筑前国一之宮の
筥崎宮(はこざきぐう)です。
大分の
宇佐(うさ)神宮や
京都の
岩清水(いわしみず)
八幡宮とともに
三大八幡宮の
1社だともいいます。
八幡宮(はちまんぐう)と
いうからには、
八幡大神こと、
第15代・
応神(おうじん)天皇が
祀られています。
創建は921年、
醍醐(だいご)天皇によって、
大分(だいぶ)八幡宮より
遷座したとあります。
しかしここはもとより、
神功(じんぐう)皇后が
子の応神天皇の
胞衣(えな)を入れた
「筥」とは
円筒形の箱をさすそうです。
ですが、
地名は神社の名を冠するのが
おそれ多いとして
「箱崎」となっているといいます。
「崎」というように、
ここは浜にちかく
参道はまっすぐ
海へと通じていました。
当時は
白砂青松(はくしゃせいしょう)の
浜だったといいます。
ちなみに、
大分八幡宮は、
応神天皇出産後に、
遠征軍を解体して
兵士を国に還した地
だといいます。
筥崎宮は
香椎宮(かしいぐう)から
7キロほど
南西にありますが、
ともに
博多湾近郊の神社です。
志賀島(しかのしま)には
海人族の末裔である
安曇(あずみ)氏が暮らし
神功皇后に
潮干珠(しおひるたま)・
を渡したのは
安曇磯良(いそら)だといいます。
筥崎宮では、
毎年1月3日に
「玉せせり」という神事があり、
直系30センチほどの
陰陽ふたつの木玉を
屈強な男たちが
奪い合うといいます。
その珠は、
潮干珠・潮満珠を
模しているそうです。
また、
龍の頭のような形をした
糸島(いとしま)は、
かつて
伊都国(いとこく)といわれ
伊覩縣(いとのあがた)主であった
五十迹手(いとて)は
仲哀(ちゅうあい)天皇の軍門に
くだったといいます。
湾内の
能古島(のこのしま)は
神功皇后が
住吉大神の神霊を
「のこして」、
異国の降伏を
祈ったので
残の島から転じたとも
いわれているようです。
ですからこの湾は、
外交の港湾でありながら
防衛の利点も
供えていたのでしょう。
湾口部もせまく、
穏やかな海だといいます。
この湾で起こった
歴史的な事件というのが
鎌倉時代の
蒙古(もうこ)襲来・
元寇(げんこう)です。
この国家の一大事に、
亀山(かめやま)上皇は
『
我が身を以て国難にかわらん
』
と祈願して
平安時代に醍醐天皇が
宸筆(しんぴつ)した
『敵国降伏』を
神門にかかげたといいます。
その結果、
神風がおこって
2度の元寇を
退けたといいます。
とはいえ、
この神風もすぐに
吹いたわけではなく、
上陸までゆるし、
博多湾一帯は
炎上したといいます。
このときに、
筥崎宮も焼失したそうです。
文永の役では、
三万の兵と
九百の軍船が押し寄せ、
日没後に
風が吹いたといいます。
7年後の
弘安の役では
十数万の兵士と
三千五百の軍船が押し寄せ
2ヶ月にわたる奮戦ののち
神風が吹いたといいます。
湾岸にて、
蒙古らと戦い
国を守った
鎌倉武士の方々を思うと
感謝にたえません。
ですから筥崎宮は
厄除・勝運・海上交通の
神徳を持って、
人々の信仰を
集めているといいます。
ところでこの
「敵国降伏」は
「敵国を降伏させる」
ではなくて
「敵国が降伏する」
ということで、
徳を積んで進めば、
外から来る災いはいずれ
滅びていくということのようです。
亀山上皇の
尽力をうやまい、
現在では
およそ6メートルもある
上皇の木彫像も
まつられているといいます。
拝観時間は
9:00~16:00までらしく
またいずれ、ですね。
本殿背後では、
末社がひとまとめに
されていました。
こちらは
西末社というようですが、
ほぼ南に位置しています。
龍王社は
綿津見(わだつみ)神、
若宮殿は
仁徳(にんとく)天皇、
仲哀殿は
仲哀天皇、
厳島殿は
市杵嶋(いちきしま)姫、
民潤社は
民潤(みんじゅん)神?
埴安(はにやす)神を
それぞれ祀るようです。
民潤神って、
どなたのことでしょう?
こちらは
東末社です。
池島殿は
宗像(むなかた)三女神、
武内社は
武内宿祢(たけうちのすくね)、
乙子宮(おとこぐう)は
住吉殿は
住吉大神、
稲荷社は
宇迦之御魂(うかのみやま)神を
祀るといいます。
ただし、
ここに書かれていない
社や神々も
合祀されているらしく、
池島殿には、
軻遇土命(かぐつち)という
火の神も祀り、
なぜか
手足の神として
わらじ信仰があるといいます。
また乙子宮には、
七五三参りのような
祈願もあるようです。
筥崎宮は、
本殿をのぞけば
参道は裏門まで
直線で一貫していました。
こちらも
表門の鳥居とおなじく
『筥崎鳥居』という
特殊な造りであり、
柱は三段に切れ、
下肥りに台石に続き
笠木島木(かさぎしまぎ)
〔一番上の横材〕は
1つの石材で造られ、
先端が反り上がり、
貫(ぬき)〔二段目の横材〕
と笠木の長さが同じ
だといいます。
また、
表門と裏門にある
『官幣大社 筥崎宮』の謹書は
東郷平八郎
(とうごうへいはちろう)の
揮毫だといいます。
よくみると、
『官幣』が削られて、
三つ巴の神紋となり、
バランスが悪いですね。
大正3年に、
筥崎宮の社格が
官幣大社になったとき
書が贈られたといいます。
東郷大将は
日露戦争ののち、
参詣していたといいますから
ここで
『敵国降服』の
謝辞を伝えたのかもしれませんね。
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☆神功皇后めぐり全記事リスト☆
筑前国の神功皇后めぐり① ~香椎宮~
筑前国の神功皇后めぐり② ~古宮~
筑前国の神功皇后めぐり③ ~不老水~
筑前国の神功皇后めぐり④ ~筥崎宮~
筑前国の神功皇后めぐり⑤ ~警固神社~
筑前国の神功皇后めぐり⑥ ~天津神社~
筑前国の神功皇后めぐり⑦ ~住吉神社~
筑前国の神功皇后めぐり⑧ ~宇美八幡宮~
筑前国の神功皇后めぐり⑨ ~宇美八幡宮・奥宮~
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