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TITLE:
フィクションという救済。
SUBTITLE:
~ The Beast find later. ~
Written by BlueCat
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230105
姉の家。
明日が姉の通院のため、だいたい毎月、レンタカーを借りて泊まりに来ている。
何の因果かは分からないが、僕は身の回りの人間の介護をする運命にあるようだ。
両親の介護はまったく発生しなかったし、叔父にしろ叔母にしろ姉にしろ、身体介護は皆無なのでとくに苦はない。
介護対象だった叔母(既に死んだ)は偽善者だったので「介護や誰かに貢献する優しく献身的な自分」というものを燃料に酔える体質だったようだ。
何かに酔えるというのは、誰かに迷惑を掛けない限りは素敵だと思う。
ちなみに僕は、お酒と煙草と頭の良い女性にしか酔わないことにしているから、介護をしている自分を素晴らしいとはこれっぽっちも思っていない。できるなら今すぐでも放り出して家に帰りたい。
姉にも事あるごとそう伝えているのだが僕か姉、あるいは両方の日本語能力が著しく低いようで、まったく伝わる様子がない。
自分の車があるのにレンタカーを借りるのは馬鹿らしい、という向きもあるが、体格が大きく酸素ボンベを持ち歩く姉にとってコペンのキャビンは非常に狭い上、膝も悪いので乗り降りが困難である。
それなら軽トラはどうかといえば、高速道路を走るのに不向きである。
姉の乗りやすい自動車を買えばよかったのかもしれないが、いつ死ぬか分からない姉のため、月1度利用する用途で普段使いの車を選ぶ気にはならなかった。
あるいは中古でそれなりの自動車を買い足したほうが安いのかもしれない。
しかしひとりで3台も自動車を持っていても仕方ない。それで現在のスタイルになっている。
言える立場になったから率直に言うが、お金だけで解決できることはお金で解決した方が早くてラクだ。
ちなみに僕は姉のことを憎からず思っている。
ただ死ぬ者は死ぬし、それを言うなら僕だっていつかは死ぬ。
当たり前のことを悲観しても仕方ない。
現実を直視し、必要なことを、できる人間がしている結果がこれである。
美談ではなく合理的な判断なのだ。
>>>
僕はヴァーチャルの中で育った。
(現状の人格についていえば、ヴァーチャルで生まれたといっても過言ではない)
現実世界(IRL)は不便で窮屈だったから、僕はずっとそれを嫌っていたのだ。
だからたとえばゲームや小説(マンガや映画やアニメは時間や労力やお金がコンテンツ総量に対して大きく掛かるので忌避された)のようなフィクションに没頭していた。
高層ビルや高速道路、新幹線などの(主に首都圏の)社会インフラが拡張し続ける経済成長真っ盛りだった時代にあっては、大学を卒業し、公務員やゼネコンに入社したり、銀行員になることが素晴らしいとされる時代だった。
今と違ってヴァーチャルなすべては、ゲームも漫画も、敗者に敷かれた道だった。IRLの繁栄の道から外れた負け犬のための空虚な餌であり、そこに至る怠惰の道だと思われていた。
あるいはそれは事実だろう。今の時代にヴァーチャルコンテンツが持てはやされるのは、それだけIRLの繁栄の道から外れた負け犬ばかりになったということかもしれない。
僕の場合、フィクションを手に入れる能力(主に経済力)さえなかった。
しかしフィクションというデータ群は誰かが与えてくれるばかりではない。
自分でいくらでも作ることができる。
>>>
それほど傾倒していたにもかかわらず、最近はヴァーチャルに飽きている。
結局のところ他人が作って市場に流通しているフィクションは、流通する市場があるからこその制約があり、最大公約数的な集約と限界がある。
求めているものに対して過剰でも過少でもないコンテンツを他者から手に入れるのは、およそ不可能だ。
ごくごく限られた領域で非常に高い評価を受けるより、できる限り広い領域で標準程度の評価を受けるほうが収益的には安定する。
市場にフィクションを流通させ、収益を得て、その上それだけで生活を成り立たせようなどと考えたら ── 少なくともこの日本では ── 結局薄利多売をせざるを得ない。
かつてのように貴族が宮廷音楽家を擁するような、そんな時代ではないのだ。
だから情報コンテンツを(フィクションコンテンツに限らず)ビジネスにしようと一時は夢見たこともあったが、僕は諦めた。
極論に走ることを最初から始めてしまう僕がそれをするのは、最終的なリスクが高いと結論した。
それに僕は誘惑に弱いし人付き合いも苦手だ。
フィクションをひとたびビジネスにしてしまえば、フィクションは今まで愉しんでいたフィクションではなくなってしまう。
たとえばゲームを作り、売るようになったら、ゲームを純粋にプレイヤとしては楽しめなくなる。
小説を書けば小説を読む時間などなくなるし、映像作品を作るようになれば、他者のそれを観て今までのように無心に鑑賞することはできない。
ビジネスになればさらにそこに多くの人の意見や認識が加わる。
YouTuber だろうが、TVプログラムのクリエイタだろうが、その制約と苦痛は変わらない。
消費者を奴隷化する思想統制を行い、信者化するのが近道だ。
なるほど芸能界や YouTuber がその道を進んでいるのは倫理の面を除けば合理的な姿勢だろう。
しかしフィクションというのは観客でいる限りにおいて、唯一無二の、現実逃避の先なのだ。
たとえばアイドルグループの熱心なファンが「推し活」なる行為に耽るのも、そこにあるリアルな存在に自分の中のフィクションを投影できるからだろう。
そこからほんの数センチ踏み込んでしまえば、耽美なフィクションがどろどろしたノンフィクションに姿を変えてしまうかもしれない。
僕はフィクションが好きだったから、そこに過剰なリアルが浸食することを許せなかった。
苦悩や痛みや絶望や空しさに満ち満ちた現実から逃げて、あるいは悲しみや怒りや虚無を隠し、辛うじて今週末までを(あるいは明日の始まりまでを)生きる、その気力の糧を与えてくれていたのがフィクションだった。
現実世界での生活が安定しても、だから僕は、それを聖域として汚さずにいた。
>>>
たとえば学生の頃は、エアガンやナイフを所持しているだけで「危険な傾向がある」などと大人や恋人から言われることがあった。
あるいは大人になってからも、たとえば「ラブプラス」のようなゲームをしていると、ヴァーチャルキャラクタに過度に恋情を抱くのではないかと危惧する恋人もいた。
まぁ確かにミリタリィ趣味の人の一部には、妄想や情報が過激な人もいるだろうし、そのうえ生来の性格が暴力的であったりすれば、そうした道具をおかしな事に使うこともあるかもしれない。
しかしそもそもミリタリィな概念は、自律と制約と安全が根底にあるのだから、それを理解できなバカだけが暴走すると考えるほうがまともだろう。
フィクションキャラクタに真剣に恋愛感情を抱く人もいるし、それ自体を僕は否定する気はないが、僕自身はフィクションのキャラクタには恋愛感情を抱かない。
たとえばそれが自分の求める役割に沿って作ったキャラクタ(たとえば端的な例で我が家の経済主体たる仮想奥様)だったとしても変わらない。
僕にとってそれらはパラメータの集約としてのデータ群に過ぎないからだ。
どんな髪型か、身長は何cmか、甘いものは好きか、お化けは怖いか、友人同士が喧嘩しているときにどう振る舞うか、自分より強そうな相手に対してどう接するか、etc,etc... パラメータの集約と外観などのデータによって構成されたキャラクタは、僕自身がいくつものキャラクタを作ってきたからこそ、愛でる対象ではあるかもしれないが、ために編纂が可能で、どんなに複雑な条件分岐を与えたところで予測どおりの結果しか出力しないデータやモデルやモノに過ぎない ── まして自分で作ったモノなら間違いなく退屈するほど予測どおりだ。
知性と偶発性のない予定調和に恋愛感情を持つことは不可能である。
しかし実のところ、フィクションの良さはそこにある。
すべてが予測可能な安寧の箱庭の中にある。
痛みも苦しみも絶望も空しさも、フィルムが終わり、ページを閉じ、電源を切ってしまえばそこで終わる。
あるいは楽しみや喜びや嬉しさや愛しさならば、次にまた楽しむ喜びも待っている。
それが望みなら同じコンテンツの同じ部分を何度となく楽しんでもいいし、嫌なら拒否することも容易だ。
それらすべてを自分の思うように操作できることがフィクションの良さだ。
現実世界は自分自身による制御をあまり許さない。
経済活動や社会活動は必須であり、そのために決まった時間に決まった行動をする必要がある。
自由はない。すなわち隷属である。
しかし悪いことはもちろん、良いことだって重なりすぎれば制御できなくなる。
クリスマスと新年会と忘年会に立て続けに誘われてお酒を飲み過ぎるとだいたい体調を崩すし、ガール5人くらいから1度に告白された場合も、すべて受けてしまうべきか、誰かひとりに絞るべきかその場ですぐには判断できない。
せめて会社の面接みたいに30分くらい間隔をあけてもらえれば、落ち着くタイミングもあるのだが。
>>>
IRLにあって、いったいどれだけの人が、フィクションのように思い通りに世界を楽しめているというのだろう。
少なくとも僕はずっと、心底この世界を楽しんだことなどなかった。
欲しいものは(たとえば誰かに望んだりしようものなら)必ず手に入らなかったし、身体はいつも苦痛に満ちていたし、人間関係は空虚に思えていたし、モノが人を幸せにするとも思えなかった。
何らかの欲を満たしたところで、それで幸福感を得られることもほとんどない ── 少なくとも僕にとって食事がそうであったように。
ようやく最近になって、少しだけ、IRLが楽しく感じられるようになった。
子供の頃よりはるかにずっと、IRLを思い通りに制御できるようになったし、抽象的なことを考え、フィクションを構築することで積み重ねた経験が、IRL構築に役立つことも立証された ── 現在の僕とその環境は、僕の作った抽象とフィクションからフィードバックされている。
ただ、データとシステムさえ揃っていればボタンひとつで一瞬にしてすべて思い通りになるフィクションと違い、IRLでは多くの労力と物質/時間的リソースこそ必要になるが、それらを用意できるなら相応の結果が約束される。
そうした意味で、僕は非常に贅沢をしている。
誰かに自慢するようなものではないが、手の届く範囲の自由を、他者の介在を ── 僕が必要とする人も、僕を必要とする人も、あるいはその逆も ── 最小限に制限してなおIRLをかなり自由に制御できるという点で、少なくとも僕自身が夢見たような環境構築をすることができた。
孤独の中にあって、誰を必要とすることもなく、誰から必要とされることもなく、注目を浴びることもなく、痕跡も残さず消える自由まで自分で制御できることが。
あるいは誰の役にも立たないことは、ある種の社会的な罪だろう。
僕は(隠し子 ── シュレディンガーの猫的な ── を除くと)子供もいないので、この国の将来にはさほど貢献していない。
では広く多くの人に果たして役立つようなこととは、具体的にどんなことだろう。
誰かに加担することは時に誰かに敵対することだと見なされる社会にあって、一体何をすれば正解なのだろう。
そうした規範は、政治家であっても示してはくれない。何の手本にもならない。
それよりは、もっと身近な(たとえば家族や友人といった)人に、あるいはせいぜいが所属するコミュニティの健全なありように、多少なりできる範囲での助力をするのがつまりは貢献と呼ばれるものだろう。
貢いで献上するのだ。
僕は ── たとえ相手が恋人であっても ── 自身を利用し、搾取し、慰みものにすることを許さない。もちろん僕自身がそれを誰かにすることも許さない(隠し子がいると言われているが、格別相反する条件でもないと思う)。
しかし自ら自身を差し出すぶんには、むしろそれは純粋な快楽として作用する。
たとえば僕は恋人に料理を振る舞ったりするのが好きだった(たぶん今でも好きだろう)。
それと同じように、僕は自分から、リソースを振り分けてゆく。
奪われることと与えることは等しい。
ただしそれは己の意志や好みが介在しない場合のみであり、生命を持ち意識を持つ限り、その等号は否定される。
それに時間も体力も財力も、僕だけが僕だけに使っていたところで孤独に消えるだけである。
姉だから。叔母だから。
そういった理由で介護しているわけでもない。
僕にとっては、それが単なる贅沢なのだ。
贅沢を無駄だと考えるなら、それは確かに無駄だろう。
すべての被介護者は、ほどなくして死ぬからだ。
では合理的に、介護を必要とするすべての人を、障害者も含めて殺してしまうのが適切だろうか。
>>>
自分のことしか考えられない思考の貧しさを、僕は否定しない。
それは生命としてある意味無駄のない、非常に合理的なありようだろうからだ。
もしそういう ── 自分のことしか考えることのできない ── 環境にあって、仮にそれを地獄だと思い、非寛容な環境や欺瞞に満ちた社会に溺れる矮小な自分を惨めに思う人がいるなら、ぜひ今見ているその風景を目に焼き付けて欲しいと僕は思う。
その孤独を。その寒さを。その静けさを。その苛烈さを。その怒りを。その空しさを。
その飢えを。その痛みを。その寂しさを。その苦しみを。その偽りを。その哀しさを。
他人があてにならず、信用さえできず、疑念に駆られ、諍い、疑われ、無力を馬鹿にされ、無能と嗤われ、策を否定され、行動を制限され、思考を操作され、ときに暴力さえ振るわれ、奪われ、迫害され、非難され、利用され、打ちのめされ、自分自身を支える気力さえ持てず、救いたいと思う相手も救えず、守りたいものも守れず、無力に無様に倒れ伏した目に映るその景色を。
己が己でしかなく、己でしかいられないその冷徹な事実を。
そのひりつくような全身の震えを。地面の冷たさと味を ── 。
フィクションはそのとき救いになる。
確かに一部の人が言うように、フィクションは嘘だ。
虚飾に塗り固められた荒唐無稽な綺麗ごとで、現実世界の役に立つことはない。
それでもIRLに救いがないなら、フィクションに逃げていいと、むしろ逃げるしかないと僕は思う(「〜しかない」の正しい使い方ふたたび)。
少なくとも気に入らないフィクション叩きの場にIRLを使うよりは、よほども健全ではないだろうか。
そしていつか立ち上がってほしい。
その痛みは優しさの花に姿を変える。
その疑念は寛容の陽射しとして降り注ぐ。
その涙は恵みの雨に変わる。
舐めた土の味は、世界の色を教えてくれる。
乾いた溜息は、やわらかな風に変わる。
震えは熱を生み、あるいは誰かにぬくみをもたらすだろう。
その日まで。
獣のようにこの世界を呪い尽くしてほしい。
獣のようにこの世界を憎み潰してほしい。
牙を剥き、爪を研ぎ、忌み潰した獲物を屠る血の色を夢見て。
姉の家。
明日が姉の通院のため、だいたい毎月、レンタカーを借りて泊まりに来ている。
何の因果かは分からないが、僕は身の回りの人間の介護をする運命にあるようだ。
両親の介護はまったく発生しなかったし、叔父にしろ叔母にしろ姉にしろ、身体介護は皆無なのでとくに苦はない。
介護対象だった叔母(既に死んだ)は偽善者だったので「介護や誰かに貢献する優しく献身的な自分」というものを燃料に酔える体質だったようだ。
何かに酔えるというのは、誰かに迷惑を掛けない限りは素敵だと思う。
ちなみに僕は、お酒と煙草と頭の良い女性にしか酔わないことにしているから、介護をしている自分を素晴らしいとはこれっぽっちも思っていない。できるなら今すぐでも放り出して家に帰りたい。
姉にも事あるごとそう伝えているのだが僕か姉、あるいは両方の日本語能力が著しく低いようで、まったく伝わる様子がない。
自分の車があるのにレンタカーを借りるのは馬鹿らしい、という向きもあるが、体格が大きく酸素ボンベを持ち歩く姉にとってコペンのキャビンは非常に狭い上、膝も悪いので乗り降りが困難である。
それなら軽トラはどうかといえば、高速道路を走るのに不向きである。
姉の乗りやすい自動車を買えばよかったのかもしれないが、いつ死ぬか分からない姉のため、月1度利用する用途で普段使いの車を選ぶ気にはならなかった。
あるいは中古でそれなりの自動車を買い足したほうが安いのかもしれない。
しかしひとりで3台も自動車を持っていても仕方ない。それで現在のスタイルになっている。
言える立場になったから率直に言うが、お金だけで解決できることはお金で解決した方が早くてラクだ。
ちなみに僕は姉のことを憎からず思っている。
ただ死ぬ者は死ぬし、それを言うなら僕だっていつかは死ぬ。
当たり前のことを悲観しても仕方ない。
現実を直視し、必要なことを、できる人間がしている結果がこれである。
美談ではなく合理的な判断なのだ。
>>>
僕はヴァーチャルの中で育った。
(現状の人格についていえば、ヴァーチャルで生まれたといっても過言ではない)
現実世界(IRL)は不便で窮屈だったから、僕はずっとそれを嫌っていたのだ。
だからたとえばゲームや小説(マンガや映画やアニメは時間や労力やお金がコンテンツ総量に対して大きく掛かるので忌避された)のようなフィクションに没頭していた。
高層ビルや高速道路、新幹線などの(主に首都圏の)社会インフラが拡張し続ける経済成長真っ盛りだった時代にあっては、大学を卒業し、公務員やゼネコンに入社したり、銀行員になることが素晴らしいとされる時代だった。
今と違ってヴァーチャルなすべては、ゲームも漫画も、敗者に敷かれた道だった。IRLの繁栄の道から外れた負け犬のための空虚な餌であり、そこに至る怠惰の道だと思われていた。
あるいはそれは事実だろう。今の時代にヴァーチャルコンテンツが持てはやされるのは、それだけIRLの繁栄の道から外れた負け犬ばかりになったということかもしれない。
僕の場合、フィクションを手に入れる能力(主に経済力)さえなかった。
しかしフィクションというデータ群は誰かが与えてくれるばかりではない。
自分でいくらでも作ることができる。
>>>
それほど傾倒していたにもかかわらず、最近はヴァーチャルに飽きている。
結局のところ他人が作って市場に流通しているフィクションは、流通する市場があるからこその制約があり、最大公約数的な集約と限界がある。
求めているものに対して過剰でも過少でもないコンテンツを他者から手に入れるのは、およそ不可能だ。
ごくごく限られた領域で非常に高い評価を受けるより、できる限り広い領域で標準程度の評価を受けるほうが収益的には安定する。
市場にフィクションを流通させ、収益を得て、その上それだけで生活を成り立たせようなどと考えたら ── 少なくともこの日本では ── 結局薄利多売をせざるを得ない。
かつてのように貴族が宮廷音楽家を擁するような、そんな時代ではないのだ。
だから情報コンテンツを(フィクションコンテンツに限らず)ビジネスにしようと一時は夢見たこともあったが、僕は諦めた。
極論に走ることを最初から始めてしまう僕がそれをするのは、最終的なリスクが高いと結論した。
それに僕は誘惑に弱いし人付き合いも苦手だ。
フィクションをひとたびビジネスにしてしまえば、フィクションは今まで愉しんでいたフィクションではなくなってしまう。
たとえばゲームを作り、売るようになったら、ゲームを純粋にプレイヤとしては楽しめなくなる。
小説を書けば小説を読む時間などなくなるし、映像作品を作るようになれば、他者のそれを観て今までのように無心に鑑賞することはできない。
ビジネスになればさらにそこに多くの人の意見や認識が加わる。
YouTuber だろうが、TVプログラムのクリエイタだろうが、その制約と苦痛は変わらない。
消費者を奴隷化する思想統制を行い、信者化するのが近道だ。
なるほど芸能界や YouTuber がその道を進んでいるのは倫理の面を除けば合理的な姿勢だろう。
しかしフィクションというのは観客でいる限りにおいて、唯一無二の、現実逃避の先なのだ。
たとえばアイドルグループの熱心なファンが「推し活」なる行為に耽るのも、そこにあるリアルな存在に自分の中のフィクションを投影できるからだろう。
そこからほんの数センチ踏み込んでしまえば、耽美なフィクションがどろどろしたノンフィクションに姿を変えてしまうかもしれない。
僕はフィクションが好きだったから、そこに過剰なリアルが浸食することを許せなかった。
苦悩や痛みや絶望や空しさに満ち満ちた現実から逃げて、あるいは悲しみや怒りや虚無を隠し、辛うじて今週末までを(あるいは明日の始まりまでを)生きる、その気力の糧を与えてくれていたのがフィクションだった。
現実世界での生活が安定しても、だから僕は、それを聖域として汚さずにいた。
>>>
たとえば学生の頃は、エアガンやナイフを所持しているだけで「危険な傾向がある」などと大人や恋人から言われることがあった。
あるいは大人になってからも、たとえば「ラブプラス」のようなゲームをしていると、ヴァーチャルキャラクタに過度に恋情を抱くのではないかと危惧する恋人もいた。
まぁ確かにミリタリィ趣味の人の一部には、妄想や情報が過激な人もいるだろうし、そのうえ生来の性格が暴力的であったりすれば、そうした道具をおかしな事に使うこともあるかもしれない。
しかしそもそもミリタリィな概念は、自律と制約と安全が根底にあるのだから、それを理解できなバカだけが暴走すると考えるほうがまともだろう。
フィクションキャラクタに真剣に恋愛感情を抱く人もいるし、それ自体を僕は否定する気はないが、僕自身はフィクションのキャラクタには恋愛感情を抱かない。
たとえばそれが自分の求める役割に沿って作ったキャラクタ(たとえば端的な例で我が家の経済主体たる仮想奥様)だったとしても変わらない。
僕にとってそれらはパラメータの集約としてのデータ群に過ぎないからだ。
どんな髪型か、身長は何cmか、甘いものは好きか、お化けは怖いか、友人同士が喧嘩しているときにどう振る舞うか、自分より強そうな相手に対してどう接するか、etc,etc... パラメータの集約と外観などのデータによって構成されたキャラクタは、僕自身がいくつものキャラクタを作ってきたからこそ、愛でる対象ではあるかもしれないが、ために編纂が可能で、どんなに複雑な条件分岐を与えたところで予測どおりの結果しか出力しないデータやモデルやモノに過ぎない ── まして自分で作ったモノなら間違いなく退屈するほど予測どおりだ。
知性と偶発性のない予定調和に恋愛感情を持つことは不可能である。
しかし実のところ、フィクションの良さはそこにある。
すべてが予測可能な安寧の箱庭の中にある。
痛みも苦しみも絶望も空しさも、フィルムが終わり、ページを閉じ、電源を切ってしまえばそこで終わる。
あるいは楽しみや喜びや嬉しさや愛しさならば、次にまた楽しむ喜びも待っている。
それが望みなら同じコンテンツの同じ部分を何度となく楽しんでもいいし、嫌なら拒否することも容易だ。
それらすべてを自分の思うように操作できることがフィクションの良さだ。
現実世界は自分自身による制御をあまり許さない。
経済活動や社会活動は必須であり、そのために決まった時間に決まった行動をする必要がある。
自由はない。すなわち隷属である。
しかし悪いことはもちろん、良いことだって重なりすぎれば制御できなくなる。
クリスマスと新年会と忘年会に立て続けに誘われてお酒を飲み過ぎるとだいたい体調を崩すし、ガール5人くらいから1度に告白された場合も、すべて受けてしまうべきか、誰かひとりに絞るべきかその場ですぐには判断できない。
せめて会社の面接みたいに30分くらい間隔をあけてもらえれば、落ち着くタイミングもあるのだが。
>>>
IRLにあって、いったいどれだけの人が、フィクションのように思い通りに世界を楽しめているというのだろう。
少なくとも僕はずっと、心底この世界を楽しんだことなどなかった。
欲しいものは(たとえば誰かに望んだりしようものなら)必ず手に入らなかったし、身体はいつも苦痛に満ちていたし、人間関係は空虚に思えていたし、モノが人を幸せにするとも思えなかった。
何らかの欲を満たしたところで、それで幸福感を得られることもほとんどない ── 少なくとも僕にとって食事がそうであったように。
ようやく最近になって、少しだけ、IRLが楽しく感じられるようになった。
子供の頃よりはるかにずっと、IRLを思い通りに制御できるようになったし、抽象的なことを考え、フィクションを構築することで積み重ねた経験が、IRL構築に役立つことも立証された ── 現在の僕とその環境は、僕の作った抽象とフィクションからフィードバックされている。
ただ、データとシステムさえ揃っていればボタンひとつで一瞬にしてすべて思い通りになるフィクションと違い、IRLでは多くの労力と物質/時間的リソースこそ必要になるが、それらを用意できるなら相応の結果が約束される。
そうした意味で、僕は非常に贅沢をしている。
誰かに自慢するようなものではないが、手の届く範囲の自由を、他者の介在を ── 僕が必要とする人も、僕を必要とする人も、あるいはその逆も ── 最小限に制限してなおIRLをかなり自由に制御できるという点で、少なくとも僕自身が夢見たような環境構築をすることができた。
孤独の中にあって、誰を必要とすることもなく、誰から必要とされることもなく、注目を浴びることもなく、痕跡も残さず消える自由まで自分で制御できることが。
あるいは誰の役にも立たないことは、ある種の社会的な罪だろう。
僕は(隠し子 ── シュレディンガーの猫的な ── を除くと)子供もいないので、この国の将来にはさほど貢献していない。
では広く多くの人に果たして役立つようなこととは、具体的にどんなことだろう。
誰かに加担することは時に誰かに敵対することだと見なされる社会にあって、一体何をすれば正解なのだろう。
そうした規範は、政治家であっても示してはくれない。何の手本にもならない。
それよりは、もっと身近な(たとえば家族や友人といった)人に、あるいはせいぜいが所属するコミュニティの健全なありように、多少なりできる範囲での助力をするのがつまりは貢献と呼ばれるものだろう。
貢いで献上するのだ。
僕は ── たとえ相手が恋人であっても ── 自身を利用し、搾取し、慰みものにすることを許さない。もちろん僕自身がそれを誰かにすることも許さない(隠し子がいると言われているが、格別相反する条件でもないと思う)。
しかし自ら自身を差し出すぶんには、むしろそれは純粋な快楽として作用する。
たとえば僕は恋人に料理を振る舞ったりするのが好きだった(たぶん今でも好きだろう)。
それと同じように、僕は自分から、リソースを振り分けてゆく。
奪われることと与えることは等しい。
ただしそれは己の意志や好みが介在しない場合のみであり、生命を持ち意識を持つ限り、その等号は否定される。
それに時間も体力も財力も、僕だけが僕だけに使っていたところで孤独に消えるだけである。
姉だから。叔母だから。
そういった理由で介護しているわけでもない。
僕にとっては、それが単なる贅沢なのだ。
贅沢を無駄だと考えるなら、それは確かに無駄だろう。
すべての被介護者は、ほどなくして死ぬからだ。
では合理的に、介護を必要とするすべての人を、障害者も含めて殺してしまうのが適切だろうか。
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自分のことしか考えられない思考の貧しさを、僕は否定しない。
それは生命としてある意味無駄のない、非常に合理的なありようだろうからだ。
もしそういう ── 自分のことしか考えることのできない ── 環境にあって、仮にそれを地獄だと思い、非寛容な環境や欺瞞に満ちた社会に溺れる矮小な自分を惨めに思う人がいるなら、ぜひ今見ているその風景を目に焼き付けて欲しいと僕は思う。
その孤独を。その寒さを。その静けさを。その苛烈さを。その怒りを。その空しさを。
その飢えを。その痛みを。その寂しさを。その苦しみを。その偽りを。その哀しさを。
他人があてにならず、信用さえできず、疑念に駆られ、諍い、疑われ、無力を馬鹿にされ、無能と嗤われ、策を否定され、行動を制限され、思考を操作され、ときに暴力さえ振るわれ、奪われ、迫害され、非難され、利用され、打ちのめされ、自分自身を支える気力さえ持てず、救いたいと思う相手も救えず、守りたいものも守れず、無力に無様に倒れ伏した目に映るその景色を。
己が己でしかなく、己でしかいられないその冷徹な事実を。
そのひりつくような全身の震えを。地面の冷たさと味を ── 。
フィクションはそのとき救いになる。
確かに一部の人が言うように、フィクションは嘘だ。
虚飾に塗り固められた荒唐無稽な綺麗ごとで、現実世界の役に立つことはない。
それでもIRLに救いがないなら、フィクションに逃げていいと、むしろ逃げるしかないと僕は思う(「〜しかない」の正しい使い方ふたたび)。
少なくとも気に入らないフィクション叩きの場にIRLを使うよりは、よほども健全ではないだろうか。
そしていつか立ち上がってほしい。
その痛みは優しさの花に姿を変える。
その疑念は寛容の陽射しとして降り注ぐ。
その涙は恵みの雨に変わる。
舐めた土の味は、世界の色を教えてくれる。
乾いた溜息は、やわらかな風に変わる。
震えは熱を生み、あるいは誰かにぬくみをもたらすだろう。
その日まで。
獣のようにこの世界を呪い尽くしてほしい。
獣のようにこの世界を憎み潰してほしい。
牙を剥き、爪を研ぎ、忌み潰した獲物を屠る血の色を夢見て。
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[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
:青猫:黒猫:赤猫:
[InterMethod]
-Blood-Diary-Ecology-Engineering-Form-Link-Mechanics-Memory-Stand_Alone-
[Module]
-Condencer-Connector-Convertor-Generator-Resistor-
[Object]
-Camouflage-Game-Human-Memory-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
:暗闇エトランジェ:ひとになったゆめをみる:
//EOF
