頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

個人的な話で恐縮だが、本日(4/27)私の誕生日である。

毎年、この日(4/27)になると、「4月27日」に因んだ雑多な話などを書いたりしているが、

今年(2024年)も、「誕生日」に際して思う事などを、「徒然なるままに」(?)書いてみる事としたい。

という事で、今回は私の「雑談」に、しばしお付き合い頂ければ幸いである。

 

 

<映画評論家・淀川長治が語っていた、「誕生日」の意味とは…?>

 

 

かつて、テレビ朝日の「日曜洋画劇場」で、長い間、映画解説を行なっていた、

映画評論家・淀川長治は、「誕生日」について、黒柳徹子に、こんな事を言っていたそうである。

「誕生日というのは、自分を生んでくれて有り難う…って、お母さんに感謝する日なんだよ…」

淀川長治の、その言葉を聞いて、黒柳徹子はハッとしたそうだが、私としても、

「なるほど、『誕生日』とは、そういう意味合いが有るのか…」

と、目から鱗が落ちる思いがした。

私は、3年前に父親は亡くなってしまったが、お陰様でというか、母親はまだまだ元気である。

という事で、まずはこの場を借りて、私の母に、

「生んでくれて、有り難う」

という事を伝えたい。

なお、これは「余談」だが、私はかなりの「早産」で、本来の予定日よりも1ヶ月ぐらい早く生まれてしまったそうである。

「あんたは、生まれた時から『せっかち』だった」

と、以前、よく母に言われていた。

というわけで、本来の私の誕生日は、1ヶ月ぐらい遅かったかもしれないが、どうやら「せっかち」だった私(?)は、この日(4/27)に生まれた。

それにしても、そんな「早産」だったのに、母はよく私を無事に生んでくれたものである。

 

<「誕生日パーティー」について…>

 

 

子供の頃、小学生の頃は、私が住んでいた地域では、近所の友達同士で、

「誕生日パーティー」

を、よく開いては、お互いに、その子の家に遊びに行ったりしていた。

私も、毎年、この日(4/27)になると、我が家で「誕生日パーティー」を開き、そんなに広くもない我が家に、お陰様でというか、友達が沢山来てくれたものである。

今にして思えば、大変有り難いが、何しろ子供なので、「誕生日パーティー」で、ケーキを食べたりすると、後はみんなで外に遊びに行ったりしてしまっていたが、私のために「誕生日パーティー」を開いてくれていた、私の母親や、私のために集まってくれていた友達にも、今更ながら、感謝申し上げる次第である。

ところで、大人になって、年齢を重ねてしまうと、

「今更、誕生日っていっても…。また一つ、歳を取るだけだから」

と、言っているような人も居るが(※私の職場でも、そういう人は居る)、

先程、申し上げた通り、年齢を重ねるという事よりも、まずは無事に生んでくれた母親に感謝した方が良いのではないだろうか…。

 

<「野球」について…>

 

 

最近でこそ、このブログは、結構ありとあらゆるテーマで書いてしまっているが、

一応、このブログは、

「野球ブログ」

である。

私が、子供の頃から今に至るまで、結局のところ、人生で一番長く続いている「趣味」は、

「野球観戦」

という事になる。

私の家系は、「野球好き」が多く、九州・長崎県在住の私の母方の祖父は、筋金入りの西鉄ライオンズ(※現・埼玉西武ライオンズファンだったし、私の父も、毎晩、テレビで野球中継を見ているような人だった。

ちなみに、当時のテレビは、毎日、「巨人戦」ばかり放送していたが、父は毎晩、「巨人戦」を見ているにも関わらず、

「アンチ巨人」

であった。

「そんなに巨人が嫌いなのに、何で、毎晩、巨人戦をテレビで見ているのか」

と、私は父に聞いた事が有ったが、

「俺は、巨人が負ける所が見たいんだ」

と、父は答えていた。

まあ、当時は、そもそもテレビの野球中継といえば、ほぼ「巨人戦」しか放送していなかったし、他に選択肢も無かったのかもしれないが、それにしても、私の父親と来たら、巨人が負けそうな展開になると、嬉々として「巨人戦」を見ていたし、巨人が逆転したり、リードしたりすると、つまらなそうに、チャンネルを消したり、テレビを消したりしていた。

「親父は、そんなに巨人が負ける所が見たいのか…」

と、私は呆れてしまった(?)が、それはそれとして、父はテレビの「野球観戦」を、何だかんだ言って楽しんでいたようである。

という事で、父が応援していたのは、必ず、

「巨人の対戦相手」

だった。

だが、当時は巨人ファンも勿論、沢山居たが、もしかしたら、そんな風に、

「巨人が負ける事をひたすら願う、アンチ巨人」

も、沢山居たと思われる。

 

<「巨人ファン」から「大洋ファン」への「転向」について…>

 

 

という事で、私も父親と一緒に、よくテレビで「野球中継」を見ていた影響で、

小学生の頃から、気が付けば「野球好き」になっていたが、

「アンチ巨人」

だった、父親の願いも空しく(?)、私は、

「巨人ファン」

になってしまった。

先程も述べたが、当時はテレビで「巨人戦」しかやっていなかったのだから、特に子供はテレビに「洗脳」され、

「巨人ファン」

に、ならざるを得なかったのである。

それはともかく、私もご多分に漏れず、テレビに「洗脳」され(?)、「巨人ファン」になってしまったが、

当時の「巨人戦」は大人気であり、東京ドームの「巨人戦」のチケットはなかなか取れなかったので、私は巨人のファンクラブにも入ってしまった。

 

 

 

そして、私の両親と私と弟という4人家族で、東京ドームの巨人戦には、何度か行ったものである。

「野球を見に連れて行って欲しい」

と、散々、私が親にせがんでいたから、仕方なく(?)連れて行ってくれていたのだと思われるが、やはり、テレビで見るよりも、本物の野球場で見るプロ野球は、本当に迫力が凄かった。

そして、原辰徳中畑清といった、巨人のスター選手達の活躍に胸を躍らせていたものである。

 

 

 

だが、そんな私が、1990(平成2)年、

当時の横浜大洋ホエールズ(※現・横浜DeNAベイスターズ)が快進撃を見せたのをキッカケに、

「大洋って、何か魅力的なチームだな」

と思ってしまい、私は気が付けば大洋に魅了され、

「大洋ファン」

に転向してしまった。

その辺の経緯は、今までこのブログでも何度も書いて来たので、今更くどくどとは繰り返さないが、

それ以来、30数年、私は、

「大洋ファン⇒横浜ファン」

である。

なお、「巨人ファン」から「大洋ファン」「転向」した頃、私の父からは、

「何で、大洋みたいな弱いチームなんか応援するんだ?」

と言われたが、

「巨人なんて、僕が応援しなくても勝てるけど、大洋は僕が応援してやらないと、勝てないから」

と、わかったようなわからないような答え(?)をしていたものである。

当時の私には、そんな謎の「使命感」が有ったのかもしれない。

 

<「サザンオールスターズ」について…>

 

 

さて、私がこのブログで好んで取り上げ、今や、ほぼ当ブログの「メインテーマ」になってしまっている、

「サザンオールスターズ」

についてであるが、これまた、私がこのブログで沢山書いて来た事だが、

私がサザンファンになったのは、1992(平成4)年、当時、中学生だった頃である。

この年(1992年)サザンオールスターズは、

『涙のキッス』

という曲を大ヒットさせていた、

私は、『涙のキッス』という曲が大変気に入ってしまい、この曲をキッカケに、サザンにハマった。

以来、これまた私は30年来のサザンファンであるが、当時、それまでにサザンがリリースして来た、過去の曲も全て聴きまくり、私は物凄い勢いでサザンに傾倒して行った。

一時は、私は本当に、

「寝ても覚めてもサザン」

という状態だったが、そんな私を見て、当時、私の母親は、

「大洋といい、サザンといい、あんたは本当に『凝り性』なんだから…」

と、呆れ気味に(?)言っていたものである。

まあ、それは否定出来ないところではある。

そして、まさか後年、私がこんなブログを書いて、サザンについて、あれこれ書くようになってしまうとは、当時は夢にも思わなかった。

本当に、人生とは何が起こるかわからないものである。

 

<「横浜」「鎌倉」「江ノ島」「茅ヶ崎」~憧れの(?)「神奈川県」について…>

 

 

さて、横浜大洋ホエールズ(※横浜ベイスターズ)サザンオールスターズ「共通点」は何かと言えば、それは勿論、

「横浜」

という場所に縁が深いという事である。

私は、大洋ファンになった後、今度は、これまた家族4人で、大洋の本拠地・横浜スタジアムに行っていたものだが、

その内、横浜スタジアムの周りの、

「横浜」

という場所にも魅了されて行った。

とにかく、「横浜」は見所が多すぎて、何度行っても飽きない。

「横浜」は、「東京」とは違う、独特の風情や趣が有り、そこが「横浜」の魅力であると私は思う。

 

 

 

そして、サザンファンの聖地とも言うべき、

「鎌倉」「江ノ島」「茅ヶ崎」

にも、当然のようにというか、私は魅了され、私は、

「サザンゆかりの聖地巡り」

のように、それらの場所に沢山行って来たが、それこそ、何度行ったかわからないぐらいである。

もしもサザンファンになっていなければ、

「鎌倉」「江ノ島」「茅ヶ崎」

の素晴らしさにも気付けなかったかもしれないが、そういう意味でもサザンには感謝である。

なお、私は今まで一度も、神奈川県には住んだ事はなく、上記の場所には、

「お客さん」(?)

のように、訪れる立場なのだが、却って、それだからこそ、いつ行っても新鮮な感動が有るのかもしれない。

また、これは「余談」だが、

「サザンの聖地巡り」

が、このブログで書いている、

「サザン小説」

にも、かなり反映されているが、無論、私はそんな事になるとは、全く思っていなかった。

人生、何が起こるか…(以下、省略)。

 

<「読書」と「書店」について…>

 

 

先程、私は、

「『野球』が、私の人生で、一番長く続いている趣味である」

という趣旨の事を書いたが、私は子供の頃から、

「読書」

が大好きである。

今でも、それこそ暇さえ有れば本を読んでしまっているが、

これはもう「習慣」のようになってしまっているので、恐らく、これは生涯、変わらないのではないだろうか。

なお、私は主に「歴史」に関する本が好きだが、それ以外の本も色々と読む。

私は、「読書」に関して言えば、

「雑食」

である。

そして、私が何故こんなに本が好きになったのかといえば、

「小さい頃、母親が、毎晩、私に絵本を読み聞かせてくれていた」

という事が有り、それが「原点」だった…という事は、このブログでも何度も書いている。

 

 

そして、私が最も好きな場所は、

「書店(本屋)」

である。

今でも、時間さえ有れば、必ず「書店(本屋)」には立ち寄るようにしているが、

これも、このブログではよく書いている事ではあるが、私の母親は、私が小さい頃から、私をよく「書店(本屋)」に連れて行ってくれていた。

「本屋さんに連れて行けば、大人しくなるから」

というのが、その理由(?)だったらしいが、とにかく、私は沢山の本が並んでいるのを見るだけで、嬉しくなってしまう。

昨今は、「ネット書店」が全盛で、「リアル書店」が続々と潰れてしまっているようだが、それは大変嘆かわしい。

「本なんて、買いたかったらネットですぐに買えるじゃないか」

という方も多いだろうが(※私も、便利なのでネットで本を買ったりしているが)、

「ネット書店」でばかり本を買ってしまうと、どうしても、自分が興味の有る分野にばかり偏ってしまいがちである。

だが、「書店(本屋)」に行って、売場をぐるりと周るだけで、今まで自分が全く興味が無かった分野の本が目に留まったりして、

「へー、何か面白そうだな…」

と、思わぬ発見が有ったりする。

そういう思わぬ「出逢い」は、「ネット書店」では、まず無い。

今まで、自分が全く興味が無かった分野の本と出逢い、自分の興味の幅が広がったりする事も有るし、そういう所が、「リアル書店」の醍醐味であると、私は声を大にして言いたい。

 

<「歴史」について…>

 

 

 

私が大好きな事といえば、普段からこのブログをお読み頂いている方なら、よくご存知(?)の通り、

「歴史」

である。

私は、「歴史」ほど面白い物は無いのではないか…と、本気で思っているが、

このブログでも、私は手を替え品を替え、

「〇〇の歴史」

といったテーマで、記事を書いている。

しかし、残念ながら、世の中には「歴史」が苦手というか、「歴史」に興味が無い、或いは「歴史」嫌いの人も多い。

「歴史とか、昔の出来事を知って、何が面白いの?」

「歴史なんて、全然面白くない」

という人が、私の職場にも居たりするが、そういう人の言葉を聞くと、

「こんなに面白いのに…。何とも勿体ないなあ…」

と、私は思ってしまう。

恐らく、「歴史」が嫌いという人は、よほど学校の「歴史」の授業が退屈でつまらなかったのであろう。

後は、意味もなく年号を暗記させられたりとか、そういう「負」のイメージが強すぎるのではないだろうか。

だが、これまた、私がこのブログで沢山書いて来た事だが、

「歴史とは、壮大な人間ドラマの積み重ねである」

「歴史は、大きなストーリーで捉えると、凄く面白い」

という事が、「歴史」の最大の魅力である。

まあ、そんな大袈裟な話ではないとしても、人間は誰しも、自分の人生という「歴史」を生きて来ているわけだし、皆それぞれに「歴史」を持っている。

それに、友人や恋人や家族など、自分が親しい人達との間で積み重ねて来た出来事も、その当人達が共有して来た、大切な「歴史」であろう。

そういう視点を持てば、「歴史」は一気に面白くなると、私は言っておく。

なお、「余談」だが、

「歴史なんて、面白くない」

と、私に言い放っていた、職場の同僚も、残念ながら私とあまり折り合いが良くない(?)、他の同僚との事について、

「貴方と、あの人には、色々と『歴史』が有ったからね…」

と、言っていた。

どうやら、端で見ていて、そういう事を思ったらしい。

「何だ、『歴史』の本質について、わかってるじゃん」

と、私は思ったものである…。

 

<「法政大学」について…>

 

 

そして、我が母校・法政大学について、言及しておく。

これまた、以前このブログで書いた事が有ったが、高校生の頃、私は、

「どうしても、東京六大学に行きたい」

と、思っていた。

それは何故かと言えば、当時、私は、高校生ながら、

「東京六大学野球」

に、大変関心が有った。

だから、当時の私は、

「東京六大学に入って、学生として六大学野球を体験してみたい」

と、思っていた。

勿論、それだけが志望動機でもないが、当時の私にとって、それが受験の大きなモチベーションになっていたのは確かである。

サザンを輩出した青山学院大学にも行きたいとは思っていたが、当時の私は、

「青学よりも、とにかく東京六大学に行きたい」

という気持ちの方が強かった。

 

 

なお、当時の私の第一志望は、早稲田大学だったが、

高校3年生の頃、夏休みを利用して、私は東京六大学の全てに出掛け、

「東京六大学の学校ツアー」

を行なった。

その時、初めて法政大学を訪れた私は、法政の市ヶ谷キャンパスを見た瞬間に、

「あ…。何か、この大学に入るかも…」

という、不思議な予感めいたものが有った。

そして、大学受験の結果、私は早稲田には不合格だったが、法政には拾ってもらった。

こうして、私は法政大学に入る事となり、あの「予感」は現実の物となった。

ちなみに、他の五大学については、そんな「予感」は全く無かったので、

「これも、縁というやつか…」

と、私は思ったものである。

 

 

そして、このブログのタイトルが、

「頑張れ!法政野球部」

という物になった由来であるが、これも、前々から言っている通り、

2013(平成25)年春の東京六大学野球で、法政大学明治大学が、それぞれ4カード連続で「勝ち点」を取り、

「最終カードの『法政VS明治』の直接対決で、勝ち点を取った方が優勝」

という、

「勝ち点4同士の法明V決戦」

が実現した時、私は、

「法政野球部を応援するため」

という目的で、このブログを始めてしまった。

つまり、それこそが、このブログの「誕生」のキッカケだったのである。

だから、このブログのタイトルの由来は、そのまんまというか、

「法政が明治に勝って、優勝してくれますように…」

という願いを込めて、付けたのである。

そして、当然、当時の私は、

「最後は法政が明治に勝って優勝してくれるに違いない」

という事を、信じて疑わなかった。

なお、何故「アメブロ」でブログを始めたのかといえば、

「何か、簡単に始められそうだから」

と思ったからであり、他に大した理由は無い。

 

 

だが、その結果といえば、激闘の末に残念ながら法政明治に1勝2敗1分で敗れ、優勝を逃してしまった。

当時、私は心底ガックリ来てしまったが、

「あーあ、せっかく、こんなブログまで作ったのに…」

と、私は思ったものである。

そして、それから11年が経ったが、何と、この11年間、法政は、たった2度(※2018年秋、2020年春)しか優勝していない。

つまり、このブログを始めてから、法政はすっかり弱くなってしまった…。

なので、私も法政の事を書きたくても書けないので、半ば仕方なく(?)、色々な事を書くようになったが、当初は本当に、法政野球部の事だけを書くつもりで、このブログを始めた。

そういう意味では、ある意味、法政が弱くなったから、現在のようなブログになった…という言い方も出来るかもしれない。

 

<2018(平成30)年秋…「頑張れ!法政野球部」の2度目の「誕生」?>

 

 

 

 

という事で、2013(平成25)年春に、法政は惜しくも優勝を逃してしまい、

その後、すっかり法政は弱くなり、優勝からも見放されてしまった。

私も、このブログを書くモチベーションが「ダダ下がり」してしまい、結構、長い間、このブログを「放置」していた。

しかし、2018(平成30)年秋、このブログにとって、大きな「転機」が有った。

 

・法政が6年振りに東京六大学野球で優勝

・映画『ボヘミアン・ラプソディー』が大ヒット

・サザンオールスターズがデビュー40周年⇒サザンとユーミンが「紅白」で夢の共演

 

…そう、これらの出来事が立て続けに起こり、

再び「燃料」が投下されたような形となり、私がこのブログを「再開」する気持ちが高まった。

こうして、私は念願だった法政野球部の優勝記事を書いたり、

法政野球部と、QUEEN(クイーン)の歴史を「合体」させて、

「『ボヘミアン・ラプソディ』と法政黄金時代」

なるシリーズ記事を書いたりした。

以後、このブログの「得意技」(?)となった、

「野球記事と芸能記事の合わせ技」

という手法(?)も、この時に編み出した。

そして、サザンオールスターズ「歴史」として、

「サザンオールスターズと野球界の40年」

という「大長編」のシリーズ記事を書き始め、以後、数年かけて「完結」させている。

…というわけで、2018(平成30)年秋は、このブログの、

「2度目の誕生」

だった…と言って良い。

「あの時(※2018年秋)、もしも法政が優勝してなかったら、まだまだブログも放置していたかもしれないなあ…」

と、私も思うが、

「歴史に『if』は無い」

とも言うし、それはわからない。

…という事で、取り留めの無い「雑談」にお付き合い頂いたが、

「皆様、今後とも宜しくお願い致します!!」

という事をお伝えし、今回の記事の締めくくりとさせて頂きたい。

1992(平成4)~1996(平成8)年、私が10代の中高生だった頃、

サザンオールスターズ松任谷由実(ユーミン)が、テレビドラマとのタイアップで大ヒット曲を連発し、1990年代における、サザンとユーミン(松任谷由実)の黄金時代を築いた。

そして、このブログでは、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

と題して、その頃のサザンとユーミン(松任谷由実)の活躍を描いている。

 

 

という事で、私がこれまで書いて来た、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

のシリーズは、下記の通りである。

 

①1992年『涙のキッス』と『ずっとあなたが好きだった』

②1993年『真夏の夜の夢』と『誰にも言えない』

③1993年『エロティカ・セブン』と『悪魔のKISS』

④1994年『Hello, my friend』と『君といた夏』

⑤1994~1995年『祭りのあと』と『静かなるドン』

⑥1994~1995年『春よ、来い』

⑦1994年『砂の惑星』と『私の運命』(第1部)

⑧1995年『命の花』と『私の運命』(第2部)

⑨1995年『あなただけを ~Summer Heart break~』と『いつかまた逢える』

⑩1995年『輪舞曲(ロンド)』と『たたかうお嫁さま』

⑪1996年『まちぶせ』(前編)

⑫1996年『まちぶせ』(中編)

 

…前回の記事では、かつてユーミン(荒井由実)が、1976(昭和51)年に三木聖子のために作った曲、

『まちぶせ』

が、その5年後の1981(昭和56)年、石川ひとみによって再リリースされ、石川ひとみが歌った『まちぶせ』が大ヒットした…という経緯を描いた。

というわけで、今回はその「続編」を書くが、今回の記事は、ユーミン(松任谷由実)中島みゆき、そして桑田佳祐などが、「アイドル歌謡」に対し、次々に楽曲提供した時代、

「楽曲提供で綴る、1980年代のアイドル歌謡史」

を書く。

という事で、

「1992~1996年のサザンとユーミン」の「第13回」、「1996年『まちぶせ』(中編)」を、ご覧頂こう。

 

<1981(昭和56)年7月21日…石川ひとみ、通算5枚目のオリジナル・アルバム『まちぶせ』リリース>

 

 

1981(昭和56)年、石川ひとみは、ユーミン(松任谷由実)によって楽曲提供された、

『まちぶせ』

をリリースし、この『まちぶせ』が大ヒットした事により、石川ひとみは遂に人気歌手の仲間入りを果たした。

そして、1981(昭和56)年7月21日、石川ひとみは、通算5枚目のオリジナル・アルバム、

『まちぶせ』

をリリースし、これまた大ヒットさせている。

NHKテレビ人形劇の、

『プリンプリン物語』

のヒロインを演じていた石川ひとみは、ようやく歌手としてもブレイクを果たし、充実の時を迎えていた。

ユーミン(松任谷由実)としても、責任を果たし、ホッとした心境だったと思われる。

 

<NHKで放送されていたアイドル歌謡番組「レッツゴーヤング」~1974(昭和49)年に放送開始され、キャンディーズ、ピンク・レディーなども司会を務める~デビュー当時のサザンオールスターズも出演>

 

 

 

 

さて、1970~1980年代にかけて、NHKで放送されていたアイドル歌謡番組、

「レッツゴーヤング」

を、覚えていらっしゃる事も多いと思われるが、この番組は、毎週、NHKホールで収録され、日曜日の夕方に放送されていた。

「レッツゴーヤング」

は、時のアイドルが司会を務め、毎回、人気アイドルがゲスト出演し、歌やトークや、時にはコント(?)なども披露されていた。

初期の頃は、フォーリーブス、ずうとるびなどが司会を務めていたが、1976(昭和51)年度~1977(昭和52)年前半はキャンディーズ、1978(昭和53)年度はピンク・レディーという、当時の超人気のトップアイドルも司会を務めていた。

 

 

 

そして、1978(昭和53)~1979(昭和54)年頃、デビュー当時のサザンオールスターズも、

「レッツゴーヤング」

には度々出演し、当時の人気アイドル歌手達と「共演」していた。

そう、デビュー当時のサザンは「アイドル」扱いだったのである。

この番組の映像を、今、見ていると、とにかく会場に詰め掛けた若い観客からの黄色い声援が物凄い事になっているが、

1981(昭和56)年度、「レッツゴーヤング」史上、最も大人気だった司会者コンビが誕生する。

それが、田原俊彦松田聖子である。

 

<1981(昭和56)年…田原俊彦、松田聖子、太川陽介が「レッツゴーヤング」の司会を務め、「レッツゴーヤング」は全盛期を迎える>

 

 

 

1981(昭和56)年度、

田原俊彦・松田聖子・太川陽介…という3人が、

「レッツゴーヤング」

の司会を務めたが、田原俊彦松田聖子という、当時の男女のスーパーアイドルが毎週、司会を務めるという事で、

「レッツゴーヤング」

の収録が行われる時は、NHKホールは毎回、凄まじい絶叫の嵐であった。

当時、田原俊彦松田聖子は、「グリコ アーモンドチョコレート」のCMでも共演するなど、なかなか良い感じの雰囲気(?)と思われたが、

それだけに、田原俊彦ファンの女性ファンからの松田聖子に対する「嫉妬」も物凄かったようである。

「トシちゃんに、くっつかないでよ!!」

と、松田聖子に対する「やっかみ」の声も大きかったようだが、当の聖子は、(少なくとも表面上は)常に平然としており、いつもニコニコしていた。

やはり、松田聖子は流石はスーパーアイドルといったところだが、スーパーアイドルになる人は、度胸が有るというか、肝が据わっている。

 

<1980(昭和55)~1981(昭和56)年の松田聖子の楽曲>

 

 

 

 

 

 

さて、1980(昭和55)~1981(昭和56)年にかけて、松田聖子がリリースした、デビュー曲『裸足の季節』から、5枚目のシングル『夏の扉』までの、5枚のシングルについて、作詞・作曲した人は誰なのかを、以下、列挙しておく事とする。

 

【1980(昭和55)~1981(昭和56)年の松田聖子の楽曲】

①『裸足の季節』(作詞:三浦徳子、作曲:小田裕一郎)

②『青い珊瑚礁』(作詞:三浦徳子、作曲:小田裕一郎)

③『風は秋色』(作詞:三浦徳子、作曲:小田裕一郎)

④『チェリーブラッサム』(作詞:三浦徳子、作曲:財津和夫)

⑤『夏の扉』(作詞:三浦徳子、作曲:財津和夫)

 

…という事であるが、上記5枚のシングルの全ての作詞を、三浦徳子が担当し、

『裸足の季節』『青い珊瑚礁』『風は秋色』の作曲は小田裕一郎が、

『チェリーブラッサム』『夏の扉』の作曲は財津和夫が、それぞれ担当した。

これらの作家陣が、松田聖子のために優れた楽曲を生み出し、

その曲を松田聖子が、実にノビノビと歌いこなしていた。

「スーパーアイドル・松田聖子」

が誕生した要因としては、まず、出す曲出す曲、全てが素晴らしかったからという事と、

松田聖子という唯一無二の存在感を持った歌手が、その優れた楽曲を100%以上の表現力で歌った…という事が挙げられうよう。

そして、1982(昭和57)年、既にスーパーアイドルとなっていた松田聖子陣営に、いよいよ、松本隆ユーミン(松任谷由実)が加わる事となった。

 

<1982(昭和57)年1月21日…松田聖子、通算8枚目のシングル『赤いスイートピー』リリース~ユーミン(松任谷由実)が「呉田軽穂」のペンネームで松田聖子陣営に加わり、「作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂」のゴールデン・コンビが誕生~『赤いスイートピー』はオリコン「1位」の大ヒット>

 

 

 

 

前回の記事でも書いたが、ユーミン(松任谷由実)は当初、

「アイドル歌手」

という存在が好きではなかった…というより、どちらかと言えば、「敵視」していたという。

だが、ユーミン(松任谷由実)は、三木聖子のために書いた、

『まちぶせ』

が不発に終わった後、その5年後に石川ひとみが、この曲を大ヒットさせた…という経緯を経て、

「アイドルの曲だからって、舐めたらいけない。やるなら、本気で徹底的にやってやろう」

と決意し、それまでとは考え方を変えたという。

そして、そんなユーミン(松任谷由実)に対し、遂に、松田聖子「新曲」を書いて欲しい…というオファーが来た。

ユーミン(松任谷由実)は、そのオファーを引き受け、かつてのハリウッド映画の大女優、グレタ・ガルボの名前をもじって、

「呉田軽穂」

というペンネームを名乗り、他の歌手に楽曲を提供する時は、この名前を名乗る事となった。

また、呉田軽穂ことユーミン(松任谷由実)と共に、松本隆も、松田聖子の作家陣へと加わる事となった。

 

 

 

 

そして、1982(昭和57)年1月21日、松田聖子の通算8枚目のシングルとしてリリースされたのが、

『赤いスイートピー』

である。

この曲は、松本隆が作詞し、呉田軽穂ことユーミン(松任谷由実)が作曲を手掛け、ここに、

「作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂」

のゴールデン・コンビが誕生した。

遂に「最強タッグ」が誕生したが、当時、「聖子ちゃんカット」が大人気となっていた松田聖子は、

『赤いスイートピー』

のリリース後に、髪をバッサリと切り、これも大きな話題となった。

そして、松田聖子は既にスーパーアイドルとして大人気だったが、『赤いスイートピー』をキッカケに、女性ファンも更に増えて行った。

 

 

 

『赤いスイートピー』

は、いかにも松本隆らしい、

「春色の汽車に乗って 海に連れて行ってよ…」

という、何処か抽象的で不思議な歌詞で始まるが、

流石はユーミン(松任谷由実)が作った曲というべきか、曲の始まりから終わりまで、とにかく隙が無いというか、本当に非の打ちどころの無い名曲である。

そして、『赤いスイートピー』も、当然の如く、オリコン「1位」の大ヒットとなり、スーパースター・松田聖子の名声は、更に不動の物となった。

 

<1982(昭和57)年…石川ひとみが「レッツゴーヤング」の司会に就任~太川陽介&石川ひとみの「名コンビ」が誕生>

 

 

 

1982(昭和57)年、田原俊彦松田聖子の「後任」として、石川ひとみが、

「レッツゴーヤング」

の司会に就任した。

そして、太川陽介石川ひとみは「名コンビ」として、

「レッツゴーヤング」

の司会を、1985(昭和60)年まで務めたが、司会は「卒業」しても、松田聖子は「レッツゴーヤング」に、度々、ゲストとして出演する事となった。

そして、1980年代は「アイドル歌謡全盛時代」だったが、「レッツゴーヤング」も、華やかなアイドル達が共演し、視聴者を楽しませた。

当時、民放の「夜ヒット」や「ザ・ベストテン」と共に、NHKの「レッツゴーヤング」を楽しみに見ていた人達も多かった筈である。

 

<1982(昭和57)~1984(昭和59)年…「作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂、唄:松田聖子」のゴールデン・チームが、次々に「名曲」を生み出す>

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、1982(昭57)~1984(昭和59)年にかけて、

「作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂、唄:松田聖子」

というゴールデン・チームは、「名曲」を次々と世に送り出し、そして、いずれの曲も大ヒットさせた。

以下、それらの楽曲を、ご紹介させて頂く。

 

【1982(昭和57)~1984(昭和59)年の「作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂、唄:松田聖子」の楽曲】

・『赤いスイートピー』(作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂)

・『小麦色のマーメイド』(作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂)

・『秘密の花園』(作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂)

・『Rock'n Rouge(ロックン・ルージュ)』(作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂)

・『瞳はダイアモンド』(作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂)

・『時間の国のアリス』(作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂)

 

 

…という事であるが、いずれも、素晴らしい曲ばかりである。

後年、松本隆は、こんな事を言っている。

「僕は、よくユーミン(松任谷由実)の事を『戦友』っていうけど、間違い無く、聖子さんも『戦友』だった。新曲を次から次に書かなければいけないというプレッシャーは有ったけど、聖子さんは、必ず、期待以上の歌を歌ってくれた。聖子さんは、本当に凄い歌手だった…」

そして、ユーミン(松任谷由実)も、松田聖子に関して、下記のコメントを残している。

「聖子さんの曲を作る事が出来て、私はとても光栄だった。聖子さんの活動に携われて本当に良かった…」

松田聖子は、そんな2人の言葉を聞き、感無量の表情であった。

という事で、松田聖子という最高の歌手のために、松本隆ユーミン(松任谷由実)が、最高の曲を作り続けたという、素晴らしい時代が確かに有った。

 

<もう一人のスーパーアイドル・中森明菜の躍進~「松田聖子VS中森明菜」の時代>

 

 

さて、1982(昭和57)年、松本隆と、呉田軽穂ことユーミン(松任谷由実)が、松田聖子の作家陣に加わり、以後、名曲を量産して行った…という事は、前述の通りだが、

1982(昭和57)年といえば、中森明菜が彗星の如く登場した年でもある。

そして、中森明菜も、次々に大ヒット曲を連発して行き、忽ち、トップアイドルとなった。

当時は、松田聖子中森明菜が人気を二分し、

「聖子派か、明菜派か」

…といった事が、ファン達の間で「論争」となるほどだった。

という事で、ここで中森明菜の事も詳しく語って行きたい所だが、残念ながら(?)スペースの都合上、それはまたの機会に…という事にさせて頂くとして、ここでは、1982(昭和57)~1986(昭和61)年の中森明菜の楽曲と、作家陣をご紹介させて頂く。

 

 

【1982(昭和57)~1986(昭和61)年の中森明菜の楽曲】

・『スローモーション』(作詞:来生えつこ、作曲:来生たかお)

・『少女A』(作詞:売野雅勇、作曲:芹澤廣明)

・『セカンド・ラブ』(作詞:来生えつこ、作曲:来生たかお)

・『1/2の神話』(作詞:売野雅勇、作曲:大沢誉志幸)

・『トワイライト -夕暮れ便り-』(作詞:来生えつこ、作曲:来生たかお)

・『禁区』(作詞:売野雅勇、作曲:細野晴臣)

・『北ウイング』(作詞:康珍化、作曲:林哲司)

・『サザン・ウインド』(作詞:来生えつこ、作曲:玉置浩二)

・『十戒』(作詞:売野雅勇、作曲:高中正義)

・『飾りじゃないのよ涙は』(作詞・作曲:井上陽水)

・『ミ・アモーレ』(作詞:康珍化、作曲:松岡直也)

・『SAND BEIGE -砂漠へ-』(作詞:許瑛子、作曲:都志見隆)

・『SOLITUDE』(作詞:湯川れい子、作曲:タケカワユキヒデ)

・『DESIRE -情熱-』(作詞:阿木燿子、作曲:鈴木キサブロー)

 

 

 

…という事であるが、中森明菜の楽曲も「名曲」揃いである。

そして、中森明菜のために曲を作っているのも、超豪華な作家陣であるが、

「中森明菜のために」

という事で、毎回、様々な趣向を凝らし、作家陣が素晴らしい曲を作っていた。

そして、中森明菜という歌手は、それを抜群の歌唱力と表現力で歌い、素晴らしい名曲の数々が生まれて行った。

 

 

なお、これは「余談」だが、私は子供心に、

「松田聖子って、可愛くて歌が上手いな…」

と思っており、それ以来、ずっと松田聖子ファン(?)だったが、近年、熱狂的な中森明菜ファンの人と知り合い、その人の影響で、改めて中森明菜の魅力に気付いた(?)という経緯が有る。

私は、今では、松田聖子も中森明菜も、どちらも大好きな歌手である。

そして、

「松田聖子VS中森明菜」

という対比が、よく語られ、兎角この2人はライバル同士として見做される事が多いが、聖子と明菜は、お互いをリスペクトし合っており、共に実力を認め合っているという。

という事で、1980年代の日本の歌謡界は、松田聖子中森明菜という、2人のスーパーアイドルが牽引した時代でもあった。

 

<1980年代~「作家」としての中島みゆきの活躍>

 

 

 

さて、1980年代の「呉田軽穂」ことユーミン(松任谷由実)の活躍ぶりについて、述べて来たが、

ユーミン(松任谷由実)のライバル、中島みゆきも負けてはいない。

1980年代に入り、中島みゆきは、

『ひとり上手』(1980)、『悪女』(1981)

…といった曲を大ヒットさせたが、中島みゆきの曲というのは、

「中島みゆきという人が、原作、脚本、主演を全て務める映画のようである」

と、私は思う。

とにかく、中島みゆきは、僅か数分の曲で、見事に「世界観」を構築してしまう。

そういう意味では、中島みゆきは「作家」のような歌手であり、こんな歌手は他には誰にも居ない…と、私は思っている。

 

 

 

 

中島みゆきは、「作家」として、他の歌手にも、素晴らしい楽曲を提供し続けていたが、

・『しあわせ芝居』(1977・桜田淳子)

・『すずめ』(1981・増田けい子)

・『春なのに』(1983・柏原芳恵)

…といった曲は、特に素晴らしい。

中島みゆきが作った曲を歌うと、その歌手は輝きを増す…という事を、桜田淳子・増田けい子・柏原芳恵…といった歌手達は証明していると言えよう。

桜田淳子は、『しあわせ芝居』で、改めて歌手としての存在感を示し、

ピンク・レディー解散後、ソロ歌手となった増田けい子は、『すずめ』で新境地を開いた。

柏原芳恵も、『春なのに』の大ヒットで、トップ・アイドルの仲間入りを果たした…。

このように、中島みゆきも、「作家」として、良い仕事を果たしたが、その中島みゆきが、工藤静香という歌い手と出逢うのは、もう少し後の事である。

 

<「歌手」としての薬師丸ひろ子~「呉田軽穂」ことユーミン(松任谷由実)も、『Woman "Wの悲劇"より』で、薬師丸ひろ子に楽曲提供>

 

 

さて、続いてご紹介させて頂くのは、薬師丸ひろ子である。

1980年代といえば、沢山の女性アイドル歌手が活躍していたが、その中で、私が何故、薬師丸ひろ子を「歌手」として紹介するのかと言えば、薬師丸ひろ子は、単純に私の好みのタイプ(?)だからである。

…まあ、冗談はさておき(?)として、薬師丸ひろ子は、角川映画の主演女優として活躍し、テレビにはあまり出なかった。

そして、「映画スター」として、独特の存在感を発揮した薬師丸ひろ子は、自らの主演映画とのタイアップで、

 

・1981年『セーラー服と機関銃』(作詞:来生えつこ、作曲:来生たかお)

・1983年『探偵物語』(作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一)

 

…といった大ヒット曲を出した。

どちらも素晴らしい曲だが、私は特に『探偵物語』が大好きである。

薬師丸ひろ子は、とても素直な歌い方をする人だが、その薬師丸ひろ子の歌声と、切ない歌詞と曲が、とてもよく合っている。

松本隆・大瀧詠一という、「はっぴいえんど」以来の盟友が、とても素晴らしい曲を作り、その名曲を薬師丸ひろ子という歌手が、あまり小細工もせず、素直に歌っている。

それが、とても良いのである。

 

 

そして、1984(昭和59)年、既に松田聖子のために、次々に名曲を作っていた、

「作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂」

のゴールデン・コンビが、今度は薬師丸ひろ子のために、

『Woman "Wの悲劇"より』

という名曲を作った。

これまた、薬師丸ひろ子が主演した、角川映画とのタイアップで、大ヒットした。

という事で、1980年代は、

「音楽作りの職人達」

が、腕によりをかけて、当時のアイドル歌手達に素晴らしい名曲の数々を提供し、それをアイドル歌手達が歌い、次々に大ヒットさせていたという、

「アイドル歌謡の黄金時代」

であった。

 

<1980年代~桑田佳祐の、他アーティストへの楽曲提供>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、この稿の最後に、1980年代に、サザンオールスターズ桑田佳祐が作詞・作曲し、他アーティストに提供された楽曲のついて、ご紹介させて頂く。

なお、サザンの原由子が、サザンのアルバム収録曲として先に歌い、後に他の歌手に提供されたのが、

『私はピアノ』『そんなヒロシに騙されて』『シャボン』

…といった曲である。

 

【1980年代の桑田佳祐の他アーティストへの主な楽曲提供一覧】

・1980年『私はピアノ』(高田みづえ)

・1981年『狂い咲きフライデイ・ナイト』(タモリ)

・1982年『夏をあきらめて』(研ナオコ)

・1982年『恋人も濡れる街角』(中村雅俊)

・1982年『六本木のベンちゃん』(小林克也とザ・ナンバーワン・バンド)

・1983年『そんなヒロシに騙されて』(高田みづえ)

・1983年『アミダばばあの唄』(アミダばばあ(明石家さんま)&タケちゃんマン(ビートたけし))

・1984年『シャボン』(長山洋子)

 

(つづく)

1992(平成4)~1996(平成8)年、私が10代で中高生だった頃、

サザンオールスターズ松任谷由実(ユーミン)は、テレビドラマとのタイアップで大ヒット曲を連発していた。

そんなサザンとユーミン(松任谷由実)の、1990年代の黄金時代にスポットを当てた、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

のシリーズを、断続的に「連載中」である。

 

 

という事で、まずは、これまでに書いて来た、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

のシリーズは、下記の通りである。

 

①1992年『涙のキッス』と『ずっとあなたが好きだった』

②1993年『真夏の夜の夢』と『誰にも言えない』

③1993年『エロティカ・セブン』と『悪魔のKISS』

④1994年『Hello, my friend』と『君といた夏』

⑤1994~1995年『祭りのあと』と『静かなるドン』

⑥1994~1995年『春よ、来い』

⑦1994年『砂の惑星』と『私の運命』(第1部)

⑧1995年『命の花』と『私の運命』(第2部)

⑨1995年『あなただけを ~Summer Heart break~』と『いつかまた逢える』

⑩1995年『輪舞曲(ロンド)』と『たたかうお嫁さま』

⑪1996年『まちぶせ』(前編)

 

 

…というわけで、現在、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

は、「最終章」である「1996年編」に入っているが、

1996(平成8)年、ユーミン(松任谷由実)は、かつて、別の歌手に提供した、

『まちぶせ』

をセルフカバーして、大ヒットさせている。

ユーミン(荒井由実)が、その『まちぶせ』を初めて提供した歌手というのは、1976(昭和51)年の三木聖子だったが、三木聖子が歌った『まちぶせ』は、残念ながら、あまりヒットしなかった。

だが、その5年後の1981(昭和56)年、『まちぶせ』は改めて石川ひとみに提供され、これが大ヒットする事となった。

そして、『まちぶせ』の大ヒットを機に、ユーミン(松任谷由実)は、あるスーパーアイドルに曲を提供し、

「作曲家:ユーミン」

としての名声も確立して行く事となった。

という事で、「作家」としてのユーミン(松任谷由実)の活躍にスポットを当てる、

「1992~1996年のサザンとユーミン」の「第12回」、「1996年『まちぶせ』(中編)」を、ご覧頂こう。

 

<歌手として10枚のシングルをリリースするも、ヒット曲を出せなかった石川ひとみ>

 

 

石川ひとみは、1959(昭和34)年9月20日、愛知県に生まれた。

1976(昭和51)年、高校2年生の頃、ナベプロの新人歌手オーディションを受け、合格した石川ひとみは、

その後、フジテレビのオーディション番組、

「君こそスターだ!」

で、7週連続で勝ち抜き、チャンピオンの座を手にした。

その後、1978(昭和53)年3月に状況した石川ひとみは、ナベプロの新人歌手寮に入った。

この時、石川ひとみと同期で入寮したのが、桑江知子・松原みきらであった。

そして、1978(昭和53)年5月25日、石川ひとみは、

『右向け右』

というシングルで、デビューしたが、この曲は残念ながらヒットはしなかった。

その後、1978(昭和53)~1981(昭和56)年にかけて、石川ひとみは計10枚のシングルをリリースしたが、いずれもヒットには結び付かず、歌手としては停滞していた。

だが、そんな彼女に、思わぬ「転機」が訪れた。

 

<1979(昭和54)~1982(昭和57)年…NHKの連続テレビ人形劇『プリンプリン物語』で「ヒロイン」の声優を務め、大人気となった石川ひとみ>

 

 

 

 

1979(昭和54)~1982(昭和57)年にかけて、

NHKで放送された、連続テレビ人形劇、

『プリンプリン物語』

で、石川ひとみは、「ヒロイン」のプリンセス、「プリンプリン」の役を演じたが、

『プリンプリン物語』

は大人気となった。

そして、「プリンプリン」のヒロインとして、石川ひとみは、特に子供達の間で有名になった。

こうして、歌手としては停滞していた石川ひとみは、思わぬ形で人気を得る事となった。なお、

『プリンプリン物語』

とは、プリンセスの「プリンプリン」が、見知らぬ祖国と両親を探して旅をする物語であるが、

「プリンプリン」のボーイフレンド、「ボンボン」の役を演じた神谷明は、言うまでもなく、後に、

『キン肉マン』『北斗の拳』『シティーハンター』

などのアニメで主役を務め、声優界のスーパースターとなった人である。

そして、「プリンプリン」の旅の仲間の一人、「カセイジン」の役を演じた堀絢子は、後に、

『忍者ハットリ君』

で、主役のハットリ君の役を務めるなど、これまた声優界のレジェンドに一人である。

石川ひとみは、こういった凄い面々を従えて(?)、堂々と「主役」を演じていた。

そして、遂に「歌手」として、石川ひとみは大ヒット曲を飛ばす事となった。

 

<1981(昭和56)年4月21日…石川ひとみ、通算11枚目のシングル『まちぶせ』(作詞・作曲:荒井由実)リリース~『まちぶせ』は大ヒットし、遂に石川ひとみは「歌手」として大ブレイク!!>

 

 

1981(昭和56)年4月21日、石川ひとみは、通算11枚目のシングル、

『まちぶせ』

をリリースした。

この曲は、5年前の1976(昭和51)年に、ユーミン(荒井由実)が作詞・作曲し、三木聖子に提供されたが、

残念ながら、三木聖子が歌った『まちぶせ』はヒットはしなかった。

それから5年後の1981(昭和56)年、『まちぶせ』石川ひとみに提供され、5年振りに「再リリース」された。

ユーミン(松任谷由実)としても、

「アイドルの事なんて嫌いだったけど、『まちぶせ』があまり売れなかったので、闘志に火が付いた」

という面は有り、期する物は有ったと思われる。

そして、勿論、それは石川ひとみとて、同じであった。

 

 

「石川ひとみって、可愛いし、歌も上手いのに、何で歌手としては売れないんだろう…」

当時、石川ひとみのファンは皆、そう思っていた筈である。

『プリンプリン物語』

で、ようやく知名度を上げた石川ひとみも、

「歌手として、ヒット曲を出したい」

という、強い思いが有った。

そして、彼女は、こう思っていたという。

「もしも、『まちぶせ』が売れなかったら、歌手としての活動は諦める」

それだけ、石川ひとみにも期する物が有り、まさに「背水の陣」で臨んでいた。

そして、ユーミン(松任谷由実)と石川ひとみの熱い思いが通じたのか、

『まちぶせ』は大ヒットを記録し、遂に石川ひとみは歌手として大ブレイクを果たした。

 

 

 

 

 

石川ひとみの通算11枚目のシングル、

『まちぶせ』

は、楽曲としても大変素晴らしかったが、素直にノビノビと歌った石川ひとみの歌声ともよく合っていた。

『まちぶせ』は、リリース当初は、それほど売れていなかったが、夏場にかけてジワジワとヒットチャートを上昇し、

1981(昭和56)年8月3日付の「オリコン」で「9位」にランクインすると、その後、TBS「ザ・ベストテン」でも最高「3位」にまで上昇する大ヒットを記録している。

「ザ・ベストテン」では、石川ひとみは、司会の黒柳徹子や、特別ゲスト(?)のタモリに、『まちぶせ』の大ヒットをお祝いされる一幕も有ったが、その後も『まちぶせ』は売れ続け、この年(1981年)いっぱい、ヒットチャートの上位に留まり続けた。

当時のアイドル歌手は、2~3ヶ月に1枚のペースで「新曲」をリリースしていたが、

石川ひとみの『まちぶせ』は、アイドル歌手の曲としては、異例のロング・セラーとなったのである。

 

 

1981(昭和56)年12月31日、

「第32回NHK紅白歌合戦」

に、石川ひとみは、

『まちぶせ』

を引っ提げ、念願の「紅白」初出場を果たした。

こうして、長い「下積み」を経て、石川ひとみは当時22歳にして、「紅白」出場歌手の仲間入りを果たしたが、

『まちぶせ』を作ったユーミン(松任谷由実)としても、感慨深い物が有ったに違いない。

 

<中島みゆき、研ナオコの『あばよ』(1976年)で「作家」として大ヒットを飛ばす>

 

 

さて、紆余曲折を経て、ユーミン(松任谷由実)が、石川ひとみに提供した、

『まちぶせ』

を大ヒットさせた経緯について書いたが、ユーミン(松任谷由実)のライバル、中島みゆきは、1976(昭和51)年に、

『時代』

を大ヒットさせていた頃、研ナオコに楽曲提供し、中島みゆき「作家」として大ヒットを飛ばしていた。

1976(昭和51)年3月25日、中島みゆきが作詞・作曲し、研ナオコが歌った、

『LA-LA-LA』

がリリースされたが、この曲はオリコン最高「12位」という、スマッシュ・ヒットを記録している。

研ナオコは、『LA-LA-LA』で、同年(1976年)の「紅白」初出場を果たした。

 

 

1976(昭和51)年9月25日、中島みゆきが作詞・作曲し、研ナオコが歌った、

『あばよ』

がリリースされたが、この曲はオリコン「1位」の大ヒットを記録した。

『あばよ』は、研ナオコの代表作となったが、

「作家:中島みゆき」

としても、実力を見せ付けた作品となった。

それにしても、前年(1975年)に歌手デビューしたばかりの中島みゆきが、「作家」としても早くも大ヒットを飛ばしてしまった…というのは、やはり中島みゆみも凄いアーティストである。

 

<1977(昭和52)年9月10日…中島みゆき、通算5枚目のシングル『わかれうた』リリース~オリコン最高「1位」の大ヒットを記録>

 

 

1977(昭和52)年9月10日、中島みゆきは、通算5枚目のシングル、

『わかれうた』

をリリースしたが、『わかれうた』は、オリコン最高「1位」の大ヒットを記録している。

初期の中島みゆきの代表曲として、あまりにも有名な曲だが、

「道に倒れて誰かの名を 呼び続けたことがありますか…」

とか、

「別れはいつもついてくる 幸せの後ろをついてくる…」

といった、「怨み節」のような詞が延々と続くなど、とにかくこの曲は尋常でなないぐらい「暗い曲」である。

だが、そこが素晴らしい。

『わかれうた』は、一度聴いたら忘れられないインパクトが有り、妙に癖になってしまい魅力が有る曲であり、私も大好きである。

 

 

 

 

中島みゆきは、後年はテレビには殆んど出なくなってしまったが、

デビュー当時の中島みゆきは、

「コッキーポップTV」「MUSIC FAIR」

などの音楽番組には、度々、出演していた。

私も、それらの番組で、中島みゆきが、

『わかれうた』

を歌っていた映像を、遥か後年に見た事が有るが、

「『わかれうた』って、暗い曲だけど、何か良い!!」

と、一遍で気に入ってしまったものである。

そして勿論、中島みゆきは、歌を通して、こういう「物語」を創造しているのである。

そこが、「作家」としての中島みゆきの凄さである。

 

 

 

 

 

そして、

『わかれうた』

の大ヒットを引っ提げ、中島みゆきは、1977(昭和52)年12月26日、フジテレビの、

「夜のヒットスタジオ」

に初出演したが、これが中島みゆきにとって「唯一」の「夜ヒット」出演となった。

なお、翌1978(昭和53)年1月に放送開始された、TBSの、

「ザ・ベストテン」

でも、『わかれうた』はランクインしていたが、中島みゆき「ベストテン」には一度も出演しなかった。

こうして、

「中島みゆきは、テレビに出ない歌手」

という図式が定着して行った。

だが、テレビに出なくても、大ヒットを連発したという事は、それだけ、中島みゆきの、アーティストとしての実力がズバ抜けていたという事であろう。

 

<「はっぴいえんど」と松本隆~細野晴臣の勧めによって「作詞」を始めた松本隆>

 

 

 

さて、かつて日本の音楽界で、1969(昭和44)~1972(昭和47)年にかけて活動していた、

「はっぴいえんど」

という伝説のバンドが有った。

当時、日本の音楽界では、

「ロックを日本語で歌う事は、是か非か?」

という、所謂、

「日本語ロック論争」

なる物が、大真面目に語られていたが、「はっぴいえんど」は、

「日本語でもロックは歌える」

という立場のバンドであった。

 

 

そして、「はっぴいえんど」のメンバーは、大瀧詠一・細野晴臣・松本隆・鈴木茂…という、後に日本の音楽界の「重鎮」になった人達であり、そういう意味でも、彼らは「生きる伝説」のような存在であった。

この「はっぴいえんど」で、松本隆はドラムを担当していたが、「はっぴいえんど」時代に、松本隆細野晴臣から「作詞」に挑戦するよう、勧められたという。

「お前(※松本)は、沢山、本を読んでるから、作詞だって出来る筈だ」

と、細野晴臣に言われたのをキッカケとして、松本隆「作詞」を始めた。

こうして、細野晴臣の勧めによって、

「作詞家:松本隆」

が誕生した。

 

<最愛の妹の死去という悲しみを乗り越え~松本隆が作詞し、大瀧詠一に提供された『君は天然色』~大瀧詠一のアルバム『A LONG VACATION』(1981)に収録>

 

 

さて、盟友・細野晴臣の勧めによって、「作詞」を始めた松本隆にとって、重要な出来事が有った。

松本隆には、6歳年下の由美子という妹が居たが、彼女は生まれつき心臓が弱かった。

松本隆は、妹を大変可愛がっていたが、由美子は大人になってからも健康な生活を送る事が出来ず、松本は、そんな妹の身を常に案じていた。

 

 

 

 

そして、1980(昭和55)年、松本隆の最愛の妹・由美子は、26歳の若さで亡くなってしまった。

松本隆は妹の死去に大きなショックを受け、詞が全く書けなくなってしまったという。

当時、松本隆は制作中だった大瀧詠一のソロ・アルバムの楽曲の作詞を手掛けていたが、精神的に大きな打撃を受けた松本は、

「もう俺は詞が書けないから、この仕事は降りたい」

と、大瀧に告げた。

だが、大瀧詠一は、

「このアルバムの曲の作詞は、お前じゃなきゃ出来ない」

と言って、アルバムの制作を中断し、松本が詞が書けるようになるまで、待ってくれたという。

 

 

 

 

この時、松本隆が街に出ると、何と、目に見える景色が、全て白黒(モノクロ)に見えたという。

「俺、目がおかしくなったのかなと思った」

と、後に松本は語っているが、最愛の妹の死去という絶望と悲しみから、松本の目は色彩が見えなくなってしまった。

「冗談じゃなくて、本当にこういう事も有るんだと思った」

松本はそう語っているが、それだけ松本の悲しみは深かった。

 

 

 

だが、その悲しみのドン底から、松本隆は立ち直った。

かつて、宮沢賢治が、最愛の妹・トシが亡くなった後、

『永訣の朝』

という題名で、トシの臨終の模様を詩に書いた…という事が有ったが、

松本隆も、妹の死去という悲しみを、一編の詞に結実させた。

 

 

 

こうして、松本隆大瀧詠一のために作詞した曲こそ、

『君は天然色』

である。

この曲は、所謂「失恋」をテーマにしているが、

「想い出はモノクローム 色を点(つ)けてくれ…」

「もう一度 そばに来て はなやいで美(うるわ)しの Color Girl…」

という歌詞は、妹を失った時の松本隆の心境が元になっている。

なお、『君は天然色』は、1981(昭和56)年3月21日にリリースされ、その後も「名盤中の名盤」として語り継がれる事となった大瀧詠一のソロ・アルバム、

『A LONG VACATION』

に収録されている。

松本隆は、このアルバムのほぼ全ての曲の作詞を手掛けたが、こうして大瀧詠一とのタッグにより、

「作詞家:松本隆」

は、悲しみのドン底から這い上がり、日の当たる場所へと帰って来た。

そんな松本隆の前に現れたのが、あのスーパーアイドル・松田聖子である。

 

<松本隆、『白いパラソル』『風立ちぬ』で、松田聖子の楽曲の「作詞」を手掛ける>

 

 

松田聖子は、1980(昭和55)年に、

『裸足の季節』

でデビューし、以後、1980(昭和55)~1981(昭和56)年にかけて、

『青い珊瑚礁』『風は秋色』『チェリーブラッサム』『夏の扉』

と、立て続けに大ヒット曲を連発し、松田聖子は、スーパーアイドルとして、大人気となっていた。

そして、前述の5曲の作詞を担当していたのは、三浦徳子だったが、松本隆は、テレビで歌っている松田聖子を見て、

「俺なら、もっと良い詞が書ける。俺に松田聖子の楽曲の詞を書かせて欲しい」

と、願っていた。

そんな松本隆の元に、遂に松田聖子の楽曲の作詞の依頼が舞い込んだ。

そして、松本隆松田聖子のために作詞し、1981(昭和56)年7月21日にリリースされた、松田聖子の通算6枚目のシングルが、

『白いパラソル』

である。

この曲は、

「作詞:松本隆、作曲:財津和夫」

というコンビが手掛けたが、この曲はオリコン「1位」(※松田聖子にとって、4曲連続のオリコン「1位」)という大ヒットを記録した。

 

 

こうして、松田聖子の楽曲の作詞を手掛け、まずは結果を出した松本隆であるが、

松田聖子の次なる新曲の作詞も、引き続き松本隆が手掛ける事となった。

そして、「文学好き」だった松本隆の脳裏に浮かんだのが、

かつて堀辰雄が書いた名作、

『風立ちぬ』

という小説であった。

 

 

 

 

松本隆は、松田聖子の新曲のために、盟友・大瀧詠一とタッグを組んだ。

こうして、1981(昭和56)年10月7日、松田聖子の通算7枚目のシングルとしてリリースされたのが、

『風立ちぬ』

である。

この曲は、

「作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一」

が、腕によりをかけて作った名曲であるが、松本隆は、

『風立ちぬ』

というフレーズから、イメージを膨らませ、松田聖子のために情感溢れる詞を書いた。

そして、その『風立ちぬ』を松田聖子が見事に歌いこなし、『風立ちぬ』は、またしてもオリコン「1位」の大ヒットとなった。

こうして、松本隆松田聖子の作家陣に加わり、見事に結果を残した所で、満を持してユーミン(松任谷由実)も、松田聖子陣営に加わる事となるのであるが、その話については、また次回。

 

(つづく)

私が大好きな、サザンオールスターズ桑田佳祐の楽曲の歌詞を題材にして、私が「短編小説」を書くという、

「サザンの楽曲・勝手に小説化」

シリーズは、現在の所、「24本」を書いて来ている。

私としては、気が付けば、「24本」書いて来た…という感じだが、ここら辺で、その「24本」の内訳を振り返ってみよう…という事で、その「リンク集」をご紹介させて頂いている。

 

 

なお、私が当ブログで書いて来た、

「サザンの楽曲・勝手に小説化」

シリーズは、下記の「24本」である。

 

①『死体置場でロマンスを』(1985)

②『メリケン情緒は涙のカラー』(1984)

③『マチルダBABY』(1983)

④『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』(1982)

⑤『私はピアノ』(1980)

⑥『夢に消えたジュリア』(2004)

⑦『栞(しおり)のテーマ』(1981)

⑧『そんなヒロシに騙されて』(1983)

⑨『真夜中のダンディー』(1993)

⑩『彩 ~Aja~』(2004)

⑪『PLASTIC SUPER STAR』(1982)

⑫『流れる雲を追いかけて』(1982)(※【4部作ー①】)

⑬『かしの樹の下で』(1983)(※【4部作ー②】)

⑭『孤独の太陽』(1994)(※【4部作ー③】)

⑮『JOURNEY』(1994)(※【4部作ー④】)

⑯『通りゃんせ』(2000)(※【3部作ー①】)

⑰『愛の言霊 ~Spiritual Message』(1996)(※【3部作ー②】)

⑱『鎌倉物語』(1985)(※【3部作ー③】)

⑲『夕陽に別れを告げて』(1985)

⑳『OH!!SUMMER QUEEN ~夏の女王様~』(2008)

㉑『お願いD.J.』(1979)

㉒『恋するレスポール』(2005)

㉓『悲しい気持ち(Just a man in love)』(1987)

㉔『Moon Light Lover』(1996)

 

 

前回の記事では、「前編」として、上記の内、第①~第⑪弾の「リンク集」と「あらすじ」をご紹介させて頂いたので、

今回は、「後編」として、第⑫~第㉔弾の「リンク集」と「あらすじ」をご紹介させて頂くが、

第⑫弾以降の「特徴」としては、例えば「〇部作」という事で、初めから「続き物」として書いたり、はたまた、

「あの話とあの話は、実はこんな風に繋がっていた…」

というような形で、各回の小説の「繋がり」が意識されたりしている。

基本的には、1編ごとの「短編小説」は独立してはいるが、私は、時には、その「短編小説」同士が、実は繋がっている…という、

「連作」

を意識して書いたりもしていた。

そして、このような形式で書くにあたり、私が少なからず意識したのは、実を言うと、

『源氏物語』

である。

 

<気が付けば、いつの間にか「大長編」になっていた!?~紫式部が書いた『源氏物語』>

 

 

『源氏物語』

と言えば、言うまでもなく、今から約1,000年前の平安時代に、

紫式部が書いた「大長編物語」であり、日本古典文学の最高峰だが、

実は、紫式部『源氏物語』を書き始めた当初は、どうやら作者本人も、こんな「大長編」になるとは、思っていなかったようである。

ところが、『源氏物語』は次第に、宮中で評判になり、

「もっと続きを書いて欲しい」

と、作者に対し、要望が高まった。

だが、当時は「紙」が貴重品だったので、それほど裕福ではなかった紫式部としても、おいそれと「続き」は書く事は出来なかった。

 

 

そこで、紫式部『源氏物語』の評判を聞きつけた、時の権力者・藤原道長が、

一条天皇に入内していた、道長の娘・彰子のサロンに、紫式部「スカウト」した。

そして、道長は紫式部に、貴重品だった「紙」をドッサリと与え、

「これで、『源氏物語』の続きを、どんどん書いて欲しい」

と、依頼したという。

道長としては、彰子一条天皇の子を生んでくれるかどうかは、自らの「出世」に関わる重大事だったため、一条天皇に、彰子の所に来てもらう手段として、紫式部『源氏物語』の続きを書かせた。

そして、道長の目論見どおり、『源氏物語』目当てに(?)一条天皇は、彰子の元に通うようになり、彰子一条天皇の子を生んだ…。

そして、天皇の外祖父となった藤原道長の権力は揺るぎない物となったが、紫式部も、道長のお陰で、『源氏物語』を完結させる事が出来た。

つまり、藤原道長紫式部は、切っても切れない関係だったわけであり、だからこそ、現在放送中のNHK大河ドラマ、

『光る君へ』

では、藤原道長紫式部が、幼少の頃から、凄く深い繋がりが有った…という風に描かれている。

 

 

まあ、それはともかくとして、

「宮仕え」

をしながらも、

『源氏物語』

を書き続けて行った紫式部は、長く書き続けて行く内に、恐らく、筆が乗って来たのではないだろうか。

そして、彼女は、

「前に書いた、あの物語を、こんな風に繋げてみよう」

とか、

「前に登場させた、あの人物を、こんな風に再登場させてみよう」

とか、書いて行く内に、構想が閃いて行ったのではないか…と、私は勝手に思っている。

そうやって、書き続けて行く内に、気が付けば、

『源氏物語』

は、あれだけの「大長編物語」になっていた…というのが、私の勝手な「推測」である。

何故なら、私も「サザン小説」を書いて行く内に、

「あの話と、あの話を繋げてみよう…」

と思ったり、はたまた、初めから「連作」(※〇部作)で書いてみよう…とか、色々と思い付くようになったので、そういう事は、「物語」を書いて行く際には、起こり得る事ではないか…と、私は「実感」として思った。

…という事で、前回の記事では、

「『歌物語』として書いた、サザン小説」

という観点で、私が書いた「サザン小説」をご紹介させて頂いたが、今回は、

「気が付けば、『大長編』になっていた…」

という観点から、「サザン小説」をご紹介させて頂く。

それでは、「前置き」はそれぐらいにして、

「サザンの楽曲・勝手に小説化」シリーズ(原案:桑田佳祐)

の、「第12弾」~「第24弾」の「リンク集」と「あらすじ」を、ご覧頂こう。

 

⑫(2023/8/11)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑫】『流れる雲を追いかけて』(原案:桑田佳祐)【4部作ー①】>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑫】『流れる雲を追いかけて』(原案:桑田佳祐)【4部作-①】 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『流れる雲を追いかけて』(1982)

【あらすじ】大正時代の末、長崎県で大工の仕事をしている父親と、その妻でとても心優しかった母親の間に生まれた妙子。昭和初期、大不況で妙子の父親の仕事は頭打ちになった。そこで、妙子の一家は、一旗揚げようと、1933(昭和8)年に「満州国」への移民団として、「満州国」へと渡って行った。妙子の父親は「満州国」で大工として成功するが、妙子の母親は病気で亡くなってしまった。そんな中、妙子が18歳の頃、妙子は友人に連れて行かれたダンスホールで、かつての早稲田の名選手で、早慶戦でも大活躍していたという青年と出逢った。やがて妙子は結婚し、2人の間には敏子という子供達も生まれた。だが、ようやく幸せを掴んだかに見えた妙子達に、戦争の影が忍び寄っていた…。

(※「妙子と脩の物語」…4部作ー①)

 

⑬(2023/8/13)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑬】『かしの樹の下で』(原案:桑田佳祐)【4部作ー②】>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑬】『かしの樹の下で』(原案:桑田佳祐)【4部作-②】 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『かしの樹の下で』(1983)

【あらすじ】この物語の語り手である少女の「私」は、中国で生まれ育った。

日中戦争⇒国共内戦を経て、1949(昭和24)年10月1日、毛沢東により中華人民共和国が建国されるという、激動の時代だったが、中華人民共和国の建国以降も、毛沢東のメチャクチャな政策で中国全土は大混乱に陥り、中国の人民は塗炭の苦しみを味わった。

「私」は、そんな激動の時代の中、両親と共に懸命に生き抜いて来た。

そして、ある日、「私」劉さんという青年と恋に落ち、劉さんからプロポーズされる。

「私」は喜び勇んで、両親にその事を告げたが、両親は何故か、浮かない表情だった。

「私」の父は、苦渋に満ちた表情で、「私」に、ある衝撃的な事実を告げた。

それは、「私」の出生の関する、重大な事実であった…。

(※「妙子と脩の物語」…4部作ー②)

 

⑭(2023/8/14)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑭】『孤独の太陽』(原案:桑田佳祐)【4部作ー③】>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑭】『孤独の太陽』(原案:桑田佳祐)【4部作-③】 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『孤独の太陽』(1994)

【あらすじ】この物語の語り手であるは、かつては早稲田の野球部に所属し、早慶戦でも大活躍した名選手だった。

の実家は造り酒屋だったが、満州へ移民として渡って行った。1937(昭和12)年、移住先の満州のダンスホールで、は23歳の時、5歳年下の妙子という女性と出逢った。

その後、妙子は結婚し、2人の間に長男の博と長女の敏子が生まれた。

そして、日本が戦火に巻き込まれて行く中、は出征して行くが、その出征先で「地獄」を見る事となる。

は、生きて帰る事を何度も諦めかけたが、その都度、自分の帰りを待っている妙子や子供達の顔が目に浮かび、気力を奮い立たせていた…。

(※「妙子と脩の物語」…4部作ー③)

 

⑮(2023/8/16)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑮】『JOURNEY』(原案:桑田佳祐)【4部作ー④(終)】

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑮】『JOURNEY』(原案:桑田佳祐)【4部作-④(終)】 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『JOURNEY』(1994)

【あらすじ】妙子の夫妻の長男として生まれたの視点で、妙子の夫婦と、妹の敏子…という、戦前戦後の激動の時代を生き抜いた家族の物語が語られる。は、父親のと同じ早稲田大学に進学し、新聞記者となった。そして、新聞記者として働くの元に、ある日、思わぬ報せが飛び込んで来た…。

「妙子と脩の物語」「完結編」。

(※「妙子と脩の物語」…4部作ー④(終))

 

⑯(2023/9/5)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑯】『通りゃんせ』(原案:桑田佳祐)【3部作ー①】>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑯】『通りゃんせ』(原案:桑田佳祐)【3部作-①】 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『通りゃんせ』(2000)

【あらすじ】鎌倉学園高校の3年生の「僕」は、青山学院大学を目指す受験生。一方、「僕」の同級生・M君早稲田大学を目指す受験生であり、2人は親友同士だった。ある時、高校の歴史の授業で、「僕」源義経静御前の悲恋の物語に強く興味を覚えた。そんな高校3年の、ある夏の日の事。鶴岡八幡宮に行った帰り、「僕」は不思議な女性と出逢った。和装で現れた、その女性はとても美しかったが、まるでこの世の人ではないような、何処か謎めいた女性だった。その女(ひと)に導かれるまま、「僕」は不思議な能舞台の前に辿り着いた。そして、「僕」がその能舞台で目にした物とは…?

(※「鎌倉3部作」-①)

 

⑰(2023/9/6)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑰】『愛の言霊』(原案:桑田佳祐)【3部作ー②】>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑰】『愛の言霊』(原案:桑田佳祐)【3部作-②】 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『愛の言霊 ~Spiritual Messae~』(1996)

【あらすじ】高校3年の夏の日、鶴岡八幡宮に行った帰り道、「僕」は不思議な女性と出逢った。「僕」は、すっかり、その女(ひと)に心を奪われていた。だが、「僕」の親友・M君のお母さんが、得意だという「占い」により、

「彼女は、この世の人ではない」

という、衝撃的な事が告げられた。

では何故、その女(ひと)は時を超えて、「僕」に逢いに来たのか…。

その答えを知るため、夜の鎌倉で「僕」は再び彼女と逢った。

そして、夜の由比ガ浜で、その女(ひと)「僕」に語った事とは…?

(※「鎌倉3部作」-②)

 

⑱(2023/9/8)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑱】『鎌倉物語』(原案:桑田佳祐)【3部作ー③(終)】>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑱】『鎌倉物語』(原案:桑田佳祐)【3部作-③(終)】 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『鎌倉物語』(1985)

【あらすじ】「僕」は、すっかり、あの不思議な女(ひと)に心を奪われていた。

しかし、このまま行くと、「僕」の魂は、その女(ひと)に奪われてしまうと、「僕」M君のお母さんから警告された。

だが、だからこそ「僕」は、自ら彼女への想いを断ち切るため、また彼女に逢う事を決意した。

そして、ある夏の昼下り、「僕」はまた、その女(ひと)と逢った。

そして、「僕」の前に、その女(ひと)が姿を現したが…?

『通りゃんせ』『愛の言霊 ~Spiritual Messae~』『鎌倉物語』

…と続いた、「鎌倉3部作」「最終回」。

(※「鎌倉3部作」-③(終))

 

⑲(2023/12/24)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑲】『夕陽に別れを告げて』(原案:桑田佳祐)>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑲】『夕陽に別れを告げて』(原案:桑田佳祐) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『夕陽に別れを告げて』(1985)

【あらすじ】青山学院大学の学生バンド「ベターデイズ」の、バンドリーダーの「私」には、ある「秘密」が有った。「私」鎌倉学園高校時代、高校3年の夏休みに、ある不思議な女性と出逢っていた。どうにか、その女(ひと)への想いを断ち切った「私」だが、「私」の心には、どうしても、あの女(ひと)の幻影が残っていた。「私」は、その想いを断ち切るため、高校を出た後、二度と鎌倉には戻らないと決意していた。その後、「私」が進学した青山学院大学で、「私」はバンド仲間達と、ユウコという最高のパートナーと出逢い、「ベターデイズ」というバンドを結成した。その「ベターデイズ」のクリスマス・ライブで「私」が目にした物とは…?

(※「ベターデイズ」の物語・第⑤弾)

 

⑳(2024/1/7)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑳】『OH!!SUMMER QUEEN ~夏の女王様~』(原案:桑田佳祐)>

【サザン・勝手に小説化⑳】『OH!! SUMMER QUEEN~夏の女王様~』(原案:桑田佳祐) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『OH!!SUMMER QUEEN ~夏の女王様~』(2008)

【あらすじ】たった1人で、日本と世界の、あらゆる時代の歴史について書き上げるという、「大偉業」を成し遂げた、大学者・初田誠。しかし、年老いた彼は、言い知れぬ絶望と虚しさに襲われていた。そんな初田の元に、「メフィスト」と名乗る悪魔が現れた。

初田は「メフィスト」と、

「お前(※初田)の望みを叶えてやるかわりに、お前の魂を貰う」

という契約を結んだ。

そんな初田は、「メフィスト」の魔力によって若返り、時空を旅した初田は、トロイのヘレン、クレオパトラ、楊貴妃…という、歴史上の名だたる美女達と出逢って行くのだが…?

 

㉑(2024/1/11)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」㉑】『お願いD.J.』(原案:桑田佳祐)>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」㉑】『お願いD.J.』(原案:桑田佳祐) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『お願いD.J.』(1979)

【あらすじ】私(祐子)は、ある女子高に通う女の子。しかし、周りと打ち解ける事が出来ず、私(祐子)はクラスでも孤立していた。そんな私(祐子)の、たった1人の親友・佳子から、私(祐子)「ベターデイズ」というバンドの存在を教えてもらった。そして、「ベターデイズ」に夢中になった私(祐子)は、その「ベターデイズ」のバンドリーダーの「彼」がパーソナリティーを務める、ラジオの深夜番組を聴くようになった。

その大好きな「DJ」の言葉に耳を傾けた私(祐子)は、「彼」の影響により、少しずつ前向きになって行った…。

(※「ベターデイズ」の物語・第⑥弾)

 

㉒(2024/1/19)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」㉒】『恋するレスポール』(原案:桑田佳祐)>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」㉒】『恋するレスポール』(原案:桑田佳祐) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『恋するレスポール』(2005)

【あらすじ】青山学院大学で結成された学生バンド「ベターデイズ」。その「ベターデイズ」のギタリスト・タカシは、誰よりも、このバンドの事を愛していた。タカシは、このバンドのリーダーで、天才作曲家の「あいつ」をリスペクトしていたが、彼は歌が苦手だという。そこで、タカシはバイト先で知り合った、歌唱力抜群の友人・ユウコ「ベターデイズ」に引き入れた。ユウコ「スーパーボーカル」として、忽ち頭角を現したが、やがて、プロを目指したいタカシと、それほどプロ志向が強くなかった「あいつ」との間で、路線の対立が表面化してしまい…。

「ベターデイズ」の葛藤の日々を、タカシの視点で描く。

(※「ベターデイズ」の物語・第⑦弾)

 

㉓(2024/2/19)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」㉓】『悲しい気持ち』(原案:桑田佳祐)>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」㉓】 『悲しい気持ち』(原案:桑田佳祐) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

【原曲】『悲しい気持ち(Just a man in love)』(1987)

【あらすじ】早稲田大学の演劇サークル「グローブ座」に入った「私」は、その「グローブ座」で、夏美と出逢ったが、夏美「天性のヒロイン」で、1年生の頃から、常にヒロインの座を手にするという、生まれながらのスターだった。そんな夏美に、「私」は仄かな恋心を抱いた。そして、4年生の時、既に「大女優」の風格さえ身に着けていた夏美と、4年間の下積みを経て、遂に主役の座を手にした「私」が共演する事となった。そして、舞台の稽古を重ねて行く内に、「私」夏美は、既に心を通わせて行くのだが…?

 

㉔(2024/4/10)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」㉔】『Moon Light Lover』(原案:桑田佳祐)>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」㉔】『Moon Light Lover』(原案:桑田佳祐) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『Moon Light Lover』(1996)

【あらすじ】遂にプロデビューした「ベターデイズ」のリーダーを務める「私」は、新曲を書き続けなければならないというプレッシャーに押し潰されそうになっていた。そして、とうとう曲が何も思い浮かばないほど、「私」は追い詰められていた。「私」の恋人にして、「ベターデイズ」のボーカルのユウコも、とても心配していた。そんな「私」は、高校時代の思い出の地、鎌倉の由比ガ浜を訪れた。そして、月夜の由比ガ浜で、「私」にとっては、忘れようにも忘れられない、あの女(ひと)が、「私」の前に姿を現した…。

(※「ベターデイズ」の物語・第⑧弾)

私が大好きな、サザンオールスターズ桑田佳祐の楽曲の歌詞を題材にして、

「原案:桑田佳祐」

として、私が「短編小説」を書くという、

「サザンの楽曲・勝手に小説化」

のシリーズは、現在の所、

「24本」

を書いて来ている。

気が付けば、それだけ書いて来てしまった…という感じであるが、ここらで、その「24本」を振り返ってみる事としたい。

 

 

当ブログにて、私が書いて来た、

「サザンの楽曲・勝手に小説化」

シリーズは、下記の「24本」である。

 

①『死体置場でロマンスを』(1985)

②『メリケン情緒は涙のカラー』(1984)

③『マチルダBABY』(1983)

④『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』(1982)

⑤『私はピアノ』(1980)

⑥『夢に消えたジュリア』(2004)

⑦『栞(しおり)のテーマ』(1981)

⑧『そんなヒロシに騙されて』(1983)

⑨『真夜中のダンディー』(1993)

⑩『彩 ~Aja~』(2004)

⑪『PLASTIC SUPER STAR』(1982)

⑫『流れる雲を追いかけて』(1982)(※【4部作ー①】)

⑬『かしの樹の下で』(1983)(※【4部作ー②】)

⑭『孤独の太陽』(1994)(※【4部作ー③】)

⑮『JOURNEY』(1994)(※【4部作ー④】)

⑯『通りゃんせ』(2000)(※【3部作ー①】)

⑰『愛の言霊 ~Spiritual Message』(1996)(※【3部作ー②】)

⑱『鎌倉物語』(1985)(※【3部作ー③】)

⑲『夕陽に別れを告げて』(1985)

⑳『OH!!SUMMER QUEEN ~夏の女王様~』(2008)

㉑『お願いD.J.』(1979)

㉒『恋するレスポール』(2005)

㉓『悲しい気持ち(Just a man in love)』(1987)

㉔『Moon Light Lover』(1996)

 

 

…という事であるが、

ここで一つ、言っておくと、現在、「24本」を書いて来ているので、当面の私の目標としては、「50本」を目指している。

そして、もしも「50本」を書く事が出来たら、その次は「100本」を目指したい…と思っているが、

まずは、一つ一つ、積み重ねて行ければ良いなあ…と、私は思っている。

 

<「歌物語」とは何か?~『伊勢物語』に代表される、「歌」にまつわる物語>

 

 

ところで、今回の記事のタイトルは、

「私が描く、サザンの『歌物語』」

という事であるが、そもそも、

「歌物語」

とは何かと言えば、かつての日本文学史に有ったジャンルで、

「和歌を題材にして、その背景の物語を書く」

という形式の物語の事である。

例えば、平安時代に実在した、在原業平を主人公とした、

『伊勢物語』

は、数々の和歌を題材にして描かれているが、一つ一つの物語が、

「昔、男ありけり…」

という書き出しで始まり、その「男」とは、在原業平の事を指している。

そして、在原業平が、

「こういう事をして来ました…」

という物語が積み重ねられ、彼の「一代記」になっている。

 

 

 

そして、

『伊勢物語』

の特徴として言えるのは、

「まずは歌が先にあり、その歌の背景が語られている」

という事であるが、要するに、まずは「和歌」が先に有って、

「この和歌には、実はこういう背景が有った」

として、「物語」が後から作られた…という事である。

つまり、『伊勢物語』とは、少し乱暴に言えば、

「和歌を題材に、『勝手に物語化』した物である」

とも言える。

 

 

例えば、『伊勢物語』の第6段、『芥川』という題名の物語は、

「白玉か なにぞとひとの問ひし時 露と答へて 消えなましものを」

という歌を題材にしている。

そして、この物語は、在原業平が、帝のお妃候補だった姫を盗み出し、「駆け落ち」したが、

最後は、その姫は鬼に食い殺されてしまった…という、恐ろしい結末になっている。

「この歌には、そのような物語が有った」

という顛末が、『伊勢物語』によって語られているが、先程から述べている通り、これは勿論、「歌」が先に有って、「物語」が後から作られた。

という事で、私がこのブログでやろうとしているのは、サザンの「歌」が先に有って、「物語」を後から書く…という意味で、

「サザンの『歌物語』」

をやってしまおう…という事である。

 

<石原裕次郎の「歌物語」~『銀座の恋の物語』など…>

 

 

そして、「歌物語」の伝統は、かつての日本映画界にも引き継がれていた。

1961(昭和36)年、映画界の大スター・石原裕次郎と、牧村旬子がデュエットした、

『銀座の恋の物語』

という曲が大ヒットしたが、当時、裕次郎が所属していた日活は、この曲の大ヒットを受け、

「『銀座の恋の物語』を題材にした映画を作ろう」

という企画を立てた。

そして、勿論、この曲を歌った裕次郎が主役として、

『銀座の恋の物語』

の映画が作られた。

 

 

こうして、翌1962(昭和37)年、石原裕次郎浅丘ルリ子が共演し、

『銀座の恋の物語』

が、日活で映画化され、この映画も大ヒットした。

まさに、日活の目論見どおりとなったわけだが、この後、裕次郎のヒット曲を題材とした映画が何本も作られている。

これこそ、

「現代の『歌物語』」

と言って良いと思われるが、要するに、

「歌が先に有り、物語を『後付け』で作る」

という手法は、昔からよく有るという事である。

なので、私も甚だ僭越ではあるが、私がリスペクトして止まない、サザンの「歌物語」を書かせて頂いている…というわけである。

 

<そもそも、何故、私が「サザンの『歌物語』」を書き始めたのか…?>

 

 

さて、私がこのブログで、

「サザンの楽曲・勝手に小説化」

シリーズを書き始めたのは、一昨年(2022年)の12月だったが、

そもそも、何故、私がこのブログで、

「サザンの『歌物語』」

を書き始めたのかというと、実は、こんなキッカケが有った。

その頃、私は職場で、どうしても気が合わない人が居て、ちょっと嫌な出来事が有った。

そんな時、ふと私の脳裏に、

「サザンの曲を題材に、『小説』を書いてみようかな…」

という事が、本当に何故か急に思い浮かんだ。

そして、私はこのブログで、「サザン小説」を書き始めたのだが、何でそんな時に、こういう事が思い浮かんでしまったのか、よくわからない。

しかし、何がキッカケになるのか、人生、何が起こるかわからないものである。

なお、2022(令和4)年の年末、私は手始めに、

『死体置場でロマンスを』『メリケン情緒は涙のカラー』『マチルダBABY』

…という、3曲を題材にした「短編小説」を、立て続けに書いたが、

これらの3曲は、元々、「ストーリー仕立て」になっており、私は、サザンファンになった中学生の頃から、

「一つの曲が、物語みたいになっていて、凄いなあ…」

と、感心していた。

だから、元々、これらの曲が「ストーリー仕立て」になっていたのは知っていたので、

「それなら、この曲を『小説』にしてしまおう」

と、思い付いた…という次第である。

だから、初期の3本は、比較的、書きやすかった。

それ以来、気が付けば、断続的に「サザン小説」を書いている内に、それが「24本」になってしまった…という事である。

というわけで、「前置き」はそれぐらにして、今回は、

「サザンの楽曲・勝手に小説化」(原案:桑田佳祐)

シリーズの「リンク集」と「あらすじ」を、掲載させて頂くが、

まずは「24本」の内の前半、第①弾~第⑪弾までのリンク集である。

宜しければ、お読み頂ければ幸いである。

 

①(2022/12/24)<【2022 クリスマス特別企画】『死体置場でロマンスを ~香港の夜の恐怖~』(原案:桑田佳祐)>

【2022 クリスマス特別企画】『死体置場でロマンスを ~香港の夜の恐怖~』(原案:桑田佳祐) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『死体置場でロマンスを』(1985)

【あらすじ】ある大学の文学部に勤める「私」は、大学の図書館で、奇妙な手帳を見付ける。その手帳には、1930年代の香港での、貿易商の男「体験記」が記されていた。その男(手帳の男)は、赴任先の香港で「リル」という中国人の絶世の美女と出逢った。2人は忽ち、熱烈な恋に落ちた。しかし、その「手帳の男」には妻子が居た。果たして、「手帳の男」「リル」の危険な恋の行方や、如何に…?

 

②(2022/12/29)<【2022 年末特別企画】『メリケン情緒は涙のカラー ~ヨコハマに消えた女~』>(原案:桑田佳祐)

【2022 年末特別企画】『メリケン情緒は涙のカラー ~ヨコハマに消えた女~』(原案:桑田佳祐) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『メリケン情緒は涙のカラー』(1984)

【あらすじ】この物語の語り手の「私」は、外交官である。「私」の赴任先である、1930年代のニューヨークで、「私」「エリー」という、アメリカ人の女性と出逢った。「エリー」は新進気鋭の女優として活躍していたが、「私」「エリー」は熱烈な恋に落ちた。ところが、「私」に日本への帰国命令が出た。「私」「エリー」との再会を約束し、一旦、日本へと帰国。その後、「エリー」が横浜にやって来て、「私」「エリー」は横浜で再会を果たしたのだが…?

 

③(2022/12/30)<【2022 年末特別企画】『マチルダBABY ~悪魔の要塞に挑む~』(原案:桑田佳祐)>

【2022 年末特別企画】『マチルダBABY ~悪魔の要塞に挑む~』(原案:桑田佳祐) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『マチルダBABY』(1983)

【あらすじ】何処にでも居る、平凡な高校生の「僕」の隣の席に、「マチルダ」という美少女の転校生がやって来た。「マチルダ」は誰からも好かれる人気者であり、そんな「マチルダ」に対し、平凡な高校生である「僕」は、気後れしてしまっていた。そんなある日の事、「僕」は不思議な古本屋で、ある「ゲームブック」を見付ける。それは「ゼビウス」というゲームを題材にした本だったのだが…?

 

④(2023/1/29)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」④】『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない』(原案:桑田佳祐)>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」④】「Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)」(原案:桑田佳祐) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない』(1982)

【あらすじ】語り手の「私」青山学院大学の学生。「私」は青学で知り合った音楽サークルの仲間達と共に、「ベターデイズ」という学生バンドを結成した。当初、「私」はバンドのボーカルを務めていた。しかし、「私」は自らのボーカルとしての能力に限界を感じていた。そんなある日の事、バンドでギターを担当しているタカシが、ユウコという女の子を連れて来た。ユウコは抜群に歌が上手い女の子であり、「私」はすぐさま、ユウコをバンドのボーカルに据えた。ユウコは忽ち、「ベターデイズ」のスーパーボーカルとして大活躍するようになったが…?

(※「ベターデイズ」の物語・第①弾)

 

⑤(2023/2/1)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑤】『私はピアノ~ユウコの青春物語』(原案:桑田佳祐)>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑤】「私はピアノ ~ユウコの青春物語」(原案:桑田佳祐) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『私はピアノ』(1980)

【あらすじ】青山学院大学の学生バンド「ベターデイズ」の前に、突如として現れたスーパーボーカル・ユウコ。実は、そのユウコは、なかなか他人と打ち解ける事が出来ない女の子だった。だが、憧れの山口百恵の影響を受け、「歌」に目覚めたユウコは、徐々にボーカルとしての才能を開花させて行く。そして、「ベターデイズ」のボーカルを務める事となったユウコだが…?

スーパーボーカル・ユウコの視点から語られる、「ベターデイズ」の物語。

(※「ベターデイズ」の物語・第②弾)

 

⑥(2023/2/3)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑥】『夢に消えたジュリア~我が恋は終わりぬ』(原案:桑田佳祐)>

【サザンの楽曲「勝手に小説化⑥】『夢に消えたジュリア ~我が恋は終わりぬ』(原案:桑田佳祐) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『夢に消えたジュリア』(2004)

【あらすじ】語り手である「私」は、ピアニストを目指していた。「私」は、共にピアニストを目指していた、「ジュリア」という幼馴染の女友達が居た。「私」は、自らのピアノの才能に限界を感じていたが、「ジュリア」は紛れもない天才ピアニスト。その「ジュリア」の父親から、ピアノの習っていた「私」だが、ある時、「私」「ジュリア」の父親から、とても辛い宣告を受けてしまう…。

 

⑦(2023/2/8)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑦】『栞(しおり)のテーマ』(原案:桑田佳祐)>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑦】『栞(しおり)のテーマ』(原案:桑田佳祐) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『栞(しおり)のテーマ』(1981)

【あらすじ】主人公の「僕」は、A高校の野球部で、親友でもある大エース・淳之介とバッテリーを組み、甲子園出場を目指していた。そんな「僕」には「栞(しおり)」という幼馴染の女の子が居たが、「栞(しおり)」淳之介に夢中であり、「僕」「栞(しおり)」に対する思いは、完全に一方通行だった。そんな「僕」にも、「澪(みお)」という彼女が出来た。「僕」「澪(みお)」、淳之介「栞(しおり)」という2組のカップルが出来上がったのだが…?

 

⑧(2023/2/26)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑧】『そんなヒロシに騙されて』(原案:桑田佳祐)>

【サザンの楽曲「勝手に小説化⑧】『そんなヒロシに騙されて』(原案:桑田佳祐) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『そんなヒロシに騙されて』(1983)

【あらすじ】私(ヨーコ)は、横須賀に住む女の子。子供の頃から「はみだし者」だった私(ヨーコ)は、不良の吹き溜まりのような高校に進み、悪い仲間達と毎晩、遊び歩いていた。そんなある日の事、私(ヨーコ)は地元・横須賀のディスコで「ヒロシ」という不思議な男の子と出逢った。私(ヨーコ)は、「ヒロシ」に惹かれ、夢中になってしまったのだが…?

(※「ベターデイズ」の物語・第③弾)

 

⑨(2023/4/27)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑨】『真夜中のダンディー』(原案:桑田佳祐)【4/27誕生日企画】>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑨】『真夜中のダンディー』(原案:桑田佳祐)【4/27誕生日企画】 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『真夜中のダンディー』(1993)

【あらすじ】「私」は、波乱万丈の生涯を送って来た。父親と対立し、実家を出た「私」は、学生時代、下宿屋で「K」という男と知り合った。「私」「K」は、2人とも、下宿屋の女主人の娘である「お嬢さん」=「静」という1人の女性を、好きになってしまった。「私」「静」を手に入れるため、「K」に「ある言葉」を投げかけるのだが…?

 

⑩(2023/5/14)<【サザンの小説「勝手に小説化」⑩】『彩 ~Aja~或るシンデレラ・ストーリー』(原案:桑田佳祐)>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑩】『彩 ~Aja~或るシンデレラ・ストーリー』(原案:桑田佳祐) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『彩 ~Aja~』(2004)

【あらすじ】某ファッション雑誌で、カメラマンのアルバイトをしている「私」は、一人前の写真家を目指し、奮闘していたが、そんなある日の事、私は「彩(あや)」という女の子と出逢った。「彩(あや)」東京大学に通う、インテリの女学生だったが、「私」の憧れの女優、オードリー・ヘップバーンに良く似た美女だった。「私」「彩(あや)」を口説き落とし、「彩(あや)」を雑誌のモデルとしてスカウトした。やがて「彩(あや)」は忽ち、人気モデルとなったのだが…?

 

⑪(2023/6/25)<【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑪『PLASTIC SUPER STAR』(原案:桑田佳祐)>

【サザンの楽曲「勝手に小説化」⑪】『PLASTIC SUPER STAR』(原案:桑田佳祐) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~ (ameblo.jp)

 

 

【原曲】『PLASTIC SUPER STAR』(1982)

【あらすじ】天才作曲家の「彼」を中心に、青山学院大学の音楽サークルで結成された学生バンド「ベターデイズ」。その「ベターデイズ」に、ある日、「スーパーボーカル」ユウコが加わった。ユウコが加入し、「ベターデイズ」はバンドとして急成長し、大きなライブを成功させたが、その後、メンバー間の対立が生じ、「彼」ユウコの関係にも亀裂が生じてしまい、バンドは存続の危機に陥った。だが、その後「ベターデイズ」は再生の道を模索する…。そんな「ベターデイズ」の激動の日々を、「ベターデイズ」のベーシスト・カズユキの視点で語る。

(※「ベターデイズ」の物語」・第④弾)

 

(つづく)

私が大好きなサザンオールスターズ桑田佳祐の楽曲の歌詞を題材にして、私が「短編小説」を書く…という、

「サザンの楽曲・勝手に小説化」

シリーズを、このブログにて断続的に書いているが、これまでに、

「23本」

の小説を書いて来ている。

そして、今回はその「新作」を書かせて頂く。

 

 

という事で、私がこれまで書いて来た、

「サザンの楽曲・勝手に小説化」シリーズは、下記の「23本」である。

 

①『死体置場でロマンスを』(1985)

②『メリケン情緒は涙のカラー』(1984)

③『マチルダBABY』(1983)

④『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』(1982)

⑤『私はピアノ』(1980)

⑥『夢に消えたジュリア』(2004)

⑦『栞(しおり)のテーマ』(1981)

⑧『そんなヒロシに騙されて』(1983)

⑨『真夜中のダンディー』(1993)

⑩『彩 ~Aja~』(2004)

⑪『PLASTIC SUPER STAR』(1982)

⑫『流れる雲を追いかけて』(1982)(※【4部作ー①】)

⑬『かしの樹の下で』(1983)(※【4部作ー②】)

⑭『孤独の太陽』(1994)(※【4部作ー③】)

⑮『JOURNEY』(1994)(※【4部作ー④】)

⑯『通りゃんせ』(2000)(※【3部作ー①】)

⑰『愛の言霊 ~Spiritual Message』(1996)(※【3部作ー②】)

⑱『鎌倉物語』(1985)(※【3部作ー③】)

⑲『夕陽に別れを告げて』(1985)

⑳『OH!!SUMMER QUEEN ~夏の女王様~』(2008)

㉑『お願いD.J.』(1979)

㉒『恋するレスポール』(2005)

㉓『悲しい気持ち(Just a man in love)』(1987)

 

 

そして、今回、私が「サザンの楽曲・勝手に小説化シリーズ」「新作」の題材として選んだ曲は、

1996(平成8)年にリリースされた、サザンの通算12枚目のアルバム、

『Young Love』

に収録されていた、

『Moon Light Lover』

という曲である。

この曲は、とにかく素敵な雰囲気の曲であり、しっとりとした「大人の曲」というイメージが有る。

 

 

桑田佳祐も、この曲の事は、殊の外、気に入っているようであり、

『Moon Light Lover』

が発表された1996(平成8)年以降、サザンのライブでは必ずと言って良いほど、歌われている。

そして、この曲が始まると、サザンファンは皆、聴き惚れてしまうのが常である。

勿論、私もこの曲はとても大好きである。

 

<「サザンの楽曲・勝手に小説化」シリーズでお馴染み(?)の「ベターデイズ」の物語について…>

 

 

ところで、このブログを前々からお読み頂いている方は、よくご存知(?)の事と思うが、

「サザンの楽曲・勝手に小説化」

シリーズでは、サザンをモデルとした架空のバンド、

「ベターデイズ」

の物語を、これまでに何本が書いて来ている。

「ベターデイズ」

とは、元々、サザンを輩出した青山学院大学の音楽サークルの名前だが、私はその名前を「拝借」し、

「ベターデイズ」

の物語を書かせて頂いている。

先程、述べた通り、このバンドはあくまでも「サザンっぽいバンド」ではあるが、あくまでもサザンではなく、架空のバンドである。

…というわけで、

「ベターデイズの物語」

に関連した小説は、下記の通りである。

 

【「ベターデイズ」関連の話】

④『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』(1982)

⑤『私はピアノ』(1980)

⑧『そんなヒロシに騙されて』(1983)

⑪『PLASTIC SUPER STAR』(1982)

⑲『夕陽に別れを告げて』(1985)

㉑『お願いD.J.』(1979)

㉒『恋するレスポール』(2005)

 

【鎌倉3部作】

⑯『通りゃんせ』(2000)

⑰『愛の言霊 ~Spiritual Message』(1996)

⑱『鎌倉物語』(1985)

 

 

…という事で、何がどう関連しているのかは、宜しければ、上記の小説をお読み頂ければ幸いであるが、

今回、私が「新作」として書く、

『Moon Light Lover』

も、その「ベターデイズの物語」の「続編」である。

それでは、前置きはそれぐらいにして、

「サザンの楽曲・勝手に小説化シリーズ」の「第24弾」、

『Moon Light Lover』(原案:桑田佳祐)

を、ご覧頂こう。

 

<序章・『桐壺』>

 

 

今から、私は「秘密の恋」の話を書く。

私は音楽活動をしている者だが、ある時期、私はスランプに苦しみ、曲が全く書けなくなってしまった事が有った。

それは本当に辛く苦しい時期だったが、ある出来事をキッカケに、私は再び音楽を生み出す事が出来るようになった。

そして、そのキッカケというのが、他ならぬ、私自身の、

「秘密の恋」

だった。

そして、この話は、今まで誰にも話した事は無い。

しかし、私にとっては、とても大きな出来事だったので、どうしても書き記しておきたいと思い、こうして「手記」として残している。

だから、この話は誰かに読まれる事を前提としてはいない。

私は、この「秘密の恋」について書き、木の箱に入れ、ある場所へと隠しておいた。

だから、もしも今、これを読んでいる人が居るとすれば、それを見つけ出したから…という事になるであろう。

それはともかく、私がこうして書き留めているのは、ある曲を生み出すまでの物語である…。

 

<第1章・『花宴(はなのえん)』>

 

 

「みんな、どうも有り難う!!」

ステージの上で、ユウコの笑顔が弾けていた。

そして、私の大切な仲間達…タカシ、ヒロシ、カズユキ、ヒデユキさん…彼らもまた、生き生きとした表情だった。

私達は、一応、プロのバンドである。

私は、青山学院大学の音楽サークルで出逢った仲間達と共に、

「ベターデイズ」

というバンドを結成していた。

当初、私がボーカルを務めていたが、私は歌にあまり自信が無かった。

そこで、このバンドのギタリスト・タカシが、彼の友人だというユウコを、ボーカルとして連れて来た。

すると、ユウコはボーカルとして物凄い才能を発揮し、

「スーパーボーカル・ユウコ」

「変身」し、このバンドを引っ張ってくれるようになった。

私は、このバンドの曲を作り、ユウコがその曲を歌う…というパターンが確立して行ったが、私は不思議と、

「ユウコのために」

と思うと、何故か、次々に曲を作れるようになって行った。

こうして、我々のバンド活動は軌道に乗り、そして紆余曲折を経て、私達はプロのバンドとしてデビューする事が出来た。

「みんな、逢いたかったよ!!」

普段は大人しいユウコは、一度、ステージに上ると、まるで「別人」のように、スイッチが入り、お客さんをノリノリで煽るような「スーパーボーカル」に変身する。

そして、私達のバンドも、ユウコに引っ張られるように、まるで神がかったような演奏が出来てしまう。

それは本当に「化学反応」と言って良かったが、間違い無く、ユウコは私の…いや、私達の「運命の女神」だった。

今日のライブもまた、大盛況だった。

ライブ会場は超満員だったが、ボーカルのユウコ、ギターのタカシ、ドラムのヒロシ、ベースのカズユキ、そしてパーカッションのヒデユキさん…という、

「ベターデイズ」

のメンバー達も皆、嬉しそうだった。

だが、実はこの時、私にはとても大きな悩みが有った。

それは、まだ誰にも言ってはいなかったのだが…。

しかし、私は表面的には、いつものように「満面の笑顔」で、ステージ上でピアノを弾いていた。

プロである以上、ステージに立てば、そんな「悩み」など、お客さんには見せてはいけないと、私は思っていた…。

 

<第2章・『若紫』>

 

 

「私、歌は元々、素人だったから、もっと頑張らないと…」

その頃、ユウコは口癖のように、いつもそんな事を言っていた。

ユウコは、出逢った時から抜群に歌が上手い子だったが、

「私は、ちゃんと歌は習った事は無いから、このままじゃダメだと思う」

と、ユウコは常々、言っていた。

「ベターデイズ」

が、プロとしてデビューしてからも、ユウコは自分のボーカルに磨きをかけようと、ボイトレの先生に付き、基礎から歌を練習していた。

とにかく、ユウコは人一倍、向上心が強い人だった。

しかし、私はユウコはそんなボイトレなんかしなくても、彼女にしか無い、独特の歌の魅力が有ると思っていた。

「ユウコには、他の人には無い、お客さんの心を鷲掴みにしてしまう才能が有る。だから、そのままでも良いと思うよ…」

私は当初、そう言っていたが、ユウコは首を横に振った。

「有り難う。でも、私はもっと頑張らないと…」

とにかく、ユウコは、こうと決めたら絶対に曲げない性格だった事もあり、熱心に歌の練習に励んでいた。

「ユウコにはユウコの良さが有るんだけどな…」

率直に言って、私はユウコに、

「歌なんか、習いに行かなくて良いよ」

と、よっぽど言いたかったが、ユウコがあまりにも熱心なので、言い出せなかった。

それに、先程も書いたが、その頃の私には、ある「悩み」が有った。

その「悩み」が、私の心を占めるようになっており、私は次第に憂鬱になっていた。

 

<第3章・『空蝉(うつせみ)』>

 

 

ユウコは、私にとって、公私ともに、大切な「パートナー」だった。

私とユウコは、

「ベターデイズ」

がデビューする前から交際していた。

勿論、その事はバンドのメンバー達も知っていたし、その頃はファンにも公言はしていなかったが、私達が「恋人同士」というのは、恐らく「公然の事実」だった。

「それじゃあ、お疲れ…」

その日、次のライブに備え、私達は集まり、リハーサルを行なったが、その帰り道、私はいつものように、私が運転する車の助手席に、ユウコを乗せていた。

その頃、私とユウコは別々に住んでいたが、私はいつも、ユウコが住む横浜まで、ユウコを車で送ってやっていた。

「こないだのライブ、凄い盛り上がったね!!」

「ああ、本当に凄かったな…」

ある夏の夜、私とユウコは、いつものように、車中で色々なお喋りをしたりしながら、「ドライブ」を楽しんでいた。

「今度のライブ、曲順はどうしようか?」

ユウコは、いつもの調子で、お喋りをしていたが、私は、

「ああ…」

などと、つい生返事をしてしまっていた。

すると、私の異変を察したらしいユウコが、私の顔を覗き込むようにして、

「…ねえ、貴方、こないだから、ちょっと様子が変だよ?」

と、心配そうな表情で聞いて来た。

「どうしたの?何か有った?」

ユウコに聞かれた私は、重い口を開いた。

「実は…。最近、曲が全然、思い浮かばないんだよ…」

私は、呻くように言った。

そう、私の「悩み」とは、その事だった。

私の言葉を聞くと、ユウコが息を呑んでいるのがわかった。

私は、ユウコと出逢って以来、それこそ泉が湧くように、次々に曲のアイディアが思い浮かんでいた。

だが、「ベターデイズ」がプロとしてデビューし、順調に活動をスタートさせた後…私は、

「早く新曲を書け」

という、事務所からの催促が、段々とプレッシャーになっていた。

そして、追い込まれた私は、焦れば焦るほど、曲が全く出来なくなってしまったのである。

「俺はもう、才能が枯れて、空っぽになってしまったのかもな…」

私がそう言うと、ユウコは顔面蒼白になっていた。

「…そうだったの…。今まで、気が付かなくて、ごめんね…」

ユウコは、泣きそうな顔になって、俯いてしまった。

「いや、ユウコのせいじゃないよ…」

私は、こうなる事が嫌だったから、ユウコには何も言えなかったのだった。

 

 

「ねえ、何か力になれる事、無い?」

ユウコは、私の肩に手を置いて、そう言ってくれた。

「大丈夫だよ、心配しなくても…」

私は、ユウコの気持ちは有り難かったが、そう答えるしかなかった。

それから、私とユウコは、二人して黙りこくってしまった。

窓の外には、ベイブリッジの夜景が見えていた。

そして、ユウコの家に着くと、

「それじゃあ、また明日ね…」

そう言って、ユウコは車を降りた。

「ああ、おやすみ…」

私はそう言い残し、車を走らせた。

バックミラー越しに、ユウコが心配そうに、私の車を見送っているのが見えた。

「どうしようかなあ…」

私は、車中で独りになると、溜息をついた。

さっきは、ユウコを心配させまいと、

「大丈夫だ」

とは言ったが、状況は全く好転していなかった。

その時、私はふと思い立って、「ある場所」へと向かう事にした。

それは、私の高校時代の「思い出の場所」だった…。

 

<第4章・『朧月夜』>

 

 

私は、車を走らせ、鎌倉へと向かった。

鎌倉と言えば、私は鎌倉学園という高校に通っていたので、私にとって、青春の思い出が詰まった場所だった。

その夜、私は久しぶりに鎌倉に行ってみたいと思い立ったのである。

そして、私は鎌倉の海が見える所…由比ガ浜に着くと、車を止めた。

私は車を降りて、夏の夜空を見上げると、そこには少し靄がかかったような満月が有った。

「朧月夜か…」

私はしばし、美しい月を眺めていた。

そして、どれぐらい経った頃か…。

ふと、辺りに一陣の風が吹いた。

 

 

「ん…?」

気が付くと、満月の下、一人の女性が、波打ち際に佇んでいるのが見えた。

私は、その女(ひと)の姿を見ると、思わず、

「アッ!?」

と、声を上げそうになった。

その女(ひと)は、私にとって、忘れようにも忘れられない女(ひと)…。

高校3年の夏、私が出逢った、とても不思議な女(ひと)が、今また、私の目の前に姿を現していた。

「…これは、夢か?幻か…?」

私は目を凝らしたが、どうもこれは現実のようだ。

その女(ひと)は、あの時と同じように、とても美しく、そして何処か儚げな様子だった。

「お久し振りね。お元気だったかしら?」

その女(ひと)は、私に向かって微笑み、ハッキリとそう言った。

「うん…」

私は、もう逢う事はあるまいと思っていた女(ひと)を目の当たりにして、何と言って良いかわからなかったが、

「君も…。元気だった?」

と、聞いた。

「まあ…。元気だった?って聞くのも、何か変かな…」

私は思わず、そんな事を言ってしまった。

よくわからないが、この女(ひと)は、どうも、この世の人ではないような、時を超越した存在のようだ。

そういう事を思っていたので、思わず、そう言ってしまったが、

「フフッ…」

と、その女(ひと)は笑うと、

「ええ。私は元気よ…」

と、答えた。

それから、私とその女(ひと)は、暫くの間、ただ黙って見つめ合っていた。

 

<第5章・『夕顔』>

 

 

その時、私は何故か、

「夕顔」

を連想していた。

『源氏物語』

で、主人公の光源氏が、正体不明の女・夕顔と恋に落ちる場面が有る。

私にとって、その女(ひと)も、

「正体不明の女」

という意味では、

「夕顔」

と全く同じだった。

いや、この女(ひと)の正体は、かの有名な源義経と相思相愛だった、「あの女(ひと)」だと私は勝手に思っていたが、私がその名前を口に出してしまうと、魂が持って行かれてしまうから、絶対に口にするなと、私は、高校時代の親友・M君のお母さんから厳命されていた。

その事を私はよく覚えていたから、私は決してその名は口にしなかった。

 

 

ふと気が付くと…。

今夜の彼女の出で立ちは、白いブラウスにロングスカートという物だった。

だが、それよりも、私の目を奪ったのは、彼女の唇だった。

その女(ひと)は、いつも意外な恰好をして現れるので、私を驚かせるが、

その夜の彼女は、鮮やかなルージュの口紅を付けていた。

「その口紅、とても良く似合うよ…」

私は思わず、そう言ってしまった。

「そう?有り難う…」

彼女は、私の褒め言葉(?)を、素直に受け取ってくれた。

すると、彼女は、思いがけない行動に出た。

「ねえ。ちょっと…」

彼女は、いきなり私の手を掴むと、私の掌(てのひら)に、ルージュの口紅で、何かを描いていた。

私はビックリしてしまった。

「君、いきなり何を…?」

私は、右の掌を見た。

その掌を見て、私は、ハッとした。

そこに描いてあったのは…。

 

 

「私、もう行かないと…」

気が付くと、由比ガ浜の夜が明けようとしていた。

その女(ひと)は、そう言い残し、その場から立ち去ろうとしていた。

「ねえ、君!!ちょっと待ってよ。次は、いつ逢える?」

私がそう聞くと、彼女は少し考えていたが、

「それじゃあ、次の満月の夜に、また此処で…」

と、言った。

「次の満月の夜だね…」

私がそう言うと、辺りに霧が立ち込め、彼女は姿を消していた。

私は、つい先程、彼女が握っていた、私の右の掌を見た。

そこには、ルージュでハートのマークが描いてあった。

「一体、どういうつもりなんだ…」

私は、呆然とその場に佇んでいた…。

 

<第6章・『薄雲』>

 

 

「あいつは、ちょっと頭がおかしくなったんじゃないか?」

私は全く知らなかったが、その頃、私は「ベターデイズ」のメンバー達から、そんな風に噂をされていたらしい。

あの女(ひと)と、何年振りかで「再会」した後…。

私は、次の満月の夜にも、由比ガ浜で、あの女(ひと)に逢った。

そして、その次の満月の夜も…。

気が付くと、いつぞやのように、私はまた、あの女(ひと)に夢中になっていた。

勿論、その事はユウコ「ベターデイズ」のメンバー達には言っていなかったが…。

しかし、自分では全く普通に過ごしているつもりでも、その頃の私は、かなり様子がおかしかったようである。

私は、満月になる度に、いそいそと、あの女(ひと)に逢いに行っていた。

「君と一緒に、お酒を飲んでみたくて…」

私は、彼女と「再会」した次の夜、彼女とワインを酌み交わした。

そして、私はそのまま、彼女と「口づけ」を交わしてしまった…。

「まずいぞ、この女(ひと)と深い関係になってしまうのは…」

私は、頭の中ではそんな事はわかっていたが、あの女(ひと)と逢うと、そんな理性など、何処かに吹っ飛んでしまっていた。

そして、私とあの女(ひと)は、そのままズルズルと、

「男女の関係」

になってしまった。

だが、彼女と朝まで過ごすと、彼女はまるで泡沫(うたかた)のように、霧と共に、掻き消すように姿を消してしまう…。

「一体、俺は何をやっているんだ…」

私は毎度、そう思うのだが、気が付くと、どうしても、あの女(ひと)に逢いたくなってしまうのだった。

そう、私は完全に、あの女(ひと)に狂っていた…。

 

 

だが、「副産物」も有った。

私は、あの女(ひと)と過ごして行く内に、段々と、頭の中に、曲のイメージが湧いて来るような気がしていた。

「これだよ、この感覚だよ!!」

私は、久し振りに高揚感を感じていた。

「俺は、悪魔に魂を売ってでも、曲を作ってみせる!!」

私は全く覚えていないのだが、その頃、私がそんな事を言っていて、とてもビックリしたと、後でユウコが言っていた。

とにかく、皆が言う通り、その頃の私は、ちょっと「おかしく」なっていたのかもしれない…。

「ねえ?貴方、本当に大丈夫なの?何か、顔色も良くないし…」

ユウコが、心配そうな様子で、私に聞いていた。

「大丈夫だよ。ユウコは、自分の歌の練習を頑張れば良いから」

私は、そう答えていた。

まさか、満月の度に「浮気」をしているなどと、ユウコに言える筈も無かったが…。

「そうなの…。とにかく、無理しないで。私、貴方が心配だから…」

ユウコは心底、私を心配してくれていた。

「俺は、これ以上、ユウコを裏切るわけにはいかない…」

その時、私は強くそう思っていた。

 

<第7章・『幻』>

 

 

その次の満月の夜…。

私は、由比ガ浜の海で、あの女(ひと)が現れるのを待っていた。

そして、その夜、一陣の風と共に、あの女(ひと)が私の前に姿を現した。

彼女は、いつものように、妖艶な笑みを浮かべていた。

「君は何故、僕に逢いに来た?」

私は、彼女の目を見据えて、そう尋ねた。

それは、私が初めてこの女(ひと)に逢った、高校時代にも聞いた事だった。

「前にも言ったでしょう?貴方は、私の想い人に、とてもよく似ているから…」

彼女は、そう言った。

「そうか…。でも、僕は君の想い人じゃないから。僕は、僕だから…」

私がそう言うと、彼女は、

「そんな事、わかってる。私は、貴方の事を、ずっと愛していたのよ…」

と、言っていた。

その口調は、少し怒っているようにも聞こえた。

しかし、私は、彼女に対し、

「有り難う。でも、僕には大切な人が居るから…」

と、言った。

「それに、僕と君は、住む世界が違う。だから、一緒には過ごして行けない。そうだろう?」

私が一気に言うと、彼女は、黙ってその言葉を聞いていた。

「…そう、わかったわ。私、本当は今日、貴方を私の世界に連れて行くつもりだった…。でも、貴方がそう言うなら、仕方ないわ」

そう言った彼女の目には、涙が光っていた。

「…私、もう二度と貴方の前には姿を現さないわ…。それで良いわね?」

彼女は、そう念を押す。

私は、黙って頷いた。

彼女は、私に近付き、口づけをした。

その口づけは、少し涙の味がした。

「…その人を、これからも大切にしてあげて…。さよなら…」

最後に彼女はそう言い残し、そして、霧と共に姿を消した。

気が付くと、私の手には、あのルージュの口紅が有った…。

 

<終章・『夢浮橋』>

 

 

「とうとう、曲が出来たのね!!」

ユウコが、表情を輝かせていた。

私は遂に、久し振りに会心の曲を作る事が出来た。

我ながら、本当に素晴らしい曲が書けたと自負していた。

「私、本当に心配してたけど…。こんなに素敵な曲が書けるなんて、貴方、やっぱり凄いわ!!」

ユウコに褒めてもらい、私も照れ臭かった。

「有り難う…」

私は、そう答えたが、実はこの曲は、あの女(ひと)の事を思って作った曲だった。

そう、満月の夜に逢っていた、夢とも現(うつつ)ともつかない、不思議なあの女(ひと)の事を…。

「この曲、何ていうタイトルなの?」

ユウコに聞かれ、私はこう答えていた。

「この曲は、『Moon Light Lover』っていう曲だよ…」

 

 

 

 

『Moon Light Lover』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

夏のルージュで描いた合図(サイン)

手の掌(ひら)に……

欲望に負けそうな 嗚呼 夜もある

 

濃(こま)やかな Moon Light

頬に浴びて囁く 誘惑の Mid-Night

今宵天使も濡れている

 

愛がスローに満ちたワイン 

酔わせて……

噂になりそうな 嗚呼 恋の味

 

匂艶(にじいろ)の Good Time

君を抱いて搦めた 情熱の Night Time

夢の瞬間(とき)は逃げてゆく

 

行き過ぎたくらい 愛されてスゴイ Woo, Baby

いつ果てない Love Touch

命のかぎりに

堕ちそうなくらい 君無しじゃ辛い Woo, Baby

星屑が消える頃 波音も途絶えた

 

あのルージュで描いた合図(サイン)

この胸に……

今にも泣きそうな 嗚呼 君がいる

 

柔らかな Sunshine

何も言わず涙の静寂は Good-Bye

無情に夏は遠去かる

 

惚れ過ぎたくらい 愛しくてスゴイ Woo,Baby

夢儚(はかな)い Love Touch

この世の果てまで

折れそうなくらい サヨナラは辛い Woo, Baby

泡沫(うたかた)の恋は何故 面影を残すの?

 

濃(こま)やかな Moon Light

昨夜(ゆうべ)君に囁く 誘惑の Mid-Night

今宵天使は泣いている

 

行き過ぎたくらい 愛されてスゴイ Woo, Baby

いつ果てない Love Touch

命のかぎりに

堕ちそうなくらい 君無しじゃ辛い Woo, Baby

艶(あで)やかな口づけを交わすのは 月明かりの下で

ここ最近、少し忙しく、なかなかブログを書く時間が取れなかったが、

私は、このブログで記事を書く時は、一つの記事に時間をかけて書く事が多いので、

その時間が取れない時は、このブログの更新も、滞ってしまいがちである。

なので、今「連載中」の記事も、ちょっと間が空いてしまい、申し訳ないが(?)、

今回は、そういう事情から、ちょっと「軽め」の記事を書かせて頂く。

 

 

私は、毎年この季節になると、ワクワクする。

何故かと言えば、私は「桜」の花が大好きだからである。

長い冬が終わり、春が訪れると、日本中で「桜」の花が咲き乱れる季節となるが、私は満開になった「桜」の花を見るだけで、とてもテンションが上がってしまう。

「ああ、今年も桜の季節が来たなあ…」

と思い、あちらこちらで、満開の桜の木を見ては、その桜の木を眺めたり、写真をバシャバシャと撮りまくったりしてしまう。

そして、今年(2024年)の3月は、とても寒かったので、例年よりも「桜」の開花が遅れており、ようやく満開の季節を迎えようとしている。

という事で、今回は、私が大好きな「桜」に関する「小話」を、ちょっと書いてみる事とする。

 

<日本武道館(千鳥ヶ淵)の「桜」~法政大学の入学式で見た満開の「桜」の思い出>

 

 

日本には「桜」の名所は数多いが、

中でも有名なのが、日本武道館(千鳥ヶ淵)「桜」である。

日本武道館の周りの「千鳥ヶ淵」には、沢山の「桜」の木が有り、

春になると、この千鳥ヶ淵の「桜」が咲き乱れるが、何しろ、とても数が多いので、見る者を圧倒してしまうほど壮観である。

そして、日本武道館では、首都圏のいくつかの大学が、入学式や卒業式を行なっているが、

我が法政大学も、日本武道館で入学式と卒業式を行なっている。

 

 

私は、今から20数年前、法政大学に入学し、日本武道館での入学式に臨んだが、

ちょうど、日本武道館(千鳥ヶ淵)の「桜」は満開であり、それはそれは、本当に素晴らしい眺めだった。

「すげーな、武道館の桜は…」

私は、息を呑んでしまったものである。

私は今でも、毎年のように、日本武道館(千鳥ヶ淵)「桜」を見に行っているが、

やはり、ここで見る「桜」の美しさは格別である。

そして、日本武道館(千鳥ヶ淵)「桜」を見る度に、法政大学の入学式の思い出が蘇って来る気がする。

 

<法政大学・市ヶ谷キャンパス周辺の、外濠の「桜」>

 

 

さて、法政大学の市ヶ谷キャンパスは、

JR飯田橋駅とJR市ヶ谷駅の、ちょうど真ん中辺りに有るが、

その法政大学の市ヶ谷キャンパスは、皇居(かつての江戸城)の外濠沿いに有る。

法政大学の校歌に、

「見はるかす窓の 富士が峯の雪 蛍集めむ 門の外濠…」

という歌詞が有るが、法政の校歌を作詞した佐藤春夫教授(※作家・詩人としても著名)が、法政の周辺の景色の美しさを端的に表している、素晴らしい歌詞である。

そして、法政の校歌にも謳われている、

「門の外濠」

に沿って、沢山の「桜」の木が有り、春になると、「外濠」沿いの桜が一斉に咲き誇る。

 

 

そして、法政の市ヶ谷キャンパスの「外濠」沿いの「桜」は、

前述の日本武道館(千鳥ヶ淵)の「桜」に勝るとも劣らないというか、

東京都内でも有数の「桜」の名所である。

法政に入った新入生は、入学式を終えると、ゾロゾロと法政の市ヶ谷キャンパスに向かうが、

そこでも、新入生達は、美しい「桜」の景色を堪能する事が出来る。

「ああ、法政に入ったのだなあ…」

と、法政の新入生が実感するのは、実は、その景色を見た時かもしれない。

 

<憧れのブルートレイン「さくら」号~たった一度だけ乗車した「さくら」号の思い出>

 

 

私の母方の祖父母は、もう亡くなってしまったが、祖父母は長崎県に住んでいた。

そして、毎年、夏休みになると、私の家族は長崎県の祖父母の家に遊びに行っていたが、

私の家族は、東京から長崎県に行くのに、必ず新幹線と特急を乗り継いで行っていた。

つまり、飛行機には乗らず、わざわざ列車で行っていたのだが、それは何故かと言うと、私が、

「飛行機は絶対に嫌だ」

と、ゴネていた(?)からである。

私が幼児だった頃は、飛行機で長崎県に行っていた事も有ったようだが、

1985(昭和60)年、あの「日航機事故」が起こったのを見て、私は子供心に、恐怖で震え上がった。

それ以来、私は「飛行機」が嫌いになってしまった(?)が、後年、大人になってから、海外旅行にも行くようになって、ようやく少しは「飛行機嫌い」も治った(?)が、私は大人になるまで飛行機には絶対に乗らなかった。

そして、私は子供の頃、電車が大好きだった事もあり、

「新幹線に乗りたい」

と、親にねだり、それで私の家族は毎年必ず、新幹線と特急を乗り継いで、東京から長崎県まで行っていた。

ちなみに、新幹線は博多が終点なので、博多から長崎県に行くためには、博多で特急に乗り換える必要が有った。

そして、確か私が10歳頃だったと思うが、私は親に、またしても、こんなワガママを言ってしまった。

「ブルートレインに乗りたい」

そう、私はその年は新幹線ではなく、当時、東京~長崎県で運行していた寝台特急、

「ブルートレイン」

に乗って、長崎県に行きたいと言ったのである。

寝台特急は、新幹線の線路網が全国に張り巡らされた今の時代は、ほぼ絶滅寸前になっているが、かつては国鉄(JR)の「花形」だった。

 

 

「電車オタク少年」

だった私は、勿論、

「ブルートレイン」

の事も知っており、当時、非常に憧れていたものである。

そして、今思えば、本当にワガママばかり言ってしまい、親には申し訳無かったが、

「どうしても、ブルートレインに乗りたい」

と、親に「おねだり」をしてしまった。

私の親も、その願いを聞き入れてくれて、私はとうとう、憧れの「ブルートレイン」に乗る事が出来たが、

東京~長崎県を走る「ブルートレイン」の愛称は、

「さくら号」

であった。

こうして、私は遂に、

「ブルートレイン・さくら号

に乗り、憧れの寝台特急の旅を楽しんだのであるが、

当時、「さくら号」は二段ベッドになっており、私と弟は、

「どっちが上で寝るか」

とか、どうでも良い事で喧嘩(?)していたものである(※あまり覚えていないが、確か私は上の段は弟に譲った気がする)。

そして、その寝台特急で眠りに落ちたが、真夜中に一度、何処かの駅に停車していた時、私は目を覚まし、真夜中の駅のホームを車窓から眺めたりしていた。

そういう、「非日常」の体験は、本当に忘れ難い。

という事で、私の人生で、

「ブルートレイン・さくら号

に乗ったのは、後にも先にも、その時の一度だけだったが、未だに強烈な思い出となって残っている。

そして、ワガママばかり言っていた私の願いを聞いてくれた、私の親にも、大変感謝している。

 

<『名奉行 遠山の金さん』と「遠山桜」の「桜吹雪」>

 

 

私は、かつて「時代劇」が大好きであった。

今では、「時代劇」といえば、NHKの大河ドラマぐらいしか、やらなくなってしまったが、

かつては、NHKは勿論、民放でも沢山の「時代劇」が放送されていた。

中でも、私が好きだったのは、

「遠山の金さん」

のシリーズである。

「遠山の金さん」

とは、かつて、江戸時代に実在した、遠山金四郎という「名奉行」を主人公とした物語であり、

中村梅之助・市川段四郎・橋幸夫・杉良太郎・高橋英樹・松方弘樹・松平健…

といった、名だたる名優達が、

「遠山の金さん」

を演じていた。

そして、私が大好きだったのは、テレビ朝日で放送されていた、松方弘樹による、

『名奉行 遠山の金さん』

シリーズである。

 

 

「遠山の金さん」

というのは、基本的には、ワンパターンの話である。

遠山金四郎が、自らの身分を隠し、

「遊び人の金さん」

という、正体不明の男に扮して、江戸の街に出る。

そして、遊び人の「金さん」が、悪党どもの「悪事」の現場を見付け、密かに探索をする。

 

 

そして、物語の終盤、悪党どもによる決定的な「悪事」の現場に、

「金さん」

が踏み込むと、彼はもろ肌を脱いで、右の背中から右腕にかけて彫られている、

「桜吹雪」

の見事な入れ墨を、悪党どもに見せつけ、チャンバラで悪党どもをやっつける。

やがて、奉行所から、

「御用だ!!」

の声と共に、捕り方の役人達が踏み込んで来て、悪党どもを一網打尽にした所で、

「金さん」

は、何処かに姿を消してしまう。

 

 

そして、舞台は変わり、

「北町奉行所」

の奉行として、真面目くさった顔の遠山金四郎が登場し、その奉行所の「お白洲」で、先程、一網打尽にされた悪党どもが勢揃いしている。

「一同の者、面(おもて)を上げよ…」

遠山金四郎に言われ、悪党どもと、悪党に酷い目に遭わされて来た証人が、顔を上げる。

そして、遠山金四郎による裁きが始まり、

「その方(ほう)らは、これこれ、しかじかの悪事を働いた。それに相違は無いか?」

と、遠山は悪党どもを問い詰める。

 

 

しかし、悪党どもは、遠山に対しても、全く悪びれる様子も無く、

「お奉行様、滅相もございません。私ども、全く身に覚えが無い事でございます…。何か証拠は有るのですか?」

などと言って、すっとぼけるのである。

そんな悪党どもの様子を見て、証人(※大体、女性が多い)は、

「とぼけないで!!あんた達、よくもそんな事をぬけぬけと…」

と、怒りに震えている。

「お奉行様。こいつは、何も証拠も無いのに、デタラメを言っているのです」

悪党どもは、証人の事を嘲笑い、更にヌケヌケと、白々しい事を言っている。

「お奉行様。この人達の悪事を見ていた、証人が居ます。金さんです。遊び人の金さんが、この人達の悪事を全て見ていました…」

証人は必死に訴えるが、悪党どもは、

「何だい。その金さんって奴は!?おい、金さんとやらが本当に居るなら、ここに連れて来たらどうだい!?」

などと言って、ギャーギャーと喚きながら、大騒ぎをする。

「金さんさえ居れば…」

証人は、唇を噛み、悔しさのあまり、下を向く。

 

 

「おい!!てめえら、喚くんじゃねえ!!」

突然、お白洲に怒声が響き渡った。

それは、先程から、悪党どもと証人のやり取りを聞いていた、遠山金四郎その人の声であった。

遠山は、「お奉行様」らしく、真面目くさった調子で、淡々と吟味を進めていた。

しかし、その遠山が突如、声を荒らげ、

「べらんめえ調」

の口調になったのを聞き、悪党どもはビックリして黙り込んだ。

「さっきから、黙って聞いてりゃ、言いたい事をぬかしやがって…」

遠山はそう言うと、持っていた扇子を放り投げ、着物を裾を掴むと、前の方ににじり寄って来た。

「金さんを連れて来いだと!?金さんなら、とっくに此処に来てるんだよ…」

遠山は、悪党どもを睨みつけながら、

「悪事千里を走ると言うが、この世に悪の栄えた例(ためし)は無(ね)えぞ…」

などと、芝居がかった調子で、「独白」を続ける。

 

 

「あの日、見事に咲いた、遠山桜・夜桜を、まさかテメエら、見忘れたとは言わせねえぞ!!」

遠山は、啖呵を切って、もろ肌を露わにした。

そして、遠山の右の背中から右腕にかけて、見事な、

「桜吹雪」

の入れ墨が彫ってあった…。

そう、遠山金四郎こそ、あの「遊び人の金さん」の正体なのであった。

「おうおう、悪党!!これでも、まだ白(しら)を切ろうってのか!?」

遠山に凄まれ、観念した悪党どもはガックリとうなだれた。

「裁きを申し渡す。〇〇と〇〇(※悪党の親玉)、打ち首獄門!!余の者、終生、遠島(※島流し)を申しつく。引っ立てい!!」

遠山が遂に裁きを下し、悪党どもは引き立てられて行く…。

そして、遠山は証人に対し、

「大変な目に遭っちまったな…。でも、これからは強く生きて行くんだぜ」

と言って、優しく声をかける。

「お奉行様。有り難うございます…」

証人は、喜びの涙を流していた…。

それを見た遠山は、満足気に頷くと、

「これにて、一件落着!!」

と、最後の決め台詞を吐き、物語は幕を閉じる…。

そして、「金さん」を演じた松方弘樹が歌う、

『華のうちに』

というエンディングテーマが流れるが、その歌詞には、

「桜 花びら 散る前に 咲いているうちに…」

という箇所が有る。

吉幾三が作詞・作曲した名曲であるが、この曲を聴くと、

「今回も、遠山の金さんが、見事な裁きを見せてくれた…」

と、視聴者は大満足するわけである。

…という事で、

「遠山の金さん」

は、毎回、このパターンが繰り返される、

「偉大なるワンパターン」

であるが、それが非常に良いのである。

それにしても、今の世の中、汚職まみれの政治家や、薄汚い「悪党」が多すぎであるが、

「今こそ、そういう悪党どもを、遠山の金さんに、バッサリと裁いて欲しい」

と思ってしまうのは、私だけだろうか…。

 

<サザンオールスターズの「サクラ」と『さくら』>

 

 

さて、私が大好きなサザンオールスターズについて、

私はこのブログで、沢山の記事を書いて来ているが、

1977(昭和52)年、アマチュア・バンド時代のサザンが、

「イースト・ウエスト'77」

という、アマチュア・バンドのコンクールに出場した時、

サザンは、青山学院大学の音楽サークル、

「ベターデイズ」

の後輩達を、会場に大量に動員して、サザンに大声援を送ってもらっていた。

そう、これは、

「サクラ」

を動員したという事であるが、アマチュア・バンド時代のサザンは、

「サクラ大作戦」

を、よく活用しており、これは当時のサザンの「得意技」であった。

そして、この「サクラ大作戦」は功を奏し、見事にサザンはこの大会で入賞を果たし、プロ・デビューのキッカケを掴んだ。

 

 

それから20年余りたった、1998(平成10)年の事、

「デビュー20周年」

を迎えていたサザンオールスターズは、

『さくら』

というアルバムをリリースした。

このアルバムは、全体的にダークな雰囲気というか、渋いアルバムという印象が有るが、

同年(1998年)リリースされた、サザンのベストアルバム、

『海のYeah!!』

が、300万枚を超える大ヒットを記録したのに対し、

『さくら』

は、ミリオンセラーに届かなかった。

この結果に対し、桑田佳祐は少なからずショックを受けたが、

「渾身の力作のオリジナル・アルバムよりも、ベストアルバムの方が売れてしまうのか…」

と、桑田は何とも複雑な思いだったという。

私は、『さくら』はとても好きなアルバムなのだが、

「必ずしも、自分が望んだ通りの結果になるとは限らない」

と、あのサザンでさえ、そういう事が有るのかと思い、サザンファンの私としても、印象深い出来事であった。

 

<「桜」の名が付く有名人①~桜田淳子>

 

 

普段から、このブログを読んで下さっている方は、お気付きと思うが、

私は山口百恵のファンであり、このブログでも、色々なパターンで、山口百恵について書いているが、

その山口百恵は、当初、森昌子・桜田淳子・山口百恵…という、

「花の中3トリオ」

として売り出されていた…という事も、よく書いている。

そして、当初、この3人の中では、桜田淳子が最も人気が有ったが、

やがて、山口百恵桜田淳子を追い抜き、2人の人気は逆転した…というような話も、既に何度も書いて来たが、

百恵が、1980(昭和55)年に、21歳の若さで引退してしまい、

「伝説の人」

として、未だに語り継がれているのに対し、桜田淳子は、その後、あまりにも波乱万丈の人生を歩んでいる。

「人生とは、何が起こるか、わからないものだなあ…」

と、思わされてしまうが、私はいつも山口百恵「引き立て役」のように桜田淳子を描いてしまい、非常に申し訳無く思っているので、

「桜田淳子も、素晴らしい歌手だった」

という事を、この場を借りて、申し上げておきたい。

 

<「桜」の名がつく有名人②~Mr.Childrenの桜井和寿>

 

 

 

私が高校生だった頃、1990年代に、最も売れていたバンドは、

桜井和寿率いる「ミスチル」ことMr.Childerenであった。

そして、「ミスチル」の全盛期は、サザンは「ミスチル」に押され気味(?)な所が有ったが、

1995(平成7)年、桑田佳祐&Mr.Childerenという、超豪華なコラボが実現し、

桑田佳祐が作詞・作曲した、

『奇跡の地球(ほし)』

で、共演していたが、この時、桑田佳祐は、

「桜井和寿は、50年に一人の天才だ」

と、語っていた。

桑田が、そこまでベタ褒めするアーティストは、なかなか居ないと思われるが、

そういう意味でも、この言葉は印象深い。

「そうか、桑田さんがそこまで言うって事は、ミスチル(桜井)って凄いんだろうな…」

と、私は思ったものである。

だが、私は、

「桑田佳祐こそ、何百年に一人の天才だ」

と思っているが、きっとそれはサザンファンなら皆、同じ思いではないだろうか…。

 

<「桜」の名が付く有名人③~BUCK-TICKの櫻井敦司>

 

 

昨年(2023年)は、多くの有名アーティストがこの世を去ったが、

2023(令和5)年10月19日、ロックバンド、BUCK-TICKのボーカル、櫻井敦司が、ライブの最中に脳幹出血で倒れ、その後、享年57歳で亡くなってしまう…という衝撃的なニュースが有った。

あまりにも若すぎる旅立ちに、多くのファンは悲しみに暮れたが、きっと、ご本人も無念だったに違いない。

 

 

櫻井敦司という人は、何処かミステリアスというか、

生前、あまりテレビには出演していなかったが、そんな櫻井敦司が、本当に珍しく、テレビのトーク番組に出た事が有った。

NHKのEテレの、

「スイッチインタビュー・達人達」

という番組は、毎回、様々なジャンルの人達が登場し、お互いにインタビューをし合うという番組なのだが、

この番組で、昔からBUCK-TICKの大ファンだったという、芸人のヒロシと、櫻井敦司との「対談」が実現した。

櫻井は、意外に気さくというか、穏やかな語り口の人だったが、

「櫻井さんは、何故、人の死とか、そういう事をテーマにした歌詞を多く書かれているのですか?」

という、ヒロシからの質問に対し、櫻井敦司は、

「人の死って、わからない世界で、とても怖いからこそ、惹かれてしまうんですよね。僕が、日常を朗らかに歌ったとしても、僕自身、あまり面白くないですし…」

という事を語っていたのが、非常に印象的であった。

そんな彼が、本当にこんなにこの世を去ってしまうとは、ご本人も思っていなかったのではないだろうか…。

しかし、BUCK-TICKの音楽は、これからも聴き継がれて行くに違いない。

 

<『男はつらいよ』シリーズの「寅さん」と、妹「さくら」>

 

 

 

 

私が、このブログでよく書いている「さくら」と言えば、

『男はつらいよ』

シリーズに登場する、「寅さん」こと車寅次郎(渥美清)の妹・さくら(倍賞千恵子)である。

「さくら」

は、定職にも就かず、不安定な「テキヤ」稼業を続ける兄の「寅さん」の身を案じ、

いつも「寅さん」の事を優しく見守っている、心優しい妹であるが、

「寅さん」

は、そんな妹が居るからこそ、あんなに好き勝手に、自由気儘に生きて行けたのではないだろうか。

それにしても、

「さくら」

というのは、とても可愛いらしい名前であるが、

「寅さん」「さくら」

という、全く性格の異なる兄妹のキャラクターを創造した山田洋次監督は、やはり素晴らしい。

そして、私は「寅さん」シリーズを見ると、「寅さん」が大好きだった、今は亡き父を思い出してしまう。

 

<大河ドラマと「桜」~『翔ぶが如く』(1990)、『西郷どん』(2018)、そして『八重の桜』(2013)>

 

 

 

私は、子供の頃から、NHKの大河ドラマが好きである。

とは言っても、毎年毎年、必ずハマっているわけではないが、

それでも、自分の琴線に触れた作品に出逢うと、未だにドップリとハマってしまう。

そのNHK大河ドラマは、かつて、西郷隆盛・大久保利通を主人公とした、

『翔ぶが如く』(1990)、『西郷どん』(2018)

という大河ドラマを放送していたが、西郷と大久保といえば、薩摩(鹿児島)の出身であり、

薩摩の象徴といえば、

「桜島」

である。

私は、「幕末物」の大河はとても好きなので、

『翔ぶが如く』『西郷どん』

も、大変面白く見ていたが、やはり折に触れて出てくる、

「桜島」

の光景が印象深い。

実は私は、まだ一度も鹿児島に行った事は無いので、いつかは、

「桜島」

を見てみたいものである。

 

 

そして、NHK大河ドラマにおける、

「桜」

と言えば、とても印象深かったのは、

2013(平成25)年に放送された、

『八重の桜』

である。

幕末の時代の会津で、

「幕末のジャンヌ・ダルク」

と称された、新島八重(綾瀬はるか)の激動の生涯を描いた作品だが、

西郷隆盛・大久保利通のような「大物」を主役にした作品も良いが、

このように、一般的にはあまり知られていない人物を主人公にした作品というのも、とても面白い。

そして、『八重の桜』の音楽を手掛けたのは、坂本龍一であった。

「坂本節」

とも言うべき、重厚なテーマ曲が、とても印象深かった。

 

<今年(2024年)の大河ドラマ『光る君へ』にも出演していた、井上咲楽>

 

 

 

さて、最近、私が個人的に注目している、

「さくら」

という名前の芸能人として、

「井上咲楽(いのうえ・さくら)」

という人が居るが、私はかつて、このブログで、

ロシアのウクライナ侵攻が勃発した時(2022年)、

「ロシアとウクライナの歴史」

という連載記事を書いた(※まだ未完である)。

その時の記事で、NHK-BSの、

「ザ・プロファイラー」

という番組で、ロシア革命の立役者・レーニンを特集した回で、井上咲良がゲストで出演していたが、

その時、私は井上咲良を見て、

「とても可愛くて、聡明な人だな…」

という印象を受けたものである。

 

 

 

そんな井上咲良が、今年(2024年)、大注目を集めている。

現在、放送中の大河ドラマ、

『光る君へ』

で、井上咲良は大河ドラマ初出演を果たしたが、

『光る君へ』

では、ちょっとエキセントリックな花山天皇(本郷奏多)に溺愛される、藤原忯子という后の役を、井上咲良が演じていたが、登場シーンは少なかったものの、藤原忯子(井上咲良)は、とてもインパクトが強い登場人物であった。

なお、藤原忯子(井上咲良)は、残念ながら病で若くして亡くなってしまい、悲嘆に暮れた花山天皇(本郷奏多)が、藤原氏の陰謀により、無理矢理に退位させられるという、

「花山天皇退位事件」

が、『光る君へ』で描かれ、とても見応えがあり、非常に面白かった。

 

 

なお、『光る君へ』では、若くして病死してしまう役を演じていた井上咲良は、実は大変なスポーツ・ウーマンであり、

つい先日、行なわれた、

「東京マラソン」

では、3時間26分というタイムで「完走」を果たしている。

「あの藤原忯子が、マラソンで完走した!?」

と、『光る君へ』のファンは、非常に大喜びした(?)という事を、ここに付け加えさせて頂く。

 

<「桜の季節」の「春の珍事」で終わる事が多い(?)ベイスターズの快進撃…>

 

 

では最後に、私が愛する横浜DeNAベイスターズの話題を、一つ。

今年(2024年)ベイスターズに入団した新人・度会隆輝(わたらい・りゅうき)は、かつて父親の度会博文がヤクルトで活躍していたという、

「親子鷹」

のプロ野球選手という事で、入団当初から話題を集めていたが、

そんな度会が、今年(2024年)の開幕から、大活躍を見せている。

今年(2024年)のオープン戦で大活躍し、開幕一軍入りを果たした度会隆輝は、

「1番・ライト」

で、開幕戦から先発出場を果たすと、何と、度会は開幕戦のデビュー戦から2試合連続ホームランを放った。

これは、セ・リーグ史上初の快挙だったが、そんな度会の活躍にも引っ張られ、

現在、我が横浜DeNAベイスターズは、

「5勝2敗」

で、セ・リーグでただ1球団のみ「貯金」を独占し、首位を走っている。

しかし、ベイスターズが「桜の季節」に強いというか、春先だけは絶好調…というのは、実はよく有る事である。

「春の珍事」

などと揶揄されてしまう事も多いが、何故なら、結局はベイスターズは春先以降は失速してしまうパターンばかりだからである。

しかし、今年(2024年)こそは、「春の珍事」だけで終わらせず、ベイスターズが「優勝」して欲しいと、私は熱望している。

そして、秋口には、

「サクラサク」

という、ベイスターズの朗報を聞きたいものである。

1992(平成4)~1996(平成8)年にかけて、サザンオールスターズ松任谷由実(ユーミン)は、テレビドラマとのタイアップで大ヒット曲を連発していたが、そんな1990年代のサザンとユーミンの黄金時代を描く、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

を、当ブログにて断続的に連載中である。

前回は、1995(平成7)年にリリースされたユーミン(松任谷由実)の楽曲『輪舞曲(ロンド)』と、その曲が主題歌として起用され、松本明子が主演に抜擢された、同年(1995年)の日本テレビのドラマ『たたかうお嫁さま』を、取り上げた。

 

 

…という事で、これまで書いて来た、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

のシリーズは、下記の通りである。

 

①1992年『涙のキッス』と『ずっとあなたが好きだった』

②1993年『真夏の夜の夢』と『誰にも言えない』

③1993年『エロティカ・セブン』と『悪魔のKISS』

④1994年『Hello, my friend』と『君といた夏』

⑤1994~1995年『祭りのあと』と『静かなるドン』

⑥1994~1995年『春よ、来い』

⑦1994年『砂の惑星』と『私の運命』(第1部)

⑧1995年『命の花』と『私の運命』(第2部)

⑨1995年『あなただけを ~Summer Heart break~』と『いつかまた逢える』

⑩1995年『輪舞曲(ロンド)』と『たたかうお嫁さま』

 

…というわけで、前回の記事で「1995(平成7)年編」まで書き終わったので、

今回は、このシリーズの最終章である「1996(平成8)年編」を書くが、

その「1996(平成8)年編」ユーミン(松任谷由実)の章として書かせて頂くのが、

『まちぶせ』

という楽曲である。

 

 

『まちぶせ』

といえば、元々、ユーミン(松任谷由実)が作詞・作曲し、1981(昭和56)年に石川ひとみが歌い、大ヒットした曲として有名だが、1996(平成8)年に、荒井由実名義でユーミン(荒井由実)がセルフ・カバーして、15年越しに、ユーミン(荒井由実)本人も大ヒットさせた。

いや、というよりも、元々『まちぶせ』という曲は、1976(昭和51)年に、ユーミン(荒井由実)三木聖子のために書いた曲であり、三木聖子に楽曲提供されたものである。

そこから起算すると、ユーミン(荒井由実)本人が大ヒットさせるまで、実に20年越しの楽曲だった…という事になる。

というわけで、今回は「作家」としてのユーミン(荒井由実・松任谷由実)にスポットを当てる事とする。

それでは、「1992~1996年のサザンとユーミン」の「第11回」、「1996年『まちぶせ』(前編)」を、ご覧頂こう。

 

<天才少女・ユーミン(荒井由実)~1971(昭和46)年、当時17歳で「作曲家デビュー」を果たし、翌1972(昭和47)年に歌手デビュー>

 

 

 

 

荒井由実(あらい・ゆみ)は、1954(昭和29)年1月19日、

東京・八王子の「荒井呉服店」を営む両親の下、3男2女の第4子(次女)として生まれた。

「呉服屋のお嬢様」

だった荒井由実は、何不自由なく育ったが、幼少期から音楽に天賦の才が有り、6歳からピアノ、11歳から三味線、14歳からピアノを習い始め、それら全ての楽器を弾きこなしていたという。

 

 

 

1966(昭和41)年、荒井由実立教女学院中学に入学したが、

荒井由実が、その立教女学院中学在学中の14歳頃、後にブランド・コンサルティング会社、シー・アイ・エーの創業者となり、当時、彼女と親しかった、シー・ユー・チェンによって、

「ユーミン」

というニックネームを付けられた。

彼女自身、「ユーミン」という呼び名を、とても気に入り、以後、「ユーミン」という愛称が定着する事となった。

という事で、以後、この記事でもユーミン(荒井由実)として、話を進める事とする。

そのユーミン(荒井由実)は、前述の通り、音楽に天才的な才能を発揮していたが、彼女は絵もとても上手く、音楽と絵画に明け暮れる青春時代を過ごした。

そして、中学時代に、ユーミン(荒井由実)は、文化人が多数集まる、港区麻布台のイタリアン・レストラン「キャンティ」にも出入りし、文化人達と交流し、刺激を受けていた。

そのようなエピソードを見ると、ユーミン(荒井由実)は何とも早熟というか、大人びた女の子だったようである。

 

 

 

 

その後、ユーミン(荒井由実)立教女学院高校に進学し、本格的に音楽活動を行なったが、

1971(昭和46)年、ユーミン(荒井由実)は高校3年生の頃、

『愛は突然に…』

という曲のデモテープを作ると、この曲が、ザ・タイガースを脱退し、ソロ活動を開始していた、加橋かつみに提供され、レコードとしてリリースされた。

こうして、ユーミン(荒井由実)は当時17歳にして、「作曲家デビュー」を果たした。

つまり、ユーミン(荒井由実)は歌手デビューの前に、まずは作曲家として、世に出たという事になる。

 

 

1972(昭和47)年4月、ユーミン(荒井由実)多摩美術大学に進学したが、

実は、当時のユーミン(荒井由実)は、作曲家志望であった。

だが、当時、ユーミン(荒井由実)と交流が有り、アルファレコードを設立していた、村井邦彦の勧めにより、ユーミン(荒井由実)は歌手としてもデビューする事なった。

1972(昭和47)年7月5日、かまやつひろしのプロデュースにより、ユーミン(荒井由実)は、自らが作詞・作曲した、

『返事はいらない』

というシングルを出し、当時18歳にして、ユーミン(荒井由実)は歌手デビューを果たした。

だが、『返事はいらない』は、あまり売れず、レコード売上も数百枚程度だったという。

しかし、17歳で作曲家デビュー、18歳で歌手デビュー(※しかも、自ら作詞・作曲)したというのだから、ユーミン(荒井由実)は、やはりタダ者ではない。

紛れもなく、ユーミン(荒井由実)は「天才少女」であった。

そして、この後、ユーミン(荒井由実)の快進撃が始まる事となった。

 

<1973(昭和48)~1976(昭和51)年…ユーミン(荒井由実)の怒涛の快進撃~歌手としても作曲家としても大ブレイク>

 

 

 

 

1973(昭和48)年11月20日、ユーミン(荒井由実)は、村井邦彦のプロデュースにより、ファースト・アルバム、

『ひこうき雲』

をリリースした。

リリース当初、『ひこうき雲』は、あまり売れていなかったが、やがてラジオの深夜番組で取り上げられたのをキッカケに、ジワジワと売れ始め、約1年半かけて、オリコン最高「9位」にまで上昇し、最終的には約26万枚を売り上げる大ヒット作となった。

 

 

 

なお、アルバムと同タイトルの楽曲、

『ひこうき雲』

は、遥か後年、2012(平成24)年に、宮崎駿監督の映画、

『風立ちぬ』

の主題歌に起用され、リバイバル・ヒットをした…というのは、皆様もよくご存知の通りであるが、

『ひこうき雲』

によって、ユーミン(荒井由実)はアーティストとしての実力を示す事となった。

 

 

 

1975(昭和50)年8月1日、ユーミン(荒井由実)が作詞・作曲し、ばんばひろふみ・今井ひろしのフォーク・デュオ、バンバンに楽曲提供された、

『「いちご白書」をもう一度』

がリリースされたが、この曲はオリコン「1位」を記録する、爆発的な大ヒットを記録した。

バンバンは、当時、全く売れないグループだったが、

『「いちご白書」をもう一度』

により、大ブレイクを果たす。

後に、ばんばひろふみも、

「ユーミンさんのお陰で、歌手としての寿命が延びた」

と、感謝の言葉を残しているが、この曲の大ヒットにより、

「作家・荒井由実」

の名声は、不動の物となった。

 

 

ちなみに、

『いちご白書』

というのは、1968(昭和43)年のコロンビア大学の学園紛争を題材として、1970(昭和45)年に公開された映画のタイトルであるが、ユーミン(荒井由実)は、その『いちご白書』という映画のタイトルを、自らが作った楽曲に取り入れ、それがユーミン(荒井由実)に提供された…という事である。

1975(昭和50)年には、既に日本でも学生運動は「下火」になっていたが、まだ人々の間に、学生運動の記憶が生々しく残っていた頃でもあり、だからこそ、

『「いちご白書」をもう一度』

は、その頃の記憶を呼び起こさせるような効果が有り、それが、大ヒットに繋がったのではないかと思われる。

 

 

 

さて、1975(昭和50)年10月5日、ユーミン(荒井由実)は、自身通算6枚目のシングル、

『あの日にかえりたい』

をリリースしたが、この曲も、オリコン「1位」の大ヒットとなり、

遂に、ユーミン(荒井由実)は歌手としても大ヒット曲を出した。

『あの日にかえりたい』

は、初期ユーミン(荒井由実)を代表する名曲中の名曲であるが、

『ひこうき雲』『ルージュの伝言』『あの日にかえりたい』

などを聴くと、ユーミン(荒井由実)の天才ぶりが本当によくわかる。

一言で言えば、感性がとても瑞々しいというか、他の人では絶対に真似できないような個性が有る。

そして、日本人離れした「お洒落」さも、ユーミン(荒井由実)の音楽の魅力である。

 

 

 

 

 

以後、ユーミン(荒井由実)は、

・『CORBALT HOUR(コバルト・アワー)』(1975)

・『YUMING BRAND(ユーミン・ブランド)』(1976)

というアルバムを立て続けに大ヒットさせ、

「第一次・ユーミン(荒井由実)ブーム」

を巻き起こす。

こうして、デビューして数年、当時22歳にして、ユーミン(荒井由実)は早くもアーティストとしての地位を確立してしまった。

 

 

なお、ユーミン(荒井由実)がプロのアーティストとして大活躍していた頃、桑田佳祐・原由子らは、まだ青山学院大学の学生であり、後にサザンオールスターズの原型となる学生バンドで活動していた。

ユーミン(荒井由実)は、桑田佳祐から見れば、2歳年上だったが、その時、桑田はユーミン(荒井由実)について、何を思っていたのであろうか…。

しかし、桑田佳祐ユーミン(荒井由実)も、まさか遥か後年に、「紅白」の舞台で共演する事になろうとは、夢にも思っていなかったに違いない。

 

<1976(昭和51)年…松任谷正隆と荒井由実が結婚~以後、「松任谷由実」として音楽活動を継続>

 

 

さて、ユーミン(荒井由実)が歌手や作曲家として大活躍していた頃、ユーミン(荒井由実)は、松任谷正隆というミュージシャンと出逢った。

松任谷正隆は、1951(昭和26)年11月19日生まれで、ユーミン(荒井由実)よりも3歳年上で、慶應幼稚舎から慶應義塾大学まで、ずっと慶応で過ごしていた、生粋の「慶応ボーイ」だったが、松任谷正隆は、吉田拓郎のバックバンドのバンド・マスターなどを務めたり、細野晴臣・鈴木茂・林立夫らと「キャラメル・ママ」(※後に「ティン・パン・アレイ」に移行)というバンドを結成し、活動したりしていた。

そんな凄腕のミュージシャンだった松任谷正隆と、「天才少女」ユーミン(荒井由実)が出逢い、お互いの才能に惹かれ合い、2人は恋人同士となった。

そして、松任谷正隆ユーミン(荒井由実)は、結婚を前提に交際する事となった。

 

 

 

1976(昭和51)年、松任谷正隆との結婚を目前に控えていた、ユーミン(荒井由実)は、

「前々から、大ファンだった」

と公言していた、矢沢永吉と、あるテレビ番組で「共演」している。

何処かの海岸を、ユーミン(荒井由実)永ちゃん(矢沢永吉)が、2人で並んで歩きながら、色々な話をしていたが、当時、ユーミン(荒井由実)は22歳、永ちゃん(矢沢永吉)は27歳だった。

「ユーミンさん、今度、結婚するんだってね」

矢沢永吉にそう聞かれ、

「そうなの。今度に秋にね…」

と、ユーミン(荒井由実)は答えていたが、

「私、きょうだいの中でも下の方だったから、親からも『どうでもいい』っていうか、ほっとかれて育ったから、自分で色々とやるようになったの」

という話もしていた。

「だから、自己顕示欲も強くなったのかも?」

と、ユーミン(荒井由実)は言っていたが、そんな彼女が、アーティストとして優れた才能を発揮するようになったのは、裏を返せば、両親が何でも好きな事をやらせてくれた…という面は有ったもかもしれない。

ちなみに、この当時、既に矢沢永吉は結婚し、子供も2人居たが、

「永ちゃんは、お子さんはミュージシャンにしたいと思ってる?」

と、ユーミン(荒井由実)に聞かれた矢沢は、

「いや、別に何でもいいんだよ。好きな道に進めばいいと思うよ」

と、率直に答えていた。

そんな矢沢に対し、

「私、凄い教育ママになったりしてね…」

と、ユーミン(荒井由実)が答えているのが、印象的であった。

このユーミン(荒井由実)永ちゃん(矢沢永吉)は、デビューは同じ1972(昭和47)年であり(※矢沢永吉は、「キャロル」というバンドを率いてデビュー)、そして、それから50年以上経った今(※2024年現在)も、未だに現役というのが、本当に凄い。

2人とも、誠に偉大なるミュージシャンである。

 

 

 

1976(昭和51)年11月29日、松任谷正隆ユーミン(荒井由実)は、横浜・山手教会で結婚式を挙げた。

以後、荒井由実は、

「松任谷由実(まつとうや・ゆみ)」

という名前で、音楽活動を継続して行く事となるが、

松任谷正隆という伴侶を得た事により、ユーミン(松任谷由実)の音楽活動の幅は、間違いなく広がった。

「ユーミン(松任谷由実)が作詞・作曲し、松任谷正隆が編曲をする」

というパターンが確立され、妻・ユーミン(松任谷由実)が作った楽曲を、夫・松任谷正隆がアレンジし、最高の楽曲に仕上げる…という、

「最強ミュージシャン夫婦」

が、ここに誕生したのである。

この2人は、まさに「運命の出逢い」だった。

 

<ユーミン(荒井由実⇒松任谷由実)の大親友・かまやつひろし~名曲『中央フリーウエイ』を、ユーミンがかまやつひろしの為に作る>

 

 

 

さて、先程、若き日のユーミン(荒井由実)と、永ちゃん(矢沢永吉)との交流について書いたが、

ユーミン(荒井由実)のデビュー曲、

『返事はいらない』

のプロデュースを行なった、「ムッシュ」ことかまやつひろしユーミン(荒井由実)は、大変仲が良く、2人は「大親友」同士の関係だった。

ユーミン(荒井由実)は、あまりテレビには出ない人だったが、

1976(昭和51)年、ユーミン(荒井由実)はTBSの番組、

「セブンスターショー」

に出演し、かまやつひろしと共演している。

そして、この番組で、ユーミン(荒井由実)かまやつひろしは、

『ルージュの伝言』『中央フリーウエイ』

などを一緒に歌ったりしていたが、

『中央フリーウエイ』

は、元々、ユーミン(荒井由実)が、かまやつひろしの為に作った曲だったという。

そして、ユーミン荒井由実⇒松任谷由実になった後も、この2人の交流は、ずっと続いていた。

「ムッシュ(※かまやつひろし)と、ユーミンさんは、お互いにリスペクトし合っていて、本当に仲が良かった。見ていて、羨ましい関係だったね…」

かつて、ザ・スパイダースで、かまやつひろしと盟友だった堺正章は、後に、そう語っている。

 

<中島みゆきの登場~『アザミ嬢のララバイ』(1975)でデビューし、『時代』(1976)で大ブレイクを果たす>

 

 

さて、ユーミン(荒井由実)が大活躍していた頃、

北海道出身の、ある女性歌手が、歴史の表舞台に登場して来た。

それが、北海道出身の中島みゆきである。

中島みゆき(本名:中島美雪)は、ユーミン(荒井由実)よりも2歳年上の、1952(昭和27)年2月23日生まれであるが、中島みゆきは北海道・札幌市の「中島産婦人科」という産婦人科医の院長の娘として生まれた。

「美雪」

という名前は、いかにも北海道の人らしい名前である。

そして、ユーミン(荒井由実)が、

「呉服屋のお嬢様」

だったのに対し、中島みゆきは、

「お医者さんのお嬢様」

であった。

そして、ユーミン(荒井由実)と同様、中島みゆきも、幼い頃から音楽の才能を発揮し、高校生の頃には既に自らオリジナル曲を作り、歌っていた。

1975(昭和50)年、当時、北海道の藤女子大学に通う学生だった中島みゆきは、ヤマハ主催の、

「第9回・ポプコン(ポピュラーソング・コンテスト)」

に出場し、入賞を果たした。

 

 

そして、「第9回ポプコン」の入賞を機に、中島みゆきはプロの歌手としてスカウトされ、

1975(昭和50)年9月25日、

『アザミ嬢のララバイ』

という曲で、デビューを果たした。

なお、ユーミン(荒井由実)同様、中島みゆきも、

「自分で作詞・作曲して、自分で歌う」

という、所謂、

「シンガー・ソング・ライター」

である。

 

 

 

 

 

 

そして、中島みゆきは、「第9回」に引き続き、

「第10回・ヤマハ ポプコン」

に出場し、それと同時に、

「第6回 世界歌謡祭」

にも出場したが、その時に中島みゆきが歌った楽曲、

『時代』

が、共にグランプリを獲得するという、快挙を達成した。

『時代』

は、1975(昭和50)年12月21日、中島みゆきの2枚目のシングルとしてリリースされ、大ヒットを記録した。

こうして、ユーミン(荒井由実)に遅れる事3年、中島みゆきが音楽界の檜舞台に登場して来たが、以後、

「ユーミンVS中島みゆき」

という、2大アーティストが競い合う時代が到来する事となった。

 

<1976(昭和51)年6月25日…ユーミン(荒井由実)が作詞・作曲した『まちぶせ』が、三木聖子のデビュー曲としてリリース~しかし、オリコン最高「47位」と、「不発」に終わる>

 

 

さて、今まで述べて来た通り、ユーミン(荒井由実)は、既に20歳そこそこにして、

「実力派アーティスト」

として、遺憾なく実力を発揮していたが、実は当時のユーミン(荒井由実)は、

「私、当時はアイドルなんて、嫌いだった」

と、後に語っている。

「だから、アイドル達に負けないように、アーティストとして頑張らなきゃと思っていた」

と、その頃の心境について語っていたが、そんなユーミン(荒井由実)が、「アイドル」の楽曲を手掛ける事となった。

1976(昭和51)年、当時20歳だった、三木聖子という新人アイドルのために、楽曲を書いて欲しい…という依頼が、ユーミン(荒井由実)の元に舞い込んだ。

「アイドルの曲か…。どうしようかな」

と、ユーミン(荒井由実)も迷ったかもしれないが、結局はプロとして、そのオファーを受ける事となった。

 

 

そして、1976(昭和51)年6月25日、ユーミン(荒井由実)が作詞・作曲し、松任谷正隆が編曲を手掛け、

新人アイドル・三木聖子のデビュー曲として提供された、

『まちぶせ』

がリリースされた。

しかし、この時は、『まちぶせ』はオリコン最高「47位」という「不発」に終わり、あまり売れなかった。

そして、三木聖子もアイドルとしては大成せず、短期間で芸能界を去って行く事となった。

「アイドルなんて…って、舐めてたけど、アイドルのプロデュースって、結構大変なのね…」

と、この時、ユーミン(荒井由実)は痛感したかもしれないが、

「だったら、徹底的に、アイドルのプロデュースをやってやろうじゃないの!!」

と、ユーミン(荒井由実)の気持ちに火が付いた。

そして、そんなユーミン(荒井由実)の前に、あるアイドル歌手が現れる事となるが、その話については、また次回。

 

(つづく)

1992(平成4)~1996(平成8)年にかけて、サザンオールスターズ松任谷由実(ユーミン)が、

テレビドラマとのタイアップで、大ヒット曲を連発していた頃、私は10代の中高生の時期であり、私はその頃に青春時代を過ごしたが、その時代のサザンとユーミンの活躍を描く、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

というシリーズを、このブログで断続的に書かせて頂いている。

そして、私が10代だった頃の事を、色々と思い出しながら(?)、私自身、楽しんで書いている。

 

 

というわけで、これまで書いて来た、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

のシリーズの記事は、下記の通りである。

 

①1992年『涙のキッス』と『ずっとあなたが好きだった』

②1993年『真夏の夜の夢』と『誰にも言えない』

③1993年『エロティカ・セブン』と『悪魔のKISS』

④1994年『Hello, my friend』と『君といた夏』

⑤1994~1995年『祭りのあと』と『静かなるドン』

⑥1994~1995年『春よ、来い』

⑦1994年『砂の惑星』と『私の運命』(第1部)

⑧1995年『命の花』と『私の運命』(第2部)

⑨1995年『あなただけを ~Summer Heart break~』と『いつかまた逢える』

 

…という事であるが、今回は久々に、その「続編」を書くが、

今回、取り上げるのは、1995(平成7)年にリリースされた、ユーミン(松任谷由実)の楽曲、

『輪舞曲(ロンド)』

と、その曲が主題歌として起用された、松本明子が主演した日本テレビのドラマ、

『たたかうお嫁さま』

である。

 

 

『輪舞曲(ロンド)』

は、1995(平成7)年11月13日にリリースされた、ユーミン(松任谷由実)の通算27枚目のシングルであるが、

詞も曲も本当にカッコイイ曲であり、

「ユーミン節」

が全開といった趣である。

そして、実はつい最近、私は『輪舞曲(ロンド)』という曲の素晴らしさを再認識する機会が有った。

 

<今年(2024年)NHKで放送された『ユーミン・ストーリーズ』と、「COVERS ~ユーミン・ナイト」>

 

 

今年(2024年)、つい先日の事だが、NHKで、

『ユーミン・ストーリーズ』

というドラマが放送されていた。

これは、ユーミン(松任谷由実)の、

・『青春のリグレット』

・『冬の終り』

・『春よ、来い』

という、それぞれの楽曲を元に、それをドラマ化したものであり、NHKの「夜ドラ」の枠で、各4回シリーズとして、放送されていた。

「アーティストの楽曲を元に、ドラマを作るって…このブログの『サザン小説』と同じだ!?」

と、私は思ってしまったが、まあ冗談はさておき(?)、私は、

『ユーミン・ストーリーズ』

を、非常に興味深く、見させて頂いた。

 

 

 

そして、前述の『ユーミン・ストーリーズ』と連動して、

NHKの「COVERS」という番組で、

「COVERS ~ユーミン・ナイト」

という番組が放送されていた。

この番組は、様々なアーティストが、色々な曲をカバーするという企画の番組なのだが、

「COVERS ~ユーミン・ナイト」

では、女性アーティストのReiが、音楽プロデューサーにしてベーシストの亀田誠治とコラボし、1995(平成7)年のユーミン(松任谷由実)の楽曲、

『輪舞曲(ロンド)』

をカバーしていたのである。

私は、それを聴いて、改めて、

「『輪舞曲(ロンド)』って、めっちゃカッコイイ曲だな!!」

と、感銘を受けた。

…というわけで、前置きはそれぐらいにして、当時、私が高校生の「青春ど真ん中」だった頃、1995(平成7)年に、しばしタイムスリップ(?)し、

「1992~1996年のサザンとユーミン」の「第10回」、「1995年『輪舞曲(ロンド)』と『たたかうお嫁さま』」を、ご覧頂くとしよう。

 

<「CDメガヒット時代」だった、1995(平成7)年~何と「オリコン・ベスト30」の内、「上位28曲」がミリオンセラーの大ヒット>

 

 

1995(平成7)年といえば、とにかく、日本の歴史上でも、最もCDが売れていた頃であり、

「CDメガヒット時代」

と言って良い時代だった。

上記の表は、1995(平成7)年のシングルCDの「年間売上ベスト10」を示したものであるが、この10曲は全てミリオンセラーであった。

 

 

 

 

それどころか、

「年間売上ベスト30」

に、幅を広げて見ても、何と、その内の「上位28曲」ミリオンセラーという、凄まじい売上を示していた。

つまり、当時はCDを100万枚売っても、やっと「上位30位」に入れるかどうか…という、物凄い時代だったわけである。

そして、これらの曲は、当時、高校生だった私としても、勿論、全部覚えているが、やはり10代の頃に聴いた曲は、未だに鮮明に覚えている。

という事で、1995(平成7)年の、オリコンの「年間売上ベスト30」は、下記の通りである。

 

①『LOVE LOVE LOVE』(DREAMS COME TRUE)

②『WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーブメント』(H Jungle With t)

③『HELLO』(福山雅治)

④『Tommorow Never knows』(Mr.Children)

⑤『シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~』(Mr.Children)

⑥『Hello, Again ~昔からある場所~』(MY LITTLE LOVER)

⑦『奇跡の地球(ほし)』(桑田佳祐&Mr.Children)

⑧『TOMMOROW』(岡本真夜)

⑨『ロビンソン』(スピッツ)

⑩『LOVE PHANTOM』(B'z)

⑪『CRAZY GONNA CRAZY』(trf)

⑫『【es】~Theme of es~』(Mr.Children)

⑬『ねがい』(B'z)

⑭『love me, I love you』(B'z)

⑮『masquerade』(trf)

⑯『KNOCKIN' ON YOUR DOOR』(L⇔R)

⑰『ら・ら・ら』(大黒摩季)

⑱『MOTEL』(B'z)

⑲『ズルい女』(シャ乱Q)

⑳『Going Going Home』(H Jungle With t)

㉑『everybody goes ~秩序の無い現代にドロップキック~』(Mr.Childeren)

㉒『突然』(FIELD OF VIEW)

㉓『MAICCA ~まいっか』(EAST END×YURI)

㉔『シングルベッド』(シャ乱Q)

㉕『あなただけを ~Summer Heart break~』(サザンオールスターズ)

㉖『サンキュ.』(DREAMS COME TRUE)

㉗『OVERNIGHT SENSATION ~時代はあなたに委ねてる~』(trf)

㉘『旅人のうた』(中島みゆき)

㉙『碧いうさぎ』(酒井法子)

㉚『涙がキラリ☆』(スピッツ)

 

 

…という事であるが、

前述の通り、「上位30曲」の内の「28曲」が、ミリオンセラーという、凄まじい売上であった。

何しろ、サザンオールスターズ『あなただけを ~Summer Heart break~』が、ミリオンセラーの大ヒットだったにも関わらず、やっと「25位」というのだから、いやはや、何とも…といった所である。

そして、1995(平成7)年のCD売上を見ると、

 

・ビーイング系(B'z、大黒摩季、FIELD OF VIEW、ZARDなど)

・小室ファミリー(trf、H Jungle With t、安室奈美恵、華原朋美、globeなど)

・Mr.Childeren

 

…が、CD売上の「3強」を形勢していた。

これらのアーティスト達が、競って新曲を出しまくり、そしてCDを出す度に、飛ぶように売れていた時代だった。

それにしても、「ビーイング系」「小室ファミリー」の売れっぷりも目立つが、

当時、ミスチル(Mr.Children)は、たった1組のバンドで、それらのアーティスト群に匹敵するぐらい売れていたというのが、本当に凄い。

当時、最強のバンドは、紛れもなくミスチル(Mr.Childeren)だったと、当時、リアルタイムで見ていた私も、そう思っている。

 

 

この年(1995年)、桑田佳祐&Mr.Childrenという、夢の共演によって、

『奇跡の地球(ほし)』

という楽曲がリリースされ、大ヒットしたが、当時、私の高校の同級生などは、

「この曲は、ミスチルのお陰で売れたんだろう」

などと言っていた。

「何言ってんだ、この曲を作ったのは桑田さんなんだぞ!!」

と、私は反論(?)したが、やはり、今になって客観的に見ると、当時、超売れっ子だったミスチル(Mr.Childeren)と組んだからこそ、この曲はあれだけ売れたのだと、認めざるを得ない。

それはともかく、こんなにCDが売れまくっていた時代、サザン(桑田)もそれらのアーティストの中で、最前線に立って奮闘していたのだ…という事を、ここで改めて強調しておきたい。

 

<「CDメガヒット時代」の寵児・小室哲哉…「カラオケ・ブーム」の立役者でもあった「小室ファミリー」>

 

 

 

では、当時は何故こんなにCDが売れていたのか…と言えば、

「CDを買って、その曲を覚えて、カラオケで歌う」

というサイクルが、若者達の間で定着していたから…という要因も大きかった。

1995(平成7)年当時、小室哲哉プロデュースのアーティスト達、

trf、H Jungle With t、安室奈美恵、華原朋美、globe…

といった人達のCDは、売れに売れていたが、当時のシングルCDには、A面、B面(カップリング)の他に、

「カラオケ・バージョン」

が、必ず入っていた。

それは何かと言うと、A面曲の、ボーカルが無い演奏だけのバージョンであり、

「これを聴いて、カラオケで歌って下さい」

という事を意図して入れられているのは、明らかであった。

当時、10代~20代の若者達は、競ってお気に入りのアーティストのCDを買い、新曲を覚え、シングルCDの「カラオケバージョン」で練習し、そして、覚えた曲を、友人達と共にカラオケで披露していた。

また、当時は「激安カラオケ店」が増え、若者達がカラオケで歌いやすい環境も整っていた。

そして、小室哲哉は、

「どうだ、今度はこの曲を歌ってみろ」

と言わんばかりに、早いサイクルで、皆がカラオケで歌いたくなるような新曲を、次々に作り続けていた。

つまり、小室哲哉という人が、そういうサイクルを作り上げてしまった…と言っても、過言ではあるまい。

なお、ここで付記しておくと、サザンオールスターズ桑田佳祐は、CDには「カラオケ・バージョン」は絶対に入れなかった。

「歌が入っていない楽曲を出すのは、邪道だ」

…もしかしたら、サザン(桑田)には、そういう「こだわり」が有ったのかもしれない。

 

<松本明子という女~「不作の83年組」の「売れないアイドル」から、「1990年代のバラドル女王」へ…>

 

 

 

 

さて、ここで時代は1980年代に遡る。

1982(昭和57)年にデビューしたアイドル達は、

「花の82年組」

と称されていた。

その「花の82年組」というのは、

中森明菜・小泉今日子・松本伊代・早見優・堀ちえみ・三田寛子・石川秀美・シブがき隊…

といった人達であり、レコードはよく売れ、ヒット曲に恵まれれていた。

そして、この人達は、その後も長く芸能界の第一線で活躍した、スター揃いだった。

「大豊作の82年組」

などと言われ、本当に華やかな顔ぶれといった印象が有る。

 

 

 

 

それに対し、翌1983(昭和58)年にデビューしたアイドル達、

松本明子・森尾由美・桑田靖子・小林千絵・徳丸純子・大沢逸美・木元ゆうこ…

といった人達は、レコードはあまり売れず、歌手としてはパッとしなかった。

彼女達は、そんな自分達について、

「不作の83年組」

などと言って、自虐的に語り、今ではそれがネタになっているが、

「『花の82年組』に比べると、83年組は全然パッとしない」

と言われ、長く不遇の時代を過ごしていた。

 

 

 

1966(昭和41)年4月8日生まれの松本明子は、

1983(昭和58)年、当時17歳だった時に、

『♂♀Kiss(オス・メス・キッス)』

なる曲でデビューしたが、この曲は全くと言って良いほど売れなかった。

その後も、松本明子は何枚かレコードを出したが、歌手としては鳴かず飛ばずであった。

「不作の83年組」

と言われるだけあって(?)、松本明子は、どうやら歌手として大成できそうな見込みは薄かった。

「このまま、自分は芸能界から消えてしまうのか…」

当時、松本明子は、そんな危機感を持っていた。

 

 

そんな松本明子は、ある時、大事件を起こしてしまった。

1984(昭和59)年4月1日、フジテレビで放送された、

「オールナイトフジ1周年&笑福亭鶴光のオールナイトニッポン10周年記念特番」

という生放送番組の真っ最中、何と、松本は「放送禁止用語」を口走ってしまった。

今ならSNSも大炎上間違い無しという事態を引き起こし、この後、約2年間、松本明子は芸能界から干された。

歌手として先が見えず、松本は「ヤケッパチ」という精神状態だったのかもしれないが、

おまけに、こんな「不祥事」まで引き起こしてしまい、当時の松本は、まさに「お先真っ暗」…といった状況であった。

 

 

そんな「お先真っ暗」だった松本明子に、救いの手を差し伸べたのが、中山秀征だった。

中山秀征は、松本明子に対し、

「バラエティ番組に出てみたら?」

というアドバイスを贈ったが、「謹慎処分」が明けた(?)松本は、1989(平成元)年から、

「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」

というラジオ番組で、放送作家の高田文夫と共にパーソナリティーを務めた。

そして、この番組では、松本は持ち前の明るさで人気を博し、以後、「バラエティー路線」へと進んで行った。

 

 

 

1992(平成4)年は、松本明子にとって、大きな「転機」となった年だった。

この年(1992年)、松本明子は、田中義剛・東ちづると共に、テレビ東京の、

「TVチャンピオン」

という番組でMCを務めた。

この番組は、「素人」を番組に出し、得意分野で競わせる…といった番組だったが、後年、大流行した、

「大食い選手権」

の走りも、この番組だった。

その企画は、他局でパクられてしまったが、元々はテレ東の「TVチャンピオン」の企画だったのである。

そして、私が松本明子という人を知ったのも、この番組がキッカケであった。

 

 

 

 

同じ年(1992年)、松本明子をバラエティー路線へと進ませた人・中山秀征と、松本明子・飯島直子という3人が出演する、日本テレビの土曜の深夜番組、

「DAISUKI!」

が放送開始された。

この番組は、中山秀征・松本明子・飯島直子の3人が、仲良く腕を組みながら、その辺の街をブラブラと散策する…という、ただそれだけの「ゆるい」番組だったが、その「ゆるさ」故に、深夜に何となくダラダラと見るには、ピッタリの番組だった。

そして、この番組も、その後に雨後の筍のように増えて行った、タレントがその辺の街を散歩するというコンセプトの、

「お散歩番組」

の走りだったと言って良い。

当時、私も「DAISUKI!」はマッタリと楽しみながら(?)見ていたものである。

 

 

 

そして、テレビタレント・松本明子の名を不動の物とした、日本テレビの日曜夜の番組、

「進め!電波少年」

も、この年(1992年)に放送開始されている。

この番組は、松村邦洋・松本明子がMCを務め、この2人が、

「アポ(※アポイント)なし」

で、色々な所に突撃取材をして、その様子を放送する…という内容だったが、

「アポなし」

で突撃するので、その取材先に迷惑がられてもお構い無し(?)というか、とにかく過激な内容の番組であり、今の時代では、まず考えられないような番組だった。

1990年代の日テレ(日本テレビ)は、総じて、ドラマもバラエティーも過激な内容が多かったが、その刺激的な内容が当時の視聴者には大ウケし、1990年代、日テレ(日本テレビ)はフジテレビから、

「視聴率三冠王」

の座を奪い、1990年代は、

「日テレ黄金時代」

と言っても良かった。

その1990年代の「日テレ過激路線」を象徴する番組こそ、

「進め!電波少年」

であり、この番組で、松村邦洋と共に、身体を張った突撃レポートを繰り返した松本明子は、

「1990年代のバラドル女王」

の座を手にした。

私にとって、当時の松本明子の印象は、

「とにかく明るくて、バイタリティーが有り、何でもやる人」

という印象だったが、あの「放送禁止用語事件」で、暫く干されていた松本は、

「芸能界で生き残るためには、何でもやる」

という覚悟が有ったのであろう。

 

<1995(平成7)年10月~12月…松本明子・保阪尚輝が主演の日本テレビのドラマ『たたかうお嫁さま』放送~ユーミン(松任谷由実)の『輪舞曲(ロンド)』が主題歌に起用>

 

 

このように、波乱万丈の道のりを経て、

「1990年代のバラドル女王」

の座を勝ち取った松本明子は、1995(平成7)年10月~12月にかけて放送された、日本テレビのドラマ、

『たたかうお嫁さま』

で、遂に主演に抜擢された。

松本明子、当時29歳の事である。

「あの松本明子が、遂にドラマの主演か…」

と思われたが、当時の松本は「日テレのバラエティのエース」であり、その人気を見込んで、日テレが松本を主役に抜擢した。

 

 

『たたかうお嫁さま』

は、早稲田大学出身の漫画家・けらえいこが描いた(※小室哲哉と同時期に早稲田に在学していた時期も有り)、

『セキララ結婚生活』

シリーズの作品、

『たたかうお嫁さま』

を原作として、それをドラマ化したものであるが、そのタイトルの通り、

「結婚生活の現実」

を、リアルに描いた作品として、当時、大人気であった。

 

 

なお、けらえいこは、当時、1994(平成6)年から、

『あたしンち』

という漫画を描き、これまた大ヒットさせており(※後にテレビ朝日でアニメ化された)、

まさに、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

それにしても、当時から日本テレビというのは、漫画を原作とした作品をドラマ化するのが好きだったのだな…と、ある感慨を持って見てしまう。

 

 

 

 

さて、日本テレビでドラマ化された、

『たたかうお嫁さま』

では、松本明子は、当時、イケメン俳優として人気絶頂だった、保阪尚輝と、カップルの役として共演している(※この2人は、結婚を前提として交際しているという設定だった)。

このドラマでは、保阪は「ロン毛」だったが、当時はSMAPキムタク(木村拓哉)「ロン毛」であり、

「男のロン毛」

が、流行っていた時代でもあった。

しかし、キムタク(木村拓哉)保阪尚輝はともかく、「男のロン毛」は、あまり清潔感は無く、よほどの美男子でない限り、あまりやらない方が身のため(?)である。

 

 

 

 

それはともかくとして、

『たたかうお嫁さま』

では、松本明子保阪尚輝は「婚約者」同士という関係だったが、

松本明子の父親役を演じたのは、あの「冬彦さん」のドラマ、

『ずっとあなたが好きだった』

で、賀来千香子の父親役を演じていた、橋爪功であった。

橋爪功は、そういう父親役が、とてもよく合っていたが、

松本明子も、ドラマ初主演ながらも好演し、このドラマは大好評で、

翌1996(平成8)年に、

『たたかうお嫁さま 結婚スペシャル』『たたかうお嫁さま 出産スペシャル』

という、2本のスペシャル・ドラマも放送された。

そして、

『たたかうお嫁さま』

の主題歌として起用されたのが、ユーミン(松任谷由実)が歌う、

『輪舞曲(ロンド)』

という曲だった。

 

<1995(平成7)年11月13日…ユーミン(松任谷由実)の通算27枚目のシングル『輪舞曲(ロンド)』リリース>

 

 

 

1995(平成7)年11月13日、ユーミン(松任谷由実)の通算27枚目のシングル、

『輪舞曲(ロンド)』

がリリースされたが、前述の通り、松本明子が主演したドラマ、

『たたかうお嫁さま』

の主題歌として起用され、『輪舞曲(ロンド)』はオリコン最高「2位」の大ヒットを記録している。

 

 

 

この記事の冒頭でも書いた通り、

『輪舞曲(ロンド)』

は、詞も曲も本当にカッコイイのだが、ユーミン(松任谷由実)自身によると、この曲は、

「L.A.レコーディングの時、フェアファックス通りのユダヤ人街で、何千年に一度のお正月に誘われたときに、産み落とされた歌」

との事である。

そう言われてみると、確かに、エキゾチックというか、独特の雰囲気が有る曲であり、

「流石は、ユーミン」

と言いたくなるような曲である。

という事で、

『輪舞曲(ロンド)』

の歌詞をご紹介させて頂き、この記事の締めくくりとさせて頂く。

 

 

 

『輪舞曲(ロンド)』

作詞・作曲:松任谷由実

編曲:松任谷正隆

唄:松任谷由実

 

キャンドルに灯をともしましょう 思い出みんな照らすように

あなたのくれた微笑みで 泣き出しそうに見えるでしょう

おどけてほほを寄せれば 背中に置かれた手のひら

あなたの知らぬ傷跡も 雪解けに咲くクロッカス

 

さあ ヴェール上げて 初めての瞳で

誓いのキスに 高くはばたかせて

さあ ページあけて 名前綴ったなら

愛の証しは フォルクローレになる

 

奏でて消えないメロディー 思い出かき消すくらいに

誰ともできなかったほど 幸せそうに踊りましょう

私を愛したことを 後悔はしていないかしら

あなたと紡ぐ年月が たったひとつのタピストリィ

 

あなたに抱かれ まわるまわる輪舞曲(ロンド)

涙も夢も めくるめく フィエスタ

もう神様しか 二人を離せない

語り継がれる フォルクローレになる

 

歓びとは 溶けて落ちる 哀しみの上に揺れる炎 Ah

 

さあ ヴェール上げて 初めての瞳で

誓いのキスに 高くはばたかせて

さあ ページあけて 名前綴ったなら

愛の証しは フォルクローレになる

 

あなたに抱かれ まわるまわる輪舞曲(ロンド)

涙も夢も めくるめく フィエスタ

もう神様しか 二人を離せない

語り継がれる フォルクローレになる

 

さあ ヴェール上げて 初めての瞳で

誓いのキスに 高くはばたかせて

さあ ページあけて 名前綴ったなら

愛の証しは フォルクローレになる

 

あなたに抱かれ まわるまわる輪舞曲(ロンド)

涙も夢も めくるめく フィエスタ

もう神様しか 二人を離せない

語り継がれる フォルクローレになる

 

(つづく)

1980(昭和55)年、サザンオールスターズが、

「半年間の充電」

を宣言し、サザンは全てのライブ活動やテレビ出演を「お休み」して、1ヶ月に1枚のペースでシングルをリリースするという、

「Five Rock Show」

という企画を行なったが、その1980(昭和55)年のサザンの「Five Rock Show」について書いて来た連載記事も、今回で「最終回」である。

 

 

という事で、この連載記事でご紹介させて頂いた、1980(昭和55)年のサザンオールスターズの、

「Five Rock Show」

の各シングルの内訳は、下記の通りである。

 

・『涙のアベニュー』(1980.2.21)

・『恋するマンスリー・デイ』(1980.3.21)

・『いなせなロコモーション』(1980.5.21)

・『ジャズマン(JAZZ MAN)』(1980.6.21)

・『わすれじのレイド・バック』(1980.7.21)

 

 

…という事であるが、

「Five Rock Show」

で、各メンバーがソロの楽曲を発表するなど、バンドとしての実力を高めたサザンは、

この年(1980年)7月~11月にかけて、

「サザンオールスターズがやってくる ニャー ニャー ニャー」

と題したライブツアーを行ない、久々にファンの前に姿を現した。

そして、サザンはより一層、精力的に活動したが、この年(1980年)の年末の時期には、世界中の音楽ファンを悲しませた、ある「大事件」も起こってしまう事となる。

それでは、「1980(昭和55)年のサザンオールスターズ」の「完結編」を、ご覧頂こう。

 

<バンドとして大きく成長した、1980(昭和55)年のサザンオールスターズ>

 

 

今回の連載記事で述べて来た通り、

1980(昭和55)年のサザンオールスターズは、

「Five Rock Show」

などの活動を通して、バンドとして大きく成長した。

この年(1980年)のサザンは、桑田佳祐以外のメンバー達も、ソロの楽曲を歌うなど、活発に音楽活動を行ない、

その結果、バンドとしてのサザンに「厚み」が増した事は間違いない。

という事で、改めて、この年(1980年)のサザンの各メンバーの活動について、記しておく。

 

・桑田佳祐(ボーカル、ギター)…※メインボーカルと、基本的には全てのサザンの楽曲の作詞・作曲を担当。

 

・原由子(キーボード)…アルバム『タイニイ・バブルス』収録の『私はピアノ』で、初のメイン・ボーカルを担当。

 

・大森隆志(ギター)…シングル『いなせなロコモーション』のB面『LOVE SICK CHICKEN』で、初の作詞・作曲とメイン・ボーカルを担当。

 

・松田弘(ドラム)…アルバム『タイニイ・バブルス』収録の『松田の子守唄』で、初のメイン・ボーカルを担当。

 

・関口和之(ベース)…シングル『ジャズマン(JAZZ MAN)』のB面『ひょうたんからこま』で、初の作詞・作曲とメイン・ボーカルを担当。

 

・野沢秀行(パーカッション)…シングル『わすれじのレイド・バック』のB面『Five Rock Show』の一部で、初のボーカルを担当。

 

 

…というわけで、

このように、サザンの各メンバーが精力的に活動した事により、

サザンはバンドとしての結束も、より強まり、この後、1980年代のサザンは黄金時代を築いて行く。

そういう意味では、

「Five Rock Show」

は、「サザン史」にとって大きな分岐点であった。

そして、この年(1980年)の日本の音楽界は、まさに多士済々で、大ヒット曲が沢山生まれた年でもあった。

 

<山口百恵と松田聖子の「邂逅」~引退目前の山口百恵と、新人アイドル・松田聖子が、1980(昭和55)年9月25日の「ザ・ベストテン」で歴史的な「共演」>

 

 

1980(昭和55)年8月21日、山口百恵は、通算31枚目のシングル、

『さよならの向う側』

をリリースした。

この時、山口百恵三浦友和との結婚、そして芸能界からの引退を目前に控えており、

『さよならの向う側』

は、山口百恵の事実上の「ラスト・ソング」となった。

そして、勿論、この曲を作ったのは、

「歌手:山口百恵」

を最高に輝かせた、

「作詞:阿木燿子、作曲:宇崎竜童」

というコンビであった。

 

 

 

1980(昭和55)年9月25日放送の、

「ザ・ベストテン」

で、山口百恵が歌う、

『さよならの向う側』

「10位」でランクインしたが、百恵はこの時、「ザ・ベストテン」に出演し、

『さよならの向う側』

を歌った。

そして、これが百恵にとって、「ザ・ベストテン」最後の出演となった。

なお、この週の「ザ・ベストテン」で「1位」だったのは、当時、大ヒット街道を驀進中だった、松田聖子の2枚目のシングル、

『青い珊瑚礁』

だった。

 

 

 

そして、この日(1980/9/25)の、

「ザ・ベストテン」

では、歴史的な瞬間が有った。

前述の通り、松田聖子は、

『青い珊瑚礁』

「1位」に輝き、「ベストテン」に出演していたが、

その「ベストテン」のスタジオで、山口百恵松田聖子が、歴史的な「共演」を果たしたのである。

「これからも、頑張って下さいね…」

先輩として、山口百恵松田聖子に声を掛けると、松田聖子は、

「はい、有り難うございます…」

と、緊張気味に答えていた。

そして、これがテレビ画面上で、山口百恵と松田聖子が「共演」した、最初で最後の瞬間だった。

 

 

今にして思えば、まさに歴史的な「新旧交代」の一瞬だったが、この時の山口百恵は、まさに誰が見てもわかるぐらい、スーパースターとしてのオーラを放っていた。

それに対し、松田聖子は、まだまだ売り出し中の新人アイドルであり、「貫禄」の差は歴然としていた。

だが、山口百恵は1959(昭和34)年1月17日生まれで、当時21歳であり、

松田聖子は、1962(昭和37)年3月10日生まれで、当時18歳だった。

つまり、実は百恵と聖子は、歳は3つしか離れていない。

だが、この時の百恵は、既に押しも押されもせぬスーパースターであり、やはり芸能界で過ごして来た年数の差が、2人の「貫禄」の差となって表れていたのであろうか…。

それはともかく、この後、1980年代は、

「松田聖子の時代」

となるのであり、その幕開けの時に、松田聖子山口百恵が一瞬だけ「交錯」していたというのは、歴史の綾と言うべきものであり、大変興味深い。

「歴史好き」の私としては、そこにグッと来てしまうわけである。

 

<1980(昭和55)年10月5日…山口百恵、日本武道館で「ファイナル・コンサート」を行ない、芸能界を去る…>

 

 

1980(昭和55)年10月5日、山口百恵は、日本武道館にて、

「ファイナル・コンサート」

を開催した。

この「ファイナル・コンサート」を以て、山口百恵は芸能界を完全引退するので、

これが本当に百恵にとっては「最後の舞台」となった。

「百恵ちゃんの、最後の姿を目に焼き付けたい」

との事で、日本武道館には多くのファンが詰め掛けたが、この大舞台で、山口百恵は堂々たる姿を見せていた。

 

 

 

 

「ファイナル・コンサート」

での山口百恵は、圧巻のステージを見せた。

百恵は「セルフ・プロデュース」に長けた人だったが、この「ファイナル・ステージ」でも、百恵は曲のイメージに合わせて、何度も衣装変えをしたり、舞台の演出を考えたり、MCも自分の言葉で語ったりしていたが、それは、

「お仕着せのアイドル」

からは、明らかに一線を画したものだった。

まさに、山口百恵は、1人のアーティストとして、完成形に達していたが、惜しむらくは、ここまでの領域に達していながら、百恵にとって、これが最後の舞台だった…という事である。

 

 

 

そして、これはあまりにも有名な話だが、山口百恵は、

「ファイナル・コンサート」

でも、ラスト・ソングに選んだ、

『さよならの向う側』

を、涙ながらに歌い終えると、百恵は、

「わがままを許して下さい。幸せになります」

という言葉を残し、最後に、自らが歌っていたマイクを、静かにステージの上に置いた。

「もう二度と、ステージに立って、マイクを取って歌う事は無い」

という決意を示した、百恵の最後の「引退の儀式」でもあったが、これを最後に、百恵は芸能界から去って行った。

なお、山口百恵の、

「ステージ上にマイクを置く」

という仕草は、大いに話題になり、この後、多くの人達に真似される事となったが、それだけ、大きなインパクトが有った出来事であった。

 

<吹き荒れる「金八旋風」③~田原俊彦、2枚目のシングル『ハッとして!Good』が、「ザ・ベストテン」で最高位「1位」の大ヒット>

 

 

 

さて、山口百恵というスーパースターが、ステージ上にマイクを置き、芸能界を去った後、

『3年B組 金八先生』

への出演以来、大人気だった田原俊彦の2枚目のシングル、

『ハッとして!Good』

が、大ヒットを記録した。

『ハッとして!Good』

は、1980(昭和55)年10月9日、「ザ・ベストテン」に「7位」で初登場すると、その後、最高位「1位」にまで上昇する大ヒット曲となったが、この曲は、田原俊彦松田聖子が共演した、

「グリコ・アーモンドチョコーレート」

のCMソングとして、繰り返し流されており、レコードが発売される前から、既に多くの人達が知っていた。

そして、田原俊彦『ハッとして!Good』は、発売されるや否や、大ヒットとなったが、この曲の大ヒットにより、

「トシちゃん」

の人気ぶりは、更に沸騰した。

「トシちゃん」

の大ブレイクには、あの「金八先生」の大ヒットの影響が強かったが、この後、更に「金八」出身の、ある女性歌手が大ヒットを飛ばす事となる。

 

<1980(昭和55)年8月~サザンオールスターズ、テレビ出演を「解禁」>

 

 

 

さて、

「Five Rock Show」

の活動を終え、

「サザンオールスターズがやってくる ニャーニャーニャー」

というタイトルで、全国ツアーを行なっていたサザンオールスターズは、1980(昭和55)年8月以降、久々にテレビ出演を「解禁」した。

1980(昭和55)年10月19日には、サザンは久々に、NHKの音楽番組、

「レッツゴー!ヤング」

にも出演し、

『いなせなロコモーション』

などを歌った。

サザンの久々のテレビ出演に、ファンは喜んだが、この年(1980年)のサザンは、あまりヒット曲には恵まれていなかったので、「ザ・ベストテン」には出演していない。

だが、サザンは明らかに、音楽活動は以前にも増して充実していた。

 

<吹き荒れる「金八旋風」④~三原順子『セクシー・ナイト』が、「ザ・ベストテン」で最高「2位」の大ヒット~遂に三原順子までもが大ヒット曲を生み出す>

 

 

 

1979(昭和54)年10月~1980(昭和55)年3月にかけて放送された、

『3年B組 金八先生』

は、「金八先生」役の武田鉄矢を筆頭に、

田原俊彦・野村義男・近藤真彦「たのきんトリオ」など、数々の人気者を輩出したが、

三原順子も、その「人気者」の1人だった。

「金八先生」では、三原順子といえば、眼光鋭い不良生徒の役を演じ、異彩を放っていたが、その三原順子も、歌手として大ヒット曲を飛ばした。

 

 

 

三原順子は、

『セクシー・ナイト』

という曲をリリースすると、1980(昭和55)年11月13日、「ザ・ベストテン」で「6位」で初登場すると、この曲は、何と最高「2位」にまで達する大ヒット曲となった。

「三原順子は、ガン(眼)を飛ばすだけではなく、ヒット曲も飛ばした」(?)

といった所であるが、遂には三原順子までもが「大ヒット歌手」の仲間入りを果たしてしまったのだから、「金八先生」の影響力は凄まじかった。

そして、この三原順子が、後に自民党の国会議員になろうとは、この時、一体、誰が予想し得たであろうか…。

 

<1980(昭和55)年秋…八神純子『パープル・タウン』、五輪真弓『恋人よ』~実力派の女性歌手が大ヒット曲を出す>

 

 

 

 

 

1980(昭和55)年秋、2人の女性歌手が歌った曲が、大ヒットを記録した。

八神純子『パープルタウン』と、五輪真弓『恋人よ』

は、共に「ザ・ベストテン」で最高位「1位」にまで達する大ヒットとなったが、

八神純子・五輪真弓は、自分で曲を作って、自分で歌うという、

「実力派女性歌手」

として、注目された。

ちなみに、『パープルタウン』は作詞:三浦徳子、作曲:八神純子であるが、

『恋人よ』は、作詞・作曲:五輪真弓である。

共に、後世にまで語り継がれる名曲であるが、

「これからは、実力派女性歌手の時代だ」

という事を印象付けるような、『パープルタウン』『恋人よ』の大ヒットであった。

だが、この2人に勝るとも劣らないという、素晴らしい女性アーティストは、他にも居た。

それは、言うまでもなく、ご存知サザンオールスターズ原由子である。

 

<1980(昭和55)年11月21日…サザンオールスターズ、通算11枚目のシングル『シャ・ラ・ラ/ごめんねチャーリー』リリース~『シャ・ラ・ラ』は桑田佳祐と原由子の「デュエット・ソング」>

 

 

1980(昭和55)年11月21日、サザンオールスターズは、通算11枚目のシングル、

『シャ・ラ・ラ/ごめんねチャーリー』

をリリースした。

このシングルは「両A面」のシングルだったが、

『シャ・ラ・ラ』

は、桑田佳祐原由子による、「デュエット・ソング」である。

『別れても好きな人』

というデュエット・ソングも良いが、やはり、サザンファンにとっては、「デュエット・ソング」と言えば『シャ・ラ・ラ』である。

そして、八神純子五輪真弓も勿論素晴らしいが、偉大なる女性アーティストといえば、サザンファンにとっては、原由子である。

という事で、

『シャ・ラ・ラ』

の歌詞を、ご紹介させて頂こう。

 

 

『シャ・ラ・ラ』

作詞・作曲:桑田佳祐

唄:サザンオールスターズ

 

何するにせよ そっと耳元で語ろう

例えば言葉が無くても心は

不思議な期待などもてるこのごろ

 

Let me try to be back to this place anyday

Let me try to be back to this place anyday

 

女誰しも男ほど弱かないわ

乱れた暮らしで 口説かれてもイヤ

横浜じゃ トライディショナルな彼のが

 

※Let me try to be back to this place anyday

 Let me try to be back to this place anyday

 

えり好みなどばかりいいわけないじゃん

目移りがクセなのさ

あなたの事が頭にチラついて Sha la la ※

 

※Repeat

 

雪になりそな merry merry merry

Chiristmas Amen

今年もなにゆえ さかのぼれば夢

二人でいて楽しけりゃ なおのこと

 

Let me try to be back to this place anyday

Let me try to be back to this place anyday…

 

 

 

…という事であるが、

『シャ・ラ・ラ』

を聴くと、桑田佳祐原由子の「デュエット」が、本当に心に沁みるというか、素晴らしい曲である。

なお、以前、別の記事でも書いたが、『シャ・ラ・ラ』は、サザンにとって初の「クリスマス・ソング」でもある。

という事で、

『シャ・ラ・ラ』

は、皆様も是非ともカラオケで「デュエット」で歌って頂きたいが、それぞれのソロの歌唱部分だけではなく、桑田のメイン・ボーカルの部分で、原がコーラスも担当したりしているので、そこもポイント(?)である。

ちなみに、『シャ・ラ・ラ』はオリコン最高「29位」という結果であった。

 

 

 

ちなみに、原由子について、桑田佳祐は、

「やっぱり、サザンの中で、一番プロフェッショナルだと思う。サザンのイントロのフレーズとか、全部、ハラ坊が考えてるから…。もしも彼女が居なかったら、サザンのヒット曲は無かっただろうなと思いますね…」

と、最大級の賛辞を送っている。

また、サザンのドラマー・松田弘は、

「コーラスワークやアレンジも、全部、彼女が担ってるから、やっぱりハラ坊はサザンの『裏バンドリーダー』だと思う」

と、これまた絶賛している。

そう、原由子は幼少期から、ピアノを習っており、専門的な音楽教育を受けた人でもあり、また、クラシックだけではなく、ポップスやロックが大好きで、その音楽的センスはズバ抜けている。

やはり、サザンのメンバー達が口を揃えて言うように、原由子が居なかったら、今日のサザンは無かった…と言って、間違い無いであろう。

 

<1980(昭和55)年12月8日…ジョン・レノンが突然「射殺」され、享年40歳で死去~全世界に衝撃が走る~その日(1980/12/8)日本青年館でライブを行なっていた「ハウンド・ドッグ(HOUND DOG)」も…>

 

 

1980(昭和55)年12月8日、全世界の音楽ファンを悲しみのドン底に突き落とす、最悪の事件が起こった。

この日(1980/12/8)元ビートルズジョン・レノンが、ニューヨークの自宅前で、銃を持って近付いて来た、25歳の青年によって、突然「射殺」されてしまったのである。

この時、ジョン・レノンの傍らには、ジョンの最愛の妻、オノ・ヨーコが居たが、ヨーコは目の前でジョンが撃たれるのを見てしまい、絶叫した。

ジョンは、胸に3発の銃弾を受け、「即死」だったという。

ジョン・レノンは、享年40歳で、非業の死を遂げてしまった…。

 

 

ジョン・レノンオノ・ヨーコが出逢った事により、

ジョンにとって、ビートルズよりもヨーコの方に関心が向いてしまい、

それが、1970(昭和45)年の「ビートルズ解散」の遠因になった…などと言われたが、

ジョンにとって、ヨーコが最愛の人であり、心の支えだったのは、間違いない。

そして、ジョンは暫くの間、ジョンとヨーコとの間に生まれた長男・ショーンの子育てに専念し、音楽活動から離れていたが、

「そろそろ、音楽活動に復帰する」

と、ジョンが表明していた矢先の出来事であった。

ともかく、ジョン・レノンの早すぎる死去により、

「ビートルズ再結成」

は、永遠に叶わぬ夢となってしまった…。

これは、本当に世界の音楽界にとって、あまりにも大きな損失であった。

ジョンを撃った犯人は、本当にとんでもない事をしでかしてしまったものである。

なお、この年(1980年)は、ポール・マッカートニーが来日した時、大麻不法所持で逮捕されるという出来事もあり、ビートルズ・ファンにとっては、「最悪の年」となってしまった。

 

 

 

なお、この年(1980年)、

『嵐の金曜日』

という曲でデビューしていた、大友康平を中心としたバンド、

「ハウンド・ドッグ(HOUND DOG)」

は、ジョン・レノンが暗殺された当日(1980/12/8)、日本青年館でライブを行なっており、ジョン・レノンのバージョンで、

『STAND BY ME』

を歌っていたが、後に大友康平は、

「それも含めて、本当に忘れられない日だった…」

と、語っている。

 

<1980(昭和55)年12月…サザンオールスターズ、「ゆく年くる年」コンサート開催~ジョン・レノン「射殺」の2日後(1980/12/10)、サザン初の「日本武道館」公演開催>

 

 

 

さて、長らく書いて来た、

「1980(昭和55)年のサザンオールスターズ」

の連載記事も、いよいよ締めくくりである。

1980(昭和55)年12月、サザンオールスターズは、

「ゆく年くる年」

と題した、この年(1980年)最後のコンサート・ツアー(全5公演)を行なった。

そして、その初日である、1980(昭和55)年12月10日は、サザンにとっては初となる、

「日本武道館」

でのコンサートとなった。

そう、1966(昭和41)年にビートルズが来日公演を行なった「聖地」であり、つい2ヶ月前、山口百恵が感動の「ファイナル・コンサート」を行なった舞台でもあった。

 

 

 

 

そして、1980(昭和55)年12月10日といえば、あのジョン・レノンの「射殺」の2日後である。

かつて、ジョンもビートルズの一員として立っていた、「日本武道館」の舞台に、今まさにサザンも立っていた…。

きっと、桑田佳祐やサザンのメンバー達にも、不思議な感慨が有ったのではないだろうか。

という事で、1980(昭和55)年12月の、サザンオールスターズの、

「ゆく年くる年」

のセットリストをご紹介させて頂き、この連載の締めくくりとさせて頂きたい。

 

サザンオールスターズ・コンサートツアー

「ゆく年くる年」(1980.12.10~12.20)

 

①ごめんねチャーリー

②思い過ごしも恋のうち

③C調言葉に御用心

④瞳の中にレインボウ

⑤別れ話は最後に

⑥当って砕けろ

⑦Let It Boogie

⑧奥歯を食いしばれ

⑨青い空の心(No me? More No!)

⑩松田の子守唄

⑪恋するマンスリー・デイ

⑫私はピアノ

⑬To You

⑭タバコ・ロードにセクシーばあちゃん

⑮ラチエン通りのシスター

⑯恋はお熱く

⑰レイ・チャールズ・メドレー

⑱涙のアベニュー

⑲女呼んでブギ

⑳気分しだいで責めないで

㉑いなせなロコモーション

㉒勝手にシンドバッド

㉓シャ・ラ・ラ

<アンコール>

①いとしのエリー

②ごめんねチャーリー

③ふたりだけのパーティー ~タイニイ・バブルス

④茅ヶ崎に背を向けて(※1980/12/10 日本武道館のみ)

 

(1980(昭和55)年のサザンオールスターズ ~『Five Rock Show』を語る・完)