長門国の豊浦めぐり、
豊前国の宇佐めぐり、
筑前国の太宰府めぐり、
筑後国の高良めぐり、
筑前国の神功皇后めぐりと
5日間の旅行を
3ヵ月にわたって
書いてきましたが、
すべてに共通するのが、
仲哀(ちゅうあい)天皇
神功(じんぐう)皇后
武内宿禰(たけうちのすくね)
応神(おうじん)天皇
でした。
記紀によれば、
日本武尊(ヤマトタケ)の
子である仲哀天皇は、
息長(おきなが)族の娘である
神功皇后と結ばれ、
敦賀の氣比(けひ)神宮にて
1年を過ごされたといいます。
その後、
九州の熊襲征伐のため
山口県下関の
豊浦宮(とゆらのみや)へと
遷座して7年を過ごされると、
いよいよ
筑紫へと攻め入り
香椎宮(かしいのみや)へと
遷りました。
しかし、
ここ香椎宮にて
仲哀天皇は崩御してしまいます。
斎王(いつきのみこ)でもある
神功皇后は、
住吉大神の神霊を宿し
はるか西へと海をわたって
新羅国に攻め入るように
との託宣を下したのですが、
仲哀天皇は
熊襲征伐がさきだとして
神の言葉を
聞き入れなかったため
怒りに触れたのだといいます。
ご遺体は、
ふたたび豊浦宮へ運ばれると
内密に葬られ
以後は神功皇后が
日本初の女帝として
政治を司ったといいます。
神功皇后は、
忠臣・武内宿禰らとともに
朝鮮半島にわたると
潮満珠(しおみつたま)
潮干珠(しおひるたま)の
宝玉を使って
馬韓(百済)
弁韓(任那・加羅)
辰韓(新羅)の
三韓を従えたといいます。
三韓遠征を成し遂げた
神功皇后は
筑紫へもどると、
宇美(うみ)八幡宮にて
亡き仲哀天皇との子である
応神天皇を産んだといいます。
神功皇后は
応神天皇を連れて
大和へともどると、
100歳まで
国を導いたようです。
応神天皇の時代には、
公式に諸外国との
交易もはじまり
海外の文化や技術が
おおく入ってきたといいます。
このころ、
筑紫の監視のために
武内宿禰が
派遣されたそうですが、
このときに、
高良山(こうらさん)を
拠点にしたのではないかと
こうして国力をつけた
日本は、
さらに次代の
仁徳(にんとく)天皇へと
受け継がれて
巨大古墳を築くまでの
国家へと
成長していったようです。
それから数百年後の、
西暦700年代になると
ふたたび
諸外国の脅威にさらされ
日本は国かためを
しなければなりませんでした。
法律を定めて、
貨幣を鋳造し、
国史を編纂しつつ
都を遷して、
国の防備を固めました。
そんな
国家の形成のおりに
かつて国がためをした、
応神天皇を
八幡大神として
信仰するようになったのが
宇佐神宮だといわれています。
また、
交易としては
大宰府(だざいふ)が
開かれていましたが、
水城(みずき)などの
山城を築いて
備えたといいます。
この博多湾の
大宰府を諸外国との
玄関口とするならば、
下関は内陸へ抜ける
関所であり、
宇佐は内政と直接つながる
出宮だったような気もします。
筑紫には
独特な神話も伝わり、
神籠石(こうごいし)などの
謎の山城跡もあることから
独自の国家が
築かれていたのかも
しれません。
たとえば近年発見された
筑紫野の前畑遺跡でも
防塁のようなものがみつかり、
水城、大野城、基肄城、前畑をむすぶ
巨大防壁が大宰府を取り巻いていた
という説もあるといいます。
そのはなしは、
儺の國の星(なのくにのほし)との
関連も気になるところです。
またこの地は
イザナギが禊をして
住吉大神を産んだという
神代の伝説まであるのでした。
イサナギや住吉神の
聖地だったからこそ
神功皇后はこの地を
目指したのかもしれません。
ぼくが神功皇后に
惹かれる理由はそこなんです。
神功皇后の
事跡を追うほど、
ホツマツタヱに残る
忘られた神々を、
各地で祭祀して
ふたたび呼び起こした方
というような気がするのです。
氣比神宮の
瀬織津姫(せおりつひめ)さま、
長田神社の
クシヒコさま、
住吉大社の
坐摩(いかすり)神社など、
あげればきりがありません。
ですがこうして、
気づきの手掛かりを
ときを越えて残していて
くださったことに、
神々の采配を
思わずにはいられないのでした。
筑前国の神功皇后めぐり ~終~
☆神功皇后めぐり全記事リスト☆
筑前国の神功皇后めぐり① ~香椎宮~
筑前国の神功皇后めぐり② ~古宮~
筑前国の神功皇后めぐり③ ~不老水~
筑前国の神功皇后めぐり④ ~筥崎宮~
筑前国の神功皇后めぐり⑤ ~警固神社~
筑前国の神功皇后めぐり⑥ ~天津神社~
筑前国の神功皇后めぐり⑦ ~住吉神社~
筑前国の神功皇后めぐり⑧ ~宇美八幡宮~
筑前国の神功皇后めぐり⑨ ~宇美八幡宮・奥宮~
筑前国の神功皇后めぐり⑩ ~まとめ~
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