霊的な成長に必要な心と魂の浄化について、

何回かに分けてヒントになりそうな情報を、

ご紹介しています。

 

同じ志を持った方々と共に、

宇宙法則や真理を学んで、実生活に活かして、

意図的に創造していきたいと思っています。

 

 
「徹底的な反省」 と 「あらゆるものに感謝」、
「相手も自分も許す」 「嫉妬のループを抜ける」 という
四つをご紹介しました。
 
外側は自分の鏡だということを理解すると、
今まで考えて来たこと、信じて来たことが、
全部ひっくり返ってしまいます。
そうすると、反省に至ったり、
感謝するようになったり、許せるようになってきます。
自分という立ち位置がしっかりして、
自分軸になると、
自分と他者の境界線が引けるようになります。
 
引き寄せの法則からは下記の箇所をご紹介しました。
 
「許容し可能にする術」とわたしたちが言うのは、
次のようなことである。

わたしはわたしであり、
わたしはありのままの自分に喜びを感じて、
楽しんでいる。

あなたはあなたであり、
たぶんわたしと違うだろうが、
それもそれでよろしい。

なぜなら、
わたしたちの間に劇的な相違があっても、
わたしは自分が欲することに焦点を定めることができるし、
自分に不快感をもたらすことに
焦点を定めるほど愚かではないから、
ネガティブな暗い感情に苦しめられることはない。

わたしは「許容し可能にする術」を
現実に適用する者として
この物質世界にやってきたのは、
自分が思う「真実」に
全員を従わさせるためではないことを
理解している。

また画一性や同一性を促進するために
やってきたものでもない。

同一性、画一性には、
創造性を刺激する多様性がないことが
理解できないほど愚かではないからだ。

画一性の実現に焦点を定めれば、
わたしは創造の継続ではなく
終焉に向かうことになるだろう。

だから「許容し可能にする術」は、
この地球と地球上の種
さらには
この宇宙自体の存続あるいは生存に
どうしても欠かせないし、
その存続はすべての「源(ソース)」の幅広い視点から
力強く認められている。

物質世界の視点に立っているあなたがたは、
自分自身の成長、拡大を認めないかもしれないが、
そのときには自分が腐りかけているような
嫌な気分になるだろう。

そして他人の成長、拡大を認めないときにも、
自分が腐りかけているような嫌な気分になるはずだ。

気がかりな状況を見て、
しかしそれを止めたり変えたりするために
努力するのではなく、
放っておこうと思うとき、
あなたはその状況を「我慢」している。

これは「許容し可能にする」こととはまったく違う。

「許容し可能にする」とは、
自分と「内なる存在」とのつながりを
維持し続けられる物事の見方を探す術だ。

それはこの時空という現実の世界にちりばめられた
データのなかを選択的に移動しながら、
心地よい物事に焦点を定めることで実現できる。

つまり「感情というナビゲーションシステム」を活用して、
思考が向く方向を決定するということだ。

「引き寄せの法則」(エスター・ヒックス、ジェリー・ヒックス著)より
 
”わたしはわたしであり、
わたしはありのままの自分に喜びを感じて、
楽しんでいる。
あなたはあなたであり、
たぶんわたしと違うだろうが、
それもそれでよろしい。”
というように考えられると、
嫉妬という感情も湧かなくなります。
わたしはわたしであり、あなたはあなたであり、
それでいいのだというのは、
それぞれ自分の選択に対して結果が返る、
というのが法則だからです。
 
自分が苦しんで苦しんで、でも最終的には立ち上がって、
乗り超えたという経験があるなら、
他の人達も、きっと大丈夫だと信じられるようになります。
今はそれが見えなくても、
過ぎてみれば、その苦しみが自分の成長に繋がった、
といった自信があれば、
他の人だって、今、成長の為の必要な時間を過ごしている、
というような見方も出来ると思います。
確かに必要以上に無理をしたり、
何でも一人でやる必要はないですけれども、
助けを求められてもいないのに、
助けてあげようとしたり、
依存させて(スピ系の継続利用とか)、
自分で解決する機会を奪ったり、
というのは、自他の境界線が引けていない証拠です。
 
鏡なので、自分が乗り超えることが出来ないから、
他の人もそうであろうと、
介入したくなってしまうのです。
助けを求めているのは、苦しんでいるように見える誰かではなく、
自分自身なんですね。
そして、救世主も自分自身でしかありません。
 
下記はある方のブログ記事になります。
 
心と魂の浄化について その5 「傲慢のループを抜ける」

「傲慢」も、大変に根深いものがあります。

それは、ある意味において、
気分の良いものだからでしょう。

常に、相手がお世辞やおべっかを言ってくれたり、
褒め称えてくれたり、感情的に、
精神的に持ち上げてくれたりで、
自分自身が常に上位にあるという
欲を満たしてくれます。

王さま、女王さま、お局さまとして、
崇めてもらえるのは心地が良いものでしょう。

これらは、中世ヨーロッパ時代、
日本の戦国時代なら通用したことですが、
これからの新しい世界では如何なものでしょうか。

「傲慢」は、自己中心的な思考や態度、
わがままな振る舞いを増長させてゆくばかりで、
しかも、本人の感情的、精神的な気持ち良さがあるが故に、
非常に抜け出すのが難しいものでしょう。

他の感情に比べて、最も聞く耳を持つことが
困難な状態にあると云えます。

意識の上昇を促されるとしましたら、
頭を抑えつけられるように、
反省させられる出来事が起こるでしょう。

どのような地位や名声を得ても、
もしくは、年齢を積み重ねていったとしても、
常に謙虚な姿勢を持ち続けている方を
観させて頂けることは、それこそが、
相手にとって素晴らしい励みとなり、
目標と成り得ます。

「傲慢」は、優越感に浸れるという気持ち良さ故に、
ネガティヴな循環から抜け出しにくいものです。

ここでも、日々つねに、
謙虚で、うやうやしい気持ちを重視する
ことが大切だと云えるでしょうか。
 
克服するのが一番難しいものとして、
傲慢さを紹介されています。
 
こちらの心と魂の浄化については、
ツイッターやこのブログ記事などで、
簡単に自分と向き合う5つのステップとして、
ご紹介してきました。
 
今回は一つ一つ詳しくご紹介しましたが、
傲慢さの克服については、
スピリチュアル・エゴとして記事にしています。
 
スピ系の人だと、
凄いです!さすがです!と持ち上げられている、
スピ系教祖は沢山いますよね。
本人は恐らく、自分自身が傲慢さを克服できていないとは、
考えもしないでしょう。
謙虚に生きています!と言うと思います。
 
自分が傲慢さを克服していないことを、
見つける為にはどうしたらいいのか?
 
「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)には、以下の様な場面もあります。
 
ぼくは遠い別の世界にいて、
こうして宇宙人から教えを受けることができ、
また宇宙の基本法を知って、
地球に奉仕することができる特権をもたされていることを、
とてもありがたいと思った。

彼らと話していると、
まるで自分が彼らの一員のように、
ほとんど彼らとおなじように
進歩している感じがした。

そして、これから帰らなければならない地球や
ぼくを待っているいとこのことを考えたら、
なんだか自分が彼らより
一段階上にいるような感じがした。

そう考えたとき、アミが言った。

「完成にむかう道で、打ち負かさなければならない
さいごの敵は、すべての中でもっともはら黒い。
その敵を見つけるのはかんたんじゃないんだ、
カモフラージュしているからね。
ちょうど、あの地球の動物のように……
エーと……なんて言ったかな?
自分のからだの色を周囲の色とおなじように
自由に変えて、じっと動かずにいる動物……」

「カメレオン!」
とぼくはそくざに答えた。

「ああ、それそれ。それとおなじなんだよ。
さいごに克服しなければならない欠点は、
ちょうどそのカメレオンみたいなやつなんだ。
それは精神的高慢さ、あるいは精神的エゴという、
進化の道をかなり進んだと感じているひとをおそう
とてもやっかいなものなんだ。
とても見つけるのがたいへんなんだよ。
でもその方法がひとつだけあるんだ」

「その方法って?」

「だれかに対して、けいべつを感じるとき、
そのひとのことを”精神的にあまり進歩していない”と
さげすむ気持ちをいだくたびに、
見つけることができるんだよ。
まさに、そこにひそんでいるんだ。
精神的エゴは、ともすると
自分を進歩しているかのように
錯覚させるんだよ。
そしてびみょうに他人をけいべつするようにさせる。
でも真実の愛はだれもけいべつしない。
ただ奉仕することを望むのみ。
そこにとても大きなちがいがあるんだ。」

「じゃ、その精神的エゴを
たくさんもっているひとは、
その分だけけいべつに値するの?」

ぼくは、学校の同級生で、
ミサにあまり行かない友人を
いつも非難して、自分が聖人だと
思いこんでいるヤツを思い出して質問した。
アミはそれを聞いて笑い、
彼のお母さんはやさしくぼくを見て、
ほほえんだ。
でも、ビンカもぼくも、
ぼくの言った言葉のどこがおかしいのか
まったくわからなかった。
アミのお父さんはかがやいた目で、
親しみをこめて、ぼくをしっかりと見た。
なんだか、はずかしくなった。

「ぼく、なにか悪いこと言った?」

「いいかい。”ひとをけいべつするひとは
けいべつに値する”。
それはちょうど、殺人を犯したひとは殺すべきだとか、
盗みをしたひとから盗むべきだとか、
貧しいひとたちには貧しさでもって罰するべきだとか、
無知に対しては無知を、
とかと言うのとおなじなんだよ」

なにが言いたいのか、はっきりわからなかった。

「ペドゥリート、愛はだれもけいべつなんかしないよ。
たとえ精神的な虚栄心をもっているひとでもね。
愛は理解力があるんだ。
奉仕することにつとめ、
他人を非難しないようにすることだよ。
ちょうど父親が子どもの小さな欠点を
非難しないのとおなじようにね。
精神的な虚栄心は”七〇〇度”の段階にたどりつくための、
ひとつの段階にすぎない。
それにきみのなにが、
他人の精神的エゴを批判していると思うの?
それこそまさにきみの精神的エゴじゃないのかい?
もし他人の非難すべき欠点を、
克服できる欠点と見ることができるとき、
きみはもうきれいな身になっているよ。
だれかに対して非難するようなものをもっているかぎり、
まだまだきれいじゃないんだよ」

 

”だれかに対して、けいべつを感じるとき、
そのひとのことを”精神的にあまり進歩していない”と
さげすむ気持ちをいだくたびに、
見つけることができるんだよ。”
とあります。
誰かに感じた問題を、
その人は今、克服しているところなのだと捉えることが出来るか、
あの人はダメな人だ、なんちゃら脳だ、目覚めてない人だ、
といった様に、振り分けて善悪や優劣で判断するのか。
 
嫉妬もそうですけれども、
自分の中の傲慢さがあることを認めるのは、
ものすごく難しい事かもしれません。
スピ系の人や、カウンセリング等の商売している人は特に、
自分はみんなより進んでいて、
上の立場なんだと思っているから、
醜い、汚い、情けない部分なんか、
一切ないと思い込んでいます。
 

もしあるスピリチュアルな共同体に属する二人が
スーパーマーケットに行き、その一人がまわりを見渡して、
「この人たちを見てごらんなさい。
目覚めていない人ばかりだわ。
かれらには私たちが目覚めていることさえわからない。
私たちこそ、選ばれた人間なのだわ」
と思ったとしましょう。

これは他を批判する行為以外の何ものでもなく、
まさに霊的エゴの仕業です。

その人はアセンションの螺旋を
上昇するどころか下降していますから、
とても危ないことです。

さて、同じ共同体の別の一人も、
スーパーマーケットにいるまわりの人たちが
自分よりも目覚めていないことに気づきます。

しかしその人はまったく他を批判しません。

それどころか、まわりの人々に対して
思いやりや理解の気持ちがはたらきます。

その人は自分自身も
以前はかれらと同じだったことや、
大いなる無限の上昇螺旋においては、
拡大しつつある意識も、
先人たちに比すればまだまだごく狭い意識でしかないことを
わかっているのです。

まことその人をはるかに凌ぐ優れた存在たちがおり、
そうした評価自体、相関的なものにすぎません。

受容とやすらかさという点において
あなたが自分の内に何を創造するのか、
それが重要な問題なのです。

 

「ハトホルの書」
(トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著)より

 

ツイッターなんかでは、自分と仲良くしている人達と一緒に、

目覚めていない、進歩していない、分かっていないと感じる人を、

いちいち取り上げては、馬鹿にしている、批判しているグループが、

よくいますよね。

 

そうすることで、連帯感や安心感を得ているのかもしれません。

比較すること自体が馬鹿馬鹿しいこと、

自分が思う様に選択して生きていれば、

他者も同じであると受け止められると思います。

他者がどうあろうと、その人自身の選択を尊重出来るはずです。
 

また、いつもいつも、自分が下だと感じる人ばかりを、

眺めてあーだこーだ言っているから、

いい気分であれこれ言えるのです。

 

もっと視野を拡げると、

霊的な成長には終わりがなく、

自分の段階など、とっくの昔に通り過ぎた方々が、

数えきれない程存在しているので、

如何にその方々に追いつけるだろうか?と考えたら、

下に感じる人がどうしたとか、興味がなくなると思います。

自分だって、先に進んでいる方々から見たら、

似たようなものでしょう。

 

「ハトホルの書」
(トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著)には下記の様な教えがあります。

 

V わかりました。では、アセンションに関して
現在地上で語られているいくつかの説に
コメントをいただけますか。

いま世界には、宇宙人ないし異星人と呼ばれる存在が
地球にやって来るとか、私たちを「転送装置で上昇」
させてくれると言っている人たちがいます。

アセンションにフォトン・ベルトが
介在する可能性を説く人たちもいます。

この二つの説が主なものですが。

本書の冒頭で、わたしたちが
救済者でも救世主でもないことは、
はっきり申し上げました。
わたしたちはただ自分たちの知識や学んできたことを、
兄弟姉妹であるあなたがたに提供しようとしている
兄であり姉であることを、読者のみなさんに
明確に理解していただくためにも、
そうした投影からはきっぱりと足を踏み出す必要があったからです。

わたしたちの情報を受け入れるかどうかはあなたがた次第で、
わたしたちはそれにかかわらず情報を提供しています。

地球外の知的存在が人類を救うという信仰や、
フォトン・ベルトに入ると同時にまるで魔法のごとく
変容が起きるという信念は、人類意識による投影にすぎないと
わたしたちは学んできています。
だれか、あるいは何かが自分たちを救ってくれるという願望や、
自分自身に関しては何も変える必要がないという考えや、
自分には何の責任もないという思いは、
非現実的と申し上げるほかありません。

昏睡ないし無意識状態のくり返しに甘んじながら、
自分はいっさい努力せずに、
自分を変えてくれそうな何かを摂取したり、
そうした何かがもらえそうだという信仰は、
まったく愚かしい考えです。

そのようなことは起こりません。

さて、地球外に知的生命が存在することは
間違いありませんから、
そうした存在が地上に着陸することはあるかもしれません。

しかし自分自身の努力を惜しんで、
よそからアセンションや高次意識への移行がもたらされるなどと
期待したり依存したりしている人は、
大きな失望を味わうことになるでしょう。

アセンションとは、すべてのレベルにおける覚醒と
自己統御を達成するプロセスであり、
自分という存在の全体を上昇させる必要があるのです。

わたしたちはアセンションをそう解釈し、
何千年ものあいだ、そして今現在も
そのようなものとして実践しています。
 
「ハトホルの書」(トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著)より
 
”わたしたちはただ自分たちの知識や学んできたことを、
兄弟姉妹であるあなたがたに提供しようとしている
兄であり姉である”
とあります。
上から見下している訳ではありません。
 
V するとあなたがたは私たちの過ちに
気づいても、良い悪いの判断はしないのでしょうか。
 
 
そうです。わたしたちは見守っているのであって、
審判しているわけではありません。
 

V ではあなたがたの体験によれば、
私たちを援助してくれている文明の存在たちも、
より高次の気づきのピラミッドに向かい
意識を広げているのですね。
 

そうです。これこそピラミッドの法則です。

わたしたちはみずからの関心で
援助していますが、それはみなさんがわたしたちの
兄弟姉妹だからです。

愛ある自己本位(微笑んで)と言えばいいでしょうか。

あなたがたに貢献することでわたしたちは成長するのです。

一歩先を行く者としての気づきや功徳や思いやり、
そして愛をあなたがたへの援助のなかで
使えば使うほど、わたしたちはアセンションの上昇螺旋を
進むことになります。

つまり、あなたがたとわたしたち全員が
一緒に上昇できるというわけです。

なかには後ずさりしていく人もいますが、
それはそれでよいのです。

なぜならそうしたプロセスにも
自由意志がはたらいているからです。

それでどん底まで落ちてしまった人がいたとしても、
最終的には再び上昇することになります。

なにしろ、それに代わる方向はほかにないのですから
(たくさん笑いながら)。
 
「ハトホルの書」(トム・ケニオン&ヴァージニア・エッセン著)より

 

”わたしたちはみずからの関心で
援助していますが、それはみなさんがわたしたちの
兄弟姉妹だからです。
愛ある自己本位(微笑んで)と言えばいいでしょうか。
あなたがたに貢献することでわたしたちは成長するのです。
一歩先を行く者としての気づきや功徳や思いやり、
そして愛をあなたがたへの援助のなかで
使えば使うほど、わたしたちはアセンションの上昇螺旋を
進むことになります。
つまり、あなたがたとわたしたち全員が
一緒に上昇できるというわけです。”
とあります。

ある程度学びが進むと、今度は教えるという学びに入ります。

教えることで、別の視点から学んだことを学び直すのです。

 

これについては、「もどってきたアミ」(エンリケ・バリオス著)の中で、
下記の様な説明があります。
 
「ビンカも、ペドゥリートもよく聞いて。
いいかい、宇宙の教育システムっていうのは
段階的につくられているんだよ。
ある段階にいるひとがその上の段階にあがれるように
手だすけできるのは、すぐ上の段階にいるひとたちだ。
つまり、下の段階にいるひとは、
すぐ上の段階にいるひとによってたすけられるんだよ。
まだ自分が低いレベルにいるにもかかわらず、
司令官のような高い次元の師や、
いやそれどころか神じしんを要求して、
自分よりは一段階、あるいはもっと上の段階にいるひとを
へいきでけいべつするひとが少なくない」

「そのとおりだよ、アミ。
でも、ビンカの言うことも正しいと思うよ。
だってそれほど高い段階にいない指導者っていうのは、
多くのことを知らなすぎると思うけどね」

「その指導者がかりにずっと上の段階のことは
わからなくても、ずっと下の水準にいるひとにとって、
それはどうでもいいことなんだ。
自分より少しでも上にいるひとの
教えてくれたことを
きちんと消化することができれば、
それでじゅうぶんなんだよ。
まだ足し算も引き算も知らない生徒にとって、
たとえその先生が高度な数学をよく知らなかったとしても、
そんなことまったく問題にならないだろう」

こんどはアミの言うことが、
ふたりともはっきり理解できた。

 

”いいかい、宇宙の教育システムっていうのは
段階的につくられているんだよ。
ある段階にいるひとがその上の段階にあがれるように
手だすけできるのは、すぐ上の段階にいるひとたちだ。
つまり、下の段階にいるひとは、
すぐ上の段階にいるひとによってたすけられるんだよ。”
とあります。
 
小学1年生が高校生の勉強を教えてもらっても、
理解出来ませんよね。
いつかはそれを学ぶとしても、
今は必要ないわけです。
 
これは自分自身も同じで、
やたらと高次元、神々、創造主、
なんらかの宇宙人種とチャネリングしているといったことを、
自慢する人がいますけれども、
実際にそれは本当なのでしょうか?
自分がそれを受け取ることが出来る段階に、
いるのでしょうか?
もし自分だって創造主レベルなのだと思うなら、
何故まだ、地表上で物質的な生活を送っているのでしょうか?
 
傲慢さの克服をする為には、
自分自身の見たくない部分と向き合う必要があります。
 
「エメラルドタブレット」(アトランティス人トート著/M・ドーリル博士編)には、
下記の教えがあります。
 
おー人よ、
汝の智恵に誇ること勿れ。
賢者と話す如く無知なる者と話し合え。

もし、完き智恵の者汝に来りなば、
智恵がすべてなれば、それに聞き、
かつ、心にとどめよ。

解説

高慢な人間は賢者ではなくして愚者である。
それは自慢はその人をうぬぼれ者にし、
すべてのものを自分自身の基準と
ものさしとによって測らせ、
学ぶことを拒否するからである。

注解

”稔るほど頭を垂れる稲穂かな”というのは
霊的なことにもあてはまる。
むしろ、霊的なことにこそ
適切な句である。
 
うぬぼれは学ぶことを拒否するとあります。
霊的な成長や学びには終わりがないのですが、
傲慢さを克服出来ないと、成長が止まってしまうのですね。
 
「ヨガの真義」(M・ドーリル博士著)の下記の教えを何度かご紹介していますが、

 

大聖者のことば 八

「うぬぼれやとは争うな。」

別のことばで言えば、
我々は、教えを受けたいと望む人に対して、
その人が望む範囲で、
かつその人が受け入れる能力の
範囲内でしか与えることが出来ないのである。

うぬぼれという垣をすて切るまでは、
その人たちには、何らの言葉も受け入れさすことが
出来ないのである。

そんな人に教えを説こうと努力をすることは、
時間とエネルギーの無駄なのである。

議論することは、
彼らがこちらとの障壁を益々高く強固に
するものである。

だから、もし、
言うことがあれば、簡単明瞭に言って、
それについて論議することを断ればよいのである。

そう言ってからは、議論しては、いけない。

彼らは、自分の好きなことを言うことが
出来るのである。

もし、あなたが真理を話して
議論したなら、その真理は、
彼らの中へ貫入して行くであろう。

そして遂には、その手に武器をもって
反撃してくるのである。

 

傲慢さを克服していない人に、
教えられることは何もありません。
聞く耳を持たないからです。
この克服には、人によって長い時間がかかる場合があります。
はっきり言えば、克服せずにその生を終える人も多いでしょう。
気分がいいから手放せないのです。
 
今回ご紹介している方のブログ記事に、
下記もありますので、貼っておきますね。
 
スピリチュアルな世界の知識を得ることによって、
ほとんど、必ずといっていいほどやって来る、
乗り越えなければならない段階というものが幾つかあります。

その中でも最大のものが、
スピリチュアル・エゴといったものです。

これは、スピリチュアルな知識を得たことにより、
誰か他の人よりも、優越感を持ったり、
自慢したり、自分は他の誰かよりも抜きん出て偉いんだ、
特別なんだ、という傲慢さが表出してきます。

このような段階で観られる傾向としましては、
自分以外の誰かを攻撃したり、批判したり、
自分を特別な存在として正当化させるために、
相手をことごとく蔑み、おとしめます。

これらのことが表出する代表的な例として、
新興宗教の教祖が挙げられます。

私に神が降りた、私は神から啓示を受けていると、
自分は選ばれた特別な存在なのだと
間違った方向に錯覚を起こしてしまい、
挙句の果てに、事ある毎に、恐怖や不安で相手を釣り、
如何わしい物品を購入させて、金品を巻き上げたり、
さらにはそのお金で、立派な御殿を建てたりするような方々です。

このような方々も、風前の灯火であると云えます。
この世界での既存の全宗教は、もうすぐ終焉を迎えます。

イエス・キリストさんや、釈迦さん、聖母マリアさんのような
いわゆるアセンデッド・マスターや、スピリチュアルな師たちは、
スピリチュアルな知識を知れば知るほどにおいて、
謙虚であらねばならないと言っています。

マスターと呼ばれる存在も、
やがては神と呼ばれる存在となり、
神と呼ばれる存在に昇りつめたとしても、
さらに謙虚であるということです。

キリスト意識も、ヒンドゥーの神々も、
エジプトの神々も、決して自分自身が特別な存在で
優越感に浸る、などという意識は持ち合わせていません。

彼ら彼女らは、わたしを崇めよだとか、
わたしを褒め称えよ、などということは決して言いません。

イエス・キリストさんに至っては、
わたしをマスターと呼ばないでください、
とまで言うほどです。

多くの地球人類が、神々を崇め称えるのに対して、
神々のほうでは、わたしたちを隣人のように、
友人のように接してくださいと伝えてきます。

これが、上に立つもの、天上界の方々の姿なのです。

その神々たちの姿を見習うのでしたら、
私たちがこの世界に留まっていながら受け取る知識など、
どれほどの知識だということでしょうか。

3次元領域にいながらにして受け取れる知識に比べましたら、
多次元領域の情報など膨大過ぎて、
それをすべて受け取ろうとしましたら、
それこそ頭がパンクして精神異常をきたすでしょう。

そもそも、この世界にいながら、
アカシック・レコード(宇宙の図書館)の情報量を
100%正確に受け取ることは、まず、
不可能に限りなく近いとマスターたちも言っています。

マスターたちでさえ、宇宙根源からの情報を、
100%正確に受け取ることは困難であるということです。

そのことを想えば、私たちは、神々やマスターたちに、
敬意の念を込めて、見習うべきでありましょう。

ことわざにも、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」とあります。
君子は学識や徳行が深まるほど、謙虚になるものだという意味です。

このようなスピリチュアル・エゴを乗り越えることによって、
私たちは、マスターへの道を歩むことになります。
 
他者を攻撃したり批判する暇があったら、
一つでも多く、実践して結果を出すという方に、
目を向けていきましょう。
地表上で学べることはそう多くはありません。
自分の知識や学び、経験など、
大したことはないのです。
ただ、出来ることをコツコツ積み重ねて、
一心に真理の道を歩くこと、
誰かと比べたり、見下したりしないこと、
これをいつも心掛けるようにしましょう。
最初のうちは、誰かに何かを言いたくなる度に、
打ち消して打ち消して、
自分はどうなのか?とひっくり返すことが、
必要になると思います。