黒船橋 (静岡県下田市三丁目) | 穴と橋とあれやらこれやら

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初めまして。ヤフーブログ出身、隧道や橋といった土木構造物などを訪ねた記録を、時系列無視で記事にしています。古い情報にご注意を。その他、雑多なネタを展開中。

 

2011年10月27日、第一次伊豆探索にて出会った橋をご紹介。この日のネタで記事にしてるのは、しょっぱなの汐吹隧道白田川橋小湊二号&一号隧道犬走島隧道

 

今宵は犬走島に先立つこと15分、下田市内で見つけた橋をご紹介。

 

 

 

 

いきなりの正対写真から。

現在地コチラ

 

当日の時点では何の情報もなかったのだが、

 

 

 

 

 

 

お名前を見てピクッとなった。

「黒船橋」。

 

下田で「黒船」?なんか日本史で習ったようなワードだが?とは思ったね(笑)。

 

 

 

 

 

 

読み取りにくいと思うが、お誕生日は

「昭和十一年八月」とあった。

 

 

 

 

 

 

 

サイドアングル。

コンクリート桁橋…かな。

 

 

 

 

 

 

 

渡って正対。

うむ、わたくしの好みだ。

 

 

 

 

 

 

で、左側の親柱の内容が興味深そうだったのだが、

絶妙に判読できない(泣)。どうやら縦書きで三行あるようだが…。

 

まず右端の行、「●橋を架設し●●●」。頭は「鍛」に見えるけど意味が通らんよなあ。

真ん中の行は明確、「寄附す了仙寺」。

左の行は…「●水得●」(?)。

 

一枚目の写真をよく見ていただくとわかるのだが、この橋の先にあるのが了仙寺というお寺。親柱の内容から、この橋の架橋において寺からの寄付があったことがわかる。逆に言えば、寺所有の橋ではない、と言うことか?

 

 

 

で、右側の親柱は橋名の仮名書きだったのだが、

うーーん、二文字めがわからん。

 

「久●ふ祢ばし」。「浪」かな?まさかのヒネリで「漁」?これサンズイ扁よなあ。

 

 

 

とりあえず、帰ってから調べてびっくりした。了仙寺というお寺、あのペリー提督が嘉永7(1854)年に日米和親条約に調印した後、条約により即時開港となった下田の港にやってきた際に江戸幕府が饗応した場所であり、かつ日米和親条約の付録となる下田条約の交渉・調印の場ともなった、日本史上に残るところだったんである。

 

同年3月18日~4月6日にかけてペリー艦隊の7隻が順次下田に入港、下田条約の交渉~調印や、翌年に開港を控えた箱館(函館)の調査などなど、艦隊の下田滞在は70日に及んだという。「遊歩権」を与えられたアメリカ人たちは下田の街を自由に歩き、これが我が国初めての民間の異文化交流であった。

 

お寺のHPによれば、下田の町民たちを対象としたアメリカ海軍の軍楽隊によるコンサートが了仙寺で開催されたとのことで、これが我が国初めての洋楽のコンサートであった、と。確かにそうでしょうな、間違いない(笑)。

 

 

 

 

 

 

 

つまり、先々代かその前ごろのこの橋を

ペリー提督は渡ったわけだ。恐らくは。

 

 

 

たまたま見つけた一本の橋から思わぬ歴史のロマンに触れる、こういう展開は時々ある。そしてわたくし、それが大好物である。

 

 

 

 

以上。