230317
昨日寝不足だったこともあり、昨晩は24時を待たずに就寝。
6時頃目覚めるが、お湯を飲んだり排尿したり、少し(携帯端末で)ゲームをしているうちに眠くなり、ふたたび眠る。
キャンピングキャビンの中にいると、お湯やお茶を飲んでいることが多く、排尿頻度が高い。
しかし自宅と違ってトイレまで数十cmである。ペットボトル排尿なので尿の量や色から身体の状態を確認しやすいのも新鮮だ。
朝日が窓の外を照らしているが、ぬくぬくと寝袋にしがみついて眠るうち、昼頃目覚める。
途中何度か目覚めているが、12時間睡眠は久しぶりだ。
寝ていてもいいし、起き出してもいいし、移動を始めてもいいという自由が嬉しい。
水沼の温泉に泊まる計画だったが、しばらく考えてホームセンタによってから帰宅することにする。
アヲはまた家出中だが、クロは留守番をしているので、フードフィーダを買おうと思ったのだ。
ふたつほど大容量のものはあったのだが、ひとつは円柱型でスペースに無駄が出やすい。
もうひとつはより大容量で方形に近い上、カメラを内蔵していてスピーカから呼びかけたりもできるのだが、当然高い。
しかしクロはケージの外になかなか出てこないので、省スペースであることは重要だと考え、その超ハイエンドの22千円ほどもするフィーダをふたつ(アヲのぶんも)買う。親馬鹿かよ。
帰宅すると堆肥場のそばの不織布コンポストを座布団にして、アヲと知らないオス猫が日なたぼっこをしている。
いつもは呼びかけるだけで逃げられるのだが、今回は大人しく捕まる。
しかしお前、連れてるオスが前と違ってるぞ。
>>>
数ヶ月前から、ほとんどゲームをしていない。
確定申告の準備があり、庭作業があり、そんなこんなで切っ掛けを失ったのでもあるが、ヴァーチャルに遊ぶ必要を、その動機を、欲を失っていて驚く。
確かに現実世界は、他者が居なくても(あるいは居ないから、か)とても興味深く、面白い。
かつてとまた違う二重写しの意味を持つ現実の数々に、目眩すら感じる。
夜は粥を作って食べる。
お湯は外に出て沸かすのが習慣になった。
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230316
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
自走式書斎。
SUBTITLE:
~ Self-propelled study. ~
Written by BlueCat
// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230316
一昨日、キャンピングキャビンにいくつか装備を増設した。
多段階調整が可能なテーブル兼荷物棚、折りたたみ式ステップが主要なもの。
家電調度品ではカセットコンロに使うボンベの高騰を受けて電気ケトルを、万一のピンチに備えてポータブルトイレ(および固まる猫砂)を。
ポータブルトイレは普段は椅子としても使えるのでテーブルと併せておよそ快適なデスクセットにすることができた。
またお湯を ── ソーラパネル発蓄電により ── タダで沸かせるのは思ったより便利で、自宅でも湯を沸かすために車内に出向くようになった。
そのようなわけで今日はテストを兼ねた外泊の2日目。
先日は2連泊まで試したので、念のため3日分の着替えを持って出る。
昨晩は結局、思い立ってから出発までに2時間ほどを要した。
着替えや常用薬類はそれぞれ100円ショップのコンテナで管理するようにしているのだが、それでも持ち出し忘れや置き忘れに気付くことがあり、何度となく家とキャビンを往復することになった。

>>>
春秋は快適だし、冬もファンヒータや電気毛布といった暖房器具と(加湿器としても有用な)湯沸かし設備ができたことで過ごしやすい環境になった。
水は外部供給でペットボトルを常備し、生活圏内のスーパーで再利用ボトルに給水してもらえるサービス(ボトルだけ購入する)を利用すればかなり安定する。
皮膚粘膜の衛生管理(洗顔や歯磨き、うがい、身体の清拭など)や排泄問題も、基本は外部の設備に頼るが、お湯が沸くようになったおかげもあって内部で処理できることが増えた。
仕事もなく接触する恋人もほとんどおらず友人も少ない環境下にあって、わざわざこうした「ミニマルな空間」を無駄に ── まるで茶室のように ── 作る意味を長らく自問自答してきたが、こうして中で過ごしていると答えが見えてくる気がする。
専業主夫(仮想)兼庭師兼リフォーム業者兼無職(もうただの執事ってことでいいんじゃないかな)ということも相まって、自宅にいるとあれこれとすることが見つかってしまう。
通りかかりに掃除機を掛けたく(なるようなレイアウトで設置しているので)なったり、使ったついでにトイレ掃除を始めたり、帰りに通りかかった洗濯物の量を確認して洗濯を始めたり、ついでにカプチーノを作り出したり、その最中に食材の在庫を確認しながら晩ごはんのメニューを考えたり、天気が良ければ庭木の剪定や今後の家庭菜園計画のための視察をしてみたり、ついつい無駄にPCの前で動画などを見ようとしてしまったり ── 。
もちろんそれらは非常に自由に選択されるのだけれど、選択肢も含めた情報量の多さはそのまま思考や感覚が広く浅く広がることにも繋がる ── 僕は自身に認知症が始まっていると考えるようにしているので、これはなおさら致命的な問題を発生させうる。
ところがこの茶室のような空間にやって来ると、そもそもできることが限られる。
狭い空間に凝縮されて情報は限定され、選択できる行動も自ずと制限される。
自宅サーバにアクセスできるから、ネットワーク繋がっていればアクセスできるデータは自宅と変わらないが、マシンパワーや画面サイズが小さくなるため、たとえば3DCADソフトを立ち上げながら動画を流し見しつつスマートフォンゲームのエミュレータを裏で動かすことはできない。
(やればできるだろうが無理にそんなことをする必要を感じない。なぜなら「外」にいるからだ)
>>>
窓から外が見える。
飲み物を飲み、あるいは煙草を吸い、景色を楽しむ。
コインパーキングだろうが道の駅だろうが公園だろうが、それは毎回新しい、普段と違う光景だ。
眠り、目覚め、顔や身体を清拭し、食事をし、歯磨きし、排泄する。
そういった「自宅では当たり前」のすべてが不便で、わずかずつ快適ではなくて、思い通りではなくて、その「当たり前ではないありよう」に新鮮さを感じる。
だからといって、テントや野宿といった本格アウトドアほどの危険や不衛生や不便に見舞われるわけでもない。
── 肉体年齢(四捨五入を二度繰り返すと100歳)を差し置いて、僕は自身のヴァーチャル年齢を初老/老人としているので、泥や砂にまみれるような大冒険のリスクは避けつつ、庭木に掛けたハシゴから滑り落ちるかもしれないリスクは受け容れ、それでももっと安全でドキドキするような冒険は甘受したいのである。
寝て起きて空腹を感じて食事し歯を磨く、それらひとつひとつがこんなに新鮮に感じたことはおそらく未就学(多分3歳)の頃以来ではないだろうか。
家の外はもちろん中でさえ迷うほど広く、道は広く、人々は予測のつかない様式で行動していて、何が危険か安全かなんて概念さえなかった。
夜のトイレはどこまでも遠く、食事は美味しいのだけれど億劫で(僕は食事という行為でひどく疲れるほど体力がなかった)、静かな暗闇になかなか寝付くことができず、目覚めの世界の騒々しさは鬱陶しかった。
そして毎日が新鮮だった。
だから今日が新鮮だと思える。
>>>
最近まですっかり忘れていたのだが、僕の中でおしゃべりをしてくれていたいくつもの仮想人格たちは眠りに就いて、以来とても静かになっている。
そして眠ってしまったとばかり思っていた「6歳以前」の記憶や思考様式や感覚が、きちんと「僕」として呼吸していることに気付く。
幸せだな、って思う。
時間が有限だからこそ何人ぶんもの生涯を生きたいと思った。
良いことも悪いことも、可能な限り、すべて経験したいと思った。
だから今までも、自分で選び続けた、いい人生だったと思う。

窓の外の、おそらく何でもないだろう景色を眺めて、素敵だと思う。
ああ。僕は僕だったのかと、思う。
長生きをしたいと思わないことは変わらない。
内容が充実した、甘いことばかりでなく苦いことや辛いこともたくさん詰まった、濃い部分も薄い部分もマーブルになった、複雑な味わいの、そういう情報をいくつもの価値観をフィルタしながら生きて存えることができた。
求めたサイズの自由が、求めた形で手に入った。それともこれは作り上げたものだろうか。
もちろんいいことばかりではない。
たくさんの人を傷つけ、期待を裏切り、絶望させたと思う。
誰ひとりとして関わることなく生きることはできないのだから、それをなくすことも不可能だと思う。それでも今後は、可能な限り減らしたいと思う。
誰の役に立つこともできないかもしれないことは、かつてなら自身の価値を認められないという意味で恐怖すべき認識だったろう。
でも「誰かの役に立っている」という欺瞞のために誰かを犠牲にして傷つけるようなことはせずにいたい。
本当の意味で、せめて誰かの役に立たなくても、誰かに迷惑を掛けたり、悲しい思いをさせずにいられればそれがよいと思うのだ。
これからもたくさんのイキモノを殺すだろう。
それでももう少し。
せめて自分の決めた期限までは生きていたい。
今日しか見られない景色の中で、そう思う。
一昨日、キャンピングキャビンにいくつか装備を増設した。
多段階調整が可能なテーブル兼荷物棚、折りたたみ式ステップが主要なもの。
家電調度品ではカセットコンロに使うボンベの高騰を受けて電気ケトルを、万一のピンチに備えてポータブルトイレ(および固まる猫砂)を。
ポータブルトイレは普段は椅子としても使えるのでテーブルと併せておよそ快適なデスクセットにすることができた。
またお湯を ── ソーラパネル発蓄電により ── タダで沸かせるのは思ったより便利で、自宅でも湯を沸かすために車内に出向くようになった。
そのようなわけで今日はテストを兼ねた外泊の2日目。
先日は2連泊まで試したので、念のため3日分の着替えを持って出る。
昨晩は結局、思い立ってから出発までに2時間ほどを要した。
着替えや常用薬類はそれぞれ100円ショップのコンテナで管理するようにしているのだが、それでも持ち出し忘れや置き忘れに気付くことがあり、何度となく家とキャビンを往復することになった。

>>>
春秋は快適だし、冬もファンヒータや電気毛布といった暖房器具と(加湿器としても有用な)湯沸かし設備ができたことで過ごしやすい環境になった。
水は外部供給でペットボトルを常備し、生活圏内のスーパーで再利用ボトルに給水してもらえるサービス(ボトルだけ購入する)を利用すればかなり安定する。
皮膚粘膜の衛生管理(洗顔や歯磨き、うがい、身体の清拭など)や排泄問題も、基本は外部の設備に頼るが、お湯が沸くようになったおかげもあって内部で処理できることが増えた。
仕事もなく接触する恋人もほとんどおらず友人も少ない環境下にあって、わざわざこうした「ミニマルな空間」を無駄に ── まるで茶室のように ── 作る意味を長らく自問自答してきたが、こうして中で過ごしていると答えが見えてくる気がする。
専業主夫(仮想)兼庭師兼リフォーム業者兼無職(もうただの執事ってことでいいんじゃないかな)ということも相まって、自宅にいるとあれこれとすることが見つかってしまう。
通りかかりに掃除機を掛けたく(なるようなレイアウトで設置しているので)なったり、使ったついでにトイレ掃除を始めたり、帰りに通りかかった洗濯物の量を確認して洗濯を始めたり、ついでにカプチーノを作り出したり、その最中に食材の在庫を確認しながら晩ごはんのメニューを考えたり、天気が良ければ庭木の剪定や今後の家庭菜園計画のための視察をしてみたり、ついつい無駄にPCの前で動画などを見ようとしてしまったり ── 。
もちろんそれらは非常に自由に選択されるのだけれど、選択肢も含めた情報量の多さはそのまま思考や感覚が広く浅く広がることにも繋がる ── 僕は自身に認知症が始まっていると考えるようにしているので、これはなおさら致命的な問題を発生させうる。
ところがこの茶室のような空間にやって来ると、そもそもできることが限られる。
狭い空間に凝縮されて情報は限定され、選択できる行動も自ずと制限される。
自宅サーバにアクセスできるから、ネットワーク繋がっていればアクセスできるデータは自宅と変わらないが、マシンパワーや画面サイズが小さくなるため、たとえば3DCADソフトを立ち上げながら動画を流し見しつつスマートフォンゲームのエミュレータを裏で動かすことはできない。
(やればできるだろうが無理にそんなことをする必要を感じない。なぜなら「外」にいるからだ)
>>>
窓から外が見える。
飲み物を飲み、あるいは煙草を吸い、景色を楽しむ。
コインパーキングだろうが道の駅だろうが公園だろうが、それは毎回新しい、普段と違う光景だ。
眠り、目覚め、顔や身体を清拭し、食事をし、歯磨きし、排泄する。
そういった「自宅では当たり前」のすべてが不便で、わずかずつ快適ではなくて、思い通りではなくて、その「当たり前ではないありよう」に新鮮さを感じる。
だからといって、テントや野宿といった本格アウトドアほどの危険や不衛生や不便に見舞われるわけでもない。
── 肉体年齢(四捨五入を二度繰り返すと100歳)を差し置いて、僕は自身のヴァーチャル年齢を初老/老人としているので、泥や砂にまみれるような大冒険のリスクは避けつつ、庭木に掛けたハシゴから滑り落ちるかもしれないリスクは受け容れ、それでももっと安全でドキドキするような冒険は甘受したいのである。
寝て起きて空腹を感じて食事し歯を磨く、それらひとつひとつがこんなに新鮮に感じたことはおそらく未就学(多分3歳)の頃以来ではないだろうか。
家の外はもちろん中でさえ迷うほど広く、道は広く、人々は予測のつかない様式で行動していて、何が危険か安全かなんて概念さえなかった。
夜のトイレはどこまでも遠く、食事は美味しいのだけれど億劫で(僕は食事という行為でひどく疲れるほど体力がなかった)、静かな暗闇になかなか寝付くことができず、目覚めの世界の騒々しさは鬱陶しかった。
そして毎日が新鮮だった。
だから今日が新鮮だと思える。
>>>
最近まですっかり忘れていたのだが、僕の中でおしゃべりをしてくれていたいくつもの仮想人格たちは眠りに就いて、以来とても静かになっている。
そして眠ってしまったとばかり思っていた「6歳以前」の記憶や思考様式や感覚が、きちんと「僕」として呼吸していることに気付く。
幸せだな、って思う。
時間が有限だからこそ何人ぶんもの生涯を生きたいと思った。
良いことも悪いことも、可能な限り、すべて経験したいと思った。
だから今までも、自分で選び続けた、いい人生だったと思う。

窓の外の、おそらく何でもないだろう景色を眺めて、素敵だと思う。
ああ。僕は僕だったのかと、思う。
長生きをしたいと思わないことは変わらない。
内容が充実した、甘いことばかりでなく苦いことや辛いこともたくさん詰まった、濃い部分も薄い部分もマーブルになった、複雑な味わいの、そういう情報をいくつもの価値観をフィルタしながら生きて存えることができた。
求めたサイズの自由が、求めた形で手に入った。それともこれは作り上げたものだろうか。
もちろんいいことばかりではない。
たくさんの人を傷つけ、期待を裏切り、絶望させたと思う。
誰ひとりとして関わることなく生きることはできないのだから、それをなくすことも不可能だと思う。それでも今後は、可能な限り減らしたいと思う。
誰の役に立つこともできないかもしれないことは、かつてなら自身の価値を認められないという意味で恐怖すべき認識だったろう。
でも「誰かの役に立っている」という欺瞞のために誰かを犠牲にして傷つけるようなことはせずにいたい。
本当の意味で、せめて誰かの役に立たなくても、誰かに迷惑を掛けたり、悲しい思いをさせずにいられればそれがよいと思うのだ。
これからもたくさんのイキモノを殺すだろう。
それでももう少し。
せめて自分の決めた期限までは生きていたい。
今日しか見られない景色の中で、そう思う。
// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
:青猫:黒猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Form-Life-Link-Memory-Stand_Alone-Style-Technology-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-
[Object]
-Car-Human-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:ひとになったゆめをみる:窓辺に微睡む:
//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230210
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
雪の日に思うこと。
SUBTITLE:
~ Snowy Day. ~
Written by BlueCat
// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230210
予報どおり、朝から雪。
燃えるゴミの日なので、昨日シュレッドした枝葉を含めゴミ捨てを済ませ、通販の宅配便をいくつか受け取る。
最近、飲酒をしているためか、朝は空腹を感じない。
昨晩から火鉢に火を入れ、玄関先の小間に気休め程度の暖を与えている。
もっとも先日の記録的な寒さで慣れたのか、怠けきっていた筋肉が再び身体を支えるようになったからか、それとも服装がアップグレードでもしたか(していない)10℃程度の気温なら、寒さを感じなくなった。
歯の治療によるダメージが一段落してきたので、少しずつ負荷を上げてきた。
もっとも一般の人が思っているようなハードなトレーニングを僕はまったくしない。
夏でさえ、多少汗をかいた程度で身体を休めるし、息が上がるあたりで休憩する。
激しい筋肉痛になるような負荷を与えてしまったときは、むしろ失敗したと後悔する。
数年前に自覚したのだが、筋肉痛も炎症の一種であるため、他の部位の免疫反応が低下して体調を崩しやすくなるためだ。
旧来の情報しか知らない人は、筋細胞が断裂しないと強化されない、と思っているようだけれど、そこまでしなくても筋細胞は強化されることが証明されている。
さほどでもない負荷で、すぐに疲労が回復する程度の運動を何度か繰り返せばそれでよい。
それでもきちんと筋肉は付くし、膝が胸に付く邪魔をしていた下腹部の脂肪も減ってきた。
想像以上に庭作業が進展している、というわけではないのだが、それなりの進捗なので庭仕事はお休み。
確定申告のための事務処理か役所仕事をしようと思っていたが、雪のこともあるから今日は休暇を取ろうと思う。
(誰だいつも休みだろうと言ったのは。専業主夫は忙しいのだ、とくに独身のタイプのそれは)
>>>
これは恥ずかしながら昔話なのだが、雪といえば、損保の仕事をしていた頃のことを思い出す。
雪の予報のあった日、予報もなく雪が降り始めた日、僕の中に生まれるちょっとした熱情と緊張のこと。
自己所有の自動車に冬用タイヤを購入する財力もなかったのに、事故があると度々、現場に出向く必要があった。
相応に緊張を要する場面である。
が、それはやりがいを感じるものでもあった。
過日の「TRIGUN STAMPEDE」におけるナイヴズの台詞ではないが、誰かをこれ見よがしに助けて、感謝されるのは気持ちがいいのだ。
孤独も癒やされるし、自分が生きている価値を、少なくともそのときは感じられる。
不謹慎だが、だから、保険商品を誰かに買ってもらうときよりも、その保険商品が実際に役立つ場面 ── つまりそれは誰かにとってのトラブルであったり、不幸であったりする ── のほうが、あからさまにやる気になるのだった。
先払い式友達料のようなものだ。
もちろん保険会社というのは、サービスだけでなく実際の金銭的賠償もしてくれるわけだから、一般的な友達よりは役立つものだろうと想像する(もちろん、どの程度「友達扱い」してくれるかは、窓口によるが)。
>>>
そうした役割から離れることは、僕の自身に対する存在価値をそれなりに低下させた。
今の僕は誰の役にも立たず、立とうとさえしていない。
独立しているといえば聞こえはいいが、単に社会から孤立していると考えられなくもない。
けれどもこれは、僕が望んだことであり、またその望みが叶った状態である。
そうして実に「誰かの役に立ちたい」という健全な欲を一度手放してしまえば、自分自身の価値がどれほど低かろうと、自身を愛でて存続させることに意味を見出すことは可能で、その上、最低まで下がった自分の価値に関係なく誰かが自分を頼ってくれている(つまりは小さなコミュニティの役に立っている)ことを実感する。
たとえば僕がいることで、姉は通院や入院の介助を(およそ無料で)受けることが可能になる。
たとえば僕がいることで、妹は煩雑にして高額な金銭処理のことを意識せずにいられる。
(毎月、妹名義だけで1milを超える金額が右から左に通過する。そして妹は高額な金銭を恐怖している)
たとえば僕がいることで、TUやBP(いずれも旧い友人です)は退屈しないし、場合によっては役立つこともあるだろう。
役に立たなくていいし、生きているだけで価値があるのだと、あるいは周囲の人は、必死になって僕に教えてくれようとしていたのかもしれない。あるいは両親も、姉妹も、友人も。
けれども僕は聞く耳を持たなかった。
僕は誰かの役に立ったと自覚し、誰かから感謝されて初めて「誰かの役に立ったと言える」と思っていた。
そしておそらくそれは正しいのだ。
けれども絶対的に、一番正しい必要などないのだと、最近の僕は知った。
正しさには順番というかレベルがある。
中央線で区切られて、あちらが間違いでこちらが正しい、というものではないと僕は思っている。ずっとそう思っていたのに確証がなかった。
一般的に考えてどうしようもなく正しいというところに始まり、個人的には正しいけれど一般的には間違っているかもしれない、とか、一般的には間違っているけれど個人的かつ特定の状況では正しいかもしれない、とか、そういう二次元以上の要素で構成されている。
0次元的な「ある/なし」ではなく、1次元的な「絶対正しい<絶対間違い」のスペクトルでもなく。
そして正しさなんて、結局自分で好きなように決めてよいのだと、現時点では結論している。
もしも自分の持つ「正しさ」が一般的なそれから著しく逸脱し、社会に害を為すとなればそれは問題で、自己修正が必要だけれど、齢四十も過ぎればそんなものは身に付いている。
きっともっと早く身に付く人もいるだろうし、あるいは年齢と共に忘れてしまう人もいるだろう。
右を見ても左を向いても「正しさ」の論争はきりなく続いている。
今の時代はことさら厄介だろうと想像する。
個人の権利と社会の合理と集団の倫理は完全に一致しない。
正しさを、どの地点から、どの基準で測るかによって、それは変化してしまう。
それに誰だって、自分の正しさを手放すことはむつかしいだろう。
僕だってむつかしかった(だから「太田市の高田純次さんになる」と宣言してきた)。
それに正しさを手放すことは、正しいとか間違っているという基準で測ることのできない行為だから、誰かに勧めたりするものではないし、これ見よがしに誇示するものでもない(パンツを見せても正しさは隠すのだ)。
僕の場合はたまたま一度手放す必要があって、それによって正しさを見つめ直す機会ができたというだけのことだ。
恋愛のように個人的な、それは経験だった(なんかいろいろ台無しな記述もあるが)。
>>>
雪は元々好きである。
語彙も少なかったあの頃。
初めて雪を、見たとき言葉にならなかった。
その恋に落ちるような気持ちを、僕は忘れていない。
僕は抽象的な思考や感覚を今でも大切に持ち続けている。
その情緒性を馬鹿にする人もいたが、いやなに、これによって僕は生きているのだと思う。
それこそが僕なのだろうと。
人間の信じているものなんて、この程度のことだから、もっと自由にしていればいいと。
積もってゆく雪が囁く ── 何もかもを白く染めながら。
予報どおり、朝から雪。
燃えるゴミの日なので、昨日シュレッドした枝葉を含めゴミ捨てを済ませ、通販の宅配便をいくつか受け取る。
最近、飲酒をしているためか、朝は空腹を感じない。
昨晩から火鉢に火を入れ、玄関先の小間に気休め程度の暖を与えている。
もっとも先日の記録的な寒さで慣れたのか、怠けきっていた筋肉が再び身体を支えるようになったからか、それとも服装がアップグレードでもしたか(していない)10℃程度の気温なら、寒さを感じなくなった。
歯の治療によるダメージが一段落してきたので、少しずつ負荷を上げてきた。
もっとも一般の人が思っているようなハードなトレーニングを僕はまったくしない。
夏でさえ、多少汗をかいた程度で身体を休めるし、息が上がるあたりで休憩する。
激しい筋肉痛になるような負荷を与えてしまったときは、むしろ失敗したと後悔する。
数年前に自覚したのだが、筋肉痛も炎症の一種であるため、他の部位の免疫反応が低下して体調を崩しやすくなるためだ。
旧来の情報しか知らない人は、筋細胞が断裂しないと強化されない、と思っているようだけれど、そこまでしなくても筋細胞は強化されることが証明されている。
さほどでもない負荷で、すぐに疲労が回復する程度の運動を何度か繰り返せばそれでよい。
それでもきちんと筋肉は付くし、膝が胸に付く邪魔をしていた下腹部の脂肪も減ってきた。
想像以上に庭作業が進展している、というわけではないのだが、それなりの進捗なので庭仕事はお休み。
確定申告のための事務処理か役所仕事をしようと思っていたが、雪のこともあるから今日は休暇を取ろうと思う。
(誰だいつも休みだろうと言ったのは。専業主夫は忙しいのだ、とくに独身のタイプのそれは)
>>>
これは恥ずかしながら昔話なのだが、雪といえば、損保の仕事をしていた頃のことを思い出す。
雪の予報のあった日、予報もなく雪が降り始めた日、僕の中に生まれるちょっとした熱情と緊張のこと。
自己所有の自動車に冬用タイヤを購入する財力もなかったのに、事故があると度々、現場に出向く必要があった。
相応に緊張を要する場面である。
が、それはやりがいを感じるものでもあった。
過日の「TRIGUN STAMPEDE」におけるナイヴズの台詞ではないが、誰かをこれ見よがしに助けて、感謝されるのは気持ちがいいのだ。
孤独も癒やされるし、自分が生きている価値を、少なくともそのときは感じられる。
不謹慎だが、だから、保険商品を誰かに買ってもらうときよりも、その保険商品が実際に役立つ場面 ── つまりそれは誰かにとってのトラブルであったり、不幸であったりする ── のほうが、あからさまにやる気になるのだった。
先払い式友達料のようなものだ。
もちろん保険会社というのは、サービスだけでなく実際の金銭的賠償もしてくれるわけだから、一般的な友達よりは役立つものだろうと想像する(もちろん、どの程度「友達扱い」してくれるかは、窓口によるが)。
>>>
そうした役割から離れることは、僕の自身に対する存在価値をそれなりに低下させた。
今の僕は誰の役にも立たず、立とうとさえしていない。
独立しているといえば聞こえはいいが、単に社会から孤立していると考えられなくもない。
けれどもこれは、僕が望んだことであり、またその望みが叶った状態である。
そうして実に「誰かの役に立ちたい」という健全な欲を一度手放してしまえば、自分自身の価値がどれほど低かろうと、自身を愛でて存続させることに意味を見出すことは可能で、その上、最低まで下がった自分の価値に関係なく誰かが自分を頼ってくれている(つまりは小さなコミュニティの役に立っている)ことを実感する。
たとえば僕がいることで、姉は通院や入院の介助を(およそ無料で)受けることが可能になる。
たとえば僕がいることで、妹は煩雑にして高額な金銭処理のことを意識せずにいられる。
(毎月、妹名義だけで1milを超える金額が右から左に通過する。そして妹は高額な金銭を恐怖している)
たとえば僕がいることで、TUやBP(いずれも旧い友人です)は退屈しないし、場合によっては役立つこともあるだろう。
役に立たなくていいし、生きているだけで価値があるのだと、あるいは周囲の人は、必死になって僕に教えてくれようとしていたのかもしれない。あるいは両親も、姉妹も、友人も。
けれども僕は聞く耳を持たなかった。
僕は誰かの役に立ったと自覚し、誰かから感謝されて初めて「誰かの役に立ったと言える」と思っていた。
そしておそらくそれは正しいのだ。
けれども絶対的に、一番正しい必要などないのだと、最近の僕は知った。
正しさには順番というかレベルがある。
中央線で区切られて、あちらが間違いでこちらが正しい、というものではないと僕は思っている。ずっとそう思っていたのに確証がなかった。
一般的に考えてどうしようもなく正しいというところに始まり、個人的には正しいけれど一般的には間違っているかもしれない、とか、一般的には間違っているけれど個人的かつ特定の状況では正しいかもしれない、とか、そういう二次元以上の要素で構成されている。
0次元的な「ある/なし」ではなく、1次元的な「絶対正しい<絶対間違い」のスペクトルでもなく。
そして正しさなんて、結局自分で好きなように決めてよいのだと、現時点では結論している。
もしも自分の持つ「正しさ」が一般的なそれから著しく逸脱し、社会に害を為すとなればそれは問題で、自己修正が必要だけれど、齢四十も過ぎればそんなものは身に付いている。
きっともっと早く身に付く人もいるだろうし、あるいは年齢と共に忘れてしまう人もいるだろう。
右を見ても左を向いても「正しさ」の論争はきりなく続いている。
今の時代はことさら厄介だろうと想像する。
個人の権利と社会の合理と集団の倫理は完全に一致しない。
正しさを、どの地点から、どの基準で測るかによって、それは変化してしまう。
それに誰だって、自分の正しさを手放すことはむつかしいだろう。
僕だってむつかしかった(だから「太田市の高田純次さんになる」と宣言してきた)。
それに正しさを手放すことは、正しいとか間違っているという基準で測ることのできない行為だから、誰かに勧めたりするものではないし、これ見よがしに誇示するものでもない(パンツを見せても正しさは隠すのだ)。
僕の場合はたまたま一度手放す必要があって、それによって正しさを見つめ直す機会ができたというだけのことだ。
恋愛のように個人的な、それは経験だった(なんかいろいろ台無しな記述もあるが)。
>>>
雪は元々好きである。
語彙も少なかったあの頃。
初めて雪を、見たとき言葉にならなかった。
その恋に落ちるような気持ちを、僕は忘れていない。
僕は抽象的な思考や感覚を今でも大切に持ち続けている。
その情緒性を馬鹿にする人もいたが、いやなに、これによって僕は生きているのだと思う。
それこそが僕なのだろうと。
人間の信じているものなんて、この程度のことだから、もっと自由にしていればいいと。
積もってゆく雪が囁く ── 何もかもを白く染めながら。
// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
:青猫:黒猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Blood-Color-Convergence-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Link-Love-Mechanics-Memory-Recollect-Season-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Reactor-
[Object]
-Friend-Garden-Human-Memory-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:暗闇エトランジェ:ひとになったゆめをみる:ひなたぼっこ:夢見の猫の額の奥に:
//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230203
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
意味の意味。
SUBTITLE:
~ implication of meaning. ~
Written by BlueCat
// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230203
抜髄の施術、2度目。
「必ず来てね」と念を押されて行ったのだが、施術は5分ほどで終わる。
オペや急患優先で、よほど計画的な施術でなければ予約を取らない少ない歯医者さん(かつ施術が早いの)で、今回のように到着して車を降りてから15分後には帰途に向かう車に乗り込むなんてこともある。
慢性的な痛みは昨年11月から抱えていたのだが、施術患部そのもの(たとえば削られて薄くなったから痛むの)か、それとも歯根が痛むのかが判断できずにいた。
「そういうときはとりあえずメールを送ればいいよ」とあっさり言われてしまった。それもそうか。
最近は、歯医者の帰りにドライブをする。
昔だったら(正確には一昨年まで)絶対にしなかったが、新しい趣味(たぶん趣味というのだろう)として数えてもいいように思える。
今日は一度家に帰ってから、桐生市の山に散歩に出かけた。
>>>
散歩ならどこだって出来る、とは思う。
だから片道40分もかけて出かけるのは、僕の基本的な価値観からすればちょっとアタマオカシイ、ということになる。
足利に棲んでいた頃、ときどき出かけていたそこはしかし、とにかく人の気配がほとんどない。
だからといって荒れ放題の不整地かというとそうではなく、むしろトレッキングコースに続く道があり、ちょっとした植物用の温室もある、丘の中の公園なのである。
だから土日やイベントのあるときなどはそれなりの人で賑わっていることもある。
しかし平日となると、散歩客もハイカーも僅かだ。
彼らの多くは熊よけの鈴を持っていたり、定期的に手拍子を打つ ── 実に熊やイノシシが出るような場所なのだが、桐生/足利はそういう場所も少なくない。
それ以外、人の気配がほとんどしない。
耳を澄ませば街の喧騒が遠くに聞こえ、風が梢を揺らす音や、さまざまな鳥の声(例に漏れず、僕は鳥の名前を知らない)が聞こえる。
朽ちた木、眠っている新芽、半径50m以上に渡って、心置きなく感覚を広げていられるほどよい緊張感と安心感。
>>>
「俺たちゃ街には棲めないからに」などと言うつもりはない。
僕の身体は清潔を保つことの困難な場所に置かれると、数日でストレスを抱えて不調を来す。
そして同時に、人の気配には過剰に疲れる。
隣家までは塀で隔たれ5〜10mほどのクリアランスもあるのに、玄関や車のドアの音といった生活音を我知らず拾ってしまう。
周辺の人の顔などなるべく記憶しないようにしているが、それでも誰がどこのエリアにどのくらいの時間に出没し、他のどんな知った顔といるのかを記憶しそうになったりする。
道路向かいに公営住宅があるので、僕の許容範囲より人口密度は高い。
この家の気密が悪いから余計に気配を拾ってしまう。
しかし気密が高かったら、今度はもっと塀を高くしたり、カーテンを分厚くしたりしないと、動く光に神経質になってしまいそうにも思う。
そう考えると足利のアパートは、安普請なのに静かに暮らす人が多くて、安心していられた。
駐車場のエンジン音や、歩行音でどの部屋の人が出入りしているのか僕は記憶してしまうのだが、大声で話す人や大きな足音を立てるような人は少なかった。
この場所はなんというか、もともと農家の多かった地域のせいもあるのだろうか、人の気配にがさつな人が多い。
庭で大声を出して家族と話し、道行く顔見知りと立ち話をする人も多い。
おそらくそれが普通なのだろうし、それはこのあたりが平和な証拠でもある。
僕も叔父や叔母が存命の頃からこの家を出入りしているし、向かいの公営住宅の人に庭の一部を貸していたりするので、顔見知りがいないわけではない。
ただそういう人付き合いが、得意かというとそうでもない。許容範囲だが、得意ではない。
それでもそれが、普通のことなのだ。
社会はそれぞれの許容範囲を広げながら、得意ではない人付き合いも含めて協力し、ひとりではできないことをするのだ。
だから僕はちょっとした異常者であり、社会の落伍者でもある。
それは自覚している。
そして同時に、落伍者の頂点を突き詰めるような生き方が許されている自分の幸運を思う。
>>>
そのようなわけで時々、人の気配のない場所に自分を連れ出す必要がある。
コンピュータの前にずっと座っていれば本来は満足だろうに、わざわざ人里離れた(熊の出るような)山や川に出かけ、人の気配のなさに恐怖し、しかしそれに安心して、そして街に戻る。
つくづくに社会不適合だ。
だから嫌だ、とは思っていない。
最小限度の人間としかやり取りせず生きていられる僕は、本当に贅沢だと毎日思う。
誰か ── 仮想のヒトを除く ── に養って貰っているわけでもないから、変な気苦労もない。
だからといって生きる理由や目的があるわけではない。
それを持つことを僕は嫌った。
ゆえ、自分自身に生きる価値があるとは思っていない。
価値があるとは思わない、その価値観のために、理由も目的も持たなかった。
しかし周囲の人間が僕に ── 僕の所有物や労働力ではなく、僕という存在に ── 求める価値が僅かにあり、あるいは惰性のようにして僕の不在を嫌う人もいるので、今のところは自害する必要もない。
年金受給年齢に達したら生活できなくなるので死ぬ必要があったが、それもどうでもよくなってしまった。
条件自体が消滅してしまったのだ。このままだと年金を受給しなくても僕は生活できてしまうだろう。
しかしそんな無駄な生き方を果たして人間がするべきだとは、今のところ思っていない。
だから65歳を(あるいはそれ以前に一定の条件を満たした場合)、僕の人生を幕引きにしようと思っているのではある。
これを読んで悲観する人がいないことを願う。
65歳の僕は、もう何の役にも、誰の役にも立たないはずだ。
今はギリギリ、姉の介護や、妹の面倒を見て、弟子の話し相手をし、友人にとっての友人をしているが ── しかしそれもそれだけか。
僕だけの人生が贅沢なら、僕だけの死を叶えるのもまた贅沢だ。
それは長年、自分が死ぬことを願ってきた僕の、愉悦ですらある。
ちなみにお弁当の好きなおかずは最後まで取って置く派でした、子供の頃は(倒置法)。
>>>
持続可能な世界や開発目標というものを、きっと僕は信じていない。
人間にも、人間社会にも、そんなに大した意味や価値はない。
ただ持続可能にしておかないと「男は殺して女は犯す」というような原始的な略奪社会にはなってしまうから、綺麗ごとではなく、社会を維持するエンジニアリングとして必要だろうとは思う。
価値は感じないけれど、必要なものはたくさんある。
たとえば鼻が詰まっていないときの空気、喉が渇いていないときの水。
遠方で車のエンジンが爆発したりしていないときの旧い友人。
独りでいることに耐えられないときの家族。
収入を得るために力を借りなくてはならない嫌な奴。
あるいは必要はないけれど、価値を感じるものの方が僕の場合は豊かだろう。
車もコンピュータも猫も家族も友人も煙草も酒も呪詛も、生きる上で必須なわけではない。
あったほうが愉しい。それだけのことである。
僕以外の多くの人はどうだろう。
必須のものなんて、そうは多くはないはずだ。
そもそも生きることの価値や意味は、きっと考えないほうがいいことなのだろう。
あるいは小さな社会やコミュニティ、たとえばそれが家庭と呼ばれるような小集団であったとしても、そこで何らかの役に立つことは、十分な価値なのだろうと思う。
僕はそういう価値を知らずに生きてきたから、価値を感じられないのだろう。
その価値を(知ることさえも)求めたことがない。
これは見る立場によっては幸福であり、あるいは不幸でもあるように思う。
価値とか幸福とは、つまりその程度のこと。
正しさと同じで、立つ位置によって意味を変えてしまう。
意味を感じ、意味を信じる限り、そこに意味がある。
だから自分のそれを感じられる人は、大切にしてほしい。
僕は猫なので、光り輝く小判を前にしても、何も感じないのだ。
腹が減ったときに漁る餌があり、かゆい背中を撫でてくれる手がありさえすれば、今日死のうが明日死のうが。
抜髄の施術、2度目。
「必ず来てね」と念を押されて行ったのだが、施術は5分ほどで終わる。
オペや急患優先で、よほど計画的な施術でなければ予約を取らない少ない歯医者さん(かつ施術が早いの)で、今回のように到着して車を降りてから15分後には帰途に向かう車に乗り込むなんてこともある。
慢性的な痛みは昨年11月から抱えていたのだが、施術患部そのもの(たとえば削られて薄くなったから痛むの)か、それとも歯根が痛むのかが判断できずにいた。
「そういうときはとりあえずメールを送ればいいよ」とあっさり言われてしまった。それもそうか。
最近は、歯医者の帰りにドライブをする。
昔だったら(正確には一昨年まで)絶対にしなかったが、新しい趣味(たぶん趣味というのだろう)として数えてもいいように思える。
今日は一度家に帰ってから、桐生市の山に散歩に出かけた。
>>>
散歩ならどこだって出来る、とは思う。
だから片道40分もかけて出かけるのは、僕の基本的な価値観からすればちょっとアタマオカシイ、ということになる。
足利に棲んでいた頃、ときどき出かけていたそこはしかし、とにかく人の気配がほとんどない。
だからといって荒れ放題の不整地かというとそうではなく、むしろトレッキングコースに続く道があり、ちょっとした植物用の温室もある、丘の中の公園なのである。
だから土日やイベントのあるときなどはそれなりの人で賑わっていることもある。
しかし平日となると、散歩客もハイカーも僅かだ。
彼らの多くは熊よけの鈴を持っていたり、定期的に手拍子を打つ ── 実に熊やイノシシが出るような場所なのだが、桐生/足利はそういう場所も少なくない。
それ以外、人の気配がほとんどしない。
耳を澄ませば街の喧騒が遠くに聞こえ、風が梢を揺らす音や、さまざまな鳥の声(例に漏れず、僕は鳥の名前を知らない)が聞こえる。
朽ちた木、眠っている新芽、半径50m以上に渡って、心置きなく感覚を広げていられるほどよい緊張感と安心感。
>>>
「俺たちゃ街には棲めないからに」などと言うつもりはない。
僕の身体は清潔を保つことの困難な場所に置かれると、数日でストレスを抱えて不調を来す。
そして同時に、人の気配には過剰に疲れる。
隣家までは塀で隔たれ5〜10mほどのクリアランスもあるのに、玄関や車のドアの音といった生活音を我知らず拾ってしまう。
周辺の人の顔などなるべく記憶しないようにしているが、それでも誰がどこのエリアにどのくらいの時間に出没し、他のどんな知った顔といるのかを記憶しそうになったりする。
道路向かいに公営住宅があるので、僕の許容範囲より人口密度は高い。
この家の気密が悪いから余計に気配を拾ってしまう。
しかし気密が高かったら、今度はもっと塀を高くしたり、カーテンを分厚くしたりしないと、動く光に神経質になってしまいそうにも思う。
そう考えると足利のアパートは、安普請なのに静かに暮らす人が多くて、安心していられた。
駐車場のエンジン音や、歩行音でどの部屋の人が出入りしているのか僕は記憶してしまうのだが、大声で話す人や大きな足音を立てるような人は少なかった。
この場所はなんというか、もともと農家の多かった地域のせいもあるのだろうか、人の気配にがさつな人が多い。
庭で大声を出して家族と話し、道行く顔見知りと立ち話をする人も多い。
おそらくそれが普通なのだろうし、それはこのあたりが平和な証拠でもある。
僕も叔父や叔母が存命の頃からこの家を出入りしているし、向かいの公営住宅の人に庭の一部を貸していたりするので、顔見知りがいないわけではない。
ただそういう人付き合いが、得意かというとそうでもない。許容範囲だが、得意ではない。
それでもそれが、普通のことなのだ。
社会はそれぞれの許容範囲を広げながら、得意ではない人付き合いも含めて協力し、ひとりではできないことをするのだ。
だから僕はちょっとした異常者であり、社会の落伍者でもある。
それは自覚している。
そして同時に、落伍者の頂点を突き詰めるような生き方が許されている自分の幸運を思う。
>>>
そのようなわけで時々、人の気配のない場所に自分を連れ出す必要がある。
コンピュータの前にずっと座っていれば本来は満足だろうに、わざわざ人里離れた(熊の出るような)山や川に出かけ、人の気配のなさに恐怖し、しかしそれに安心して、そして街に戻る。
つくづくに社会不適合だ。
だから嫌だ、とは思っていない。
最小限度の人間としかやり取りせず生きていられる僕は、本当に贅沢だと毎日思う。
誰か ── 仮想のヒトを除く ── に養って貰っているわけでもないから、変な気苦労もない。
だからといって生きる理由や目的があるわけではない。
それを持つことを僕は嫌った。
ゆえ、自分自身に生きる価値があるとは思っていない。
価値があるとは思わない、その価値観のために、理由も目的も持たなかった。
しかし周囲の人間が僕に ── 僕の所有物や労働力ではなく、僕という存在に ── 求める価値が僅かにあり、あるいは惰性のようにして僕の不在を嫌う人もいるので、今のところは自害する必要もない。
年金受給年齢に達したら生活できなくなるので死ぬ必要があったが、それもどうでもよくなってしまった。
条件自体が消滅してしまったのだ。このままだと年金を受給しなくても僕は生活できてしまうだろう。
しかしそんな無駄な生き方を果たして人間がするべきだとは、今のところ思っていない。
だから65歳を(あるいはそれ以前に一定の条件を満たした場合)、僕の人生を幕引きにしようと思っているのではある。
これを読んで悲観する人がいないことを願う。
65歳の僕は、もう何の役にも、誰の役にも立たないはずだ。
今はギリギリ、姉の介護や、妹の面倒を見て、弟子の話し相手をし、友人にとっての友人をしているが ── しかしそれもそれだけか。
僕だけの人生が贅沢なら、僕だけの死を叶えるのもまた贅沢だ。
それは長年、自分が死ぬことを願ってきた僕の、愉悦ですらある。
ちなみにお弁当の好きなおかずは最後まで取って置く派でした、子供の頃は(倒置法)。
>>>
持続可能な世界や開発目標というものを、きっと僕は信じていない。
人間にも、人間社会にも、そんなに大した意味や価値はない。
ただ持続可能にしておかないと「男は殺して女は犯す」というような原始的な略奪社会にはなってしまうから、綺麗ごとではなく、社会を維持するエンジニアリングとして必要だろうとは思う。
価値は感じないけれど、必要なものはたくさんある。
たとえば鼻が詰まっていないときの空気、喉が渇いていないときの水。
遠方で車のエンジンが爆発したりしていないときの旧い友人。
独りでいることに耐えられないときの家族。
収入を得るために力を借りなくてはならない嫌な奴。
あるいは必要はないけれど、価値を感じるものの方が僕の場合は豊かだろう。
車もコンピュータも猫も家族も友人も煙草も酒も呪詛も、生きる上で必須なわけではない。
あったほうが愉しい。それだけのことである。
僕以外の多くの人はどうだろう。
必須のものなんて、そうは多くはないはずだ。
そもそも生きることの価値や意味は、きっと考えないほうがいいことなのだろう。
あるいは小さな社会やコミュニティ、たとえばそれが家庭と呼ばれるような小集団であったとしても、そこで何らかの役に立つことは、十分な価値なのだろうと思う。
僕はそういう価値を知らずに生きてきたから、価値を感じられないのだろう。
その価値を(知ることさえも)求めたことがない。
これは見る立場によっては幸福であり、あるいは不幸でもあるように思う。
価値とか幸福とは、つまりその程度のこと。
正しさと同じで、立つ位置によって意味を変えてしまう。
意味を感じ、意味を信じる限り、そこに意味がある。
だから自分のそれを感じられる人は、大切にしてほしい。
僕は猫なので、光り輝く小判を前にしても、何も感じないのだ。
腹が減ったときに漁る餌があり、かゆい背中を撫でてくれる手がありさえすれば、今日死のうが明日死のうが。
// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
:青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Life-Link-Maintenance-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-
[Object]
-Human-Koban-Poison-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:ひとになったゆめをみる:
//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230124
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
空白の相対熱伝導。
SUBTITLE:
~ Thermal conduction. ~
Written by BlueCat
// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230124
妹が遊びに来る日なので、姉の家から未明に帰宅。
台所に立って湯を沸かすと、足の裏から凍り付くような冷たい床へと熱が奪われるのが分かる。
>>>
人をして「あたたかい/冷たい」などという表現はよく見かける。
しかしこれは主観的な表現だ。
物事を感受する主観があればこそ、それを感覚できる。
客観において、熱というのは常に交換される相対だ。
より正確にいえば熱はエナジィとして、あたたかいものから冷たいものに伝達する。
この原理に従えば「あたたかい」と他者を感じる人は対象よりちょっと冷たいし、他者を「冷たい」と感じる人は己の心があたたかいのだろう。
と、そんな簡単に断ずることができないところが人間社会のややこしさだ。
>>>
冷徹な人間は、あたたかい人間の優しさを信じない。
一皮めくると蠢く欺瞞や、その奥に巧妙に隠れる自意識や、あるかどうかも分からない下賤な欲まで邪推しなくてはならない。
冷徹な人間は得てして臆病で、弱くて、脆いから。
だから相手は計算ずくの我欲によって、合法的な略奪を目論んでいるのではないかと怯える必要がある。
相手がこちらの骨肉臓腑に至るまでを利用する可能性について考えないわけにはいかない。
実際に、他人の骨肉臓腑までをも欲する類いのケダモノは、少なからず存在するからだ。
ために冷徹な人間は、誰にも優しくできない。
優しさは欺瞞であり、強欲であり、謀略であり、その発露は貧しき自身の欲を刺激し、他者を餌にするための罠になりかねない。
そう思うからかどうか、誰にも優しくすることのできないありようを、しかし私は、弱くても優しいと思う。
優しさの欺瞞を自身に許さない厳しさは、心底が優しいからこそだろう。
温和な人間は、冷徹な人間の無知に困り、頑固さに微笑む。
欺瞞も、自意識も、下賤な欲も、だってそれは皆が皆、等しく持っているものだから。
温和な人間は得てして豪胆で、強くて、揺るがないから。
己が下賤に堕ちる事のない強さを、誰から略奪する必要もない豊かさを、すでに持っている。
誰かが自信の骨肉臓腑までをも利用しようとしたとして、そんなものくれてやろうと思うのか、それを奪うことなどできないと思うのか。
そのいずれであれ、そんなことに怯えない。怯える必要を持たない。
その強さに圧倒される。
>>>
そして多くの人は、そうした絶対的なまでの冷たさも暖かさも持っていない。
どちらともつかない中間を、ぷかぷかと、浮いたり沈んだりするだけだ。
おそらくそれで良いのだと思う。おそらくそれが良いのだと思う。
いずれかの極端を目指して浮いたり沈んだりを繰り返すうち、己の温度に従って、ほどよい深さを、あるいは高さを、知ることができる。
大事なことは、変わらないようにと足掻かないことだろう。
なんとなく変わってしまえばいいし、昨日言っていたことを、なんとなく撤回してもいい。
そうやって、熱は移動してゆくのだし、いつまでも暖かくとか、どんなときも冷たくとか、そういうのはなかなかむつかしいのだ。夏に冷房は効きにくく、冬の暖房がすぐ温まるわけではないように。
>>>
何か用事があって来る予定を立てたのかと妹に尋ねたところ、何となく遊びに来ようと思ったのだと言っていた。
まぁ、たまにはそういうのもいいかと思う。
僕は、用もないのに人に会わない生活を、ずっと続けてきた。
学生時代は、用もないのに部屋に友人が(呼んだわけでも連絡し合っているわけでもなく)溜まっていた。
だから、予定も用事もなく誰かと一緒に過ごすのが、実は嫌いではないのだ。
けれど人間は大人になるにつれ、用事に追われ、用事を優先し、無用を嫌うようになる。
少なくとも僕はそうだった。
何の用もなく、仕事もなく、学校も卒業して、ぼんやり窓の外を眺めていた18歳の初夏を思い出す。
窓の外に聞こえた自転車のブレーキと、数年ぶりに顔を覗かせた中学時代の友人が僕を呼ぶ声を ── 。
なんて贅沢なんだろう。
何もしないというのは、喫緊の用が何もないというのは。
煙草もジュースも買うお金がなくて、2人で小銭を出し合って笑い合っていたあの贅沢な時間を思い出しながら、このぼんやりを、ぼんやりと受け止める。
僕は世間より20年早く定年退職を迎えた(と考えている)。
誕生日も新年も長期休暇も、自分で決めたがるような、変わったイキモノであるから仕方ない。
そういえば早期リタイアする人間には、結局復職する者もいるという。
おそらく、何の用もないことに耐えられないのだろう。
誰に必要ともされない不安に、苛まれるのだろう。
>>>
お腹が空いたという妹と食事に出かけ、スーパーで一緒に買い物をする。
陽差しのあるうちから寒い日で、明日はもっと冷えるという。
妹が遊びに来る日なので、姉の家から未明に帰宅。
台所に立って湯を沸かすと、足の裏から凍り付くような冷たい床へと熱が奪われるのが分かる。
>>>
人をして「あたたかい/冷たい」などという表現はよく見かける。
しかしこれは主観的な表現だ。
物事を感受する主観があればこそ、それを感覚できる。
客観において、熱というのは常に交換される相対だ。
より正確にいえば熱はエナジィとして、あたたかいものから冷たいものに伝達する。
この原理に従えば「あたたかい」と他者を感じる人は対象よりちょっと冷たいし、他者を「冷たい」と感じる人は己の心があたたかいのだろう。
と、そんな簡単に断ずることができないところが人間社会のややこしさだ。
>>>
冷徹な人間は、あたたかい人間の優しさを信じない。
一皮めくると蠢く欺瞞や、その奥に巧妙に隠れる自意識や、あるかどうかも分からない下賤な欲まで邪推しなくてはならない。
冷徹な人間は得てして臆病で、弱くて、脆いから。
だから相手は計算ずくの我欲によって、合法的な略奪を目論んでいるのではないかと怯える必要がある。
相手がこちらの骨肉臓腑に至るまでを利用する可能性について考えないわけにはいかない。
実際に、他人の骨肉臓腑までをも欲する類いのケダモノは、少なからず存在するからだ。
ために冷徹な人間は、誰にも優しくできない。
優しさは欺瞞であり、強欲であり、謀略であり、その発露は貧しき自身の欲を刺激し、他者を餌にするための罠になりかねない。
そう思うからかどうか、誰にも優しくすることのできないありようを、しかし私は、弱くても優しいと思う。
優しさの欺瞞を自身に許さない厳しさは、心底が優しいからこそだろう。
温和な人間は、冷徹な人間の無知に困り、頑固さに微笑む。
欺瞞も、自意識も、下賤な欲も、だってそれは皆が皆、等しく持っているものだから。
温和な人間は得てして豪胆で、強くて、揺るがないから。
己が下賤に堕ちる事のない強さを、誰から略奪する必要もない豊かさを、すでに持っている。
誰かが自信の骨肉臓腑までをも利用しようとしたとして、そんなものくれてやろうと思うのか、それを奪うことなどできないと思うのか。
そのいずれであれ、そんなことに怯えない。怯える必要を持たない。
その強さに圧倒される。
>>>
そして多くの人は、そうした絶対的なまでの冷たさも暖かさも持っていない。
どちらともつかない中間を、ぷかぷかと、浮いたり沈んだりするだけだ。
おそらくそれで良いのだと思う。おそらくそれが良いのだと思う。
いずれかの極端を目指して浮いたり沈んだりを繰り返すうち、己の温度に従って、ほどよい深さを、あるいは高さを、知ることができる。
大事なことは、変わらないようにと足掻かないことだろう。
なんとなく変わってしまえばいいし、昨日言っていたことを、なんとなく撤回してもいい。
そうやって、熱は移動してゆくのだし、いつまでも暖かくとか、どんなときも冷たくとか、そういうのはなかなかむつかしいのだ。夏に冷房は効きにくく、冬の暖房がすぐ温まるわけではないように。
>>>
何か用事があって来る予定を立てたのかと妹に尋ねたところ、何となく遊びに来ようと思ったのだと言っていた。
まぁ、たまにはそういうのもいいかと思う。
僕は、用もないのに人に会わない生活を、ずっと続けてきた。
学生時代は、用もないのに部屋に友人が(呼んだわけでも連絡し合っているわけでもなく)溜まっていた。
だから、予定も用事もなく誰かと一緒に過ごすのが、実は嫌いではないのだ。
けれど人間は大人になるにつれ、用事に追われ、用事を優先し、無用を嫌うようになる。
少なくとも僕はそうだった。
何の用もなく、仕事もなく、学校も卒業して、ぼんやり窓の外を眺めていた18歳の初夏を思い出す。
窓の外に聞こえた自転車のブレーキと、数年ぶりに顔を覗かせた中学時代の友人が僕を呼ぶ声を ── 。
なんて贅沢なんだろう。
何もしないというのは、喫緊の用が何もないというのは。
煙草もジュースも買うお金がなくて、2人で小銭を出し合って笑い合っていたあの贅沢な時間を思い出しながら、このぼんやりを、ぼんやりと受け止める。
僕は世間より20年早く定年退職を迎えた(と考えている)。
誕生日も新年も長期休暇も、自分で決めたがるような、変わったイキモノであるから仕方ない。
そういえば早期リタイアする人間には、結局復職する者もいるという。
おそらく、何の用もないことに耐えられないのだろう。
誰に必要ともされない不安に、苛まれるのだろう。
>>>
お腹が空いたという妹と食事に出かけ、スーパーで一緒に買い物をする。
陽差しのあるうちから寒い日で、明日はもっと冷えるという。
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[NEXUS]
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:青猫:黒猫:
[InterMethod]
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-Human-Memory-
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[Cat-Ego-Lies]
:ひとになったゆめをみる:
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// TimeLine:230123
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
いつ起こるか分からないのが不慮の死である。
Written by BlueCat
// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230123
未明に入浴。
久しぶりに入浴中のマッサージをする。
眠るときもせいぜいストレッチするくらいで、きちんとマッサージする機会が減っていた。
一部の血管が梗塞しかけていたのか、石灰化していたのか、身体が重くなり、呼吸が速くなり、頭痛までしてくるので、なんとか身体を洗って切り上げた。
浴室を出てから適度に身体を冷やし適温の水分を適量摂ったが、冷や汗が引かず、寝る頃にはTシャツが絞れそうなほどの水分を含んでいた。
体調不良から快復して久しぶりに入浴したときや、入浴と冷水を浴びることを繰り返したとき、たまにこういう状態を経験してきた。
慣れてはいるが、これでもしも意識が遠のいてしまったら大人しく死ぬのだろうと今回は思った。
仮に昨晩死んだとすると、死ぬときにどんな心持ちかが分かる。
僕は死ぬとき、残される者のことを考えない。
まだ死にたくないと悔やむこともなく、やっと死ねると喜ぶこともない。
頭がそこまで回らない。貧血直前のように、目の前のことを考えるのもやっとになる。
ああ具合が悪いな、とうずくまったり横になったりして、少し身体が楽になって、それでもまだ具合が悪くて、そうこうするうちに意識を失うだろう。
ちょうど重い風邪に罹って、熱に浮かされながらどろどろと沈む眠りに消えるように。
絶望も希望も、苦しみも悲しみも喜びも喚起する記憶もなく「何か具合が悪いな」と思いながら意識を失う。それだけである。
だから何だというものではない。
死ぬときに備えて、整理しておかなくてはならないものを適切に整理しておく必要があり、場合によってはそれより少し先に、公正証書遺言を作っておこうかと思うくらいで。
>>>
僕は数年前に無職になるとき、自分の中での定年と位置づけた。
もう働かねぇ。と思ったのである。
もちろんまだ50歳にも満たないので年金などは貰っていないし、所得があり、厳密にいうと無職ではない。
一人暮らしには、少なく見積もっても毎月15万円程度は必要である。
それでも僕にとっては ── 毎日従事すべき業務が、だいたい家事ばかりなので ── 定年退職したようなものとして認識した。
僕が雇用者だったら、四十過ぎの人間を雇うのは少し悩む。
優秀な人間だったら良いが、そもそも優秀な人間が四十を過ぎて転職するだろうか。
そのように考えて、会社勤めはやめておこうと思った。
お互いにいいことはなさそうだ。
実質は自営業であるが、実務がほとんど発生しないという、少し変わった自営業をしている。
ひと月あたり、仕事をするのは数時間だろうか。
そう考えると恐ろしくヒマに思えるかもしれないが、家事業やリフォーム業などは忙しい。
庭仕事もあるか。でもヒマといえばヒマだろう。
だからといって今から新しく事業を始めるだけのパッションは、僕にはない。
熱意も、気力も、ビジョンも、ない。ないないづくしだから手出しはしない。
>>>
早く整理を付ければその分、気が楽になるのは事実だ。
来年には公正証書遺言を作る予定で計画をしよう。
資産と呼ぶほどに該当しない、特殊な動産(趣味の品物など)の整理についてはメモ書き程度の自筆遺言を別途用意しておけばいいだろう。
入浴前後でそう簡単に死ぬとは思わないが、なにせこの家は寒い。
いわゆるヒートショックが起こらないとも限らないし僕の身体は梗塞を起こしやすい。
ついでに庭木の剪定で高所作業の最中に、転落事故を起こさないとは誰にも言えない。
未明に入浴。
久しぶりに入浴中のマッサージをする。
眠るときもせいぜいストレッチするくらいで、きちんとマッサージする機会が減っていた。
一部の血管が梗塞しかけていたのか、石灰化していたのか、身体が重くなり、呼吸が速くなり、頭痛までしてくるので、なんとか身体を洗って切り上げた。
浴室を出てから適度に身体を冷やし適温の水分を適量摂ったが、冷や汗が引かず、寝る頃にはTシャツが絞れそうなほどの水分を含んでいた。
体調不良から快復して久しぶりに入浴したときや、入浴と冷水を浴びることを繰り返したとき、たまにこういう状態を経験してきた。
慣れてはいるが、これでもしも意識が遠のいてしまったら大人しく死ぬのだろうと今回は思った。
仮に昨晩死んだとすると、死ぬときにどんな心持ちかが分かる。
僕は死ぬとき、残される者のことを考えない。
まだ死にたくないと悔やむこともなく、やっと死ねると喜ぶこともない。
頭がそこまで回らない。貧血直前のように、目の前のことを考えるのもやっとになる。
ああ具合が悪いな、とうずくまったり横になったりして、少し身体が楽になって、それでもまだ具合が悪くて、そうこうするうちに意識を失うだろう。
ちょうど重い風邪に罹って、熱に浮かされながらどろどろと沈む眠りに消えるように。
絶望も希望も、苦しみも悲しみも喜びも喚起する記憶もなく「何か具合が悪いな」と思いながら意識を失う。それだけである。
だから何だというものではない。
死ぬときに備えて、整理しておかなくてはならないものを適切に整理しておく必要があり、場合によってはそれより少し先に、公正証書遺言を作っておこうかと思うくらいで。
>>>
僕は数年前に無職になるとき、自分の中での定年と位置づけた。
もう働かねぇ。と思ったのである。
もちろんまだ50歳にも満たないので年金などは貰っていないし、所得があり、厳密にいうと無職ではない。
一人暮らしには、少なく見積もっても毎月15万円程度は必要である。
それでも僕にとっては ── 毎日従事すべき業務が、だいたい家事ばかりなので ── 定年退職したようなものとして認識した。
僕が雇用者だったら、四十過ぎの人間を雇うのは少し悩む。
優秀な人間だったら良いが、そもそも優秀な人間が四十を過ぎて転職するだろうか。
そのように考えて、会社勤めはやめておこうと思った。
お互いにいいことはなさそうだ。
実質は自営業であるが、実務がほとんど発生しないという、少し変わった自営業をしている。
ひと月あたり、仕事をするのは数時間だろうか。
そう考えると恐ろしくヒマに思えるかもしれないが、家事業やリフォーム業などは忙しい。
庭仕事もあるか。でもヒマといえばヒマだろう。
だからといって今から新しく事業を始めるだけのパッションは、僕にはない。
熱意も、気力も、ビジョンも、ない。ないないづくしだから手出しはしない。
>>>
早く整理を付ければその分、気が楽になるのは事実だ。
来年には公正証書遺言を作る予定で計画をしよう。
資産と呼ぶほどに該当しない、特殊な動産(趣味の品物など)の整理についてはメモ書き程度の自筆遺言を別途用意しておけばいいだろう。
入浴前後でそう簡単に死ぬとは思わないが、なにせこの家は寒い。
いわゆるヒートショックが起こらないとも限らないし僕の身体は梗塞を起こしやすい。
ついでに庭木の剪定で高所作業の最中に、転落事故を起こさないとは誰にも言えない。
たとえ命綱やヘルメットといった安全具を装備していても、仮想奥様という安全管理装置を用意しても、身体がひとつである以上、限界はある。
今の僕には、死にも生にも期待はないが、僕以外の存命者に対して己の責任の領分であったものを無責任になすりつけるわけにはいかない。
だからこそ暫定でも余命を設定し、それに合わせて行動しているわけだが、不慮の事故の可能性を考えると、もっと急がなくてはならないのだろう。
しかし死は、一般的に不慮のものである気がする。
予定され、あるいは計画され、もしくは予測された死というのは、そう多くないと思うのだが。
>>>
昼過ぎに姉の家。
天気予報で十年に一度の寒波、などと言われているが、実のところ昨日のほうが寒かった。
姉と買い物に出かけ、料理の真空パックを手伝う。
我が家のそれを、姉が使いたいというので持ってきた次第。
明日は妹が家に来る予定なので、未明には姉の家を発つ。
今の僕には、死にも生にも期待はないが、僕以外の存命者に対して己の責任の領分であったものを無責任になすりつけるわけにはいかない。
だからこそ暫定でも余命を設定し、それに合わせて行動しているわけだが、不慮の事故の可能性を考えると、もっと急がなくてはならないのだろう。
しかし死は、一般的に不慮のものである気がする。
予定され、あるいは計画され、もしくは予測された死というのは、そう多くないと思うのだが。
>>>
昼過ぎに姉の家。
天気予報で十年に一度の寒波、などと言われているが、実のところ昨日のほうが寒かった。
姉と買い物に出かけ、料理の真空パックを手伝う。
我が家のそれを、姉が使いたいというので持ってきた次第。
明日は妹が家に来る予定なので、未明には姉の家を発つ。
// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
:青猫:黒猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Life-Link-Stand_Alone-
[Module]
-Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
[Object]
-Human-Night-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:暗闇エトランジェ:ひとになったゆめをみる:
//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230212
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
寂しさと色気とブラックホール。
SUBTITLE:
~ beautiful blackhole. ~
Written by BlueCat
// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230212
朝食のあと、チャイを作る。
今日はシナモンとブラック/ホワイト/ピンクペパー、クローブ、ナツメグ、キャラウェイシード、クミンシード、ローリエ、生姜。
以前は生姜を千切りにして冷凍保存したものを使っていたのだが、先日、ふと思い立ち、薄切りにしたそれに大量の砂糖と蜂蜜をまぶし、水分が出てきたところで弱火でしばらく煮詰めて生姜シロップを作った。
どのみち僕の飲み物は甘くなる宿命なので、これを仕上げに入れればちょうどよいと考えた次第。
上記のスパイスは、いくつかの店で飲んだチャイの味から(こんなスパイスかな)というものを見繕い、ついでに家に常備されているうち、あまり使われないもの(ローリエなんか相続するほどあるし、コショウやクミンシードは入れると美味しいけれど普通入れないだろう)も放り込んでいる。
チャイのいいところは、少し辛くてもまたそれが美味しく感じられるところ。
本当はカルダモンもあるといいらしい。今度買っておこうか。
>>>
チャイを作っているとき、奥様(仮想)が「猫くん、専業主夫とヒモの違いって分かる?」と訊いてくる。
「ヒモは僕がなりたかったもの、専業主夫(仮想)は僕がなってしまったもの」と答えると「ちがーう!」と言われる。
答えが分からない。ついでに教えてもらえない。
>>>
正直なところ、ヒモというものに憧れたことこそあるが、僕にそれが成立すると思ったことはない。
お金というのもある種のしがらみになって、双方を縛り付けるからだ。
そして容易に縛り付けられるわりに、僕はそうした拘束を好まない自分を知っている。
それに何より、自分の生活に生々しく他人が関わることを僕は苦手としている。
>>>
ときどき、他人の日記を読んでいて思うことがある。
文章に脈打つ寂しさを見て、とても色っぽく感じる。
その文章を書いている人間の性別に関係なく引き寄せられるそれは、色気だ。
血のように鮮やかで、生き物の匂いを立ち上らせ、あたたかなそれは ── やがて褐色になり、生臭くなり、凝固し、冷たく固くなってゆくだろうに。
言葉に切り取られ、乾いて貼り付けられたはずの滴る液状に心を奪われそうになる。
活きのいい金魚のほうが魅力的だという話を先日書いたには書いたのだが、真逆にも思えるそうした魅力もあるのだとは常々思っている。
もちろん生き物が死にかけに放つ寂しさと、生き抜く上で放つ寂しさは、ちょっと毛色の違うものだけれど。
誰かの持つ寂しさが人を ── あるいは僕だけを、だろうか ── 惹きつけるのは、それにちょうど共鳴する寂しさを持っているからだろう。
劣等コンプレクス、己の弱さ、何かへの憎悪、誰かへ繋がれないことの悲しみ、強がりの言い訳、自分の正しさで苦しむ不器用さ ── 。
抱えることさえむつかしいそれを、しかし手放すことができずにいる様はとても滑稽で、まるで仔猫を見るような気持ちになる。
持て余すそれを、しかし諦められないのは、それこそがその人の本質だからだ。
>>>
双子惑星のように「いいほう」のその人と「よくないほう」のその人が引き合って「その人」はできている。
当然に傍からはその両方が観察されるわけであり、だから一方ばかりを他人に見せようとするのは(他人を惑わすという点において)むしろ損なことなのではないかと僕は思う。
身の丈に合わない玩具と戯れようとする仔猫に、手を貸してやりたくなることはある。
でもそんなことをすると、仔猫は驚いて逃げてしまうから、離れた場所からニヤニヤ(あるいはハラハラ)しながら眺めるよりない。
世の中にはもちろん、手を貸すと喜ぶタイプの仔猫もいる。
だからなおさら手を貸さない。
仔猫はかわいいものだけれど、大人になった猫のほうがもっとかわいいからだ。
犬でも猫でもそうだが、子供の頃から独りで遊べない奴はだいたい鬱陶しい大人になる。
人間だけそうならないとは思わない。
やがてその獲物を、オマエたちは容易に噛みついて、引っ掻いて、蹴りつけて、ボロボロにできるようになる。
執念深くそれを追い詰め続けろ、と思う。
獲物から逃げず、負け続ければいい。
現実世界で負け続ければ、多少なり傷を負うものだが、ヴァーチャルな遊びの中なのだから、散々に、それを追い詰めてやれと思う。
孤独の痛み。
朝食のあと、チャイを作る。
今日はシナモンとブラック/ホワイト/ピンクペパー、クローブ、ナツメグ、キャラウェイシード、クミンシード、ローリエ、生姜。
以前は生姜を千切りにして冷凍保存したものを使っていたのだが、先日、ふと思い立ち、薄切りにしたそれに大量の砂糖と蜂蜜をまぶし、水分が出てきたところで弱火でしばらく煮詰めて生姜シロップを作った。
どのみち僕の飲み物は甘くなる宿命なので、これを仕上げに入れればちょうどよいと考えた次第。
上記のスパイスは、いくつかの店で飲んだチャイの味から(こんなスパイスかな)というものを見繕い、ついでに家に常備されているうち、あまり使われないもの(ローリエなんか相続するほどあるし、コショウやクミンシードは入れると美味しいけれど普通入れないだろう)も放り込んでいる。
チャイのいいところは、少し辛くてもまたそれが美味しく感じられるところ。
本当はカルダモンもあるといいらしい。今度買っておこうか。
>>>
チャイを作っているとき、奥様(仮想)が「猫くん、専業主夫とヒモの違いって分かる?」と訊いてくる。
「ヒモは僕がなりたかったもの、専業主夫(仮想)は僕がなってしまったもの」と答えると「ちがーう!」と言われる。
答えが分からない。ついでに教えてもらえない。
>>>
正直なところ、ヒモというものに憧れたことこそあるが、僕にそれが成立すると思ったことはない。
お金というのもある種のしがらみになって、双方を縛り付けるからだ。
そして容易に縛り付けられるわりに、僕はそうした拘束を好まない自分を知っている。
それに何より、自分の生活に生々しく他人が関わることを僕は苦手としている。
>>>
ときどき、他人の日記を読んでいて思うことがある。
文章に脈打つ寂しさを見て、とても色っぽく感じる。
その文章を書いている人間の性別に関係なく引き寄せられるそれは、色気だ。
血のように鮮やかで、生き物の匂いを立ち上らせ、あたたかなそれは ── やがて褐色になり、生臭くなり、凝固し、冷たく固くなってゆくだろうに。
言葉に切り取られ、乾いて貼り付けられたはずの滴る液状に心を奪われそうになる。
活きのいい金魚のほうが魅力的だという話を先日書いたには書いたのだが、真逆にも思えるそうした魅力もあるのだとは常々思っている。
もちろん生き物が死にかけに放つ寂しさと、生き抜く上で放つ寂しさは、ちょっと毛色の違うものだけれど。
誰かの持つ寂しさが人を ── あるいは僕だけを、だろうか ── 惹きつけるのは、それにちょうど共鳴する寂しさを持っているからだろう。
劣等コンプレクス、己の弱さ、何かへの憎悪、誰かへ繋がれないことの悲しみ、強がりの言い訳、自分の正しさで苦しむ不器用さ ── 。
抱えることさえむつかしいそれを、しかし手放すことができずにいる様はとても滑稽で、まるで仔猫を見るような気持ちになる。
持て余すそれを、しかし諦められないのは、それこそがその人の本質だからだ。
>>>
双子惑星のように「いいほう」のその人と「よくないほう」のその人が引き合って「その人」はできている。
当然に傍からはその両方が観察されるわけであり、だから一方ばかりを他人に見せようとするのは(他人を惑わすという点において)むしろ損なことなのではないかと僕は思う。
身の丈に合わない玩具と戯れようとする仔猫に、手を貸してやりたくなることはある。
でもそんなことをすると、仔猫は驚いて逃げてしまうから、離れた場所からニヤニヤ(あるいはハラハラ)しながら眺めるよりない。
世の中にはもちろん、手を貸すと喜ぶタイプの仔猫もいる。
だからなおさら手を貸さない。
仔猫はかわいいものだけれど、大人になった猫のほうがもっとかわいいからだ。
犬でも猫でもそうだが、子供の頃から独りで遊べない奴はだいたい鬱陶しい大人になる。
人間だけそうならないとは思わない。
やがてその獲物を、オマエたちは容易に噛みついて、引っ掻いて、蹴りつけて、ボロボロにできるようになる。
執念深くそれを追い詰め続けろ、と思う。
獲物から逃げず、負け続ければいい。
現実世界で負け続ければ、多少なり傷を負うものだが、ヴァーチャルな遊びの中なのだから、散々に、それを追い詰めてやれと思う。
孤独の痛み。
失ったものをたしかに失っていると実感する寂寥。
かつてあったものを幾度となく失ったと気付く切なさ。
失ったものがそこにあると錯覚したときの締め付けられる胸の疼き。
かつてあったものを幾度となく失ったと気付く切なさ。
失ったものがそこにあると錯覚したときの締め付けられる胸の疼き。
今あるものをあると実感できない無様さ。
そのいずれも。
>>>
そうした「最初からそうだったわけではないのにできてしまった、冷たく哀しい引力を放つ空白」が、人に色気を生み出すように思う。
そんな寂寥とした色気において、外見上の美醜はあまり機能しない。
ルッキズムに塗り固められた人間は、そうした心の機微にあまりに無神経に思える。
外見の美しさを否定するつもりはないが、誰かが誰かに寄り添いたいと思うのは、誰かが誰かに優しくしたいと思うのは「その人の外見が綺麗だから」だけでないくらい、容易に分かりそうなものだ。
外見こそ魅力だと言い切る姿は勇ましいが、どこか幼く痛々しいのは、それが若さだからだろうか。
外見が綺麗だからという理由で他人に寄り添う人がいたら、それは人の姿をした別のものだと思うのだけれど。
>>>
図らずも空いてしまった洞が心の中で引力を持ち、己はどこまでもその奈落に突き落とされ、そして誰かが惹き寄せられる。
ために弱さも醜さも、失敗も痛みも悲しみも。
人の心を持って向き合っているなら、それらはその人の魅力に変わる。
心は鏡だ。
弱さに向き合う心は往々にして強いものだし、想い人に醜いと思われたくないと、美しいと褒めそやされたいと、怯え悩む姿は可憐で美しい。
失敗も痛みも悲しみも寂しさも、誤魔化さず、その重みをきちんと抱え、涙したり笑ったり、怒ったり、誰かのせいにしたり、でもやっぱり自分のせいかな、なんて考え直したりするのは恥ずかしいしみっともないし、できれば誰にも見られたくないけれど、それを素直に大切にできるしなやかさは、その人だけの魅力になるだろう。
自身に対して許せないことのあるその儚さを、誰かがそっと見守ってくれるはずだ。時に憧れさえするだろう。
私はそうまで素直に真摯に自身の弱さに向き合ってきたのだろうかと、できることなら自分も、己の中の鏡を直視しようと努力しながら。
ただ質量が高すぎるとブラックホールになってしまうから、それだけは気をつけて。
確かジェダイの騎士も「フォースの暗黒面に気をつけなはれ」とかなんとか言っていたような気もするし。
そのいずれも。
>>>
そうした「最初からそうだったわけではないのにできてしまった、冷たく哀しい引力を放つ空白」が、人に色気を生み出すように思う。
そんな寂寥とした色気において、外見上の美醜はあまり機能しない。
ルッキズムに塗り固められた人間は、そうした心の機微にあまりに無神経に思える。
外見の美しさを否定するつもりはないが、誰かが誰かに寄り添いたいと思うのは、誰かが誰かに優しくしたいと思うのは「その人の外見が綺麗だから」だけでないくらい、容易に分かりそうなものだ。
外見こそ魅力だと言い切る姿は勇ましいが、どこか幼く痛々しいのは、それが若さだからだろうか。
外見が綺麗だからという理由で他人に寄り添う人がいたら、それは人の姿をした別のものだと思うのだけれど。
>>>
図らずも空いてしまった洞が心の中で引力を持ち、己はどこまでもその奈落に突き落とされ、そして誰かが惹き寄せられる。
ために弱さも醜さも、失敗も痛みも悲しみも。
人の心を持って向き合っているなら、それらはその人の魅力に変わる。
心は鏡だ。
弱さに向き合う心は往々にして強いものだし、想い人に醜いと思われたくないと、美しいと褒めそやされたいと、怯え悩む姿は可憐で美しい。
失敗も痛みも悲しみも寂しさも、誤魔化さず、その重みをきちんと抱え、涙したり笑ったり、怒ったり、誰かのせいにしたり、でもやっぱり自分のせいかな、なんて考え直したりするのは恥ずかしいしみっともないし、できれば誰にも見られたくないけれど、それを素直に大切にできるしなやかさは、その人だけの魅力になるだろう。
自身に対して許せないことのあるその儚さを、誰かがそっと見守ってくれるはずだ。時に憧れさえするだろう。
私はそうまで素直に真摯に自身の弱さに向き合ってきたのだろうかと、できることなら自分も、己の中の鏡を直視しようと努力しながら。
ただ質量が高すぎるとブラックホールになってしまうから、それだけは気をつけて。
確かジェダイの騎士も「フォースの暗黒面に気をつけなはれ」とかなんとか言っていたような気もするし。
// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[Engineer]
:青猫:黒猫:銀猫:
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[Module]
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[Object]
-Human-Memory-Poison-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:衛星軌道でランデヴー:君は首輪で繋がれて:夢見の猫の額の奥に:Webストリートを見おろして:
:衛星軌道でランデヴー:君は首輪で繋がれて:夢見の猫の額の奥に:Webストリートを見おろして:
//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230130
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
他人の持ち物が羨ましい。
Written by BlueCat
// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230130
世の中に羨ましく思う相手はあまりいないのだが、僕の友人に関しては、ちょっと羨ましいと思う。
やり取りのある友人はだいたい2人くらいしかいないのだが、彼らには共通の友人がいる。
その友人は、軽トラを持っているうえ、だいたいヒマなので、粗大ゴミを出したり引っ越しをするときに便利使いできる(もちろん逆に頼まれることもある)。
一人暮らしで家族もいないので、時間やお金に余裕がある。
なんとなく茶飲み話をしたくなったときも誘いやすいし、なんとなれば遊びに訪ねるにも遠慮がいらない。
明日が休みで、なんとなく酒でも飲みに行きたいなんてとき、今日の今日に突然誘える気軽な相手としても、まずヒマだと思うので誘いやすい。
なんのことはない。僕のことである。
僕も、僕のように家族がおらず、一人暮らしをしていてとびっきりヒマな友人が欲しい。
軽トラを持っていて、便利使いできて、いろんな工具を持っていて、お金を借りに来たりせず、無理な頼み事をしてきたりせず、予定を確認せず遊びに行くことができて、家に上がり込んでまったりすることができて、それらすべてに嫌な顔をしながら小言を言いつつも、実はそれらをまったく気にしていないような友人。
未経験の趣味でも、一見退屈なことでも、嫌そうな顔をしながらも付き合ってくれて、最終的には一緒に愉しんでくれる友人。
しかし残念ながら僕の周りに、僕のようなイキモノは、皆無である。
僕の友人達が、しかし僕のことをそれくらい重宝しているかどうかは分からない。
そもそも彼らは、僕を便利使いすらしない。
まぁ、だから友達なのだろう。
世の中に羨ましく思う相手はあまりいないのだが、僕の友人に関しては、ちょっと羨ましいと思う。
やり取りのある友人はだいたい2人くらいしかいないのだが、彼らには共通の友人がいる。
その友人は、軽トラを持っているうえ、だいたいヒマなので、粗大ゴミを出したり引っ越しをするときに便利使いできる(もちろん逆に頼まれることもある)。
一人暮らしで家族もいないので、時間やお金に余裕がある。
なんとなく茶飲み話をしたくなったときも誘いやすいし、なんとなれば遊びに訪ねるにも遠慮がいらない。
明日が休みで、なんとなく酒でも飲みに行きたいなんてとき、今日の今日に突然誘える気軽な相手としても、まずヒマだと思うので誘いやすい。
なんのことはない。僕のことである。
僕も、僕のように家族がおらず、一人暮らしをしていてとびっきりヒマな友人が欲しい。
軽トラを持っていて、便利使いできて、いろんな工具を持っていて、お金を借りに来たりせず、無理な頼み事をしてきたりせず、予定を確認せず遊びに行くことができて、家に上がり込んでまったりすることができて、それらすべてに嫌な顔をしながら小言を言いつつも、実はそれらをまったく気にしていないような友人。
未経験の趣味でも、一見退屈なことでも、嫌そうな顔をしながらも付き合ってくれて、最終的には一緒に愉しんでくれる友人。
しかし残念ながら僕の周りに、僕のようなイキモノは、皆無である。
僕の友人達が、しかし僕のことをそれくらい重宝しているかどうかは分からない。
そもそも彼らは、僕を便利使いすらしない。
まぁ、だから友達なのだろう。
// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
:青猫:黒猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Ecology-Form-Link-Love-Stand_Alone-Style-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-Transistor-
[Object]
-Friend-Human-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:ひとになったゆめをみる:
//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230220
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
電子マネーなんか渡さねえよ。
SUBTITLE:
~ none but money. ~
Written by BlueCat
// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230220
9時に目覚める書類仕事の日。
昨晩は22時には意識を失い始めたので眠り、何度か目覚める。
悪夢を見て、ベッドも布団も汗浸しで目覚めたりした。
猫を殺す夢。
近所のゴミステーションがまた荒らされていたので、アヲの毒殺を真剣に考えなくてはいけないと、夜な夜な考えていたのが悪かった。
数年前にベッド一式を新調したおかげで、布団の中で全身が冷えて目覚めることはなくなったが、高性能な羽毛布団は時々、冬の冷たい空気の中で驚くほどの保温力を発揮する。
確定申告のためのものを含む書類整理は通常、四半期に一度はするようにしていたが、少し慣れてきたこともあり、昨年の夏から放置していた。
ちなみに僕は公称「一人暮らし専業主夫」であるため、僕の業務を監督する人間はこの世界にいない(仮想奥様は虚数世界の住人だと思う)。
とはいえ業務に関連した領収証や各種郵便物を分類保管しておくだけで、あとは分類に基づいて保存したり、整理提出するだけで済むわけだから、最初の分類保管さえしっかりしていれば、つまづくことは少ない。
問題もある。
僕が妹の分も業務を処理するのだが、妹の書類のほとんどは当然ながら僕の手元には届かない。
妹は結婚しているので、別生計別所帯であるから必然だ。しかし不思議な名称をした一般家計の額を大きく超える額面の数々を、彼女は管理どころか処理すらできない。
僕だって、初任給で自室用クーラを買ったとき ── 当時はまだ父上たちと暮らしていたが ── は手が震えた。
月給にほど近い現金を電気屋で支払うのは、誇らしいというよりは恐ろしかった。
妹の場合も同様、自分で見たり使ったりする以上の金額を扱うことに恐怖しているのだと思う。
実際問題、僕と妹が抱えている負債は、父親の会社が倒産したときの負債を超えている。
巨額の負債と一家離散は、おそらく彼女の記憶の中でだいたいイコールで結ばれているらしく ── 書類上の額面収入が高額だという理由で ── 旦那様の扶養を外れる可能性があると税理士に言われただけで「離婚しなきゃダメなのかな」と泣きながら質問してくる程度にはバカである。
ためにその事務処理や各種の渉外業務を、すべて僕が管理しているというわけだ。
こんな不思議な仕事をしている人間は、これまでの観察の範囲では僕しかいない。
>>>
着替えてコンビニまでコピーに出かける。
スキャナやプリンタを20代の頃は持っていたのだが、使用頻度があまりに低いため、印刷類はすべてコンビニか知り合いを使うことにしている。
書類仕事用に ── 机に使っているスチール棚や書類キャビネットの一部はキャスタで自走できるため、自分を取り囲むようにして部屋から出られないように ──室内レイアウトを変更するところから開始。
一部書類(妹名義のもの)の再取付けで2、3電話をして、昼過ぎには終わった。
追加で届く書類を待たず、発送を掛けて今日の業務は終了。
書類仕事の最中、僕は意識して喫煙しながら行うようにしている。
ニコチンは「現在の行動を肯定的に脳に焼き付ける」作用があるので、事務仕事が嫌いな僕にはうってつけというわけだ。
>>>
妹名義の書類で、数点不備がある。
ひとつは役所で再発行が可能で、かつ ── 当然ながら ── 本人が取付けるのが手っ取り早いため、仕事終わりのタイミングでこちらに届けてもらう。
もう一点、妹の自宅に届いているはずの書類がこちらに来ていないので、発行元に再発行を依頼した上で、妹本人に再確認を依頼する。
>>>
自宅に来た妹と話していたのだが、妹の娘(僕の姪)は、僕から貰ったお年玉を使いたがらないらしい。
ついでに言うと銀行にも預けたがらず、自宅の仏壇に飾ってある父上の写真の前にずっと置いているそうだ。
理由は、ピン札だから。
どうやら旦那様側の親族たちは、誰もピン札ではお年玉を渡していないらしい。
僕には少し不思議な様式なのだが、そういうことを気にしない人もいるようだ。
最後に一緒に暮らした女性(恋人としての認識さえ忘れてしまったので、名前も顔も分からない)も、僕がピン札を丁寧にストックしていることを嗤っていたので似た人種だろうと想像する。
お金を「使う」ぶんには、ピン札だろうがヨレていようが破れていようが、問題はないだろうと思う。
しかしお金は「使う」ばかりではない。
お年玉や、ご祝儀は、相手に「渡す」あるいは「贈る」ものだから、僕はそういうときに慌てて銀行に行きたくないので、ピン札があれば必ずストックしていた。
お年玉についていえば、相手が子供だからと見くびっているのかもしれないし、あるいはただ慣習として「くれてやる」くらいに考えているのだろうと推察される(僕が子供だったら、そんな大人は呪い殺すと思う)。
結婚式のご祝儀なども、金額をやたら気にしたり、最近重なっててと愚痴を言うのが先になっている人がいて見苦しいと思うタイプの僕だったが、多分、彼ら彼女たちは祝う気もなければ贈りたくもなかったのだろうと想像する(僕が新郎新婦なら、そんな来賓は呪い殺すと思う。あ、新婦はないか)。
たとえば大掛かりな自由診療(美容整形とかインプラントとか)を受けるときも、僕はピン札を渡す。
それは使うお金ではなくて、渡すお金だからだ。
特別なことに使うお金なら、相応に特別を伝える必要があるように思う。
勝手な想像だが「贈ることの特別」を感じない人間は、つまるところお金を「自分が使うもの」として過剰に執着しがちなのではないだろうか。
前述のとおり「使う」お金は、ピン札だろうがよれていようが関係なく使える。
しかし買い物のおつりで端の切れたお札を受け取ったとき、ちょっと残念な気分になりはしないだろうか。
ポケットの中で丸まったお札をお年玉として渡されたら、ちょっと触りたくないと思ったりしないだろうか。
受け取るときは気になるくせに、渡すときは気にしないというのは、いささか無神経なように僕には思える。
今も昔も僕は自分の取り扱うお金(自身の所得である場合も多い)を、あまり「自分のもの」として考えないまま生きている。
たしかに万能交換チケットではあるけれど、僕自身が提供したサービスなどに見合う対価だと思えたためしがないからだ。
労働など一定のフォーマットによって入手できる通貨は、たしかに対価として交換に使うことができるが、それによって相応の価値のあるものを手に入れたことになるわけで、使ったところで何も失っていないことになる。
場合によっては価格以上の価値を感じるモノを手に入れられることもあるわけで、必然、そういうものは定価がいくらであろうと価値がそれよりあるという自身の価値観に基づいて入手して損のないモノになるわけだ。
(お金を「使って」「なくなる」と感じる人は、価値のないものを入手するスペシャリストなのだろう)
それにしてもお金は基本的には渡したり贈ったりするものであって、そこに受け取る人がいて、提供される価値があり、それを認めて交換するのだから、使う側が偉いというものではないし、高額を支払う人がすごいというものでもないのだ。
そのあたりを勘違いしている人が多分、接客業のスタッフに横柄な態度を取ったり、高額な商品を使ったというだけの動画やらニュースやらに興奮するのだろう。ずいぶん貧しい話ではないだろうか。
>>>
姪がたとえ深く考えていなかったとしても「ピン札はもったいなくて使いたくない」と思ってくれたなら、それだけで嬉しい。
同じ金額の、その些細な差が、つまりは人間の機微に通じているからだ。
「お金なんて、同額ならどれも一緒だ」となってしまえば、やがてお金に使われるような人間になるだろう。
人の職業に貴賤はないというが、お金にも、生き方にも、仕事の仕方にも貴賤はあるからだ。
「男なら誰でもいい」とか「女ならどんなでもいい」という発言と同じことだ。
「カネなら何でもいい」というのは「労働力なら何でもいい」ということを侮蔑的に意味して自らに投射される。
僕はそういう生き方をしなかったので、正しくそれを評価できる。
人はそんな生き方をしてはいけない。
何でもいい、というのは、己の選択でも優しさでもなく、怠惰な放棄だ。
>>>
ちなみにピン札のうち、もっとも集めるのがむつかしいのは、5千円札である。
だからといって電子マネーでお年玉を渡すような哲学のない大人に、僕は死んでもなりたくない。
そういえば、かの人も親戚くらいはいたろうに、お年玉は渡していなかったのだろうか。
9時に目覚める書類仕事の日。
昨晩は22時には意識を失い始めたので眠り、何度か目覚める。
悪夢を見て、ベッドも布団も汗浸しで目覚めたりした。
猫を殺す夢。
近所のゴミステーションがまた荒らされていたので、アヲの毒殺を真剣に考えなくてはいけないと、夜な夜な考えていたのが悪かった。
数年前にベッド一式を新調したおかげで、布団の中で全身が冷えて目覚めることはなくなったが、高性能な羽毛布団は時々、冬の冷たい空気の中で驚くほどの保温力を発揮する。
確定申告のためのものを含む書類整理は通常、四半期に一度はするようにしていたが、少し慣れてきたこともあり、昨年の夏から放置していた。
ちなみに僕は公称「一人暮らし専業主夫」であるため、僕の業務を監督する人間はこの世界にいない(仮想奥様は虚数世界の住人だと思う)。
とはいえ業務に関連した領収証や各種郵便物を分類保管しておくだけで、あとは分類に基づいて保存したり、整理提出するだけで済むわけだから、最初の分類保管さえしっかりしていれば、つまづくことは少ない。
問題もある。
僕が妹の分も業務を処理するのだが、妹の書類のほとんどは当然ながら僕の手元には届かない。
妹は結婚しているので、別生計別所帯であるから必然だ。しかし不思議な名称をした一般家計の額を大きく超える額面の数々を、彼女は管理どころか処理すらできない。
僕だって、初任給で自室用クーラを買ったとき ── 当時はまだ父上たちと暮らしていたが ── は手が震えた。
月給にほど近い現金を電気屋で支払うのは、誇らしいというよりは恐ろしかった。
妹の場合も同様、自分で見たり使ったりする以上の金額を扱うことに恐怖しているのだと思う。
実際問題、僕と妹が抱えている負債は、父親の会社が倒産したときの負債を超えている。
巨額の負債と一家離散は、おそらく彼女の記憶の中でだいたいイコールで結ばれているらしく ── 書類上の額面収入が高額だという理由で ── 旦那様の扶養を外れる可能性があると税理士に言われただけで「離婚しなきゃダメなのかな」と泣きながら質問してくる程度にはバカである。
ためにその事務処理や各種の渉外業務を、すべて僕が管理しているというわけだ。
こんな不思議な仕事をしている人間は、これまでの観察の範囲では僕しかいない。
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着替えてコンビニまでコピーに出かける。
スキャナやプリンタを20代の頃は持っていたのだが、使用頻度があまりに低いため、印刷類はすべてコンビニか知り合いを使うことにしている。
書類仕事用に ── 机に使っているスチール棚や書類キャビネットの一部はキャスタで自走できるため、自分を取り囲むようにして部屋から出られないように ──室内レイアウトを変更するところから開始。
一部書類(妹名義のもの)の再取付けで2、3電話をして、昼過ぎには終わった。
追加で届く書類を待たず、発送を掛けて今日の業務は終了。
書類仕事の最中、僕は意識して喫煙しながら行うようにしている。
ニコチンは「現在の行動を肯定的に脳に焼き付ける」作用があるので、事務仕事が嫌いな僕にはうってつけというわけだ。
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妹名義の書類で、数点不備がある。
ひとつは役所で再発行が可能で、かつ ── 当然ながら ── 本人が取付けるのが手っ取り早いため、仕事終わりのタイミングでこちらに届けてもらう。
もう一点、妹の自宅に届いているはずの書類がこちらに来ていないので、発行元に再発行を依頼した上で、妹本人に再確認を依頼する。
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自宅に来た妹と話していたのだが、妹の娘(僕の姪)は、僕から貰ったお年玉を使いたがらないらしい。
ついでに言うと銀行にも預けたがらず、自宅の仏壇に飾ってある父上の写真の前にずっと置いているそうだ。
理由は、ピン札だから。
どうやら旦那様側の親族たちは、誰もピン札ではお年玉を渡していないらしい。
僕には少し不思議な様式なのだが、そういうことを気にしない人もいるようだ。
最後に一緒に暮らした女性(恋人としての認識さえ忘れてしまったので、名前も顔も分からない)も、僕がピン札を丁寧にストックしていることを嗤っていたので似た人種だろうと想像する。
お金を「使う」ぶんには、ピン札だろうがヨレていようが破れていようが、問題はないだろうと思う。
しかしお金は「使う」ばかりではない。
お年玉や、ご祝儀は、相手に「渡す」あるいは「贈る」ものだから、僕はそういうときに慌てて銀行に行きたくないので、ピン札があれば必ずストックしていた。
お年玉についていえば、相手が子供だからと見くびっているのかもしれないし、あるいはただ慣習として「くれてやる」くらいに考えているのだろうと推察される(僕が子供だったら、そんな大人は呪い殺すと思う)。
結婚式のご祝儀なども、金額をやたら気にしたり、最近重なっててと愚痴を言うのが先になっている人がいて見苦しいと思うタイプの僕だったが、多分、彼ら彼女たちは祝う気もなければ贈りたくもなかったのだろうと想像する(僕が新郎新婦なら、そんな来賓は呪い殺すと思う。あ、新婦はないか)。
たとえば大掛かりな自由診療(美容整形とかインプラントとか)を受けるときも、僕はピン札を渡す。
それは使うお金ではなくて、渡すお金だからだ。
特別なことに使うお金なら、相応に特別を伝える必要があるように思う。
勝手な想像だが「贈ることの特別」を感じない人間は、つまるところお金を「自分が使うもの」として過剰に執着しがちなのではないだろうか。
前述のとおり「使う」お金は、ピン札だろうがよれていようが関係なく使える。
しかし買い物のおつりで端の切れたお札を受け取ったとき、ちょっと残念な気分になりはしないだろうか。
ポケットの中で丸まったお札をお年玉として渡されたら、ちょっと触りたくないと思ったりしないだろうか。
受け取るときは気になるくせに、渡すときは気にしないというのは、いささか無神経なように僕には思える。
今も昔も僕は自分の取り扱うお金(自身の所得である場合も多い)を、あまり「自分のもの」として考えないまま生きている。
たしかに万能交換チケットではあるけれど、僕自身が提供したサービスなどに見合う対価だと思えたためしがないからだ。
労働など一定のフォーマットによって入手できる通貨は、たしかに対価として交換に使うことができるが、それによって相応の価値のあるものを手に入れたことになるわけで、使ったところで何も失っていないことになる。
場合によっては価格以上の価値を感じるモノを手に入れられることもあるわけで、必然、そういうものは定価がいくらであろうと価値がそれよりあるという自身の価値観に基づいて入手して損のないモノになるわけだ。
(お金を「使って」「なくなる」と感じる人は、価値のないものを入手するスペシャリストなのだろう)
それにしてもお金は基本的には渡したり贈ったりするものであって、そこに受け取る人がいて、提供される価値があり、それを認めて交換するのだから、使う側が偉いというものではないし、高額を支払う人がすごいというものでもないのだ。
そのあたりを勘違いしている人が多分、接客業のスタッフに横柄な態度を取ったり、高額な商品を使ったというだけの動画やらニュースやらに興奮するのだろう。ずいぶん貧しい話ではないだろうか。
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姪がたとえ深く考えていなかったとしても「ピン札はもったいなくて使いたくない」と思ってくれたなら、それだけで嬉しい。
同じ金額の、その些細な差が、つまりは人間の機微に通じているからだ。
「お金なんて、同額ならどれも一緒だ」となってしまえば、やがてお金に使われるような人間になるだろう。
人の職業に貴賤はないというが、お金にも、生き方にも、仕事の仕方にも貴賤はあるからだ。
「男なら誰でもいい」とか「女ならどんなでもいい」という発言と同じことだ。
「カネなら何でもいい」というのは「労働力なら何でもいい」ということを侮蔑的に意味して自らに投射される。
僕はそういう生き方をしなかったので、正しくそれを評価できる。
人はそんな生き方をしてはいけない。
何でもいい、というのは、己の選択でも優しさでもなく、怠惰な放棄だ。
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ちなみにピン札のうち、もっとも集めるのがむつかしいのは、5千円札である。
だからといって電子マネーでお年玉を渡すような哲学のない大人に、僕は死んでもなりたくない。
そういえば、かの人も親戚くらいはいたろうに、お年玉は渡していなかったのだろうか。
// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
:青猫:黒猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Diary-Engineering-Interface-Link-Love-Mechanics-Style-
[Module]
-Condencer-Connector-Generator-Reactor-
[Object]
-Human-Koban-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:夢見の猫の額の奥に:
//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230206
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
スターバックスは接待風営店か。
Written by BlueCat
// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230206
陽差しがあたたかい。
歯医者の帰り、そろそろコーヒー豆が切れそうなことを思い出し、近所のスターバックスに寄る。
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僕が初めてスターバックス(以下、スタバと略す)で買い物をしたのは、ガールとデートの時だったか。
敷居が高いとは聞いていたのだが(それならかえってチョロい)と思ったことを覚えている。
(実際チョロかった)
ホテルでも飲食店でも、高いホスピタリティを売りにしている場所のスタッフは一定のセオリィで動いている。
そういう場所に行ったとき、知らないことや分からないことは、そのまま「あっけらかーん」と「知りませーん」とか「わっかりましぇーん」と言えばいいのである。
よく知らない用語の数々や、「氷抜きエクストラミルク薄くなっても構いません」の呪文も、店員さんに教えてもらった。
丁寧に、何度でも、親切に、教える。教えてもらえる。それがプロのセオリィだ。
僕もかつてはプロだったので、そのくらいは分かった。だからチョロいと思ったのだ。
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しかし実のところスタバはキャバクラと一緒である。
いや断言してはいけないか。
キャバクラと一緒のように思える(※個人の感想です)。
どう考えても接客マニュアルに、過剰なフレンドシップの構築が指示されているように思えてならない(※個人の感想です)。
ドリンクを頼むときはルーチンワークで終わることが多いのだけれど、豆を買いに行くとたいていトークが始まる(※個人の感想です)。
やれ「いつもこのお豆なんですか?(きゃるん♡)」。
やれ「深煎りがお好きなんですか?(にぱぱ♪)」。
やれ「普段はどんな飲み方をされているんですか?(きゃるるん☆)」。
やれ「ただいまご用意しております。こちら新発売となりました○○です。お飲みになってお待ちください(きゅぴるん♡)(もう記号のネタが切れたよ)」。
そして僕は基本的に豆しか買わない。
疫病が流行する前から、あんなオープンな場所で独りカフェを愉しむような、高雅な趣味も性格も持ち合わせていない(豆買ったら自宅のマシンでいい感じのを作ればいいじゃん。ミルもエスプレッソマシンも持ってるんだし)。
あんな小洒落た雰囲気スポットで「小洒落たワタシ」を演じるだけの技量が僕にはない。見せようという気力も見せる相手もない。
店内で買うからこうなるのかと思い、近所に出来た店舗ではドライブスルーを利用することにした。
これまでのケースでは、ドライブスルーでも必ずトークタイムが展開される(※個人の感想です)。
初回はちょうどアヲが(肩に)乗っていて、炎天下で車内に置き去りにするのが危険な温度だったこともある。
これはダメだった(※個人の感想です)。
カメラに向かって「なー」と鳴くアヲを見るや「じゃあ、猫語で注文してください(にゃるん♡)」と言われた。
小娘貴様。オマエ言うに事欠いてこんなおっさん捕まえて猫語オーダを逆オーダしてくるとはいい度胸じゃねえか ── と思いつつ「うにゃ……フレンチローストをひとつ欲しいにゃ」と答えさせられる47のおっさんの自意識の行き場について諸君も思いを馳せよ(黙祷)。
こっちは四捨五入を二回すると齢100にもなるんだよ。おまーら知らないだろうが正体は猫ナンダカンナ! おまーらよりも上位種なんだカンナ! 尻尾が多いんだカンナ! だから無茶振りするんじゃねえ。断りづらいうえに恥ずかしいじゃねえかどうしてくれるんだよ。
シャー!(心の叫び)
商品受け取り窓に到着したらしたで、店員のガールが寄ってたかって「やだかわいー♡」「えぇ〜逃げないんですかぁ」「お利口さん〜♪」「目が綺麗〜☆」「抱いて〜♡」といった具合の囲み取材をしてくる(僕ではなく猫に。あと最後のは嘘です、言われていません)。
しかも紙袋が不要なので一度「紙袋は不要です」と言ったらそれを覚えたらしく、次から紙袋不要と伝えるたび「いつもありがとうございます」って2〜3人が寄ってきてお礼を言われる始末……。
月に1回くらい豆買いに来るだけの奴を太客みたいに扱うな(※個人の感想です)。
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というわけで、スタバでコーヒー豆を買うと漏れなくガールのスタッフどもが(きゃぴるん♡)といった感じで話し掛けてくるので少し困ります(※個人の感想です)。
おそらく「コーヒー豆を買うだけの客は利益率が低く、利益率の高い商品のリピータになってもらうため、いつもより距離感近めで世間話をするように」というマニュアルが存在するのではないかと想像する(※個人の想像です)。
そもそもスタバでコーヒー豆を買う人を、まったくといっていいほど見たことがない(※個人の感想です)。
どうかコーヒー豆をスタバで買ったことのある人がいたら教えて欲しい(※個人の依頼です)。
あなたにも、そんな風にぐいぐいスタバのスタッフが距離を詰めてくるのか(※個人的疑問です)。
詰めてこないなら、なにゆえ、どうすれば距離を開いて置いてもらえるのか。
ぜひとも。なにとぞ。よしなに。
陽差しがあたたかい。
歯医者の帰り、そろそろコーヒー豆が切れそうなことを思い出し、近所のスターバックスに寄る。
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僕が初めてスターバックス(以下、スタバと略す)で買い物をしたのは、ガールとデートの時だったか。
敷居が高いとは聞いていたのだが(それならかえってチョロい)と思ったことを覚えている。
(実際チョロかった)
ホテルでも飲食店でも、高いホスピタリティを売りにしている場所のスタッフは一定のセオリィで動いている。
そういう場所に行ったとき、知らないことや分からないことは、そのまま「あっけらかーん」と「知りませーん」とか「わっかりましぇーん」と言えばいいのである。
よく知らない用語の数々や、「氷抜きエクストラミルク薄くなっても構いません」の呪文も、店員さんに教えてもらった。
丁寧に、何度でも、親切に、教える。教えてもらえる。それがプロのセオリィだ。
僕もかつてはプロだったので、そのくらいは分かった。だからチョロいと思ったのだ。
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しかし実のところスタバはキャバクラと一緒である。
いや断言してはいけないか。
キャバクラと一緒のように思える(※個人の感想です)。
どう考えても接客マニュアルに、過剰なフレンドシップの構築が指示されているように思えてならない(※個人の感想です)。
ドリンクを頼むときはルーチンワークで終わることが多いのだけれど、豆を買いに行くとたいていトークが始まる(※個人の感想です)。
やれ「いつもこのお豆なんですか?(きゃるん♡)」。
やれ「深煎りがお好きなんですか?(にぱぱ♪)」。
やれ「普段はどんな飲み方をされているんですか?(きゃるるん☆)」。
やれ「ただいまご用意しております。こちら新発売となりました○○です。お飲みになってお待ちください(きゅぴるん♡)(もう記号のネタが切れたよ)」。
そして僕は基本的に豆しか買わない。
疫病が流行する前から、あんなオープンな場所で独りカフェを愉しむような、高雅な趣味も性格も持ち合わせていない(豆買ったら自宅のマシンでいい感じのを作ればいいじゃん。ミルもエスプレッソマシンも持ってるんだし)。
あんな小洒落た雰囲気スポットで「小洒落たワタシ」を演じるだけの技量が僕にはない。見せようという気力も見せる相手もない。
店内で買うからこうなるのかと思い、近所に出来た店舗ではドライブスルーを利用することにした。
これまでのケースでは、ドライブスルーでも必ずトークタイムが展開される(※個人の感想です)。
初回はちょうどアヲが(肩に)乗っていて、炎天下で車内に置き去りにするのが危険な温度だったこともある。
これはダメだった(※個人の感想です)。
カメラに向かって「なー」と鳴くアヲを見るや「じゃあ、猫語で注文してください(にゃるん♡)」と言われた。
小娘貴様。オマエ言うに事欠いてこんなおっさん捕まえて猫語オーダを逆オーダしてくるとはいい度胸じゃねえか ── と思いつつ「うにゃ……フレンチローストをひとつ欲しいにゃ」と答えさせられる47のおっさんの自意識の行き場について諸君も思いを馳せよ(黙祷)。
こっちは四捨五入を二回すると齢100にもなるんだよ。おまーら知らないだろうが正体は猫ナンダカンナ! おまーらよりも上位種なんだカンナ! 尻尾が多いんだカンナ! だから無茶振りするんじゃねえ。断りづらいうえに恥ずかしいじゃねえかどうしてくれるんだよ。
シャー!(心の叫び)
商品受け取り窓に到着したらしたで、店員のガールが寄ってたかって「やだかわいー♡」「えぇ〜逃げないんですかぁ」「お利口さん〜♪」「目が綺麗〜☆」「抱いて〜♡」といった具合の囲み取材をしてくる(僕ではなく猫に。あと最後のは嘘です、言われていません)。
しかも紙袋が不要なので一度「紙袋は不要です」と言ったらそれを覚えたらしく、次から紙袋不要と伝えるたび「いつもありがとうございます」って2〜3人が寄ってきてお礼を言われる始末……。
月に1回くらい豆買いに来るだけの奴を太客みたいに扱うな(※個人の感想です)。
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というわけで、スタバでコーヒー豆を買うと漏れなくガールのスタッフどもが(きゃぴるん♡)といった感じで話し掛けてくるので少し困ります(※個人の感想です)。
おそらく「コーヒー豆を買うだけの客は利益率が低く、利益率の高い商品のリピータになってもらうため、いつもより距離感近めで世間話をするように」というマニュアルが存在するのではないかと想像する(※個人の想像です)。
そもそもスタバでコーヒー豆を買う人を、まったくといっていいほど見たことがない(※個人の感想です)。
どうかコーヒー豆をスタバで買ったことのある人がいたら教えて欲しい(※個人の依頼です)。
あなたにも、そんな風にぐいぐいスタバのスタッフが距離を詰めてくるのか(※個人的疑問です)。
詰めてこないなら、なにゆえ、どうすれば距離を開いて置いてもらえるのか。
ぜひとも。なにとぞ。よしなに。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
:青猫:黒猫:
[InterMethod]
-Diary-Interface-Kidding-
[Module]
-Condencer-Reactor-
[Object]
-Camouflage-Cat-Human-Poison-
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[Cat-Ego-Lies]
:ひとになったゆめをみる:
//EOF
