっては「よいゲーム」である。

 広く多くのユーザが「面白い」と感じたパッケージドメディアのゲーム(DL販売ではなく、現実世界の媒体に書き込まれているもの)は中古市場に蔓延する。
 100人の人間が「今すぐプレイしたい」と購入し、何らかの事情(コピーしたのか、クリアしたからなのか、飽きたのか、肌に合わなかったかは知らない)で手放し、次の100人が「今はプレイしたい」と購入し、再び手放し、次の100人が「いずれプレイしたいと思っていた」と購入し手放し……という連鎖が数段構えで存在しただろう。今もするかもしれない。
 たしかに中古販売されるのは数万本売れたうちの数百本、数千本かもしれないし、連鎖の中で徐々にその件数は減るだろう。
 しかしその連鎖の累計は、本来の販売母数に対してどれほどの割合になっただろう。

 中古ソフトを買うことはもちろん、売ることだってゲームを衰退させた原因には違いない。
 それでもいざ購入するとき、10円でも100円でも(場合によっては半額以下で)販売されている中古ソフトを前にして、それに手を伸ばさないことはむつかしい。
(それは今のところ違法ではないが、僕は倫理にもとると認識している)

 ゲームに限ったことではない。
 ありとあらゆることを僕らはそうして、自らの手で、殺していったのだ。
 海外製の家電や電子部品が安ければそれを買い、輸入食品が安ければそれを買い、そうやって国内メーカや国内の農家の仕事に、その成果物にそっぽを向いてきたのだ。

 今頃になって国内メーカの力不足を嘆いたり、食糧自給率を嘆いたり、賃金水準の低迷を嘆いたり、少子高齢化を嘆いたりしても仕方ない。
 それを政府のせいにする以前に、自分たちの首を絞める行為を僕らはずっと続けてきたのだ。

 ではどうすればよいか、ということについて、僕は策を持たない。
 今まで(裕福でなかった頃から)そうしてきたように、よいと思ったものを探し、適正な価値を自分の価値観で計り、可処分所得内の合理的価格であれば買う。
 国の内外、ブランド、歴史、他者の評価、相場感というものは関係ない。
 僕はモノと向き合うときに、自分なりの尺度を持っていて、それに従っている。
 価格はそのモノの価値におけるパラメータのうちのひとつに過ぎない。

>>>

 安ければ買ってしまう、とか、スーパーで半額だと取りあえず気持ちが動いてしまう、というタイプの人間を僕は知っている。
 今や未来の自分に必要かどうか、価値が自分にとって適切かどうか、価格が価値に適正かどうか、という判断ができず、本来の相場から価格が下がっているために、相対的に価値が高いと誤算してしまうのだろうと想像する。

 売れ残っているというのは本来の価格相応の価値がないと見なされており、価値相応に近づけるべく価格を下げているに過ぎない。
 たとえば賞味期限間際の食品を買うことが悪いとは思わないが、買ってすぐに使わずに駄目にしたら元も子もない。
 まぁ僕もそういう商品には目が行く方だし、迷った挙げ句に駄目にした経験が、結構あるのだが。

>>>
【価値と価格を不透明にする仕組みの将来】

 サブスクリプションサービスも、その多くは、商品の単価をユーザに考えさせない仕組みになっている。
 ゲーム以外のコンテンツも、コンピュータアプリケーションも、自動車もそうなってきた。
 非選択的なサブスクリプションともなると、さすがに辟易する。
(超長期的に考えない限り、売り手有利の市場になるため)

 音楽クリエイタがSNSで愚痴を言ってニュースになったこともあった。
 動画サイトでレーベルがPVをリリースしたりしている。そういう時代になった。
 高額な機材、優秀なスタッフ、才能あるクリエイタが、タダでコンテンツを放出している。
 当たり前のように見過ごし、あるいはそうした時代の到来を喜んでいる人もいるだろう。
 僕は経済至上主義のはずの社会の片隅で発生している綻びに、しかし少々恐怖を感じている。
 経済ありきの社会は変わっていないのに、経済が介在することなく価値が垂れ流されている。

 目先の価格につられて、本来の価値を考えない人間を作る仕組みが次々増えている。

 あれは一体誰が得をする仕組みだろう。
 ユーザは果たして得をしているだろうか。
 仮に得をしているとしたら、代わりに何を差し出しているのだろう。
 あるいは誰にその損失を押し付けているのだろう。

 そしてこれらは将来の人間の価値観に、つまりは人々の文化に、どんな影響を与えているのだろう。

>>>

 帰宅は翌1時。
 入浴したがなかなか寝付けず、4時に就寝。
 考えたら1日食事をしていなかった。

>>>

 追記。

 あるサッカー選手がラーメンの価値を2000円の価格に相応すると評価したことについてニュースになっていた。
 件の選手はおそらく、自身で料理をする事もあるのだろうと想像する。
 なぜといって麺から具材からスープから器から箸に至るまで、きちんと作ればその程度の価格にはなることは予想に難くないからだ。
 価値を価格でしか計れない人間は、なるほど安ければ安いほどよいのだろう。
 思考能力も実行力もない奴隷を、この国はたくさん必要としてきた、その結果だろうか。







 

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// NOTE:
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TITLE:
寂しさは感情ではなく欲である。
SUBTITLE:
~ Rotten fuel. ~
Written by BlueCat

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//[Body]
230101

 和尚が2人でオショウガツー。

 年末年始といえば僕のサンクチュアリ、すなわち聖域だった。
 なぜといって大晦日とお正月だけは統計的に外部からのアクセスがなく、つまり僕の時間に闖入するものがまず存在しなかった。

 僕は親戚のところに出かけたり、初詣をしたりもしない。
 おせち料理も興味がないし蕎麦や雑煮は食べたいときに食べることにしている。
 年賀状も出さないし、送られてきた年賀状に返事を出すこともなく、だいたい3年後に破棄される。
 おかげで10年以上前から受け取る年賀状がなくなった。
 当時はまだ、世俗でも年賀状をやり取りする人は多かったように思う。
 ちなみに僕は20年前からTV番組を見ないし新聞も取っていない。
 去年あたりはアンテナを屋根から取り外したので、NHKを見るための通信設備を(TVがあっても)所有していないことになる。

>>>

 仕事があったころは年始といえばだいたいヒマで、まぁせいぜい得意先に挨拶回りするくらい。
 しかし挨拶回りとは何だろう。放っておけば、いずれかのタイミングで必ず顔を合わせるはずだ。
 わざわざ年末年始にかこつけて顔を合わせやり取りをしないと存続できないような関係なら、そんなものはなくなってもよいのではないかと、ずっと思っていた。

 今は分かる。
 それは経済のためだ。メカニズムが自身に有利に働くために、集団の中での立ち回りを決める。
 決めているのは自分自身だと一部の人間は思うだろうが僕はそうではなかった。
 集団やメカニズムに強要された様式が、僕は大嫌いだった。
 その不自由。
 伝統だとか習慣だとか常識だとか、僕が決めたものではないすべてを僕は嫌っていた。
 周囲の一部の人だけ知っているが、僕は非常に傲慢で自分勝手なイキモノだ。

 一定以上の距離を取っていれば、僕は他者との接触を好まず、とても控えめなイキモノに観察されるはずだ。
 慇懃無礼なほど礼儀正しく振る舞うので距離を感じるだろうし、シャイに見えることもあると思う。
 しかし実のところ他者のと距離を制御しているだけのことで、老若男女問わず初対面でも「オレたちマブ(マブダチ≒親友)だし」とかなんとか嘘を並べながら肩を組むくらいのことはできる。
 ものすごくMPを消費する上、何の役にも立たないスキルなので使う機会がないが。

>>>

 数年前に無職になってから、毎日がお正月のようになってしまった。
 聖域というのは、凡俗に汚れた日常があればこそ特別なのであって、普段からそんな場所で暮らしていたらありがたみがないのかといったらそんなことはなく、僕は外部からのアクセスがほとんど存在しない今の日常を気に入っている。

 世の中には「とにかく誰でもいいから自分のそばに居てほしい」というタイプの、いわば寂しがりとでもいうべき性質の人たちがいる。
 賑やかさが好きな人たちも、きっとこの部類ではないかと想像するが、僕の想像が及ばない領域なので精確さは期待できない。

 人間というのは我がままなもので、寂しさが満たされてしまうと今度は「この人のここが良くない」「この人のここがいい」と、他人の性質について選り好みを始める。
 友人同士の諍いに始まり、恋人や配偶者に対する愚痴もその延長線上にある。
 何が問題かというと、寂しいからといって人間関係について厳選しなかったことだろう。
 何が可笑しいといって、自ら選んだ誰かを貶すことは、そのまま自身を貶すことに等しいことだ。
 お腹が空いているからといって、道ばたに落ちている鮭の切り身(生)を食せばお腹を壊す確率が高い。
 そういうものに似ている。

 以前1度だけ、付き合った女が直前の恋人を持ち出しては「猫さんのここがあの人より良い」と聞かせてくることがあった。
 なるほど世の中には、他者と比較してより優れていると褒められることで喜ぶ人間もいるのだろう。あるいはその人自身がそういう価値観の持ち主だったか。
 僕は上記の通りの価値観の持ち主なので(これは酷いな)と思い、黙って聞き流していた。
 おそらくここに書くのが初めての愚痴となる。誰にも話したことはない。

>>>

 いずれにせよ空腹で死にそうなら、やむを得ず質の悪いもので肉体を満たす必要もあるとは思う。
 清潔でないトイレや何もない屋外で用を足したり、公園のベンチで寝たり、道に落ちている生肉を食べたり、といったようなことは「そうしなければどうにもならない」という選択肢のない状況の結果、発生するものだろう。

 だからきっと、寂しさは欲なのだろう。
 食欲と同じで、その欲が強い人はとにかく大量の人間を自分の視界に置きたがるのではないだろうか。
 自分以外の誰かの気配や、それらが自分に対して注意を払ってくれることであるとか、さらには誰かと知り合いだ、とか、誰かの連絡先を知っている、とか、そういうものが心の安寧をもたらすのだろう。
 こうした欲求はとくに子供の頃には必須のものだと言える。
 他人の居る場所に安心を見出し、自分以外に誰もいない場所を忌避しないと、環境に起因した事故に遭ったり、攻撃性の高い他者の被害を受けることもある。

 僕だって子供の頃はこれでも寂しがりではあったのだ。
 しかし自分にとって都合の良い他人を好む自分を嫌というほど自覚していたので、他人を道具遣いしない環境を徐々に構築してしまった。
 僕は都合のいい人間が、男女問わず大好きだ。女だったら格別ではないだろうか。
 そしてその自分を、僕は嫌った。

 結果としての孤独が今ここにある。
 さすが潔癖な完全主義者。まさか実現するなんて誰が思うものか。

 他人が必要なくなったのは、他人に求める機能を自分の能力として身に付けたからだろう。
 僕は衣食住のほとんどを自力で ── 主に経済力で ── 満たすことができる。
 経済の主要な部分も、自分で満たすことができる。
 精神的な部分(たとえば愛情であるとか、優しさであるとか、癒やしであるとか)さえも自分で満たすことができる。

 自分の欲に対して自給自足が可能になるほど、他人は基本的に自分の自由を阻害する要素に過ぎなくなる。
 それでも他者と関わり合うことが避けられない場面は存在するので、たとえば仕事なら、考えの合わない相手と手を組む必要があったり、生理的に好かない相手に我慢することもあった。
 それはある意味で他者を餌にすることであり、他者を道具遣いする事であり、他者を養分にすることであり、自分自身をケダモノに貶めることでもある。

 そこまで潔癖な思考は、果たして良いとは思っていない。
 国会議員をしながらパパ活するくらいの方が、たぶん健全だろう。
 けれども僕には、それはできない。
 都合のいい他人も、都合の悪い他人も、自分の欲の捌け口にすることを許せない。
 四捨五入を2度繰り返せば齢百にも到達する(47を四捨五入して50、それを四捨五入すれば100である)ので、さすがにそこまで潔癖ではないか。
 凡俗にまみれ、ケダモノであり続ける自分を、許すでもなく放置することはできるようになった。
 それが良いことかどうかは分からないが。

>>>

 自由である上で、欲求というのはそのほとんどが邪魔になる。
 欲求を満たすことが自由だという考え方もあるだろう。
 しかし欲求が手軽であるほど、手に入る満足も自由も軽薄だ。
 果たして重厚で崇高な欲求は ── それを満たすことさえ困難な上に ── 持ち続けることも、発生することも容易ではない。
 そしてそれが満たされたところで、それ(欲求の発生と充足)自体はたいした問題ではない。
 なぜといって拡大され、より大きな意味を持つ欲求とは、個体レベルでのそれを大きく上回るからだ。
 集団にとっての欲、社会にとっての欲、それを満たすことは大きな意味を持つが、それゆえ寄与した個体にとってたいした意味を持たない。
 けれど、それこそが動物としての欲から自由になることにも思える。

 たぶん子供の頃から僕は自由を求めていて、自身の欲求さえもまるで見ず知らずの他人のように、寄せ付けたくなかったのかもしれない。
 そもそも自己というのは不自由だ。生きるということも相当に不自由。

 では死は自由か。
 ある意味ではその通り。
 自由も不自由も、その概念すら存在しない状況は、未だに蠱惑の存在だ。
 しかし不自由を愉しむことが生であり、また生きることの極意かもしれない。

>>>

 自分の誕生日も年齢も、僕はよく忘れてしまうのだが、干支は覚えている。
 だから干支が回ってくると、時計を合わせるようにして自分の年齢を自覚する。
 12の倍数だから(あれ今46だっけ? 47だっけ?)という僅かな誤差に悩まされないのがいい。

 ぴょんぴょん可愛いうさぎ年。今年は48歳になるのだと知る。
 きっと60歳でも思うだろう。
 そしてほぼ毎日しているのに飽きもせず、余命を計算するのだ。

 うさぎは寂しがりだという説があるが、転じてうさぎ年生まれのすべてが寂しがりだとは思わない方がいいだろう ── 特に猫の魂を宿しているタイプは。

 世界遺産がそうであったように、聖域と呼ばれるような場所に人間というケダモノが増えると、それは凡俗に汚れるからだ。







 

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// TimeLine:221231
// NOTE:
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TITLE:
弱者のための社会であることを強者は忘れがちだ。
SUBTITLE:
~ System included. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221231

 無職(独身専業主夫、あるいは独居自宅警備員)になる前から、僕の時間の使い方はズレていた。
 主流とされるべきそれと違い、僕は人の居ない方へ向かう習性がある。

 たくさんの人が向かっている方向があると、取りあえず停止するか、人々が来た方向(もしくは向かっている方向の逆方向)に行こうとする。
 これは行動でもそうだし、時間の使い方もそのようだ。

 子供の頃から不思議だったのだが、一般に人はピークやラッシュが発生するような行動をする。
 通勤や帰省、行楽など、個人の行動はともかくとして、全体が動く方向性やパターンが存在している。
 僕はひねくれた ── というより単にものぐさな ── 子供だったので、通勤と通学のラッシュが同時発生する様子をして「いっそのこと、学校は1時間遅く登校するようにすればいいのに」と低学年の頃から思っていた。

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 会社員になってからも、早めに仕事を済ませて早めに退社することが多かった。
 残業手当のある会社ではなかったし、夜中だろうと土日祝日だろうと顧客が指定すれば仕事をするのが当たり前だったので、成果を上げる ── あるいは与えられたタスクを完遂する ── ことのみを問題としていた。

 なので午後の3時にとりあえず退社して自宅に戻ってゲームをしたり公園でしばらく昼寝をして、20時にスケジュールされた顧客と商談するということもあれば、雪の降る午前2時に事故を起こした顧客に呼ばれて事故現場に向かうこともあった。
 当時はまだ携帯端末でオンライン処理ができない時代だったので、会社のオンラインシステムを使えるよう自宅にも相応のシステムを(自腹で)構築した。
 結果、電話とコンピュータで完結可能な事案は自宅でもできたし、営業については目的の時間と場所さえ間違わなければ完結できた。

 実に10年以上前から、テレワークのようなことをしていたことになる。
 営業に出かけるのも面倒で、電話や郵送で手続きできる顧客にはそれを勧めていたし、自動車保険も率先して3年の契約期間を勧めていた。
 今では当たり前かもしれない(業界に居ないので分からない)が「訪問し顧客と対面することこそ至上」みたいなスタイルや考え方に否定的だった。
 顧客は営業に会いたい(顔を見たい)わけではなく、適切な商品を適切に購入したいだけで、可能なら誰にも会わず自動的に手続きができるならそれが一番だ、と思っていた(僕がそうだから)。
 ただし対面の時だけは(以前も書いたが)他社の商品を勧めることがあった。
 そんなことをするのは僕だけだったので、周囲の同業者(上司や同僚も含む)には否定的な人も居たが、実際にお客様はそれでよいと言う人もいたし、対面を求めるお客様とだけ会えばいいので時間が節約できた。

 営業で移動する時間が消滅すると時間が余る ── 営業職が移動にほとんどの時間を浪費しているという体感の事実は立証された。
 余った時間に必要な事務処理を前倒しで行う。
 すると翌日の午前中はブログを書いていてもまだ時間が余る。
 同僚やパートさんの質問に答えたり、与えられた雑務をこなしてもなお余る。昼食を摂らないからなおさらだったかもしれない。
 突発的に発生するタスク(主に事故処理)をするためには、そういったバッファやマージン、要は時間や気力や体力的な余白を多く持っていた方が有利だったのだ。
 まぁだいたい遊んだり寝ていたりしたが。それでも与えられたタスクのほとんどは完結していたから、周囲を眺めて「真面目だなぁ」「もっと遊んでいても仕事は終わると思うんだけどなぁ」と思っていた。

 結果、定時より早くに仕事が片付いてしまうので、午後に外出の用事をこさえて直帰する。
 だいたい15時前後には(その後にアポイントが入っていても)買い物をするようになったのはその頃からか。
 会社員としてはアウトだけれど、どうせ時間は余っているし、スーパーなんて移動の道中にいくらでもある。
 私生活の時間効率を高めると、結果、仕事の時間効率も上昇する。
 会社員の倫理としてアウトかセーフかは度外視しても問題ない、というのが僕の思考だったのだ。

>>>

 なので未だに、時間を拘束されさえすれば給与が発生するという仕組みに馴染めない。
 バイトでもそうだ ── なのでタダで働いたり、給与を店長にあげてしまったりする ── し、会社員だと「残業せずに定時で帰れ」とか命令しつつ暗に自宅で事務仕事をするように仕向けるタイプの会社には辟易した。
 残業代なんか要らないからしたいだけ仕事をしたいのだ。
 好き勝手に仕事をさせてもらいたい(好き勝手に業務を終えたい)し、仕事をする場所や手段だって好き勝手にさせてもらいたい、というワガママをそれ(だいたい40歳)まで体現していたので無理もない。
 今思えば、あんなに自由な会社員を他に見たことがなかった。
 きっと2度とできないだろうから、その意味で転職などしなければ良かったとは思う。
 その当時の会社は今や徒歩2分の距離にあるし。

 いずれにせよ直接的にでなくとも収益を上げる活動とそうでないものがある一方、時間というのは放っておけば経過してしまう尺度なので、時間単位によって成果(賃金)を測る思考様式は馴染まない。
 当然、最低賃金だとか残業/深夜/早朝/休日手当の概念について「?」となってしまう。
 もちろんその倫理 ── 僕にとってそれらイレギュラな時間における賃金の概念はただの倫理である ── は分かる。
 しかし倫理だけで金銭的成果は生まれない。だからその矛盾に疲れる。
 倫理だけで経済が回るなら、この国はこんなにジリ貧になっていない。
 この国が貧しいのは、倫理が失われているからか、経済がうまく作用しなくなったか、そもそも経済あるいは倫理のいずれかもしくは両方のメカニズムに欠陥があるからだろう。

 お金を稼ぐ上で倫理上のグレーゾーンは発生する。
 営業の移動中に私的な買い物をするのは倫理的にはアウトだが、その労働者の時間効率が上昇することで最終的な業務効率も上がるなら、黙認して良いと僕は思ってしまう(懲戒されるリスクも含め自己責任だが)。
 正しく業務することはもちろん間違ってはいない。しかし正しさはときどき無駄を生む。

 100人で100人101脚走を行うとしたら、だいたい一番遅い人間に合わせる必要がある。
 速く走れる人の脚力は、まったくもって発揮されず、ただの無駄になる。
 集団や社会では、そうやって動作を制限されることがある。
 もちろんだからこそ倫理が守られる。
 転んで怪我をする弱者を作らないための、それは優しさだ。
 しかし学問であれお金稼ぎであれ、自由競争であるのも事実ではないのか。

 実のないカタチだけの空論が大義名分を背負っていて、だから多くの人はその矛盾を無視して信じてしまう。
 しかし多分、それで良いのだろうとも最近は思うようになった。

 社会にはたくさんの人がいる。
 能力のある人よりも、能力があると自負しているだけの普通の人の方が多いし、もっといえば能力がない人も多い。
 また能力は増えることもあれば減ることもある。不変の尺度ではない。
 無能と貧乏人は死ね、という考え方は潔くて好きだが、社会はそういう倫理では作られていない。
 能力のない人もお金のない人も、最低限(それがどの程度の水準を指すのかは知らないが)の生活をできるように作られている。
 だから能力が無くても、知識の無い新人でも、1時間あたりで賃金が貰える仕組みは社会的に善良なのだ。

 自営(あるいは経営者)をしていると、そういう倫理が空論に思えるだけのことだろう。




>>>

 年末年始や休日は、多くの人が動く。
 その傾向を観察し、それとは逆の方向に行動する。

 ずっとそれを繰り返してきた。

 混まない平日の昼頃に買い物をし、ドライブや観光をしたいならだいたい平日の夕方や早朝がいいだろうと思う。
 思うだけで興味がないから(ドライブや観光は)しない。
 僕の代わりに旅行や恋愛や家族との生活をしている人がブログを書いて読ませてくれたり、会って話を聞かせてくれたりする。

 僕がいなくても、僕以外の人が僕の代わりをしてくれている。
 僕は恋愛する必要もなければ家族を作る必要も、(目立つほどの)仕事をする必要も、観光をする必要もない。
 友達と遊ぶ必要も、友達を作る必要もない。
 自由が過ぎて、必要なものがほとんどない。

 ただ、冷蔵庫に牛乳がない。
 牛乳がないとカプチーノを作れない。
 
 牛乳を買いに行かなくてはならない。これは必要なことだ。
 しかし15時に出かけたスーパーは酷く混んでいて、駐車場を一周して自宅に戻ってきてしまった。

 夜にリトライしなくてはならない。
 明日はスーパーが店休だからだ。





 
 

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  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-Resistor-Transistor-
 
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TITLE:
しかなくないときはどうしているのか。
SUBTITLE:
~ not only but also ~
Written by BlueCat

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221229

 泥沼のように眠い日。
 9時頃起きて、燃えないゴミを出しに家を出たら、もう収集車が去っていた。
 戻って朝食を摂ってしばらくしたら眠くなったので、数十分ごろごろする。
 昼過ぎまで久しぶりにTVゲームをするが、眠くなってしまい、ゴロゴロしているうちに眠ってしまう。
 目覚めたら22時である。どうしたんだ私の身体は。しかもまだ眠い。
 この上眠ってしまうと過眠頭痛が起こるかもしれず ── そうしたらカフェインを飲めばやり過ごせることを知ってしまったが ── できればそれは避けたい。

 本当は工具や資材の整理をしようと思っていたのだが、TVゲームなどという自堕落な選択をしたのがそもそもの過ちだった。

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 最近web上で「〜しかない」という言い回しをよく見かける。

「感謝しかない」「メリットしかない」「共感しかない」といった言い回し。

「〜しかない」という言葉は、「〜以外にない」「〜だけである」「〜の他にない」という意味である。
 より厳密に、正しい表現としては「〜以外(の手段/方法/道具/選択など)が(今は)ない」というのが本来だ。
 よって本来は、それ以外の選択肢があることが前提となる。

 買い物に行ったのにこれ「しかない」、病状が進行していて手術する「しかない」、といった用例が適切か。

 結果として「感謝しかない」という発言は「それ以外の感想や評価を持ちうる」ということを暗示してしまう。
「先生には感謝しかありません」と言うと、それによって「先生には感謝以外の思いがあります」もしくは「先生には感謝以外の思いを持つ人が多く居ますが私は違います」と言っているように聞こえる。

 どちらにしても、この例では先生に失礼だと僕は感じる。
 前者ならその余計な含みは要らないように思うし、後者だと他者を貶めた挙げ句、自身を引き立てることしか考えていない思考が鼻につく。
 素直に「先生には感謝しています」と言えばいいのである。

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 わざわざそれを「感謝しかない」と表現するのは何故だろう。
 おそらく「〜しかない」という用法は「本当に」「非常に」といった意味(英語なら「very」)として使われているものと想像する。
 あるいは「〜でいっぱい(full)」「〜だけ(only)」といった意味もあるか。
 それが多く見られるようになったのは、単に「〜だ」というより少しでも特別な感じを演出しようとした結果かもしれない。
 しかし特別というものは蔓延すれば特別ではなくなる。

 少しふざけた用例を挙げると、恋人に「僕が愛しているのは君だけだ」と言うとき「僕が愛しているのは君しかいない」と言い換えた日本語は比較的まともに思えるのだが「僕は君に対して愛しかない」なんて言うと急に胡散臭く思えるのは僕だけでしょうか(生徒会長立候補口調)。

 いずれにしても本来の用法は、選択肢が限定的になることにより悲観的になりがちではないかと想像される。
 しかし「今回の社員旅行はハワイしかない」という場合、前述のとおり他に選択の余地がなかった場合の他、「ハワイに行くしかない!(と私は思う)」という強い気持ちの表明とも取れる。
 なるほどそういう用法なのかもしれない。

 まぁ一方的な意志や気持ちの表明と考えれば間違っていないのだろう。

 それでも「感謝しかない」という表現には違和感しかない僕だ。









 

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ハロー、リアル。
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Written by BlueCat

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221228

 学校の卒業アルバムの写真が無加工であることに耐えられない子供たちも居るという。
 愉快な話だと、僕は思う。
 別に嘲笑するわけではない。
 ありのままの現実を受け容れられないそのありようを弱さだとも思わないし、架空の自分に傾倒するありようを危険だとも思わない。

 人間はもともとヴァーチャルに現実を認識している。
 認識という作業、視野という範囲の限定、肉体という起点の存在が、現実をして既に仮想の情報に組み替えている。
 現実を、現実のまま認識している人間など1人もいない。

 にもかかわらず、現実、現実と、鬼の首を取るように妄想家を人は嗤ってきた。
「もっと現実を見なさい」という言葉を、僕でさえ、相応の数の人間に言われてきた。
 彼ら彼女たちの宣う「現実」とは主にキャッシュ、つまり現金であり、あるいはその供給源となる社会、要は家族や会社であった。現実とはそんなに無価値なものか。

>>>

 GoogleEarth が台頭した頃だろうか「Googleは地球上のすべてを情報化し、ヴァーチャルな世界(コンピュータの中の情報世界)にリアルを丸写ししようとしている」と言われたことがあった。
 Google SketchUp は、その世界の詳細を人々が作り出す手伝いをしていた。

 まだその頃、現実は現実で、人々は現実に暮らし、ヴァーチャルはただの娯楽として考えられていた。
 つまり現実世界が先にあり、ヴァーチャルは現実世界に構築された役に立たないものとして認識され、位置づけられていた。

 しかし実は逆だ。
 この現実の世界にあって、人間が「人間社会」と認識しているその多くは、人間が作ったもので構成されている。
 都市も、文化も、道具も、経済も。
 たとえば自動車は、自然発生したものではなく、人間がイメージし、設計し、構築し、実存させたものだ。

 そうやって人間は、現実の、自然の世界を、自分たちのイメージで塗りつぶしていった。
 この世界に ── より正確には「人間の認識できる世界に」 ── 人工物の存在しない場所なんて、ほとんど存在しない。
 なぜなら人間が、すでに人工物の一翼を担っているからだ。
 服を着ず、道具も持たない「動物のまま」の人間はもはや人間という集合のごくごく一部にしか分布しない。

 イメージし、望んだフィクションを、人間は現実世界に投影し、実現する。
 山や川、海や島の形さえ変える能力を、大昔から持っていた。
 それは果たして「現実を見ていたから」実現できたのだろうか、それともフィクションやイメージを見ていたからだろうか。

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 まるで服を着替えるように、人間は己の顔を見たいように見る能力を得た。
 美容整形であろうと写真加工であろうと、それは変わらない。
 見たいイメージを、見たいままに現実世界に投影し、構築し、実存させているだけだ。


 仮象の世界は ── つまりヴァーチャルの、イメージの世界は ── その人にとって、現実以上に現実なのだ。
 つまり現実というのはその程度のもの。
 認識したい者が、認識したいように認識し、視野や肉体によって情報が限定的になり、その土壌に自由気ままなイメージが芽吹いて花開く。

 情報に、視点や視野や立場や認識が介在する限り、同じ現実が見る人次第で姿を変える。
 今に始まったことではなく、ずっと昔からそうだったものが、いよいよ人間の肉体や相貌といった「人間そのもの」を浸食し始めてようやく人間たちは気付いた。

>>>

 ありのままの現実を受け容れられないのは、確かにある種の弱さだ。
 しかしその弱さは人間の持つ能力そのものでもある。
「空を飛びたい」と思うことと「自分の鼻筋がもっとスリムだったら」と思うこと、「ゴキブリが絶滅すればいい」と思うことと「殺処分される犬猫が減るといい」と思うこと、「邪魔な奴は死ねばいい」と思うことと「悪事を働く奴は罰されるべき」と思うことはすべてイコールである。
 それらの望みは、イメージは、何らかの形でこの世界を変えてきたし、これからも変えてゆく。
 それが人間の能力だから。

 将来は有能なエンジニアになりたい、という夢と、勇者になって人々から英雄と称えられたい、という願望との違いを僕は知らない。
 起業してお金持ちになりたい、という夢と、自分の思うとおりの骨格になりたい、という願望の違いを僕は知らない。
 呪いと願いと祈りと怒りの違いを、愛情と殺意と諦念と復讐の違いを、僕は知らない。



<すべての猫にも、美しいときとそうでないときがある>
 
>>>

 きっと現実は駆逐されるだろう。人間の望んだものだけが現実になってゆく。
 今までだってそうだったし、これからもそう。
 人間が、知性と欲と意識を手放さない限り、不可避だ。
「現実を見なさい」とはつまり、絶滅危惧種であることが確定的であった現実に対する庇護の願いだったのだろうか。

「現実という名のこの子たちは、貴方の無思慮で無責任で自分勝手な夢想によって殺されようとしている、だから守って欲しい」ということだったのだろうか。





 
 

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