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TITLE:
目に見えないものばかり。
SUBTITLE:
~ The cat in the darkness. ~
Written by BlueCat
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本当に大切なものは目に見えないんだ、と星の王子さまは言ったという。
ならば僕が猫に見えないことは、それが本当は大切なことなんだろうと結論づけることが可能である。
無論、その結論や理屈の正しさを証明することはおそらくできないし、それをする意味もない。
大切というのはそういうこと。
意味がないこと。
意味がないことでも意味を見つけること。
夜道を照らす星のように、闇に閉ざされた景色に、不明瞭でも意味を見つけられること。
>>>
人間たちは多く、集団を形成する。
集団を形成するように作られている。
集団を形成するのが人間性であり、集団の形成を維持する素養が人間性だと教えられる。
なるほど獣性の反対に人間性が位置するなら、それはひとつの答えかもしれない。
しかし社会を形成するものは昆虫にも存在する。
なんとなれば引力に従って、物質も集団を形成し、星になったり、衛星になってみたり、星系になったり、銀河系になったりする。
非生物さえ社会を形成する。
人間の意志も、物理的運動体のように慣性の法則や質量保存の法則、作用反作用の法則に従っているかのような運動を見せることが多い。
もし人間性というものが、人間だけに見えている幻想だったとして僕は驚かない。
しかし人間の多くは、そんなことを滅多に考えない。
大人になればなるほど考えなくなるものだし、子供の頃に考えなかった場合、一生考えない人もいるだろう。
社会や法や倫理や風潮によって「こうあれかし」と与えられたお題目に従うだけで体現できるのが人間性であるならば、ずいぶん機械的で安っぽい運動原理だとさえ思う。
しかし機械的で安易に体現できるからこそ、より広く多くに浸透することが可能になるともいえる。
それは科学的な再現性を持つ、ある種の技術だ。
そのようなことをつい考えてしまう。
先日も、友人に「数値というのは本来、一般に思われているよりずっと抽象的で概念的なものだ」と言ったら、怪訝な顔をされてしまった。
たとえば柿がふたつあったとしても、そのふたつの柿が同じ木の同じ枝から同じ日時に採れた、見た目も重量も同じものだとしても、そのふたつの柿AとBは、まったく同じものでまったく同じ味だとは限らない。
むしろ間違いなく何かしらが違うはずである。
柿Aと柿Bは異なるものなのに「柿である」と人間が認識し、抽象し、概念化するため「柿という同じもの」がふたつある、と概念化され、具象され、認識される。
柿Aと猫Bは異なるものであるが「有機物」と人間が認識し、抽象し、概念化すれば「有機物という同じもの」がふたつあることになる。そしてそれはだいたい合っている。
この論法でゆくと、猫と人は同じものになる。
どんなに似通ったものも、どんなに差違のあるものも、抽象化すれば数値化される。
すなわち数値化されたものは「まったく同じとは限らない」という意味において、すべて概念的であり、抽象的である。
純粋な数値はどうかといえば、それこそ実体がないのだから抽象であり概念である。
結果として「現実的だ」と人間が定義しているもののおよそすべては抽象であり概念である可能性を否定できない。
多くの人は「現実」という幻を見ているのではないかと僕はよく思う。
もちろん僕のこれも概念であり抽象であるから、現実ではないだろう。
僕の存在は、どこからどこまでが現実で、どこからどこまでが幻想だろう。
本当に大切なものは目に見えないんだ、と星の王子さまは言ったという。
ならば僕が猫に見えないことは、それが本当は大切なことなんだろうと結論づけることが可能である。
無論、その結論や理屈の正しさを証明することはおそらくできないし、それをする意味もない。
大切というのはそういうこと。
意味がないこと。
意味がないことでも意味を見つけること。
夜道を照らす星のように、闇に閉ざされた景色に、不明瞭でも意味を見つけられること。
>>>
人間たちは多く、集団を形成する。
集団を形成するように作られている。
集団を形成するのが人間性であり、集団の形成を維持する素養が人間性だと教えられる。
なるほど獣性の反対に人間性が位置するなら、それはひとつの答えかもしれない。
しかし社会を形成するものは昆虫にも存在する。
なんとなれば引力に従って、物質も集団を形成し、星になったり、衛星になってみたり、星系になったり、銀河系になったりする。
非生物さえ社会を形成する。
人間の意志も、物理的運動体のように慣性の法則や質量保存の法則、作用反作用の法則に従っているかのような運動を見せることが多い。
もし人間性というものが、人間だけに見えている幻想だったとして僕は驚かない。
しかし人間の多くは、そんなことを滅多に考えない。
大人になればなるほど考えなくなるものだし、子供の頃に考えなかった場合、一生考えない人もいるだろう。
社会や法や倫理や風潮によって「こうあれかし」と与えられたお題目に従うだけで体現できるのが人間性であるならば、ずいぶん機械的で安っぽい運動原理だとさえ思う。
しかし機械的で安易に体現できるからこそ、より広く多くに浸透することが可能になるともいえる。
それは科学的な再現性を持つ、ある種の技術だ。
そのようなことをつい考えてしまう。
先日も、友人に「数値というのは本来、一般に思われているよりずっと抽象的で概念的なものだ」と言ったら、怪訝な顔をされてしまった。
たとえば柿がふたつあったとしても、そのふたつの柿が同じ木の同じ枝から同じ日時に採れた、見た目も重量も同じものだとしても、そのふたつの柿AとBは、まったく同じものでまったく同じ味だとは限らない。
むしろ間違いなく何かしらが違うはずである。
柿Aと柿Bは異なるものなのに「柿である」と人間が認識し、抽象し、概念化するため「柿という同じもの」がふたつある、と概念化され、具象され、認識される。
柿Aと猫Bは異なるものであるが「有機物」と人間が認識し、抽象し、概念化すれば「有機物という同じもの」がふたつあることになる。そしてそれはだいたい合っている。
この論法でゆくと、猫と人は同じものになる。
どんなに似通ったものも、どんなに差違のあるものも、抽象化すれば数値化される。
すなわち数値化されたものは「まったく同じとは限らない」という意味において、すべて概念的であり、抽象的である。
純粋な数値はどうかといえば、それこそ実体がないのだから抽象であり概念である。
結果として「現実的だ」と人間が定義しているもののおよそすべては抽象であり概念である可能性を否定できない。
多くの人は「現実」という幻を見ているのではないかと僕はよく思う。
もちろん僕のこれも概念であり抽象であるから、現実ではないだろう。
僕の存在は、どこからどこまでが現実で、どこからどこまでが幻想だろう。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
青猫α:青猫β:黒猫:銀猫:
[InterMethod]
-Algorithm-Chaos-Diary-Ecology-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-Transistor-
[Object]
-Cat-Human-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:青猫のひとりごと::夢見の猫の額の奥に:
//EOF
