頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。


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「特撮の神様」円谷英二は、1963(昭和38)年、特撮映画製作のための独立プロダクションである、

「円谷プロダクション」(以下、円谷プロ)を設立した。

設立当初、円谷プロ東宝との結びつきが非常に強かったが、

1966(昭和41)年1月に、円谷プロが手掛けた、初の連続テレビ映画として放送開始されたのが、『ウルトラQ』である。

 

 

この『ウルトラQ』こそが、ウルトラシリーズの記念すべき第1作となったが、

いよいよ、空前絶後の9年連続日本一(V9)に向けてスタートを切った読売ジャイアンツ(巨人)と、

記録的な大ヒット番組となった『ウルトラQ』について、今回は描いて行きたい。

 

<1965(昭和40)年、巨人V9がスタート!大投手・金田正一が巨人に移籍>

 

 

1965(昭和40)年、巨人は国鉄スワローズ14年連続20勝、通算353勝を挙げていた、

大投手・金田正一投手を獲得した。

これは、B級10年選手制度という、今でいうFA(フリーエージェント)のように、

例えば、10年間、同一チームに在籍した選手は、好きな球団に移籍出来るという制度であり、

金田は、この権利を行使して、1964(昭和39)年限りで国鉄がスワローズの経営から撤退したのを機に、

長年慣れ親しんだスワローズから、ジャイアンツへと移る事となった。

 

(1958(昭和33)年4月5日の巨人-国鉄の開幕戦で、金田正一は、デビュー戦の長嶋茂雄4打席4三振に打ち取った)

 

ちなみに、国鉄時代の金田は、対巨人戦では、史上最多となる通算65勝(72敗)を挙げており、

1958(昭和33)年の開幕戦では、デビュー戦の長嶋茂雄を4打席4三振に打ち取るという快投を見せていたが、

その金田が巨人に入団するという事は、戦力的には勿論の事、

当時の、金田の野球に対するストイックな姿勢を、巨人の選手達にも見習わせたいという、

巨人の川上哲治監督の狙いも有ったようである。

 

(巨人移籍後も活躍した、金田正一

 

金田は、移籍1年目の同年(1965年)、持病の肘痛もあり、11勝に終わり、14年連続20勝でストップしてしまったが、

川上監督の狙いどおり、金田の加入は、巨人の選手達に良い刺激を与えた。

 

<「8時半の男」宮田征典の登場!>

 

「エースのジョー」こと城之内邦雄

 

(1965(昭和40)年、20勝を挙げた中村稔

 

この年の巨人の投手陣の中心となったのは、共に20勝を挙げた、「エースのジョー」こと城之内邦雄や、中村稔らであったが、

何と言っても、リリーフ専任の先駆けとなった、宮田征典の大活躍が目立った。

川上監督は、宮田征典を、同点や僅差の場面など、連日のように、大事な場面でのリリーフで起用したが、

宮田は、その期待によく応え、悉くピンチを凌ぐ、見事な火消し役ぶりを見せた。

 

(1965(昭和40)年、リリーフ専門で20勝を挙げた宮田征典

 

そして、宮田が投げると、打線がそれに応えるという好循環が生まれ、

宮田は、リリーフだけで19勝(先発での1勝を合わせて、計20勝)を挙げるという大活躍ぶりであった。

なお、当時のプロ野球には、セーブという制度は無かったが、今のセーブの基準に当てはめると、

この年の宮田は、22セーブを挙げるという、見事な数字を残した。

 

(写真は8時半よりは少し前だが、「8時半の男」と称された宮田征典

 

宮田は、いつも夜8時半頃に颯爽と登板し、ピンチを抑えるというパターンが続いたため、

いつしか「8時半の男」というニックネームが付けられた(名付け親は、当時の後楽園球場のウグイス嬢、務台鶴さんだという)。

宮田はまさに、リリーフ専門投手のパイオニア的存在であり、

川上監督の、選手の適性を見極めた用兵がズバリと当たった好例である。

 

王貞治(左)宮田征典(右)

 

<巨人、圧倒的強さで完全優勝!独走でV1を飾り、日本シリーズでも南海を一蹴!!>

 

王貞治(左)長嶋茂雄(右)ON砲は、この年(1965年)も大活躍)

 

上記の通り、巨人は20勝投手が3人も生まれるという強力投手陣と、

この年も相変わらず打ちまくったON砲(王貞治、長嶋茂雄)の大活躍もあり、

川上監督体制5年目にして、初めて、全5球団に勝ち越す完全優勝を達成、

しかも、2位の中日に13ゲーム差を付ける大独走で、ぶっちぎりの優勝を決めた。

 

(1965年の日本シリーズ第5戦で、日本一を決めるサヨナラ打を放った土井正三

 

(1965年の日本シリーズMVPを獲得した、長嶋茂雄

 

そして、日本シリーズでは、7度目の対決となった南海ホークスを、4勝1敗で退け、

川上巨人は2年振りの日本一を達成し、V9への第一歩を歩み始めた。

なお、日本シリーズ第5戦で、新人の土井正三(立教OB)が、南海の杉浦忠(立教OB)からサヨナラ安打を放ち、

巨人は、劇的なサヨナラ勝ちで、日本一の座に就いた。

 

【1965(昭和40)年 巨人ベストオーダー】

 

(右)柴田 打率.239 8本塁打 26打点

(左)国松 打率.259 11本塁打 39打点

(一)王 打率.322 42本塁打 104打点

(三)長嶋 打率.300 17本塁打 80打点

(捕)森 打率.277 5本塁打 58打点

(中)吉田勝 打率.264 7本塁打 44打点

(二)須藤 打率.231 1本塁打 19打点

(遊)広岡 打率.229 1本塁打 25打点

関根 打率.241 3本塁打 20打点

土井 打率.249 0本塁打 19打点

 

城之内 20勝12敗 防御率2.44

中村稔 20勝4敗 防御率2.21

宮田 20勝5敗 防御率2.07

金田 11勝6敗 防御率1.84

 

(1964~1965年、2年連続首位打者を獲得し、王貞治の三冠王を阻止した江藤慎一(中日)

 

王貞治は、前年(1964年)に続き、本塁打王と打点王の二冠王を獲得したが、

は2年続けて、打率は2位に終わり、惜しくも三冠王は逃した。

なお、1964~1965年に2年連続首位打者を獲得し、王の三冠王を阻止したのは、江藤慎一(中日)である。

 

(1965年、戦後初の三冠王を獲得した、野村克也(南海)

 

(1965年、三冠王を獲得した野村克也(左)と、本塁打王と打点王の二冠王となった王貞治(右)

 

一方、パ・リーグでは、野村克也(南海)が、打率.320 42本塁打 110打点で、

戦後初の三冠王を獲得した(三冠王は、1938(昭和13)年秋の中島治康(巨人)以来の快挙)。

 

<1965(昭和40)年 セ・リーグ勝敗表>

 

①巨人 91勝47敗2分 勝率.659

②中日 77勝59敗4分 勝率.566 13.0ゲーム差

③阪神 71勝66敗3分 勝率.518 19.5ゲーム差

④大洋 68勝70敗2分 勝率.493 23.0ゲーム差

⑤広島 59勝77敗4分 勝率.434 31.0ゲーム差

⑥産経 44勝91敗5分 勝率.326 45.5ゲーム差

 

<1966(昭和41)年1月、『ウルトラQ』が放送開始!!>

 

巨人が独走でV1を達成した数か月後、1966(昭和41)年1月、

円谷英二が率いる円谷プロが、満を持して送り出したのが、連続テレビ映画『ウルトラQ』である。

 

 

『ウルトラQ』は、日本初の、テレビでの本格怪獣作品となったが、

それまで、映画館に行かなければ見る事が出来なかった怪獣を、

毎週、テレビでも見る事が出来るという事で、

折からの怪獣ブームもあって、『ウルトラQ』は、子供達に大ウケとなった。

 

なお、『ウルトラQ』とは、東京オリンピックでの体操の大技「ウルトラC」が、その由来となっており、

「超難度の謎」という意味が込められているという。

 

 

 

『ウルトラQ』は、絵具を使った、不気味で印象的なタイトルバックと共に、

「これから30分、貴方の目は貴方の体を離れて、この不思議な時間の中に入って行くのです」

という、石坂浩二(慶応OB)によるナレーションから始まる。

 

 

『ウルトラQ』江戸川由利子を演じた桜井浩子は、続く『ウルトラマン』にも出演した)

 

そして、星川航空のパイロット・万城目淳(佐原健二)、その助手の戸川一平(西條康彦)、

毎日新報社会部カメラマンの江戸川由利子(桜井浩子)、その上司の関デスク(田島義文)、

そして、科学者の一の谷博士(江川宇礼雄)らのメイン・キャラクター達が、

毎回、怪獣絡みの不思議な事件に遭遇して行くという物語であるが、

 

 

 

第1話に登場した、古代怪獣ゴメスを皮切りに、

冷凍怪獣ぺギラ(第5話)や、隕石怪獣ガラモン(第13話)、コイン怪獣カネゴン(第15話)、誘拐怪人ケムール人(第19話)など、

個性豊かな怪獣達が、毎回次々に登場し、テレビの前の子供達を熱狂させた。

 

そして、1966(昭和41)年1月~7月にかけて、全28話が放送された『ウルトラQ』は、

平均視聴率が30%を超える大ヒットとなり、お化け番組ならぬ、まさにモンスター番組となった。

こうして、好評の内に幕を閉じた『ウルトラQ』は、次なる新たなヒーローを生み出す機運を高めたのであった。

 

(1966(昭和41)年の放送時にはモノクロだった『ウルトラQ』は、後年、カラー化され、DVDが発売された)

 

(つづく)


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「特撮の神様」円谷英二が生み出したウルトラシリーズと、

読売ジャイアンツ(巨人)V9時代(1965~1973年)を描く、今回の企画であるが、

まずは、その前に「V9前夜」として、巨人とプロ野球のトピックスを、いくつか簡単にまとめておく事とする。

 

(1959(昭和34)年6月25日、「天覧試合」の巨人-阪神戦でサヨナラ本塁打を放った長嶋茂雄

 

「天覧試合」で後楽園球場を訪れた昭和天皇香淳皇后

 

<V9前夜(1)~阪神2度の優勝…村山実の奮闘>

 

「天覧試合」長嶋茂雄にサヨナラ本塁打を打たれた屈辱をバネに、阪神のエースとなった村山実

 

1959(昭和34)年6月25日の天覧試合で、長嶋茂雄サヨナラ本塁打を浴びるという屈辱を味わったのが、

この年、阪神に入団した新人・村山実投手であった。

村山実は、その悔しさを忘れず、長嶋を生涯の宿敵と定め、己の投球術を高めて行ったが、

村山は、新人の年(1959年)に18勝10敗 防御率1.19の好成績を挙げると(新人王は、31本塁打を放った、桑田武(大洋))、

以後、小山正明と共に、村山は阪神のエースとして活躍した。

 

(1962(昭和37)年、藤本定義監督率いる阪神タイガースが、15年振り優勝

 

そして、阪神は1962(昭和37)年、戦前に巨人の「第1期黄金時代」を築いた藤本定義監督(早稲田OB)が、

村山、小山の両エースを軸としたローテーションを組み、終盤まで三原脩監督(早稲田OB)の大洋ホエールズと激しいデッドヒートを演じた末、

結局、阪神が大洋を振り切って、15年振りの優勝(2リーグ分裂後、初優勝)を果たした。

 

(1962(昭和37)年、水原茂監督率いる東映フライヤーズが、阪神を破り日本一

 

(東映の投打の柱、土橋正幸(左)張本勲(右)

 

(1962(昭和37)年、浪商を中退して東映入りし、新人で20勝を挙げ、優勝に貢献した、怪童・尾崎行雄

 

なお、巨人を追われ、東映フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)の監督となっていた水原茂監督が、

同年(1962年)、怪童・尾崎行雄投手、土橋正幸投手などの力投や、張本勲らの強力打線の大活躍により、

東映フライヤーズを初優勝に導いた。

そして、日本シリーズでは、東映フライヤーズが、阪神を4勝2敗1分で破り、東映が初の日本一を達成した。

 

(法政二高のエース、柴田勲(後に巨人)

 


(浪商のエース、怪童・尾崎行雄(後に東映)

 

ちなみに、尾崎行雄は、浪商のエースとして、法政二高のエース・柴田勲(後に巨人に入団)と、

甲子園で3度にわたって死闘を繰り広げ、1960(昭和35)年夏と1961(昭和36)年春は、柴田の法政二高が勝ち、夏春連覇、

1961(昭和36)年夏は尾崎の浪商が準決勝で法政二高を倒し、そのまま優勝と、歴史に残る名勝負を演じた。

 

なお、まだスピードガンが無い時代ではあったが、尾崎行雄剛速球の威力は凄まじく、

「野球史上、最も速い球を投げた投手」の候補の一人として、今もなお、尾崎は伝説として語り継がれている。

 

(1963(昭和38)年オフの「世紀のトレード」。左から順に山内一弘、阪神・野田誠三オーナー、大毎・永田雅一オーナー、小山正明

 

その後、1963(昭和38)年オフ、阪神のエース・小山正明、大毎オリオンズの4番打者・山内一弘との間で、

「世紀のトレード」と称された大型トレードが成立。

村山実と共に、阪神のエースとして活躍した、バッキー

 

(1964(昭和39)年、藤本定義監督の阪神は2年振り優勝

 

1964(昭和39)年には、阪神は村山バッキーが両エースとして奮闘し、

藤本阪神は、またしても、三原大洋とシーズン最終盤まで激しく優勝を争った末、

最後は阪神が9連勝で大洋を大逆転し、2年振りの優勝を飾った。

 

(1964(昭和39)年の日本シリーズでMVPを獲得した南海のエース、スタンカ

 

(1964(昭和39)年、南海ホークスが阪神を4勝3敗で破り、日本一

 

なお、日本シリーズは阪神VS南海ナニワ決戦となったが、

2勝3敗とリードされた南海が、スタンカが第6、7戦で阪神を連続完封するという快投を見せ、MVPを獲得し、

鶴岡一人監督(法政OB)の南海が4勝3敗で阪神を破り、日本一となった。

 

 

 

なお、1964(昭和39)年の東京オリンピック開会式10月10日であり、

プロ野球は、オリンピック開会式の前に、全日程を終了させるべく、3月20日に開幕したものの、

阪神-南海の日本シリーズ第7戦は、オリンピック開会式と重なってしまい、

南海の日本一も、ヒッソリとした雰囲気であった。

 

<V9前夜(2)~王貞治、シーズン55本塁打と、長嶋茂雄の電撃結婚、広岡達朗の造反事件>

 

 

 

1964(昭和39)年、巨人の王貞治は、

5/3の阪神戦(後楽園球場)で、1試合4打席連続本塁打という史上初の快挙を達成するなど、シーズン通して絶好調で、

結局、は最終的にはシーズン55本塁打という日本新記録を達成した(この記録は、2013年にバレンティン(ヤクルト)60本塁打で更新するまで、日本記録として残り続けた)。

 

 

また、同年(1964年)に開催された東京オリンピックの観戦記を書くため(報知新聞の依頼)、長嶋はオリンピック会場を訪れたが、

長嶋は、報知新聞が主催した対談で出会った、東京オリンピックのコンパニオンの西村亜紀子さんに一目惚れし、猛アタックした。

そして、翌1965(昭和40)年1月26日、長嶋と亜紀子さんは結婚したが、長嶋らしいスピード結婚は、世間をアッと言わせた。

 

 

なお、巨人はこの年(1964年)に優勝を逃し、日本シリーズに出場できなかったため、

長嶋に、オリンピック観戦記を書くという依頼が舞い込んだのであるが、

「オリンピックが結んだ恋」と言われた、長嶋亜紀子さんの結婚も、

もし巨人が優勝していたら、もしかしたら、無かったかもしれない。

そう考えると、人間の運命とは、実に不思議なものである。

 

(巨人の三遊間コンビ、長嶋茂雄(左)広岡達朗(右)

 

そして、1958(昭和33)年の巨人入団以来、長嶋は巨人のサード(三塁手)を守り続け、

ショート(遊撃手)の広岡達朗(早稲田OB)と、三遊間を組んでいたが、

広岡は、1961(昭和36)年に就任した川上哲治監督と、全くソリが合わなかった。

 

 

そして、1964(昭和39)年8月6日の巨人-国鉄戦で、三塁ランナーに長嶋、打者・広岡という場面で、

川上監督は、長嶋にホームスチールを指示し、結果はアウトとなった。

広岡は、この作戦に「そんなに、俺のバッティングが信用出来ないのか」と激怒し、

試合中にも関わらず、職場放棄して、そのまま帰ってしまった。

 

この広岡の造反に、川上監督も激怒し、両者の溝は修復不可能なほど、深まってしまったが、

一度は引退を表明した広岡も、巨人の正力松太郎オーナーの説得により、引退を思い留まった。

しかし、この事件以降、広岡川上監督に、露骨に干されるようになり、

結局、1966(昭和41)年に広岡は引退に追い込まれた。

 

このように、「V9前夜」の1964(昭和39)年は、巨人内部ではゴタゴタが有り、

「打倒・長嶋」に闘志を燃やす、阪神の村山実が、巨人と長嶋に対して牙を剥いているという、そんな状況であった。

 

(1964(昭和39)年の東京オリンピック開会式で、最終聖火ランナーを務めた坂井義則

 

そして何よりも、1964(昭和39)年は、日本中が東京オリンピックに夢中であり、

プロ野球も、少し影が薄い1年ではあった。

まさか、翌年(1965年)から巨人が9連覇を達成しようとは、この時点では誰も思っておらず、

また、円谷英二が、その後、平成の世まで続く事となるウルトラシリーズを生み出す事など、

勿論、誰も知る由も無かった。

 

(つづく)


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1965(昭和40)~1973(昭和48)年にかけて、読売ジャイアンツ(巨人)は、

川上哲治監督の下、王貞治長嶋茂雄「ON砲」を擁し、

9年連続日本一、所謂「V9」という、空前絶後の黄金時代を築き上げた。

 

当時の巨人の人気は圧倒的で、

子供達に人気が有る物として「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉が生まれたほどであったが、

その巨人V9時代と、「特撮の神様」と称された円谷英二が率いる円谷プロダクションが製作した、

「ウルトラQ」を皮切りとする初期ウルトラシリーズが放送された期間は、ちょうど重なっている。

 

そこで、今回は巨人V9時代と、ウルトラシリーズについて描いてみたいと思うが、

まずはその「前史」として、巨人V9の原動力となった「ON砲」の、長嶋茂雄王貞治の巨人入団の経緯と、

円谷英二が、「特撮の神様」として名を馳せた時代について、述べさせて頂きたい。

 

 

<水原茂監督率いる巨人、「第2期黄金時代」を築く>

 

プロ野球が、セ・パ両リーグに分裂したのは1950(昭和25)年の事だったが、

1950(昭和25)年、セ・リーグ初代優勝チームは松竹ロビンス、パ・リーグ初代優勝チームは毎日オリオンズであった。

そして、同年(1950年)行われた、第1回日本シリーズは、毎日が4勝2敗で松竹を破り、初代日本一となった。

 

戦前の1リーグ時代に、藤本定義監督(早稲田OB)の下、「第1期黄金時代」を築いていた巨人は、

翌1951(昭和26)年から、水原茂監督(慶応OB)の下、3年連続リーグ優勝を達成し、

日本シリーズでも、鶴岡一人監督(法政OB)率いる南海ホークスを3年連続で破り、3年連続日本一をも達成した。

 

 

 

当時の巨人の中心メンバーは、川上哲治、青田昇、千葉茂、ウォーリー与那嶺(与那嶺要)らの強力打線と、

南海から強引に引き抜いた別所毅彦を筆頭に、藤本英雄、大友工らの強力投手陣らであり、

投打がガッチリ噛み合った巨人は、他球団を寄せ付けず、無敵の強さを誇っていた。

 

1954(昭和29)年には、フォークボールの元祖・杉下茂投手(明治OB)の力投で、中日ドラゴンズ初優勝したものの、

翌1955(昭和30)年には、巨人は王座を奪還、またしても日本シリーズで南海を下し、4度目の日本一となった。

この時期の巨人は向かう所敵無しで、水原巨人「第2期黄金時代」を築き上げた。

 

<円谷英二と、特撮との出会い>

 

「特撮の神様」と称された、円谷英二

 

1901(明治34)年7月7日、福島県に生まれた円谷英二は、

神田の電機学校(現・東京電機大学)を卒業した後、1919(大正8)年、カメラマン助手として国際活映(国活)に入り、

18歳にして、映画界に入った。

 

 

その後、カメラマンとして頭角を現した円谷英二は、

1933(昭和8)年、日活に移ると、同年(1933)に公開されたアメリカ映画『キングコング』を見て、

その特撮技術の高さに衝撃を受けた。

そして、円谷『キングコング』のフィルムを取り寄せ、1コマずつを詳細に分析した。

円谷が、特撮技術の習得に情熱を傾けるようになったのは、この時からであった。

 

その後、円谷は独自のスクリーン・プロセス技術を編み出し、特撮の技法を向上させて行ったが、

1937(昭和12)年には、円谷は新設の東宝へ、特撮技術課の課長待遇で迎え入れられた。

当時の日本は、戦争の時代であり、円谷も何度か兵役に就いたが、

除隊後、円谷はその経験も活かし、戦意高揚映画を数多く手掛けるようになった。

 

 

そして、1942(昭和17)年、円谷が監督した『ハワイ・マレー沖海戦』は、

当時としては、驚くべき水準の特撮技術を駆使した作品で、戦時中にも関わらず、爆発的な大ヒットとなった。

この『ハワイ・マレー沖海戦』により、「特撮といえば円谷英二」という名声は不動のものとなった。

 

<「特撮の神様」円谷英二、怪獣映画ブームを巻き起こす!!>

 

 

終戦後、円谷英二は、戦時中に戦意高揚映画を作っていた事をGHQに咎められ、

暫くは公職追放の憂き目に遭っていたが、1949(昭和24)年に映画界に復帰すると、

1950(昭和25)~1954(昭和29)年まで、東宝の全ての本編・予告編タイトルを作成し、

東宝映画「東宝マーク」も考案するなど、精力的に活動した。

 

 

そして、中日ドラゴンズが初優勝した1954(昭和29)年、

円谷英二は、日本初の本格的な怪獣映画『ゴジラ』を製作し、史上空前の大ヒットを記録した。

『ゴジラ』は、海中深くで眠りについていたゴジラという怪獣が、水爆実験によって蘇り、大暴れするという設定であり、

当時の、第五福竜丸の被曝事故などに対する、抗議の意味も込められ、反戦がテーマの作品となっている。

 

 

ともあれ、『ゴジラ』の空前の大ヒットにより、円谷英二「特撮の神様」と称されるようになったが、

以後、シリーズ化された『ゴジラ』をはじめ、

円谷英二『空の大怪獣ラドン』(1956(昭和31)年)や、ザ・ピーナッツが歌う「モスラの歌」も大ヒットした『モスラ』(1961(昭和36)年)など、次々に大ヒットを飛ばし、

ゴジラ、ラドン、モスラ東宝三大怪獣シリーズは、大ブームを巻き起こした。

 

 

 

 

<長嶋茂雄と王貞治の巨人入団と、テレビの勃興>

 

 

一方、プロ野球の王座に君臨する巨人に、新たなスターが入団した。

1957(昭和32)年、立教大学の4年生・長嶋茂雄は、学生生活最後の試合の慶応戦で、

当時の東京六大学野球の新記録となる、通算8号ホームランを放ち、千両役者ぶりを発揮した。

 

 

 

そして、六大学のスーパースター・長嶋茂雄は、当時としては破格の契約金1,800万円で巨人に入団したが、

1958(昭和33)年、長嶋茂雄はプロ入り1年目から大活躍し(打率.305 29本塁打 92打点)、いきなり本塁打王と打点王の二冠を獲得した。

ルーキーで、いきなり大活躍した長嶋茂雄は、「ゴールデンボーイ」と称され、大人気となり、当時全盛だった東京六大学野球のファンを、長嶋が全部プロ野球に連れて来た、とまで言われるほどであった。

 

 

 

その後、1957(昭和32)年春の選抜で、早稲田実業甲子園初優勝に導いた王貞治投手も、

1959(昭和34)年、長嶋の後を追うように巨人に入団したが、

王貞治は、プロ入りと同時に打者に転向した。

 

 

同年(1959年)6月25日、長嶋昭和天皇香淳皇后が観戦された天覧試合巨人-阪神戦(後楽園球場)で、

4-4の同点で迎えた9回裏、阪神・村山実投手からサヨナラ本塁打を放ち、またしても、スーパースターぶりを発揮した。

ちなみに、この天覧試合では王貞治も4-4の同点に追い付く2ランホームランを放ち、ONアベックホームランの第1号となった。

 

 

 

なお、1953(昭和28)年に、NHKと日本テレビにより、テレビ放送が開始されたが、

当初は、テレビは高価だたっため、庶民には高嶺の花であり、街頭テレビに黒山の人だかりが出来ていたが(テレビ初期のヒーローは、外国人レスラーを次々になぎ倒した、プロレスの力道山である)、

 

 

 

 

1958(昭和33)年、テレビの電波塔である東京タワーの設置と、

1959(昭和34)年の、皇太子殿下・明仁親王(今上天皇)と、美智子妃殿下ご成婚パレードをキッカケに、

テレビの販売台数は飛躍的に伸びた。

 

 

つまり、当時は娯楽の王様が、映画からテレビへと入れ替わる過渡期にあったのだが、

長嶋の大活躍は、ちょうどそのテレビ勃興期にあたり、長嶋の活躍はテレビを通して、全国のお茶の間に届けられた。

なお、長嶋が巨人に入団した1958(昭和33)年、国産初の連続テレビ映画『月光仮面』が、大ヒットを記録している。

つまり、『月光仮面』長嶋茂雄は、テレビ勃興期を代表する英雄だったわけである。

 

<王貞治、一本足打法で打撃開眼!「ON砲」の誕生>

 

一方、鳴り物入りで入団した王貞治は、プロ入り3年目(1961(昭和36)年)まではパッとせず、

「王、王、三振王」と、強烈な野次が飛ばされるほどであったが、

プロ入り4年目の1962(昭和37)年、早実の大先輩・荒川博が巨人の打撃コーチとし手入団すると、

荒川は、が速球に振り遅れるという欠点を矯正するため、一本足打法の指導を始めた。

 

 

 

荒川は、畳がボロボロになるまで素振りを行なうという、壮絶な特訓をした。そして、は凄まじい努力で、遂に一本足打法を習得、

は同年(1962年)、38本塁打で、初の本塁打王を獲得し、「世界の王」への第一歩を記した。

同年(1962年)は、長嶋は不振だったが、翌1963(昭和38)年、長嶋は復活し、首位打者と打点王の二冠を獲得、

2年連続本塁打王となったと併せて、「ON砲」という呼び名が生まれた。

 

 

なお、その間、水原監督は1960(昭和35)年限りで巨人監督を辞任し(1955~1959年にも、巨人はリーグ5連覇を達成、1960年は三原大洋初優勝を許し、辞任)。

1961(昭和36)年からは川上哲治が監督に就任し、同年(1961年)と1963(昭和38)年に、川上巨人は1年おきに日本一となった。

 

 

 

このように、当時の川上監督率いる巨人は、ON砲を擁し、V9時代への助走期間とも言うべき時期であった。

ちなみに、1964(昭和39)年2月には、東宝で、長嶋王、川上哲治監督らが出演した『ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗』という映画も公開され、

当時の東宝のスター達とON(王・長嶋)が共演を果たしている。

 

 

(つづく)


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<明治大学ラグビー部、22年振り大学日本一!!>

 

 

昨日(1/12)、第55回全国大学ラグビー選手権大会決勝、明治大学-天理大学の試合が行われ、

明治が22-17で天理を破り、22年振り13度目の大学日本一を達成した。

 

 

今年度(2018年度)の全国大学ラグビー選手権は、

昨年度(2017年度)まで、全国大学ラグビー選手権9連覇(2009~2017年度)を果たしていた帝京大学が、

準決勝で天理大に7-29で敗れるという大波乱が起こった。

従って、無敵の帝京大の10連覇達成の夢は、ここで破れてしまっていた。

 

 

一方、対抗戦3位(5勝2敗で、慶応と同率3位)で大学選手権に臨んでいた明治は、

立命館大学を50-19、東海大学を18-15で破ると、

対抗戦の早明戦では27-31で敗れていた早稲田を、今度は全く同じスコアの31-27で破り、リベンジに成功。

こうして、明治は昨年度(2017年度)に続いて、決勝に進出した。

 

そして、明治VS天理の顔合わせとなった決勝は、

まずは前半3分に天理が島根一麿のトライで5-0と先制したが、

前半7分、明治が山崎洋之のトライで、すぐに5-5の同点に追い付いた。

 

その後、明治は前半22分に高橋汰地のトライと、山沢京平のゴールキックで12-5と逆転に成功し、

12-5と明治がリードしたまま、前半が終了した。

 

後半に入ると、明治は後半16分に山沢京平がペナルティーゴールを決め、15-5、

後半22分には武井日向のトライと、山沢京平のゴールが決まり、22-5と大きくリードを広げた。

 

しかし、そこから天理が猛反撃に転じ、

後半29分に島根一麿のトライで10-22、

後半35分にはシオサイア・フィフィタのトライとゴールキックが決まり17-22と、天理は激しい追い上げを見せた。

 

 

(2019年1月12日、明治大学ラグビー部22年振りの大学日本一に導き、胴上げされる田中澄憲監督

 

しかし、その後は明治が天理の反撃を凌ぎ切って、22-17でノーサイド、

結局、明治が22-17で天理を破り、見事に22年振りの大学日本一を達成したのである。

そして、明治の田中澄憲監督は、就任1年目で、母校の明治を大学日本一に導いた。

 

<明治の象徴、名将・北島忠治監督>

 

(1929(昭和4)年~1996(平成8)年の67年間にわたり、明治大学ラグビー部を率いた、北島忠治監督

 

かつて、明治大学ラグビー部は、名将・北島忠治監督の下、黄金時代を築いた。

1901(明治34)年2月23日生まれの北島忠治は、1926(大正15)~1928(昭和3)年にかけて、

明治大学ラグビー部のスクラムセンター(現・フッカー)として活躍した後、

1929(昭和4)年に、北島忠治は明治大学ラグビー部の監督に就任。

 

(1929(昭和4)年、明治大学ラグビー部監督に就任した当時の、北島忠治

 

以後、北島忠治監督は、死去する1996(平成8)年まで、明治大学ラグビー部の監督を67年間の長きにわたりに務め、

その間、明治を対抗戦優勝23回、大学日本一11回、日本一1回に導いた。

 

 

北島忠治監督の教えは、あまりにも有名な「前へ」という言葉に集約されるが、

明治大学ラグビー部の十訓として、下記の10箇条が定められているという。

  • 1、監督・委員の命を守れ
  • 2、技術に走らず精神力に生きよ
  • 3、団結して敵に当たれ
  • 4、躊躇せず突進せよ
  • 5、ゴールラインに真っ直ぐ走れ
  • 6、勇猛果敢たれ
  • 7、最後まであきらめるな
  • 8、低いプレーをせよ
  • 9、全速力でプレーせよ
  • 10、身を殺してボールを生かせ
北島監督は、「重戦車FWDを核にして、縦を衝く」という指導方針を、一貫して貫き通したが、
それが、伝統の明治ラグビーの強さの源泉となっていた。
 
 
北島監督は、その生涯を明治大学ラグビー部のために捧げたが、
北島忠治こそ、まさに明治の象徴のような人物だったと言って良いであろう。
 
<伝統の早明戦…早稲田VS明治の激闘の歴史>
 
ところで、明治大学ラグビー部宿命のライバルといえば、勿論、早稲田大学ラグビー部である。
明治ラグビー部が、重戦車FWDを核とした「前へ」の戦法を特徴として、「縦の明治」と称されたに対し、
早稲田ラグビー部は、軽量FWD、BK中心の展開ラグビーの戦術を得意とし、「横の早稲田」と言われた。
 
 
この全く対照的な両校の対決、ラグビーの早明戦は、野球の早慶戦と並び、
日本の学生スポーツを代表する、宿敵同士のライバル対決となっている。
 
ラグビーの早明戦は、1923(大正12)年12月24日、早稲田大学の戸塚グラウンドで、歴史的な初対戦が行われたが、
第1回早明戦は、早稲田が明治を41-3で破った。
それ以来、早明戦は毎年行われるようになったが、1927(昭和2)年までは、早稲田が明治に5連勝した。
 
しかし、北島忠治が現役選手として活躍していた1928(昭和3)年の早明戦で、
明治が11-3で、初めて早稲田に勝利すると、
翌1929(昭和4)年に北島忠治が明治の監督に就任して以降、明治が早稲田に3連勝(合計4連勝)した。
 
 
このように、早明戦は、その黎明期から激しい戦いを続けていたが、
それ以来、早明両校は、お互いを良きライバルとして認め合い、数々の名勝負を繰り広げる事となった。
その後も、毎年12月の第1日曜日に行われる早明戦は、日本のラグビー界をを代表する黄金カードとして、早明両校の学生やOBは勿論、
多くのラグビーファンからも、熱狂的な支持を集めた。
 
 
ちなみに、1923(大正12)年から、今日(2019年)に至るまでの、早明戦の通算対戦成績は、
対抗戦では早稲田54勝、明治38勝、2分となっているが、
大学選手権では、明治が8勝5敗(その内、決勝での対戦は明治の6勝4敗)と勝ち越している。
今年度(2018年度)は、明治は対抗戦での早明戦には27-31で敗れたが、
大学選手権の準決勝では、明治が31-27で早稲田に勝ち、リベンジを果たしたというのは、前述の通りである。
 
<早明戦は、明治の愛校心の発露の場!?>
 
このように、早明戦は、長きにわたり、熱く激しい戦いを繰り広げているのだが、
明治大学の、早稲田大学に対するライバル心というのは、相当なものであり、
ラグビーの早明戦で、明治が早稲田に勝つ事こそ、明治の学生やOBにとって、無上の喜びとなっているように思われる。
 
 
これは、野球の早慶戦とも、ちょっと性質が違うようにも見受けられるが、
明治は、第一志望の早稲田の入試に落ちて、仕方なく第二志望の明治に入ったというような学生も非常に多いと聞く。
その複雑な感情が、あの早明戦での、明治側の熱狂的な応援の一つの要因となっているように思えるのだが、どうであろうか。
 
(2013(平成25)年のラグビー早明戦で、国立競技場のスタンドを埋め尽くす、明治大学の学生、OBや明治ファンたち。ラグビー早明戦は、早稲田は勿論の事、とりわけ明治にとっては、特別な試合となっている)
 
しかし、近年の入試では、受験生からの明治に対する人気が非常に上がっており、
今後は、明治に入りたくて入ったという学生が、ますます増えて行くというのは確かであろう。
それに、たとえ明治が第一志望ではなかったとしても、
明治は大変素晴らしい大学なので、明治を大好きになって卒業して行く学生は非常に多いようである。
 
 
(東京・御茶ノ水に有る、明治大学リバティタワー
 
法政OBの私から見て、明治の人達の愛校心というのは、ちょっと羨ましいと思うが、
その明治の愛校心の最大の発露の場が、ラグビーの早明戦であると、私は思っている。
今回の明治の大学日本一も、明治の学生や、全国の明治OBによる、有名無形の後押しが有ってこそであるというのは、間違いない。
 
<明治大学ラグビー部、長い低迷を乗り越えての悲願の日本一!!>
 
明治大学ラグビー部北島忠治監督は、1996(平成8)年5月28日に死去。享年95歳)
 
話を明治大学ラグビー部に戻すと、
北島忠治監督が1996(平成8)年5月28日に、享年95歳で亡くなった後、
明治は、その弔い合戦とばかり、1996年度の大学ラグビー選手権で日本一となったが、
その日本一を最後に、明治は長い低迷期に入ってしまった。
 
明治は、対抗戦の優勝は1998年度が最後となってしまうなど、大学日本一は勿論、対抗戦優勝からも長く遠ざかり、
2007(平成19)年の早明戦では、明治は早稲田に7-71という歴史的大敗を喫するという屈辱も味わった。
 
(2012年度の関東大学ラグビー対抗戦で、明治大学吉田義人監督の下、14年振り優勝を達成)
 
その間、北島監督が亡くなって以降、明治ラグビー部の監督は、
金谷福身、田中充洋、境政義、藤田剛などが務めたが、
2012(平成24)年度、吉田義人監督の下、明治は14年振りに対抗戦優勝を果たし、
2015(平成27)年度にも、明治は丹羽政彦監督で、対抗戦で優勝するなど、近年の明治は、復活の兆しを見せていた。
 
(2017(平成29)年度の大学選手権決勝(2018年1月7日)、明治は帝京に20-21の1点差で惜敗し、大学日本一を逃す。帝京9年連続大学日本一を達成)
 
2017(平成29)年度、明治は19年振りに大学選手権の決勝に進出したが、
王者・帝京を、あと一歩まで追い詰めたものの、明治は惜しくも20-21の1点差で敗れ、日本一を逃した(帝京は9連覇達成)。
そして、昨日(1/12)、明治は昨年(2017年度)の悔しさを晴らし、遂に、22年振りの大学日本一の座に返り咲いたわけである。
 
このように、長い歴史と伝統に裏打ちされた明治大学ラグビー部であるが、
今回の大学日本一を機に、明治ラグビー部は真に復活し、これからも日本のラグビー界を牽引して頂きたいと、私は思っている。
 
法政OBの私からも、明治にエールを送るという意味と、明治の22年振りの大学日本一に祝意を表するという意味を込めて、今回の記事を書かせて頂いた次第である。

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日本のオリンピック参加に向けて、嘉納治五郎天狗倶楽部の面々の心は一つになり、

彼らは、羽田にオリンピックの予選会のための競技場を建設するため、邁進していたが、

無理が祟って、病に倒れた嘉納治五郎(役所広司)は、ふと弱気の虫に襲われ、

「韋駄天など、居ない」

と、遂に弱音を吐いた。

 

果たして、そんな嘉納治五郎の前に、韋駄天は現れるのであろうか!?

 

 

<遂に、羽田に競技場が完成!オリンピック予選会が開かれる>

 

 

 

嘉納治五郎と、天狗倶楽部の面々の熱意の結晶である、日本で初めての本格的な競技場が、

遂に、東京・羽田の地に完成した。

そして、1911(明治44)年11月19日、日本のオリンピック参加に向けて、その代表選手を決めるための予選会が開催される日が、とうとうやって来た。

 

 

 

当日は、あいにくの雨模様となったが、

天狗倶楽部の一同は勿論、東大、早稲田、慶応などの学生達や、

運命の予選会の模様を一目見ようと、大勢の観客達が集まっていた。

 

 

 

そして、嘉納治五郎は主催者席に座り、

祈るような気持ちで、運命の予選会のスタートを待っていた。

一方、三島弥彦(生田斗真)は、若い女性陣に囲まれ、呑気そうな様子であった。

 

 

嘉納が、ふとスタート地点を見ると、

何と、人力車夫の清さん(峯田和伸)が、その中に紛れ込んでいた。

清さんは、胸に「早せ田」と書かれたゼッケンを付けていた。

どうやら、「早稲田」のつもりらしいが、清さんをよく知っている嘉納は、

「清さん!あんた、早稲田じゃないだろ!!」

と叫んだ。

 

 

 

そうこうしている内に、スタートの号砲が鳴り、選手達は一斉にスタートした。

応援する学生や観客達から、大声援が送られたが、嘉納は落ち着かない様子であった。

 

<一人、また一人…次々に落伍者が…>

 

 

 

予選会がスタートして暫く経ったが、雨はますます激しく降っていた。

主催者席に座る嘉納は、気が気ではない様子だったが、そこへ、レースの様子を伝える伝令が、次々に飛び込んで来た。

「現在、落伍者は5名!」「落伍者は、更に3名!」

本格的なマラソンを走った事の有る選手が、まだまだ少なかった時代だった事もあり、

過酷なマラソンに耐え切れず、落伍者が次々に出ているようであった。

 

 

 

参加者から、一人、また一人と選手が脱落して行き、

各中継所は、医者の数も足りず、まるで戦場のような様子だという。

永井道明教授(杉本哲太)は、それ見た事かと言わんばかりの様子で、

「嘉納先生、これは責任問題ですよ!死人が出たら、どうするおつもりですか!?これは、羽田の悲劇ですよ!」

と、激しく詰め寄った。

永井に詰め寄られ、嘉納は、ただ黙って前を見つめるより他は無かった。

 

<遂に…遂に、韋駄天現る!!>

 

 

 

するとそこへ、競技場の入口に、一人の人影が姿を現した。

「んっ!?」

嘉納は、双眼鏡を見た。

「あれは…?」

食い入るように、双眼鏡で人影を見る嘉納に対し、永井は、

「どうせ、伝令でしょう」と言ったが、そうではなかった。

「いや、違う!伝令じゃない!!選手だ、選手が来たんだ!!」

嘉納は、思わず叫んだ。

 

 

 

そう、それは伝令ではなく、先頭で競技場に帰って来た、参加選手の一人だったのである。

その選手は、物凄い速さで、競技場へと帰って来たのであった。

 

 

「あれを見ろ!韋駄天だ!居たぞ、韋駄天が居たぞ!!」

嘉納は、興奮して、狂ったように叫んでいた。

永井も驚いて、双眼鏡でその選手を見たが、その選手は、頭から血を流して、顔中が血まみれのように見えた。

「あれは何だ!?怪我をしているのか!?」

永井はそう言ったが、主催者席に居た学生の一人が、

「違います!あれは血じゃありません!この雨で、帽子の赤い染料が落ちて、顔に流れているんですよ!!」

と言った。

 

 

いかにもその通り、それは血ではなかったが、

その選手は、帽子から垂れた染料をダラダラと顔に流しながら、物凄い形相で走っていた。

それは、あたかも、歌舞伎の隈取のようであった。

 

 

「誰だ!?あの選手は誰だ!?」

嘉納は、引ったくるように、参加者名簿を見たが、

その選手とは即ち、東京高等師範学校の学生・金栗四三(中村勘九郎)その人であった。

 

 

 

嘉納は、興奮して、主催者席からゴール地点へと飛び出した。

そして、激しく雨が降っているのにも構わず、ゴールへと疾走して来る金栗四三へと向かって、

「おーい!おーい!!」

と、叫び続けた。

 

<金栗四三、世界新記録を達成!世界に通用する韋駄天の登場!!>

 

 

 

 

金栗四三は、履いていた足袋を脱ぎ捨て、ゴールへとひた走った。

そんな金栗を、興奮した学生や観客達が、大歓声を上げながら追い掛けた。

三島弥彦も、「頑張れ、頑張れ!!」と言いながら、金栗と共にゴールへと並走した。

 

 

 

 

そして、金栗四三は、ゴール地点で待ち受ける、嘉納治五郎の元へと飛び込んだ。

タイムを見ると、何と2時間32分45秒であり、それまでの世界記録を27分も縮めるという、

凄まじい驚異的な世界新記録だったのである。

 

 

 

それはまさに、嘉納治五郎が待ち焦がれていた、待望の韋駄天の登場であった。

ゴールへと飛び込んで来た金栗四三を抱き止めた嘉納治五郎は、

金栗四三に向かって、何事かを伝えたように見えた。

 

 

 

 

激しい雨と雷鳴によって、その声はよく聞き取れなかったが、

嘉納治五郎は、金栗四三に、こう伝えていたようである。

「金栗君、君こそ、世界に通用する韋駄天だ。いや、不可能を可能(嘉納)にする男だ」

古今亭志ん生(ビートたけし)による、そのようなオチがついて、『いだてん』第1話は幕を閉じたのである。

 

…以上が、『いだてん』第1話の内容であるが、

主人公である金栗四三(中村勘九郎)が、なかなか登場せず、

最後の最後になって、満を持して登場するという演出であり、

しかも、まるで歌舞伎の隈取のような形相で現れるわけだが、

勿論、それは歌舞伎役者中村勘九郎だからこそ、わざと、そのような演出にしているというのは、言うまでもない。

 

 

この劇的な主役の登場場面は、全く見事の一語であり、

思わず「待ってました!!」「中村屋!!」という掛け声を掛けたくなってしまうような、素晴らしい場面だったと言えよう。

 

また、『いだてん』第1話は、総じて、非常にテンポも良く、登場人物達も、皆、個性的で魅力が有り、

笑い有り、感動の名場面有りという、非常に盛り沢山な内容だったが、

クドカン(宮藤官九郎)の脚本の素晴らしさが光った、見事なものであった。

次回以降も、非常に楽しみである。


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「世界に通用する韋駄天は、必ず現れる!」

と、大見得を切り、日本のストックホルムオリンピック参加へ向け、断固たる決意を示した嘉納治五郎(役所広司)。

そして、その嘉納治五郎の熱意に心を打たれた、「東大運動会の覇王」三島弥彦(生田斗真)。

この二人のタッグにより、日本は漸く、オリンピック参加へ向けて、動き出した。

 

 

<嘉納治五郎、天狗倶楽部との交流を深める…東京オリンピックへの第一歩!?>

 

「いやー、感動しましたよ、嘉納天狗!平和のための祭典、オリンピック!素晴らしいですね!」

三島弥彦は、感に堪えないと言った表情であった。

三島は、嘉納を、自らが所属する天狗倶楽部の部室へと招いた。

そこは、天狗倶楽部の面々の熱気に満ちていたが、

彼らは、純粋にスポーツを愛するという気持ちが溢れており、

その事は、充分に嘉納にも伝わっていた。

 

 

「いやー、どうやら私は君達を誤解していたよ。最初は、暑苦しくて、接しにくいと思っていたが…」

嘉納は、天狗倶楽部の面々を、改めて見直した様子であった。

そして、嘉納は、医者に止められているという酒を、天狗倶楽部の面々と共に酌み交わした。

 

その席で、嘉納は、作家の押川春浪(武井壮)や、「早稲田のヤジ将軍」吉岡信敬(満島真之介)などの天狗倶楽部のメンバー達から、

「小樽水産の佐々木や、慶應義塾の井出伊吉など、全国には、快足自慢の凄い奴らが、ゴロゴロ居る」

という情報も聞く事が出来た。

 

 

すると、嘉納は、

「それなら、オリンピック参加のために、予選会を開いたらどうかな。公式にタイムを測り、良い記録を出した者を、日本の代表としてオリンピックに送り込むんだ」

という提案をした。

嘉納の提案に、天狗倶楽部の面々も、「おーっ!!」「それは良い!!」と一斉に盛り上がったが、

三島だけは「僕は、反対だな」と、意外にも反対の意を表明した。

 

 

「三島君…?」

三島の意外な反応に、嘉納は戸惑ったが、三島は、

「予選会なんて、みみっちい事を言わずに、どうせなら東京でオリンピックをやりましょうよ!嘉納天狗!!」

と言ったのである。

「東京…オリンピック?」

今まで、思ってもみなかった発想に、嘉納は驚いたが、

天狗倶楽部の面々は、「おーっ!!」「やってやろうぜ!!」と、更に盛り上がった。

 

 

この時点で、日本はまだ一度も、オリンピックに参加した事すら無かった。

しかし、「いつの日か、東京オリンピックを開催する」という、

気宇壮大な目標が、この時初めて、嘉納治五郎の胸に刻まれたのであった。

 

<嘉納治五郎、オリンピック代表を決める予選会の開催を発表>

 

 

その後、嘉納治五郎は、日本のオリンピック参加と、

オリンピック参加のための予選会を開催する事を、記者会見で大々的に発表した。

 

 

 

そして、もし世界に通用するようなレベルの選手が現れなかった場合、

潔く、日本は今回のオリンピック参加を辞退するという事も、同時に発表した。

 

 

 

なお、参加費用などは、全て嘉納が主宰する大日本体育協会が負担するという条件であったが、

その事を知った、人力車夫の清さん(峯田和伸)も、

「俺も、絶対オリンピックに出てやる!」

と、すっかりその気になっていた。

 

 

しかし、後の古今亭志ん生である、美濃部孝蔵(森山未來)

「やめとけって、無理だよ。参加条件は、中等学校の学生か、学歴は中等学校卒業以上だってよ。おめえ、小学校しか出てねえじゃねえか」

と言って、清さんの出鼻を挫いた。

清さんは歯ぎしりしたが、それでもまだ諦めきれない様子であった。

 

 

なお、オリンピック参加反対の立場を崩さない、永井道明(杉本哲太)は、

「選手の健康管理は、どうするのか?死人が出たりしたら、どう責任を取るおつもりですか?」

と、嘉納に食い下がったが、

「スタート地点から折り返し地点までの間に、何箇所も中継地点を設け、そこに医者も配置する。何か有ったら、すぐに伝令を使って、本部に報告させる」

という、万全の対策を取ると話し、不承不承ながら、永井に予選会開催を了承させた。

 

<嘉納治五郎と天狗倶楽部、羽田に競技場を作る!!>

 

オリンピックの予選会を開催する事が決まったのは良いが、

当時の日本には、陸上競技のためのスタジアムは存在していなかった。

 

 

そこで、嘉納東京・羽田の地に、競技場を作る事にしたが、

羽田に行ってみると、雑草が生い茂る、何も無い原野であり、

ここに競技場を作る事は、至難の業と思われた。

 

 

途方に暮れる嘉納可児徳(古舘寛治)であったが、

そこへ、三島弥彦、押川春浪、吉岡信敬をはじめ、天狗倶楽部の一同が、姿を現した。

「大丈夫です!ここに、立派なスタジアムを作ってやりましょう!」

彼らは、嘉納可児に対し、力強く言った。

 

 

そして、三島は、

「建設費用は、兄貴(三島弥太郎)に言って、出させますよ!」

と言って、嘉納を安心させると、

「さあ、取り掛かろうぜ!!」

と言って、天狗倶楽部の面々は、一斉に競技場建設へ向けて、原野へと飛び出して行った。

 

もはや、嘉納治五郎は、天狗倶楽部の事を、妙な暑苦しい団体だとは思っていなかった。

天狗倶楽部は、何処までも気風の良い、熱い心を持った、スポーツを愛する素晴らしいグループである事は、疑いようも無かった。

 

<嘉納治五郎、遂に病に倒れる>

 

 

しかし、嘉納治五郎は、無理が祟ったのと、

医者から禁じられているという酒を、天狗倶楽部の面々と共に痛飲してしまった事もあり、

持病の糖尿病が悪化し、遂に倒れてしまった。

 

 

「世界に通用する韋駄天は現れるなどと、大風呂敷を広げ、みんなを巻き込んでしまったが…実は、随分前から諦めていた」

と、嘉納は病院のベッドで、可児に対し、とうとう弱音を吐いた。

「韋駄天など、居ない」

嘉納は、すっかり弱気になっているようであった。

 

 

「先生、そんな事はありません!韋駄天は、必ず居ます!!」

可児はそう言って、嘉納を元気付けようとした。

そして、嘉納に無断で、予選会の優勝者に授与するための優勝カップまで作ってしまったと、嘉納に話した。

「これ、いくらかかった?」

嘉納は、何とも複雑な表情で、その優勝カップを見つめるのだった。

 

 

東奔西走の末に、遂に倒れてしまった嘉納治五郎であるが、

そんな嘉納の前に、果たして、待望の韋駄天は現れるのであろうか?

 

(つづく)


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日本初のオリンピック(1912年のストックホルムオリンピック)参加を目指し、奮闘を続ける嘉納治五郎(役所広司)であったが、

なかなか周囲の理解を得る事が出来ず、しかも、天狗倶楽部という、妙な団体まで登場し、

嘉納治五郎は、すっかりペースを乱されてしまった。

そして、万策尽きたと感じた嘉納は、遂に、オリンピック参加要請を辞退する事を決意した。

 

 

<オリンピック参加辞退のためにフランス大使館を訪れた嘉納治五郎。しかし…>

 

通訳を伴い、フランス大使館を再訪した嘉納治五郎は、

「日本のオリンピック参加は、辞退いたします」

と伝えるつもりでおり、通訳に聞き、その台詞を練習していた。

 

 

しかし、嘉納が駐日フランス大使・ジェラールに、その台詞を伝えようとすると、

ジェラール嘉納に、巨大なスタジアムの図面を広げてみせた。

「これが、オリンピックのメインスタジアムです。ここを、沢山の観客が埋め尽くします!」

嘉納は、スタジアムの図面を見て、仰天した。

自分が思っていた以上に、遥かに立派で素晴らしいスタジアムだったからである。

 

 

 

更に、ジェラール嘉納に、ストックホルムオリンピックのポスターを見せた。

それは、オリンピックの精神を伝えるような、素晴らしいデザインであった。

 

すると、素晴らしいスタジアムの図面やポスターを見て、すっかり感激した嘉納は、

ついさっきまで、オリンピック参加を辞退すると決めていた事など、嘘のように、

即座に、日本のオリンピック参加を決めてしまった。

 

 

 

 

そして、嘉納ジェラールに、

「オリンピックと柔道の精神は通じる。スポーツで国際的に交わる事は、世界平和にも通じるでしょう!」

と言い、ガッチリと握手を交わした。

こうして、嘉納治五郎は、日本のオリンピック参加を目指し、再び走り始める事となった。

 

<古今亭志ん生の元に、弟子入り志願の若者が現れる>

 

一方、1960(昭和35)年の東京・日暮里の、古今亭志ん生(ビートたけし)の家に、

ある若いカップルが訪ねて来ていた。

 

 

小松(神木隆之介)という若者は、彼女の知恵(川栄季奈)を伴って、志ん生の家を訪れ、

弟子入りを志願しに来ていたのだが、志ん生は、

「悪い、今、弟子は取ってねえんだ」

と言って、断ろうとした。

 

 

しかし、小松は、母の遺品として、

「志ん生の『富久』は絶品」と書かれた絵ハガキを差し出した。

彼の父が、満州に住んでいた頃、同じく満州に居た志ん生の落語を聞き、

すっかり、惚れ込んでいたというのである。

 

先ほどの絵ハガキは、志ん生『富久』を聞いた小松の父が、

その事を伝えるために、満州から日本に送って来た物であった。

それを見て、志ん生は複雑な表情を浮かべていた。

 

<嘉納治五郎、大日本体育協会を結成!!>

 

再び、日本のオリンピック参加のために活動を開始した嘉納治五郎は、

自らが校長を務める、東京高等師範学校(現・筑波大学)の校長室に、

「日本体育協会」と書かれた看板を掲げた。

 

 

それを見た、オリンピック参加反対派の急先鋒である、同校の永井道明教授(杉本哲太)は、

同じく反対派である、文部省の役人・加納久宜(辻萬長)を伴い、

「一体、どういうつもりですか!?」

と、怒鳴り込んで来た。

 

しかし、もう既に日本のオリンピック参加を決意している嘉納は、

そう言われても、どこ吹く風で、涼しい顔をしていた。

すると、そこへ、あの天狗倶楽部三島弥彦(生田斗真)が姿を現した。

 

 

「三島君!?一体どうして…」

助教授の可児徳(古舘寛治)は驚いたが、嘉納は、

「私が呼んで、来てもらった。三島君、君の活躍ぶりは、色々と調べさせてもらったよ!」

と言って、『冒険世界』という雑誌を掲げてみせた。

「それ、私が用意したんですけど…」

と、可児は小声で呟いた。

 

 

作家・押川春浪(武井壮)が編纂している『冒険世界』は、

「東大運動会の覇王」として、三島弥彦の活躍を伝えていたが、

嘉納は、快足自慢の三島に対し、

「君、100メートルを12秒で走れると言ったね。しかし、世界記録は10秒と4/5だそうだ。スウェーデンの選手だそうだよ」

と言って、ストックホルムオリンピック参加手続きの書類を示してみせた。

 

 

 

「世界の中心で、彼らと一緒に走ってみたいと思わんかね!?」

嘉納がそう言って、三島にオリンピック参加を呼び掛けると、三島は、

「面白そうですね!」

と言って、目を輝かせた。

 

しかし、文部省の役人・加納久宜は、

「体育は教育。面白さなど不要!」と、憮然とした表情で言った。

すると、嘉納は、

「そこだよ、そこ!面白くないから、軍隊式は普及しない」

と反論した。

 

 

続いて、永井道明が、

「勝ち負けにこだわるのは、下(げ)である!」と言うと、

嘉納「勝ち負けにこだわってるのは、君達の方ではないか。そうではなくて、参加する事に意義が有るんだ」と、

オリンピックの精神について説いた。

 

 

文部省の加納が、「参加する意義は、何処に有るのか。それこそ、勝つためであろう」と問うと、

嘉納治五郎は、力を込めて、こう反論した。

「違う、違う!国を背負うだの、負けたら切腹だの、違うんだよ。平和のための真剣勝負。相手を憎むのではなくて、認めた上で勝とうとする。それがオリンピックの精神であり、日本の武道の精神だ!それがわからんとは、全くもって、スポーツマンじゃないな!良いかね、これを逃したら、4年経たんと、次は無いんだぞ!!」

嘉納治五郎の、オリンピック精神は何たるかという大演説に、永井加納は、憮然として押し黙った。

 

そして、嘉納治五郎は、

「韋駄天だ!世界に通用する韋駄天は、必ず現れる!!」

と、永井加納に向かって、啖呵を切った。

ちなみに、韋駄天とは、「韋駄天走り」の名で知られる、メチャクチャ足の速い神様の事である。

 

 

しかし、日本体育会という団体を主催する加納は、

「とにかく、類似団体の立ち上げは、やめて頂きたい」と言ったが、

 

嘉納治五郎は、カッとして、

「類似団体ではない!貴方がたとは、考え方も何もかも違いますよ!宜しい、それなら、これでどうだ!!」

と言うと、墨で紙にデカデカと「大」という字を書き、

「日本体育協会」という看板の上に「大」を付けた。

つまり、「日本体育協会」ではなく、「大日本体育協会」という名称にするというのである。

 

 

すると、一連のやり取りを見ていた三島弥彦は、大笑いして、

「流石は、嘉納天狗!!やってやりましょう!!」

と言って、嘉納と肩を組んだ。

どうやら、嘉納治五郎の熱意に、三島弥彦も、すっかり心を掴まれたようであった。

こうして、「大日本体育協会」が発足する事となった。

そして、校長室の窓の下では、東京高等師範学校の、大長距離走大会が開かれていた。

 

 

 

…というような場面であったが、

私は、この場面における、嘉納治五郎の言葉は、本当に素晴らしいと思い、とても感動した。

嘉納の言葉は、スポーツのフェアプレーや、オリンピックの精神を余す所なく伝えており、

それは、現代にまで繋がる、大事な考え方だと思った。

きっと、脚本の宮藤官九郎が、視聴者に最も伝えたかった事を、嘉納治五郎の口を借りて、言わせたのに違いないと、私は思っている。

 

(つづく)


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1909(明治42)年、駐日フランス大使・ジェラールを通して、

近代オリンピックの創始者・クーベルタン男爵から、

1912年のストックホルムオリンピックへの日本の参加要請を受けた嘉納治五郎(役所広司)であったが、

 

当時の日本は、スポーツに対する理解が全く無く、

「体育といえば、お国の役に立つ、頑健な肉体を持つ若者を養成するもの」

という、軍隊式の風潮が、幅を利かせていた時代だった。

嘉納の、オリンピック参加への熱意は、周囲の理解を全く得られず、嘉納治五郎は苛立っていた。

 

 

<嘉納治五郎、大隈重信と三島弥太郎に胸中を語る>

 

「今、日本は戦争にも勝って、国全体が熱に浮かされているからな。スポーツどころじゃないんだろう」

早稲田大学の創立者・大隈重信(平泉成)は、そう言って嘉納を慰めた。

「戦争に勝っている今だからこそ、日本はスポーツで世界に打って出る、絶好の機会なんですよ!何故、皆それがわからないのか…」

嘉納は、そう言って憤った。

此処は、横浜正金銀行の副頭取の三島弥太郎(小澤征悦)の邸宅である。

三島弥太郎邸の庭では、パーティーが開かれ、嘉納治五郎大隈重信と共に、招かれていた。

 

 

 

そして、嘉納は、邸の主である三島弥太郎にも、日本のオリンピック参加への協力を呼び掛けたが、

三島「そんな事より、嘉納さん、まだ融資した金で、返して頂いていない分が有りますよね」と言って、嘉納をジロリと睨んだ。

どうやら、三島にもオリンピック参加の意義は、まだまだ伝わらない様子であった。

 

 

<嘉納治五郎、天狗倶楽部と出会う!!>

 

その時、突然、野球のユニフォームを着た一人の青年が、邸の庭に飛び込んで来た。

「あ、危ない!!」

突然の闖入者の登場に、皆は騒然となったが、若者は、飛んで来たボールを見事にキャッチした。

「捕った、捕ったぞ!!」

ボールを捕った青年は、そのボールを高々と掲げて見せた。

 

 

「流石は、快足の三島天狗!!よく捕ったな!!」

そう言って、野球のユニフォームや、

野球のユニフォームの上に羽織を着て、制帽を被るという、異様な風体の集団が姿を現した。

 

 

 

嘉納は、突如現れた、異様な身なりの集団に、目を丸くしたが、

大隈重信は、「やあ、よく来たな、天狗倶楽部の諸君!」と言って、大笑いした。

「天狗倶楽部?」嘉納は、聞き慣れない名前に、怪訝な表情を見せた。

 

 

その時、長髪に髭面の、異様な姿の男が、嘉納の姿を見ると、

「おとっつぁん、その顔、どっかで見た事あるな」

と言って、嘉納の顔を無遠慮に眺めた。

 

 

「あー!嘉納治五郎じゃん!!」

髭面の男は、自分がジロジロと顔を眺めた相手が、

講道館柔道の創始者・嘉納治五郎であると気付くと、大喜びして、

「背負い投げ!俺にも背負い投げを掛けてくれよ!!」

と言って、これまた無遠慮に、嘉納の腕を掴もうとした。

 

 

ここで、語り手である美濃部孝蔵(森山未來)が、

「明治の世に、こんなウザくてチャラい男が、居るわけがないと思われるかもしれませんが、残念ながら、実在したのです」

と言って、その異様な集団について、説明を始めた。

 

 

 

 

その集団は、天狗倶楽部という名前の団体であり、

東京帝国大学(東大)、早稲田大学、慶應義塾などの学生やOBを中心に結成された、

明治時代のスポーツ愛好団体との事である。

 

天狗倶楽部は、東京専門学校(後の早稲田大学)のOBであり、作家の押川春浪(武井壮)を中心に結成され、

東大OBの中沢臨川(近藤公園)や、突如として邸に現れ、見事にボールをキャッチした、あの青年であり、邸の主・三島弥太郎の弟にして、東大運動会の覇王と称された、快足の三島弥彦(生田斗真)など、個性的な面々が、メンバーに名を連ねていた。

そして、あの長髪に髭面の異様な男もまた、天狗倶楽部のメンバーの一人であり、

「早稲田のヤジ将軍」と称され、1906(明治39)年の、野球の早慶戦中止騒動の中心人物ともなった、吉岡信敬(満島真之介)である。

ちなみに、押川春浪の弟・押川清は、早稲田大学野球部の創立メンバーの一人として、1903(明治36)年の第1回早慶戦にも出場している。

 

 

三島弥彦は、

「我らは、純粋にスポーツを愛し、スポーツに愛されし者達、天狗倶楽部!」

と、高らかに宣言すると、天狗倶楽部の一同は、

「T・N・G!T・N・G!!」や、

「テンテングー!テテンのグー!!」

という掛け声と共に、笛を吹き、太鼓を打ちならしながら、これまた異様な踊りを披露し、一斉にビールのラッパ飲みを始めた。

そんな天狗倶楽部の様子を、邸の女中であるシマ(杉咲花)は、何やら感心した様子で見ていたが、

嘉納治五郎は、彼らの事を苦虫を噛み潰したような表情で見ていた。

 

 

 

 

<大隈重信、天狗倶楽部にオリンピック参加を呼び掛ける!!>

 

しかし大隈重信は、天狗倶楽部の踊りを愉快そうに見ていた。そして、大隈は、

「大いにアピールするが良い!嘉納先生は、日本をオリンピックに参加させようと、お考えである!!」

と、天狗倶楽部に呼び掛けた。

 

 

「オリンピック!?」

天狗倶楽部の面々から、一斉にどよめきが起こった。

「君達、オリンピックを知ってるのかね!?」

嘉納は、驚いた様子で言ったが、あの髭面の吉岡信敬は、

「知ってますよ。スポーツの祭典でしょ!」と言って、目を輝かせた。

 

 

すると、押川春浪は、

「そこに居る三島弥彦は、快足自慢で、16歳の時から短距離走では負け無しですよ」

と言って、三島弥彦嘉納に推薦した。

三島弥彦は、「100メートル、12秒で走れますよ」と言って、ニヤリと笑った。

「12秒…」嘉納は、感嘆した表情で、三島弥彦の顔を見た。

 

 

その後、天狗倶楽部は更に盛り上がり、何故か、嘉納を胴上げまでしてしまった。

こうして、嘉納治五郎天狗倶楽部は、衝撃の出会いを果たした。

 

 

その後、東京高等師範学校(現・筑波大学)へと戻った嘉納は、助教授の可児から、

三島弥太郎から、オリンピック参加の協力要請を断られたという知らせを受け、

ガックリと落ち込み、椅子に背をもたせかけた。

 

嘉納は、可児から、押川春浪が創刊した『冒険世界』という雑誌を差し出され、

可児「ここで、三島弥彦の活躍ぶりが紹介されていますよ」と言われても、

「もうやめろ!天狗の話は、もう沢山だ!!彼らは、スポーツを全く履き違えている!!」

と激怒し、その雑誌を払いのけた。そして嘉納は、

「やはり、日本にはまだまだ、スポーツが根付く土壌は無いようだ…」

と言って、ため息をついた。

 

 

 

(つづく)


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今年(2019年)のNHK大河ドラマ『いだてん 東京オリムピック噺』は、

1912(明治45)年、金栗四三(中村勘九郎)が、日本人として初めて、オリンピック(ストックホルム五輪)に出場してから、

1964(昭和39)年、日本が東京オリンピックを開催するまでの、

日本とオリンピックの関わりを描く物語である。

 

(講道館柔道の創始者・嘉納治五郎(左)と、大河ドラマ『いだてん』で、嘉納治五郎を演じる役所広司(右)

 

その『いだてん』第1話では、金栗四三をオリンピックに送り込んだ、嘉納治五郎(役所広司)が、

金栗四三という優れたアスリートを、どのように見出したのかが描かれている。

 

<浅草六区界隈に現れた、謎の紳士>

 

1909(明治42)年のある日、雑然とした浅草六区界隈の質屋から、

一人の紳士が姿を現した。

 

 

 

「ちょいと旦那、今、質屋から出て来たろ?そのお金で、あたしと遊ばない?」

と、その紳士は遊女の小梅(橋本愛)に声を掛けられるが、

「何言ってんだい、こんな立派な身なりの旦那が、こんな所で遊んで行くわけないだろ?」

と、人力車夫の清さんが、お梅の事を制した。

 

 

「旦那、行先は吉原ですか?」

と、清さんは、紳士に行先を訪ねたが、紳士は、

「いや、お堀端のフランス大使館にやってくれ」

と、その行先を告げた。

意外な行先に、清さんはビックリしたが、言われた通り、人力車をフランス大使館へと向かわせた。

 

 

 

ちょうどその時、道端で寝転がっていた、薄汚い身なりの男が、

「おーい、火を貸してくれ。それと、煙草も」と、小梅に声を掛けた。

小梅「人の事を言えた義理じゃないけど、そろそろ真面目に働いたらどうだい?」

と、呆れたように言いながら、その男に向かって煙草とマッチを放り投げた。

その汚い身なりの男こそ、美濃部孝蔵(森山未來)、後の古今亭志ん生の、若き日の姿であった。

そして、後の志ん生である美濃部孝蔵が、この物語の語り手も務めるとの事である。

 

 

<柔道の創始者・嘉納治五郎、日本のオリンピック参加のオファーを受ける!!>

 

さて、浅草で人力車を拾い、フランス大使館へと向かった紳士、

この紳士とは即ち、講道館柔道の創始者・嘉納治五郎(役所広司)その人であった。

 

 

 

 

嘉納治五郎は、フランス大使館へ着くと、

駐日フランス大使・ジェラールから、

「是非とも、日本にもオリンピックに参加して頂きたい」という申し出を受けた。

 

 

 

 

その頃、柔道の創始者である嘉納治五郎の名は、ヨーロッパでも広く知られており、

近代オリンピックの生みの親・クーベルタン男爵も、嘉納治五郎の事を深く尊敬していた。

 

 

そして、その頃の日本は、日清戦争、日露戦争という大きな戦争に立て続けに勝利し、

アジアの雄として、世界から注目を集めていた。

 

 

新たに近代国家として生まれ変わり、日の出の勢いの日本にも、

是非ともオリンピックに参加してもらいたいと考えたクーベルタン男爵は、

その日本を動かせるキーパーソンとして、嘉納治五郎に目を付け、

駐日フランス大使のジェラールを通して、日本のオリンピック参加のオファーをして来たのである。

 

 

 

ジェラールは、

「オリンピックは、平和の祭典である」

と、オリンピック開催の意義を、嘉納に対して熱心に説き、

次回の、1912年のストックホルムオリンピックへの日本の参加を要請した。

そして、ジェラール嘉納に、

「貴方こそ、日本のオリンピック参加を実現させる適任者だ」

という口説き文句を吐いた。

 

<スポーツに対する理解が全く無い日本>

 

平和の祭典・オリンピックへの参加要請を受け、すっかりその気になった嘉納は、

自らが校長を務める、東京高等師範学校(現・筑波大学)へと向かった。

 

 

そして、同校の助教授の可児徳(古舘寛治)に、オリンピックの写真を見せ、

「どうだ、オリンピックとは面白そうだろう」と、目を輝かせて語った。

そして、欧米視察から戻ったばかりの、同校教授・永井道明(杉本哲太)にも、

日本のオリンピック参加要請の事を話した。

 

 

しかし、永井道明「論外です!」と、嘉納の話をバッサリと切り捨てた。

永井曰く、「日本のオリンピック参加など、10年、いや50年早い!」というのである。

欧米の体育教育を具に視察して来た永井によると、

「日本人は、欧米人に比べると、体格も全く劣っている。従って欧米人並みの強靭な肉体を持つ事。それこそが、国家の急務であります」

との事であった。

 

 

その永井が、「背筋を伸ばし、胸格を鍛え、結核の予防にもなる」との事で、奨励しているのだが、

肋木(ろくぼく)という器具に両手でぶら下がり、身体を鍛えるというものである。

嘉納は、助教授の可児にも肋木にぶら下がらせたが、面白くも何ともなさそうであった。

 

しかし、更に永井は、自らが見聞したという、「ドランドの悲劇」について、嘉納たちに話して聞かせた。

「ドランドの悲劇」とは、1908(明治41)年のロンドンオリンピックで、

ドランド・ピエトリというイタリア人のマラソン選手が、

猛烈な暑さと疲労でフラフラとなり、4度も意識を失いながら、その都度、周囲の関係者に無理矢理に起こされ、

死に体となりながらも、漸くゴールに辿り着いたという出来事である。

 

 

 

永井は、「壮絶な光景でした。走る意思の無い者に、国家の名誉を背負わせ、無理矢理ゴールさせる。あのように、体格が発達した欧米人でも、命がけなのです。体格が貧弱な日本人が参加したら、死人が出ますよ!」

と言って、改めて日本のオリンピック参加に反対を表明した。

 

その後、諦めきれない嘉納は、文部省に向かい、日本のオリンピック参加の協力を呼び掛けたが、

文部省からも、剣もほろろに断られた。

「そんな事より、国家のために尽くすための、頑健な肉体を持つ若者を育成する事が急務である」

というものであったが、このように、当時の日本は、スポーツに対する理解が全く無い時代であった。

 

(つづく)


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次の年号は何だと思う?

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今日(1/8)は、今からちょうど30年前(1989年)に、「平成」という元号がスタートした日である。
「平成」という年号は、もうすぐ終わりを迎えるが、
平成最後にして、新元号最初のNHK大河ドラマとして、
去る1/6(日)、『いだてん 東京オリムピック噺』の第1話がスタートした。
 
 
そこで、今回は『いだてん』第1話について、その内容と感想などを書かせて頂きたい。
まず一言言っておくと、『いだてん』第1話は、私の期待以上に、メチャクチャ面白かった。
まだご覧になっていない方は、これから是非とも、ご覧頂きたい。
 
(NHK大河ドラマ『いだてん』出演者、前列左から杉咲花、役所広司、阿部サダヲ、中村勘九郎、綾瀬はるか、大竹しのぶ、永山絢斗、後列左から古舘寛治、勝地涼、杉本哲太、竹野内豊、シャーロット・ケイト・フォックス、ピエール瀧
 
(NHK大河ドラマ『いだてん』出演者、前列左から神木隆之介、ビートたけし、森山未來、後列左から川栄季奈、峯田和伸、橋本愛、松尾スズキ
 
<『いだてん』の主人公たち…金栗四三と田畑政治と嘉納治五郎、そして古今亭志ん生>
 
(NHK大河ドラマ『いだてん』金栗四三を演じる中村勘九郎(左)と、田畑政治を演じる阿部サダヲ(右)
(左から順に、阿部サダヲ、中村勘九郎、脚本のクドカンこと宮藤官九郎
 
今年(2019年)のNHK大河ドラマ『いだてん』は、クドカンこと宮藤官九郎の脚本で、
その主人公は、下記の通りである。
まず、日本人として初めてオリンピック(1912年のストックホルム五輪)に出場し、
後進の育成のために箱根駅伝を創設した、日本陸上界の父・金栗四三(中村勘九郎)と、
 
 
1932(昭和7)年のロサンゼルス五輪で、日本水泳陣に5個の金メダルをもたらし、
その後、日本水泳連盟の会長として、日本水泳界の父と称され、
新聞記者として、1964(昭和39)年の東京オリンピック招致の中心人物となった、田畑政治(阿部サダヲ)、
 
 
講道館柔道の創始者にして、日本初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となり、
金栗四三を、日本人として初めて、オリンピック(1912年のストックホルム五輪)に送り込んだ男、嘉納治五郎(役所広司)、
 
 
そして、物語の進行役を、昭和の大落語家・古今亭志ん生(ビートたけし)が務め、
古今亭志ん生の噺によって、ストーリーが展開して行く。
 
 
金栗四三が初めてオリンピックに出場してから、
1964(昭和39)年の東京オリンピックが実現するまでの物語が、『いだてん 東京オリムピック噺』である。
 
<物語の冒頭…東京オリンピック招致決定>
 
1959(昭和34)年のある日、日本は戦後復興の高度経済成長の真っ只中であり、
東京は、首都高速道路の建設も急ピッチで進んでいた。
 
 
 
東京の道路は、何処もかしこも大渋滞で、
落語家・古今亭志ん生(ビートたけし)と、その娘・美津子(小泉今日子)が乗るタクシーも、渋滞に巻き込まれ、車は全く進まない。
志ん生美津子は、芝からタクシーに乗り、寄席が有る浅草へと向かっていた。
 
 
 
 
 
そんな中、志ん生は、足袋を履いてランニングの練習をする男の姿を見かけた。
「あのおとっつぁん、足袋で走ってたよ!そうか、今日は『富久』でもやってみようか」
『富久』とは、火事が起きて、浅草から芝までを走り回る、たいこ持ちの男を描いた滑稽噺である。
浅草の寄席に着いた志ん生は、『富久』の噺を披露し、観客に大ウケとなった。
 
 
 
 
その頃、日本は東京にオリンピックを招致する事を目指していた。
オリンピック招致の中心メンバーとなっていたのは、新聞記者の田畑政治(阿部サダヲ)である。
しかし、IOC(国際オリンピック委員会)総会での、オリンピック開催都市を決める、大事なプレゼンが2週間後に迫っていた頃、
そのプレゼンを担当している、外務省職員の北原が、外務省の運動会で転倒、全治3か月の大怪我を負ってしまった。
 
 
 
「何やってるんだ!この大事な時に…」
田畑政治は、思わぬ事態に焦りまくったが、東京都知事・東龍太郎(松重豊)は、
代役として、平沢和重(星野源)という外交官を起用してはどうかと提案した。
 
 
果たして、代役としてプレゼンを任された平沢和重は、
「あの、ジゴローカノー(嘉納治五郎)の最期を看取った人物」として紹介されると、
会場からは、大きなどよめきが起こった。
 
 
 
そして、平沢和重は、
「日本の小学校6年生の教科書には、『五輪の旗』という文章が載せられ、日本の小学生たちは、平和の祭典である、五輪の精神を学んでいます。そんな日本に、今こそ、オリンピックを開催すると時が来ています。アジアで初めてのオリンピック開催の機は熟しています」
という趣旨のプレゼンを行なうと、会場からは万雷の拍手が起こった。
 
 
 
そして、平沢和重の素晴らしいプレゼンの甲斐も有って、
IOCの投票の結果、1964(昭和39)年のオリンピック開催都市は、東京に決定した。
田畑政治「東京」と書かれたボードを高く掲げ、東京オリンピック開催決定を誇らしげに報道陣に伝えた。
 
 
<素晴らしい、『いだてん』のオープニングの映像>
 
 
 
 
冒頭の、東京オリンピック開催の経緯が紹介された後、『いだてん』のオープニング映像が流れたが、
東京の街を走り回る金栗四三と、何故かスーツ姿で隅田川を泳ぐ田畑政治、
そして、1964(昭和39)年の東京オリンピックの映像と、現代の映像などが巧みに組み合わされた、
ワクワクするような、素晴らしいオープニングであった。
 
 
 
 
 
疾走感溢れるテーマ曲も素晴らしく、
「これから、『いだてん』という物語が、いよいよ始まるぞ!」という高揚感が、いやが上にも高まって行く。
 
 
 
 
 
東京オリンピックのマラソンで金メダルを獲得した(1960年のローマ五輪に続き、連覇を達成)、エチオペアのアベベや、
東京オリンピックの最終聖火ランナーの坂井義則、晴れ渡る空の下の開会式の映像が盛り込まれ、
日本中が盛り上がった、1964(昭和39)年の東京オリンピックの雰囲気が、よく伝わって来るオープニングである。
 
(つづく)

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