// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:221202
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
砂漠の旅人。
SUBTITLE:
~ Desert Traveler. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221202

 先日、ついいつもの癖で、酒席に相合わせた初対面の人と連絡先を交換してしまう。
 僕は基本的に独りで呑むことが多く、積極的にこちらから話し掛けることはない。
 そもそも僕と話の合う人がそう多くないことは自覚しているし、料理を愉しむときは料理と、酒を味わうときは酒と、相対し黙して味わうことを至上としているので、たとえ行きつけの店であっても他のグループや酔客に興味を持つことは少ない。

 それでもそうした場で、誰かと親しくなることはある。
 僕の場合は決まって年下の男性である。
 対外的な影響を推測するに、スリーピースのスーツを着て背筋を伸ばしてカウンターで独り飲んでいる中年男性に話し掛けるのはかなりハードルが高いものと思われる。僕だったら絶対に話し掛けたりしないし目も合わせない。

 かなりカジュアルな私服の時や、作務衣のときもあるが、カウンターに座っている中年男性というのは基本的にそっとしておくべきものである。
 とはいえ止まり木の隣同士となると軽く挨拶をしたり、ちょっとした世間話をするのが社交の礼儀といえばそのとおり。それがきっかけで(仮にその場限りであっても)意気投合することは少なからずある。
 なぜといって、わざわざ無視したり敵対する理由はないからだ。
 これは遠方の温泉で見知らぬ誰かと居合わせたときの心理にも似ている。

>>>

 もっとも僕の場合、立ち居振る舞いが最初から少し特殊なため、だいたいの人から敬遠されがちだ。
 僕からすると一般の人はがさつで無神経で騒々しいし、一般の人からすると僕は気取った変人に見える。よって(幸か不幸か)女性もほとんど近づいて来ない。
 年上の男性は基本的に特殊な気配の年下男性に興味を持たない。
 結果として、僕と親しく話ができるのは(変人を知らないか、変人に興味を持つ類いの)年下の男性が多いことになる。

 もちろん酒席で親しくなった人の中には、同世代、あるいは年上の男性もいるし、女性も数人はいる ── といっても顔を合わせたら軽く挨拶をする程度の知り合いだが。
 単純に、独りで行動できる人間かどうか、ということがキーになっている気がする。
 僕は3人以上で行動することは非常に稀だし、2人で行動することも珍しい。
 どこに行くにも何をするにも独り、もしくはプラス猫である。

>>>

 悪く言えば僕はグループ行動における配慮というものを知らない。
 恋人や友人、家族を含め1対1なら存分に自由に振る舞うことができ、なんとなれば料理の取り分けやオーダの細かい(摂取制限により塩分少なめ、甲殻類はアレルギィでダメとかいった)アレンジなど相応のサービスを提供する(してもらう)ことも可能だ。ウェイタ歴が長いのでそのあたりはお手のものである。

 一方で4人以上のグループになるとそこには ── たとえ潜在的にであっても ── 必ずヒエラルキィや暗黙のルールが発生する。
 僕はまずそれが読めない。
 集団に存在する暗黙のルールは、学校に猫を持ち込むことさえ許されて生きてきた特例の塊みたいな僕にとって、解読不能の教典なのだ。

>>>

 そういう集団生活のエアポケットのような僕にとっては、だからふとしたときに気が合う相手というのはそれだけで特殊なのだ。
 それで次も誘い合わせてお酒を交わすために連絡先を交換する習慣を、およそ5年前に作って持っていた。
 その習慣をつい先日も発揮してしまったというわけだ。

 しかしよくよく考えるとこの習慣を僕はもう利用しない。
 なぜといって、この先は新しい友達や知り合いや恋人をなるべく作らず、可能な限り関わり合う人間を減らすことを決定しているからだ。

 非凡に非凡を重ねた結果、多くの人と相容れない価値観と生活様式をして日々過ごしている僕が、平凡に暮らす人と親しくなったところで、価値観か音楽性の違いから決裂するか、そうならずとも互いにストレスを抱えることになるのは目に見えている。
 そもそも独りでいることに不自由を感じず ── まさか。自由こそは孤独であり孤独こそは自由である ── 不満もなく、その上タイムリミットまで設定している僕にとって、もはや時間や手間を掛けて新しい人間関係を作ることに価値を見出す必要はない。

 失望しかないとまで言わないが、互いにどれほどのメリットがあるのかと考えるとさほどの積極性は必要ないと思ってしまうのである。

>>>

 ために通常なら翌朝には必ず連絡をするのだが、今回は放置した。
 煙草やお酒をよく勉強している面白い青年だったのだが、僕が関わりを持ったとして、互いに良い影響があるかというとさほどでもないように思えたのだ。

 人間を悲観しているわけでも、人間関係に希望を持っていないわけでもない。
 ただもっと尻すぼまりにしたほうが良いと思ってしまっている。

 一般的な人ならば、それでも誰かと関わり合いを持った方がよいのだろう。
 多くの人にとって、孤独の自由は冷たく乾燥し、寂しいもののはずだ。
 僕の場合も同様。
 徹底した自由の孤独は、まるで砂漠の夜を歩いているかのようだ。
 ただその冷たく寂しい有りように苦痛を感じない。
 望んだ旅が、道が、そこにあるような気がして。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Interface-Link-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Reactor-
 
[Object]
  -Human-Night-Poison-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230202
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
でもやっぱり違ったな。
SUBTITLE:
~ The Prime number. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230202

 昨日、歯医者で抜髄したため1日身体を休める。
 もちろん会社員だったら、ちゃんと起きて、ちゃんと会社に出かけて、ちゃんと業務をこなしたと思うけれど、僕は猫だ。
 だから
具合の悪いときと悪そうなときは、ただただ眠るのである。
 起きていてもすることないし、なんて思っていたら燃えないゴミを出す時間を寝過ごした昼前。
 寝直せばいいさ。明日があるさ。明日は燃えるゴミだからちょっと関係ないさ。

>>>

 希死念慮というか、死にたくなってしまう人間は、きっと今も、どこにでもありふれて、あふれているのだろうと思う。
 僕は常に、もう少し先の年齢を目標に設定して、先延ばしにし続けて、現在に至る。
 17歳、19歳、23歳、27歳、31歳、37歳……素数が多いのは、たぶん僕が素数に思い入れを持っているからだろう。
 先延ばしは技術だ。怠惰は能力だ。
 だから僕は、53歳で死なず、57歳で死なない。もうここまで来ると、59まで生きるのと65まで生きるのは変わらないように思う。
 しかしこの身体を自由に殺せるうちに、死にたいとは思う。
 可能な限り自力で、可能な限り孤独に。

>>>

 それにしても65は、現時点の僕にとって
一般的な定年の年齢という意味を持つに過ぎない。
 かつてはそこまで生きられないと思っていたが、今はどうにでもなるようになった。
 ただ生きる目的がないだけで、それさえ惰性で乗り切れる気がする。
 僕はもう、自分の生死にあまり深刻な価値を見出していない。

 ちなみに27は素数ではない。3の3乗で、僕にはちょっと特別な数字。
 ルービックキューブのように、三次元の立方体を思い浮かべると、ちょうど外面に一切接触しない、単一のキューブが真ん中に隠れている。
 他の正多面体でも似たような構造はあるが、キューブほどシンプルでキュートで綺麗なものは少ないように思える。

 そういえば恋人が27人だとずっと言っていたが、それもこの3×3×3のキューブに由来した数字である。
 つまり27人より少なかったり多かったりすることもあった。
「27人(以上)は嘘だろう」という人もいたが、おそらくそういう人をイメージできなかっただけだと想像する。
 人間は常に自分のスケールでしかものを把握できないから。

 社会は常に最小公倍数的に物事を構築しようとするが、個人や集団が認識できるのは最大公約数的なイメージだ。
 素数的な存在にあっては、沈黙するより仕方ない。

 ちなみに27について、3の3乗のことを言及する人がまったくいなかったのは不思議だ。

>>>

 いくつになってもそれは消えない。
 自分が無価値に思えることは当たり前だし、自分の人生だとか、生きていることに意味があるなんてそれ自体がおこがましい思い上がりだと何度となく思い知らされる。

 そうなんだ。意味なんてないし価値もない。
 その意味も価値もないものを維持するために、意味を探して、価値を提示して、とりあえず今日の米と塩くらいは買えるように生活を維持しなくてはならない。
 それがたまらなく無価値で矛盾している気がして、いやになってしまうのではある。
 しかし実に、死ぬ価値さえ与えられていないのだ。

 意味も価値も、だから誰かが与えてくれるものではない。
 自分でそのへんをほっつき歩いて、なんとなくそれっぽい意味とか、価値とかを見つけたり、掘り出したり、刻み込んだりしながら「でもやっぱり違ったな」って放り出す。
 だから僕が墓石を作るなら墓碑には「でもやっぱり違ったな」と刻みたい。

 ただ違ったわけではないし、繰り返した挙げ句、信じた挙げ句、疑った末、でもやっぱり違ったくらいがちょうどいいような気がする。
 何か確信めいたことを、生きているうちには手に入れられないだろうと思う。
 2/3(日付ではなく人生の全行程に対する分数)を過ぎて未だに思うからずっとそのままだろう。

「やっぱり違った」だけでではない。「でもやっぱり」違ったのだ。
 これでいいと思っていたのだけれど、でもやっぱり違ったな。というのがいい。それが最後の言葉で、墓碑に刻まれるとしたらなんて清々しいだろう。
「これでよかった」とかそういう、一見肯定的で、前向きで、潔いのもいいとは思う。でも僕には合わない。

 あれも試した、これもやってみた、こういうのも信じてみた、こんなことも実践した。
 こんなことを考えて、こういうことを好んで、ああいうことは嫌った。
 でもやっぱり違ったな。
 そういう感じ。

 本当は「でもやっぱり違ったかな」くらいなのだけれど、ここは言いきりたい。
「違ったかな」なんて問いかけると誰かが「そんなことないよ間違ってなんかないよ」と言いくるめてきそうだ。
 間違ってるかどうかじゃないんだ、違うかどうかなんだと言ったところで通じるはずもない。

>>>

 死にたくなってしまう人たちが持っている気持ちは疑問は、間違っているとかではなくて、違っているかどうかなんだ。
 たとえ間違っていても、正しくなくても、ぴったり一致する波のようなものがある気がしていて、それが生の中にもしかして含まれておらず、ともすれば死の中に含まれているのではないかと思ってしまうのだ。安易だけれど。

 それはそうだ。
 誰だって、せめて何かと一致していたい。
 正しくなくても、間違っていてもいいから、何かと一致していたい。
 たとえば誰かと一緒であっても、あるいはなくても、自分に含まれる何か重要な意味を持つものが、自分以外のどこかに、重要な意味として同じように存在していてほしい。

 せめてそんな予感くらいは信じていないと、生きることに希望なんて見出せないではないか。
 だからそれを、なんとなく眺めながら「そうだといいね」なんて言っていられるような場所に僕はいたい。
 僕の場合はもう「でもやっぱり違ったな」という結論を今はしているので。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Life-Link-Mechanics-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-
 
[Object]
  -Human-Memory-

// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230122
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
「TRIGUN STAMPEDE 第3話」までを見た。
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::いい気分だろう?
  これ見よがしに奴らを助けてやって感謝されるのはさぞかし。
  孤独が、癒やされるはずだ。


 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230122
 
 2話までを観ていて思ったのは、シーンモデルの少なさと、それを感じさせない作り方。

 たとえば1話で決闘の主戦場になる崖の上の岩場。
 背面の崖と地面のモデルとテクスチャはかなり簡素に作られているように思える。
 クラスタ弾をすべて収めるため遠景に引いたカメラでも、街の全景ではなく尖塔のような岩が映されるだけだ。
 ジェネオラ・ロックの全景はほとんど映されたことがないから、街の全景イメージや形状は理解できないのに、ジェネオラ・ロックがどんな場所で、どんな質感で、主要な施設がどんなであるかを適切に伝えている。

 2話の戦場となる突き出した橋梁のような場所も、同じように簡素なモデルとテクスチャを上手に使っており、それによってジェネオラ・ロック全体の雰囲気をうまく伝えている。
 街の中での接続などはまったく分からないのに、街そのものを表現し、伝えることには成功している。
 僕は趣味モデラなのでつい、見えない部分まで詳細に作り込んでしまう(結果、伝えきる前に駄目にしてしまうことが多い)が、プロの仕事を感じずにはいられない。
 適切な省力化が行われており、しかし手を抜いて、あるいはちっぽけなスケールに感じさせないのは相応に緻密な計算と最適化の結果だと思える。

 3話でさらに新しいシーンモデルが現れるが、やはり全景は理解できないまま街はついに瓦解する。
 EGボマーは颯爽と登場し、あっさり殺される。
 そのスピード感と容赦ない殺戮の数々。ナイヴズの登場と圧倒。
 女子供が殺されるシーンは注意深くさらりと描かれているが、相手を選ばず躊躇なく振りまかれる暴力に対する恐怖をうまく伝えていると思う。
 煙の中で階段を移動するナイヴズの足運びの表現も秀逸だ。

 EGボマーの頭に銃を突き付けるヴァッシュの表情や声の演出は、1話で見せたドジキャラを払拭する。いいシーンだ。

>>>

 視聴者レビューには、原作と異なること ── あるいは設定の流用 ── を嘆く声もあるが、こうした「作品を純粋に楽しめない層」が生まれることは、原作のある作品のむつかしさだろう。
 しかし僕が作り手ならばこうした声を単なる雑音として認識するとは思う。
 作品の評価として見当違いだからだ。

 以前も書いたが、原作が良ければ原作さえあれば良く、それを正確にトレスするだけの別メディア作品など、ただの資源の無駄に思える。
 どのモチーフをどのように活かすかなど些事であり「何を伝え、何が伝わるか」が作品のすべてだし、この作品なら「TRIGUN」あるいは「ヴァッシュ・ザ・スタンピード」を伝えられたなら、それで成功なのだ。
 そしてそれは、今のところ成功しているように見える。

『お前は/あいつは、どっちの味方なんだ』という台詞。
 それを幾度となく向けられ、突き刺され、彼我の間で宙ぶらりんにされるヴァッシュ。

 彼には味方がいない。
 守ろうとした者も、退けようとした相手も、彼らが対立をするため、搾取も争いもやめないために。
 両者の間に立って融和を求める強者は、涙を流す資格さえ持たないのだ。
 誰かを守ろうとしたことに対する報酬が虚無のような孤立なのだとすれば、こんなに哀しいこともない。
 そしてそれは往々にして現れる真実のように僕には思える。

 味方を作る方法は簡単だ。
 たとえば弱者であり続けること。
 たとえば対立の中にあって、融和など訴えず、考えもせず、争いと攻撃と保身と復讐に身を投じること。
 たとえば敵をいつまでも作り続けること。
 そうすれば、いつでも簡単に、味方を作ることができる。
 その安っぽさをさておいても、そうした味方を作って徒党を組む連中は現実世界にも観察されるように思うがどうだろう。

 味方になるのはシンパシィを感じたからか。
 それとも敵対しない方が得だったからか。
 正しさを訴えるのはその正しさを証明するためか。
 それとも過てるさらなる弱者を作り上げて攻撃するためか。

>>>

 原作と派生作品との関係は、フルーツ入りマヨネーズソースのサラダのようなものだ。
(あるいはピッツァや生ハム、酢豚でもいい)
 新しい要素を含んだそれを渾然と楽しめる者もいるが、許容できない者もいる。
 フルーツはフルーツで食べられるのに、サラダはサラダで食べられるのに、そのマッチングに嫌悪する。
 フルーツにマヨネーズ。サラダに甘いフルーツ。
 許容しがたいと、僕も子供の頃は思っていた。

「サラダはサラダ、フルーツはフルーツ」と思っている人は、両方が一体化した料理を料理として認められず、味わうことができない。
 それは単なる嫌悪感に過ぎないのだけれど、嫌悪感はきっと生きる上で大事なものなのだろう。
 僕だって最初(第一話の前半)は、ちょっと嫌悪感を覚えたから、それが分からないわけではない。

 嫌悪感のままに嫌悪し、分けて食べる(あるいは分けても食べない)幸せもある。
 嫌悪感の有無はともかく、ありのままを味わう幸せもある。

 オリジナルの呪縛から離れられない人は、ミリィの不在、メリルの職業、ヴァッシュの髪型や眼鏡、etc.,etc...あれやこれやと不満を唱えている。「これはTRIGUNじゃない」という
意見まである。

 何かが足りない。何かが余計だ。
 確かにきっとそうだろう。オリジナルに足りず、オリジナルに蛇足し ── 。
 では何がどうなら「JUST TRIGUN」なのか。

 3話までしか観ていないが、十分に「ヴァッシュ」の葛藤や苦しみ、孤独が描かれ、充分に「TRIGUN」として鑑賞できると僕は感じている。







 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::お前は変わらない。口先だけの夢想主義者だ。


 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「TRIGUN STAMPEDE Episode 03」
によりました。

 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Diary-Ecology-Mechanics-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Reactor-
 
[Object]
  -Contents-Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :本棚からあくび:Webストリートを見おろして:
 
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230122
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
パンツと潔癖症。
SUBTITLE:
~ disabuse. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230122

 姉の家に行く予定だったが、明日訪問看護の予定があるらしく順延して明日午後に。
 午前4時には眠るつもりが寝そびれてしまったため、10〜15時まで眠る。
 自宅にいるときは2部睡眠制が合っている気がする。

>>>

 日記を書いていると、自分のことをえらく潔癖な人間だと思うことがある。
 おそらく本来的にそうであり、それは僕自身にとってひどく不便なことだったように思う。
 他人を許せず、また己をも許せない。
 きっと死にたがるのはそのせいで、死んで綺麗にはならずとも、せめてそれ以上穢さずに済むのだと思い上がっているのだ。
 しかしそれは正しいとは限らない。

>>>

 誰も綺麗なままで生き、汚れず死ぬことはできない。少なくとも僕はそう思っている。
 あるいは世の中には綺麗なままに生き、汚れを知らず死ぬ人もいるだろう。

 そういう人が、くれぐれも多ければ良いと祈るような気持ちになる。
 そして同時にそういう人が安心していられるような、悪意や害意のない世界であればとつくづくも思う。
 祈りが世の中に実効するなどと僕はあまり信じない思考の持ち主なのだが、ブログに願うと実現することが多いので、たまには祈っておこう。
 せめて悪意や害意が少なくなれば、きっと人はもっと優しくなれると僕は信じているので。

>>>

 僕の潔癖症はだから、ときどき文書にして吐き出す必要がある。
 潔癖症そのものも吐き出して忘れる必要があるし、あるいは煩悩であるとか、劣情であるとかも、適度に吐き出す必要がある。真面目なことばかり書いている人間に色気はないから余計である。

 それが、その潔癖症が、ときどき誰かを傷つけ、あるいは沈黙させてしまうのではないかと、最近思った。

 たとえば僕は、自己顕示をあまり好まない傾向が強い。そしてそれをわざわざWebで何度となく書いてしまっている。
 たとえば僕は交流(電気の話ではない)とか触れ合い(接点=スイッチのことではない)とかについてを、冷ややかに観ていることがあり、それが文書に滲んでしまうことがあると思う。

 ともすれば読んだ人は傷つくだろう。
 多くの人は(僕がそうであるように)何らかの声を上げないではいられないし、(僕がそうであるように)誰かと交流したり触れ合ったりしないでは生きられない。
 それを否定されたら(僕にその意図がなくても、そういうメッセージを受け取ってしまうとしたら)どうしようもない。
 そしてその情報を発信している僕に大きな矛盾を感じるだろう。

 だから僕の周辺ではときどき、沈黙と静寂の死滅地帯が発生する。
 webでも起こるだろうし、IRLでも起こる。
 僕が意図せず自分の思ったことを、自分の潔癖を ── おもに精神衛生上のため ── 吐き出すことで、誰かが傷ついている可能性を考える。

 潔癖とは正しさであり、苛烈である。
 潔癖は原理主義だ。だから存在するだけで攻撃になってしまう。
 逃げ場のない正しさによって糾弾し、清廉によって断罪し、空論によって処刑される。
 摩擦を無視した物理演算のように、それは扱いやすく、そして空虚に実存しない。
 潔癖はヴァーチャルであり、ファンタジィに過ぎない。

 僕はその攻撃を浴び続けていて、だから耐性がある。では僕以外は?

>>>

 だから僕はオフラインで書くことを必要とする。
 潔癖で、反論の余地もなく断罪を続ける攻撃的な思考を、誰かに当てないように。
 あとできれば自爆もしたくない。

 そのようなわけで太田市の高田純次さんを目指して日々精進しているのだが、道のりは遠い。
 パンツの力が足りないのかもしれない。

 ……パンツの力って、なに?







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Engineering-Mechanics-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230120
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
嫌煙家たちの反動形成。
SUBTITLE:
~ The Cleaners. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230120

 午後に姉の家に泊まりに行くため、その準備。
 今回は病院には関係なく、ただの遊び。
 太田市にほど近い道の駅まで買い物のためドライブし、帰宅して飲酒。
 姉はわずかだが飲酒はできる。
 肺疾患で喫煙はまったくできないため、僕は自宅を出る前に煙草を吸った場合はシャワーを浴び、帰宅するまで喫煙をしない。

 ドライブ中に話をして知ったのだが、姉は身体的ニコチン中毒(依存症)で、肺高血圧症に罹ってからもなかなか煙草をやめられなかったらしい。
 身体的な禁断症状が現れるため、ニコチンが切れるとイライラしたりすることが多くあったらしく、禁煙外来に掛かることを拒否されるほどだったらしい。
 だから主治医に禁煙を勧められても、やめなかった。やめることができなかった。

 彼女は酸素吸入が必須なので自宅はもちろん外出時もボンベと一緒に行動しているのだが、喫煙中は爆発や炎上の危険があるため酸素吸入を停止する必要がある。
 そうまでして(それでも2〜3日に1本だが)吸っていたという。

 ところが酸素ボンベの吸入再開の操作を忘れて、数時間にわたって苦しかったことが一度あったという。
 その後また煙草を吸いたくなったときに、その苦しさを思い出してとくと考えた。
 どちらを選択するか。酸素を止めて苦しい思いをしてまでニコチンの快楽を選ぶか、それとも禁断症状を抱えても苦しまないほうを取るかと。とくとくと考えたらしい。
 それで禁煙に成功したという。

>>>

 禁煙というのは、最終的に本人の意志の問題だ。
 意志が弱ければやめられない、というのは事実だが、それは同時にその個人の持つ意志に作用している価値観が弱いということでもある。
 意志というのは固形物として人間の精神の中にあるものではなく、思考の結果出力される指向性のことであるし、思考というのは常に価値観の影響を受けており、価値観はその構成を記憶に依存している。
 だから嫌煙の価値観が弱ければ、喫煙者は喫煙という行動をやめられない。

 かつて喫煙者だった人のほうが、禁煙後、強い嫌煙家になるように観察される場面がある。
 Webなどで観察していてもそうだ。
 おそらくそうした人たちに起こっているのは、嫌煙の価値観の強固な上書きだ。
 彼ら彼女たちが弱かったはずのその価値観をどのようなプロセスで強化したのかは僕には分からない。
 ただそうやって、喫煙という行為やそれによって発生する副次的な作用についての嫌悪感を高めて記憶に焼き付けた結果、彼ら彼女たちは激しいほどの嫌煙家になることに成功したのだと考える。

「吸わないけれど喫煙も喫煙者についても(場合によっては煙草の煙のある空間にいることも)なんとも思わない」という非喫煙者もいる。
 しかしそういう人と同じ程度の価値観を持っていたら、喫煙者は喫煙者に留まってしまう。禁煙できない。
 だから激しい嫌煙者としての価値観が形成され、その価値観によって思考し、それが意志として行動に現れるまで、禁煙ができないことになる。

>>>

 極端な嫌煙家には、依存してまでやめられないままの喫煙者を理性のない畜生扱いする人がいる。
 そうした人たちは煙草そのものも毛嫌いしているし、なんとなればJTのことも、煙草の販売を許可している国家さえをも憎んでいる。もちろん喫煙の自由など人間には認めないし、喫煙者は穴蔵にでも篭もって煙にまみれて肺がんに罹って死ね、と思っていることと思う。
 僕の叔母(故人)もそうだった ── だから介護のために同居していたのに追い出されたのだ。

 旧喫煙者だったとしても ── 叔母は違ったが ── 嫌煙者がそうなるのは理解できる。
 自分自身が理性のない畜生だったと認め、嫌悪するからこそ禁煙できたのだろうと。

 嫌煙過激派がいる一方、喫煙過激派というのは少ない。
 禁煙が嫌煙者にとって責務であり倫理である一方、喫煙者にとって喫煙とは単なる自由選択である。
(無論、禽獣以下とも思えるような知能レベルの喫煙者もいるが、そういう人間は喫煙したからそういう人間に成り下がっているのではなく、もともとの品性が下劣なために喫煙するにあたっても下劣な品性を丸出しにするだけである。)

 だから両者が論を交わすと、圧倒的にヒートアップするのは嫌煙者である。
 彼ら嫌煙過激派の思想は他者への評価はもちろん、自身の行動さえも抑制するほどの強い力を持っている。
 その啓蒙力は ── 善悪は別にして ── 自由を認めないという点でだいたいファシスティックである。
 喫煙者は自由主義者が多いようで、だからファシストであることについてさえ非難する必要を持たない。
 それは大事な、尊重すべき反対意見である。

 自由な精神というのは、つまり、嫌いなもの、許せないもの、度し難いものと共存できる思考体系を持っているということだと言えるだろう。
 正反対の価値観を自分の中でも育て、強い憎悪を持っても、それに染まらず、攻撃的な意志を持ってもそれを抑制し、中庸を、融和を目指し、その場その場での適切なありようを考えて振る舞うのだ。

 そう考えても、僕は喫煙者であり続けたいと思う。
 もちろん嫌煙者になる自由は僕にだってあるのだけれど。

>>>

 僕の場合は肉体的にも精神的にも依存がないので、たとえば勤務中は(休憩だろうと)一切喫煙しないでいられるし、そもそも少しでも体調が悪いあいだは(美味しく感じないから)何ヶ月だろうと吸わない。
 どちらかといえばカフェインに対する身体依存性が若干あるだろうか。
 長期間、継続的にカフェインが不足すると、のんびりぼんやりが過ぎて、眠りすぎたり無気力になったりするので。
 それでも(カフェインほしい〜!)という欠乏感や飢餓感がないため過眠を起こしたりする。むしろ問題かもしれない。

 煙草については一時、味さえ好ましく感じていなかった時期があり3年ほど禁煙していたこともある。
 しかし吸う煙草も選び、吸い方も保存方法も工夫するようになってからは純粋な嗜好品として愉しんでいる。

 恋人が嫌煙家なら分煙くらいはするが、唇を塞いでくれない間はときどき煙草を吸う。
 キスの前には歯磨きくらいする。恋人からのキスは煙草よりも価値が重いのだ。

 とはいえ愛煙家の僕でも加熱式やケミカルの多い煙草の煙を吸うと、だいたいむせる。
 他人の煙でもそうだし、自分で吸ってもそうした煙草でむせることが多い。
 第一、味も香りもひどい。
 だから嫌煙家が煙草の臭いを嫌う理由もよく分かる。
「よくこんなものにお金を払うものだ」と嫌煙者が思う気持ちもよく分かる。
 ただまぁ、同じ喫煙者のよしみはあるから「そんな煙草、やめなよ」とは言わない。
 好きにすればいい。

>>>

 僕は粘膜系が弱いので、喉と気管支と肺と鼻を痛める肺喫煙をやめ、口腔喫煙にしている。
 それでも喫煙を続けているのだから、嫌煙家からすると愚かしく理性のない畜生に思えるだろう。
 時間とお金と健康を無駄にし、周囲の人間に害悪を撒き散らす、考え無しのろくでなしだと嘲笑されるだろう。
 いずれ本当に体調が悪くなれば、必然に美味しさを感じられなくなり、やめてしまうだろうとは思う。
 それが分かっているからこそ、できればずっと味わいたい。
 味わう自由を失いたくない。

 畜生と嗤われようと害悪と断ぜられ駆除される運命にあろうと、自分では何も考えず、ただ社会の与える品行方正に従ってしか生きられない連中と同じ無味乾燥を味わえというならいっそ、今殺せ。

 なぜといって生きることは自由を謳歌するためであり、不自由に抑圧された生は、すなわちそれが己によって形成された柵(しがらみ)であっても、死に等しいからだ。
 無論、死を選ぶことは生の自由に含まれているとは思う。
 選び続けることが生きることだと思いたい。
 その苦労を厭わずに、面倒くさいといいながらも、自分で選んでいたい。

 とくとくと考える、その甘美な自由に、僕はずっと溺れていたい。

>>>

 食事をする前からかなり眠くなっていたが、食事が終わると気絶するように眠ってしまった。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Mechanics-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Human-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230121
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
それぞれの望んだ景色と道。
SUBTITLE:
~ Drive way. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230121

 午前中に姉の家から帰宅。
 オープンカーで帰ってきたのだが、日差しが弱く風が強かったため、場所によっては寒かった。
 こんな寒い日にオープンカーで走るなどアタマオカシイと周囲からは観察されるかもしれないが、実のところ、オープンカーは冬が一番適合する季節である。

 まず雨の日が少ない。
 日本の気候で考えても、花粉が少なく夏に比べて空気も澄んでいる。
 シートヒータも装備されているため、対寒冷の機能は問題がない。
 屋外気温に耐えられる服装をしていれば十分なので、ちょっとしたコートなどを着て、ゴーグルやサングラス、眼鏡を装備すればおよそ快適に過ごせる。

 晴れていることは絶対だが、気温より問題になるのは日差しと風の強さだ。
 日差しがあれば輻射熱で暖まる(暑く感じることもある)が、陽が落ちる頃は輻射がなくなるので体感温度がぐっと下がる。また風が強いと外気が空調のすべてをかき回すため、本当に寒い。
 なので十分な日差しがあり、風がなければ快適に過ごせる。

 一方で夏は不向きだ。地域にもよるが、日差しから受ける輻射熱をエアコンで冷却しきれない。
 湿度や花粉、突然の雨など不安要素も多い。

>>>

 オープンカーに乗っている感覚は、自転車に近い気がする。
 外気に触れているし、景色がよく見える。
 ありきたりな表現だが ── クローズドルーフのときの狭さとあいまって ── 癖になる開放感がある。

 運転している感覚は、小型航空機 ── それも昔あったようなオープンコクピットのプロペラ機に近い部分がある。
 前方の視界は ── フロントガラスのピラーや枠が遮るため ── さほど広くないが、左右、上方、後方は遮るものがほとんどない。
 環境音を捉えやすいので、周囲の車両を把握しやすい。
 オープンカーのほとんどはその形状からスポーツカーに分類されがちだが、速度を上げて運動制御することよりも、景観を楽しみ、ほどよい速度で走ることが心地よい。
(それに車高が低めのため、車間距離を充分に取らないと視界がますます悪くなるだけでなく排気ガスを思い切り浴びることになる)

 とはいえ僕はもともと自動車の運転が嫌いだ。
(にもかかわらず自動車関連メーカで設計の仕事をしていたこともある)
 自動車は二次元かつ限定的な運動しかできない(具体的には上昇下降ができず、前進後退を伴わない左右移動もできない)し、交通ルールによって大きく行動を制限され、他者(自動車だけでなく、それ以外の運動体すべて)に気を遣い、速度による恐怖感もある。
 航空機 ── とくに小型で、あまり高度も速度も上げられず、窓も開けられて、なんとなれば屋根などなく、ランディングギア(車輪)もずっと出ているような機体が好きだ。
 航空機免許の取得(職業パイロットではない)を夢見たこともあるが、お金がなく、英語力もないので断念したままになっている。

 それにしても自動車の運転は不自由だから、好きではなかったのだ。
 若い頃からそうだったので、当然、ドライブが趣味なんて理解できなかったし、遠方まで自動車で出かけることも忌避していた。
 運転は通勤にせよ買い物にせよ必要に迫られてするものであり、可能なら代替手段を探すのが常だった。
 また交通規則に従わなければならないという当然の制約も、自転車などに比べると抑圧されている感覚を覚える。
 ついでに言うと、僕は数年前に軽トラを買うまで、自分の好きな車を選んで買ったことがない。
 自動車にも、それを運転することにも、まったくといっていいほど興味がなかった。

>>>

 しかしオープンカーなら耐えられる。むしろ楽しいと思ってしまう。
 そしてふと、些細な違和感というか、後ろめたい気持ちに気付く。

 ドライブが趣味だという人間達に対する、ささやかな侮蔑の念を僕は持っていたのだった。
 自分が自動車の運転を嫌っていたからこそ、ドライブが趣味だという人間に対して、そうした価値観について「意味ワカンナイし」といった具合に、ちょっと斜に構えて馬鹿にしていたのである。

>>>

 とはいえ僕はもともとコンピュータドライブが趣味である。
 一般から考えると多少高価でも、優れた速度と性能を発揮する機体を所有し、それを動かし(たとえ大した目的がなくても)操作することをただただ楽しいと感じる。
 だから仕事でもプライベートでも、コンピュータの前に居る時間を好む。

 作業をして何かを完成させる達成感ももちろん好きなのだが、無目的にただフォルダを作ったり、ファイル操作を自動化するスクリプトを組んだりするだけで楽しいと思う。何となればゴミ箱を空にするだけでも楽しいのだ。
 コンピュータドライブを趣味としない人にはまったく理解できないと思う。

 一方でマニアックなコンピュータドライバの多くが気にするベンチマーク(コンピュータの処理速度を測定すること)にはほとんど興味がない。
 自分のする作業にストレスを体感しない限り、処理速度が他の機体より速かろうが遅かろうがまったく気にならないし、そもそもストレスを感じないような機体を選んで購入し、必要に応じてカスタマイズしている。

 外観はさほど気にしないので、たとえば自作PCを組んでLEDで電飾するようなことは(悪趣味に思えて)しない。
 使用感と操作性を重視し、インタフェイスやショートカットなどのカスタマイズを ── 周囲の人が理解できないくらい ── してしまうから、きっと周囲の人は僕のことをちょっと馬鹿にしているのだろうと(前述のメカニズムにより)思う。

>>>

 おそらくコンピュータと自動車と飛行機は似ている。きっと自転車もそうだ。

 たとえば速度や操作性や外観やインテリア、利便性と価格から多くの人たちが選び、メーカや歴史をマニアックな人たちが語ること。
 マニアックな人たちはより高度な性能を求め、自身の操作能力などについて一定の自負を持つこと(僕にとってこれは恥ずかしいことに該当する)。

 僕は自動車もコンピュータと同様、外観はほとんどプレーンのまま、目立ったアクセサリを装備したりはしていない。
 だから写真も撮らない。コンピュータも(直近のものは)何を買ったか明記していない。誰かの見世物になることを好まないといえる。
 力不足を感じたとき、見えない部分に多少手を掛ける。
 大事なことはその道具を使うことによって、どんな景色が見えるかだ。

 車や自転車の場合、若干人目を集めることがある。
(コンピュータも、ちょっと詳しい知り合いが見たら驚いていた)
 これば僕が自由にしている結果、少々一般的な範囲から外れたチョイスをするためだろう。
 オープンカーもキャンピングカーも目立つし、猫が一緒に乗っていたらことさら目立つ。

 目立つのは好きではないが、もはや諦めの境地に至ったので、自意識の存在を忘れることにしている。
 注目を浴びることも含めて、それは僕の求めた景色に付随しているのだ。
 自由と孤独がセットであるように、目立つこともまたトレードオフの関係だ。

 一般的な多くの人は、自由を求めつつも孤独を避けて、無難な中庸の道を歩く。
 目立たないようにする事は、孤独を避ける上でとても重要なスキルだ。
 しかし孤独になることなどお構いなしに自由を突き詰めると、僕のようなイキモノになる。
 社会性はない。
 結果、存在するだけである程度目立つ。
 原理が理解できたなら、気にしても仕方ないではないか。

>>>

 クロに餌と水を与え、着替えて納屋掃除の続きをする。

 僕は5人姉妹の4番目で長男にあたるが、他の姉妹とはだいたい仲が良い。
 失踪中の姉(3番目)についても、憎からず思っているらしいと聞いてはいるが、こちらとしてはあまり関わり合いたくないのが本音だ。
 長姉とは険悪ではないものの、やはりこちらからは関わらないようにしている。
 ある時期まで比較的まともな人だったのだが、ある時期から人間性が崩壊してしまったように観察されるためだ。

 人間は変わってゆく。
 人間関係もまた変容してしまう。
 それぞれが、それぞれに望んだ景色を見ているのだと ── そしてきっとそれは誰しもがそうだと ── 僕は思う。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Engineering-Link-Mechanics-Memory-Season-Stand_Alone-
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-
 
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  -Bicycle-Car-Computer-Human-Tool-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230115
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
けだものだもの。
SUBTITLE:
~ Sleepin'Beasts. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230115

 妹夫婦が遊びに来る。
 年が明けてから会うのは初めてか。
 個人的には、外部からのアクセスが(メールであれ来訪であれ電話であれ)ない日があまりないので、少々人疲れを起こしている。

>>>

 最近ようやく気付いたのだが、僕が人疲れを起こす一番の原因は他人の存在などではなく、僕が人を演じるからだ。

「お前は人間だろう」という問いに対する答えはYESだ。
「お前は人間ではないのか」という問いに対する答えもまたYESだ。

 人間は自身を人間だと思っている間だけ、人間を演じている。
 寝ている人間はただの動物であり、死んでいる人間はただのモノだ。
 意識のない間、理性を失っている間、思考しない時間まで人間でい続ける人間など1度として見たことはない。

 多くの人はそれに違和を感じない。
 自身が人間であるといつからか、そしてどこまでも信じていて、それを他者にまで押し付ける。

 僕はどうか。
 ケダモノだ。
 頻繁に意識を失い、ことあるごとに理性を失い、思考する時間さえ大した役に立っていない。
 屠られ血肉までしゃぶり尽くされた動植物は数知れず、呪詛に灼かれたイキモノも数多、玄関に立ったガールはおよそ押し倒され、手討ちにした他者にきりなどない。
 そしてそれらはすべて弱者だったはずだ。
 己を圧倒する強者に対し果敢に向かったイキモノのすべては死ぬのが道理で、僕が今も生きているのは弱者から搾取を続けているからに他ならない。少なくとも遠因までを精査すればそういうことになる。

 キリスト教ではそれを原罪と呼ぶのか。
(ネコノカミサマを例外として)神を知らず、(ネコノカミサマ教を例外として)宗教を持たない僕にそれを知る術もない。
 言葉は常に上滑りで、行動は常に犠牲を伴う。
 僕が右手を動かす動力は、他のナニカを活かしていた熱量だったはずだ。

 しかし人が人になったのはせいぜいがこの星の上だけの、ここ数百年程度のこと。
 生命だ、倫理だ、正義だ、善良だと並べたところで、意識も理性も思考も生命も存在しない、無機物ばかりの宇宙にあって、そんなものは何の指針ももたらさない。

>>>

 素晴らしき生を生きることが罪でなく、哀しき死を迎えることが救済でないなら、そんな愚にもつかないことは考えず、繁栄と永続をお題目のように夢見て、禽獣のように日々の糧食を探して喰らい、矛盾を無視して、不安に眠り、希望に目覚めるのがなるほど人の生き様だろう。

 混迷の時代と人はいうが、人の歴史に混迷でなかったためしなどないのではないか。
 あるいは盲信に従い、誤った道でも間違いなどないと思い込んでいた方が幸せだったか。
 迷い彷徨い、病み悩み、正しさなど分からないと嘆きながら進むことだけが人の道ではないのか。

 だからメディアに流れる「生きづらさ」などという言葉を私は信じない。
 生きる容易さは、追い求める理想ではあるかもしれないが、一度として実現したはずがない。
 実現したと思っている人間は、己の立ち位置に、己の環境に、己の幸運に、驕っているだけだろう。
 生きづらさを感じる我々は弱者だと、平然と言い切れることの強さを知らないのだろう。
 声を上げることさえ許されない者たちが、生きることの意味を咀嚼することなく嚥下することを強要され、溶解した理想と現実に溺れて窒息することを知らないのだろう。

 金と権利と仕事と結婚と老後の話を、あたかもそれだけが現実として刷り込もうとする人間様とその社会にはずいぶんと悩まされて生きてきた。
 結局それは、人間社会で人間として生きるためには必要なものだったのだろうけれど、生きることの本質はそんなところには存在しない。
 たとえるなら多種多様な密閉容器を、高性能の冷蔵庫を、さまざまな食器をどれだけ手に入れたところで、作物を作っていなければ今日の糧さえ手に入らない。

 人間が人間だと思っている間だけ人間であるように、現実を現実だと思っている間だけそれが現実になる。
 ヴァーチャルとリアルがその境界から融解してゆく世界にあって、だから人間は、問題を問題だと感じる能力さえ失いつつあるのではないだろうか。

 おそらく「中身のないことを」と僕が嗤っていた人たちこそが、僕をして「中身のないことを」と嗤うだろう。
 ならば生きることとはクラインの壺のようなものか。
 どこにも中身などなく、すべてが中身なのか。

>>>

 そうなるとたしかに、僕が人間を演じる意味もある。
 あるいは人間社会で暮らすための、それは最低限必要なマナーであり、モラルであり、技術知識である。
 僕は拙いながらも、なんとか人間のフリを続け、そしてときどき逸脱する。

 面倒くさい、やってられん。
 アタマに来たからこたつで眠てやる! もう一生チョキしか出さねえぞ! という気持ちになる。
 人間の演技に慣れている人にとっては何でもないことだろうけれど、僕は自分が人間であることを常々疑っている。

 おそらく演技に慣れてしまえば、前提を考えなくても済むのだ。
 コンピュータプログラムにおける変数の初期化のような作業を簡略化することで、プログラムはよりプログラムらしく、だから人はきっと人らしくいられる。

 ただ問題とその解決には、知性だけが求められる場面だってある。
 倫理や正義といった人の幻想から離れて、事象だけを見る必要があるときもある。
 人間らしさが多様化した結果、ために問題が多様化し、倫理も正義も曖昧模糊として境界が不明瞭になり、そうなると争いが起こることになる。
 いつだって人間は己の決めた正義のためなら何でもしてしまうからだ。
 だから僕は人間の演技を、自覚的にしている。本体は猫です。猫なんです!

 なれば朽ち果てる日だけが救いか。


>>>

 人類に繁栄を。
 けだものに安らかな眠りを。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
 
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  -Cat-Human-Koban-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :青猫のひとりごと:夢見の猫の額の奥に:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230118
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
そのままの君でも良いし、そうでない君でも良い。勝手にしろ。
SUBTITLE:
~ Let it be. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230118

 納屋の大掃除。

 昔の勤務先がレンタカー業務をしており、タイヤの保管場所に貸している。
 よくよく考えると賃貸借契約もしていないし、何らの報酬も受け取っていないのだが、まぁいいか、と思って現在に至る。
 納屋に小部屋があり、そちらはすでに占有されているが、それでも入りきらないらしい。
 ちなみにその小部屋にはいくつかの工具や道具、軍手などが置いてあるのだが既に取り出せない状況である。

>>>

 どういうわけか分からないが、付き合った女の子が髪の毛を切ってしまう、という状況に出くわすことがある。
 髪型の好みについてのトークになったとき「ショートヘアの方が好きかなぁ」と、誤魔化さずに言ってしまうからである。

 この「ショートヘアが好き≒ロングヘアが苦手」の理由を3つ挙げるなら、
 1.髪のケア(洗う、拭う、乾かす、セット)を、僕でも多少はしやすい。
 2.踏みにくい(主にベッドの上で)。
 3.3つもない。
となる。3つもないらしいので2つである。つまり2つしかない。

 たったこれだけのメリットのために僕は「ショートヘアの方が優位」と思っているため、それを正直(かつ無神経)に言ってしまい、その結果として彼女たちは髪を切ってしまうのだ。

 しかしよくよく考えるとガールどもは「私の髪型、ショートとロング、どっちが似合う?」という質問をしたかったのだろうと結論せざるを得ない。
 だったらちゃんとそう言え俺が好きになったのは今の髪型のお前なんだからいちいち髪型変えるのに俺の顔色気にすんなオマエの好きにしろ一択、である。

 つまり「猫くん、どっちが好き?」と「どっちが私に似合う」は全然別物だと僕は思っている。

 僕の好きな髪型が恋人に似合うとは限らないと思うし、好みの髪型だから好きになるものでもない。
 そもそも僕の髪型に対する「好き」は視覚による美的感覚による評価ではなく、物理的に難が少ないため嫌な状況にになるリスクが低いという、極めて消極的な理由による。

>>>

 世にはこれを混同して「俺の好きはお前に似合う」と思っている男性もいる。
 もっと悪く言えば「お前の『似合う』は俺が決める」というような感じだ。
 髪型からファッション、使う香水から下着の色まで、まるで着せ替え人形で遊ぶ子供のように、エゴをお仕着せて満足する類のイキモノ。

 ある種の ── あまり品の良くない ── マッチョさの発露に思えるが、そういう人の方がいい、という人もいるかもしれない。押しが強いところもステキという乙女心も分からないではない。
 考えないで済むのはある種の享楽だ。
 それに他人の好みは否定できない。

 たとえばTU(中学からの友人)がそうだ。
 彼は昔から女性のショートヘアが苦手らしいのだが、奥様(当時はまだ結婚していなかったか)が1度、ベリーショートにしたとき大喧嘩をしたという。
 僕からすると、それはパワハラでありモラハラでありDV少し手前なのだけれど、奥様は(内心不満があるのか分からないが)現在も大人しく意向に沿っているご様子であり、ご本人様(TU)は以後ロングヘア一択の状況に満足している様子だ。

 人間の関係性はそれぞれだから、僕がとやかく言うものでもない。
 ために笑って話を聞きながら(人間の男ってこんなのばっかりか? 怖いなぁ)と思ったのではある。

>>>

 髪型の好みを尋ねない、髪型の好みが分かっても気にしないし従わない、という人も付き合う女性にはいた。
「ふうん、猫くんショートヘアが好きなんだぁ。ざんねぇ〜ん。でも私変えないよぉ〜?」と、わざわざ宣言する人も。

 僕は男女問わず、そういうタイプが好きである。
 好きなことを好き勝手にしている様子をただ眺めているのもいいし、好きなことがたまたま重なったらそれもいい。

 もちろん相手の好みに合わせて自分を変容させる努力をすることが悪いとは思わないし、興味関心を強く持つ対象に「こうあれかし」と欲してしまうのは、自然なことだろうとも理解できる。
 ただ、他の生き物に己のエゴを投影するのは往々にして危険なことだし、好きだからその人の望みに合わせて変容するという献身は、裏を返すと「好きなら私の望みに合わせて変われ」という同様の妄執を抱えているように思える。

 もっともその分析に照合するなら、僕は「好きだからといって無理に相手に合わせたりしない」というポリシィがあるのだろうと観察される。
 ことほどさよう、僕は好きな相手に無理に合わせたり、嫌いな相手に無理に反発したりしない。
 いずれも面倒で、気持ちが削れる ── 文字は似ているが「気が削がれる」とは少し違う ── ことだからだ。
 自分のスタイルというのは自分で作るものだろうし、他人に口出しさせないように、他人に口出しするものでもない。

 あるいは彼ら/彼女たちは、そこにファッションしか見ていないのかもしれないが。

 野生の動物というのは、生き様が、そのまま外見に反映される。
 傷を負い、牙は折れ、爪は剥がれ、毛をむしられ、尻尾は切れ、翼は折れている。
 それでも揚々と背筋を伸ばし、凜と獲物に焦点を合わせる。
 戦って、傷ついて、朽ちていく。それが獣のありようだ。
 人間はそういう戦傷をいくらでも取り繕えるのだと考えれば気も楽か。

>>>

 約1年分の段ボールを軽トラに積んで集積場に運び、戻ってから畳やガラクタを載せる。
 明日は清掃センターに行こう。

 そこでふと灯油タンク(計60L)が空になっていて買いに行こうと思っていた ── 奥様(仮想)と相談して「明日買いに行きましょう」と決定していた ── ことを思い出す。
 ガラクタが一杯で、灯油どころじゃないぞ。

 まぁいいや。
 今日を楽しく過ごせるなら、明日何とかできるだろう。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
 工場内検索結果へのリンク。
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Interface-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-
 
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  -Condencer-Connector-Reactor-
 
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  -Fashion-Friend-Human-Koban-Memory-Music-Night-Poison-Rain-Tool-
 
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[Cat-Ego-Lies]
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// TimeLine:230114
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
農薬処分。
SUBTITLE:
~ Venom spread. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230114

 昨日は3時に眠り、ゴミ捨てのため9時にアラームで目覚めたのだが、朝食直後に眠ってしまった。
 後に目覚めたのは13時、17時、22時。起きるたび、眠ってしまう。
 とにかくずっと寝ていた。目覚めるのに、まだ眠い。理由が分からない。

 いや、分かるかもしれない。

>>>

 昨日、納屋に仕舞い込まれたままの農薬をすべて、裏庭に撒いた。
 市内の産廃業者も農薬の処理は困難らしく、県外の指定業者に依頼すると数倍の料金が掛かるらしい。
 農協にも問い合わせたが、お金にならない事には興味がなさそうだった。
 だからといって市の清掃センターで処分できるものではないだろう。
 農家をしている知り合いに尋ねたところ「適正希釈量にして散布すれば良い」ということだった。

 殺虫剤と殺菌剤、水田用のものがあった。実に数ヘクタール分。
 米を作って農協に納めていた頃は良かったのだろうが、家の敷地全体はそこまで広くない。
 薄めても仕方ないと判断して直撒きした。粉末や水性のものはまだ良かったが、油性のものもあった。
 そして散布したそれらは、とんでもなくケミカルな悪臭を放った。

 以来、頭痛がする。
 気密の良い家なら良かったと、つくづく思う。しかしそれは無理なことだ。
 匂いだけならまだ良いが、有機溶剤に溶融している成分だとすれば、それに乗って揮発するだろう

 たとえばシンナーのようなものは、悪臭がするだけでなく、それを嗅ぎ続ければ実際に健康被害を起こす。
 そんなことも考えず農薬を撒いた己を呪った。

 それで身体が消耗したのかもしれない。
(呪うのはやめよう。僕の呪いは強いので、対象は死んでしまう)

>>>

 足の指に水ぶくれが出来たのもそれに前後してだったか。
 若い頃は水虫かと思い、あれこれ対策をした。
 それが習慣になっているので僕はなかなか水虫に罹らない。
 ためにこれらの水疱に、水虫薬はまったく効果を発揮しない。

 この身体はストレスによる皮膚粘膜の免疫力低下により、あちこち炎症を起こすことがある。
 肘や膝の裏、首や鎖骨付近といった、極端に皮膚の薄い部分や、指先、手のひら、指の股、口内、陰部、頭皮、そしておそらく内臓も。
 炎症ついでに急に角質化が進んだり、水疱が出来たりする。

 こういった炎症に伴う皮膚粘膜 ── つまりは外界と僕の肉体の内側との境界 ── の機能低下や異常によって、僕は体調を崩す。
 そして病原の菌なりウィルスなり何なりが、下がった抵抗力に乗じて(ときに原因不明の)体調不良を起こす。

 一般的にはストレスに対するマネジメントを要する場面だろう。
 気分転換のためにどこかに出かけたり、誰かに会うのも良いだろう。外食に行くのも良いだろうし、スーパーで買い物するだけでも僕には十分に新鮮な刺激だ。
 そうしたメンタル/フィジカルがないならば、本を読んだりゲームをしたり、ただただ眠るのだっていい。
 しかしそんなものは、むしろ日常になるくらい繰り返している。
 気分転換の日々の中にあって、気分転換が存在する余地は……もしかして労働か?

 あるいは環境に対して受け取る自身の感覚と、それをもたらす価値観そのものを構築し直す手段もある。
 しかし僕は今の自分を結構気に入っているし、これを変えたところで、なるようになってしまう。
 変容が必要なら自ずと変化し、現状が最適ならこの場所へ揺り戻される。

>>>

 よくよく考えると、長らく、きちんと身体を撫ぜていない。
 マッサージ、もしくはその真似事。
 多くの人はそんなことをしなくても、心身の機能を適切に保って長期にわたって機能を維持できる。
 しかし僕は20代の頃から、どういうわけかそれを必要としている。

 撫ぜないと、不調を来す。
 今夜眠るとき、のんびり撫ぜるとしよう。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :黒猫:
 
[InterMethod]
  -Blood-Darkness-Diary-Maintenance-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-Resistor-Transistor-
 
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  -Garden-Human-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :家庭菜園ティストの狂気:暗闇エトランジェ:ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230109
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
女と金魚と餌。
SUBTITLE:
~ Whale hunter. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230109

 髪を切る。
 だいたい月に1度、中旬から下旬に髪を切るようにしているが、今の生活になってから、時々忘れる。
 あまり鏡を見ないせいだろう。

>>>

 先日、死にかけの金魚に関連することを書いたので、より詳細に書いておこうと思う。

 人間の男の中には寂しさや性欲が蓄積すると、金魚すくいで死にかけの金魚を狙うようなことをする者がいる。
 簡単に捕まえられて、いいように慰みものにできる、弱った女を目ざとく見つけて餌にするのだ。

 是非もない。これは自然の摂理といえる。
 歴史上、鯨を狩った猫はいない。
 動物たちは皆、自分より弱いものを捕食してきたのだ。人間もまた僕の知る限り、動物でなかったためしなどない。

 あるいはもしかしたら女たちにもいるだろう。
 ことさら性的な意味で肉食系と呼ばれる女たちにあっては、弱っている男を目ざとく餌にすることもあるかもしれない。
 ただし幾分、そうした機微にも働かせる知恵の多い女であれば、あからさまに餌を捕食するより、餌として捕食されるフリをすることもあるのだろうが。

>>>

 釣った魚に餌はやらないという悪い言葉もあるが、死にかけの金魚は、どんなに良い水を用意しても、どんなに良い餌を用意しても、そのうち死ぬ。
 まして餌にすることを目的に捕らえた捕食者は、さほどに良い環境や栄養を与えるはずもない。
 その餌は、慰みものにしたら用済みなのだから。

 そういう悪い循環にまで頭が回らないか、あるいは開き直る程度には知性を持っている者が、それを繰り返す。
 餌にされる方としてはたまったものではないが、集団はつねに弱者を必要としている。なんとなれば「弱者」という言葉を「餌」と換えてもいい。

 あるいは仮に、弱った金魚を元気にしようという動機だったとしても、結局多くの場合、弱った金魚が元気になることはない。
 物理で殺されるのでない状況においては、弱っていることで己のアイデンティティを満たせるならばその方がラクだから、餌になることの陰湿な快楽は怠惰を燃料にして抜け出しがたい引力を持つ。
 少なくとも捕らえられてすぐは新しい環境に置かれて、痩せた身体をあたためる程度の餌くらいなら貰えるからだろうか。

 いずれにせよ掬う方も、掬われる方も、救われない話ではある。

>>>

 個人的には、ポイが1度で破れるくらい活きのいい金魚を狙うことをモットーにしている。
 確かに元気な金魚を掬うのはむつかしいのだが、掬いやすい、弱った金魚ほど結果的に救えないものもないのだ。
 逆説的に掬いにくい金魚は、掬う必要もなく、それどころか救われることさえある。

 猫の社会でも同様に、弱っている獲物を執拗に狙う者と、捕まるかどうか分からない獲物から狙う者がいる。
 端的にこれは、捕食者の能力に依るのだろう。
 無能な ── あるいは有能にして怠惰な ── 肉食獣は死骸を漁るしかない。

 きっと恋愛関係に限らず、友人関係だって同様だ。

 僕は友人関係に欲 ── 自己顕示欲であるとか、庇護欲であるとか、承認欲であるとか ── を持ち出さないが、そういう欲で友人を作る人間がいないとは思わない。

 もっと恋愛関係にも無欲であればいいのだろうけれど、恋愛に無欲であることはおよそ不可能な気がする。
 少なくとも僕には無理だ。
 恋情は愛欲に変わりやすいし、性欲や庇護欲の対象として恋人(あるいは配偶者)以外を選ぶと、ときどき惨事が待ち受けていたりする。必ず、と言っておいた方が無難だろうか。

 だから恋愛結婚はその果て、恋情に起因した欲を次々失い、愛情のカタチを見出せず分解寸前になる夫婦を目にすることは、決して珍しくはない。
 庇護と性愛の糧だった相手は成長して強く逞しくなり、尊敬と羨望の対象だった有能な相手も機関を運営する利用価値しかない侮蔑すべき道具に変わる。
 こうなると婚活と呼ばれる市場も、欲と欲を交換しているだけの空恐ろしい狩場に思える。
 餌というのは、食べれば残骸になるのだ。

 見合いだった場合はどうだろう。
 恋情がなく、ために愛欲など容易には生まれず、しかし相手を自身の許容範囲と見なした者同士が家族を構成するわけだ。
 欲が最初にないために、そこには過剰な思い入れが発生しないのかもしれない。

 だから恋愛において、相手を餌にしないことはとても大事なことだ。
 いつまでも、どんなときも、自分の慰みものとして相手を道具使いしないように気をつけておけば、あとは相手から使い潰されないように気をつけるだけで長続きする可能性がある。
 何のことはない、互いに自立していればよいのだ。

>>>

 ともあれ禽獣らしく空腹を満たしたいというだけなら、いずれでもよいのだろう。
 しかし己の性欲やらアイデンティティやらを他者で埋めたくなる程度に成長したなら、ヒトはヒトの自覚と多少の矜恃くらいは持ってほしいと思う。

 かくいう僕は猫としては間違いなく有能なので、活きのいい鯨をとりあえず狙い続けることにしている。

 丘サーファならぬ陸捕鯨者。
 海無し県だから鯨なんてどこにもいねぇよどうすればいいんだ。







 
 

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[NEXUS]
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[Engineer]
  :青猫:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Ecology-Engineering-Life-Love-Mechanics-Memory-
 
[Module]
  -Condencer-Generator-Reactor-
 
[Object]
  -Camouflage-Cat-Human-Poison-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :衛星軌道でランデヴー:君は首輪で繋がれて:ひとになったゆめをみる:
 
 
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