この秋、泉屋博古館東京で開催されているのは、
“オタケ・インパクト―越堂・竹坡・国観、尾竹三兄弟の日本画アナキズム”。
溢れる才能に恵まれるも、性格などに難があり、
美術史のメインストリームから零れ落ちてしまった、
日本画家の尾竹三兄弟にスポットを当てた東京では初となる展覧会です。
(注:展示室内の写真撮影は、特別に許可を頂いております。)
新潟県の裕福な家に生まれるも、まもなく家業が傾いたため、
三男の竹坡と四男の国観は幼くして、絵を描いて家計を支えることなったそう。
その時に描かれたのが、画面右の《楠木正行母子図・新年突羽根婦人図》。
この時、竹坡は数えで15歳、国観は13歳だったとか。
確かにこれほどの絵の才能があれば、幼くして十分に家計を支えられますね。
その頃、長男の越堂は、お隣の富山に移って、
売薬版画(※)の下絵を手掛け、糊口を凌いでしました。
(※富山の売薬商人が薬のおまけとして配った、いわばノベルティグッズ)
その後、竹坡と国観は、富山の越堂のもとに一時合流するも、
本格的に絵を学ぶために上京し、それぞれ川端玉章、小堀鞆音に師事します。
明治40年に文部省美術展覧会(文展)が創設されると、その第1回で竹坡が入選。
翌々年の第3回では、国観が《油断》で二等賞を受賞しました。
なお、文展では一等賞を出さなかったため、
実質的に、国観の《油断》が最高賞に当たります。
尾竹国観《油断》 1909(明治42)年 東京国立近代美術館【前期展示】
弟に先を越されてしまいましたが、
翌年の第4回では、竹坡が《おとずれ》で最高賞を受賞。
尾竹兄弟が連覇するという快挙を成し遂げます。
なお、本展の前期では、その快挙をなした、
《油断》と《おとずれ》がどちらも展示されています。
さらに、その翌年の第5回には、
遅ればせながら上京してきた越堂も文展に挑戦し、入選。
尾竹三兄弟全員が入選するという偉業を達成します。
このようにさまざまな展覧会で成功を収め、
まさに「展覧会の申し子」として活躍した尾竹三兄弟。
お笑いでいえば、賞レースを通じてブレイクを果たしたようなものです。
・・・・・と、ここまでは順風満帆そうなのですが。
二等賞を受賞すると、翌年は無審査で作品が出せるのをいいことに、
竹坡が大型作品を3点も出品し、画家全員から顰蹙を買ってしまいます。
というのも、会場のキャパは決まっているため、
竹坡が出展した分、他の画家が出せなくなるのです。
再びお笑いでいえば、M-1で優勝したコンビが翌年に出演した際に、
長尺の漫才をやってしまい、何組かネタが披露できなくなってしまうようなもの。
顰蹙を買うのも当然です。
それが原因の一つだったのでしょう、
第7回の文展では、尾竹三兄弟全員が落選してしまいました。
また、岡倉天心が会長を務める国画玉成会では、
審査員をめぐって、竹坡が天心に文句をつけ、衝突。
国観とともに脱退してしまいました。
なお、本展では、そのせいで国画玉成会に、
数日間しか展示されなかった国観の幻の大作、
《絵踏》が100年以上ぶりにお披露目されています。
ともあれ、そんなこんなで、画壇の中央から離れ、
三度お笑いでいえば、地下芸人化した尾竹三兄弟ですが、
門下生たちと展覧会を自主開催し、発表を続けました。
さらに竹坡は、当時西洋美術の最先端だった、
未来派のスタイルを取り入れ、従来の日本画にはない作品を制作するように。
展覧会で入選するには、ある程度は、
オーソドックスな作品でないといけません。
展覧会を意識する必要がなくなったからこそ、
こういった斬新な日本画が生み出せたのでしょう。
そういう意味では、むしろ良かったのかも。
少なくとも、鑑賞する身としては、
いろんなタイプの作品が観られて、大満足でした。
ちなみに。
本展では、《絵踏》以外にも初公開の作品が多く出展されていますが、
未来派以外にも同時代のさまざまな画風を研究していた頃の初公開作品も出展中。
それが、こちらの《大漁図(漁に行け》です。
尾竹竹坡《大漁図(漁に行け》 1920(大正9)年 個人蔵【前期展示】
画面全体を覆う魚の群れ。
トライポフォビア(集合体恐怖症)ならば、
ちょっと目をそむけたくなるかもしれません。
なお、この作品が制作された数十年後に、
エッシャーが魚で画面を埋め尽くした版画作品を発表しています。
もしかしたら、エッシャーはこの竹坡の作品を観ていたのかも?
┃会期:2024年10月19日(土)~12月15日(日)
┃会場:泉屋博古館東京
┃https://sen-oku.or.jp/program/20241019_otakeimpact/