今年に入ってからまとめた記事は下記です。

 
自分自身を助けて、その延長線上で周囲の人も、

助けられる人になる様なヒントとして、

テレパシーについて

直感について

神社や寺院、聖地について

光のマントラについて

サインや合図について

霊的な領域について

光のネットワークについて

DNAについて1

DNAについて2

DNAについて3

DNAについて4

救世主は自分

霊性の目を開く事 

振り返ってみて

という記事を書きました。

 

そこから二元性を克服するヒントを中心に、

下記の記事を書いています。

嬉し楽しを現実に映し出す

特定の誰かを妄信しない

二元性を超える

真なる女性性意識を開花させる

 

こちらは特に、スピ界隈のおかしな教え、

宇宙法則や真理に反する、

整合性の取れない教えの注意喚起も含んでいます。

 

年明けからある方のブログ記事を中心に、

ご紹介してきました。

 

光と闇とか善と悪といった様に、

一つの物事には必ず二つの異なる側面、性質があります。

これが宇宙法則になり、自分の内側にもあります。

この二元性を束ねて統合していくことが、

地表上での霊的な目標になり、アセンションと呼ばれています。

その統合の先に、同じ様に統合した異性との出会いを果たし、

次の領域に進んで行く、ということをご紹介してきました。

 

人にもその様に、統合を果たして次の領域を進む選択をした人と、

しない人の二つに分かれています。

これが所謂二極化と呼ばれているものですね。

地球さんは次の領域に進んで行くことを選択していますので、

一緒に進むのか、進まないのかが重要になっているのです。

 

つまり、地球物質界における魂の大きな二極化、
その住み分けとは、光のネットワークに
繋がっているかどうかで、決まってゆきます。
 
という箇所をご紹介しましたが、
心と魂の浄化を行なうと
光のネットワークの最下層である天使界と接続されます。
厳しいことをお伝えすれば、
天使界と繋がっていない人は助からない人、
アセンションを選択していない人となります。

 

どんなに素晴らしく感じる発信をしていても、

心と魂の浄化が進んでいない状態だと、

最下層の窓口である天使界には繋がれません。

 
 
という記事を書きましたが、
5つ目の傲慢のループを抜けるというのが、
とても難しかなと思います。
特にスピ系でリーダー的な立ち位置で発信している人は、
傲慢さを克服出来ていませんよね。
 
心と魂の浄化について その5 「傲慢のループを抜ける」

「傲慢」も、大変に根深いものがあります。

それは、ある意味において、
気分の良いものだからでしょう。

常に、相手がお世辞やおべっかを言ってくれたり、
褒め称えてくれたり、感情的に、
精神的に持ち上げてくれたりで、
自分自身が常に上位にあるという
欲を満たしてくれます。

王さま、女王さま、お局さまとして、
崇めてもらえるのは心地が良いものでしょう。

これらは、中世ヨーロッパ時代、
日本の戦国時代なら通用したことですが、
これからの新しい世界では如何なものでしょうか。

「傲慢」は、自己中心的な思考や態度、
わがままな振る舞いを増長させてゆくばかりで、
しかも、本人の感情的、精神的な気持ち良さがあるが故に、
非常に抜け出すのが難しいものでしょう。

他の感情に比べて、最も聞く耳を持つことが
困難な状態にあると云えます。

意識の上昇を促されるとしましたら、
頭を抑えつけられるように、
反省させられる出来事が起こるでしょう。

どのような地位や名声を得ても、
もしくは、年齢を積み重ねていったとしても、
常に謙虚な姿勢を持ち続けている方を
観させて頂けることは、それこそが、
相手にとって素晴らしい励みとなり、
目標と成り得ます。

「傲慢」は、優越感に浸れるという気持ち良さ故に、
ネガティヴな循環から抜け出しにくいものです。

ここでも、日々つねに、
謙虚で、うやうやしい気持ちを重視する
ことが大切だと云えるでしょうか。
 
”他の感情に比べて、最も聞く耳を持つことが
困難な状態にあると云えます。”
”「傲慢」は、優越感に浸れるという気持ち良さ故に、
ネガティヴな循環から抜け出しにくいものです。”
とあります。
 
ツイッターのアカウントを直接的に名指ししましたが、
こういった界隈の教祖も信者も、
他者を見下すという傾向がありますよね。
逆に言えば、そうでもしなければ、
自分自身を保っていられないことの表れでもあります。
 
近所の人で、ちょっと外に出て誰かと話していると、
必ず出てきて覗きに来る人がいます。
とにかく他人が気になって気になって仕方ないのね。
窓から覗いているのかな?
電話しながら外にでて、話している私たちを確認しに来たこともあって、
吃驚したのだけど、
そういう他人の生活を監視する人って昔っから結構いますよね。
今はインターネットがあるので、SNSの監視になるのかな?と思います。
ツイッターだとブロックされているのに、
別のアカウントで覗きに行くとかありますよね。
私は管理出来そうにないし面倒なのでアカウントは一つしかないから、
理解出来ないのだけど、
そういうことをしちゃいけないという事ではなくて、
他人への関心が強すぎるという状態であると言えます。
両方同時に選択は出来ないので、
他人について考えている時は、
自分については考えられないんですよ。
つまり、他人が気になって仕方がないということは、
自分が何か夢中になって没頭することがないとか、
自分に目を向けたくないといったことが原因として考えられます。
例に出した近所の人の場合だと、
私が同じことをしようとすると、ずっと外で何が起きているかに、
注意を向け続けなければいけないので、
今自分がしていることに集中できないじゃないかと思うのです。
自分の時間を他人の為に使っているんですよね。
 
他者と比較しなければ、自分はこうだというものが分からない、
というのが鏡なので、
他人がどうなんだろうと考えてもいいんですよ。
見ていてもいいんです。
でもそれは全部、自分の解釈であって、
他人を理解したということではないです。
あくまでも他人は鏡なのです。
その人を通して自分が何を感じたのかを捉えることが出来なければ、
いつまでも同じところをぐるぐる回ることになります。
ずっと他人についてあれこれ考え続けている状態は、
自分が見えていないですよね。
また、他人を監視してあれはダメだ、これはダメだと、
善悪判断を行なっているというのは、
二元性を超えられないということでもあります。こういった人達はまだ天使界とは繋がっていません。
 
もし天使界と繋がると、
チャネリングが出来るとか、
他者には聞こえない音が、声が聞こえるとか、
見えないものが見えるとか、
そういった自分にしか確認出来ないことではなく、
(そういうこともあると思いますが)
超現実的に他者にも確認出来るような事が、
起こってきます。
天使界だと白い羽のサインが多いです。
何人かの人達と外で話している時に、
ずっと頭上を鷺がぐるぐる飛んでいて、
私以外の人達も流石にちょっとおかしいわね、
と言い出すとか、
沢山のカラスが集まってきて屋根に止まり、
一斉に鳴きだして、
そこに居る人だけではなくて、
窓から顔を出して何事か?と覗く人が出てきて、
あれは何だろうと話すとか、
単なる偶然、妄想では片づけられないことが起きます。
ある寺院ではご神木から蛇が出てきて、
近くにいた人が「これは神様の遣いだからいたずらしちゃ駄目だ」と、
注意を促したことがありました。
 
スピ系の話だと、こんな不思議なことがあった、
自分には霊感があるから除霊したみたいなことで、
霊感マウントみたいな自慢みたいなことをする人がいます。
そういう事実かどうか確認出来ないことではなくて、
自分は分かって他人には分からないことではなくて、
現実的に摩訶不思議なことが起きて、
その場に居る他の人も同時に確認出来ることが起きます。
思い込みで判断しない様にしましょう。
大体、人に自慢したいというような気持ちがある時点で、
傲慢さは克服出来ていません。
 
「聖書の真義」(M・ドーリル博士著)の
マタイ伝第四章には下記の様な教えがあります。
 
誰であろうと自分の中にある
神秘的霊能力が発現出来る様に
なった時に起る心内の戦いについて
書いているのである。

普通の人々がもたない霊能力や霊力に命じて
それを発揮したいという欲望は
非常に大きいものである。

そんな人たちは、自分が霊能力を発現すれば、
他の人々が自分を恐れ尊ぶようになる
ということがよく分っているのである。

こんな誘惑には打ち勝たなければ
ならないのである。

現代的な言い方で言えば、
単に見せびらかしのためと
善目的の全くないことへの
霊能力のいかなる利用方法であろうと、
その意図は断固として打ち破らねば
ならないのである。

真に必要な理由があった時のみ、
宇宙法則をマスターした人たちが、
それを発現するのである。
神秘的な現象を経験したとしても、
それを人に自慢したいというような気持ちを克服出来なければ、
次の段階には進めません。
またその経験が本当に重大なものであればあるほど、
セキュリティが高いものになるので、
絶対に他者に口外してはならないはずで、
他者に自慢なんか出できません。
伝えれば、他者の霊的な成長に影響を与えたり、
自分自身の安全に関わることになります。
自慢できるということはその程度の経験だった、
ということでもあるのね。
自慢という他者をどうこうするという方に思考を向けるのではなくて、
自分はどうあるか?という方に思考を向ける必要があります。
 
例えば、私が日本の安全を守る聖域の浄化を、
三ヶ月に一度行なっていたと思います。
私は神様から選ばれて、その役目を負っています。
場所は〇〇県の××というところです。
浄化はこの様なことをしています。
次の浄化の予定日は〇月〇日です。
という感じでツイッターで、ブログで発信したとします。
 
どんなことが起こると予想出来ますか?
 
その場所に行ってみたいと、出掛ける人がいるでしょう。
真似して同じことをする人、
自分こそ浄化のお役目を負っているのだと言い出す人、
その聖域をわざと壊そうとする人、
私個人を探し出して攻撃する人。
そんな人が出て来るかもしれません。
 
もしそこが本当に聖域であるなら、
自然霊たちが守護しているので、
面白半分で遊び感覚で訪れる人には、
何らかの不都合が起きるかもしれないし、
壊そうとするなら命を取られるでしょう。
 
私自身の安全も脅かされますし、
聖域も危険な状態になりますし、
そこを訪れる人にも命に関わることになります。
 
私が日本の安全を守る聖域の浄化を行なっていたとしても、
それを公表してしまうと、
デメリットの方が大きいですよね。
メリットは自慢できることくらいです。
私はこんなお役目があって凄いんだぞー!
といい気分になれることくらいで、
後は害しかありません。
 
ちょっと想像力を働かせれば、
「私にはお役目があります」みたいに、
自慢気に言うことの危険性が見えて来るのではないでしょうか?
だから本当にそういう役目があるのだとしたら、
絶対に口外してはいけないと決まっています。
自分に特別な役目があると言うような人は、
大したことはしていないし、ほとんど思い込みや嘘だし、
何も重要ではないということが言えます。
 
重要な役割を果たせるような霊的な段階に達する為には、
何があっても秘密を守れるような、
沈黙を守れる人でなくてはいけないのです。
 
その為には傲慢さの克服は外せません。
霊的な段階を進める為に、
心と魂の浄化を行なうということには、
ちゃんと意味があり、必要なことなのです。

 

立ち位置の違い

という記事を書きましたが、
二極化という時に、それはどういう状態なのか?という表現は、
人によって違うと思います。
でも表現は違っても、現実的に経験することがはっきり分かれるので、
今自分の現実はどうなのか?というところを見れば、
自分が何を選択したのかも分かると思います。

 

魂の二極化の分岐点通過

西暦2008年12月、冬至の日をもって、
魂の大きな二極化の分岐点を通過しました。

以前にもお伝えしておりますように、
神理の道を順調に進まれてきた方々においては、
さらなる幸福と喜びの道へと邁進されることでしょう。

この方々は、幸いなるかな、
雲間から陽射しがこぼれるが如く、
あらゆる障害の壁が取り除かれてゆき、
光の住人としての目的を果たしながら、
地球と宇宙の進化に貢献してゆくでしょう。

そうでない方々は、一層の精進の上、
心と魂の浄化に励むことで、
地球のアセンションの波に
乗っかってゆくことは可能です。

ここで、自分はどうなのだろうかと、
余計な心配事を募らせたり、焦ったりしていては、
元の木阿弥(もくあみ)に成りかねません。

余裕ある心と楽観とによって、
これまで通り、神理の道を
進まれることが大切です。

真なる答えは、リラックスの中にあります。

イエス・キリストさんは、かつて、
次のように言われていました。

「状況がたとえ、どうであろうとも、
夜の十一時に悔い改めても救われる」

これは、キリスト意識である太陽神人の方々も、
現在においても有効であると言われています。

夜の十一時とは、西暦2011年頃までだとは想われますが、
その鍵は、自分自身の意識に留まり、すべての問題を認め、
それを意識の内から除去することにあるといいます。


この12月に入ってから、剣のサインが、
立て続けにずっと出ておりまして、
猿田毘古神(さるたひこのかみ)さんと、
月讀命(つくよみのみこと)さん、
素盞嗚尊(すさのおのみこと)さんに、
呼ばれ続けていました。

この冬至の日を通過したことにより、
鳥之石楠船神(とりのいわくすふねのかみ=
天鳥船命 [ あめのとりふねのみこと ] )さんの案内と伝達網で、
邇邇芸命(ににぎのみこと)さんや、石上神宮および、
鹿島神宮・香取神宮・香取神社のネットワークで知られる、
剣そのものである経津主神(ふつぬしのかみ)さん、
などの主だった太古からのエネルギーの封印を解かれ、
“聖なる剣”が、否応なしに振り下ろされることになりました。

それは、闇の残党抵抗勢力を一掃するべく、
また、光の住人に偽装した者たちへも容赦なく、
化けの皮を剥ぎ取り、切り捨ててゆくことでしょう。

光の住人に偽装した者たちは、
改心して、真なる光の道へ入られるか、
「自然淘汰」という、魂ごと消去をされるか
の選択を、余儀なくされるでしょうから、
適切な選択をされることをお祈りいたします。


いつものことながら、
これを受け入れるも受け入れないも、
皆様一人ひとりの直観に委ねます。

 

西暦2008年12月、冬至の日の時には、

私は光の住人であったとは言えませんでした。

天使界と繋がっていたとしても自覚はなくて、

はっきりとしたサインも受け取っていなかったのです。

私が天使界と繋がっているのだなと自覚出来たのは、

2011年の311の地震の後です。

霊的な学びに真剣に取り組んで、

本気で自分と向き合って、

物事の両極を捉えようと努力しているうちに、

急に視野が拡がった様な、

脳の機能がバージョンアップした様な状態になりました。

何を見ても聞いてもその時に受け取る情報が格段に増えたのです。

最初は情報量が多くてとても疲れて処理出来ないと感じました。

そのうち、その状態に慣れて、

霊的な捉え方をする自分と、物質的な捉え方をする自分の、

両方を同時にコントロール出来る様になってきました。

私は○○という人の妻で二人の子どもの母親で、

どこにでもいそうな普通のおばさんなんだけど、

別の側面もある、というのを受け入れられるようになりました。

 

私は特別なの!お役目があるの!

地球での私は仮の姿!みたいなことではなくて、

色々な側面があるのが私だ!という風に分かって来たのね。

 

以前ご紹介した記事に下記があります。
 

●私たちは、多次元的存在

「大國魂神社のくらやみ祭」
の中で述べられています、
瀬織津姫さんのメッセージを、
少し解説させて頂きたいと想います。

「水瓶座の時代=新しい太陽の時代=「弥勒の世」は、
もうすでに、ここに来ていて、準備の整った方は、
この世界の中に入っています。」

という部分がありますが、
西暦2008年末、冬至の日以降、
大きな魂の二極化が始まっているということ
(光の世界に入ってゆくか、このまま闇の世界に留まるか)、
また、“天の岩戸”はすでに開かれているということは、
このブログの中で、繰り返しお伝えしております。

私たち生命体の身体は、
3次元物質界のみに生きているものではありません。

多次元領域の宇宙の中に生きている、
多次元的な存在です。

これまでの現実生活の中では、
3次元物質界のみに生きている
と思い込みがち、もしくは、思わされていたかもしれません。

しかし、夢の中の世界では、
その他の次元領域に、主に、4次元領域、
もしくは、3次元領域と4次元領域の境界領域、
にいたことが思い出せるかもしれません。

もしくは、綴れ織りのように重なる、
パラレル平行次元においてもです。

意識が、霊的に覚醒した熟練者の方でありましたら、
もっと高い5-9次元領域などに入っていたりもします。

しかし、前述した理由により、
いわゆる、普通の一般的な方々においても、
もっと意識的に、他の高次元領域に
入っていける時代に入ったということであり、
それは、夢の中ということだけではなく、
現実逃避ということでもなく、現実生活の中で、
意識的に入ってゆけるようになったということです。

ここで、申し上げていますことは、
「水瓶座の時代=新しい太陽の時代=「弥勒の世」」は、
主に、5次元領域ということになりますが、
つまり、私たちは、3次元物質界にも、5次元領域にも、
(もちろん、それ以外の多次元領域にも)、
両方の世界に同時に存在することが出来るということです。

それは、現実生活の中で、意識的に起きている状態で、
3次元物質界、5次元領域の2つの世界を股に掛けて、
同時に行き来する、2つの世界の住人であるということを意味します。

この、主だった2つの世界を股に掛けて、
同時に存在する状態は、しばらく続いていきますが、
それは、おそらく、一般的には、西暦2016年の、
水瓶座の時代に入る時期まで、続いてゆくでしょう。

ここで、一般的には、と申し上げましたのは、
多くの方々においては、ということであり、
西暦2012年末から西暦2016年に掛けても、
霊的に完全に準備の整った方は、
生きたまま、肉体を伴った状態で、
3次元物質界からすでに離れてゆくでしょう。

3次元物質界から観たときに、
「神隠し」が起きたように観えます。

西暦2016年の水瓶座の時代に入る時期までというのは、
その前後の時期、前年の冬至の日か、
西暦2016年春分の日頃の時期をもって、
銀河の門、いわゆる、光へ入る門が、
完全に閉ざされてしまいます。

つまり、水瓶座の時代に入り、光の門が閉ざされますと、
誰も彼も例外なく、何人たりとも、二度と光の世界に入れない、
ということが、古代グノーシス派の教えの中にあり、
太古の時代から云われてきています。

仮に、次の光の門が開くときがあるとするのであれば、
それは、数千年から数万年後ということであり、
宇宙の何処かの、似たような3次元領域で、
途方に暮れるような時を、輪廻転生を繰り返しながら、
待たなければならなくなるということが云われています。

 

物質的な次元で生きている私もいるし、

もっと高次元の私もいるよね、

同時に色々な側面を持っているというのが、

自覚出来るようになった、

これもまた統合になります。

 

「世界を変える」とは、高い次元領域に上昇してゆくということ

前回の記事の中で、

「西暦2008年末、冬至の日以降、
大きな魂の二極化が始まっているということ
(光の世界に入ってゆくか、このまま闇の世界に留まるか)」

という部分について、補足しておきたいと想います。

私は、西暦2008年末の冬至の日が
タイムリミットであると書きました。

ですから、このタイムリミットに間に合わなかった方は、
相当な意志を持って、真剣に霊的真理を学び、
霊性進化向上してゆく必要があります。

自分自身が間に合ったのかどうかという基準は、
感覚的なことでしか分からないかもしれませんが、
自分自身の周囲が、以前とは何かが違う
という感覚があるでしょう。


この世界を平和にしたい、この世界を
愛に満ち溢れた悲しみのない世界にしたい
と想われている方がいるとしたら、
その考えは、大きく方向転換をする
必要があるでしょう。

結論から申し上げますと、
この世界は平和にはならないし、
この世界は、一向に良くなることはなりません。

私が、ここで申し上げております、
「この世界」とは、私たちがこれまで暮らして来た、
3次元物質界のことですが、
3次元物質界は、あくまでも、何処までいっても、
3次元物質界のままだということです。

つまり、「この世界」は、
後方に、そして、低位置に、
置き去りにされていってしまう世界です。

私たちが、「この世界」に留まっている限りにおいては、
果てしなく、堂々巡りを繰り返してゆくだけです。

そのようなことで、「この世界」に留まるとは、
闇の世界に留まると同義語であるということになります。

そうではなくて、私たちは、
「この世界」よりも、少しでも上の領域の世界に、
昇っていく必要があります。

残念なことに、「この世界」は、
もう、どうにもならないのです。

ですから、今回、地球とともに、
アセンションを選択しなかった方々は、
宇宙の何処かの似たような3次元領域の物質界に、
移行する、ということになります。

しかし、私たちは、「自分自身を変えることで、
周囲の世界を変えてゆくことが出来る」
という言葉を聞いたことがあるでしょう。

これは、水瓶座の時代に向かう、この時期に至っては、
3次元物質界自体を変化させたのではなく、
自分自身が、以前よりも高く上昇したことにより、
より高い領域の人々、環境などを、
自分自身の周囲に引き寄せたということになるでしょう。

その結果、自分自身と、その周囲の次元領域が上昇した、
自分自身の存在する位置が、以前よりも上昇した、
ということが云えるでしょう。

つまり、以前よりも、「この世界」が、
良くなったように観じるとすれば、
私たちの存在している位置は、
3次元物質界よりも、高い領域に存在している、
これまで住んでいた領域とは、明らかに違う、
ということが云えます。

そのようなことで、後方に、そして、
低位置に置き去りにされていってしまう、
3次元物質界という「この世界」を変えるのではなく、
自分自身が変わることで、高い領域に次々と移行してゆく、
いつの間にか、高い次元に移行してゆくということになります。

その螺旋状からなる延長線上において、
光の世界に入ってゆく、ということになります。

 
”この世界を平和にしたい、この世界を
愛に満ち溢れた悲しみのない世界にしたい
と想われている方がいるとしたら、
その考えは、大きく方向転換をする
必要があるでしょう。
結論から申し上げますと、
この世界は平和にはならないし、
この世界は、一向に良くなることはなりません。”
という箇所を、この記事が書かれた当時に読んだ時、
物凄いショックを受けました。
どうしてそうなのかが分からなかったのです。
 
でも多次元的な解釈が出来る様になると、
その意味も分かって来ると思います。
自分も他人も様々な側面があるのです。
どこにフォーカスするのか?で、
現実は変わってきます。
 
下記も以前ご紹介している記事です。
 
地球人類の住み分けは、「光のネットワーク」に繋がるかどうかで決まる

私は、このブログ上で、西暦2008年末冬至の日に、
「魂の二極化の分岐点通過」ということで、
地球人類が、大きく両極端に住み分けが始まることを
お伝えさせて頂きました。

ですが、この分岐点を通過した後でも、
闇の住人側にいる方々が、光の住人側に入ることは可能です、
ともお伝えさせて頂きました。

いま・この時期に、最低限必要なことは、
光の道に入ることです。

ですが、さらには、光の真ん中の道に入る必要があり、
これは、二元性を超えるという生き方をする道です。
 
いま・この時期に、最低限必要なことは、
光の道に入ることです。

ですが、さらには、光の真ん中の道に入る必要があり、
これは、二元性を超えるという生き方をする道です。

それは、光と闇、善と悪、静と動…というように、
二元性のどちら側にも左右されずに、
両極端に位置する概念を束ねるという生き方であり、
これは現在、日本神界の最先端で先導しています、
菊理姫(くくりひめ)さんを筆頭にして遂行されています。

このように書きますと、天上界がなんでもかんでも、
やってくれるのかと勘違いをされる方が、
現れてしまうかもしれませんが、あくまでも、
主人公は、私たち地球人類のほうです。

私たち地球人類が、実際に、行動を起こさない限りは、
天上界の神々と云えども、何もしようがないのです。

ですから、地球物質界において、世界中で、
様々な激変が起こっていると云ったときに、
実際に、行動を起こしているのは、地球人類です。

それは特に、地球人類の中の、
光のネットワークに繋がった方々であり、
光の共同作業とは、光のネットワークに繋がっている、
地球人類です。

光のネットワークに繋がった方々が、「内なる声」を通して、
天使界、妖精界、自然精霊界から、さらに、天上界へ、
あるいは、地球内部世界「アガルタ」や「シャンバラ」、
地球上に集まって来ている友好的な宇宙種族たちと繋がってゆき、
それぞれにアドヴァイスや指令を受けます。

それを、光のネットワーク上で、相互に確認をして、
充分に検証確認を行なった上で遂行してゆきます。

バンクーバーオリンピックの間に起きた出来事の中では、
他には、私が先日取り上げたような新興宗教団体や、
世界中のカルト集団、日本では、中曽根会や、その他の悪性分子、
世界中でも、これに相当するような特に危険性の高い悪性分子を、
その電気設備、電気通信網を完全に遮断した後で、
壊滅に追い込みました。

このブログは、アニメの「デスノート」ではありませんので、
くれぐれもご注意願いたいのですが、
次のことを留意した上で遂行されています。

それは、その行動を実際に起こすことで、

★宇宙において、新たにカルマを創り出さないかどうか
★正当防衛に当たるか当たらないか
★越権行為に当たらないかどうか

これを、充分に確認する必要があるということです。

つまり、自分自身だけの判断では出来ないということであり、
必ず、天上界や光の先生がたと検証確認の上、遂行する必要があります。

友好的な宇宙種族がたくさん、地球に集まっているというときに、
では、彼ら彼女たちが、助けてくれるんだと依存心を抱くのは、
非常に大きな間違いです。

天上界の神々や宇宙種族たちはすべて、
私たち地球人類の、霊的なサポートなのであり、
私たち自身が、実際に、行動を起こさなければ、
事態は、全く持って、何も変化のしようがないということです。

地球は、何が何でも、破壊するわけにはいきませんので、
彼ら彼女らは、最低限、地球が壊滅しないように、
防御をするだけです。

スピリチュアルの世界、精神世界では、
この部分を大きく勘違いしている方々が、
あまりにも多過ぎます。

宇宙人が助けてくれるから安心…ではないのです。

光のネットワークに繋がっている方々と、そうでない方々というのは、
映画『X-MEN』シリーズに観られるような世界観であり、
そこで、前兆現象として暗示させていました。

それは、既存の地球人類と、
ハイブリッドな新地球人類との違いであり、
それは、アニメや娯楽映画の中だけのお話ではなく、
現実世界で起き始めています。

つまり、地球物質界における魂の大きな二極化、
その住み分けとは、光のネットワークに
繋がっているかどうかで、決まってゆきます。

光のネットワークに繋がっている方々というのは、
テレパシーによって交流する世界の方々です。

地球物質界的に云えば、
光のネットワークに繋がった方々というのは、
映画『The Day After Tomorrow』で表現されているところの、
氷河期という状況を体験しない方々です。

この記事を更新する直前(西暦2010年3月2日午前1時)
において、光のネットワークに繋がっている方々は、
地球地表上において、4万8795人です。

これは、地球地表上の推定総人口数70億人、
(西暦2010年3月2日時点では、約65億人まで減って来ている)
という人数から観れば、あまりにも少な過ぎるということが、
お分かり頂けるのではないでしょうか。

つまり、5次元地球へのアセンション人口数は、
現時点において、極端に少な過ぎるということが伺えます。

5次元地球へアセンションを果たすためには、
光のネットワークに繋がらなければ無理です。

地球自身も、天上界も、まだまだ多くの地球人類が、
アセンション出来るように、協力して頂きたいとの旨で、
作業を遂行中ですが、これは、主に、
普通一般の方々に伝えられるべき内容です。

また、すでに、光のネットワークに繋がっている方々の中でも、
半信半疑でいる方々もいらっしゃいますが、
自分自身の直観と閃きとを疑うことなく、
霊性進化の道をお進み頂きたいと想います。
 

こちらでも

”5次元地球へアセンションを果たすためには、
光のネットワークに繋がらなければ無理です。”

とありますね。

この光のネットワークというのは、

なんとなく分かるといったものではなくて、

はっきりと現実的なサインが送られてきて、

もうこれは偶然ではなく気のせいではなく、

そうなんだなと分かるものです。

よく自分が置かれている状況、

今目の前に何が起きているのかを見て下さい。

 

 

「危急存亡の秋(とき)」 西暦2011年9月の始まり

地球環境に変動?太陽北極域で異例の磁場反転

宇宙航空研究開発機構の太陽観測衛星「ひので」が、
太陽の北極域で磁場が反転し始めた様子を観測することに成功した。

太陽の北極、南極の磁場は約11年周期で反転することが知られているが、
今回は予想時期より2年も早いうえ、
南極域では反転が見られないなど異例の様相を呈している。
地球の環境変動につながる恐れもあるという。

ひのでは7月31日、マイナス磁場(S極)だった太陽の北極域で、
プラス磁場(N極)が増えていることを発見した。
数か月で反転が完了する。
磁場の反転は太陽表面の爆発など活動が活発になる極大期の2年後に予想されていた。

磁場の反転と、太陽の黒点数増減の周期は、通常約11年で一致していたが、
2009年初頭まで続いた黒点の周期は12・6年に延びた。
活動周期が延びる時期は、地球が寒冷化することが知られている。
研究チームの常田佐久(つねたさく)・国立天文台教授は
「観測されたことのない事態だ。地球環境との関係を調べるため、
太陽活動を継続的に監視していく必要がある」と話す。
(2011年9月1日21時57分 読売新聞)


宇宙で起きていることは、地球でも起こります。

これは、宇宙の真理であり、
錬金術の奥義、“上なる如く、下もまた然り”ですね。

いま・この時期に、
宇宙に映し出されている何らかの現象は、
地球に送信されて来ている信号です。

上記ニュースの中で、
「北極域で磁場が反転し始めた」といった部分が、
今現在、地球にも起きつつあります。

ほんの少しですが、すでに、軸がずれ始めています。

そのために、例えば、太平洋では、台風の発生する場所が、
日本列島に近い位置へと上昇して来ています。

以前よりも、台風の発生位置が、
北側へと移動しています。

「地球の環境変動につながる恐れ」とは、
かなり、オブラートに包んで伝えています。

これは、ちょっとどころではない、
“地球地表上の大激変”が
始まっていることを告げています。

地球地表上では、一般社会においても、
善くも悪くも、「混乱、混沌」といった事態が、
急速に深まります。

これは、何らかの情報操作や、情報かく乱といったことも、
一般社会のニュースでは常にありますので、
外界の情報に囚われ過ぎると、ますます、
「混乱、混沌」に巻き込まれてしまうことになります。

それは、インターネットの中も同様に、です。

“いつでも、真実は、自分自身の内側に問い掛けなければならない”

ということですよ★

一般社会における、「混乱、混沌」といった事態は、
新しい地球の時代に、何を残して、何を捨て去るのか?
といった、分別作業の二極化現象です。

また、私たちの太陽系における、それぞれの惑星たちが、
「磁場が反転する」、「軸が傾く」ということが起きていますが、
これらは、“大規模な周波数転換”です。

私たちは、「霊性進化」の、次なる新しい段階に進むだけなので、
そのことに最大限の意識を傾ける必要がありますね★
 
今、地表上で起きていることも、
単なる偶然の積み重ねではないです。
でも起こったことに振り回されるのではなくて、
いつも自分の内から発信されることが始まりだ、
ということを忘れないようにしましょう。
 
「鰊(ニシン)の大量死」は、“人類の選別が終了した”ことを表している

ノルウェーでの「ニシン大量死」のニュースは、
「鰊」(ニシン)字の右側にある文字は「カン」という文字ですが、
“選り分ける”を意味しています。

これは、“地球人類における選別”のことであり、

“助かる人と 助からない人との 選別は すでに終了した”

というのが、天上界からのメッセージです。

私が、これを最初に聴いていたのが、
西暦2011年11月初旬の頃のことでした。

私は、天上界から直接に聴いたメッセージは、
一般社会に降りて来て現実化するまでには、
「多少の時間差がある」と想っていたので、
しばらく、このことを言えないで黙っていました…

そのために、私は、巨石や神社のお話を取り上げて、
「時間稼ぎ」を試みてみたのです。

私は、西暦2008年12月22日付の、
過去記事「魂の二極化の分岐点通過」において、
イエス・キリストさんのお言葉をお借りしまして、
次のようにお伝えしました。

“状況がたとえ、どうであろうとも、
夜の十一時に悔い改めても救われる”

この言葉の持つ意味するタイミングを、
すでに、通過してしまった模様です。

なぜならば、上記の「ニシン大量死」が起きてしまったから。

それでも、私は、「ギリギリで間に合う人々がいる」のだと
想いたいのですが、現実は如何なるものだろうか…
 
2011年で選別は終了した、という記事がありました。
私はそれでもまだ間に合う人がいるはずと思って、
ブログやツイッターで発信してきましたが、
昨年、もう無理かなと感じるようになりました。
 
インターネットが広まって、
沢山の情報が手軽に取得出来るようになった反面、
自分のことより外側ばかりに意識が向いてしまう人も、
どんどん増えてしまうからです。
 
スピ系の情報収集をする人、
ちょっと詳しいと思っている人、
他者へ情報発信をする人、
皆さん、天使界とは繋がっていますか?
繋がっていると断言できる様な、
何かしらの現実的な出来事は経験していますか?
なんとなくとか、天使をいつも感じていますとか、
そういうことではなくて、
目の前に白い羽が落ちて来るといったことがありますか?
 
先日、10年くらい振りに参拝した神社で、
急に雨が激しく降り出したことがありました。
この神社には水の神様は祀られていないはずなのに、
どうしてだろうと考えながら、
参拝していると、あそうか、ここに祀られている本当の神様は、
あの方かという閃きがありました。
今までの経験と得て来た知識、神紋などから分かったのだけど、
その閃いた瞬間、近くの樹に沢山のカラスが留まっていた様で、
一斉にカーカーと鳴き出して飛び立ちました。
まるで正解!と言うように。
その神様はカラスを遣いに出し、私のメインのガイドでもあるので、
何故今まで気付かなかったんだ!と自分に驚きました。
目の前にあるのに見えない、霊的な段階が進むと分かる様になる、
ということは沢山あります。
 
ハッと閃いた瞬間、沢山のカラスが一斉に鳴き出す、飛び立つ、
これは偶然だとも言えますけれども、
偶然だとしてもとても印象的に私の心に残りますよね。
忘れられない様に心に刻まれる経験になります。
 
内側で変化が起こると、それに呼応する様に、
現実的に何かが起こる、
というのを確認して欲しいんですよ。
不思議な耳鳴りがするとか、光が見えたとか、
インスピレーションが湧いたとか、
そういったこともあるでしょう。
でも、光のネットワークというのは、
そういう曖昧な感覚的なものではなくて、
現実的な出来事として起こってくるものなのです。
それがありますか?というのを、
自分で客観的に観察してみて下さい。
 
はっきり言って、繋がっている人が少なすぎるのです。
ほとんどの人が経験出来ていないと思います。
だからこそ、これが当たり前の様に感じられないのだろうし、
浸透していないんですよね。
私がお伝えしていることが、
経験として理解出来ない人がほとんどかもしれません。
 
何故こんなにもスピリチュアルな情報が広まっているのに、
光のネットワークに繋がれる人が少ないのでしょうか。
 
アミシリーズだと愛の度数が七〇〇度以上という説明があります。
 

「ずいぶん、いろいろとならべあげたものだね。
きみの兄弟をそんなに悪く言う前に、
理解するようつとめなくちゃ。
すべてのテリがきみの言うようなひとばかりじゃないよ。
中には七〇〇度以上の度数を
もっているひともいるんだからね」

アミの言う度数とは、”進歩度”のことで、
彼のもっている”センソ・メトロ(感覚計)”
という機械で、動物やひとの進歩度を
はかることができるとアミは前の旅で教えてくれた。
もし万が一、取り返しのつかない事態に
おちいったばあい、七〇〇度以上あるひとは、
文明世界に住む資格がじゅうぶんにあるとして、
宇宙人に救出されると言うのだ。
あのとき、アミは、ぼくが自分の度数を知りたがっても、
度数が低ければイヤな気持ちになるし、
反対に高ければうぬぼれてしまい、
ぼくのエゴがひろがり度数が下がってしまうからと言って、
ぼくにそれをぜったいに教えてくれなかった。
テリの”度数”についてはほとんど関心がなかった。
それよりぼくの”度数”のほうが知りたかった。
なんとかもう少しさぐりを入れてみようとした。

「じゃ、ビンカもぼくも
かなりの”度数”をもっているというわけだね……」

「どうして?ペドゥリート」

「だって、文明世界からきたんだからね……」

「地球にもぼくより高い”度数”をもっているひとが
かなりいるって、前に言ったろう?
彼らとぼくのちがいといったら、
彼らが知らないことをぼくは知っているということと、
ぼくが最高に望ましい環境と適正な情報の中で
教育されたということだ。
でも彼らの魂の水準は、多くのばあいかなり高い。
でもみなかならずしも、
文明世界からもどってきたというわけではない。
きみたちのようないわゆる伝道師は、

前の人生で愛に対して
なにかしらのあやまち、なんらかの過失を犯しているんだ。
でも、そのあやまりは奉仕することによってつぐなわれる。
その仕事の選択はきみたちの自由な意思によって
なされたものなんだよ」

 

「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)より

 

”七〇〇度以上あるひとは、文明世界に住む資格が
じゅうぶんにあるとして、宇宙人に救出されると言うのだ。”

とあります。
 
それはどういう人なのかな?というと、
 

「アミ、ぼく、七〇〇度ある?」


アミはぼくの心配を笑って、
「そう質問してくると思っていたよ。ペドゥリート、

でもね、それは前にも言ったように
答えるわけにはいかないんだよ」

「じゃ、どうしたら七〇〇度以上あるかを、
知ることができるの?」

「それはかんたんだよ。
なんの利害もなく、ひとのためにつくしているひとはみな、
七〇〇度以上あるんだよ」

「きみは、前に、ひとはみな、
他人に対して、よいおこないをするように心がけるべきだと
言ったけど……」

「ぼくが、言った”他人”っていうのは、
それはたんに自分の家族とか、
自分の所属している組織とか団体とか
友だちとか仲間だけという意味じゃないんだよ。

また、”よい”と言ったときは、
宇宙の基本法に反していないおこないを意味しているんだ……」

 

「アミ 小さな宇宙人」(エンリケ・バリオス著)より

 

”なんの利害もなく、ひとのためにつくしているひとはみな、
七〇〇度以上あるんだよ”とあります。

 

 

「アミ、ぼく、いったい何度くらいあるの?」

「それは言うことはできないね」

「どうして?」

「もし、度数が高ければ、たぶん、きみはうぬぼれるだろう……」

「ああ、そうか……」

「もし、反対に、低けりゃ、
とてもいやな気持ちになるよ……」

「ああ……」

「高慢は光を消す……それは悪の種だ」

「よくわからない」

「謙虚にするよう心がけるべきなんだよ……。
じゃ、もう行こう」

 

「アミ 小さな宇宙人」(エンリケ・バリオス著)より

 

「ペドゥリート、愛はだれもけいべつなんかしないよ。
たとえ精神的な虚栄心をもっているひとでもね。
愛は理解力があるんだ。
奉仕することにつとめ、
他人を非難しないようにすることだよ。
ちょうど父親が子どもの小さな欠点を
非難しないのとおなじようにね。
精神的な虚栄心は”七〇〇度”の段階にたどりつくための、
ひとつの段階にすぎない。
それにきみのなにが、
他人の精神的エゴを批判していると思うの?
それこそまさにきみの精神的エゴじゃないのかい?
もし他人の非難すべき欠点を、
克服できる欠点と見ることができるとき、
きみはもうきれいな身になっているよ。
だれかに対して非難するようなものをもっているかぎり、
まだまだきれいじゃないんだよ」

 

「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)より

 
他者についていつも気にして、
あーだこーだ言っている状態の人は、
まだ七〇〇度の段階には辿り着いていないですよ。
あなたは天使界と繋がっているとはっきり自覚出来る、
何かがありますか?
 
「うん。つまり、多くのひとが自分じしんのことを
すばらしいひとだと思いこんでいるんだよ。
自分のもっているいくつかの欠点を、
まったく直視することができないでいる。
その欠点は、ときにはとても重症だ。
でも自分では気がつかないその欠点を、
まさに他人の中にみいだすと、そのひとを
ひと一倍はげしく非難するということがいつも
起るんだよ。
そしてとつぜんひとからその欠点を
指摘されようものなら、
死ぬほどひどいショックを受けるんだ。
いつも自分を美しいと思いこんでいた
”みにくい、幸せ者の小さなひと”
の話を知っているかい?」

「ううん、知らない」

「それまでいちども鏡を見たことがなかったんだ。
そして、はじめて鏡を見たときから
悲劇がはじまったんだ……。
わかるかい?」

こんどはふたりともウンとうなずいた。

「われわれを愛からひきはなしている、
エゴという自分の中のみにくい部分には、
それを支えてしばりつけている
根があるんだ」

「その根って?」

「いちばん大きな本質的な欠点だよ。
われわれにはいくつもの欠点があるけれど、
その中でもいちばん重要なやつだ。
それががっちりとエゴを支えているんだ。
ちょうど土にうまって外からは見えない木の根のように、
自分で見つけるのはたやすいことじゃない。
他人のほうがずっと見つけやすい。
でも他人からそれを知らされると、
自分を美しいと思いこんでいた”みにくい、幸せ者の小さなひと”
とおなじように、
われわれのかわいそうなエゴはその支えを失って、
われわれは死ぬほどショックを受けるよ……」
 
「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)より
 
鏡や投影の素晴らしい部分というのは、
自分が直接、自分自身が受け入れられない、
”みにくい”と感じる部分を、
他人という鏡を通して、
まるで自分のことではなくて、
他人の事の様な姿をして、
眺めることが出来る、という点です。
 
大体の人は自分のことを善人だと思い込んでいます。
 
ご近所の方で、天使か?観音か?と思うような、
とても善良なタイプの方がいます。
民生委員なので独居のお年寄りの家を訪問されていたり、
自治会やその他の地域活動も積極的に参加されています。
以前、自治会の班長をやった時に、
自治会長に呼び出されて自治会館の大掃除をやりました。
参加したのは、私と小学生だった娘と隣の班の班長さんと、
自治会長と副会長だけでした。
皆来ないんだよね。
後から、その善良な観音の様な方も来て、
張り切って障子を張り替えましょう!と言い出して、
自宅から道具を持ってきて、せっせと張り替えていました。
私と一緒にいた隣の班の方は、仕方なく、断れなくて参加した、
という感じなんだけど、
その方は心底喜んで行なっていたのね。
掃除している間に、何人もの人がその人に会いに来て、
〇日が空いていたらこっちを手伝って欲しい、
あそこに行って欲しい、これをやって欲しいと、
次々に頼まれていました。
どうするのかな?と見て居たら、
スケジュールが空いている限り、全部引き受けていました。
全くみんな私に押し付けて!なんて怒ることもなく、
スケジュールが空いていたら引き受ける、
他の予定があったら○○があるからと断る、
ただそれだけでした。
 
別の時には、近所のアパートに住んでいるお婆ちゃんが、
一日に何度も急な階段を下りては、
時計を持って、〇時になるのにヘルパーさんがまだ来ない、
知らないか?と話しかけて来るということがあって、
そのことをご相談したら、すぐ対処して下さって、
施設に入所することになりました。
その後、大雪が降ったことがあって、
車も通れず、沢山積もったため、ドアが開かなかったり、
大混乱になったのね。
もしあのお婆ちゃんがそのままそこに住んでいたら、
階段で転倒したかもしれないし、
ヘルパーさんが訪問出来なくて不安になったかもしれないし、
きっと大変だったと思うので、偶然が重なったとはいえ、
あの対処は素晴らしいなと思いました。
 
そういう何の得もなさそうなのに、
人の為に尽くしているという姿勢を尊敬しています。

だからと言って、私には出来そうにないんだけどね。

 
ご近所なので時々お話する機会があるのだけど、
本当にほんの少しの悪意もない人なのよね。
最近は、同じ地区に土地を購入して、
自分の両親と子ども夫婦を住まわせて、
介護と孫の世話をされています。

その家を建てる時に、工事する期間が、

話に聞いていたよりずっと長く、大幅に延長されていました。

騒音も酷いし、車の駐車も迷惑だったので、

一体いつになったら終わるんだと、
腹を立てながら、どっちかと言ったら、
嫌味で、悪意を持って話したことがありました。
でも相手は全く意に介さず、
嫌味を嫌味とは受け止めず、
とっても信頼している棟梁なんだけど、
マイペースなんですよ!
まだ終わらないのよね~と笑って話していました。

一緒に文句を言おうと思っていた人達全員、

肩透かしという感じです。
本当に悪意が一切ない人には、
こちらの悪意が通用しないんだなと。
自分が相手を悪く思わないから、
相手が自分を悪く思っているとは考えもしない。
そういう発想をしないのです。
それが鏡とお伝えしています。


”「それはかんたんだよ。
なんの利害もなく、ひとのためにつくしているひとはみな、
七〇〇度以上あるんだよ」”

とありましたが、

この例に挙げた方は本当に、

得するとか損するといったことを考えず、

人の為に自分が出来ることをされています。

 

他人に善いことをしようと言うと、

偽善だ!と怒る人もいますが、

そうやって引っ掛かりがあるうちは、

まだ心と魂の浄化が終っていない状態です。

 

先日、目の前で、

交差点で停まっていたバイクが転倒して、

乗っていた人がバイクの下敷きになりました。

バイクの前の軽トラが交差点の手前で左折して、

お店の駐車場に入って来た為、

もしかしたら事故なのかもしれない、

轢かれたのかな?と思い慌てて走って向かいました。

 

大丈夫ですか?と声を掛けながら、

バイクを起こそうとしたら、

重くて持ち上がらなかったんだけど、

(何の助けも出来ず)

乗っていた人が、いってー!と言いながらも、

自力で起き上がりました。

怪我はないですか?大丈夫ですか?と聞いたら、

大丈夫とのことで、

見た目も出血とかないし、

バイクも転倒しただけで、壊れた様子もなく、

軽トラに巻き込まれた訳ではなさそうでした。

救急車を呼ばなくても平気だということで、

じゃあ、お気を付けてと言って別れたのだけど、

私は吃驚したので、

手に持っていた荷物やスマフォを放り投げて、

歩道に置いたまま駆けつけていました。

そのことを後から思い返してみると、

とにかく目の前の人を助けなければという思いだけで、

他のことは考えていなくて、

勝手に身体が動いて向かっていました。

以前の私なら、大丈夫かな?と思いながら、

遠巻きで見ていたり、

面倒なことには関わりたくないなと、

避けていたかもしれません。

若い男性だったので声を掛けるのも、

躊躇したかもしれません。
目立つことはしたくない、恥ずかしいといったことも、
考えるようなところがありました。
でも今は、助けが必要そうな人を見掛けた時、
あれこれ考える前に行動しています。
ただ助けたいという気持ちだけです。
子どもたちにこの話をしたら、
そのバイクの男性に対しても、
お母さんみたいな気持ちだったんでしょう?と言われて、
確かにそうだなと思いました。
母性意識について、下記では、

 

母性意識は、逆らうことも、抗うことも出来ないような、
圧倒的に、すべてを包み込む、
優しさ、思いやりからなる意識です。
 
とありましたが、これも、
”なんの利害もなく、ひとのためにつくしている”
という事と同じ様な意味ですよね。

 

誰かに何かをしようと言う時、

何の躊躇いもなく行なえる状態なら、

心と魂の浄化は進んでいるだろうし、

天使界とも繋がっているでしょう。

天使界と繋がるということは、

身体を持たない天使に変わって、

自分自身が動ける人、

地上の天使として働ける人だということなのです。

そういう行動を馬鹿にするような気持ちがあったり、
他人を見下すような気持ちがある状態はまだ、
天使界とは繋がれないですよ。

 

ちょっと優しいとか、自分の都合の良い時だけ、

いいことをするとか、

そういうことではないんです。

もし、この記事を読んで、

不快になる、腹立たしく感じるなら、

批判したくなる、揚げ足を取りたくなるなら、

どうしてそうなのか?と、

自分に問いかけてみて下さい。

 

本当に悪意がなくて綺麗な心の状態の人は、

他人に悪意を向けることは絶対にないです。

 

よく、鏡なんて嘘だよ。

相手が私に悪意を向けているから、

私は嫌な気分になるんだ。

私は全く悪意なんてないし、

すごく善人なんだと言う人がいます。

 

あなたは何と比較して、

自分を善人だと言い切るのでしょうか?

相手が悪意を向けているとして、

それを悪意と判断出来たのはどうしてでしょうか?

 

本当の善人の人は悪意というものを知らないのです。

何故あなたは悪意を知っているのでしょうか?

鏡ということは、どういう意味なのか、

本当に理解しているのでしょうか?

理解した上で批判していると言い切れるのか?

 

天使界と繋がるというのも、

誰かに自慢したり報告したりすることではないです。

寧ろ、思わぬ攻撃を受ける可能性があるので、

秘密にしておいた方がよいと思います。

もし、天使界と繋がれないのだとしたら、

それはどんなことが原因になっていると思いますか?

自分と向き合って考えてみて下さい。

どうして天使と周波数が合わないのでしょうか?
本気で取り組んでいますか?