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TITLE:
嫌煙家たちの反動形成。
SUBTITLE:
~ The Cleaners. ~
Written by BlueCat

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230120

 午後に姉の家に泊まりに行くため、その準備。
 今回は病院には関係なく、ただの遊び。
 太田市にほど近い道の駅まで買い物のためドライブし、帰宅して飲酒。
 姉はわずかだが飲酒はできる。
 肺疾患で喫煙はまったくできないため、僕は自宅を出る前に煙草を吸った場合はシャワーを浴び、帰宅するまで喫煙をしない。

 ドライブ中に話をして知ったのだが、姉は身体的ニコチン中毒(依存症)で、肺高血圧症に罹ってからもなかなか煙草をやめられなかったらしい。
 身体的な禁断症状が現れるため、ニコチンが切れるとイライラしたりすることが多くあったらしく、禁煙外来に掛かることを拒否されるほどだったらしい。
 だから主治医に禁煙を勧められても、やめなかった。やめることができなかった。

 彼女は酸素吸入が必須なので自宅はもちろん外出時もボンベと一緒に行動しているのだが、喫煙中は爆発や炎上の危険があるため酸素吸入を停止する必要がある。
 そうまでして(それでも2〜3日に1本だが)吸っていたという。

 ところが酸素ボンベの吸入再開の操作を忘れて、数時間にわたって苦しかったことが一度あったという。
 その後また煙草を吸いたくなったときに、その苦しさを思い出してとくと考えた。
 どちらを選択するか。酸素を止めて苦しい思いをしてまでニコチンの快楽を選ぶか、それとも禁断症状を抱えても苦しまないほうを取るかと。とくとくと考えたらしい。
 それで禁煙に成功したという。

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 禁煙というのは、最終的に本人の意志の問題だ。
 意志が弱ければやめられない、というのは事実だが、それは同時にその個人の持つ意志に作用している価値観が弱いということでもある。
 意志というのは固形物として人間の精神の中にあるものではなく、思考の結果出力される指向性のことであるし、思考というのは常に価値観の影響を受けており、価値観はその構成を記憶に依存している。
 だから嫌煙の価値観が弱ければ、喫煙者は喫煙という行動をやめられない。

 かつて喫煙者だった人のほうが、禁煙後、強い嫌煙家になるように観察される場面がある。
 Webなどで観察していてもそうだ。
 おそらくそうした人たちに起こっているのは、嫌煙の価値観の強固な上書きだ。
 彼ら彼女たちが弱かったはずのその価値観をどのようなプロセスで強化したのかは僕には分からない。
 ただそうやって、喫煙という行為やそれによって発生する副次的な作用についての嫌悪感を高めて記憶に焼き付けた結果、彼ら彼女たちは激しいほどの嫌煙家になることに成功したのだと考える。

「吸わないけれど喫煙も喫煙者についても(場合によっては煙草の煙のある空間にいることも)なんとも思わない」という非喫煙者もいる。
 しかしそういう人と同じ程度の価値観を持っていたら、喫煙者は喫煙者に留まってしまう。禁煙できない。
 だから激しい嫌煙者としての価値観が形成され、その価値観によって思考し、それが意志として行動に現れるまで、禁煙ができないことになる。

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 極端な嫌煙家には、依存してまでやめられないままの喫煙者を理性のない畜生扱いする人がいる。
 そうした人たちは煙草そのものも毛嫌いしているし、なんとなればJTのことも、煙草の販売を許可している国家さえをも憎んでいる。もちろん喫煙の自由など人間には認めないし、喫煙者は穴蔵にでも篭もって煙にまみれて肺がんに罹って死ね、と思っていることと思う。
 僕の叔母(故人)もそうだった ── だから介護のために同居していたのに追い出されたのだ。

 旧喫煙者だったとしても ── 叔母は違ったが ── 嫌煙者がそうなるのは理解できる。
 自分自身が理性のない畜生だったと認め、嫌悪するからこそ禁煙できたのだろうと。

 嫌煙過激派がいる一方、喫煙過激派というのは少ない。
 禁煙が嫌煙者にとって責務であり倫理である一方、喫煙者にとって喫煙とは単なる自由選択である。
(無論、禽獣以下とも思えるような知能レベルの喫煙者もいるが、そういう人間は喫煙したからそういう人間に成り下がっているのではなく、もともとの品性が下劣なために喫煙するにあたっても下劣な品性を丸出しにするだけである。)

 だから両者が論を交わすと、圧倒的にヒートアップするのは嫌煙者である。
 彼ら嫌煙過激派の思想は他者への評価はもちろん、自身の行動さえも抑制するほどの強い力を持っている。
 その啓蒙力は ── 善悪は別にして ── 自由を認めないという点でだいたいファシスティックである。
 喫煙者は自由主義者が多いようで、だからファシストであることについてさえ非難する必要を持たない。
 それは大事な、尊重すべき反対意見である。

 自由な精神というのは、つまり、嫌いなもの、許せないもの、度し難いものと共存できる思考体系を持っているということだと言えるだろう。
 正反対の価値観を自分の中でも育て、強い憎悪を持っても、それに染まらず、攻撃的な意志を持ってもそれを抑制し、中庸を、融和を目指し、その場その場での適切なありようを考えて振る舞うのだ。

 そう考えても、僕は喫煙者であり続けたいと思う。
 もちろん嫌煙者になる自由は僕にだってあるのだけれど。

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 僕の場合は肉体的にも精神的にも依存がないので、たとえば勤務中は(休憩だろうと)一切喫煙しないでいられるし、そもそも少しでも体調が悪いあいだは(美味しく感じないから)何ヶ月だろうと吸わない。
 どちらかといえばカフェインに対する身体依存性が若干あるだろうか。
 長期間、継続的にカフェインが不足すると、のんびりぼんやりが過ぎて、眠りすぎたり無気力になったりするので。
 それでも(カフェインほしい〜!)という欠乏感や飢餓感がないため過眠を起こしたりする。むしろ問題かもしれない。

 煙草については一時、味さえ好ましく感じていなかった時期があり3年ほど禁煙していたこともある。
 しかし吸う煙草も選び、吸い方も保存方法も工夫するようになってからは純粋な嗜好品として愉しんでいる。

 恋人が嫌煙家なら分煙くらいはするが、唇を塞いでくれない間はときどき煙草を吸う。
 キスの前には歯磨きくらいする。恋人からのキスは煙草よりも価値が重いのだ。

 とはいえ愛煙家の僕でも加熱式やケミカルの多い煙草の煙を吸うと、だいたいむせる。
 他人の煙でもそうだし、自分で吸ってもそうした煙草でむせることが多い。
 第一、味も香りもひどい。
 だから嫌煙家が煙草の臭いを嫌う理由もよく分かる。
「よくこんなものにお金を払うものだ」と嫌煙者が思う気持ちもよく分かる。
 ただまぁ、同じ喫煙者のよしみはあるから「そんな煙草、やめなよ」とは言わない。
 好きにすればいい。

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 僕は粘膜系が弱いので、喉と気管支と肺と鼻を痛める肺喫煙をやめ、口腔喫煙にしている。
 それでも喫煙を続けているのだから、嫌煙家からすると愚かしく理性のない畜生に思えるだろう。
 時間とお金と健康を無駄にし、周囲の人間に害悪を撒き散らす、考え無しのろくでなしだと嘲笑されるだろう。
 いずれ本当に体調が悪くなれば、必然に美味しさを感じられなくなり、やめてしまうだろうとは思う。
 それが分かっているからこそ、できればずっと味わいたい。
 味わう自由を失いたくない。

 畜生と嗤われようと害悪と断ぜられ駆除される運命にあろうと、自分では何も考えず、ただ社会の与える品行方正に従ってしか生きられない連中と同じ無味乾燥を味わえというならいっそ、今殺せ。

 なぜといって生きることは自由を謳歌するためであり、不自由に抑圧された生は、すなわちそれが己によって形成された柵(しがらみ)であっても、死に等しいからだ。
 無論、死を選ぶことは生の自由に含まれているとは思う。
 選び続けることが生きることだと思いたい。
 その苦労を厭わずに、面倒くさいといいながらも、自分で選んでいたい。

 とくとくと考える、その甘美な自由に、僕はずっと溺れていたい。

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 食事をする前からかなり眠くなっていたが、食事が終わると気絶するように眠ってしまった。







 

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[NEXUS]
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