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TITLE:
意味の意味。
SUBTITLE:
~ implication of meaning. ~
Written by BlueCat
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230203
抜髄の施術、2度目。
「必ず来てね」と念を押されて行ったのだが、施術は5分ほどで終わる。
オペや急患優先で、よほど計画的な施術でなければ予約を取らない少ない歯医者さん(かつ施術が早いの)で、今回のように到着して車を降りてから15分後には帰途に向かう車に乗り込むなんてこともある。
慢性的な痛みは昨年11月から抱えていたのだが、施術患部そのもの(たとえば削られて薄くなったから痛むの)か、それとも歯根が痛むのかが判断できずにいた。
「そういうときはとりあえずメールを送ればいいよ」とあっさり言われてしまった。それもそうか。
最近は、歯医者の帰りにドライブをする。
昔だったら(正確には一昨年まで)絶対にしなかったが、新しい趣味(たぶん趣味というのだろう)として数えてもいいように思える。
今日は一度家に帰ってから、桐生市の山に散歩に出かけた。
>>>
散歩ならどこだって出来る、とは思う。
だから片道40分もかけて出かけるのは、僕の基本的な価値観からすればちょっとアタマオカシイ、ということになる。
足利に棲んでいた頃、ときどき出かけていたそこはしかし、とにかく人の気配がほとんどない。
だからといって荒れ放題の不整地かというとそうではなく、むしろトレッキングコースに続く道があり、ちょっとした植物用の温室もある、丘の中の公園なのである。
だから土日やイベントのあるときなどはそれなりの人で賑わっていることもある。
しかし平日となると、散歩客もハイカーも僅かだ。
彼らの多くは熊よけの鈴を持っていたり、定期的に手拍子を打つ ── 実に熊やイノシシが出るような場所なのだが、桐生/足利はそういう場所も少なくない。
それ以外、人の気配がほとんどしない。
耳を澄ませば街の喧騒が遠くに聞こえ、風が梢を揺らす音や、さまざまな鳥の声(例に漏れず、僕は鳥の名前を知らない)が聞こえる。
朽ちた木、眠っている新芽、半径50m以上に渡って、心置きなく感覚を広げていられるほどよい緊張感と安心感。
>>>
「俺たちゃ街には棲めないからに」などと言うつもりはない。
僕の身体は清潔を保つことの困難な場所に置かれると、数日でストレスを抱えて不調を来す。
そして同時に、人の気配には過剰に疲れる。
隣家までは塀で隔たれ5〜10mほどのクリアランスもあるのに、玄関や車のドアの音といった生活音を我知らず拾ってしまう。
周辺の人の顔などなるべく記憶しないようにしているが、それでも誰がどこのエリアにどのくらいの時間に出没し、他のどんな知った顔といるのかを記憶しそうになったりする。
道路向かいに公営住宅があるので、僕の許容範囲より人口密度は高い。
この家の気密が悪いから余計に気配を拾ってしまう。
しかし気密が高かったら、今度はもっと塀を高くしたり、カーテンを分厚くしたりしないと、動く光に神経質になってしまいそうにも思う。
そう考えると足利のアパートは、安普請なのに静かに暮らす人が多くて、安心していられた。
駐車場のエンジン音や、歩行音でどの部屋の人が出入りしているのか僕は記憶してしまうのだが、大声で話す人や大きな足音を立てるような人は少なかった。
この場所はなんというか、もともと農家の多かった地域のせいもあるのだろうか、人の気配にがさつな人が多い。
庭で大声を出して家族と話し、道行く顔見知りと立ち話をする人も多い。
おそらくそれが普通なのだろうし、それはこのあたりが平和な証拠でもある。
僕も叔父や叔母が存命の頃からこの家を出入りしているし、向かいの公営住宅の人に庭の一部を貸していたりするので、顔見知りがいないわけではない。
ただそういう人付き合いが、得意かというとそうでもない。許容範囲だが、得意ではない。
それでもそれが、普通のことなのだ。
社会はそれぞれの許容範囲を広げながら、得意ではない人付き合いも含めて協力し、ひとりではできないことをするのだ。
だから僕はちょっとした異常者であり、社会の落伍者でもある。
それは自覚している。
そして同時に、落伍者の頂点を突き詰めるような生き方が許されている自分の幸運を思う。
>>>
そのようなわけで時々、人の気配のない場所に自分を連れ出す必要がある。
コンピュータの前にずっと座っていれば本来は満足だろうに、わざわざ人里離れた(熊の出るような)山や川に出かけ、人の気配のなさに恐怖し、しかしそれに安心して、そして街に戻る。
つくづくに社会不適合だ。
だから嫌だ、とは思っていない。
最小限度の人間としかやり取りせず生きていられる僕は、本当に贅沢だと毎日思う。
誰か ── 仮想のヒトを除く ── に養って貰っているわけでもないから、変な気苦労もない。
だからといって生きる理由や目的があるわけではない。
それを持つことを僕は嫌った。
ゆえ、自分自身に生きる価値があるとは思っていない。
価値があるとは思わない、その価値観のために、理由も目的も持たなかった。
しかし周囲の人間が僕に ── 僕の所有物や労働力ではなく、僕という存在に ── 求める価値が僅かにあり、あるいは惰性のようにして僕の不在を嫌う人もいるので、今のところは自害する必要もない。
年金受給年齢に達したら生活できなくなるので死ぬ必要があったが、それもどうでもよくなってしまった。
条件自体が消滅してしまったのだ。このままだと年金を受給しなくても僕は生活できてしまうだろう。
しかしそんな無駄な生き方を果たして人間がするべきだとは、今のところ思っていない。
だから65歳を(あるいはそれ以前に一定の条件を満たした場合)、僕の人生を幕引きにしようと思っているのではある。
これを読んで悲観する人がいないことを願う。
65歳の僕は、もう何の役にも、誰の役にも立たないはずだ。
今はギリギリ、姉の介護や、妹の面倒を見て、弟子の話し相手をし、友人にとっての友人をしているが ── しかしそれもそれだけか。
僕だけの人生が贅沢なら、僕だけの死を叶えるのもまた贅沢だ。
それは長年、自分が死ぬことを願ってきた僕の、愉悦ですらある。
ちなみにお弁当の好きなおかずは最後まで取って置く派でした、子供の頃は(倒置法)。
>>>
持続可能な世界や開発目標というものを、きっと僕は信じていない。
人間にも、人間社会にも、そんなに大した意味や価値はない。
ただ持続可能にしておかないと「男は殺して女は犯す」というような原始的な略奪社会にはなってしまうから、綺麗ごとではなく、社会を維持するエンジニアリングとして必要だろうとは思う。
価値は感じないけれど、必要なものはたくさんある。
たとえば鼻が詰まっていないときの空気、喉が渇いていないときの水。
遠方で車のエンジンが爆発したりしていないときの旧い友人。
独りでいることに耐えられないときの家族。
収入を得るために力を借りなくてはならない嫌な奴。
あるいは必要はないけれど、価値を感じるものの方が僕の場合は豊かだろう。
車もコンピュータも猫も家族も友人も煙草も酒も呪詛も、生きる上で必須なわけではない。
あったほうが愉しい。それだけのことである。
僕以外の多くの人はどうだろう。
必須のものなんて、そうは多くはないはずだ。
そもそも生きることの価値や意味は、きっと考えないほうがいいことなのだろう。
あるいは小さな社会やコミュニティ、たとえばそれが家庭と呼ばれるような小集団であったとしても、そこで何らかの役に立つことは、十分な価値なのだろうと思う。
僕はそういう価値を知らずに生きてきたから、価値を感じられないのだろう。
その価値を(知ることさえも)求めたことがない。
これは見る立場によっては幸福であり、あるいは不幸でもあるように思う。
価値とか幸福とは、つまりその程度のこと。
正しさと同じで、立つ位置によって意味を変えてしまう。
意味を感じ、意味を信じる限り、そこに意味がある。
だから自分のそれを感じられる人は、大切にしてほしい。
僕は猫なので、光り輝く小判を前にしても、何も感じないのだ。
腹が減ったときに漁る餌があり、かゆい背中を撫でてくれる手がありさえすれば、今日死のうが明日死のうが。
抜髄の施術、2度目。
「必ず来てね」と念を押されて行ったのだが、施術は5分ほどで終わる。
オペや急患優先で、よほど計画的な施術でなければ予約を取らない少ない歯医者さん(かつ施術が早いの)で、今回のように到着して車を降りてから15分後には帰途に向かう車に乗り込むなんてこともある。
慢性的な痛みは昨年11月から抱えていたのだが、施術患部そのもの(たとえば削られて薄くなったから痛むの)か、それとも歯根が痛むのかが判断できずにいた。
「そういうときはとりあえずメールを送ればいいよ」とあっさり言われてしまった。それもそうか。
最近は、歯医者の帰りにドライブをする。
昔だったら(正確には一昨年まで)絶対にしなかったが、新しい趣味(たぶん趣味というのだろう)として数えてもいいように思える。
今日は一度家に帰ってから、桐生市の山に散歩に出かけた。
>>>
散歩ならどこだって出来る、とは思う。
だから片道40分もかけて出かけるのは、僕の基本的な価値観からすればちょっとアタマオカシイ、ということになる。
足利に棲んでいた頃、ときどき出かけていたそこはしかし、とにかく人の気配がほとんどない。
だからといって荒れ放題の不整地かというとそうではなく、むしろトレッキングコースに続く道があり、ちょっとした植物用の温室もある、丘の中の公園なのである。
だから土日やイベントのあるときなどはそれなりの人で賑わっていることもある。
しかし平日となると、散歩客もハイカーも僅かだ。
彼らの多くは熊よけの鈴を持っていたり、定期的に手拍子を打つ ── 実に熊やイノシシが出るような場所なのだが、桐生/足利はそういう場所も少なくない。
それ以外、人の気配がほとんどしない。
耳を澄ませば街の喧騒が遠くに聞こえ、風が梢を揺らす音や、さまざまな鳥の声(例に漏れず、僕は鳥の名前を知らない)が聞こえる。
朽ちた木、眠っている新芽、半径50m以上に渡って、心置きなく感覚を広げていられるほどよい緊張感と安心感。
>>>
「俺たちゃ街には棲めないからに」などと言うつもりはない。
僕の身体は清潔を保つことの困難な場所に置かれると、数日でストレスを抱えて不調を来す。
そして同時に、人の気配には過剰に疲れる。
隣家までは塀で隔たれ5〜10mほどのクリアランスもあるのに、玄関や車のドアの音といった生活音を我知らず拾ってしまう。
周辺の人の顔などなるべく記憶しないようにしているが、それでも誰がどこのエリアにどのくらいの時間に出没し、他のどんな知った顔といるのかを記憶しそうになったりする。
道路向かいに公営住宅があるので、僕の許容範囲より人口密度は高い。
この家の気密が悪いから余計に気配を拾ってしまう。
しかし気密が高かったら、今度はもっと塀を高くしたり、カーテンを分厚くしたりしないと、動く光に神経質になってしまいそうにも思う。
そう考えると足利のアパートは、安普請なのに静かに暮らす人が多くて、安心していられた。
駐車場のエンジン音や、歩行音でどの部屋の人が出入りしているのか僕は記憶してしまうのだが、大声で話す人や大きな足音を立てるような人は少なかった。
この場所はなんというか、もともと農家の多かった地域のせいもあるのだろうか、人の気配にがさつな人が多い。
庭で大声を出して家族と話し、道行く顔見知りと立ち話をする人も多い。
おそらくそれが普通なのだろうし、それはこのあたりが平和な証拠でもある。
僕も叔父や叔母が存命の頃からこの家を出入りしているし、向かいの公営住宅の人に庭の一部を貸していたりするので、顔見知りがいないわけではない。
ただそういう人付き合いが、得意かというとそうでもない。許容範囲だが、得意ではない。
それでもそれが、普通のことなのだ。
社会はそれぞれの許容範囲を広げながら、得意ではない人付き合いも含めて協力し、ひとりではできないことをするのだ。
だから僕はちょっとした異常者であり、社会の落伍者でもある。
それは自覚している。
そして同時に、落伍者の頂点を突き詰めるような生き方が許されている自分の幸運を思う。
>>>
そのようなわけで時々、人の気配のない場所に自分を連れ出す必要がある。
コンピュータの前にずっと座っていれば本来は満足だろうに、わざわざ人里離れた(熊の出るような)山や川に出かけ、人の気配のなさに恐怖し、しかしそれに安心して、そして街に戻る。
つくづくに社会不適合だ。
だから嫌だ、とは思っていない。
最小限度の人間としかやり取りせず生きていられる僕は、本当に贅沢だと毎日思う。
誰か ── 仮想のヒトを除く ── に養って貰っているわけでもないから、変な気苦労もない。
だからといって生きる理由や目的があるわけではない。
それを持つことを僕は嫌った。
ゆえ、自分自身に生きる価値があるとは思っていない。
価値があるとは思わない、その価値観のために、理由も目的も持たなかった。
しかし周囲の人間が僕に ── 僕の所有物や労働力ではなく、僕という存在に ── 求める価値が僅かにあり、あるいは惰性のようにして僕の不在を嫌う人もいるので、今のところは自害する必要もない。
年金受給年齢に達したら生活できなくなるので死ぬ必要があったが、それもどうでもよくなってしまった。
条件自体が消滅してしまったのだ。このままだと年金を受給しなくても僕は生活できてしまうだろう。
しかしそんな無駄な生き方を果たして人間がするべきだとは、今のところ思っていない。
だから65歳を(あるいはそれ以前に一定の条件を満たした場合)、僕の人生を幕引きにしようと思っているのではある。
これを読んで悲観する人がいないことを願う。
65歳の僕は、もう何の役にも、誰の役にも立たないはずだ。
今はギリギリ、姉の介護や、妹の面倒を見て、弟子の話し相手をし、友人にとっての友人をしているが ── しかしそれもそれだけか。
僕だけの人生が贅沢なら、僕だけの死を叶えるのもまた贅沢だ。
それは長年、自分が死ぬことを願ってきた僕の、愉悦ですらある。
ちなみにお弁当の好きなおかずは最後まで取って置く派でした、子供の頃は(倒置法)。
>>>
持続可能な世界や開発目標というものを、きっと僕は信じていない。
人間にも、人間社会にも、そんなに大した意味や価値はない。
ただ持続可能にしておかないと「男は殺して女は犯す」というような原始的な略奪社会にはなってしまうから、綺麗ごとではなく、社会を維持するエンジニアリングとして必要だろうとは思う。
価値は感じないけれど、必要なものはたくさんある。
たとえば鼻が詰まっていないときの空気、喉が渇いていないときの水。
遠方で車のエンジンが爆発したりしていないときの旧い友人。
独りでいることに耐えられないときの家族。
収入を得るために力を借りなくてはならない嫌な奴。
あるいは必要はないけれど、価値を感じるものの方が僕の場合は豊かだろう。
車もコンピュータも猫も家族も友人も煙草も酒も呪詛も、生きる上で必須なわけではない。
あったほうが愉しい。それだけのことである。
僕以外の多くの人はどうだろう。
必須のものなんて、そうは多くはないはずだ。
そもそも生きることの価値や意味は、きっと考えないほうがいいことなのだろう。
あるいは小さな社会やコミュニティ、たとえばそれが家庭と呼ばれるような小集団であったとしても、そこで何らかの役に立つことは、十分な価値なのだろうと思う。
僕はそういう価値を知らずに生きてきたから、価値を感じられないのだろう。
その価値を(知ることさえも)求めたことがない。
これは見る立場によっては幸福であり、あるいは不幸でもあるように思う。
価値とか幸福とは、つまりその程度のこと。
正しさと同じで、立つ位置によって意味を変えてしまう。
意味を感じ、意味を信じる限り、そこに意味がある。
だから自分のそれを感じられる人は、大切にしてほしい。
僕は猫なので、光り輝く小判を前にしても、何も感じないのだ。
腹が減ったときに漁る餌があり、かゆい背中を撫でてくれる手がありさえすれば、今日死のうが明日死のうが。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
:青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Life-Link-Maintenance-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-
[Object]
-Human-Koban-Poison-Tool-
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[Cat-Ego-Lies]
:ひとになったゆめをみる:
//EOF
