2025年12月11日、初めまして&お久しぶりツアー@紀伊半島の初日。この日のネタで記事にしているのは、ジョバンニ 序盤に訪ねた間敷橋。今宵ご紹介するのは、以前から訪ねたかった物件。
現場到着。
もう見えてるが、おわかり?
そう、もちろん
これですよ!現在地こちら。
どうですかこのビジュアル。相当に個性的だが、薄い衝立のような岩に明らかに人の手で穿たれた「隧道」だ。
すぐ脇には説明の看板が立っており、
内容を以下に記す(なんか最近こういう細かい書き物を要するネタやりがち)。
岩門(せきもん)
石の門の内側に、捕鯨を始めた和田家の先祖が屋敷を構えていたことから、この洞窟は「和田の岩屋」とも呼ばれてきた。「紀伊続風土記」には、「和田の岩穴、村の端磯部にあり。山を切り抜きて門の形をなす。内に入れば村居に適せり。和田氏住居せし所という」とある。
これサラッと凄いこと書いてある。「山を切り抜きて門の形をなす」とあるからにはやはり人の手が加わった隧道と認識していいと思うのだが、これが書かれているという「紀伊続風土記」は1839(天保10)年の完成なので、この時点で江戸期以前の隧道であることは確定。しかもその編纂にあたっての実踏調査は、文化年間(1806~9年ごろ)だったということなので、さらに遡ることになる。
しかもだ。「捕鯨を始めた和田家の先祖」とあるが、当地の豪族、和田家一族の忠兵衛頼元が太地式捕鯨の創始者として太地浦で大々的に捕鯨を開始したのが1606(慶長11)年ということなので、仮にそのさらに先祖ということならば、もはや江戸時代どころか室町時代に突入してしまうではないかいな。
まあ実際のところ、太地町観光協会のサイトなどでは「風化作用でできた石の門のようになった洞窟」という書かれ方をしており、その通りなのであれば元は天然の洞窟(海蝕洞?)であったのかもしれないが、人が手を加えて隧道としたことは確実。ほぼ間違いなく、和歌山県最古の隧道ってことになるだろう。
ちなみにここはれっきとした町道の隧道として。「大東(オオヒガシ)隧道」の名で管理されている。
めっちゃ短い隧道なので、洞内も半分外みたいな感じだが、
なんとも心地の良い空間で最高~!木のベンチとか最高ですやんか~。言うまでもなく、車は通れない。
抜けて、最初の分かれ道まで進んでみた。
めっちゃ惹かれる~。どんどん進んでいきたくなったけれど、他に訪ねたいとこ多数で、今回は割愛した。
振り返ってみる、岩門。
かつては港と和田家邸宅を結ぶ隧道、今は地域の生活隧道。訪問中も、ご婦人が一人、隧道から出てきて港へ行かれてた。
そう、抜けた先は、道路を挟んですぐに港だ。
この岩を天然の防波堤として、屋敷が築かれたのかも?全くなくもないかと。
ちょうどねえ、この訪問時の日射具合もよかったんだが、雰囲気最高!
階段はそこの民家のもので、当然私道と思われる。けど、ベンチとあの階段に腰かけてみんなで談笑する…そんな光景もあるんだろうな~。平和な世界、穏やかな世界が。
折しも岩門の背後に太陽がやってきて、
何だか神々しい感じに~!いや~いいタイミングで来た。良かった。
最後におまけ。
付近にある太地町じゅんかんバスの「石門」バス停。
「せきもん」と読ませるからには、ホントはこの漢字があてられるのが自然かと思うけど、看板その他ではすべて「岩」門なのよね~。この辺もちょっと面白いなと。
以上。



















































