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TITLE:
けだものだもの。
SUBTITLE:
~ Sleepin'Beasts. ~
Written by BlueCat
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230115
妹夫婦が遊びに来る。
年が明けてから会うのは初めてか。
個人的には、外部からのアクセスが(メールであれ来訪であれ電話であれ)ない日があまりないので、少々人疲れを起こしている。
>>>
最近ようやく気付いたのだが、僕が人疲れを起こす一番の原因は他人の存在などではなく、僕が人を演じるからだ。
「お前は人間だろう」という問いに対する答えはYESだ。
「お前は人間ではないのか」という問いに対する答えもまたYESだ。
人間は自身を人間だと思っている間だけ、人間を演じている。
寝ている人間はただの動物であり、死んでいる人間はただのモノだ。
意識のない間、理性を失っている間、思考しない時間まで人間でい続ける人間など1度として見たことはない。
多くの人はそれに違和を感じない。
自身が人間であるといつからか、そしてどこまでも信じていて、それを他者にまで押し付ける。
僕はどうか。
ケダモノだ。
頻繁に意識を失い、ことあるごとに理性を失い、思考する時間さえ大した役に立っていない。
屠られ血肉までしゃぶり尽くされた動植物は数知れず、呪詛に灼かれたイキモノも数多、玄関に立ったガールはおよそ押し倒され、手討ちにした他者にきりなどない。
そしてそれらはすべて弱者だったはずだ。
己を圧倒する強者に対し果敢に向かったイキモノのすべては死ぬのが道理で、僕が今も生きているのは弱者から搾取を続けているからに他ならない。少なくとも遠因までを精査すればそういうことになる。
キリスト教ではそれを原罪と呼ぶのか。
(ネコノカミサマを例外として)神を知らず、(ネコノカミサマ教を例外として)宗教を持たない僕にそれを知る術もない。
言葉は常に上滑りで、行動は常に犠牲を伴う。
僕が右手を動かす動力は、他のナニカを活かしていた熱量だったはずだ。
しかし人が人になったのはせいぜいがこの星の上だけの、ここ数百年程度のこと。
生命だ、倫理だ、正義だ、善良だと並べたところで、意識も理性も思考も生命も存在しない、無機物ばかりの宇宙にあって、そんなものは何の指針ももたらさない。
>>>
素晴らしき生を生きることが罪でなく、哀しき死を迎えることが救済でないなら、そんな愚にもつかないことは考えず、繁栄と永続をお題目のように夢見て、禽獣のように日々の糧食を探して喰らい、矛盾を無視して、不安に眠り、希望に目覚めるのがなるほど人の生き様だろう。
混迷の時代と人はいうが、人の歴史に混迷でなかったためしなどないのではないか。
あるいは盲信に従い、誤った道でも間違いなどないと思い込んでいた方が幸せだったか。
迷い彷徨い、病み悩み、正しさなど分からないと嘆きながら進むことだけが人の道ではないのか。
だからメディアに流れる「生きづらさ」などという言葉を私は信じない。
生きる容易さは、追い求める理想ではあるかもしれないが、一度として実現したはずがない。
実現したと思っている人間は、己の立ち位置に、己の環境に、己の幸運に、驕っているだけだろう。
生きづらさを感じる我々は弱者だと、平然と言い切れることの強さを知らないのだろう。
声を上げることさえ許されない者たちが、生きることの意味を咀嚼することなく嚥下することを強要され、溶解した理想と現実に溺れて窒息することを知らないのだろう。
金と権利と仕事と結婚と老後の話を、あたかもそれだけが現実として刷り込もうとする人間様とその社会にはずいぶんと悩まされて生きてきた。
結局それは、人間社会で人間として生きるためには必要なものだったのだろうけれど、生きることの本質はそんなところには存在しない。
たとえるなら多種多様な密閉容器を、高性能の冷蔵庫を、さまざまな食器をどれだけ手に入れたところで、作物を作っていなければ今日の糧さえ手に入らない。
人間が人間だと思っている間だけ人間であるように、現実を現実だと思っている間だけそれが現実になる。
ヴァーチャルとリアルがその境界から融解してゆく世界にあって、だから人間は、問題を問題だと感じる能力さえ失いつつあるのではないだろうか。
おそらく「中身のないことを」と僕が嗤っていた人たちこそが、僕をして「中身のないことを」と嗤うだろう。
ならば生きることとはクラインの壺のようなものか。
どこにも中身などなく、すべてが中身なのか。
>>>
そうなるとたしかに、僕が人間を演じる意味もある。
あるいは人間社会で暮らすための、それは最低限必要なマナーであり、モラルであり、技術知識である。
僕は拙いながらも、なんとか人間のフリを続け、そしてときどき逸脱する。
面倒くさい、やってられん。
アタマに来たからこたつで眠てやる! もう一生チョキしか出さねえぞ! という気持ちになる。
人間の演技に慣れている人にとっては何でもないことだろうけれど、僕は自分が人間であることを常々疑っている。
おそらく演技に慣れてしまえば、前提を考えなくても済むのだ。
コンピュータプログラムにおける変数の初期化のような作業を簡略化することで、プログラムはよりプログラムらしく、だから人はきっと人らしくいられる。
ただ問題とその解決には、知性だけが求められる場面だってある。
倫理や正義といった人の幻想から離れて、事象だけを見る必要があるときもある。
人間らしさが多様化した結果、ために問題が多様化し、倫理も正義も曖昧模糊として境界が不明瞭になり、そうなると争いが起こることになる。
いつだって人間は己の決めた正義のためなら何でもしてしまうからだ。
だから僕は人間の演技を、自覚的にしている。本体は猫です。猫なんです!
なれば朽ち果てる日だけが救いか。
>>>
人類に繁栄を。
けだものに安らかな眠りを。
妹夫婦が遊びに来る。
年が明けてから会うのは初めてか。
個人的には、外部からのアクセスが(メールであれ来訪であれ電話であれ)ない日があまりないので、少々人疲れを起こしている。
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最近ようやく気付いたのだが、僕が人疲れを起こす一番の原因は他人の存在などではなく、僕が人を演じるからだ。
「お前は人間だろう」という問いに対する答えはYESだ。
「お前は人間ではないのか」という問いに対する答えもまたYESだ。
人間は自身を人間だと思っている間だけ、人間を演じている。
寝ている人間はただの動物であり、死んでいる人間はただのモノだ。
意識のない間、理性を失っている間、思考しない時間まで人間でい続ける人間など1度として見たことはない。
多くの人はそれに違和を感じない。
自身が人間であるといつからか、そしてどこまでも信じていて、それを他者にまで押し付ける。
僕はどうか。
ケダモノだ。
頻繁に意識を失い、ことあるごとに理性を失い、思考する時間さえ大した役に立っていない。
屠られ血肉までしゃぶり尽くされた動植物は数知れず、呪詛に灼かれたイキモノも数多、玄関に立ったガールはおよそ押し倒され、手討ちにした他者にきりなどない。
そしてそれらはすべて弱者だったはずだ。
己を圧倒する強者に対し果敢に向かったイキモノのすべては死ぬのが道理で、僕が今も生きているのは弱者から搾取を続けているからに他ならない。少なくとも遠因までを精査すればそういうことになる。
キリスト教ではそれを原罪と呼ぶのか。
(ネコノカミサマを例外として)神を知らず、(ネコノカミサマ教を例外として)宗教を持たない僕にそれを知る術もない。
言葉は常に上滑りで、行動は常に犠牲を伴う。
僕が右手を動かす動力は、他のナニカを活かしていた熱量だったはずだ。
しかし人が人になったのはせいぜいがこの星の上だけの、ここ数百年程度のこと。
生命だ、倫理だ、正義だ、善良だと並べたところで、意識も理性も思考も生命も存在しない、無機物ばかりの宇宙にあって、そんなものは何の指針ももたらさない。
>>>
素晴らしき生を生きることが罪でなく、哀しき死を迎えることが救済でないなら、そんな愚にもつかないことは考えず、繁栄と永続をお題目のように夢見て、禽獣のように日々の糧食を探して喰らい、矛盾を無視して、不安に眠り、希望に目覚めるのがなるほど人の生き様だろう。
混迷の時代と人はいうが、人の歴史に混迷でなかったためしなどないのではないか。
あるいは盲信に従い、誤った道でも間違いなどないと思い込んでいた方が幸せだったか。
迷い彷徨い、病み悩み、正しさなど分からないと嘆きながら進むことだけが人の道ではないのか。
だからメディアに流れる「生きづらさ」などという言葉を私は信じない。
生きる容易さは、追い求める理想ではあるかもしれないが、一度として実現したはずがない。
実現したと思っている人間は、己の立ち位置に、己の環境に、己の幸運に、驕っているだけだろう。
生きづらさを感じる我々は弱者だと、平然と言い切れることの強さを知らないのだろう。
声を上げることさえ許されない者たちが、生きることの意味を咀嚼することなく嚥下することを強要され、溶解した理想と現実に溺れて窒息することを知らないのだろう。
金と権利と仕事と結婚と老後の話を、あたかもそれだけが現実として刷り込もうとする人間様とその社会にはずいぶんと悩まされて生きてきた。
結局それは、人間社会で人間として生きるためには必要なものだったのだろうけれど、生きることの本質はそんなところには存在しない。
たとえるなら多種多様な密閉容器を、高性能の冷蔵庫を、さまざまな食器をどれだけ手に入れたところで、作物を作っていなければ今日の糧さえ手に入らない。
人間が人間だと思っている間だけ人間であるように、現実を現実だと思っている間だけそれが現実になる。
ヴァーチャルとリアルがその境界から融解してゆく世界にあって、だから人間は、問題を問題だと感じる能力さえ失いつつあるのではないだろうか。
おそらく「中身のないことを」と僕が嗤っていた人たちこそが、僕をして「中身のないことを」と嗤うだろう。
ならば生きることとはクラインの壺のようなものか。
どこにも中身などなく、すべてが中身なのか。
>>>
そうなるとたしかに、僕が人間を演じる意味もある。
あるいは人間社会で暮らすための、それは最低限必要なマナーであり、モラルであり、技術知識である。
僕は拙いながらも、なんとか人間のフリを続け、そしてときどき逸脱する。
面倒くさい、やってられん。
アタマに来たからこたつで眠てやる! もう一生チョキしか出さねえぞ! という気持ちになる。
人間の演技に慣れている人にとっては何でもないことだろうけれど、僕は自分が人間であることを常々疑っている。
おそらく演技に慣れてしまえば、前提を考えなくても済むのだ。
コンピュータプログラムにおける変数の初期化のような作業を簡略化することで、プログラムはよりプログラムらしく、だから人はきっと人らしくいられる。
ただ問題とその解決には、知性だけが求められる場面だってある。
倫理や正義といった人の幻想から離れて、事象だけを見る必要があるときもある。
人間らしさが多様化した結果、ために問題が多様化し、倫理も正義も曖昧模糊として境界が不明瞭になり、そうなると争いが起こることになる。
いつだって人間は己の決めた正義のためなら何でもしてしまうからだ。
だから僕は人間の演技を、自覚的にしている。本体は猫です。猫なんです!
なれば朽ち果てる日だけが救いか。
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人類に繁栄を。
けだものに安らかな眠りを。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
:青猫:黒猫:赤猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Blood-Chaos-Diary-Ecology-Engineering-Form-Interface-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-
[Object]
-Cat-Human-Koban-
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[Cat-Ego-Lies]
:青猫のひとりごと:夢見の猫の額の奥に:
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