マルトリートメントと私62.父に対する兄の態度の変化 | ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

25年以上1つの会社に健常者として勤務し、係長として人の上に立つようになった私が、
どのようにASD(自閉症スペクトラム)の特性と折り合いをつけて生活しているか、
その方法をお伝えしていきたいと思います。

私がなぜ、自分の生育歴を振り返るようになったのかは、

マルトリートメントと私1.私の1番古い記憶

をご覧ください。

 
幼少期のまでの記事はこちら。
小学生までの記事はこちら。
中学生時代の記事はこちら。

※自分の記憶に基づいて書いているため、

事実と違っている可能性があります。
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私の父は私が小学生の時に、
家を建てるために出稼ぎに出たので、
私が中学生の時には、
普段は母と兄と私の、
人で暮らしていました。

そのお陰で私は、
誰にも言えなかった、
精神に異常をきたす前に、
私が暮らしていたのは、
父が建てた家だったため、
当然、1年のうちに何回かは、
父は家に帰ってきていました。

父が家に帰ってきた時には、
私は昔、父から、


と呼ばれて馬鹿にされていた頃のように、
自分の部屋に引きこもり、
なるべく父と顔を合わさないように、
していました。

けれど、
子供の頃に父親が愛人宅へ行ってしまい、
母親とも引き離されて、
育ってきた過去を持つ父は、
おそらく発達障害(未診断)である上に、
愛着障害もあったのだと思います。

いつでも自分が注目を浴びていないと、
気が済まなかった父は、
家族が自分の周りに集まることを強要しました。

そのために、
家族皆んなで居間に集まると、
他に何もすることがなかったため、
一緒にテレビを観ることが多かったのですが、
そんな時、父はテレビを観ながら、

「これはな、こういうことなんだぞ」

と家族に向かって、
得意気に解説しだすのが常でした。

子供の頃にはそんな父を、
物知りだと尊敬したこともありましたが、
成長して色んな知識が増えてくると、
父の話す内容は、
皆んなが知っていることだったり、
嘘だったりすることも多いことが分かり、
次第に子供達も相手にしなくなりました。

でも、そうして誰も相手にしないでいると、
今度は父は、

「おい、じゅん!!」

と、家族の誰か特定の名前を呼んで、
絶対に自分の話を聞くように仕向けました。

父の話す内容に興味は無かったため、
私達家族は皆んな、
そんな父にウンザリしていましたが、
ここで父の話を聞かないと、
父の機嫌が悪くなるために、
皆んな我慢して、
父の話に付き合っていました。

テレビのチャンネル権は、
父が家に帰ってくると、
私達他の家族には無くなるため、
皆んな父の観たい番組に、
付き合うことになるのですが、
父は動物の番組が好きで、
動物の生態を紹介した番組を延々と観ては、
ナレーターが話した内容を、
さも自分が元から知っていたように、
家族に自慢気に話していました。

そのような番組が無い場合には、
父は頻繁にテレビのチャンネルを変え、
(酷い時には1分に1回くらいの割合)
さらに最大級のボリュームにして、
一番テレビが観やすい、
コタツを挟んだテレビの前を定位置にして、
座っていました。

多分、その配置も悪かったのだと思います。

コタツの中で家族の座る位置は、
家族の中で序列が上の者から、
テレビの観やすい場所になっていたため、
父が座る場所はテレビから1番遠く、
私が座る位置は1番テレビが観にくい、
テレビに近い真横の辺りでした。

その頃には私は自分が、
ASD(自閉症スペクトラム)とは知らず、
母親からでさえ、


と見放されていたために、
どんなに私が大きな音が苦手で、
父の設定するテレビの大きなボリュームや、
頻繁に変えられるテレビの刺激が嫌で、
神経を掻き回される感じがして、
頭を掻きむしりたいくらいに、
苛々したとしても、
その苛々を父の前で出すことも出来ず、
ただ黙って歯を食いしばり、
苛々を少しでも発散するために、
涙を流すことしか出来ませんでした。

そんな私の無言の訴えは、
父からは反抗的な子供だと思われ、
母や兄からは、

「これくらいのことで泣いて父親の機嫌を悪くするな!!」

と怒られるだけで、
誰もなんで私が泣くほど辛いのか、
理解しようとしてくれる人はいませんでした。

そのため私は、
居間で父と一緒にテレビを観る時間は、
苦行のように辛かったのですが、
父のご機嫌を取るために、
ただひたすら耐え続けていました。

けれど、ある時、
兄がこの苦行から1人抜け出したのです。

兄の部屋には、

「長男でいずれこの家を継いでいく人間だから」

という理由で、
家を建てた時に兄専用のテレビが設置されていました。

だから兄は、
観たいテレビ番組があるのなら、
無理して居間で父に付き合わず、
自分の部屋に戻れば良かったのです。

今まで兄がそれをしなかったのは、
おそらく兄が、
父親の機嫌を伺っていたからでした。

けれど年齢と共に父親の体力が落ち、
(兄は父が35歳の時に出来た子供でした)
逆に自分の体力が上がってきた兄は、
父親の横暴な態度に、
対抗できるだけの力がついてきたと、
思ったのだと思います。

兄は父が帰ってきても、
食事を取る時に一緒にいるだけで、
食事が終わると自分の部屋に、
サッサと引き上げるようになりました。

父はそんな兄の姿を見て、

「おぅ、部屋に行け、せいせいする!」

などと気にしていないように、
憎まれ口をたたきましたが、
兄が部屋に行ってしまうと、
寂しそうに座り込んでいました。

父は兄が大好きでした。

父は私が幼い頃、

「男の遊びについて来れない女の子は邪魔」

だと言っては、
私は母が父にお願いして初めて、
父と兄の遊びに連れていってもらえていました。

そんな私にとって父の愛情は、
どんなに欲しても手に入らないものでしたが、
生まれた時から当たり前に、
父の愛情を受けて育ってきた兄は、
父の愛にそれほどの価値を、
見出していなかったのかもしれません。

それとも兄は、
父にそんな態度を取っても嫌われることは無いと、
知っていたのかもしれません。

とにかく兄の態度は、
父に対して、
日増しに邪険になっていきました。

兄に構って欲しくて、
一生懸命に話しかける父に、
にべもない態度をとって、
父の目の前から去る兄は、
その後に残された父が、
どんなに寂しそうにしていたか、
知る由もなかったでしょう。

でも、父が怒り出すのが怖くて。
未だに父に逆らうことが出来なかった私は。

会いたかった兄に立ち去られて、
寂しそうに座り込んでいる父の姿を、
目の前で見ていました。

そんな父の姿を見ていると。

愛されたいと思う相手から、
愛されない辛さを、
散々幼少期から体験してきた私は。

父の煩さから離れて、
部屋に引き上げる兄を、
羨ましいと思いながらも。

父と一緒にいることが、
過去に父から受けたマルトリートメントと、
ASDの特性のせいで、
心も体も緊張して涙を流すほど辛いのに、
父の悲しい気持ちに共感してしまい、
父の悲しい気持ちを、
少しでも紛らわしてあげたいと、
自分の心と体が保つギリギリで、
父のそばにいるように心がけたのでした。