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// NOTE:
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TITLE:
不定形の祈り。
SUBTITLE:
~ Unformatted grace. ~
Written by BlueCat

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//[Body]
230217

 服を着ていないような寝起きの思考は、自分というものが一体何者であったのかを想起するのに、ときどき思った以上の時間を要することがある。

 ぐにゃぐにゃと不定型なそれにあって、僕はまず自分の身体を思い出す。
 すべての快も不快も、この人間の身体をフィルタして僕に到達する。
 そして僕が猫であることを思い出す。猫を自称している人間なのか、猫だったはずが呪いで人間になったのかは知らない。

 そのあたりになると、少し気持ちも落ち着く。
 人間であることは同じ人間達による形成圧力が高いため、たまに疲れてしまう。
 猫だったらそのあたりは緩いわけであり、人間でもなく猫でもないなら、どちらであることを強要されることもなく、とても安心というわけだ。

 もちろん僕の知人たちはすべて人間なので、彼ら彼女たちの前で僕は人間のフリをする。
 40年以上もそんなふうに暮らしているから、慣れたものである。
 ただときどき、ちょっと飲み過ぎた朝などに、自分が何者であったかを思い出すのに手間取る。
 相反するものを、あまりに多くパッケージしているために、破裂しそうになるのだろうか。

>>>

 僕が直接の被害者になったことはないが、性被害やDV被害に遭った人間達が感じる無力感、人間に対する憎悪や恐怖や哀しみと絶望、そして自身を含めたすべての人間の死を希う類いの呪いについては自分なりに分かる。

 どうすれば、そこから人間は再び回帰できるだろう。
 人間を信じ、安心し、攻撃せず、赦し、つまりは自分を信じ、安心し、攻撃せず、許すことができるだろう。
 生きることを信じ、生きることに安心し、生きることを攻撃せず、生きることを許すことができるだろう。

 たとえば僕の場合は、動物と暮らすことでアニマルセラピィじみた効果をずっと受けてきた。
 子供の頃から(とくに)猫と暮らし、自身が猫であれと思うようになって久しいが、自身が猫であることは僕にとってある種の救いでもあるのだろう。

 苦しむべきは加害者なのだろうけれど、苦しむのは被害者だ。
 同じような構図は他にもあるのだろう。
 考えるべき人間と考える人間だとか、行動すべき人間と行動する人間だとか、そういった具合に、世界は理不尽や不条理を抱えて進んでゆく。

 だから怒りは怒りのまま、哀しみは哀しみのまま、不信は不信のまま、呪いとして作用する。
 その苦しみにあって、もしかしたら自分こそが加害者なのではないかと思ってしまうことさえあるように思う。
(僕が誰にも加害していないなどと、僕はまったく思っていないが)
 すべての他者を呪うことは、自身のすべてを呪うことに等しい。

>>>

 僕が自分の寿命を設定したのは子供の頃だった。
 そんなに長く生きる必要を感じたことは無いし、生きることに意味を見出したこともない。
 ずっと死すべきものとして自分を定義してきた。
 自分に生きる価値がないと思ったわけではない。
 その価値は自分ではない誰かが決めると思っていたから。
 ただ純然と、殺すべき対象として自身を標的していた。

 それを普通に他の人に話せるようになったのは最近のことだ。
 理由はあったけれど、それを説明せずにも、ただそう思っていたと言えるようになった。
「猫くんの将来の夢は?」「僕を殺すことです」

 場当たり的に面白いと感じることばかりをしてきたわけではないが、心底嫌だと思ったことはしなかった。
 結果的に、好きなことばかりして生きてきた気がする。
 気がつけばまるで猫のように好き勝手に生きている。

>>>

 昨日、裏庭のもっとも高い木を梳き剪定した。
 不安定な足場で不自然な姿勢を長時間続けるのは相応に負担だったようだ。
 作業を終えて夜、前橋の温泉に行き、3時頃まで飲酒して帰ると喉が痛かった。

 普段使わない筋肉が重く痛む。
「猫様は風邪の可能性があるためお休みください」と言われ、昼過ぎまで眠っていた。
 混乱しているのはそのためか。

>>>

 おそらく人間に対する絶望は、けれども、たとえば怪我のように回復が可能ではないかと僕は考えている。
 だってそうでないなら救いがない。

 僕についていえば相当に回復して、あとは自分で心を開くだけだろうと認識している。
 問題は、それをするにも余命があまりないことだ。
 社会の一部としてうまく機能できるようになるということは、集団にとってかけがえのない領域をときに占有することでもある。

 そんなことを気にしていても仕方ないのだろうけれど、そんなことばかりを考えているうちに集団に帰属しない性質を持ってしまった。
 新しい友達ができそうになっても、それを避けるように逃げてしまう。
 親しくなりたそうにこちらを見ている人間に背を向ける。

 実のところ誰かに攻撃されるとか、何かを奪われるとか、そうした被害を恐れているのではない。
 僕はもう、自分のことなら十分に守るだけの強さがあって、誰にも自身を奪わせたりはしない。
 ただ一方で、誰かを攻撃しないかとか、誰かから何かを意図せず奪うことがないかと考えると、どうしても絶対にないとは言い切れなくて戸惑う。

 もちろん意図的に誰かを攻撃したり、何かを奪うつもりはない。
 ただ何の気なしの言動や、僕にとっての当たり前のことが、誰かを傷つけることがないと、僕には断定できない。
 先に述べた「集団におけるかけがえのない領域」に自分が位置することは、すなわち自分の不在によって一時的にであれその機能に空白を生むことも予定されることになる。

 仕事なら、ある程度の引き継ぎなどを各自の業務の一環として、生まれる空白のサイズを最小化する試みが実現している。
 では友人や恋人や家族なら、その不在による空白をどうすればいい。
 引き継ぎなんて概念自体が馬鹿げていると笑われても仕方ない気もする。
 最小化する手段さえない空白を、そのまま受け容れられる相手なら問題もないだろうけれど、自身のキャパシティを超えてしまうとしたら、それはどうすればよいのだろう。
 その空白を受ける側ではなく、与える側だと自分を定義した場合、どのような対策を取れるというのだろう。
(だから人間型の恋人には浮気相手を作ることを時に推奨してきた。もちろんそういうのはしようと思ってできることではないのだが、生きていれば色々なことがある。そのときは躊躇なくチャレンジしてほしいと思っていた ── 人生は保守と退屈の連続であると同時に、冒険と挑戦の連続でもあるのだから)

 友人や家族や恋人がいなくなることの痛みは、人によって大小はあるだろうけれど、なんらかの傷跡が残るのは通常だろう。
 そういった現象のすべてをまとめて引き受けることが可能な人もいるけれど、では人間のすべては、それを受け容れているだろうか。
 あらかじめ自身や他人の不在が予定された、カミサマのスケジュール表のようなものを見ているだろうか。

 俺も死ぬしあいつも死ぬ。
 嫌な奴も死ぬが、いい奴だって散々に死ぬ。
 いつだか分からない「いつか」。
 あるいは自身によって明確に設定された「いつか」であったとしても。
 その事実を、何の感慨もなく眺めることができるだろうか。

 


>>>

 それでも、そう。
 絶望や怒りや恐怖を抱え、後悔と呪いと加害に怯えるよりは、ずっといい生き方だろう。

「自殺したいと思った事なんて一度もない」と言う知人がいる。
 彼は僕より年上で、ロックバンドのヴォーカリストとして、破天荒な若者時代を過ごし、27歳で自分も死ぬだろうと思っていたのにそうでもなかったらしい。

 真意は分からないが、いずれにしても僕と違って迷いのない、強い生き方だ。

 自身も他人も呪って生きることだって、確かに愉しい。
 でも呪いの闇を知っていればこそ、それが深ければ深いほど、かすかな灯りのあたたかさを、僕らはよりよく知っているような、知ることができるような気がする。

 すべてを呪うすべての人が、いつか、その灯りとあたたかさを、自身の手で作り出せますように。
 誰かを照らし、あたためることができると、知ることができますように。






 

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TITLE:
お酒とお金と自意識にまつわるいくつかの分析結果。
 
Written by BlueCat

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//[Body]
230301

 昨晩、近所で贔屓にしてもらっている(しているのではない)飲食店に行く。
 たまたま同席していたボーイエンガールに連れられて、太田市内のカジュアルなバーへ行き、朝方帰る。

 以下雑感。

>>>
【自身にそうした記憶がないわけではないが20代の頃の自意識って痛々しい】

 特に誰かに見せるための自分を演出して演じて、それが総じて本人の自負しているレベルにまったく到達しておらず、にもかかわらず自身だけはその自分を信じている場合は。

 たとえば「自分は完璧です」とか「天才です」と自分だけが語っている場合。かつ周囲の人は普通に接している場合。
 完璧な人間 ── が仮にいたとして、それ ── が周囲にただただ自身より劣る他人を配するとは思えない。

 完璧な人間にとって凡俗な他者は邪魔な障害か、せいぜい不完全な機能を提供する愚劣な道具にしか思えないだろう。
 天才も同様、平凡で退屈な集合との間に満足しうるだけのコミュニケーションを持てず、嫌気が差すだろうと思う。
 だから周囲に他人を配するわりに「完璧だ」などと自身をして嘯くような人間は、寂しさを埋める糧に他人を利用するにも関わらず、自覚しないどころか他人すべてを見下している、ずいぶんと情けない人間なのだろうと想像する。


>>>

 でも若いうちは仕方ないのかもしれない。
 根拠のない自信は清々しいものだ。
 それに根拠のある自信だっていずれ衰えてしまうから、時代遅れになった自分自身の、衰えた精神を支える寄る辺にしかならないとしたら、そもそも自信なんてない方がいい。
 だから僕は「自分に自信なんてありません」ときっぱり自身の弱さを宣言できる人が好きである。

 その人の存在の価値なんて誰にも分からないけれど、その正直さは絶対的な美徳だ。
 必死になって自身のアイデンティティを捏造するくらいなら、空っぽの自分の虚ろさを嘆いて涙しちゃうくらいのほうがかっこいいと思う。
 何もなくていいし、何もない方がかっこいい。

>>>
【奢るとか奢られるとかについて】

 webでも最近、流行っていたようで。
 男が奢れだのなんだのという、よく分からない価値観。

 もちろんガールがファッションやメイクなどにお金を掛けているというのは事実だろうし、できるなら事実であって欲しい。
 僕などは整形もメイクもしないしファッションもテキトーなので外見にはろくにお金が掛かっていないが、外観に気を遣ってお金を掛けているボーイズがいるのも事実だろう。
 そうなると外見について見えない部分に掛かっているコストについては、一概に性別でどうだ、というものでもないように感じる。

 個人的には「より持っている方が払う」というのでいいと思うし、だいたい同じだったり、互いの経済力がよく分からない場合は割り勘や個別会計でもいいだろう。
(たとえば僕は貧しいことが多かったので、恋人に奢ってもらうことは普通だった。だからといって恋人にお金を使いたくないということではない。お金なんて必要とされるぶんをその場にいる誰か ── ひとりだろうと全員だろうと ── が払えるならそれ良いと思うのだ)
 とにかくお金にまつわることで「フェア」というものを過剰に意識する人間というのは、そもそも物事の価値基準が不安定なのだろうと想像する。

 そもそも人間関係なんて不条理で定量的な観測が不可能なものだ。
 そこに厳然と数値化されている経済を持ち込んで、正しさや公平さを論じること自体がナンセンスなのだが、世俗でお金にまみれてしまうと、人はそういうことにまでアタマが働かなくなるのかもしれない。

>>>
【過ごす時間の価値と価格】

 しつこいくらい書いているが、人間はモノやサービスによって過ごせる時間の価値を自身の主観で感じて決定することができる(価格ではなく価値、である)。
 自身で決定したその価値が、相手やモノに設定された価格より高いなら交換すれば良い。
 お金を使うというのは、たったそれだけのことである。
 そしてこういう使い方をしている限り、たとえ貧しくても損はしない。

 たとえば何かを使ったり所有していることで有意義な時間を過ごせる場合、それによって生み出せる時間/経済/精神/肉体効果が売値より高いと自分が感じるなら、それを買えばいい。
 くれぐれも「値引きされている」とか「他の誰かがうらやましがる」とか、そんな基準で選ばないことだ。

 おなじく誰かと過ごしている時間が愉しい(あるいはそうなると予測される)場合、それによって過ごせる時間/経済/精神/肉体効果に価値を感じ、それを自分(もしくは自分以外の誰か)が払いたいだけ払えばいい。
 嫌なら払わなければいいし、そもそもそんな場所から早々に去るべきだろう(僕ならそもそも参加しないが)。
 くれぐれも人間は値引きされたりしないし、誰かが関係性をうらやむこともないと思っておいた方がいい。
 なぜならそんな風に思うようになった人間は、少し別のナニカになっているからだ。

 僕なら恋人とデートして愉しかったら支払いはしたいと思うし、相手からも「お金を払ってもいいからまたデートしたい」と思って貰えるようにしたいとは思う。

 だから「奢りか割り勘か」問題を見るたび「みんな必死に他人を値踏みしているけれど、自分にそんなに価値があると思っているのだろうか」と疑問に思う。
 また同時に、支払いが気になるくらいなら、そもそも一緒に過ごさなければいいのに、と思う。

 お金が掛からなくても時間は掛かるので、退屈な、あるいは嫌な思いをするくらいなら、ヴァーチャルで遊んでいればいい。
 SNSで「みんなと楽しく騒いでいる私サイコー」とかいう風景を、ひとりで捏造するのも楽しいだろう。そんなものは普段からしているのかもしれないが。
 少なくとも他人が自分を楽しませてくれるものだと思い上がっているような人間は、地獄に堕ちろ(本年最初の呪詛)。

>>>
【裕福でも貧しくても、お金に拘束されている人間は多い】

 昨今の僕は仮想奥様に飼われている猫としての手腕を遺憾なく発揮しており、裕福である。
「割り勘にします?」みたいなムードになると「それでは支払いは私が」なんて平気でしようとして周囲に止められたりする。

 お金に執着がないというのはときどき、自分の見定めた価値が理解されないようだ。
 僕にとっては過ごした時間に価値があればそれで支払う理由になるのだけれど、そうでもない人はいて、そういう人が存外多いということだろうと想像する。

 なので一緒に過ごした時間が相応に楽しかったという理由で(もちろん説明などしないが)支払いをしてしまうと、ときどき大袈裟なくらいお礼を言われたり「ステキ」「カッコイイ」「抱いて!」などと褒められるときがある(褒められてるの?)が、正直に言うとそれは鬱陶しいし煩わしい。
 たとえばスーパーでトイレットペーパーを買って「3倍巻きを買うなんてお目が高い!」とか「香り付き、いいですよね!」とか「ダブルエンボス加工をお買い上げになるなんて裕福でらっしゃるのですね!」なんて店員さんから褒めそやされたら、二度とその店には行かないだろうと思う。

 価値を感じる。お金を払う。ありがとうございます。こちらこそ、ありがとうございます。
 それだけでいいんじゃないかなぁ、って思うのだ。
 誰かに奢って貰えたときは、それだけの時間を共有できたんだなぁ、嬉しいなぁ、というのでいいんじゃないかなぁ。
 そして同じような嬉しい気持ちを、誰かにしてもらいたいなぁ、と思っていいんじゃないかなぁ。
 もちろんそれが、今奢ってくれた人に対して、であれば何より素敵だと思うのだけれど。

 なんだか、おカネおカネ、出す出す、なんて言っているのは下品だと思うのです。

>>>

 ところでかつての恋人に「金ヅルにしちゃうぞ♡」とか「ヒモにしてもらってもいいけれど」と言ったら、ものすごく距離を置かれたことがある。
 これも多分、僕のお金に対する価値観がまるで伝わっていなかったために発生したことだろうと思う。

 お金があるだけで幸せになれる人間なんてそもそもいなくて、僕はお金より時間、時間より自由に価値を見出すのではある。
 だから僕は今、自由で ── 自由であるために ── とても幸せである。
 生きることに怯えず、死ぬことを諦めないでいられるのは、実に素晴らしいと思う。
 毎日、何度でも噛み締めたいくらいだ ── 実際に噛み締めている。

 物価が高いので、食事はよく噛んで味わっているけれど。
 本当の自由の味を、同じように満喫している。

 それは養殖魚のような、肥えて豊かで滋味深いものではない。
 痩せて固くて微かなものだ。
 生きるために生きている者の味は、誰かの腹を肥やすために太らされたような、分かりやすく脂の乗った味をしていない。

 だから生きるために生きるという自由の味は、痩せて微かで筋張っている。

>>>



【お酒を愉しむためのささやかなアドバイス】

 どの店にも置いてあるようなありふれたお酒があって、そんなものを飲みたいなら、そのへんで買って自宅で飲んだ方がいいと思う。
 外でお酒を飲むなら、そこでしか飲めないお酒を、適正な料金で飲めるのが理想のように思う。

 おそらく楽しさや美味しさや、あるいは酔うことそのものさえよく理解していない人間が、酔客として歓楽街を往来しているのだろう。

 ただ酔えばいいのなら自宅でエチルアルコールを飲んでも酔える。
 楽しさは自分で作ってしまえば、さほどお金を掛けずにすむ。
 寂しさを嫌って紛らわせようとすると、たいてい後悔や自己嫌悪が残る。

 これらは経験ではないけれど、計算で導くことの出来る簡単な結論です。

 自分以外の何かを使って寂しさを埋めたり、楽しさを錯覚したりというのは、そこで使うのが他人だろうとお酒だろうとお金だろうと、結局自分が無力で矮小だと思い知らされるだけのように思えます。

 なので高いお酒を(ことさら余計に高いお金を払って)味も香りも色も見えないような場所でワーキャー騒いで飲むのも愚かしい。
 その店でしか飲めないお酒(できれば稀少な、しかし適正価格のもの)を、そっと包み込むように味わって、その味わいの記憶を泥酔や罵詈雑言などで上塗りしないように、早めに帰って眠るほうがいい。
 ほら、はじめて仔猫を拾った日のようにそっと。でも少し急いで。

 お外でお酒を飲むことに関する、僕なりのアドバイスです。






 

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TITLE:
今年の花粉症の症状が軽い。
 
Written by BlueCat

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//[Body]
230306

 5時起床。
 朝食は玄米雑炊と豆腐。食後、9時頃までネットなどに遊ぶ。

 最近は数日に一度、玄米を(白米より好きなので)炊いて残りを冷凍し、翌日以降は雑炊や粥にして食べることが増えた。
 そうすると炭水化物を処理するのが苦手な僕の代謝系でも ── 玄米なので一層 ── ほどよく消化吸収できる。

>>>

 今年の花粉は例年に数倍すると脅されているが、今年の僕は「え、もう花粉来たの?」と周囲を眺めて絶句するほど症状が軽い。
 数日前、姉の家に泊まったときは2日目から粘膜と皮膚に不調が出た ── 帰宅して数日過ごすうち、症状は回復したが。

 理由のひとつはストレスだろう。
 今の僕はびっくりするくらいストレスがない。
 睡眠時間は自由自在で、この数年、睡眠不足は数回しか経験していないし、風邪もまったく引かなくなった(以前は毎年数回は罹っていたのに)。
 相対的に姉の家に泊まることは、僕にとってそれなり以上のストレスではある。


 普段、おはようからおやすみまで「他人に何かを合わせる」という必要は滅多に発生しない。
 自分で言うのも何だが、自分以外の人に、これでも結構、無用に気を遣ってしまう。
 勝手にあれこれ考えて気を回して手を掛けて、自分のことがおそろかになって、疲れて体調を崩すのが僕のパターンである。
 仕事だろうがプライベートだろうが、気遣いもせず傍若無人に振る舞うことなどできない。
 恋人が増えるほど級数関数的にストレスが増す仕組みだったから、人間型が減って良かったと思う。

>>>

 ストレス以外だと、1月頃から庭仕事をしていたことだろうか。
 一昨年だったかは、5月頃まで満足に外仕事(といってたかだか庭である)にも出なかった。体感が寒かったのだ。

 おかげで庭を耕すことは叶わず、庭木の剪定も進まなかったおかげで、病害虫が進行した。
 畑を持っている裏の家の様子から察するに、やはり春の耕作は2月には始める必要があるようだ。実際、作物の種などを見ると、2月に蒔くものは多い。
 この「寒い季節から外に出る」ということで、少しずつ被曝したのか、花粉に耐性がついたものと思う。
 でないと外気がまるっと(きっと花粉ごと)忍び込んでくる家の中にいても花粉症が和らいだりはしなかった説明が付かない。

 食事も少し変わったろうか。
 お酒や煙草は以前より減った気がする。
 肝臓や腎臓の機能が緩やかに低下しているのだ。
 病気ということではない。単純に加齢による機能の最適化だろう。
 免疫能力は肝臓や腎臓に大きく依存すると聞く。
 お酒や煙草をさほど欲することがなくなったことで、過剰に

 朝食と夕食の2部制がメインで、ときどき昼食を食べることもあるが、食事の回数は増えた。
 そのぶん食事の量は減った。

 また出来合いのものを上手く処理できない体質に合わせ、既製品を避けるようになった。
 この生活になった当初は、お金も時間も自由なのでかえって自堕落に出来合いの惣菜を食べたりしていたのだが、ケミカルが苦手なので結局体調が悪かった。
 真空パック機を奥様(仮想)に買ってもらったおかげで、料理の手間が激減したことが寄与している。

 不健康な20代の頃と同じように、しっかりとビタミンなどのサプリメントを摂取するようにした。
 ホルモンバランスを安定させる類いのものも ── 一部には精力剤的な効用を謳うものもあるため、敬遠していたが ── 摂取するようにしたところ異常な睡眠が減り、精神的にも安定し、カフェイン剤を摂取する必要も減った。

 あたたかい時間は外に出て庭仕事ができるようになったし、2月の中頃から室温が15℃を切っていても、さほど寒く感じないようになった。

>>>

 これらの何かひとつ、というのが決定付けたわけではなくて、総体的に花粉に耐えられる体質になっている、ということなのだろう(姉の家に泊まった程度のストレスで2日目から不調になるのだから知れている)。

 午前中は、先日まで剪定した庭木の枝をシュレッディング。
 ガーデンシュレッダというのを昨年の夏に買ったのだが、ずっと寝かせてあった。
 枝の経が30mmくらいまでなら、どんなに長くても裁断してくれて、ゴミ袋に入れられる。
 虫の付いていないチップなら、そのまま堆肥に加えることも可能だ。

>>>

 休憩を挟んで昼からはキャンピングキャビンのステップ設置。
 ステップ自体が重いことと、キャビンの下に潜り込んでの作業になるため、かなりの重労働。
 ドリルを使ってボルト止めする箇所を加工するが、やはり安物のドリル刃は食いが悪い。
 高い刃を研ぎながら大事に使うか、100円ショップのものを使い捨てにするか悩む。
 いずれにしてもカインズのプライベートブランドだけは今後も引き続き買わないようにしたい。
(元々質が悪いものが多くて買わないようにしていたが、6角軸とはいえセンターが定まらないドリル刃なんて使い道がない)







 

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230317

 昨日寝不足だったこともあり、昨晩は24時を待たずに就寝。
 6時頃目覚めるが、お湯を飲んだり排尿したり、少し(携帯端末で)ゲームをしているうちに眠くなり、ふたたび眠る。

 キャンピングキャビンの中にいると、お湯やお茶を飲んでいることが多く、排尿頻度が高い。
 しかし自宅と違ってトイレまで数十cmである。ペットボトル排尿なので尿の量や色から身体の状態を確認しやすいのも新鮮だ。

 朝日が窓の外を照らしているが、ぬくぬくと寝袋にしがみついて眠るうち、昼頃目覚める。
 途中何度か目覚めているが、12時間睡眠は久しぶりだ。
 寝ていてもいいし、起き出してもいいし、移動を始めてもいいという自由が嬉しい。

 水沼の温泉に泊まる計画だったが、しばらく考えてホームセンタによってから帰宅することにする。
 アヲはまた家出中だが、クロは留守番をしているので、フードフィーダを買おうと思ったのだ。

 ふたつほど大容量のものはあったのだが、ひとつは円柱型でスペースに無駄が出やすい。
  もうひとつはより大容量で方形に近い上、カメラを内蔵していてスピーカから呼びかけたりもできるのだが、当然高い。
 しかしクロはケージの外になかなか出てこないので、省スペースであることは重要だと考え、その超ハイエンドの22千円ほどもするフィーダをふたつ(アヲのぶんも)買う。親馬鹿かよ。

 帰宅すると堆肥場のそばの不織布コンポストを座布団にして、アヲと知らないオス猫が日なたぼっこをしている。
 いつもは呼びかけるだけで逃げられるのだが、今回は大人しく捕まる。
 しかしお前、連れてるオスが前と違ってるぞ。

>>>

 数ヶ月前から、ほとんどゲームをしていない。
 確定申告の準備があり、庭作業があり、そんなこんなで切っ掛けを失ったのでもあるが、ヴァーチャルに遊ぶ必要を、その動機を、欲を失っていて驚く。
 確かに現実世界は、他者が居なくても(あるいは居ないから、か)とても興味深く、面白い。

 かつてとまた違う二重写しの意味を持つ現実の数々に、目眩すら感じる。

 夜は粥を作って食べる。
 お湯は外に出て沸かすのが習慣になった。

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// TimeLine:230316
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TITLE:
自走式書斎。
SUBTITLE:
~ Self-propelled study. ~
Written by BlueCat

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230316

 一昨日、キャンピングキャビンにいくつか装備を増設した。
 多段階調整が可能なテーブル兼荷物棚、折りたたみ式ステップが主要なもの。
 家電調度品ではカセットコンロに使うボンベの高騰を受けて電気ケトルを、万一のピンチに備えてポータブルトイレ(および固まる猫砂)を。

 ポータブルトイレは普段は椅子としても使えるのでテーブルと併せておよそ快適なデスクセットにすることができた。
 またお湯を ── ソーラパネル発蓄電により ── タダで沸かせるのは思ったより便利で、自宅でも湯を沸かすために車内に出向くようになった。

 そのようなわけで今日はテストを兼ねた外泊の2日目。
 先日は2連泊まで試したので、念のため3日分の着替えを持って出る。
 昨晩は結局、思い立ってから出発までに2時間ほどを要した。
 着替えや常用薬類はそれぞれ100円ショップのコンテナで管理するようにしているのだが、それでも持ち出し忘れや置き忘れに気付くことがあり、何度となく家とキャビンを往復することになった。



>>>

 春秋は快適だし、冬もファンヒータや電気毛布といった暖房器具と(加湿器としても有用な)湯沸かし設備ができたことで過ごしやすい環境になった。
 水は外部供給でペットボトルを常備し、生活圏内のスーパーで再利用ボトルに給水してもらえるサービス(ボトルだけ購入する)を利用すればかなり安定する。
 皮膚粘膜の衛生管理(洗顔や歯磨き、うがい、身体の清拭など)や排泄問題も、基本は外部の設備に頼るが、お湯が沸くようになったおかげもあって内部で処理できることが増えた。

 仕事もなく接触する恋人もほとんどおらず友人も少ない環境下にあって、わざわざこうした「ミニマルな空間」を無駄に ── まるで茶室のように ── 作る意味を長らく自問自答してきたが、こうして中で過ごしていると答えが見えてくる気がする。

 専業主夫(仮想)兼庭師兼リフォーム業者兼無職(もうただの執事ってことでいいんじゃないかな)ということも相まって、自宅にいるとあれこれとすることが見つかってしまう。
 通りかかりに掃除機を掛けたく(なるようなレイアウトで設置しているので)なったり、使ったついでにトイレ掃除を始めたり、帰りに通りかかった洗濯物の量を確認して洗濯を始めたり、ついでにカプチーノを作り出したり、その最中に食材の在庫を確認しながら晩ごはんのメニューを考えたり、天気が良ければ庭木の剪定や今後の家庭菜園計画のための視察をしてみたり、ついつい無駄にPCの前で動画などを見ようとしてしまったり ── 。

 もちろんそれらは非常に自由に選択されるのだけれど、選択肢も含めた情報量の多さはそのまま思考や感覚が広く浅く広がることにも繋がる ── 僕は自身に認知症が始まっていると考えるようにしているので、これはなおさら致命的な問題を発生させうる。

 ところがこの茶室のような空間にやって来ると、そもそもできることが限られる。
 狭い空間に凝縮されて情報は限定され、選択できる行動も自ずと制限される。
 自宅サーバにアクセスできるから、ネットワーク繋がっていればアクセスできるデータは自宅と変わらないが、マシンパワーや画面サイズが小さくなるため、たとえば3DCADソフトを立ち上げながら動画を流し見しつつスマートフォンゲームのエミュレータを裏で動かすことはできない。
(やればできるだろうが無理にそんなことをする必要を感じない。なぜなら「外」にいるからだ)

>>>

 窓から外が見える。
 飲み物を飲み、あるいは煙草を吸い、景色を楽しむ。
 コインパーキングだろうが道の駅だろうが公園だろうが、それは毎回新しい、普段と違う光景だ。

 眠り、目覚め、顔や身体を清拭し、食事をし、歯磨きし、排泄する。
 そういった「自宅では当たり前」のすべてが不便で、わずかずつ快適ではなくて、思い通りではなくて、その「当たり前ではないありよう」に新鮮さを感じる。

 だからといって、テントや野宿といった本格アウトドアほどの危険や不衛生や不便に見舞われるわけでもない。
  ── 肉体年齢(四捨五入を二度繰り返すと100歳)を差し置いて、僕は自身のヴァーチャル年齢を初老/老人としているので、泥や砂にまみれるような大冒険のリスクは避けつつ、庭木に掛けたハシゴから滑り落ちるかもしれないリスクは受け容れ、それでももっと安全でドキドキするような冒険は甘受したいのである。

 寝て起きて空腹を感じて食事し歯を磨く、それらひとつひとつがこんなに新鮮に感じたことはおそらく未就学(多分3歳)の頃以来ではないだろうか。
 家の外はもちろん中でさえ迷うほど広く、道は広く、人々は予測のつかない様式で行動していて、何が危険か安全かなんて概念さえなかった。
 夜のトイレはどこまでも遠く、食事は美味しいのだけれど億劫で(僕は食事という行為でひどく疲れるほど体力がなかった)、静かな暗闇になかなか寝付くことができず、目覚めの世界の騒々しさは鬱陶しかった。

 そして毎日が新鮮だった。
 だから今日が新鮮だと思える。

>>>

 最近まですっかり忘れていたのだが、僕の中でおしゃべりをしてくれていたいくつもの仮想人格たちは眠りに就いて、以来とても静かになっている。
 そして眠ってしまったとばかり思っていた「6歳以前」の記憶や思考様式や感覚が、きちんと「僕」として呼吸していることに気付く。

 幸せだな、って思う。

 時間が有限だからこそ何人ぶんもの生涯を生きたいと思った。
 良いことも悪いことも、可能な限り、すべて経験したいと思った。
 だから今までも、自分で選び続けた、いい人生だったと思う。



 窓の外の、おそらく何でもないだろう景色を眺めて、素敵だと思う。
 ああ。僕は僕だったのかと、思う。

 長生きをしたいと思わないことは変わらない。
 内容が充実した、甘いことばかりでなく苦いことや辛いこともたくさん詰まった、濃い部分も薄い部分もマーブルになった、複雑な味わいの、そういう情報をいくつもの価値観をフィルタしながら生きて存えることができた。
 求めたサイズの自由が、求めた形で手に入った。それともこれは作り上げたものだろうか。

 もちろんいいことばかりではない。
 たくさんの人を傷つけ、期待を裏切り、絶望させたと思う。
 誰ひとりとして関わることなく生きることはできないのだから、それをなくすことも不可能だと思う。それでも今後は、可能な限り減らしたいと思う。
 誰の役に立つこともできないかもしれないことは、かつてなら自身の価値を認められないという意味で恐怖すべき認識だったろう。
 でも「誰かの役に立っている」という欺瞞のために誰かを犠牲にして傷つけるようなことはせずにいたい。
 本当の意味で、せめて誰かの役に立たなくても、誰かに迷惑を掛けたり、悲しい思いをさせずにいられればそれがよいと思うのだ。

 これからもたくさんのイキモノを殺すだろう。

 それでももう少し。
 せめて自分の決めた期限までは生きていたい。

 今日しか見られない景色の中で、そう思う。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
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  :ひとになったゆめをみる:窓辺に微睡む:
 
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// TimeLine:230210
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
雪の日に思うこと。
SUBTITLE:
~ Snowy Day. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230210

 予報どおり、朝から雪。
 燃えるゴミの日なので、昨日シュレッドした枝葉を含めゴミ捨てを済ませ、通販の宅配便をいくつか受け取る。
 最近、飲酒をしているためか、朝は空腹を感じない。

 昨晩から火鉢に火を入れ、玄関先の小間に気休め程度の暖を与えている。
 もっとも先日の記録的な寒さで慣れたのか、怠けきっていた筋肉が再び身体を支えるようになったからか、それとも服装がアップグレードでもしたか(していない)10℃程度の気温なら、寒さを感じなくなった。

 歯の治療によるダメージが一段落してきたので、少しずつ負荷を上げてきた。
 もっとも一般の人が思っているようなハードなトレーニングを僕はまったくしない。
 夏でさえ、多少汗をかいた程度で身体を休めるし、息が上がるあたりで休憩する。
 激しい筋肉痛になるような負荷を与えてしまったときは、むしろ失敗したと後悔する。
 数年前に自覚したのだが、筋肉痛も炎症の一種であるため、他の部位の免疫反応が低下して体調を崩しやすくなるためだ。

 旧来の情報しか知らない人は、筋細胞が断裂しないと強化されない、と思っているようだけれど、そこまでしなくても筋細胞は強化されることが証明されている。
 さほどでもない負荷で、すぐに疲労が回復する程度の運動を何度か繰り返せばそれでよい。
 それでもきちんと筋肉は付くし、膝が胸に付く邪魔をしていた下腹部の脂肪も減ってきた。

 想像以上に庭作業が進展している、というわけではないのだが、それなりの進捗なので庭仕事はお休み。
 確定申告のための事務処理か役所仕事をしようと思っていたが、雪のこともあるから今日は休暇を取ろうと思う。
(誰だいつも休みだろうと言ったのは。専業主夫は忙しいのだ、とくに独身のタイプのそれは)

>>>

 これは恥ずかしながら昔話なのだが、雪といえば、損保の仕事をしていた頃のことを思い出す。
 雪の予報のあった日、予報もなく雪が降り始めた日、僕の中に生まれるちょっとした熱情と緊張のこと。

 自己所有の自動車に冬用タイヤを購入する財力もなかったのに、事故があると度々、現場に出向く必要があった。
 相応に緊張を要する場面である。
 が、それはやりがいを感じるものでもあった。

 過日の「TRIGUN STAMPEDE」におけるナイヴズの台詞ではないが、誰かをこれ見よがしに助けて、感謝されるのは気持ちがいいのだ。
 孤独も癒やされるし、自分が生きている価値を、少なくともそのときは感じられる。
 不謹慎だが、だから、保険商品を誰かに買ってもらうときよりも、その保険商品が実際に役立つ場面 ── つまりそれは誰かにとってのトラブルであったり、不幸であったりする ── のほうが、あからさまにやる気になるのだった。

 先払い式友達料のようなものだ。
 もちろん保険会社というのは、サービスだけでなく実際の金銭的賠償もしてくれるわけだから、一般的な友達よりは役立つものだろうと想像する(もちろん、どの程度「友達扱い」してくれるかは、窓口によるが)。

>>>

 そうした役割から離れることは、僕の自身に対する存在価値をそれなりに低下させた。
 今の僕は誰の役にも立たず、立とうとさえしていない。
 独立しているといえば聞こえはいいが、単に社会から孤立していると考えられなくもない。
 けれどもこれは、僕が望んだことであり、またその望みが叶った状態である。
 そうして実に「誰かの役に立ちたい」という健全な欲を一度手放してしまえば、自分自身の価値がどれほど低かろうと、自身を愛でて存続させることに意味を見出すことは可能で、その上、最低まで下がった自分の価値に関係なく誰かが自分を頼ってくれている(つまりは小さなコミュニティの役に立っている)ことを実感する。

 たとえば僕がいることで、姉は通院や入院の介助を(およそ無料で)受けることが可能になる。
 たとえば僕がいることで、妹は煩雑にして高額な金銭処理のことを意識せずにいられる。
(毎月、妹名義だけで1milを超える金額が右から左に通過する。そして妹は高額な金銭を恐怖している)
 たとえば僕がいることで、TUやBP(いずれも旧い友人です)は退屈しないし、場合によっては役立つこともあるだろう。

 役に立たなくていいし、生きているだけで価値があるのだと、あるいは周囲の人は、必死になって僕に教えてくれようとしていたのかもしれない。あるいは両親も、姉妹も、友人も。
 けれども僕は聞く耳を持たなかった。

 僕は誰かの役に立ったと自覚し、誰かから感謝されて初めて「誰かの役に立ったと言える」と思っていた。
 そしておそらくそれは正しいのだ。
 けれども絶対的に、一番正しい必要などないのだと、最近の僕は知った。

 正しさには順番というかレベルがある。
 中央線で区切られて、あちらが間違いでこちらが正しい、というものではないと僕は思っている。ずっとそう思っていたのに確証がなかった。
 一般的に考えてどうしようもなく正しいというところに始まり、個人的には正しいけれど一般的には間違っているかもしれない、とか、一般的には間違っているけれど個人的かつ特定の状況では正しいかもしれない、とか、そういう二次元以上の要素で構成されている。
 0次元的な「ある/なし」ではなく、1次元的な「絶対正しい<絶対間違い」のスペクトルでもなく。

 そして正しさなんて、結局自分で好きなように決めてよいのだと、現時点では結論している。
 もしも自分の持つ「正しさ」が一般的なそれから著しく逸脱し、社会に害を為すとなればそれは問題で、自己修正が必要だけれど、齢四十も過ぎればそんなものは身に付いている。
 きっともっと早く身に付く人もいるだろうし、あるいは年齢と共に忘れてしまう人もいるだろう。

 右を見ても左を向いても「正しさ」の論争はきりなく続いている。
 今の時代はことさら厄介だろうと想像する。
 個人の権利と社会の合理と集団の倫理は完全に一致しない。
 正しさを、どの地点から、どの基準で測るかによって、それは変化してしまう。

 それに誰だって、自分の正しさを手放すことはむつかしいだろう。
 僕だってむつかしかった(だから「太田市の高田純次さんになる」と宣言してきた)。
 それに正しさを手放すことは、正しいとか間違っているという基準で測ることのできない行為だから、誰かに勧めたりするものではないし、これ見よがしに誇示するものでもない(パンツを見せても正しさは隠すのだ)。

 僕の場合はたまたま一度手放す必要があって、それによって正しさを見つめ直す機会ができたというだけのことだ。
 恋愛のように個人的な、それは経験だった(なんかいろいろ台無しな記述もあるが)。

>>>

 雪は元々好きである。
 語彙も少なかったあの頃。
 初めて雪を、見たとき言葉にならなかった。
 その恋に落ちるような気持ちを、僕は忘れていない。

 僕は抽象的な思考や感覚を今でも大切に持ち続けている。
 その情緒性を馬鹿にする人もいたが、いやなに、これによって僕は生きているのだと思う。
 それこそが僕なのだろうと。

 人間の信じているものなんて、この程度のことだから、もっと自由にしていればいいと。
 積もってゆく雪が囁く ── 何もかもを白く染めながら。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
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// TimeLine:230203
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
意味の意味。
SUBTITLE:
~ implication of meaning. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230203

 抜髄の施術、2度目。
「必ず来てね」と念を押されて行ったのだが、施術は5分ほどで終わる。
 オペや急患優先で、よほど計画的な施術でなければ予約を取らない少ない歯医者さん(かつ施術が早いの)で、今回のように到着して車を降りてから15分後には帰途に向かう車に乗り込むなんてこともある。

 慢性的な痛みは昨年11月から抱えていたのだが、施術患部そのもの(たとえば削られて薄くなったから痛むの)か、それとも歯根が痛むのかが判断できずにいた。
「そういうときはとりあえずメールを送ればいいよ」とあっさり言われてしまった。それもそうか。

 最近は、歯医者の帰りにドライブをする。
 昔だったら(正確には一昨年まで)絶対にしなかったが、新しい趣味(たぶん趣味というのだろう)として数えてもいいように思える。
 今日は一度家に帰ってから、桐生市の山に散歩に出かけた。

>>>

 散歩ならどこだって出来る、とは思う。
 だから片道40分もかけて出かけるのは、僕の基本的な価値観からすればちょっとアタマオカシイ、ということになる。

 足利に棲んでいた頃、ときどき出かけていたそこはしかし、とにかく人の気配がほとんどない。
 だからといって荒れ放題の不整地かというとそうではなく、むしろトレッキングコースに続く道があり、ちょっとした植物用の温室もある、丘の中の公園なのである。
 だから土日やイベントのあるときなどはそれなりの人で賑わっていることもある。

 しかし平日となると、散歩客もハイカーも僅かだ。
 彼らの多くは熊よけの鈴を持っていたり、定期的に手拍子を打つ ── 実に熊やイノシシが出るような場所なのだが、桐生/足利はそういう場所も少なくない。
 それ以外、人の気配がほとんどしない。
 耳を澄ませば街の喧騒が遠くに聞こえ、風が梢を揺らす音や、さまざまな鳥の声(例に漏れず、僕は鳥の名前を知らない)が聞こえる。
 朽ちた木、眠っている新芽、半径50m以上に渡って、心置きなく感覚を広げていられるほどよい緊張感と安心感。

>>>

「俺たちゃ街には棲めないからに」などと言うつもりはない。
 僕の身体は清潔を保つことの困難な場所に置かれると、数日でストレスを抱えて不調を来す。
 そして同時に、人の気配には過剰に疲れる。
 隣家までは塀で隔たれ5〜10mほどのクリアランスもあるのに、玄関や車のドアの音といった生活音を我知らず拾ってしまう。
 周辺の人の顔などなるべく記憶しないようにしているが、それでも誰がどこのエリアにどのくらいの時間に出没し、他のどんな知った顔といるのかを記憶しそうになったりする。
 道路向かいに公営住宅があるので、僕の許容範囲より人口密度は高い。

 この家の気密が悪いから余計に気配を拾ってしまう。
 しかし気密が高かったら、今度はもっと塀を高くしたり、カーテンを分厚くしたりしないと、動く光に神経質になってしまいそうにも思う。

 そう考えると足利のアパートは、安普請なのに静かに暮らす人が多くて、安心していられた。
 駐車場のエンジン音や、歩行音でどの部屋の人が出入りしているのか僕は記憶してしまうのだが、大声で話す人や大きな足音を立てるような人は少なかった。

 この場所はなんというか、もともと農家の多かった地域のせいもあるのだろうか、人の気配にがさつな人が多い。
 庭で大声を出して家族と話し、道行く顔見知りと立ち話をする人も多い。
 おそらくそれが普通なのだろうし、それはこのあたりが平和な証拠でもある。
 僕も叔父や叔母が存命の頃からこの家を出入りしているし、向かいの公営住宅の人に庭の一部を貸していたりするので、顔見知りがいないわけではない。
 ただそういう人付き合いが、得意かというとそうでもない。許容範囲だが、得意ではない。

 それでもそれが、普通のことなのだ。
 社会はそれぞれの許容範囲を広げながら、得意ではない人付き合いも含めて協力し、ひとりではできないことをするのだ。
 だから僕はちょっとした異常者であり、社会の落伍者でもある。
 それは自覚している。
 そして同時に、落伍者の頂点を突き詰めるような生き方が許されている自分の幸運を思う。

>>>

 そのようなわけで時々、人の気配のない場所に自分を連れ出す必要がある。
 コンピュータの前にずっと座っていれば本来は満足だろうに、わざわざ人里離れた(熊の出るような)山や川に出かけ、人の気配のなさに恐怖し、しかしそれに安心して、そして街に戻る。

 つくづくに社会不適合だ。
 だから嫌だ、とは思っていない。
 最小限度の人間としかやり取りせず生きていられる僕は、本当に贅沢だと毎日思う。
 誰か ── 仮想のヒトを除く ── に養って貰っているわけでもないから、変な気苦労もない。

 だからといって生きる理由や目的があるわけではない。
 それを持つことを僕は嫌った。
 ゆえ、自分自身に生きる価値があるとは思っていない。
 価値があるとは思わない、その価値観のために、理由も目的も持たなかった。

 しかし周囲の人間が僕に ── 僕の所有物や労働力ではなく、僕という存在に ── 求める価値が僅かにあり、あるいは惰性のようにして僕の不在を嫌う人もいるので、今のところは自害する必要もない。
 年金受給年齢に達したら生活できなくなるので死ぬ必要があったが、それもどうでもよくなってしまった。
 条件自体が消滅してしまったのだ。このままだと年金を受給しなくても僕は生活できてしまうだろう。
 しかしそんな無駄な生き方を果たして人間がするべきだとは、今のところ思っていない。
 だから65歳を(あるいはそれ以前に一定の条件を満たした場合)、僕の人生を幕引きにしようと思っているのではある。
 これを読んで悲観する人がいないことを願う。
 65歳の僕は、もう何の役にも、誰の役にも立たないはずだ。
 今はギリギリ、姉の介護や、妹の面倒を見て、弟子の話し相手をし、友人にとっての友人をしているが ── しかしそれもそれだけか。

 僕だけの人生が贅沢なら、僕だけの死を叶えるのもまた贅沢だ。
 それは長年、自分が死ぬことを願ってきた僕の、愉悦ですらある。
 ちなみにお弁当の好きなおかずは最後まで取って置く派でした、子供の頃は(倒置法)。

>>>

 持続可能な世界や開発目標というものを、きっと僕は信じていない。
 人間にも、人間社会にも、そんなに大した意味や価値はない。
 ただ持続可能にしておかないと「男は殺して女は犯す」というような原始的な略奪社会にはなってしまうから、綺麗ごとではなく、社会を維持するエンジニアリングとして必要だろうとは思う。

 価値は感じないけれど、必要なものはたくさんある。
 たとえば鼻が詰まっていないときの空気、喉が渇いていないときの水。
 遠方で車のエンジンが爆発したりしていないときの旧い友人。
 独りでいることに耐えられないときの家族。
 収入を得るために力を借りなくてはならない嫌な奴。

 あるいは必要はないけれど、価値を感じるものの方が僕の場合は豊かだろう。
 車もコンピュータも猫も家族も友人も煙草も酒も呪詛も、生きる上で必須なわけではない。
 あったほうが愉しい。それだけのことである。

 僕以外の多くの人はどうだろう。
 必須のものなんて、そうは多くはないはずだ。
 そもそも生きることの価値や意味は、きっと考えないほうがいいことなのだろう。

 あるいは小さな社会やコミュニティ、たとえばそれが家庭と呼ばれるような小集団であったとしても、そこで何らかの役に立つことは、十分な価値なのだろうと思う。
 僕はそういう価値を知らずに生きてきたから、価値を感じられないのだろう。
 その価値を(知ることさえも)求めたことがない。
 これは見る立場によっては幸福であり、あるいは不幸でもあるように思う。

 価値とか幸福とは、つまりその程度のこと。
 正しさと同じで、立つ位置によって意味を変えてしまう。
 意味を感じ、意味を信じる限り、そこに意味がある。
 だから自分のそれを感じられる人は、大切にしてほしい。

 僕は猫なので、光り輝く小判を前にしても、何も感じないのだ。
 腹が減ったときに漁る餌があり、かゆい背中を撫でてくれる手がありさえすれば、今日死のうが明日死のうが。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
 
[InterMethod]
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[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-
 
[Object]
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[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
//EOF
 
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:230124
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
空白の相対熱伝導。
SUBTITLE:
~ Thermal conduction. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230124

 妹が遊びに来る日なので、姉の家から未明に帰宅。
 台所に立って湯を沸かすと、足の裏から凍り付くような冷たい床へと熱が奪われるのが分かる。

>>>

 人をして「あたたかい/冷たい」などという表現はよく見かける。
 しかしこれは主観的な表現だ。
 物事を感受する主観があればこそ、それを感覚できる。

 客観において、熱というのは常に交換される相対だ。
 より正確にいえば熱はエナジィとして、あたたかいものから冷たいものに伝達する。

 この原理に従えば「あたたかい」と他者を感じる人は対象よりちょっと冷たいし、他者を「冷たい」と感じる人は己の心があたたかいのだろう。

 と、そんな簡単に断ずることができないところが人間社会のややこしさだ。

>>>

 冷徹な人間は、あたたかい人間の優しさを信じない。
 一皮めくると蠢く欺瞞や、その奥に巧妙に隠れる自意識や、あるかどうかも分からない下賤な欲まで邪推しなくてはならない。

 冷徹な人間は得てして臆病で、弱くて、脆いから。
 だから相手は計算ずくの我欲によって、合法的な略奪を目論んでいるのではないかと怯える必要がある。
 相手がこちらの骨肉臓腑に至るまでを利用する可能性について考えないわけにはいかない。
 実際に、他人の骨肉臓腑までをも欲する類いのケダモノは、少なからず存在するからだ。
 ために冷徹な人間は、誰にも優しくできない。
 優しさは欺瞞であり、強欲であり、謀略であり、その発露は貧しき自身の欲を刺激し、他者を餌にするための罠になりかねない。
 そう思うからかどうか、誰にも優しくすることのできないありようを、しかし私は、弱くても優しいと思う。
 優しさの欺瞞を自身に許さない厳しさは、心底が優しいからこそだろう。

 温和な人間は、冷徹な人間の無知に困り、頑固さに微笑む。
 欺瞞も、自意識も、下賤な欲も、だってそれは皆が皆、等しく持っているものだから。
 温和な人間は得てして豪胆で、強くて、揺るがないから。
 己が下賤に堕ちる事のない強さを、誰から略奪する必要もない豊かさを、すでに持っている。
 誰かが自信の骨肉臓腑までをも利用しようとしたとして、そんなものくれてやろうと思うのか、それを奪うことなどできないと思うのか。
 そのいずれであれ、そんなことに怯えない。怯える必要を持たない。
 その強さに圧倒される。

>>>

 そして多くの人は、そうした絶対的なまでの冷たさも暖かさも持っていない。
 どちらともつかない中間を、ぷかぷかと、浮いたり沈んだりするだけだ。

 おそらくそれで良いのだと思う。おそらくそれが良いのだと思う。
 いずれかの極端を目指して浮いたり沈んだりを繰り返すうち、己の温度に従って、ほどよい深さを、あるいは高さを、知ることができる。

 大事なことは、変わらないようにと足掻かないことだろう。
 なんとなく変わってしまえばいいし、昨日言っていたことを、なんとなく撤回してもいい。
 そうやって、熱は移動してゆくのだし、いつまでも暖かくとか、どんなときも冷たくとか、そういうのはなかなかむつかしいのだ。夏に冷房は効きにくく、冬の暖房がすぐ温まるわけではないように。
 
>>>

 何か用事があって来る予定を立てたのかと妹に尋ねたところ、何となく遊びに来ようと思ったのだと言っていた。
 まぁ、たまにはそういうのもいいかと思う。
 僕は、用もないのに人に会わない生活を、ずっと続けてきた。

 学生時代は、用もないのに部屋に友人が(呼んだわけでも連絡し合っているわけでもなく)溜まっていた。
 だから、予定も用事もなく誰かと一緒に過ごすのが、実は嫌いではないのだ。

 けれど人間は大人になるにつれ、用事に追われ、用事を優先し、無用を嫌うようになる。
 少なくとも僕はそうだった。

 何の用もなく、仕事もなく、学校も卒業して、ぼんやり窓の外を眺めていた18歳の初夏を思い出す。
 窓の外に聞こえた自転車のブレーキと、数年ぶりに顔を覗かせた中学時代の友人が僕を呼ぶ声を ── 。

 なんて贅沢なんだろう。
 何もしないというのは、喫緊の用が何もないというのは。
 煙草もジュースも買うお金がなくて、2人で小銭を出し合って笑い合っていたあの贅沢な時間を思い出しながら、このぼんやりを、ぼんやりと受け止める。

 僕は世間より20年早く定年退職を迎えた(と考えている)。
 誕生日も新年も長期休暇も、自分で決めたがるような、変わったイキモノであるから仕方ない。
 そういえば早期リタイアする人間には、結局復職する者もいるという。
 おそらく、何の用もないことに耐えられないのだろう。
 誰に必要ともされない不安に、苛まれるのだろう。

>>>

 お腹が空いたという妹と食事に出かけ、
スーパーで一緒に買い物をする。
 陽差しのあるうちから寒い日で、明日はもっと冷えるという。






 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
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[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
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// TimeLine:230123
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
いつ起こるか分からないのが不慮の死である。
 
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230123

 未明に入浴。
 久しぶりに入浴中のマッサージをする。
 眠るときもせいぜいストレッチするくらいで、きちんとマッサージする機会が減っていた。

 一部の血管が梗塞しかけていたのか、石灰化していたのか、身体が重くなり、呼吸が速くなり、頭痛までしてくるので、なんとか身体を洗って切り上げた。
 浴室を出てから適度に身体を冷やし適温の水分を適量摂ったが、冷や汗が引かず、寝る頃にはTシャツが絞れそうなほどの水分を含んでいた。

 体調不良から快復して久しぶりに入浴したときや、入浴と冷水を浴びることを繰り返したとき、たまにこういう状態を経験してきた。
 慣れてはいるが、これでもしも意識が遠のいてしまったら大人しく死ぬのだろうと今回は思った。
 仮に昨晩死んだとすると、死ぬときにどんな心持ちかが分かる。

 僕は死ぬとき、残される者のことを考えない。
 まだ死にたくないと悔やむこともなく、やっと死ねると喜ぶこともない。
 頭がそこまで回らない。貧血直前のように、目の前のことを考えるのもやっとになる。
 ああ具合が悪いな、とうずくまったり横になったりして、少し身体が楽になって、それでもまだ具合が悪くて、そうこうするうちに意識を失うだろう。
 ちょうど重い風邪に罹って、熱に浮かされながらどろどろと沈む眠りに消えるように。
 絶望も希望も、苦しみも悲しみも喜びも喚起する記憶もなく「何か具合が悪いな」と思いながら意識を失う。
それだけである。

 だから何だというものではない。
 死ぬときに備えて、整理しておかなくてはならないものを適切に整理しておく必要があり、場合によってはそれより少し先に、公正証書遺言を作っておこうかと思うくらいで。

>>>

 僕は数年前に無職になるとき、自分の中での定年と位置づけた。
 もう働かねぇ。と思ったのである。
 もちろんまだ50歳にも満たないので年金などは貰っていないし、
所得があり、厳密にいうと無職ではない。
 一人暮らしには、少なく見積もっても毎月15万円程度は必要である。
 それでも僕にとっては ── 毎日従事すべき業務が、だいたい家事ばかりなので ── 定年退職したようなものとして認識した。

 僕が雇用者だったら、四十過ぎの人間を雇うのは少し悩む。
 優秀な人間だったら良いが、そもそも優秀な人間が四十を過ぎて転職するだろうか。
 そのように考えて、会社勤めはやめておこうと思った。
 お互いにいいことはなさそうだ。

 実質は自営業であるが、実務がほとんど発生しないという、少し変わった自営業をしている。
 ひと月あたり、仕事をするのは数時間だろうか。
 そう考えると恐ろしくヒマに思えるかもしれないが、家事業やリフォーム業などは忙しい。
 庭仕事もあるか。でもヒマといえばヒマだろう。
 だからといって今から新しく事業を始めるだけのパッションは、僕にはない。
 熱意も、気力も、ビジョンも、ない。ないないづくしだから手出しはしない。

>>>

 早く整理を付ければその分、気が楽になるのは事実だ。
 来年には公正証書遺言を作る予定で計画をしよう。
 資産と呼ぶほどに該当しない、特殊な動産(趣味の品物など)の整理についてはメモ書き程度の自筆遺言を別途用意しておけばいいだろう。

 入浴前後でそう簡単に死ぬとは思わないが、なにせこの家は寒い。
 いわゆるヒートショックが起こらないとも限らないし僕の身体は梗塞を起こしやすい。
 ついでに庭木の剪定で高所作業の最中に、転落事故を起こさないとは誰にも言えない。
 たとえ命綱やヘルメットといった安全具を装備していても、仮想奥様という安全管理装置を用意しても、身体がひとつである以上、限界はある。

 今の僕には、死にも生にも期待はないが、僕以外の存命者に対して己の責任の領分であったものを無責任になすりつけるわけにはいかない。
 だからこそ暫定でも余命を設定し、それに合わせて行動しているわけだが、不慮の事故の可能性を考えると、もっと急がなくてはならないのだろう。
 しかし死は、一般的に不慮のものである気がする。
 予定され、あるいは計画され、もしくは予測された死というのは、そう多くないと思うのだが。

>>>

 昼過ぎに姉の家。
 天気予報で十年に一度の寒波、などと言われているが、実のところ昨日のほうが寒かった。

 姉と買い物に出かけ、料理の真空パックを手伝う。
 我が家のそれを、姉が使いたいというので持ってきた次第。

 明日は妹が家に来る予定なので、未明には姉の家を発つ。







 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Life-Link-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Night-Poison-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :暗闇エトランジェ:ひとになったゆめをみる:
 
 
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// TimeLine:230212
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
寂しさと色気とブラックホール。
SUBTITLE:
~ beautiful blackhole. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
230212

 朝食のあと、チャイを作る。
 今日はシナモンとブラック/ホワイト/ピンクペパー、クローブ、ナツメグ、キャラウェイシード、クミンシード、ローリエ、生姜。
 以前は生姜を千切りにして冷凍保存したものを使っていたのだが、先日、ふと思い立ち、薄切りにしたそれに大量の砂糖と蜂蜜をまぶし、水分が出てきたところで弱火でしばらく煮詰めて生姜シロップを作った。
 どのみち僕の飲み物は甘くなる宿命なので、これを仕上げに入れればちょうどよいと考えた次第。

 上記のスパイスは、いくつかの店で飲んだチャイの味から(こんなスパイスかな)というものを見繕い、ついでに家に常備されているうち、あまり使われないもの(ローリエなんか相続するほどあるし、コショウやクミンシードは入れると美味しいけれど普通入れないだろう)も放り込んでいる。
 チャイのいいところは、少し辛くてもまたそれが美味しく感じられるところ。
 本当はカルダモンもあるといいらしい。今度買っておこうか。

>>>

 チャイを作っているとき、奥様(仮想)が「猫くん、専業主夫とヒモの違いって分かる?」と訊いてくる。
「ヒモは僕がなりたかったもの、専業主夫(仮想)は僕がなってしまったもの」と答えると「ちがーう!」と言われる。
 答えが分からない。ついでに教えてもらえない。

>>>

 正直なところ、ヒモというものに憧れたことこそあるが、僕にそれが成立すると思ったことはない。
 お金というのもある種のしがらみになって、双方を縛り付けるからだ。
 そして容易に縛り付けられるわりに、僕はそうした拘束を好まない自分を知っている。
 それに何より、自分の生活に生々しく他人が関わることを僕は苦手としている。

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 ときどき、他人の日記を読んでいて思うことがある。

 文章に脈打つ寂しさを見て、とても色っぽく感じる。
 その文章を書いている人間の性別に関係なく引き寄せられるそれは、色気だ。
 血のように鮮やかで、生き物の匂いを立ち上らせ、あたたかなそれは ── やがて褐色になり、生臭くなり、凝固し、冷たく固くなってゆくだろうに。
 言葉に切り取られ、乾いて貼り付けられたはずの滴る液状に心を奪われそうになる。

 活きのいい金魚のほうが魅力的だという話を先日書いたには書いたのだが、真逆にも思えるそうした魅力もあるのだとは常々思っている。
 もちろん生き物が死にかけに放つ寂しさと、生き抜く上で放つ寂しさは、ちょっと毛色の違うものだけれど。

 誰かの持つ寂しさが人を ── あるいは僕だけを、だろうか ── 惹きつけるのは、それにちょうど共鳴する寂しさを持っているからだろう。
 劣等コンプレクス、己の弱さ、何かへの憎悪、誰かへ繋がれないことの悲しみ、強がりの言い訳、自分の正しさで苦しむ不器用さ ── 。

 抱えることさえむつかしいそれを、しかし手放すことができずにいる様はとても滑稽で、まるで仔猫を見るような気持ちになる。
 持て余すそれを、しかし諦められないのは、それこそがその人の本質だからだ。

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 双子惑星のように「いいほう」のその人と「よくないほう」のその人が引き合って「その人」はできている。
 当然に傍からはその両方が観察されるわけであり、だから一方ばかりを他人に見せようとするのは(他人を惑わすという点において)むしろ損なことなのではないかと僕は思う。

 身の丈に合わない玩具と戯れようとする仔猫に、手を貸してやりたくなることはある。
 でもそんなことをすると、仔猫は驚いて逃げてしまうから、離れた場所からニヤニヤ(あるいはハラハラ)しながら眺めるよりない。
 世の中にはもちろん、手を貸すと喜ぶタイプの仔猫もいる。
 だからなおさら手を貸さない。

 仔猫はかわいいものだけれど、大人になった猫のほうがもっとかわいいからだ。
 犬でも猫でもそうだが、子供の頃から独りで遊べない奴はだいたい鬱陶しい大人になる。
 人間だけそうならないとは思わない。

 やがてその獲物を、オマエたちは容易に噛みついて、引っ掻いて、蹴りつけて、ボロボロにできるようになる。
 執念深くそれを追い詰め続けろ、と思う。
 獲物から逃げず、負け続ければいい。
 現実世界で負け続ければ、多少なり傷を負うものだが、ヴァーチャルな遊びの中なのだから、散々に、それを追い詰めてやれと思う。

 孤独の痛み。
 失ったものをたしかに失っていると実感する寂寥。
 かつてあったものを幾度となく失ったと気付く切なさ。
 失ったものがそこにあると錯覚したときの締め付けられる胸の疼き。
 今あるものをあると実感できない無様さ。
 そのいずれも。

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 そうした「最初からそうだったわけではないのにできてしまった、冷たく哀しい引力を放つ空白」が、人に色気を生み出すように思う。
 そんな寂寥とした色気において、外見上の美醜はあまり機能しない。

 ルッキズムに塗り固められた人間は、そうした心の機微にあまりに無神経に思える。
 外見の美しさを否定するつもりはないが、誰かが誰かに寄り添いたいと思うのは、誰かが誰かに優しくしたいと思うのは「その人の外見が綺麗だから」だけでないくらい、容易に分かりそうなものだ。
 外見こそ魅力だと言い切る姿は勇ましいが、どこか幼く痛々しいのは、それが若さだからだろうか。
 外見が綺麗だからという理由で他人に寄り添う人がいたら、それは人の姿をした別のものだと思うのだけれど。

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 図らずも空いてしまった洞が心の中で引力を持ち、己はどこまでもその奈落に突き落とされ、そして誰かが惹き寄せられる。
 ために弱さも醜さも、失敗も痛みも悲しみも。
 人の心を持って向き合っているなら、それらはその人の魅力に変わる。

 心は鏡だ。
 弱さに向き合う心は往々にして強いものだし、想い人に醜いと思われたくないと、美しいと褒めそやされたいと、怯え悩む姿は可憐で美しい。
 失敗も痛みも悲しみも寂しさも、誤魔化さず、その重みをきちんと抱え、涙したり笑ったり、怒ったり、誰かのせいにしたり、でもやっぱり自分のせいかな、なんて考え直したりするのは恥ずかしいしみっともないし、できれば誰にも見られたくないけれど、それを素直に大切にできるしなやかさは、その人だけの魅力になるだろう。


 自身に対して許せないことのあるその儚さを、誰かがそっと見守ってくれるはずだ。時に憧れさえするだろう。
 私はそうまで素直に真摯に自身の弱さに向き合ってきたのだろうかと、できることなら自分も、己の中の鏡を直視しようと努力しながら。

 ただ質量が高すぎるとブラックホールになってしまうから、それだけは気をつけて。
 確かジェダイの騎士も「フォースの暗黒面に気をつけなはれ」とかなんとか言っていたような気もするし。






 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
  女と金魚と餌。

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[Engineer]
  :青猫:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Eternal-Life-Link-Mechanics-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-JunctionBox-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Memory-Poison-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :衛星軌道でランデヴー:君は首輪で繋がれて:夢見の猫の額の奥に:Webストリートを見おろして:
 
 
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