個人的な話で恐縮だが、本日(4/27)は私の誕生日である。
毎年、この日(4/27)になると、「4月27日」に因んだ雑多な話などを書いたりしているが、
今年(2024年)も、「誕生日」に際して思う事などを、「徒然なるままに」(?)書いてみる事としたい。
という事で、今回は私の「雑談」に、しばしお付き合い頂ければ幸いである。
<映画評論家・淀川長治が語っていた、「誕生日」の意味とは…?>
かつて、テレビ朝日の「日曜洋画劇場」で、長い間、映画解説を行なっていた、
映画評論家・淀川長治は、「誕生日」について、黒柳徹子に、こんな事を言っていたそうである。
「誕生日というのは、自分を生んでくれて有り難う…って、お母さんに感謝する日なんだよ…」
淀川長治の、その言葉を聞いて、黒柳徹子はハッとしたそうだが、私としても、
「なるほど、『誕生日』とは、そういう意味合いが有るのか…」
と、目から鱗が落ちる思いがした。
私は、3年前に父親は亡くなってしまったが、お陰様でというか、母親はまだまだ元気である。
という事で、まずはこの場を借りて、私の母に、
「生んでくれて、有り難う」
という事を伝えたい。
なお、これは「余談」だが、私はかなりの「早産」で、本来の予定日よりも1ヶ月ぐらい早く生まれてしまったそうである。
「あんたは、生まれた時から『せっかち』だった」
と、以前、よく母に言われていた。
というわけで、本来の私の誕生日は、1ヶ月ぐらい遅かったかもしれないが、どうやら「せっかち」だった私(?)は、この日(4/27)に生まれた。
それにしても、そんな「早産」だったのに、母はよく私を無事に生んでくれたものである。
<「誕生日パーティー」について…>
子供の頃、小学生の頃は、私が住んでいた地域では、近所の友達同士で、
「誕生日パーティー」
を、よく開いては、お互いに、その子の家に遊びに行ったりしていた。
私も、毎年、この日(4/27)になると、我が家で「誕生日パーティー」を開き、そんなに広くもない我が家に、お陰様でというか、友達が沢山来てくれたものである。
今にして思えば、大変有り難いが、何しろ子供なので、「誕生日パーティー」で、ケーキを食べたりすると、後はみんなで外に遊びに行ったりしてしまっていたが、私のために「誕生日パーティー」を開いてくれていた、私の母親や、私のために集まってくれていた友達にも、今更ながら、感謝申し上げる次第である。
ところで、大人になって、年齢を重ねてしまうと、
「今更、誕生日っていっても…。また一つ、歳を取るだけだから」
と、言っているような人も居るが(※私の職場でも、そういう人は居る)、
先程、申し上げた通り、年齢を重ねるという事よりも、まずは無事に生んでくれた母親に感謝した方が良いのではないだろうか…。
<「野球」について…>
最近でこそ、このブログは、結構ありとあらゆるテーマで書いてしまっているが、
一応、このブログは、
「野球ブログ」
である。
私が、子供の頃から今に至るまで、結局のところ、人生で一番長く続いている「趣味」は、
「野球観戦」
という事になる。
私の家系は、「野球好き」が多く、九州・長崎県在住の私の母方の祖父は、筋金入りの西鉄ライオンズ(※現・埼玉西武ライオンズ)ファンだったし、私の父も、毎晩、テレビで野球中継を見ているような人だった。
ちなみに、当時のテレビは、毎日、「巨人戦」ばかり放送していたが、父は毎晩、「巨人戦」を見ているにも関わらず、
「アンチ巨人」
であった。
「そんなに巨人が嫌いなのに、何で、毎晩、巨人戦をテレビで見ているのか」
と、私は父に聞いた事が有ったが、
「俺は、巨人が負ける所が見たいんだ」
と、父は答えていた。
まあ、当時は、そもそもテレビの野球中継といえば、ほぼ「巨人戦」しか放送していなかったし、他に選択肢も無かったのかもしれないが、それにしても、私の父親と来たら、巨人が負けそうな展開になると、嬉々として「巨人戦」を見ていたし、巨人が逆転したり、リードしたりすると、つまらなそうに、チャンネルを消したり、テレビを消したりしていた。
「親父は、そんなに巨人が負ける所が見たいのか…」
と、私は呆れてしまった(?)が、それはそれとして、父はテレビの「野球観戦」を、何だかんだ言って楽しんでいたようである。
という事で、父が応援していたのは、必ず、
「巨人の対戦相手」
だった。
だが、当時は巨人ファンも勿論、沢山居たが、もしかしたら、そんな風に、
「巨人が負ける事をひたすら願う、アンチ巨人」
も、沢山居たと思われる。
<「巨人ファン」から「大洋ファン」への「転向」について…>
という事で、私も父親と一緒に、よくテレビで「野球中継」を見ていた影響で、
小学生の頃から、気が付けば「野球好き」になっていたが、
「アンチ巨人」
だった、父親の願いも空しく(?)、私は、
「巨人ファン」
になってしまった。
先程も述べたが、当時はテレビで「巨人戦」しかやっていなかったのだから、特に子供はテレビに「洗脳」され、
「巨人ファン」
に、ならざるを得なかったのである。
それはともかく、私もご多分に漏れず、テレビに「洗脳」され(?)、「巨人ファン」になってしまったが、
当時の「巨人戦」は大人気であり、東京ドームの「巨人戦」のチケットはなかなか取れなかったので、私は巨人のファンクラブにも入ってしまった。
そして、私の両親と私と弟という4人家族で、東京ドームの巨人戦には、何度か行ったものである。
「野球を見に連れて行って欲しい」
と、散々、私が親にせがんでいたから、仕方なく(?)連れて行ってくれていたのだと思われるが、やはり、テレビで見るよりも、本物の野球場で見るプロ野球は、本当に迫力が凄かった。
そして、原辰徳や中畑清といった、巨人のスター選手達の活躍に胸を躍らせていたものである。
だが、そんな私が、1990(平成2)年、
当時の横浜大洋ホエールズ(※現・横浜DeNAベイスターズ)が快進撃を見せたのをキッカケに、
「大洋って、何か魅力的なチームだな」
と思ってしまい、私は気が付けば大洋に魅了され、
「大洋ファン」
に転向してしまった。
その辺の経緯は、今までこのブログでも何度も書いて来たので、今更くどくどとは繰り返さないが、
それ以来、30数年、私は、
「大洋ファン⇒横浜ファン」
である。
なお、「巨人ファン」から「大洋ファン」に「転向」した頃、私の父からは、
「何で、大洋みたいな弱いチームなんか応援するんだ?」
と言われたが、
「巨人なんて、僕が応援しなくても勝てるけど、大洋は僕が応援してやらないと、勝てないから」
と、わかったようなわからないような答え(?)をしていたものである。
当時の私には、そんな謎の「使命感」が有ったのかもしれない。
<「サザンオールスターズ」について…>
さて、私がこのブログで好んで取り上げ、今や、ほぼ当ブログの「メインテーマ」になってしまっている、
「サザンオールスターズ」
についてであるが、これまた、私がこのブログで沢山書いて来た事だが、
私がサザンファンになったのは、1992(平成4)年、当時、中学生だった頃である。
この年(1992年)サザンオールスターズは、
『涙のキッス』
という曲を大ヒットさせていた、
私は、『涙のキッス』という曲が大変気に入ってしまい、この曲をキッカケに、サザンにハマった。
以来、これまた私は30年来のサザンファンであるが、当時、それまでにサザンがリリースして来た、過去の曲も全て聴きまくり、私は物凄い勢いでサザンに傾倒して行った。
一時は、私は本当に、
「寝ても覚めてもサザン」
という状態だったが、そんな私を見て、当時、私の母親は、
「大洋といい、サザンといい、あんたは本当に『凝り性』なんだから…」
と、呆れ気味に(?)言っていたものである。
まあ、それは否定出来ないところではある。
そして、まさか後年、私がこんなブログを書いて、サザンについて、あれこれ書くようになってしまうとは、当時は夢にも思わなかった。
本当に、人生とは何が起こるかわからないものである。
<「横浜」「鎌倉」「江ノ島」「茅ヶ崎」~憧れの(?)「神奈川県」について…>
さて、横浜大洋ホエールズ(※横浜ベイスターズ)とサザンオールスターズの「共通点」は何かと言えば、それは勿論、
「横浜」
という場所に縁が深いという事である。
私は、大洋ファンになった後、今度は、これまた家族4人で、大洋の本拠地・横浜スタジアムに行っていたものだが、
その内、横浜スタジアムの周りの、
「横浜」
という場所にも魅了されて行った。
とにかく、「横浜」は見所が多すぎて、何度行っても飽きない。
「横浜」は、「東京」とは違う、独特の風情や趣が有り、そこが「横浜」の魅力であると私は思う。
そして、サザンファンの聖地とも言うべき、
「鎌倉」「江ノ島」「茅ヶ崎」
にも、当然のようにというか、私は魅了され、私は、
「サザンゆかりの聖地巡り」
のように、それらの場所に沢山行って来たが、それこそ、何度行ったかわからないぐらいである。
もしもサザンファンになっていなければ、
「鎌倉」「江ノ島」「茅ヶ崎」
の素晴らしさにも気付けなかったかもしれないが、そういう意味でもサザンには感謝である。
なお、私は今まで一度も、神奈川県には住んだ事はなく、上記の場所には、
「お客さん」(?)
のように、訪れる立場なのだが、却って、それだからこそ、いつ行っても新鮮な感動が有るのかもしれない。
また、これは「余談」だが、
「サザンの聖地巡り」
が、このブログで書いている、
「サザン小説」
にも、かなり反映されているが、無論、私はそんな事になるとは、全く思っていなかった。
人生、何が起こるか…(以下、省略)。
<「読書」と「書店」について…>
先程、私は、
「『野球』が、私の人生で、一番長く続いている趣味である」
という趣旨の事を書いたが、私は子供の頃から、
「読書」
が大好きである。
今でも、それこそ暇さえ有れば本を読んでしまっているが、
これはもう「習慣」のようになってしまっているので、恐らく、これは生涯、変わらないのではないだろうか。
なお、私は主に「歴史」に関する本が好きだが、それ以外の本も色々と読む。
私は、「読書」に関して言えば、
「雑食」
である。
そして、私が何故こんなに本が好きになったのかといえば、
「小さい頃、母親が、毎晩、私に絵本を読み聞かせてくれていた」
という事が有り、それが「原点」だった…という事は、このブログでも何度も書いている。
そして、私が最も好きな場所は、
「書店(本屋)」
である。
今でも、時間さえ有れば、必ず「書店(本屋)」には立ち寄るようにしているが、
これも、このブログではよく書いている事ではあるが、私の母親は、私が小さい頃から、私をよく「書店(本屋)」に連れて行ってくれていた。
「本屋さんに連れて行けば、大人しくなるから」
というのが、その理由(?)だったらしいが、とにかく、私は沢山の本が並んでいるのを見るだけで、嬉しくなってしまう。
昨今は、「ネット書店」が全盛で、「リアル書店」が続々と潰れてしまっているようだが、それは大変嘆かわしい。
「本なんて、買いたかったらネットですぐに買えるじゃないか」
という方も多いだろうが(※私も、便利なのでネットで本を買ったりしているが)、
「ネット書店」でばかり本を買ってしまうと、どうしても、自分が興味の有る分野にばかり偏ってしまいがちである。
だが、「書店(本屋)」に行って、売場をぐるりと周るだけで、今まで自分が全く興味が無かった分野の本が目に留まったりして、
「へー、何か面白そうだな…」
と、思わぬ発見が有ったりする。
そういう思わぬ「出逢い」は、「ネット書店」では、まず無い。
今まで、自分が全く興味が無かった分野の本と出逢い、自分の興味の幅が広がったりする事も有るし、そういう所が、「リアル書店」の醍醐味であると、私は声を大にして言いたい。
<「歴史」について…>
私が大好きな事といえば、普段からこのブログをお読み頂いている方なら、よくご存知(?)の通り、
「歴史」
である。
私は、「歴史」ほど面白い物は無いのではないか…と、本気で思っているが、
このブログでも、私は手を替え品を替え、
「〇〇の歴史」
といったテーマで、記事を書いている。
しかし、残念ながら、世の中には「歴史」が苦手というか、「歴史」に興味が無い、或いは「歴史」嫌いの人も多い。
「歴史とか、昔の出来事を知って、何が面白いの?」
「歴史なんて、全然面白くない」
という人が、私の職場にも居たりするが、そういう人の言葉を聞くと、
「こんなに面白いのに…。何とも勿体ないなあ…」
と、私は思ってしまう。
恐らく、「歴史」が嫌いという人は、よほど学校の「歴史」の授業が退屈でつまらなかったのであろう。
後は、意味もなく年号を暗記させられたりとか、そういう「負」のイメージが強すぎるのではないだろうか。
だが、これまた、私がこのブログで沢山書いて来た事だが、
「歴史とは、壮大な人間ドラマの積み重ねである」
「歴史は、大きなストーリーで捉えると、凄く面白い」
という事が、「歴史」の最大の魅力である。
まあ、そんな大袈裟な話ではないとしても、人間は誰しも、自分の人生という「歴史」を生きて来ているわけだし、皆それぞれに「歴史」を持っている。
それに、友人や恋人や家族など、自分が親しい人達との間で積み重ねて来た出来事も、その当人達が共有して来た、大切な「歴史」であろう。
そういう視点を持てば、「歴史」は一気に面白くなると、私は言っておく。
なお、「余談」だが、
「歴史なんて、面白くない」
と、私に言い放っていた、職場の同僚も、残念ながら私とあまり折り合いが良くない(?)、他の同僚との事について、
「貴方と、あの人には、色々と『歴史』が有ったからね…」
と、言っていた。
どうやら、端で見ていて、そういう事を思ったらしい。
「何だ、『歴史』の本質について、わかってるじゃん」
と、私は思ったものである…。
<「法政大学」について…>
そして、我が母校・法政大学について、言及しておく。
これまた、以前このブログで書いた事が有ったが、高校生の頃、私は、
「どうしても、東京六大学に行きたい」
と、思っていた。
それは何故かと言えば、当時、私は、高校生ながら、
「東京六大学野球」
に、大変関心が有った。
だから、当時の私は、
「東京六大学に入って、学生として六大学野球を体験してみたい」
と、思っていた。
勿論、それだけが志望動機でもないが、当時の私にとって、それが受験の大きなモチベーションになっていたのは確かである。
サザンを輩出した青山学院大学にも行きたいとは思っていたが、当時の私は、
「青学よりも、とにかく東京六大学に行きたい」
という気持ちの方が強かった。
なお、当時の私の第一志望は、早稲田大学だったが、
高校3年生の頃、夏休みを利用して、私は東京六大学の全てに出掛け、
「東京六大学の学校ツアー」
を行なった。
その時、初めて法政大学を訪れた私は、法政の市ヶ谷キャンパスを見た瞬間に、
「あ…。何か、この大学に入るかも…」
という、不思議な予感めいたものが有った。
そして、大学受験の結果、私は早稲田には不合格だったが、法政には拾ってもらった。
こうして、私は法政大学に入る事となり、あの「予感」は現実の物となった。
ちなみに、他の五大学については、そんな「予感」は全く無かったので、
「これも、縁というやつか…」
と、私は思ったものである。
そして、このブログのタイトルが、
「頑張れ!法政野球部」
という物になった由来であるが、これも、前々から言っている通り、
2013(平成25)年春の東京六大学野球で、法政大学と明治大学が、それぞれ4カード連続で「勝ち点」を取り、
「最終カードの『法政VS明治』の直接対決で、勝ち点を取った方が優勝」
という、
「勝ち点4同士の法明V決戦」
が実現した時、私は、
「法政野球部を応援するため」
という目的で、このブログを始めてしまった。
つまり、それこそが、このブログの「誕生」のキッカケだったのである。
だから、このブログのタイトルの由来は、そのまんまというか、
「法政が明治に勝って、優勝してくれますように…」
という願いを込めて、付けたのである。
そして、当然、当時の私は、
「最後は法政が明治に勝って優勝してくれるに違いない」
という事を、信じて疑わなかった。
なお、何故「アメブロ」でブログを始めたのかといえば、
「何か、簡単に始められそうだから」
と思ったからであり、他に大した理由は無い。
だが、その結果といえば、激闘の末に残念ながら法政は明治に1勝2敗1分で敗れ、優勝を逃してしまった。
当時、私は心底ガックリ来てしまったが、
「あーあ、せっかく、こんなブログまで作ったのに…」
と、私は思ったものである。
そして、それから11年が経ったが、何と、この11年間、法政は、たった2度(※2018年秋、2020年春)しか優勝していない。
つまり、このブログを始めてから、法政はすっかり弱くなってしまった…。
なので、私も法政の事を書きたくても書けないので、半ば仕方なく(?)、色々な事を書くようになったが、当初は本当に、法政野球部の事だけを書くつもりで、このブログを始めた。
そういう意味では、ある意味、法政が弱くなったから、現在のようなブログになった…という言い方も出来るかもしれない。
<2018(平成30)年秋…「頑張れ!法政野球部」の2度目の「誕生」?>
という事で、2013(平成25)年春に、法政は惜しくも優勝を逃してしまい、
その後、すっかり法政は弱くなり、優勝からも見放されてしまった。
私も、このブログを書くモチベーションが「ダダ下がり」してしまい、結構、長い間、このブログを「放置」していた。
しかし、2018(平成30)年秋、このブログにとって、大きな「転機」が有った。
・法政が6年振りに東京六大学野球で優勝
・映画『ボヘミアン・ラプソディー』が大ヒット
・サザンオールスターズがデビュー40周年⇒サザンとユーミンが「紅白」で夢の共演
…そう、これらの出来事が立て続けに起こり、
再び「燃料」が投下されたような形となり、私がこのブログを「再開」する気持ちが高まった。
こうして、私は念願だった法政野球部の優勝記事を書いたり、
法政野球部と、QUEEN(クイーン)の歴史を「合体」させて、
「『ボヘミアン・ラプソディ』と法政黄金時代」
なるシリーズ記事を書いたりした。
以後、このブログの「得意技」(?)となった、
「野球記事と芸能記事の合わせ技」
という手法(?)も、この時に編み出した。
そして、サザンオールスターズの「歴史」として、
「サザンオールスターズと野球界の40年」
という「大長編」のシリーズ記事を書き始め、以後、数年かけて「完結」させている。
…というわけで、2018(平成30)年秋は、このブログの、
「2度目の誕生」
だった…と言って良い。
「あの時(※2018年秋)、もしも法政が優勝してなかったら、まだまだブログも放置していたかもしれないなあ…」
と、私も思うが、
「歴史に『if』は無い」
とも言うし、それはわからない。
…という事で、取り留めの無い「雑談」にお付き合い頂いたが、
「皆様、今後とも宜しくお願い致します!!」
という事をお伝えし、今回の記事の締めくくりとさせて頂きたい。