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TITLE:
でもやっぱり違ったな。
SUBTITLE:
~ The Prime number. ~
Written by BlueCat

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230202

 昨日、歯医者で抜髄したため1日身体を休める。
 もちろん会社員だったら、ちゃんと起きて、ちゃんと会社に出かけて、ちゃんと業務をこなしたと思うけれど、僕は猫だ。
 だから
具合の悪いときと悪そうなときは、ただただ眠るのである。
 起きていてもすることないし、なんて思っていたら燃えないゴミを出す時間を寝過ごした昼前。
 寝直せばいいさ。明日があるさ。明日は燃えるゴミだからちょっと関係ないさ。

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 希死念慮というか、死にたくなってしまう人間は、きっと今も、どこにでもありふれて、あふれているのだろうと思う。
 僕は常に、もう少し先の年齢を目標に設定して、先延ばしにし続けて、現在に至る。
 17歳、19歳、23歳、27歳、31歳、37歳……素数が多いのは、たぶん僕が素数に思い入れを持っているからだろう。
 先延ばしは技術だ。怠惰は能力だ。
 だから僕は、53歳で死なず、57歳で死なない。もうここまで来ると、59まで生きるのと65まで生きるのは変わらないように思う。
 しかしこの身体を自由に殺せるうちに、死にたいとは思う。
 可能な限り自力で、可能な限り孤独に。

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 それにしても65は、現時点の僕にとって
一般的な定年の年齢という意味を持つに過ぎない。
 かつてはそこまで生きられないと思っていたが、今はどうにでもなるようになった。
 ただ生きる目的がないだけで、それさえ惰性で乗り切れる気がする。
 僕はもう、自分の生死にあまり深刻な価値を見出していない。

 ちなみに27は素数ではない。3の3乗で、僕にはちょっと特別な数字。
 ルービックキューブのように、三次元の立方体を思い浮かべると、ちょうど外面に一切接触しない、単一のキューブが真ん中に隠れている。
 他の正多面体でも似たような構造はあるが、キューブほどシンプルでキュートで綺麗なものは少ないように思える。

 そういえば恋人が27人だとずっと言っていたが、それもこの3×3×3のキューブに由来した数字である。
 つまり27人より少なかったり多かったりすることもあった。
「27人(以上)は嘘だろう」という人もいたが、おそらくそういう人をイメージできなかっただけだと想像する。
 人間は常に自分のスケールでしかものを把握できないから。

 社会は常に最小公倍数的に物事を構築しようとするが、個人や集団が認識できるのは最大公約数的なイメージだ。
 素数的な存在にあっては、沈黙するより仕方ない。

 ちなみに27について、3の3乗のことを言及する人がまったくいなかったのは不思議だ。

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 いくつになってもそれは消えない。
 自分が無価値に思えることは当たり前だし、自分の人生だとか、生きていることに意味があるなんてそれ自体がおこがましい思い上がりだと何度となく思い知らされる。

 そうなんだ。意味なんてないし価値もない。
 その意味も価値もないものを維持するために、意味を探して、価値を提示して、とりあえず今日の米と塩くらいは買えるように生活を維持しなくてはならない。
 それがたまらなく無価値で矛盾している気がして、いやになってしまうのではある。
 しかし実に、死ぬ価値さえ与えられていないのだ。

 意味も価値も、だから誰かが与えてくれるものではない。
 自分でそのへんをほっつき歩いて、なんとなくそれっぽい意味とか、価値とかを見つけたり、掘り出したり、刻み込んだりしながら「でもやっぱり違ったな」って放り出す。
 だから僕が墓石を作るなら墓碑には「でもやっぱり違ったな」と刻みたい。

 ただ違ったわけではないし、繰り返した挙げ句、信じた挙げ句、疑った末、でもやっぱり違ったくらいがちょうどいいような気がする。
 何か確信めいたことを、生きているうちには手に入れられないだろうと思う。
 2/3(日付ではなく人生の全行程に対する分数)を過ぎて未だに思うからずっとそのままだろう。

「やっぱり違った」だけでではない。「でもやっぱり」違ったのだ。
 これでいいと思っていたのだけれど、でもやっぱり違ったな。というのがいい。それが最後の言葉で、墓碑に刻まれるとしたらなんて清々しいだろう。
「これでよかった」とかそういう、一見肯定的で、前向きで、潔いのもいいとは思う。でも僕には合わない。

 あれも試した、これもやってみた、こういうのも信じてみた、こんなことも実践した。
 こんなことを考えて、こういうことを好んで、ああいうことは嫌った。
 でもやっぱり違ったな。
 そういう感じ。

 本当は「でもやっぱり違ったかな」くらいなのだけれど、ここは言いきりたい。
「違ったかな」なんて問いかけると誰かが「そんなことないよ間違ってなんかないよ」と言いくるめてきそうだ。
 間違ってるかどうかじゃないんだ、違うかどうかなんだと言ったところで通じるはずもない。

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 死にたくなってしまう人たちが持っている気持ちは疑問は、間違っているとかではなくて、違っているかどうかなんだ。
 たとえ間違っていても、正しくなくても、ぴったり一致する波のようなものがある気がしていて、それが生の中にもしかして含まれておらず、ともすれば死の中に含まれているのではないかと思ってしまうのだ。安易だけれど。

 それはそうだ。
 誰だって、せめて何かと一致していたい。
 正しくなくても、間違っていてもいいから、何かと一致していたい。
 たとえば誰かと一緒であっても、あるいはなくても、自分に含まれる何か重要な意味を持つものが、自分以外のどこかに、重要な意味として同じように存在していてほしい。

 せめてそんな予感くらいは信じていないと、生きることに希望なんて見出せないではないか。
 だからそれを、なんとなく眺めながら「そうだといいね」なんて言っていられるような場所に僕はいたい。
 僕の場合はもう「でもやっぱり違ったな」という結論を今はしているので。







 

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