// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:220802
// NOTE:「あなたはいつも夏休みじゃない」なんて非難がましく言わないでほしい。仕事がないだけだ。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
夏休み。
SUBTITLE:
~ Short vacation. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
220802
 
 猛暑予想日。
 スケジュールされていた歯医者へ。
 往きは良いが、帰宅予定の昼過ぎは40℃を超える予報。
 
 エアコン装備の自動車というのは驚くほど涼しい。
 と思っていたのだが、一般的な軽自動車は車内が広いぶん、空調が効きにくい。
 車内が狭い車にも利点はあるということは先日も書いた。
 
 道中、運転していて改めて気付いたのだが、僕はやはり運転が好きではないらしい。
 好きな車を買ったのにも関わらずこの有様だから、よほど運転が嫌いだったのだと自覚する。
 
 僕の通っている歯医者は温泉地、伊香保にある。平日の日中だと片道90〜120分ほどの道程である。
 帰り際、センセイから「榛名まで行っておいで。伊香保はかつてのように避暑地ではなくなってしまったけれど、榛名なら十二分に涼しい」と言われ、行ってみる。
 学生たちが夏休みに入ったとはいえ時勢もあり、観光地なのに対向車は少ない。平日であることは影響するだろうか。
 湖の畔に車を停め、木陰にキャンピングチェアなどを出して寝そべっている年配の方がたくさんいる。
 そうした自動車で、湖畔の道の片側が埋まっているほどである。
 実際、車載センサによる外気は28℃ほど。さすが下界とは違う。木陰ならなおさら涼しいだろう。
 センセイに紹介されたレストランに立ち寄り、榛名神社にゆく。
 
<榛名湖。泳いでいる子供たちもいた。川や湖で人間が泳いでいるなんて、最近は見かけないから少し羨ましい>
 
>>>
 
 運転していて「楽しい」と思うこともある。これはコンピュータを使う楽しさにも似ている。
 目的のためにその作業をするから楽しいのではなく、作業そのものが楽しいのだ。
 
 たとえばコンピュータなら、フォルダを作ったりファイルを開いたり、自動化のマクロやスクリプトを組んだり、あるいはもっとシンプルに起動したり終了したりするだけで楽しい。
 分かる人にしか分からないことだし、起動/終了だけでも楽しいとなると、ちょっと常軌を逸している可能性も否定できない。
 おそらくベンチマーク ── コンピュータの処理能力を計測する作業。人間は基本的にボタンを押したら見ているだけ ── が好きな人などは、だいたい同じ種類だろうと考えることができる。
 つまり目的のための道具であるはずが、道具を使うこと自体が目的になるというものだ。
 
 ガレージを用意して、工具を買い揃えて、整理整頓して並べて、それで満足してしまう人も同様である。
 決して悪いことではないと思うのだが、道具というのは「それを使って何をどうするのか」という目的 ── ひいては目的意識が重要なのだ。
 だから手段と目的が入れ替わってしまう自身を、僕は少々恥じている。
 持っているだけ、使っているだけで満足だなんて、小学生の頃の僕が聞いたら怒り出すかもしれない。
 
<榛名神社。入り口のすぐ側に駐車場があることを忘れ、かなり遠くに駐車してしまった>
 
>>>
 
 自動車好きも、だいたい似たようなものだと想像するが、僕はもとより自分を自動車好きだとは思っていない。
 もちろん現在所有している自動車は ── 「あっ。何このクルマ、めっちゃ小さくてかわいい!」とか「えっ。何この軽トラ、尋常じゃないくらい買い物した商品が積める!」と思う程度には ── 好きだけれど、それでは広く色々な自動車を見聞きして、あるいは様々な運転によるフィーリングの違いを感覚して、それらの差異から自身の好みを明確に持っているかと言われるとそんなわけはない。
 
 それに自動車というのは、その使用が非常に社会的なのだ。
 法規があって、所有や運用について様々な決まりごとがある。当然である。
 運転中は法規に従うだけでなく、他者との関係性も重要になる。
 横断歩道を渡ろうとしている人がいないか、次とそのあとの信号は自車到達時どのように変化しうるか。
 
 周囲の車両の運行 ── 速度はもちろん、それらの車間距離、車線またぎや車線変更、方向指示器の出し方の特徴 ── は安全な予測範囲から逸脱していないか。かつそれらと自車との車間距離は適切か。それを維持できるか。
 異常が感じられ、かつ走行車線が複数ある場合、周囲は安全に車線変更できる状況にあるか。
 
 対向車線に注意するポイントはないか。
 右折待ちの対向車が交差点にいた場合は、対象と自車それぞれの後続車両を確認し、交差点の特性などから道を譲るか通過するかも考える。
 
 周囲に他車が存在しない場合でも、歩道にいる歩行者や自転車が車道に飛び出してこないか警戒するし、歩行者や自転車が視認できなくても、飛び出しうる物陰や狭い路地に注意を払う必要がある。
 山奥の林道のような、他の自動車も歩行者も自転車もいないような場所ならどうかといえば、鹿やイノシシ、落石が道路を塞いでいたり、道幅がないのに対向車が急に現れたりするのでやはり油断できない。
 
<直径2mほどもある巨木。涼しい。素敵な場所である>
 
>>>
 
 運転は緊張の連続である。
 そもそも信号を守るのだって嫌いである(暴言)。なんとなれば車線を守るのも、左側走行も、車道しか走れないのも不服である(暴言)。
 しかし交通事故を起こしたいわけではないし、誰かに危害を加えたいわけでもないし、誰かが怖い思いをするような運転もしたくない。
 それが積み重なる結果、運転していると、とにかく緊張する。
 一般道は判断材料は多いけれど速度を出す必要がないため、まだ安心できる。疲れたらしばらく休めばいい。
 高速道路は判断材料こそ少ないかもしれないが、走行速度が高いため、それだけでかなりの緊張状態を強いられる。つまり怖いのだ。
 首都高ともなれば判断材料は一般道と同じかそれ以上になることもあるし、疲れてすぐに休める場所もない。
 
 これらを総合して考えるに「運転が楽しい」と感じる場面は本当に少ない。
 周囲には必ずと行っていいほど誰か、あるいは何かがあるのだ。ない方がおかしいと言っていい。
 それらのストレスを少しでも軽減するために「小さくて、操作と反応の遅延が少なく、運動性能に多少余裕がある(ついでにエアコンを装備している)自動車」を選んで乗ることにしたのだが、焼け石に水であり「楽しい」と思える場面は増えたが、それでも運転が苦痛であることに変わらないと気付いたのである。
<風鈴の音色が涼やかだなんて、生まれて初めて感じた>
 
>>>
 
 おそらく料理も同様だろう。
 僕は「社会性のある料理」をほとんど作らない。
 恋人が泊まりに来れば ── 餌付けが趣味のため ── 「社会性のある」食事を作るが、近年はその機会もない。
 自分による、自分のための、自分の料理を作るのである。リンカーンか。
 
 自分以外の人のために料理を作るとなれば、その人の食材の好き嫌い、味の好み、前後数日の献立、季節から判断して安く入手できる食材を選んで、適当な調理法 ── 真夏にほうれん草と牡蠣のグラタン作られても困るからね。だからといってキュウリとゴーヤのグラタンならいいのかと言えばそんなこともない ── を選出する必要がある。
 毎日家に居れば毎日作る必要があり、多くの人間は1日に2度3度と食事をする。
 
 自動車の運転同様、社会的であるがゆえに、そこにはある程度のストレスが伴うだろう。
 自分が空腹を感じたときだけ、自分の苦手な食材を除外し、自分の好みの調理法で、自分の食べたい料理を作り、かつ食べること(しかも飽きるまで何日も何度も繰り返すこと)ができるなんて、ものすごく贅沢なことだと僕は思っている。
 
 先の自動車運転に喩えると信号は無視して、車道でないところも走行し、速度も出したいだけ出し(つまりノロノロしたいだけゆっくり走行し)、邪魔なものはすべて跳ね飛ばし、コンビニにも突っ込みたいだけ飛び込めばいい。
 いろいろツッコミどころはあるが、ストレスのない自由奔放というのは社会性と相反するということをここから学びたい。
 
 自動車の場合、その運転が社会性を持つことは(よほど広い私有地を持っていない限り)およそ回避できない。
 一方で料理は、周囲の人間との関係性が先にあるから、社会性が必ずしもつきまとうわけではない。
 ために昭和の頃から「趣味でしか料理をしない人間」は存在し、滅多に使わない高額な道具や珍しすぎて普段使いようもない調味料を揃え、無駄に高価な食材を惜しみなく使って家計を圧迫し、なんとなく「デキる」っぽい、しかしだからといって格別美味しいというわけでもない料理をいたずらに時間を掛けて作った挙げ句、得意げに振る舞って褒めて欲しがるバカ犬みたいなオトコたち ── 残念ながら、こういう傾向は男に多かったようだ ── は、その自慰的行為を他人に披露する痴態をして女たちから苦笑されていた。まぁ、受け止めてもらえているならむしろ微笑ましいと思うが。
<花と苔。実は僕は、けっこう苔が好きである。名前も種類も生態も知らないが。好きである>
 
>>>
 
 コミュニケーションも本来的に社会的な行為であり、それそのものに対して人間は本能的な嗜好があると言っていい。
 
 しかし社会的な行為は前述の通り、けっこうなストレスを感じることになる。
 先日はwebニュースで「告ハラ(告白ハラスメント)」なる単語を知り、大いに衝撃を受けた。
 ハンマーで後頭部を殴られた感じというか、こめかみにバールを突き刺されたような衝撃である(死ぬ)。
 
 事ほど左様、僕はコミュニケーションにストレスが付きものだと認識している。
 さすがにセクハラともなれば権利侵害というか、精神的攻撃行為だとは思うが、いちいち好きになった人に好意を伝えるのに、あれもこれもと影響範囲を拡大して考えて欲しいというのは、告白される側の傲慢ではないだろうかと思うのである。
 告白する側だって、相応にストレスを感じ、それを乗り越えて告白するのにもかかわらず、それを(された側が否定的に感じた場合に限り)ハラスメント呼ばわりするのはどうかと思うのだ。そりゃストーカーみたいな奴だったら困るだろうけれど「ただしイケメンは許可される」というような一方的かつ一意的選択性がある状況をして「嫌がらせ/精神的苦痛を受ける行為」と断ずるのは、ちょっと人間(他人)に対する優しさに欠けている(自身に対して優しすぎる)のではありませんか、と。
 
 告白した挙げ句、断られついでにそんなことを言われるような社会にあっては、人を好きになること自体が面倒というか、恐怖になってしまうのも必然だと思う。
 しかし社会的風潮として、そういう傾向が生まれるのも(行き過ぎだとは思うが)観察の範囲で分からなくはない。
 実際に、コミュニケーションにおける抵抗の発生を極度に恐れる人間は20代以下に、相当数存在するように思える。
 
 つまり彼らは本能的にコミュニケーションを求めているにも関わらず、そこに含まれる社会性とそれに伴う摩擦抵抗の苦痛については忌避している。
 端的に、人形遊びの延長線上で人間関係を考えているのだろう。
 
 あるいはヴァーチャルな人間関係を人間は求めているともいえる。
 リアルな人間はウンチもするし、血も流れる。
 物理だけでなくコミュニケーション、つまり情報のやり取りの中でも、恥部があり、痴態があり、痛みがあり、闇がある。それが普通ではないだろうか。
 
<脇道への誘惑。僕が脇道に逸れてしまうのは、脇道のほうがいつも魅惑的だからだ>
 
<かなり手前だが、面倒になったので参拝などせず帰ることにする。お連れ様もいないから気ままである。風鈴の向かいに急な登りの脇道を発見するが、足場が相当に悪いので数段登って諦める。上る気力がない。ここまで来ただけでも偉いと思う>
 
「清廉潔白な自分」を演じるために自分を抑圧し変形させる(念のため書いておくが肉体の話ではない)だけでは飽き足らず、外部にまでその舞台装置としての清浄を求め、何となれば自身の認識さえ歪めて現実を心地よく受け止めようとする様は、滑稽を通り越して狂気的ですらある。
 もちろん僕は自身が「そちら側」であると認識しているが、さすがに実存の他人にまでそれを押し付けて「綺麗に」いたいわけではない。
 それに僕の場合、子供の頃こそそうした傾向が強かったものの、今はヴァーチャルと現実を切り離し、それぞれ自覚的に拡充しているので偏執的にはならないし、何より自分以外の誰かをエサにすることには懲りている。
 
 昨今、流行らせようと財界が躍起になっている「メタバース」についてもそうだが、ヴァーチャルが決して悪いわけではない。
 それは手軽な自己実現と安全な欲求解消のメカニズムを備えた装置である。
 
 問題は、それが「実在する他者」を含む、現実的な社会装置であること。
 かつてのwebが今よりヴァーチャルだったのは、社会との接続面が限定的だったからだ。
 リア充(もどき) ── 本当に現実が充実している人は、ヴァーチャルでそれを誇示する必要などない ── がリア充をヴァーチャルという装置まで使って過度に演出する以前は、webはもっといい加減で、野放図だった。
 接続する人間が増えた結果、社会性が色濃くなり、結局のところ息苦しくなったのである。
(ために僕などは現実から逃避した世界が社会的になったことに辟易し、とうとう現実世界に逃避している始末だ)
 
 ヴァーチャルは、ときに現実を見失わせる。
 現実はときに、醜くて痛くて冷たくて苦しくて汚い場所である。
 常に綺麗で優しくてあたたかくて楽しくて清潔ではいられない場所である。
 それらを経験せず現実世界に暮らすことはある意味で理想的ではある。
 しかし柵に囲まれた羊たちを襲う獣が現れたとき、逃げることすら知らない家畜はすべて食い散らかされるのだ。
 
 他人の醜さを知らず、自身の汚れに無自覚なままでいられる社会は、混沌のディストピアに続く道に思える。
 そしてそれはすでに実現している。
 そういう道を、相応の人間たちが歩いているように観察されるのだ。
 
 この話は長くなるのでまたいずれ。
 
<夜、シャワーを浴びようと思ったらヤモリがいた(実は昨日からいる)。大きい。かわいいけれど怖い。ヤモリも大きなケモノがやってきたので怖いのだろう。シャワーを浴びたあと、網戸に隙間を作っておく。それにしてもどこから入ってきたのだろう>
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Traffics ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  :工場長:青猫α:黒猫:銀猫:
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Link-Mechanics-Recollect-Stand_Alone-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-JunctionBox-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Tool-
 
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  :君は首輪で繋がれて:Webストリートを見おろして:
 
 
//EOF