181030

 あと20年ほどでこの世を去る予定の私である。
(早くなればいいとは思うが、おそらくそうはならないだろう)
 特に悲観しているわけではない。むしろ楽観している。
 日々の体調さえ思わしいものならば、ゴールが見える生(僕にとってはずっとそうだった)は、存外、心地が良い。
 いつ死ぬか分からない人たちの心もちというのを僕は一度も理解できたことがないから、おおよそ自分で見当がついている僕のような人間の心もちもまた理解されないものと思う。

 理解されない事にも誤解されることにも慣れているので問題はない。

 20年ほどで世を去るからといって、僕は、その先の社会のことをやはり考えてしまう。
 べつに悪いことではないとも思うし、それを(これまでそうしてきたように)与太話のようにして、興味を持つ人に話して聞かせるのはときに楽しいものだ。

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 今後30年から50年の間に、通貨の概念が変わる話はすでに書いた。
 今は投機の意味合いの強い仮想通貨が経済に多く流通する。
 相対的に国家(正確には世界経済界の支配者)の体力は奪われるだろう(これ自体は仮想通貨の目的の一つですらある)。
 静かに徹底した支配を続けてきた通貨は、一握りの人間によって支配されていた情報が多くオープンになったようにして、民衆のものになってゆく。
 人口減が確定的な日本では一層、国家としての力が失われる。
 資本主義経済がそのまま国家の主軸になってしまったこの国にとっては、経済という組織に流れる通貨という血は、綺麗であろうが汚れていようが絶対の価値を持つ。
 心臓や骨髄といった部位にとっては、血が流れていて、それが絶対の価値さえ持っていれば、問題がない。
 この血の絶対性を危うくするだけの、およそ完全な代替の血がそこにあったとしたら、どんな手を使ってでもその存在を抹消したいという考え方もあっていいとは思う。
 ただし人間の場合を考えればわかるように、組織とはその全体をして組織なのだから、部分はどんなに支配的であったとしても部分でしかない。
 それに血管の様に世界を覆う情報ネットワークは、もう単一の組織が管理/支配できるようなインフラではなくなりつつある。

 人命は安くて軽いが、それでも宝ではある。
 宝石だって安くて軽いものは多いから、高くて重ければそれでいいというものではない。
 問題は、そしてその価値は、生命体は基本的に、個体の代替が利かないことだ。
 だからこそ延命が流行したわけだけれど、30年以内に選択的自死は一般的になるだろう。

 相対的に人命がより高く重くなるが、それは今現在の人命の価値観とは、また少し異なる観点による。
 社会的に代替が利かないからということではなくて、代替可能な労働力が社会に浸透するからである。
 自発的消滅の権利を有する以前から、死を内包する生命体ならば当然に代替が利かないけれど、人間にとって必要な他者が人間である必要はない社会が構築されることになる。

 今の社会では生者も死者も、その代替が存在しない。
 その代替という概念は、対象個体の外部から観察していて初めて発生するものである。
 たとえば洗濯機を使っているときに「本来自分がするべき労働を洗濯機に肩代わりしてもらっている」なんて意識する人はいないだろう(僕はするが)。
 自動化というのは、代替である。
 自動運転車の研究が進んでいるが、あれは人間に代わって運転する機能を有した自動車のことである。
 だから僕のような横着者は、早く実現することを祈っているが、仮に実現した場合、人は代替してもらっていることなど忘れるものだ。
 なぜなら代替は機能によって満たされるから。
 つまり機能を満たすことができるすべては代替可能ということになる。

 AIを備えたロボットは、果たして人間の持つ機能のすべてを満たすだろうか。
 少なくとも、カタチに限れば、そのすべてを満たしうると僕は思う。
 人間のように考えているふうに観察され、人間のようにコミュニケーションを取れるようになったそれは、たとえば子供が人形を相手に遊ぶように「生きた」対象として、その目に映ることだろう。

 そうなれば人間の意味が変わることになる。
 人間が他者に提供していた機能のうち、代替が可能な機能は、なにも「自分がわざわざ提供しなくてもいいもの」に変わる。
 それはその個体の価値の低下を招くかもしれないが、相対的に誰かの価値が上がるわけではない。
 人間型の機械が人間の機能を代替するようになれば、早晩、人間は不要になってゆくだろう。
 これも、今の価値観からすると「不要=なくてもいいもの≒ない方がいいもの」のような捉え方をする人が今後もいるとは思う。
 ただ、僕が言っているのは人間そのものが不要だという意味ではなくて、(人間に対して機能を提供するための)人間という労働力が不要になるということだ。
 そもそも要否でしか存在の価値を決められない事が、相当に貧しいことだと思うのだがどうだろう。

 たとえば花火(firework)は、本来的に必要のないものではある。
 しかし美しいし、人の気持ちを楽しませるものである。
 また銃火器のような実用性はないが、果たして銃火器の実用性というのはどのくらい実用的だろうか。

 はたして、人間は、どのくらい実用的である必要があるだろう。

 実用に価値があり、必要性が絶対であれば、それを満たすに越したことはない。
 しかし実用に代替があり、必要がそこで満たされた場合、そこに残った存在は、果たして無価値だろうか。
 そもそもそこにある必要性とは、必要とされたい願いや、必要であるという妄執が生んだ幻想ではないのだろうか。

 ひとりの人間と、それを囲む大量の人型の非生命によって構築されたシステムは、少なくともその「ひとり」には十分な価値を持つだろう。
 そして、その「ひとりの人間」は、ひとりの人間以外の「何か」であっても問題ないのだ。

 AIはおそらく容易に、人間以上に人間らしくなることも可能だ。
 生殖目的でしか人間が必要なくなったとすれば、そのときも同様に人口は減り続ける。
 SFでいえば、ペシミスティックな概念なのかもしれないが、もしそれが、戦争や暴力といった、直接的な支配や欲によって他者に害を及ぼしつつ実現するのではないならば、ある意味で、人類にとってこれほど幸福な終焉もないように思える。
 つまり自然淘汰的に、人間が人間を必要としなくなって、結果として人間と同等かそれ以上の知的存在が残るならば、それは人類の到達した知性の成果だとみなしてもいいだろう。
(そう思えない人はそれでいいと思うけれど)

 実用性のない事は、最大の価値であり、必要性のないことは、最大の自由である。
 人間の意味が変わり、必要の価値が変わり、代替不可という意味において生命体は最大の敬意を自他に払うようになるだろう。
 僕にはそれが、悲観的な社会には思えない。
 たとえその世界に、たった一人の人間さえいなくなったとしても、その世界に目に余る過剰な暴力がないならば。

 人類は、代替可能なものは、すべて別のものに代替させてきた。
 それは人類の、あるいは知性という性質そのものの、一つの基本機能なのかもしれない。
 計算が外部化され、自動化され、最適化され、高速化されたように、問題解決も、問題定義も、果ては存在認識も同じ道を歩むだろう。

 知性によって知性が代替され、ブラッシュアップされるならば。
 それは適切な淘汰のように思える。

 ほら、我々は、古くなった家電を捨てて新しい製品を買うではないか。

 それでもたとえば、古くからの友人や恋人を、大切にしたりする。
 僕が思うに、付き合いのある、付き合いを続ける人間は、役に立たないのが一番である。

 僕は友人にも機能を求めたことはないし、恋人にも、役に立たないようにしてほしいと昔から願っている。
 彼ら/彼女たちが僕個人に提供する(しようとしてきた)機能は、そのほとんどが僕自身や機械によって代替可能で、僕からするとどうでもいいことばかりだ。
 僕は彼ら/彼女たちの、僕への労働を望まない。彼ら/彼女たちは、それぞれの自由にすればいい。
 自由の中で提供されるものが(たとえば僕が趣味で料理を作って恋人に提供するように)あれば、それはそれで自由の中で享受するだろう。

 役に立つことありきの人間関係は、とにかく疲れる。
 自分が誰かの役に立つのは結構なことだとは思う。
 ある程度までならそこに自身の価値を見出してもいいだろう。

 でも他人が自分の役に立つかどうかを、潜在的にであれ顕在的にであれ計算するような人間ならば。
 もちろんそれはその人の好みや必要性なのだからなんとも言えないのだけれど。
 少なくとも、それは人間らしさではないのだろうと感じてしまう。

 Artが芸術であるように、ひらめきという意味でのfireworkも、Artificialな存在だろう。
 人工的ということは、自然を加工することによって実現する。
 動物的であることを否定するつもりはないが、人間になれないものは結局のところ、人の皮をかぶっていようとも獣でしかないのだ。



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