(雲晴神社から甲山を)






◆ 丹後の原像【7. 郡別概史 ~熊野郡~】 


◎概要

丹後国 全五郡の一。丹後国の北西端、北側は日本海に面し、西側は但馬国に隣接します。
大きな入り江である「久美浜湾」に張り出した美麗な「甲山(兜山)」が、この地域の神奈備山であり「久美浜湾」のシンボルであったと思われます。また「久美浜湾」は天橋立に比肩されるほどの美しさを称えられる、「小天橋(しょうてんきょう)」が入り江を塞ぐような格好に。この一帯が単に風光明媚なスポットととして捉えられていただけでなく、神々が宿る美しい霊地として古代より捉えられていたことかと思います。
「小天橋」では縄文後期からの「函石浜遺物包含地遺跡」で、「王莽の貨泉」というものが出土。これは西暦14年に中国で作られたもの。他にも中国戦国時代の刀や、北九州、出雲などの原石使った装飾品も出ており、交易により大いに栄えたことが窺えます。

(小天橋湊宮の蛭子神社)



なぜ「熊野」なのか。これはおそらく丹後の深淵に関わることであろうと思います。一宮である與謝郡の籠神社は、実は熊野の神を祀っているという説があります。籠神社の社家は海部氏。海部直(丹波直)の天火明命二十七世である千嶋の代に、熊野郡「海士(あま)」から海部直は各地に移住しています。千嶋(長男)は籠神社を、千成(三男)は笶原神社を、千足(次男)は天照玉命神社(丹波国天田郡)を創建したとされ、これらは「勘注系図」にも記されているもの。
この霊地には太古から豊受大神が鎮まっており、天火明命の御子である天香語山命や三代目である天村雲命らが代々奉斎していました。やがて一族の本拠地は西へ西へと移り、現在の熊野郡へ。そして天火明命二十七世である千嶋の代にその霊地に帰ることになったのであろうと思います。
その霊地の麓に籠神社を創建、磐座がある霊地の中心地に常設の社殿を設け眞名井神社を創建。この創建に至った際に、籠神社に熊野の神を祀ったという説があるのです。

ここでいう「熊野」とは出雲国の熊野なのか紀伊国の熊野なのか、また「熊野の神」とはどの神なのか、この2点が曖昧。
出雲国の熊野か紀伊国の熊野か、地理的に考えてこれは出雲国として問題ないかと思います。出雲国なら数日で行き来できても、紀伊国の方は山を越え谷を越え、あるいは船で大きく迂回して…と相当な日数がかかります。出雲国と紀伊国との間で民族の移動があったため、ともに「熊野」ではあるのですが。
次に「熊野の神」についてですが、イザナミ神なのかスサノオ神なのか、特定はできないかと。イザナギ神がイザナミ神に逢うために作ったとされる天橋立伝承があったり、丹後與佐発祥地とされる加悦谷の二ツ岩社にはイザナギ神・イザナミ神が降臨したとされていたりと、丹後国の深淵にはイザナミ神が関わります。また熊野郡のシンボルとも言える「甲山」の山頂に鎮座する熊野神社のご祭神はイザナミ神。
そもそも熊野神社の創建は、丹波道主命河上麻須神の娘である河上麻須郎女を娶り生まれた日葉酢媛が垂仁天皇皇后となったことを喜び、「熊野の神」を勧請してきたというもの。なぜ「熊野の神」なのか、これ以上は不明。
一方で、丹後国の始祖の一柱である天火明神を、スサノオ神と同神とする説も細々とながらあります。また一説には八千矛神(大國主神)というものも。
この記事においては、そういう説があるという程度に留めておきます。以下郡内各地をランダムに。




入り江となっている久美浜湾に張り出した山を中心とした半島。美麗な三角錐、標高は191.7mと典型的な神奈備山。かつては「神山」と称されていたらしく、現山名はそれからの転訛か、あるいは山容が「兜」形であるためか。いつの頃までかは不確かながら、縄文時代には山ではなく独立した島であったのだろうと思います。
山の南側中腹には「人喰岩」と称される磐座が飛び出しています。これが信仰の対象。「人喰岩」と呼ばれたり、地元では「じじ岩」(じじいのようにしわくちゃであるからとか。麓に「ばば岩」もあり)と呼ばれたりと、後世の付会もいくつかあるように、いつの時代においても畏怖される存在だったのでしょう。
地元の方のお話によると、山中には水晶や瑪瑙が豊富にあったとか。みんながこぞって持ち去ったために現在は無いようですが。また「人喰岩」の伝承から鉄が採れたのであろうことは容易に推測できます。


山頂には前述の通り熊野神社が鎮座。
北側の入り江を隔てた先には「小天橋」があります。こちらには蛭子神社が鎮座(上部に写真掲載)。かつては「甲山」西側の「四神ヶ嶽(しじらだけ)」山頂に鎮座していたようですが、現社地に遷座。旧社地、現社地ともに霊地と考えられていたように思います。
東側には雲晴神社が鎮座。あちらこちらの周囲から「甲山」を傍観していますが、今のところ当社から見た「甲山」が最も美しいように思います(冒頭写真参照)。この地に創建された理由ではないかと考えています。
西側対岸には、丹波道主命の墳墓であるという伝承墓がある「明神崎」が張り出しています。また上述のように「四神ヶ嶽(しじらだけ)」という、深い由緒を抱えていそうな山も。いわゆる玄武・朱雀・青龍・白虎の四神とされるようですが、実は丹後国王四代分に関わる何かが…という想像をしてみたりも。
南側麓には丸田神社が鎮座。当社と「人喰岩」との間には古代祭祀場が発見されています。また当社から南に「拝岩」(地元では「ばば岩」とも)が座しており、これらが一直線で結ばれるようです。
さらに南方には鑪製鉄を思わせる意布伎神社が鎮座、さらにその先には河上麻須神の拠点や「王屋敷」など海部氏が拠点とした地が広がります。
古代「丹後王国」の歴史を知る上で欠かせない、ロマン溢れる一帯と言えます。


◎「海士(あま)」「王屋敷」周辺

久美浜湾から南南東へ向かう「川上谷川」沿いに広がる平地。かつては海だったのでしょうか。
「王屋敷」と称される海部直が根拠地があり、代々が奉斎したとされる矢田神社(未参拝)が鎮座。また海部直の館跡とされ、これが「王屋敷」と称されるもの。「熊野郡誌」は丹波道主命と河上摩須郎女の居住跡ではないかとみています。さらにこの地に国府を設けたととされ、本拠地を與謝郡に移すまでは当地が丹後国の中心地でした。南3kmほどには50mほどの前方後円墳の墳丘上に鎮座する芦高神社が鎮座。古代祭祀場の跡に創建したと考えられています。
矢田神社から「川上谷川」を挟んだ反対側には小山があり、中腹には陵神社が鎮座。こちらも丹波道主命の墳墓であるとする説あり。立地、山の形状、社名から十分に可能性はありそうですが、境内ということもあるのか調査はなされていないようです。神社そのものも寂れて誰も寄り付かないような状態、石室などはもちろん、規模等もまったく分かりません。


芦高神社から「川上谷川」を挟んだ反対側、陵神社から1.5kmほど南には衆良神社が鎮座。河上麻須神がご祭神、近くにはこちらも河上麻須神の居住跡と考えられる「須田遺跡」があります。「丹後旧事記」には「熊野郡川上庄須郎ノ里に館を造る」とあり、こちらが最有力でしょうか。付近から奥地にかけて古墳が密集しており、それらとともに「湯舟坂古代の丘公園」として整備されているようです(現地未確認)。


さらに南方奥地へ進むと、表米親王が真のご祭神ではないかとされる産霊七社神社、出石心大臣を祀る伊豆志彌神社など但馬国と関連のある式内比定社が鎮座。産霊七社神社境内には日下部氏の住居跡とされる遺跡も。興味深い社が並んでいます。

◎「神谷」周辺

久美浜湾から南西に広がる小さな平地。久美浜駅を中心にちょっとした市街地となっています。食事を取るのに探し回っても見当たらないほどのかなり寂れた町並みですが。
ここには何と言っても「神谷磐座」があること。
これまでかなり多くの磐座を拝してきましたが、「平地に座す」と限定すれば最もスゴいものかも。山裾ではあるものの、わずか10mほど登れば現れます。
この磐座群は神谷太刀宮(神谷神社)の道路向かいの境内社 八幡神社の神域に座します。当地に元から鎮座していたのがこの八幡神社。神谷神社は西方の山手奥地から遷座されてきたとされます。その辺りには旗指神社(未参拝)が鎮座しており、神谷神社の旧社地ではないかと考えられているようです。
神谷神社は丹波道主命を主祭神とし、配祀神として八千戈神・天神玉命・天種子命の三座。丹波道主命は丹波平定後に配祀の三神を出雲国より迎えて、出雲の人々の歓心を得て創建に至ったとされます。また丹波道主命が佩いていた神剣を祀ることから太刀宮と称されていたようです。その神剣は「国見剣」と称され、「久美浜」の地名由来となっているようです。
ここでは「熊野の神」は八千戈神、つまり大國主神とされています。真相はやはり不明と言わざるを得ないかと。神谷太刀宮(神谷神社)



ここまでで丹後国の五郡すべての簡単な紹介記事を上げることができました。今後はテーマをいくつか設け、紹介していきたいと思います。次回は丹後国内の遺跡を紹介しようと考えています(あくまで予定です)。