マルトリートメントと私61.病気を望んだ結果 | ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

ASD【自閉症スペクトラム】女係長 鹿島じゅんの日常生活はサバイバル!

25年以上1つの会社に健常者として勤務し、係長として人の上に立つようになった私が、
どのようにASD(自閉症スペクトラム)の特性と折り合いをつけて生活しているか、
その方法をお伝えしていきたいと思います。

私がなぜ、自分の生育歴を振り返るようになったのかは、

マルトリートメントと私1.私の1番古い記憶

をご覧ください。

 
幼少期のまでの記事はこちら。
小学生までの記事はこちら。
中学生時代の記事はこちら。

※自分の記憶に基づいて書いているため、

事実と違っている可能性があります。
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生まれた時に父親から、


と言われ、

兄からは、


と言われ、

母からは、


と言われた私は、
家族に愛してもらうことは、
とっくに諦めていましたが、
それは決して、
家族に愛されなくても構わないと、
思っている訳ではありませんでした。

「どんなに願っても手に入らないなら、
最初から欲しがらないようにしよう」

という自己防衛の気持ちから、
家族から愛されなくても平気だと、
うそぶいていたのです。

だから、私は無意識のうちに、
いつも家族の愛情をもらえる機会を、
探していたのかもしれません。

そんな私はある時、
母から夕方、
家で1人で留守番をしているように、
仰せつかりました。

何でも成長期によく発症する、
膝の軟骨が炎症を起こす病気を、
兄が発症したけれど、
田舎に住んでいて、
近所に整形外科が無いため、
母が学校終わりの兄を車に乗せて、
車で50分ほどの距離にある、
整形外科まで連れて行ってくる、
ということでした。

その日、私は、
母と兄が帰ってきた夜の8時位まで、
1人で家でぽつんと過ごしていました。

私は1人で過ごすのは好きでしたが、
私の心を寂しくしていたのは、

心配されて親に構われている兄と、
1人放って置かれている自分

という、
過去に何度も経験していた構図でした。

「私も同じ病気になったら、母はあんなに心配してくれるだろうか?」

私は兄と同じ状況になったら、
兄と同じように母に構ってもらえると、
思える自信がありませんでした。

毎週1回、隣の市の整形外科に通い、
夜に2人で買い物をして帰ってくる姿を、
私は羨ましく見ていました。

そんな私の気持ちが、
私の体に働きかけたのでしょうか?

しばらくすると私は、
兄と同じような膝の痛みを感じるようになり、
膝を曲げることが出来なくなりました。

私は痛くて膝が曲げられなくて辛いのに、
これで夜に1人で、
楽しそうに病院から帰ってくる、
母と兄を迎えなくていいのだと、
自分も一緒に病院に連れていってもらって、
隣の市の大きいスーパーで一緒に夕飯の買い物をして、
一緒に帰ってくることが出来るのだと、
どこか嬉しい気持ちで、
母に自分も膝が痛いことを訴えました。

私の言葉を聞いた母は、

「お前もか」

と言いました。

その言い方が心配している風でなく、
少し怒ったような、
面倒な感じに聞こえたため、
私は少し怯んだものの、

「私も病院に連れていって欲しい」

と訴えました。

母はあまり乗り気ではない様子でしたが、
次の週に兄を通院に連れて行く時に、
私も一緒に受診させてくれました。

整形外科の先生は、
レントゲンなどを撮ることもなく、
ただ私の膝の外観を見ただけで、

「お兄さんより酷くないから放っておいていい」

と言い、
母はそれ以降、
私を病院に連れて行ってくれることはありませんでした。

私はその後もずっと、
膝の痛みを我慢しながら過ごすことになり、
いつしか痛みは治ったものの、
その時に膝から飛び出た軟骨は、
そのまま固まってしまい、
私は正座をするたびに、
飛び出た両膝の軟骨が、
畳や床にぶつかって、
ゴリゴリと音を立てるようになりました。

結局、母に心配されたくて、
望んでかかった病気でしたが、
特に母に心配されることはなく、
母や兄からは、

「お前はお兄ちゃん(兄の場合はオレ)より症状が軽いんだから」

と逆に言われるようになったため、
自分も膝が痛かったけれど、
それすらも言葉に出来ないようになり、
私はまた1つ、
我慢しなければいけない事項を、
増やしただけの結果に終わったのでした。