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穴と橋とあれやらこれやら

初めまして。ヤフーブログ出身、隧道や橋といった土木構造物などを訪ねた記録を、時系列無視で記事にしています。古い情報にご注意を。その他、雑多なネタを展開中。

【前篇】より続く。

 

 

 

今回も航空写真モードで載せておきましょうかね。

ざっくり現国道の落合橋北側の湖中に、落合トンネルと前回最後にご紹介した仮設橋エリアがあるよ、というところまでおさらい。

 

 

 

 

 

で、今回ご紹介する「遺影」は、

このトンネル。撮影位置は、おおむねこのへん

 

 

 

 

 

お名前は、

境鼻トンネル。その名のとおり、川目地区と簗川地区の境となっている。

 

 

 

 

 

銘板。

今気づいたが、落合トンネルとは完成年、事業主体、(延長以外の)スペック、施工会社まですべて同じだ。まるで兄弟のような存在だったんだなあ。

 

 

 

 

 

ちょっと引きで。

写真右側には簗川が流れているのだが、それに沿って…わかりますかね?

 

 

 

 

 

そう、ここで印象に残って…というか

悔いが残っているのは、この旧道…いや、旧々道。

 

 

 

 

 

まあ、出発して間もなくてまだまだ先へ進みたかったから仕方ないんだが、

この魅惑的な道に一歩たりとも足を踏み入れなかったことが悔やまれる。もう二度と叶わないのに。

 

まあ魅惑的かどうかって部分は「個人の感想です」ってやつだが、旧道系としては異例に開放的で見通しのいい感じが響いたもので。逆に、だからこそ(ほぼ先まで見えてるからこそ)もういいか、って足を踏み入れなかったのかもしれない。

 

 

 

 

 

で、抜けまして、

宮古側坑口。

 

ビジュアルも落合トンネルと瓜二つだが、まあそこはね。

 

 

 

 

 

当然、こちらにも

旧道(旧々道)入口があったわけで。

 

 

 

 

 

簡易に封鎖されたAバリの脇には

いつのものともしれない、手書きの立入禁止看板と、

 

 

 

 

 

足元には

これまた手書きくさい、通行止標識が落ちていた。

 

いずれも、トンネルができて旧道落ちした時期のものだとすれば、1970年代前半ごろのもの?これらも、もろとも沈んだんだろうか。

 

 

 

 

 

最後に、これ。

もはや撮影位置は定かでないが、撮影のタイムスタンプを見れば境鼻トンネルからわずか2分後に撮ってるので、間違いなく水没した区間内のどこかで撮ったはずだ。

 

おにぎりと記念写真が撮りたかっただけの一枚だが、今となっては…ね。つうか当然ながら、前回と今回で登場した写真に写ったものども、ほぼほぼ全て今やこの地上には存在しないという諸行無常。

水没区間は2014年1月ごろには通行止めとなったということで、このタイミングで訪ねられたのはたまたまだったが、記録できてラッキーだったなあ。

 

 

 

ダムに沈んだ構造物っていうのは我々の業界(笑)的にはファンタジックなジャンルだが、沈む前を記録してたなんてのはわたくし的にはここしかなかったので、こうしてようやく記事にできてよかった。

 

 

 

 

最後に、この日のネタで記事にしているのは、小屋野の廃?橋落合の吊り橋区界トンネル第9閉伊川橋梁平津戸橋川井橋桐内橋追憶の岩手県北バス川井第10地割の流れ橋第25閉伊川橋梁腹帯発電所の吊り橋鹿内沢橋梁旧・日向橋押角駅雄鹿戸隧道松野隧道と…おお、ついにネタになりそうなブツが少なくなってきたぞ(笑)。

 

 

以上。

 

 

前々からやろうと思いながらやってなかったネタを、また思い出したこのタイミングでやってしまおう。

 

 

 

2015年着工、2020年からの湛水試験を経て2021年7月に完成した、岩手県盛岡市の簗川ダム。その建設に伴って、国道106号と岩手県道43号盛岡大迫東和線交点を含む一帯が路線付け替えとなり、そのうち旧国道106号のダム以東(及び旧県道の一部)はダム湖に沈むこととなった。

 

わたくし、2013年4月19日の最初で最後の岩手県探索において、付け替え前の国道106号を走ったのだが、実は水没区間には二本のトンネルが存在していた。今回は、役目を終えてあえなく水没したそれらとその周辺の失われた景を、往時を偲んでご紹介しよう、というもの。

 

 

 

まずはこれを。

当然、この航空写真モードに載っているR106とr43は付け替え後のもの。簗川右岸をダム直下まで続いているのが、付け替え前の旧R106である。

 

 

 

 

 

ここで余談ながら、

この「落合の吊り橋」として記事にした橋。

 

この橋は水没エリアよりもギリ手前ではあったが、あまりにダム堤体至近すぎて(このへん)、ほぼ間違いなく現存はしないはずだ。つうか、記事内でも書いたとおり、おそらくダム建設の先行調査などで使われた橋だと思われるので、その役目は全うしたはず。

 

 

 

 

 

その吊り橋付近からの当時の景がこちらで、

今ならば完成したダム堤体を間近に見る位置だ。

 

 

 

 

 

で、これは当該記事でも使った写真だが、

「簗川ダム建設予定地」の看板のあるこの位置(と思われる)に、現在簗川発電所建屋があるようだ。

 

 

こういう感じね。

 

ちなみに、吊り橋の手前くらいまでの位置までは、本記事執筆時点では2014年のストビューで追うことができる。

 

 

 

 

 

さて、それでは水没したトンネルのひとつ目、

在りし日の姿がこれ。撮影位置は、今の地図だとおおむねこのへん

 

 

 

 

 

ここにあったのが、

落合トンネル。

 

 

 

 

 

銘板によれば、

1972年2月の完成と。50年弱での退役だったということになる。

 

 

 

 

 

盛岡側坑口からの振り返り。

あのカーブの向こうに、当時のR106とr43交点があった。

 

 

 

 

 

抜けましてこちら、

宮古側坑口。取り立てて面白いトンネルでもなかったので、手抜きでこの一枚だけ…。

 

 

 

 

 

で、今いるこの橋から右方向を向くと…

見えたのがこの景。一見してわかる仮設橋があった。

 

 

 

 

 

何気なく撮ったこの看板、

今となっては…ですな。

 

 

 

 

 

仮設橋のところで、

工事用道路はAバリで封鎖されていた。

 

実際のところ、ここから正面に続いていく平場は、落合トンネルができる前の旧道…いや旧々道だったはずだ。この時点でとっくに完全廃道っぽいが。

 

 

 

 

 

ここからの振り返りの景が、グッとくる。

この日に先立つこと約40日、3月10日から供用開始されたばかりの付け替え新道。撮影位置はたぶんこのへん。よってあれは落合橋だと思われる。

 

 

レンタカーとの対比で、ここらが現在どのくらいの深みに沈んでいるのかうかがい知れる。これは…水面から姿を現すことはあるんだろうか?相当の渇水でないとそうはならなさそうだ。仮設橋は撤去されたのだろうか。それともそのまま沈んでる?

 

 

 

 

 

そういえば、この仮設橋から先の工事用道路、

付け替え新道から分岐してダム湖に消えているこの道に接続していたかもしれない。位置関係的に。いや、知らんけど。

 

 

 

【後篇】に続く。

 

 

 

2023年10月19日、出張から帰るだけのこの日、帰路上で無理なく立ち寄れるポイントを探して訪ねた物件…の手前で出会った、ノーマーク物件をご紹介。

 

ただこの前日、スマホを落下させてレンズカバーが割れ、変な光が写りこむようになってしまい…光が入らないように角度に気をつけて撮った結果…いや、そもそも撮影意欲が失われちゃってた結果、写真は今回載せたものが全て。もったいね~。

 

 

いきなり、ドン。

鋼製のラーメン橋で、手前はゲルバー桁?あ、現在地はこちら

 

タイトルどおり、この橋梁は日本製鉄専用線(くろがね線)のもの。日鉄の九州製鉄所はそりゃもう凄い規模なわけだが、そのうちの戸畑地区と八幡地区を結んでいるのがこの専用線で、その開業は古く1930(昭和5)年2月。

 

 

時代的にはすでにコンクリートが盛んに使われ始めていたはずだが、

橋台は重厚な石積み。

 

 

 

 

一部をクローズアップしたのがこれなんだが、

これだけでどんぶり飯イケますわ。リベット萌え~。

 

 

はい、写真はたったのこんだけ。

 

 

 

実際こんなんで記事にするレベルじゃないんだが、実はこの橋梁このままこの先まで続き、県道50号、市道枝光39号線をまたいでその先の築堤に接続するまでの500m超に亘る長大な橋梁である。実際は県道や市道の架道部分は別の橋梁という扱いなのかもしれないが、ちょっとその規模感を感じていただきたいので、ストビューを貼っておく。

 

 

ストビューで、とりあえず県道を跨ぐところまでこの橋梁を追いかけてみてほしい。なかなか壮観ですぞ。

 

 

かえすがえすも、スマホカメラがまともなら…と惜しまれる物件だった。

 

 

 

 

2016年11月26日、三重県伊賀市徘徊。この日のネタで記事にしているのは旧・圓徳院橋親柱三重県道693号蔵持霧生線・伊賀市原池旧道。今宵ご紹介するのはこれらよりも前、滋賀から三重に入ってすぐの物件。

 

 

まずはこれ。

この左側の細道を下ったところにあるのが今宵のお題である。現在地はここ

 

 

実は今回のブツ、これに先立つ9月4日、ハルニチさんとの長浜~伊賀徘徊の際に見つけられなかったやつ。ハルニチさんが事前にマークしてきた物件でたまたまわたくしも気になってた物件だったが、アプローチが見つけられずにスルーした…んだったかな。

 

確か、上の写真ですぐ先の、トラックが停まってる空き地、あそこからアプローチがあるはずと探したんだったと思うが、そんな必死に探した記憶もないし、時間がなかったからかな?もはや記憶がないけど。こんな近くにありましたわ、アプローチ。なんで見つけられなかったんだか?

 

 

つうわけで、さっそく突撃した。

 

 

 

 

 

こんな倒竹があったりしたものの、

明らかに道は管理されてるように見えた。たぶんこれ、放置ならえぐい激藪っぽい…。

 

 

 

 

 

下ること1分少々で、

川と…アレが見えてきた。

 

 

 

 

 

会いたかったぜ!…って

放置っすか~。

 

そこにあったのは、増水時には沈む想定であるために高欄のない、いわゆる冠水橋形式の橋。

 

 

 

 

 

もちろん今見ているのは、

その想定どおり、おもいっきり流れに呑まれた結果流下物が引っかかっている、その姿なわけだ。この年の秋の台風のどれかによるものだと思われたが、この状態…橋自体はもはや管理されてない?あるいは優先順位が低いから後回し?

 

おそらく前者かも。理由は後ほど、

 

 

 

 

 

歩くのも一苦労な橋上から望む、上流側。

ちなみに川の名前は河合川。

 

 

 

 

 

そしてこちら、下流側。

今は穏やかそのものの、のどかな流れだった。

 

 

 

 

 

渡って正対。

めっちゃ短い橋に見えるけど、一応これでも三径間あるのよね…。

 

 

 

 

 

まあ実質、

きれいに見えているのはこの一径間だけっていうね。唯一橋っぽい。

 

 

 

 

 

下流側より。

うーん、酷いね。

 

 

 

 

 

たわむれに、橋の下をくぐろうとやってみたが、

びっちょびちょになりそうでやめた。

 

 

 

 

 

で、こちら上流側から。

もはやようわかりませんな。

 

この橋、Q地図様にも載っていないので、公道ではないのかもしれない。よってお名前や完成年などは一切不明だ。なので記事タイトルはいろいろ迷ったんだが、この手の冠水橋、三重県では公式に「潜水橋」と呼ばれている(証拠はコチラ)ことも踏まえ、結果これとなった。

 

 

 

 

 

さて、こっからはある意味(誰も望まぬ?)おまけだが、

橋を渡った先は、いきなりこの激藪だった。

 

橋までは刈り払われていたのはもはやなんだったのか知らんが、完全放置のド廃道。この惨状を見て、橋自体ももはや管理されていないのではないかと思った次第。

 

 

 

 

 

せっかくなので、もうしばらく進んでみた。

ちょっとマシになってもこの状態。もはや道なのか何なのか?

 

 

 

 

 

ちょっと進んで、来た方を振り返り。

左の方に先ほどの河合川が流れ、その対岸に見えているのが、車を置いてきた市道の続きだ。

 

たかだか100mも進んでなかったはずだが、ここで道がなくなった…というのはウソで、単にイヤになった。

 

 

 

 

 

こっからの戻りの動画を撮ってたのでご覧あれ。

藪漕ぎマニアには冒頭楽しんでいただけると思うが、まあまだこの程度なら可愛いほうかもしれん。

 

これが8年前の記録だ。もしほんとに管理されなくなってたんだとしたら、現在はどうなっているのかな。誰か見てきて(笑)。

 

 

 

 

 

最後に、例によって何の根拠もない考察。

 

「伊賀コリドールロード」の交差点すぐ南が今回のお題位置にあたる。

わたくしが早々に諦めた河合川左岸の道をそのまま南へ辿って行った先には、田畑が見える。もしかしたらこの道、この田畑へ行き来するための農道だったのかもしれない。

 

 

 

現在この田畑へのアプローチは、市道を南下したところ(場所ここ)に架けられたこの橋だ。

これまた潜水橋なんだけどね。

 

ゴルフ場の開設に伴ってなのか何なのか、こっちルートに変更されて件の橋は放棄された…のかもしれない。

 

 

あのまま激藪を辿ってもたぶん得るものはなかったと思うけど、もし植生が多少マシな時期があれば、あの続きを確かめてはみたいかな。まあ、11月下旬でこれなら年中無理かもしれんけど。

 

 

 

以上。

 

 

 

 

2022年12月7日、商談で出向いた先でたまたま見つけた石碑をご紹介。これも同じ日のこと。

 

 

普通に歩いてきて…これは振り返った景。

わかるだろうか、左端。コミュニティセンターらしき建物の前に、ひっそりと…なんかある。場所はこちら

 

 

 

 

 

どんなもんかと見てみたら…

なにぃ?「俳優紀念」だとぅ?

 

想像もしなかった字面にびっくり。なんだこれ。斜めに配した文字がまたトリッキーな。

 

 

 

 

 

特に碑文はないようで、

ひたすら人名の羅列だ。大きく三名の氏名、その下に世話人がこれまた三名。その左側には、「明治四拾三年四月健之」とある。「建」じゃないんだ。初めて見たかも。

 

 

 

 

 

さらに最下部には、

びっしりと寄附人氏名。

 

 

 

 

 

まだ終わらん。基壇部にはこれまた多くの氏名が。

左側には「浄曲連中」、右側には「身振連中」。うむむむ、これは…碑銘の示す通り芸能関係の碑に間違いないな。

 

現場には解説の類はまったく設置されておらず、めっちゃ気になりながらその場を後にした。

帰ってから調べてみたら、かつて江戸時代から明治にかけて庶民の大きな娯楽であった浄瑠璃芝居にまつわるものだった。ここ北田辺村でも文楽役者の指導により浄瑠璃が盛んになり、「山坂連中」という村人による一座ができ、近郷からも上演を依頼されるほどの人気を博したのだとか。この碑は、その座員たちが建てたものらしい。「浄曲連中」「身振連中」は…よくわからんけど演奏チームと演技チームみたいなもんか?

 

 

無学ゆえこれ以上は手に負えないが、まあなかなかに珍しい石碑ではないだろうか。