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TITLE:
優しさとは他人のための演技である。
SUBTITLE:
~ Calculated gentleness. ~
Written by BlueCat

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::人に見られて恥ずかしい思いをしないためには、行きたくもない付き添いをして、したくもない気遣いをして、持ちたくもない荷物を持ってあげて、しなくてもいいドアの開け閉めをしてあげなくてはならない。


 

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//[Body]
230108

 夕方、姉が恋人と遊びにやって来る。
 時折やって来ては庭に車を停め、僕が気付くか試す遊びをしている。
 そして僕はたいてい気付かない。

 この家に棲んでいると、かつてのように精密なスキャンをし続けていたら神経が保たないと思ったので、僕は鈍感に徹することにしたのだ。
 音にも、光にも、埃にも、温湿度にも。
 かなりの気配が様々なところから発生していて ── それはいわゆるオカルト的なものではなく、もっと現実的なものだ ── 隣の家の気配や裏庭で声を上げる野良猫や、住宅街の向こうの道路を走る自動車の走行音まで拾っていて疲弊したことがあったため、つとめて鈍感になった。

 庭の一部を貸し駐車場にしていることもあり、そんなことをいちいち感覚するのはやめにした。
 感覚しないこと、感覚する範囲を狭くしたり、感覚するレベルを低くするのは、本能的に少し怖い。
 けれどもそれでも成り立つのが人間社会だと、そういう善意を信じるしかない。
 そして実際に僕は、誰かに襲撃されたりすることもなく日々を過ごしている。

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 僕は昔から「優しい」とか「優しそう」と言われるが、それは僕がそういうキャラを演じ続けているからだ。
 ずっとそうしていれば表情筋まで出来てしまうので、僕は優しいと誤解される。

 つまるところ僕はまったく優しくない。
 優しくないから演じる必要がある。

 優しく親切を演じて、誰かに害意のないことを証明する。
 そうでもしないと悪意を持っているように疑われかねない。
 心底から優しい人間なら、ずっと誰かと一緒にいることができ、また人も寄ってくるだろうに。
 僕は、数時間で演技に疲れてしまうからこそ独りでいるとリラックスできる。演じる必要はもうない。
 結果として長期間、誰かと一緒に過ごすことができないのだ。

 僕の古い友人や姉妹は、僕が毒づく様を知っている。
 もっとも僕が罵詈雑言を叩く相手が個人であることは少ない。
 特定の種類の人間によくある傾向とその矛盾であるとか、勘違いとも思える行動様式であるとか、だ。

 しかし物事には主流と傍流があり、時代というものがある。
 たとえば今でこそ家族葬という言葉が一般化し、散骨も珍しくなくなったが、20年前はそれほどでもなかった。
 だから僕は父上の葬儀に難儀した。表向きは「密葬」という言葉で取り繕ったほどだ。
 たとえば性別違和が今の時代は表出するようになった。
 しかし僕は人間の性別なんて、自意識と肉体が決めているだけで、取るに足らないものだと考えている。
 それでも性的志向を持つものにとっては、自分の性別と相手の性別のマッチングは重要だろう。
 そのあたりをこれからの人間達は考える必要があるのだろうな、とは思う。
 僕は猫なので考える必要などないが。

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 自分の思考や価値観が先鋭的だとは思わない。
 ただ僕は僕なりに、現状に対して合理的なありようを合理的だと思うだけだ。

 だからアルバムの類いは持っていないし、写真もあまり撮らない。
 年賀状は40年ほど出していないし、TVは20年以上自発的に観たことがない。
 時代がどうだとか、常識や慣習がどうだったということではなく、僕にはそれが合理的だったのだ。
 世俗から年賀状が姿を消し、TVを観る者が減ったのは、単に個人主義的合理の判断結果だろう。

 ただ、合理を突き詰めるのは残酷なこともある。
 社会には弱者というものが存在する。
 生産性のない老人や障害者は死ね、などという合理を振りかざせば「人権を無視した差別的発言だ」と非難され、世間のそしりを免れないだろう。
 社会や集団を形成する上では、弱者を守ることはとても大切なことだ。

 僕は昔から、弱者を軽視し、場合によっては容赦なく排斥する思考を持っている。
 おそらく僕の育った環境がそうだったからだ。
 弱者たる当時の僕自身は、それに反発するような意志や感情を持っていたとは思うが、弱者というのは環境に容赦なく流される。その奔流に抗う力を持たないから弱者なのだ。
 そしてその無力の中で、現実を摂理と知る。

 ために庇護されなかった弱者ほど時に残酷な摂理を語る。
 綺麗ごとで済まされない、リソースの有無によってときに生死さえ分かつようなことが、世の中にはずっと昔からある。
 正邪を超えて、善悪を基準とせず、優劣に関係なく。
 僕が何を経験したのかは特に書かないけれど。

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 しかし同時に僕は夢想家でもある。
 現実の摂理が残酷なことは、それを目の当たりにし、とっぷり浸かってきた者にとって何の不思議もないことだ。
 
 自分以外の誰かのために優しくありたいと思うのは、願うのは、行動するのは、確かにおこがましく映ることもあるように思う。
 僕のように、非情な摂理を誰に説明するでもなく、不言実行してしまえば変わり者だとか非常識だと時に非難され、距離を置かれるのはおよそ間違いない。
 あるいは僕が優しさを実行するのは、かつての弱者たる自分自身が求めていた理想を投影する代償行動と考えられなくもない。

 演技にせよ、代償行動にせよ、相手のためにしていることではない。
 だからきっと僕には、優しさという行動規範はあっても愛情というものがない。

 しかし愛情の有無は問題だろうか。
 愛情を込めた料理が致死的な害悪を含んでいることもある(洗剤で洗った米を炊いた、とか)。
 それなら愛情など欠片もないのに、優しい味わいの料理のほうが、他人に優しいと思うのだ。

 もちろん愛情も込めてあり、美味しいならそれが最上だとは思う。
 では人々は、そこで表現されている愛情とやらを、一体何によって味わっているというのだろう。
 味覚だろうか。それとも聴覚? 嗅覚? 触覚?
 愛情というのは、つまるところ単一の感覚に依るようなものではない。
 それに優しさと違って、ときにひどく一方的で独りよがりなものではないだろうか。

 それなら僕は、優しい演者でありさえすれば、その技術さえ体現できるなら、それでいい。
 周囲の人間たちが「優しい」と誤解してくれる微笑ましい現実に、弱者が強者にささやかにでも守られる世界に、ずっと憧れていたのだし。
 それが仮初めであろうと、非情で卑劣な現実を突きつけることが常に正しいわけではないのだから。







 

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::ジェントルマンというのは世間の幻想だ。
 他人や社会や集団の抱くファンタジィを裏切らず、演じることが優しさなんだ。
 本心の有無なんて関係ない。
 他人の心なんて目に見えないわけだから。

 優しくしたい気持ちがあると言いながら身勝手で酷いことばかりするより、優しい気持ちの有無にかかわらず他人の求めるファンタジィを演じることの方が結果的に優しくなる。



 

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[NEXUS]
~ Junction Box ~
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[Engineer]
  :青猫:黒猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Mechanics-Season-Stand_Alone-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Camouflage-Human-Memory-
 
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[Cat-Ego-Lies]
  :ひとになったゆめをみる:
 
 
 
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