// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230203
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
意味の意味。
SUBTITLE:
~ implication of meaning. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230203

 抜髄の施術、2度目。
「必ず来てね」と念を押されて行ったのだが、施術は5分ほどで終わる。
 オペや急患優先で、よほど計画的な施術でなければ予約を取らない少ない歯医者さん(かつ施術が早いの)で、今回のように到着して車を降りてから15分後には帰途に向かう車に乗り込むなんてこともある。

 慢性的な痛みは昨年11月から抱えていたのだが、施術患部そのもの(たとえば削られて薄くなったから痛むの)か、それとも歯根が痛むのかが判断できずにいた。
「そういうときはとりあえずメールを送ればいいよ」とあっさり言われてしまった。それもそうか。

 最近は、歯医者の帰りにドライブをする。
 昔だったら(正確には一昨年まで)絶対にしなかったが、新しい趣味(たぶん趣味というのだろう)として数えてもいいように思える。
 今日は一度家に帰ってから、桐生市の山に散歩に出かけた。

>>>

 散歩ならどこだって出来る、とは思う。
 だから片道40分もかけて出かけるのは、僕の基本的な価値観からすればちょっとアタマオカシイ、ということになる。

 足利に棲んでいた頃、ときどき出かけていたそこはしかし、とにかく人の気配がほとんどない。
 だからといって荒れ放題の不整地かというとそうではなく、むしろトレッキングコースに続く道があり、ちょっとした植物用の温室もある、丘の中の公園なのである。
 だから土日やイベントのあるときなどはそれなりの人で賑わっていることもある。

 しかし平日となると、散歩客もハイカーも僅かだ。
 彼らの多くは熊よけの鈴を持っていたり、定期的に手拍子を打つ ── 実に熊やイノシシが出るような場所なのだが、桐生/足利はそういう場所も少なくない。
 それ以外、人の気配がほとんどしない。
 耳を澄ませば街の喧騒が遠くに聞こえ、風が梢を揺らす音や、さまざまな鳥の声(例に漏れず、僕は鳥の名前を知らない)が聞こえる。
 朽ちた木、眠っている新芽、半径50m以上に渡って、心置きなく感覚を広げていられるほどよい緊張感と安心感。

>>>

「俺たちゃ街には棲めないからに」などと言うつもりはない。
 僕の身体は清潔を保つことの困難な場所に置かれると、数日でストレスを抱えて不調を来す。
 そして同時に、人の気配には過剰に疲れる。
 隣家までは塀で隔たれ5〜10mほどのクリアランスもあるのに、玄関や車のドアの音といった生活音を我知らず拾ってしまう。
 周辺の人の顔などなるべく記憶しないようにしているが、それでも誰がどこのエリアにどのくらいの時間に出没し、他のどんな知った顔といるのかを記憶しそうになったりする。
 道路向かいに公営住宅があるので、僕の許容範囲より人口密度は高い。

 この家の気密が悪いから余計に気配を拾ってしまう。
 しかし気密が高かったら、今度はもっと塀を高くしたり、カーテンを分厚くしたりしないと、動く光に神経質になってしまいそうにも思う。

 そう考えると足利のアパートは、安普請なのに静かに暮らす人が多くて、安心していられた。
 駐車場のエンジン音や、歩行音でどの部屋の人が出入りしているのか僕は記憶してしまうのだが、大声で話す人や大きな足音を立てるような人は少なかった。

 この場所はなんというか、もともと農家の多かった地域のせいもあるのだろうか、人の気配にがさつな人が多い。
 庭で大声を出して家族と話し、道行く顔見知りと立ち話をする人も多い。
 おそらくそれが普通なのだろうし、それはこのあたりが平和な証拠でもある。
 僕も叔父や叔母が存命の頃からこの家を出入りしているし、向かいの公営住宅の人に庭の一部を貸していたりするので、顔見知りがいないわけではない。
 ただそういう人付き合いが、得意かというとそうでもない。許容範囲だが、得意ではない。

 それでもそれが、普通のことなのだ。
 社会はそれぞれの許容範囲を広げながら、得意ではない人付き合いも含めて協力し、ひとりではできないことをするのだ。
 だから僕はちょっとした異常者であり、社会の落伍者でもある。
 それは自覚している。
 そして同時に、落伍者の頂点を突き詰めるような生き方が許されている自分の幸運を思う。

>>>

 そのようなわけで時々、人の気配のない場所に自分を連れ出す必要がある。
 コンピュータの前にずっと座っていれば本来は満足だろうに、わざわざ人里離れた(熊の出るような)山や川に出かけ、人の気配のなさに恐怖し、しかしそれに安心して、そして街に戻る。

 つくづくに社会不適合だ。
 だから嫌だ、とは思っていない。
 最小限度の人間としかやり取りせず生きていられる僕は、本当に贅沢だと毎日思う。
 誰か ── 仮想のヒトを除く ── に養って貰っているわけでもないから、変な気苦労もない。

 だからといって生きる理由や目的があるわけではない。
 それを持つことを僕は嫌った。
 ゆえ、自分自身に生きる価値があるとは思っていない。
 価値があるとは思わない、その価値観のために、理由も目的も持たなかった。

 しかし周囲の人間が僕に ── 僕の所有物や労働力ではなく、僕という存在に ── 求める価値が僅かにあり、あるいは惰性のようにして僕の不在を嫌う人もいるので、今のところは自害する必要もない。
 年金受給年齢に達したら生活できなくなるので死ぬ必要があったが、それもどうでもよくなってしまった。
 条件自体が消滅してしまったのだ。このままだと年金を受給しなくても僕は生活できてしまうだろう。
 しかしそんな無駄な生き方を果たして人間がするべきだとは、今のところ思っていない。
 だから65歳を(あるいはそれ以前に一定の条件を満たした場合)、僕の人生を幕引きにしようと思っているのではある。
 これを読んで悲観する人がいないことを願う。
 65歳の僕は、もう何の役にも、誰の役にも立たないはずだ。
 今はギリギリ、姉の介護や、妹の面倒を見て、弟子の話し相手をし、友人にとっての友人をしているが ── しかしそれもそれだけか。

 僕だけの人生が贅沢なら、僕だけの死を叶えるのもまた贅沢だ。
 それは長年、自分が死ぬことを願ってきた僕の、愉悦ですらある。
 ちなみにお弁当の好きなおかずは最後まで取って置く派でした、子供の頃は(倒置法)。

>>>

 持続可能な世界や開発目標というものを、きっと僕は信じていない。
 人間にも、人間社会にも、そんなに大した意味や価値はない。
 ただ持続可能にしておかないと「男は殺して女は犯す」というような原始的な略奪社会にはなってしまうから、綺麗ごとではなく、社会を維持するエンジニアリングとして必要だろうとは思う。

 価値は感じないけれど、必要なものはたくさんある。
 たとえば鼻が詰まっていないときの空気、喉が渇いていないときの水。
 遠方で車のエンジンが爆発したりしていないときの旧い友人。
 独りでいることに耐えられないときの家族。
 収入を得るために力を借りなくてはならない嫌な奴。

 あるいは必要はないけれど、価値を感じるものの方が僕の場合は豊かだろう。
 車もコンピュータも猫も家族も友人も煙草も酒も呪詛も、生きる上で必須なわけではない。
 あったほうが愉しい。それだけのことである。

 僕以外の多くの人はどうだろう。
 必須のものなんて、そうは多くはないはずだ。
 そもそも生きることの価値や意味は、きっと考えないほうがいいことなのだろう。

 あるいは小さな社会やコミュニティ、たとえばそれが家庭と呼ばれるような小集団であったとしても、そこで何らかの役に立つことは、十分な価値なのだろうと思う。
 僕はそういう価値を知らずに生きてきたから、価値を感じられないのだろう。
 その価値を(知ることさえも)求めたことがない。
 これは見る立場によっては幸福であり、あるいは不幸でもあるように思う。

 価値とか幸福とは、つまりその程度のこと。
 正しさと同じで、立つ位置によって意味を変えてしまう。
 意味を感じ、意味を信じる限り、そこに意味がある。
 だから自分のそれを感じられる人は、大切にしてほしい。

 僕は猫なので、光り輝く小判を前にしても、何も感じないのだ。
 腹が減ったときに漁る餌があり、かゆい背中を撫でてくれる手がありさえすれば、今日死のうが明日死のうが。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
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[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-
 
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  -Human-Koban-Poison-Tool-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
//EOF
 
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// TimeLine:230124
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
空白の相対熱伝導。
SUBTITLE:
~ Thermal conduction. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230124

 妹が遊びに来る日なので、姉の家から未明に帰宅。
 台所に立って湯を沸かすと、足の裏から凍り付くような冷たい床へと熱が奪われるのが分かる。

>>>

 人をして「あたたかい/冷たい」などという表現はよく見かける。
 しかしこれは主観的な表現だ。
 物事を感受する主観があればこそ、それを感覚できる。

 客観において、熱というのは常に交換される相対だ。
 より正確にいえば熱はエナジィとして、あたたかいものから冷たいものに伝達する。

 この原理に従えば「あたたかい」と他者を感じる人は対象よりちょっと冷たいし、他者を「冷たい」と感じる人は己の心があたたかいのだろう。

 と、そんな簡単に断ずることができないところが人間社会のややこしさだ。

>>>

 冷徹な人間は、あたたかい人間の優しさを信じない。
 一皮めくると蠢く欺瞞や、その奥に巧妙に隠れる自意識や、あるかどうかも分からない下賤な欲まで邪推しなくてはならない。

 冷徹な人間は得てして臆病で、弱くて、脆いから。
 だから相手は計算ずくの我欲によって、合法的な略奪を目論んでいるのではないかと怯える必要がある。
 相手がこちらの骨肉臓腑に至るまでを利用する可能性について考えないわけにはいかない。
 実際に、他人の骨肉臓腑までをも欲する類いのケダモノは、少なからず存在するからだ。
 ために冷徹な人間は、誰にも優しくできない。
 優しさは欺瞞であり、強欲であり、謀略であり、その発露は貧しき自身の欲を刺激し、他者を餌にするための罠になりかねない。
 そう思うからかどうか、誰にも優しくすることのできないありようを、しかし私は、弱くても優しいと思う。
 優しさの欺瞞を自身に許さない厳しさは、心底が優しいからこそだろう。

 温和な人間は、冷徹な人間の無知に困り、頑固さに微笑む。
 欺瞞も、自意識も、下賤な欲も、だってそれは皆が皆、等しく持っているものだから。
 温和な人間は得てして豪胆で、強くて、揺るがないから。
 己が下賤に堕ちる事のない強さを、誰から略奪する必要もない豊かさを、すでに持っている。
 誰かが自信の骨肉臓腑までをも利用しようとしたとして、そんなものくれてやろうと思うのか、それを奪うことなどできないと思うのか。
 そのいずれであれ、そんなことに怯えない。怯える必要を持たない。
 その強さに圧倒される。

>>>

 そして多くの人は、そうした絶対的なまでの冷たさも暖かさも持っていない。
 どちらともつかない中間を、ぷかぷかと、浮いたり沈んだりするだけだ。

 おそらくそれで良いのだと思う。おそらくそれが良いのだと思う。
 いずれかの極端を目指して浮いたり沈んだりを繰り返すうち、己の温度に従って、ほどよい深さを、あるいは高さを、知ることができる。

 大事なことは、変わらないようにと足掻かないことだろう。
 なんとなく変わってしまえばいいし、昨日言っていたことを、なんとなく撤回してもいい。
 そうやって、熱は移動してゆくのだし、いつまでも暖かくとか、どんなときも冷たくとか、そういうのはなかなかむつかしいのだ。夏に冷房は効きにくく、冬の暖房がすぐ温まるわけではないように。
 
>>>

 何か用事があって来る予定を立てたのかと妹に尋ねたところ、何となく遊びに来ようと思ったのだと言っていた。
 まぁ、たまにはそういうのもいいかと思う。
 僕は、用もないのに人に会わない生活を、ずっと続けてきた。

 学生時代は、用もないのに部屋に友人が(呼んだわけでも連絡し合っているわけでもなく)溜まっていた。
 だから、予定も用事もなく誰かと一緒に過ごすのが、実は嫌いではないのだ。

 けれど人間は大人になるにつれ、用事に追われ、用事を優先し、無用を嫌うようになる。
 少なくとも僕はそうだった。

 何の用もなく、仕事もなく、学校も卒業して、ぼんやり窓の外を眺めていた18歳の初夏を思い出す。
 窓の外に聞こえた自転車のブレーキと、数年ぶりに顔を覗かせた中学時代の友人が僕を呼ぶ声を ── 。

 なんて贅沢なんだろう。
 何もしないというのは、喫緊の用が何もないというのは。
 煙草もジュースも買うお金がなくて、2人で小銭を出し合って笑い合っていたあの贅沢な時間を思い出しながら、このぼんやりを、ぼんやりと受け止める。

 僕は世間より20年早く定年退職を迎えた(と考えている)。
 誕生日も新年も長期休暇も、自分で決めたがるような、変わったイキモノであるから仕方ない。
 そういえば早期リタイアする人間には、結局復職する者もいるという。
 おそらく、何の用もないことに耐えられないのだろう。
 誰に必要ともされない不安に、苛まれるのだろう。

>>>

 お腹が空いたという妹と食事に出かけ、
スーパーで一緒に買い物をする。
 陽差しのあるうちから寒い日で、明日はもっと冷えるという。






 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Ecology-Engineering-Link-Mechanics-Memory-Season-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-
 
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[Cat-Ego-Lies]
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// TimeLine:230123
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
いつ起こるか分からないのが不慮の死である。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230123

 未明に入浴。
 久しぶりに入浴中のマッサージをする。
 眠るときもせいぜいストレッチするくらいで、きちんとマッサージする機会が減っていた。

 一部の血管が梗塞しかけていたのか、石灰化していたのか、身体が重くなり、呼吸が速くなり、頭痛までしてくるので、なんとか身体を洗って切り上げた。
 浴室を出てから適度に身体を冷やし適温の水分を適量摂ったが、冷や汗が引かず、寝る頃にはTシャツが絞れそうなほどの水分を含んでいた。

 体調不良から快復して久しぶりに入浴したときや、入浴と冷水を浴びることを繰り返したとき、たまにこういう状態を経験してきた。
 慣れてはいるが、これでもしも意識が遠のいてしまったら大人しく死ぬのだろうと今回は思った。
 仮に昨晩死んだとすると、死ぬときにどんな心持ちかが分かる。

 僕は死ぬとき、残される者のことを考えない。
 まだ死にたくないと悔やむこともなく、やっと死ねると喜ぶこともない。
 頭がそこまで回らない。貧血直前のように、目の前のことを考えるのもやっとになる。
 ああ具合が悪いな、とうずくまったり横になったりして、少し身体が楽になって、それでもまだ具合が悪くて、そうこうするうちに意識を失うだろう。
 ちょうど重い風邪に罹って、熱に浮かされながらどろどろと沈む眠りに消えるように。
 絶望も希望も、苦しみも悲しみも喜びも喚起する記憶もなく「何か具合が悪いな」と思いながら意識を失う。
それだけである。

 だから何だというものではない。
 死ぬときに備えて、整理しておかなくてはならないものを適切に整理しておく必要があり、場合によってはそれより少し先に、公正証書遺言を作っておこうかと思うくらいで。

>>>

 僕は数年前に無職になるとき、自分の中での定年と位置づけた。
 もう働かねぇ。と思ったのである。
 もちろんまだ50歳にも満たないので年金などは貰っていないし、
所得があり、厳密にいうと無職ではない。
 一人暮らしには、少なく見積もっても毎月15万円程度は必要である。
 それでも僕にとっては ── 毎日従事すべき業務が、だいたい家事ばかりなので ── 定年退職したようなものとして認識した。

 僕が雇用者だったら、四十過ぎの人間を雇うのは少し悩む。
 優秀な人間だったら良いが、そもそも優秀な人間が四十を過ぎて転職するだろうか。
 そのように考えて、会社勤めはやめておこうと思った。
 お互いにいいことはなさそうだ。

 実質は自営業であるが、実務がほとんど発生しないという、少し変わった自営業をしている。
 ひと月あたり、仕事をするのは数時間だろうか。
 そう考えると恐ろしくヒマに思えるかもしれないが、家事業やリフォーム業などは忙しい。
 庭仕事もあるか。でもヒマといえばヒマだろう。
 だからといって今から新しく事業を始めるだけのパッションは、僕にはない。
 熱意も、気力も、ビジョンも、ない。ないないづくしだから手出しはしない。

>>>

 早く整理を付ければその分、気が楽になるのは事実だ。
 来年には公正証書遺言を作る予定で計画をしよう。
 資産と呼ぶほどに該当しない、特殊な動産(趣味の品物など)の整理についてはメモ書き程度の自筆遺言を別途用意しておけばいいだろう。

 入浴前後でそう簡単に死ぬとは思わないが、なにせこの家は寒い。
 いわゆるヒートショックが起こらないとも限らないし僕の身体は梗塞を起こしやすい。
 ついでに庭木の剪定で高所作業の最中に、転落事故を起こさないとは誰にも言えない。
 たとえ命綱やヘルメットといった安全具を装備していても、仮想奥様という安全管理装置を用意しても、身体がひとつである以上、限界はある。

 今の僕には、死にも生にも期待はないが、僕以外の存命者に対して己の責任の領分であったものを無責任になすりつけるわけにはいかない。
 だからこそ暫定でも余命を設定し、それに合わせて行動しているわけだが、不慮の事故の可能性を考えると、もっと急がなくてはならないのだろう。
 しかし死は、一般的に不慮のものである気がする。
 予定され、あるいは計画され、もしくは予測された死というのは、そう多くないと思うのだが。

>>>

 昼過ぎに姉の家。
 天気予報で十年に一度の寒波、などと言われているが、実のところ昨日のほうが寒かった。

 姉と買い物に出かけ、料理の真空パックを手伝う。
 我が家のそれを、姉が使いたいというので持ってきた次第。

 明日は妹が家に来る予定なので、未明には姉の家を発つ。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
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[Module]
  -Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
 
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  -Human-Night-Poison-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230212
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
寂しさと色気とブラックホール。
SUBTITLE:
~ beautiful blackhole. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230212

 朝食のあと、チャイを作る。
 今日はシナモンとブラック/ホワイト/ピンクペパー、クローブ、ナツメグ、キャラウェイシード、クミンシード、ローリエ、生姜。
 以前は生姜を千切りにして冷凍保存したものを使っていたのだが、先日、ふと思い立ち、薄切りにしたそれに大量の砂糖と蜂蜜をまぶし、水分が出てきたところで弱火でしばらく煮詰めて生姜シロップを作った。
 どのみち僕の飲み物は甘くなる宿命なので、これを仕上げに入れればちょうどよいと考えた次第。

 上記のスパイスは、いくつかの店で飲んだチャイの味から(こんなスパイスかな)というものを見繕い、ついでに家に常備されているうち、あまり使われないもの(ローリエなんか相続するほどあるし、コショウやクミンシードは入れると美味しいけれど普通入れないだろう)も放り込んでいる。
 チャイのいいところは、少し辛くてもまたそれが美味しく感じられるところ。
 本当はカルダモンもあるといいらしい。今度買っておこうか。

>>>

 チャイを作っているとき、奥様(仮想)が「猫くん、専業主夫とヒモの違いって分かる?」と訊いてくる。
「ヒモは僕がなりたかったもの、専業主夫(仮想)は僕がなってしまったもの」と答えると「ちがーう!」と言われる。
 答えが分からない。ついでに教えてもらえない。

>>>

 正直なところ、ヒモというものに憧れたことこそあるが、僕にそれが成立すると思ったことはない。
 お金というのもある種のしがらみになって、双方を縛り付けるからだ。
 そして容易に縛り付けられるわりに、僕はそうした拘束を好まない自分を知っている。
 それに何より、自分の生活に生々しく他人が関わることを僕は苦手としている。

>>>

 ときどき、他人の日記を読んでいて思うことがある。

 文章に脈打つ寂しさを見て、とても色っぽく感じる。
 その文章を書いている人間の性別に関係なく引き寄せられるそれは、色気だ。
 血のように鮮やかで、生き物の匂いを立ち上らせ、あたたかなそれは ── やがて褐色になり、生臭くなり、凝固し、冷たく固くなってゆくだろうに。
 言葉に切り取られ、乾いて貼り付けられたはずの滴る液状に心を奪われそうになる。

 活きのいい金魚のほうが魅力的だという話を先日書いたには書いたのだが、真逆にも思えるそうした魅力もあるのだとは常々思っている。
 もちろん生き物が死にかけに放つ寂しさと、生き抜く上で放つ寂しさは、ちょっと毛色の違うものだけれど。

 誰かの持つ寂しさが人を ── あるいは僕だけを、だろうか ── 惹きつけるのは、それにちょうど共鳴する寂しさを持っているからだろう。
 劣等コンプレクス、己の弱さ、何かへの憎悪、誰かへ繋がれないことの悲しみ、強がりの言い訳、自分の正しさで苦しむ不器用さ ── 。

 抱えることさえむつかしいそれを、しかし手放すことができずにいる様はとても滑稽で、まるで仔猫を見るような気持ちになる。
 持て余すそれを、しかし諦められないのは、それこそがその人の本質だからだ。

>>>

 双子惑星のように「いいほう」のその人と「よくないほう」のその人が引き合って「その人」はできている。
 当然に傍からはその両方が観察されるわけであり、だから一方ばかりを他人に見せようとするのは(他人を惑わすという点において)むしろ損なことなのではないかと僕は思う。

 身の丈に合わない玩具と戯れようとする仔猫に、手を貸してやりたくなることはある。
 でもそんなことをすると、仔猫は驚いて逃げてしまうから、離れた場所からニヤニヤ(あるいはハラハラ)しながら眺めるよりない。
 世の中にはもちろん、手を貸すと喜ぶタイプの仔猫もいる。
 だからなおさら手を貸さない。

 仔猫はかわいいものだけれど、大人になった猫のほうがもっとかわいいからだ。
 犬でも猫でもそうだが、子供の頃から独りで遊べない奴はだいたい鬱陶しい大人になる。
 人間だけそうならないとは思わない。

 やがてその獲物を、オマエたちは容易に噛みついて、引っ掻いて、蹴りつけて、ボロボロにできるようになる。
 執念深くそれを追い詰め続けろ、と思う。
 獲物から逃げず、負け続ければいい。
 現実世界で負け続ければ、多少なり傷を負うものだが、ヴァーチャルな遊びの中なのだから、散々に、それを追い詰めてやれと思う。

 孤独の痛み。
 失ったものをたしかに失っていると実感する寂寥。
 かつてあったものを幾度となく失ったと気付く切なさ。
 失ったものがそこにあると錯覚したときの締め付けられる胸の疼き。
 今あるものをあると実感できない無様さ。
 そのいずれも。

>>>

 そうした「最初からそうだったわけではないのにできてしまった、冷たく哀しい引力を放つ空白」が、人に色気を生み出すように思う。
 そんな寂寥とした色気において、外見上の美醜はあまり機能しない。

 ルッキズムに塗り固められた人間は、そうした心の機微にあまりに無神経に思える。
 外見の美しさを否定するつもりはないが、誰かが誰かに寄り添いたいと思うのは、誰かが誰かに優しくしたいと思うのは「その人の外見が綺麗だから」だけでないくらい、容易に分かりそうなものだ。
 外見こそ魅力だと言い切る姿は勇ましいが、どこか幼く痛々しいのは、それが若さだからだろうか。
 外見が綺麗だからという理由で他人に寄り添う人がいたら、それは人の姿をした別のものだと思うのだけれど。

>>>

 図らずも空いてしまった洞が心の中で引力を持ち、己はどこまでもその奈落に突き落とされ、そして誰かが惹き寄せられる。
 ために弱さも醜さも、失敗も痛みも悲しみも。
 人の心を持って向き合っているなら、それらはその人の魅力に変わる。

 心は鏡だ。
 弱さに向き合う心は往々にして強いものだし、想い人に醜いと思われたくないと、美しいと褒めそやされたいと、怯え悩む姿は可憐で美しい。
 失敗も痛みも悲しみも寂しさも、誤魔化さず、その重みをきちんと抱え、涙したり笑ったり、怒ったり、誰かのせいにしたり、でもやっぱり自分のせいかな、なんて考え直したりするのは恥ずかしいしみっともないし、できれば誰にも見られたくないけれど、それを素直に大切にできるしなやかさは、その人だけの魅力になるだろう。


 自身に対して許せないことのあるその儚さを、誰かがそっと見守ってくれるはずだ。時に憧れさえするだろう。
 私はそうまで素直に真摯に自身の弱さに向き合ってきたのだろうかと、できることなら自分も、己の中の鏡を直視しようと努力しながら。

 ただ質量が高すぎるとブラックホールになってしまうから、それだけは気をつけて。
 確かジェダイの騎士も「フォースの暗黒面に気をつけなはれ」とかなんとか言っていたような気もするし。






 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
  女と金魚と餌。

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Eternal-Life-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Memory-Poison-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :衛星軌道でランデヴー:君は首輪で繋がれて:夢見の猫の額の奥に:Webストリートを見おろして:
 
 
//EOF


 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230130
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
他人の持ち物が羨ましい。
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230130

 世の中に羨ましく思う相手はあまりいないのだが、僕の友人に関しては、ちょっと羨ましいと思う。
 やり取りのある友人はだいたい2人くらいしかいないのだが、彼らには共通の友人がいる。

 その友人は、軽トラを持っているうえ、だいたいヒマなので、粗大ゴミを出したり引っ越しをするときに便利使いできる(もちろん逆に頼まれることもある)。
 一人暮らしで家族もいないので、時間やお金に余裕がある。
 なんとなく茶飲み話をしたくなったときも誘いやすいし、なんとなれば遊びに訪ねるにも遠慮がいらない。
 明日が休みで、なんとなく酒でも飲みに行きたいなんてとき、今日の今日に突然誘える気軽な相手としても、まずヒマだと思うので誘いやすい。

 なんのことはない。僕のことである。
 僕も、僕のように家族がおらず、一人暮らしをしていてとびっきりヒマな友人が欲しい。
 軽トラを持っていて、便利使いできて、いろんな工具を持っていて、お金を借りに来たりせず、無理な頼み事をしてきたりせず、予定を確認せず遊びに行くことができて、家に上がり込んでまったりすることができて、それらすべてに嫌な顔をしながら小言を言いつつも、実はそれらをまったく気にしていないような友人。
 未経験の趣味でも、一見退屈なことでも、嫌そうな顔をしながらも付き合ってくれて、最終的には一緒に愉しんでくれる友人。

 しかし残念ながら僕の周りに、僕のようなイキモノは、皆無である。
 僕の友人達が、しかし僕のことをそれくらい重宝しているかどうかは分からない。
 そもそも彼らは、僕を便利使いすらしない。
 まぁ、だから友達なのだろう。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Ecology-Form-Link-Love-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Transistor-
 
[Object]
  -Friend-Human-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:

 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230220
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
電子マネーなんか渡さねえよ。
SUBTITLE:
~ none but money. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230220

 9時に目覚める書類仕事の日。
 昨晩は22時には意識を失い始めたので眠り、何度か目覚める。
 悪夢を見て、ベッドも布団も汗浸しで目覚めたりした。
 猫を殺す夢。
 近所のゴミステーションがまた荒らされていたので、アヲの毒殺を真剣に考えなくてはいけないと、夜な夜な考えていたのが悪かった。
 数年前にベッド一式を新調したおかげで、布団の中で全身が冷えて目覚めることはなくなったが、高性能な羽毛布団は時々、冬の冷たい空気の中で驚くほどの保温力を発揮する。

 確定申告のためのものを含む書類整理は通常、四半期に一度はするようにしていたが、少し慣れてきたこともあり、昨年の夏から放置していた。
 ちなみに僕は公称「一人暮らし専業主夫」であるため、僕の業務を監督する人間はこの世界にいない(仮想奥様は虚数世界の住人だと思う)。
 とはいえ業務に関連した領収証や各種郵便物を分類保管しておくだけで、あとは分類に基づいて保存したり、整理提出するだけで済むわけだから、最初の分類保管さえしっかりしていれば、つまづくことは少ない。

 問題もある。
 僕が妹の分も業務を処理するのだが、妹の書類のほとんどは当然ながら僕の手元には届かない。
 妹は結婚しているので、別生計別所帯であるから必然だ。しかし不思議な名称をした一般家計の額を大きく超える額面の数々を、彼女は管理どころか処理すらできない。

 僕だって、初任給で自室用クーラを買ったとき ── 当時はまだ父上たちと暮らしていたが ── は手が震えた。
 月給にほど近い現金を電気屋で支払うのは、誇らしいというよりは恐ろしかった。

 妹の場合も同様、自分で見たり使ったりする以上の金額を扱うことに恐怖しているのだと思う。
 実際問題、僕と妹が抱えている負債は、父親の会社が倒産したときの負債を超えている。
 巨額の負債と一家離散は、おそらく彼女の記憶の中でだいたいイコールで結ばれているらしく ── 書類上の額面収入が高額だという理由で ── 旦那様の扶養を外れる可能性があると税理士に言われただけで「離婚しなきゃダメなのかな」と泣きながら質問してくる程度にはバカである。
 ためにその事務処理や各種の渉外業務を、すべて僕が管理しているというわけだ。
 こんな不思議な仕事をしている人間は、これまでの観察の範囲では僕しかいない。

>>>

 着替えてコンビニまでコピーに出かける。
 スキャナやプリンタを20代の頃は持っていたのだが、使用頻度があまりに低いため、印刷類はすべてコンビニか知り合いを使うことにしている。

 書類仕事用に ── 机に使っているスチール棚や書類キャビネットの一部はキャスタで自走できるため、自分を取り囲むようにして部屋から出られないように ──室内レイアウトを変更するところから開始。
 一部書類(妹名義のもの)の再取付けで2、3電話をして、昼過ぎには終わった。
 追加で届く書類を待たず、発送を掛けて今日の業務は終了。

 書類仕事の最中、僕は意識して喫煙しながら行うようにしている。
 ニコチンは「現在の行動を肯定的に脳に焼き付ける」作用があるので、事務仕事が嫌いな僕にはうってつけというわけだ。

>>>

 妹名義の書類で、数点不備がある。
 ひとつは役所で再発行が可能で、かつ ── 当然ながら ── 本人が取付けるのが手っ取り早いため、仕事終わりのタイミングでこちらに届けてもらう。
 もう一点、妹の自宅に届いているはずの書類がこちらに来ていないので、発行元に再発行を依頼した上で、妹本人に再確認を依頼する。

>>>

 自宅に来た妹と話していたのだが、妹の娘(僕の姪)は、僕から貰ったお年玉を使いたがらないらしい。
 ついでに言うと銀行にも預けたがらず、自宅の仏壇に飾ってある父上の写真の前にずっと置いているそうだ。
 理由は、ピン札だから。

 どうやら旦那様側の親族たちは、誰もピン札ではお年玉を渡していないらしい。
 僕には少し不思議な様式なのだが、そういうことを気にしない人もいるようだ。
 最後に一緒に暮らした女性(恋人としての認識さえ忘れてしまったので、名前も顔も分からない)も、僕がピン札を丁寧にストックしていることを嗤っていたので似た人種だろうと想像する。

 お金を「使う」ぶんには、ピン札だろうがヨレていようが破れていようが、問題はないだろうと思う。
 しかしお金は「使う」ばかりではない。
 お年玉や、ご祝儀は、相手に「渡す」あるいは「贈る」ものだから、僕はそういうときに慌てて銀行に行きたくないので、ピン札があれば必ずストックしていた。

 お年玉についていえば、相手が子供だからと見くびっているのかもしれないし、あるいはただ慣習として「くれてやる」くらいに考えているのだろうと推察される(僕が子供だったら、そんな大人は呪い殺すと思う)。
 結婚式のご祝儀なども、金額をやたら気にしたり、最近重なっててと愚痴を言うのが先になっている人がいて見苦しいと思うタイプの僕だったが、多分、彼ら彼女たちは祝う気もなければ贈りたくもなかったのだろうと想像する(僕が新郎新婦なら、そんな来賓は呪い殺すと思う。あ、新婦はないか)。

 たとえば大掛かりな自由診療(美容整形とかインプラントとか)を受けるときも、僕はピン札を渡す。
 それは使うお金ではなくて、渡すお金だからだ。
 特別なことに使うお金なら、相応に特別を伝える必要があるように思う。

 勝手な想像だが「贈ることの特別」を感じない人間は、つまるところお金を「自分が使うもの」として過剰に執着しがちなのではないだろうか。
 前述のとおり「使う」お金は、ピン札だろうがよれていようが関係なく使える。

 しかし買い物のおつりで端の切れたお札を受け取ったとき、ちょっと残念な気分になりはしないだろうか。
 ポケットの中で丸まったお札をお年玉として渡されたら、ちょっと触りたくないと思ったりしないだろうか。
 受け取るときは気になるくせに、渡すときは気にしないというのは、いささか無神経なように僕には思える。
 今も昔も僕は自分の取り扱うお金(自身の所得である場合も多い)を、あまり「自分のもの」として考えないまま生きている。
 たしかに万能交換チケットではあるけれど、僕自身が提供したサービスなどに見合う対価だと思えたためしがないからだ。

 労働など一定のフォーマットによって入手できる通貨は、たしかに対価として交換に使うことができるが、それによって相応の価値のあるものを手に入れたことになるわけで、使ったところで何も失っていないことになる。
 場合によっては価格以上の価値を感じるモノを手に入れられることもあるわけで、必然、そういうものは定価がいくらであろうと価値がそれよりあるという自身の価値観に基づいて入手して損のないモノになるわけだ。
(お金を「使って」「なくなる」と感じる人は、価値のないものを入手するスペシャリストなのだろう)

 それにしてもお金は基本的には渡したり贈ったりするものであって、そこに受け取る人がいて、提供される価値があり、それを認めて交換するのだから、使う側が偉いというものではないし、高額を支払う人がすごいというものでもないのだ。
 そのあたりを勘違いしている人が多分、接客業のスタッフに横柄な態度を取ったり、高額な商品を使ったというだけの動画やらニュースやらに興奮するのだろう。ずいぶん貧しい話ではないだろうか。

>>>

 姪がたとえ深く考えていなかったとしても「ピン札はもったいなくて使いたくない」と思ってくれたなら、それだけで嬉しい。
 同じ金額の、その些細な差が、つまりは人間の機微に通じているからだ。

「お金なんて、同額ならどれも一緒だ」となってしまえば、やがてお金に使われるような人間になるだろう。
 人の職業に貴賤はないというが、お金にも、生き方にも、仕事の仕方にも貴賤はあるからだ。

「男なら誰でもいい」とか「女ならどんなでもいい」という発言と同じことだ。
「カネなら何でもいい」というのは「労働力なら何でもいい」ということを侮蔑的に意味して自らに投射される。
 僕はそういう生き方をしなかったので、正しくそれを評価できる。
 人はそんな生き方をしてはいけない。
 何でもいい、というのは、己の選択でも優しさでもなく、怠惰な放棄だ。

>>>

 ちなみにピン札のうち、もっとも集めるのがむつかしいのは、5千円札である。
 だからといって電子マネーでお年玉を渡すような哲学のない大人に、僕は死んでもなりたくない。
 そういえば、かの人も親戚くらいはいたろうに、お年玉は渡していなかったのだろうか。







 

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~ Junction Box ~
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :夢見の猫の額の奥に:
 
 
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// TimeLine:230206
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
スターバックスは接待風営店か。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230206

 陽差しがあたたかい。
 歯医者の帰り、そろそろコーヒー豆が切れそうなことを思い出し、近所のスターバックスに寄る。

>>>

 僕が初めてスターバックス(以下、スタバと略す)で買い物をしたのは、ガールとデートの時だったか。
 敷居が高いとは聞いていたのだが(それならかえってチョロい)と思ったことを覚えている。
(実際チョロかった)

 ホテルでも飲食店でも、高いホスピタリティを売りにしている場所のスタッフは一定のセオリィで動いている。
 そういう場所に行ったとき、知らないことや分からないことは、そのまま「あっけらかーん」と「知りませーん」とか「わっかりましぇーん」と言えばいいのである。
 
 よく知らない用語の数々や、「氷抜きエクストラミルク薄くなっても構いません」
の呪文も、店員さんに教えてもらった。
 丁寧に、何度でも、親切に、教える。教えてもらえる。それがプロのセオリィだ。
 僕もかつてはプロだったので、そのくらいは分かった。だからチョロいと思ったのだ。

>>>

 しかし実のところスタバはキャバクラと一緒である。
 いや断言してはいけないか。
 キャバクラと一緒のように思える(※個人の感想です)。
 どう考えても接客マニュアルに、過剰なフレンドシップの構築が指示されているように思えてならない(※個人の感想です)。

 ドリンクを頼むときはルーチンワークで終わることが多いのだけれど、豆を買いに行くとたいていトークが始まる(※個人の感想です)。
 やれ「いつもこのお豆なんですか?(きゃるん♡)」。
 やれ「深煎りがお好きなんですか?(にぱぱ♪)」。
 やれ「普段はどんな飲み方をされているんですか?(きゃるるん☆)」。
 やれ「ただいまご用意しております。こちら新発売となりました○○です。お飲みになってお待ちください(きゅぴるん♡)(もう記号のネタが切れたよ)」。

 そして僕は基本的に豆しか買わない。
 疫病が流行する前から、あんなオープンな場所で独りカフェを愉しむような、高雅な趣味も性格も持ち合わせていない(豆買ったら自宅のマシンでいい感じのを作ればいいじゃん。ミルもエスプレッソマシンも持ってるんだし)。
 あんな小洒落た雰囲気スポットで「小洒落たワタシ」を演じるだけの技量が僕にはない。見せようという気力も見せる相手もない。

 店内で買うからこうなるのかと思い、近所に出来た店舗ではドライブスルーを利用することにした。
 これまでのケースでは、ドライブスルーでも必ずトークタイムが展開される(※個人の感想です)。

 初回はちょうどアヲが(肩に)乗っていて、炎天下で車内に置き去りにするのが危険な温度だったこともある。
 これはダメだった(※個人の感想です)。
 カメラに向かって「なー」と鳴くアヲを見るや「じゃあ、猫語で注文してください(にゃるん♡)」と言われた。

 小娘貴様。オマエ言うに事欠いてこんなおっさん捕まえて猫語オーダを逆オーダしてくるとはいい度胸じゃねえか ── と思いつつ「うにゃ……フレンチローストをひとつ欲しいにゃ」と答えさせられる47のおっさんの自意識の行き場について諸君も思いを馳せよ(黙祷)。
 こっちは四捨五入を二回すると齢100にもなるんだよ。おまーら知らないだろうが正体は猫ナンダカンナ! おまーらよりも上位種なんだカンナ! 尻尾が多いんだカンナ! だから無茶振りするんじゃねえ。断りづらいうえに恥ずかしいじゃねえかどうしてくれるんだよ。
 シャー!(心の叫び)

 商品受け取り窓に到着したらしたで、店員のガールが寄ってたかって「やだかわいー♡」「えぇ〜逃げないんですかぁ」「お利口さん〜♪」「目が綺麗〜☆」「抱いて〜♡」といった具合の囲み取材をしてくる(僕ではなく猫に。あと最後のは嘘です、言われていません)。
 しかも紙袋が不要なので一度「紙袋は不要です」と言ったらそれを覚えたらしく、次から紙袋不要と伝えるたび「いつもありがとうございます」って2〜3人が寄ってきてお礼を言われる始末……。
 月に1回くらい豆買いに来るだけの奴を太客みたいに扱うな(※個人の感想です)。

>>>

 というわけで、スタバでコーヒー豆を買うと漏れなくガールのスタッフどもが(きゃぴるん♡)といった感じで話し掛けてくるので少し困ります(※個人の感想です)。
 おそらく「コーヒー豆を買うだけの客は利益率が低く、利益率の高い商品のリピータになってもらうため、いつもより距離感近めで世間話をするように」というマニュアルが存在するのではないかと想像する(※個人の想像です)。

 そもそもスタバでコーヒー豆を買う人を、まったくといっていいほど見たことがない(※個人の感想です)。
 どうかコーヒー豆をスタバで買ったことのある人がいたら教えて欲しい(※個人の依頼です)。
 あなたにも、そんな風にぐいぐいスタバのスタッフが距離を詰めてくるのか(※個人的疑問です)。
 詰めてこないなら、なにゆえ、どうすれば距離を開いて置いてもらえるのか。
 ぜひとも。なにとぞ。よしなに。







 

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[NEXUS]
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  :青猫:黒猫:
 
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// TimeLine:221202
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
砂漠の旅人。
SUBTITLE:
~ Desert Traveler. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
221202

 先日、ついいつもの癖で、酒席に相合わせた初対面の人と連絡先を交換してしまう。
 僕は基本的に独りで呑むことが多く、積極的にこちらから話し掛けることはない。
 そもそも僕と話の合う人がそう多くないことは自覚しているし、料理を愉しむときは料理と、酒を味わうときは酒と、相対し黙して味わうことを至上としているので、たとえ行きつけの店であっても他のグループや酔客に興味を持つことは少ない。

 それでもそうした場で、誰かと親しくなることはある。
 僕の場合は決まって年下の男性である。
 対外的な影響を推測するに、スリーピースのスーツを着て背筋を伸ばしてカウンターで独り飲んでいる中年男性に話し掛けるのはかなりハードルが高いものと思われる。僕だったら絶対に話し掛けたりしないし目も合わせない。

 かなりカジュアルな私服の時や、作務衣のときもあるが、カウンターに座っている中年男性というのは基本的にそっとしておくべきものである。
 とはいえ止まり木の隣同士となると軽く挨拶をしたり、ちょっとした世間話をするのが社交の礼儀といえばそのとおり。それがきっかけで(仮にその場限りであっても)意気投合することは少なからずある。
 なぜといって、わざわざ無視したり敵対する理由はないからだ。
 これは遠方の温泉で見知らぬ誰かと居合わせたときの心理にも似ている。

>>>

 もっとも僕の場合、立ち居振る舞いが最初から少し特殊なため、だいたいの人から敬遠されがちだ。
 僕からすると一般の人はがさつで無神経で騒々しいし、一般の人からすると僕は気取った変人に見える。よって(幸か不幸か)女性もほとんど近づいて来ない。
 年上の男性は基本的に特殊な気配の年下男性に興味を持たない。
 結果として、僕と親しく話ができるのは(変人を知らないか、変人に興味を持つ類いの)年下の男性が多いことになる。

 もちろん酒席で親しくなった人の中には、同世代、あるいは年上の男性もいるし、女性も数人はいる ── といっても顔を合わせたら軽く挨拶をする程度の知り合いだが。
 単純に、独りで行動できる人間かどうか、ということがキーになっている気がする。
 僕は3人以上で行動することは非常に稀だし、2人で行動することも珍しい。
 どこに行くにも何をするにも独り、もしくはプラス猫である。

>>>

 悪く言えば僕はグループ行動における配慮というものを知らない。
 恋人や友人、家族を含め1対1なら存分に自由に振る舞うことができ、なんとなれば料理の取り分けやオーダの細かい(摂取制限により塩分少なめ、甲殻類はアレルギィでダメとかいった)アレンジなど相応のサービスを提供する(してもらう)ことも可能だ。ウェイタ歴が長いのでそのあたりはお手のものである。

 一方で4人以上のグループになるとそこには ── たとえ潜在的にであっても ── 必ずヒエラルキィや暗黙のルールが発生する。
 僕はまずそれが読めない。
 集団に存在する暗黙のルールは、学校に猫を持ち込むことさえ許されて生きてきた特例の塊みたいな僕にとって、解読不能の教典なのだ。

>>>

 そういう集団生活のエアポケットのような僕にとっては、だからふとしたときに気が合う相手というのはそれだけで特殊なのだ。
 それで次も誘い合わせてお酒を交わすために連絡先を交換する習慣を、およそ5年前に作って持っていた。
 その習慣をつい先日も発揮してしまったというわけだ。

 しかしよくよく考えるとこの習慣を僕はもう利用しない。
 なぜといって、この先は新しい友達や知り合いや恋人をなるべく作らず、可能な限り関わり合う人間を減らすことを決定しているからだ。

 非凡に非凡を重ねた結果、多くの人と相容れない価値観と生活様式をして日々過ごしている僕が、平凡に暮らす人と親しくなったところで、価値観か音楽性の違いから決裂するか、そうならずとも互いにストレスを抱えることになるのは目に見えている。
 そもそも独りでいることに不自由を感じず ── まさか。自由こそは孤独であり孤独こそは自由である ── 不満もなく、その上タイムリミットまで設定している僕にとって、もはや時間や手間を掛けて新しい人間関係を作ることに価値を見出す必要はない。

 失望しかないとまで言わないが、互いにどれほどのメリットがあるのかと考えるとさほどの積極性は必要ないと思ってしまうのである。

>>>

 ために通常なら翌朝には必ず連絡をするのだが、今回は放置した。
 煙草やお酒をよく勉強している面白い青年だったのだが、僕が関わりを持ったとして、互いに良い影響があるかというとさほどでもないように思えたのだ。

 人間を悲観しているわけでも、人間関係に希望を持っていないわけでもない。
 ただもっと尻すぼまりにしたほうが良いと思ってしまっている。

 一般的な人ならば、それでも誰かと関わり合いを持った方がよいのだろう。
 多くの人にとって、孤独の自由は冷たく乾燥し、寂しいもののはずだ。
 僕の場合も同様。
 徹底した自由の孤独は、まるで砂漠の夜を歩いているかのようだ。
 ただその冷たく寂しい有りように苦痛を感じない。
 望んだ旅が、道が、そこにあるような気がして。







 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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  :黒猫:
 
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[Cat-Ego-Lies]
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// TimeLine:230202
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
でもやっぱり違ったな。
SUBTITLE:
~ The Prime number. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230202

 昨日、歯医者で抜髄したため1日身体を休める。
 もちろん会社員だったら、ちゃんと起きて、ちゃんと会社に出かけて、ちゃんと業務をこなしたと思うけれど、僕は猫だ。
 だから
具合の悪いときと悪そうなときは、ただただ眠るのである。
 起きていてもすることないし、なんて思っていたら燃えないゴミを出す時間を寝過ごした昼前。
 寝直せばいいさ。明日があるさ。明日は燃えるゴミだからちょっと関係ないさ。

>>>

 希死念慮というか、死にたくなってしまう人間は、きっと今も、どこにでもありふれて、あふれているのだろうと思う。
 僕は常に、もう少し先の年齢を目標に設定して、先延ばしにし続けて、現在に至る。
 17歳、19歳、23歳、27歳、31歳、37歳……素数が多いのは、たぶん僕が素数に思い入れを持っているからだろう。
 先延ばしは技術だ。怠惰は能力だ。
 だから僕は、53歳で死なず、57歳で死なない。もうここまで来ると、59まで生きるのと65まで生きるのは変わらないように思う。
 しかしこの身体を自由に殺せるうちに、死にたいとは思う。
 可能な限り自力で、可能な限り孤独に。

>>>

 それにしても65は、現時点の僕にとって
一般的な定年の年齢という意味を持つに過ぎない。
 かつてはそこまで生きられないと思っていたが、今はどうにでもなるようになった。
 ただ生きる目的がないだけで、それさえ惰性で乗り切れる気がする。
 僕はもう、自分の生死にあまり深刻な価値を見出していない。

 ちなみに27は素数ではない。3の3乗で、僕にはちょっと特別な数字。
 ルービックキューブのように、三次元の立方体を思い浮かべると、ちょうど外面に一切接触しない、単一のキューブが真ん中に隠れている。
 他の正多面体でも似たような構造はあるが、キューブほどシンプルでキュートで綺麗なものは少ないように思える。

 そういえば恋人が27人だとずっと言っていたが、それもこの3×3×3のキューブに由来した数字である。
 つまり27人より少なかったり多かったりすることもあった。
「27人(以上)は嘘だろう」という人もいたが、おそらくそういう人をイメージできなかっただけだと想像する。
 人間は常に自分のスケールでしかものを把握できないから。

 社会は常に最小公倍数的に物事を構築しようとするが、個人や集団が認識できるのは最大公約数的なイメージだ。
 素数的な存在にあっては、沈黙するより仕方ない。

 ちなみに27について、3の3乗のことを言及する人がまったくいなかったのは不思議だ。

>>>

 いくつになってもそれは消えない。
 自分が無価値に思えることは当たり前だし、自分の人生だとか、生きていることに意味があるなんてそれ自体がおこがましい思い上がりだと何度となく思い知らされる。

 そうなんだ。意味なんてないし価値もない。
 その意味も価値もないものを維持するために、意味を探して、価値を提示して、とりあえず今日の米と塩くらいは買えるように生活を維持しなくてはならない。
 それがたまらなく無価値で矛盾している気がして、いやになってしまうのではある。
 しかし実に、死ぬ価値さえ与えられていないのだ。

 意味も価値も、だから誰かが与えてくれるものではない。
 自分でそのへんをほっつき歩いて、なんとなくそれっぽい意味とか、価値とかを見つけたり、掘り出したり、刻み込んだりしながら「でもやっぱり違ったな」って放り出す。
 だから僕が墓石を作るなら墓碑には「でもやっぱり違ったな」と刻みたい。

 ただ違ったわけではないし、繰り返した挙げ句、信じた挙げ句、疑った末、でもやっぱり違ったくらいがちょうどいいような気がする。
 何か確信めいたことを、生きているうちには手に入れられないだろうと思う。
 2/3(日付ではなく人生の全行程に対する分数)を過ぎて未だに思うからずっとそのままだろう。

「やっぱり違った」だけでではない。「でもやっぱり」違ったのだ。
 これでいいと思っていたのだけれど、でもやっぱり違ったな。というのがいい。それが最後の言葉で、墓碑に刻まれるとしたらなんて清々しいだろう。
「これでよかった」とかそういう、一見肯定的で、前向きで、潔いのもいいとは思う。でも僕には合わない。

 あれも試した、これもやってみた、こういうのも信じてみた、こんなことも実践した。
 こんなことを考えて、こういうことを好んで、ああいうことは嫌った。
 でもやっぱり違ったな。
 そういう感じ。

 本当は「でもやっぱり違ったかな」くらいなのだけれど、ここは言いきりたい。
「違ったかな」なんて問いかけると誰かが「そんなことないよ間違ってなんかないよ」と言いくるめてきそうだ。
 間違ってるかどうかじゃないんだ、違うかどうかなんだと言ったところで通じるはずもない。

>>>

 死にたくなってしまう人たちが持っている気持ちは疑問は、間違っているとかではなくて、違っているかどうかなんだ。
 たとえ間違っていても、正しくなくても、ぴったり一致する波のようなものがある気がしていて、それが生の中にもしかして含まれておらず、ともすれば死の中に含まれているのではないかと思ってしまうのだ。安易だけれど。

 それはそうだ。
 誰だって、せめて何かと一致していたい。
 正しくなくても、間違っていてもいいから、何かと一致していたい。
 たとえば誰かと一緒であっても、あるいはなくても、自分に含まれる何か重要な意味を持つものが、自分以外のどこかに、重要な意味として同じように存在していてほしい。

 せめてそんな予感くらいは信じていないと、生きることに希望なんて見出せないではないか。
 だからそれを、なんとなく眺めながら「そうだといいね」なんて言っていられるような場所に僕はいたい。
 僕の場合はもう「でもやっぱり違ったな」という結論を今はしているので。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Life-Link-Mechanics-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-
 
[Object]
  -Human-Memory-

// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :いのちあるものたち:ひとになったゆめをみる:
 
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230122
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
「TRIGUN STAMPEDE 第3話」までを見た。
Written by BlueCat

// ----- >>* Lead Division *<< //


::いい気分だろう?
  これ見よがしに奴らを助けてやって感謝されるのはさぞかし。
  孤独が、癒やされるはずだ。


 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230122
 
 2話までを観ていて思ったのは、シーンモデルの少なさと、それを感じさせない作り方。

 たとえば1話で決闘の主戦場になる崖の上の岩場。
 背面の崖と地面のモデルとテクスチャはかなり簡素に作られているように思える。
 クラスタ弾をすべて収めるため遠景に引いたカメラでも、街の全景ではなく尖塔のような岩が映されるだけだ。
 ジェネオラ・ロックの全景はほとんど映されたことがないから、街の全景イメージや形状は理解できないのに、ジェネオラ・ロックがどんな場所で、どんな質感で、主要な施設がどんなであるかを適切に伝えている。

 2話の戦場となる突き出した橋梁のような場所も、同じように簡素なモデルとテクスチャを上手に使っており、それによってジェネオラ・ロック全体の雰囲気をうまく伝えている。
 街の中での接続などはまったく分からないのに、街そのものを表現し、伝えることには成功している。
 僕は趣味モデラなのでつい、見えない部分まで詳細に作り込んでしまう(結果、伝えきる前に駄目にしてしまうことが多い)が、プロの仕事を感じずにはいられない。
 適切な省力化が行われており、しかし手を抜いて、あるいはちっぽけなスケールに感じさせないのは相応に緻密な計算と最適化の結果だと思える。

 3話でさらに新しいシーンモデルが現れるが、やはり全景は理解できないまま街はついに瓦解する。
 EGボマーは颯爽と登場し、あっさり殺される。
 そのスピード感と容赦ない殺戮の数々。ナイヴズの登場と圧倒。
 女子供が殺されるシーンは注意深くさらりと描かれているが、相手を選ばず躊躇なく振りまかれる暴力に対する恐怖をうまく伝えていると思う。
 煙の中で階段を移動するナイヴズの足運びの表現も秀逸だ。

 EGボマーの頭に銃を突き付けるヴァッシュの表情や声の演出は、1話で見せたドジキャラを払拭する。いいシーンだ。

>>>

 視聴者レビューには、原作と異なること ── あるいは設定の流用 ── を嘆く声もあるが、こうした「作品を純粋に楽しめない層」が生まれることは、原作のある作品のむつかしさだろう。
 しかし僕が作り手ならばこうした声を単なる雑音として認識するとは思う。
 作品の評価として見当違いだからだ。

 以前も書いたが、原作が良ければ原作さえあれば良く、それを正確にトレスするだけの別メディア作品など、ただの資源の無駄に思える。
 どのモチーフをどのように活かすかなど些事であり「何を伝え、何が伝わるか」が作品のすべてだし、この作品なら「TRIGUN」あるいは「ヴァッシュ・ザ・スタンピード」を伝えられたなら、それで成功なのだ。
 そしてそれは、今のところ成功しているように見える。

『お前は/あいつは、どっちの味方なんだ』という台詞。
 それを幾度となく向けられ、突き刺され、彼我の間で宙ぶらりんにされるヴァッシュ。

 彼には味方がいない。
 守ろうとした者も、退けようとした相手も、彼らが対立をするため、搾取も争いもやめないために。
 両者の間に立って融和を求める強者は、涙を流す資格さえ持たないのだ。
 誰かを守ろうとしたことに対する報酬が虚無のような孤立なのだとすれば、こんなに哀しいこともない。
 そしてそれは往々にして現れる真実のように僕には思える。

 味方を作る方法は簡単だ。
 たとえば弱者であり続けること。
 たとえば対立の中にあって、融和など訴えず、考えもせず、争いと攻撃と保身と復讐に身を投じること。
 たとえば敵をいつまでも作り続けること。
 そうすれば、いつでも簡単に、味方を作ることができる。
 その安っぽさをさておいても、そうした味方を作って徒党を組む連中は現実世界にも観察されるように思うがどうだろう。

 味方になるのはシンパシィを感じたからか。
 それとも敵対しない方が得だったからか。
 正しさを訴えるのはその正しさを証明するためか。
 それとも過てるさらなる弱者を作り上げて攻撃するためか。

>>>

 原作と派生作品との関係は、フルーツ入りマヨネーズソースのサラダのようなものだ。
(あるいはピッツァや生ハム、酢豚でもいい)
 新しい要素を含んだそれを渾然と楽しめる者もいるが、許容できない者もいる。
 フルーツはフルーツで食べられるのに、サラダはサラダで食べられるのに、そのマッチングに嫌悪する。
 フルーツにマヨネーズ。サラダに甘いフルーツ。
 許容しがたいと、僕も子供の頃は思っていた。

「サラダはサラダ、フルーツはフルーツ」と思っている人は、両方が一体化した料理を料理として認められず、味わうことができない。
 それは単なる嫌悪感に過ぎないのだけれど、嫌悪感はきっと生きる上で大事なものなのだろう。
 僕だって最初(第一話の前半)は、ちょっと嫌悪感を覚えたから、それが分からないわけではない。

 嫌悪感のままに嫌悪し、分けて食べる(あるいは分けても食べない)幸せもある。
 嫌悪感の有無はともかく、ありのままを味わう幸せもある。

 オリジナルの呪縛から離れられない人は、ミリィの不在、メリルの職業、ヴァッシュの髪型や眼鏡、etc.,etc...あれやこれやと不満を唱えている。「これはTRIGUNじゃない」という
意見まである。

 何かが足りない。何かが余計だ。
 確かにきっとそうだろう。オリジナルに足りず、オリジナルに蛇足し ── 。
 では何がどうなら「JUST TRIGUN」なのか。

 3話までしか観ていないが、十分に「ヴァッシュ」の葛藤や苦しみ、孤独が描かれ、充分に「TRIGUN」として鑑賞できると僕は感じている。







 

// ----- >>* Escort Division *<< //


::お前は変わらない。口先だけの夢想主義者だ。


 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
「TRIGUN STAMPEDE Episode 03」
によりました。

 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:青猫β:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Diary-Ecology-Mechanics-Stand_Alone-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Reactor-
 
[Object]
  -Contents-Human-Memory-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :本棚からあくび:Webストリートを見おろして:
 
 
 
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