1992~1996年のサザンとユーミン⑬~1996年『まちぶせ』(後編)~80年代アイドル歌謡史 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1992(平成4)~1996(平成8)年、私が10代の中高生だった頃、

サザンオールスターズ松任谷由実(ユーミン)が、テレビドラマとのタイアップで大ヒット曲を連発し、1990年代における、サザンとユーミン(松任谷由実)の黄金時代を築いた。

そして、このブログでは、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

と題して、その頃のサザンとユーミン(松任谷由実)の活躍を描いている。

 

 

という事で、私がこれまで書いて来た、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

のシリーズは、下記の通りである。

 

①1992年『涙のキッス』と『ずっとあなたが好きだった』

②1993年『真夏の夜の夢』と『誰にも言えない』

③1993年『エロティカ・セブン』と『悪魔のKISS』

④1994年『Hello, my friend』と『君といた夏』

⑤1994~1995年『祭りのあと』と『静かなるドン』

⑥1994~1995年『春よ、来い』

⑦1994年『砂の惑星』と『私の運命』(第1部)

⑧1995年『命の花』と『私の運命』(第2部)

⑨1995年『あなただけを ~Summer Heart break~』と『いつかまた逢える』

⑩1995年『輪舞曲(ロンド)』と『たたかうお嫁さま』

⑪1996年『まちぶせ』(前編)

⑫1996年『まちぶせ』(中編)

 

…前回の記事では、かつてユーミン(荒井由実)が、1976(昭和51)年に三木聖子のために作った曲、

『まちぶせ』

が、その5年後の1981(昭和56)年、石川ひとみによって再リリースされ、石川ひとみが歌った『まちぶせ』が大ヒットした…という経緯を描いた。

というわけで、今回はその「続編」を書くが、今回の記事は、ユーミン(松任谷由実)中島みゆき、そして桑田佳祐などが、「アイドル歌謡」に対し、次々に楽曲提供した時代、

「楽曲提供で綴る、1980年代のアイドル歌謡史」

を書く。

という事で、

「1992~1996年のサザンとユーミン」の「第13回」、「1996年『まちぶせ』(後編)」を、ご覧頂こう。

 

<1981(昭和56)年7月21日…石川ひとみ、通算5枚目のオリジナル・アルバム『まちぶせ』リリース>

 

 

1981(昭和56)年、石川ひとみは、ユーミン(松任谷由実)によって楽曲提供された、

『まちぶせ』

をリリースし、この『まちぶせ』が大ヒットした事により、石川ひとみは遂に人気歌手の仲間入りを果たした。

そして、1981(昭和56)年7月21日、石川ひとみは、通算5枚目のオリジナル・アルバム、

『まちぶせ』

をリリースし、これまた大ヒットさせている。

NHKテレビ人形劇の、

『プリンプリン物語』

のヒロインを演じていた石川ひとみは、ようやく歌手としてもブレイクを果たし、充実の時を迎えていた。

ユーミン(松任谷由実)としても、責任を果たし、ホッとした心境だったと思われる。

 

<NHKで放送されていたアイドル歌謡番組「レッツゴーヤング」~1974(昭和49)年に放送開始され、キャンディーズ、ピンク・レディーなども司会を務める~デビュー当時のサザンオールスターズも出演>

 

 

 

 

さて、1970~1980年代にかけて、NHKで放送されていたアイドル歌謡番組、

「レッツゴーヤング」

を、覚えていらっしゃる事も多いと思われるが、この番組は、毎週、NHKホールで収録され、日曜日の夕方に放送されていた。

「レッツゴーヤング」

は、時のアイドルが司会を務め、毎回、人気アイドルがゲスト出演し、歌やトークや、時にはコント(?)なども披露されていた。

初期の頃は、フォーリーブス、ずうとるびなどが司会を務めていたが、1976(昭和51)年度~1977(昭和52)年前半はキャンディーズ、1978(昭和53)年度はピンク・レディーという、当時の超人気のトップアイドルも司会を務めていた。

 

 

 

そして、1978(昭和53)~1979(昭和54)年頃、デビュー当時のサザンオールスターズも、

「レッツゴーヤング」

には度々出演し、当時の人気アイドル歌手達と「共演」していた。

そう、デビュー当時のサザンは「アイドル」扱いだったのである。

この番組の映像を、今、見ていると、とにかく会場に詰め掛けた若い観客からの黄色い声援が物凄い事になっているが、

1981(昭和56)年度、「レッツゴーヤング」史上、最も大人気だった司会者コンビが誕生する。

それが、田原俊彦松田聖子である。

 

<1981(昭和56)年…田原俊彦、松田聖子、太川陽介が「レッツゴーヤング」の司会を務め、「レッツゴーヤング」は全盛期を迎える>

 

 

 

1981(昭和56)年度、

田原俊彦・松田聖子・太川陽介…という3人が、

「レッツゴーヤング」

の司会を務めたが、田原俊彦松田聖子という、当時の男女のスーパーアイドルが毎週、司会を務めるという事で、

「レッツゴーヤング」

の収録が行われる時は、NHKホールは毎回、凄まじい絶叫の嵐であった。

当時、田原俊彦松田聖子は、「グリコ アーモンドチョコレート」のCMでも共演するなど、なかなか良い感じの雰囲気(?)と思われたが、

それだけに、田原俊彦ファンの女性ファンからの松田聖子に対する「嫉妬」も物凄かったようである。

「トシちゃんに、くっつかないでよ!!」

と、松田聖子に対する「やっかみ」の声も大きかったようだが、当の聖子は、(少なくとも表面上は)常に平然としており、いつもニコニコしていた。

やはり、松田聖子は流石はスーパーアイドルといったところだが、スーパーアイドルになる人は、度胸が有るというか、肝が据わっている。

 

<1980(昭和55)~1981(昭和56)年の松田聖子の楽曲>

 

 

 

 

 

 

さて、1980(昭和55)~1981(昭和56)年にかけて、松田聖子がリリースした、デビュー曲『裸足の季節』から、5枚目のシングル『夏の扉』までの、5枚のシングルについて、作詞・作曲した人は誰なのかを、以下、列挙しておく事とする。

 

【1980(昭和55)~1981(昭和56)年の松田聖子の楽曲】

①『裸足の季節』(作詞:三浦徳子、作曲:小田裕一郎)

②『青い珊瑚礁』(作詞:三浦徳子、作曲:小田裕一郎)

③『風は秋色』(作詞:三浦徳子、作曲:小田裕一郎)

④『チェリーブラッサム』(作詞:三浦徳子、作曲:財津和夫)

⑤『夏の扉』(作詞:三浦徳子、作曲:財津和夫)

 

…という事であるが、上記5枚のシングルの全ての作詞を、三浦徳子が担当し、

『裸足の季節』『青い珊瑚礁』『風は秋色』の作曲は小田裕一郎が、

『チェリーブラッサム』『夏の扉』の作曲は財津和夫が、それぞれ担当した。

これらの作家陣が、松田聖子のために優れた楽曲を生み出し、

その曲を松田聖子が、実にノビノビと歌いこなしていた。

「スーパーアイドル・松田聖子」

が誕生した要因としては、まず、出す曲出す曲、全てが素晴らしかったからという事と、

松田聖子という唯一無二の存在感を持った歌手が、その優れた楽曲を100%以上の表現力で歌った…という事が挙げられうよう。

そして、1982(昭和57)年、既にスーパーアイドルとなっていた松田聖子陣営に、いよいよ、松本隆ユーミン(松任谷由実)が加わる事となった。

 

<1982(昭和57)年1月21日…松田聖子、通算8枚目のシングル『赤いスイートピー』リリース~ユーミン(松任谷由実)が「呉田軽穂」のペンネームで松田聖子陣営に加わり、「作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂」のゴールデン・コンビが誕生~『赤いスイートピー』はオリコン「1位」の大ヒット>

 

 

 

 

前回の記事でも書いたが、ユーミン(松任谷由実)は当初、

「アイドル歌手」

という存在が好きではなかった…というより、どちらかと言えば、「敵視」していたという。

だが、ユーミン(松任谷由実)は、三木聖子のために書いた、

『まちぶせ』

が不発に終わった後、その5年後に石川ひとみが、この曲を大ヒットさせた…という経緯を経て、

「アイドルの曲だからって、舐めたらいけない。やるなら、本気で徹底的にやってやろう」

と決意し、それまでとは考え方を変えたという。

そして、そんなユーミン(松任谷由実)に対し、遂に、松田聖子「新曲」を書いて欲しい…というオファーが来た。

ユーミン(松任谷由実)は、そのオファーを引き受け、かつてのハリウッド映画の大女優、グレタ・ガルボの名前をもじって、

「呉田軽穂」

というペンネームを名乗り、他の歌手に楽曲を提供する時は、この名前を名乗る事となった。

また、呉田軽穂ことユーミン(松任谷由実)と共に、松本隆も、松田聖子の作家陣へと加わる事となった。

 

 

 

 

そして、1982(昭和57)年1月21日、松田聖子の通算8枚目のシングルとしてリリースされたのが、

『赤いスイートピー』

である。

この曲は、松本隆が作詞し、呉田軽穂ことユーミン(松任谷由実)が作曲を手掛け、ここに、

「作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂」

のゴールデン・コンビが誕生した。

遂に「最強タッグ」が誕生したが、当時、「聖子ちゃんカット」が大人気となっていた松田聖子は、

『赤いスイートピー』

のリリース後に、髪をバッサリと切り、これも大きな話題となった。

そして、松田聖子は既にスーパーアイドルとして大人気だったが、『赤いスイートピー』をキッカケに、女性ファンも更に増えて行った。

 

 

 

『赤いスイートピー』

は、いかにも松本隆らしい、

「春色の汽車に乗って 海に連れて行ってよ…」

という、何処か抽象的で不思議な歌詞で始まるが、

流石はユーミン(松任谷由実)が作った曲というべきか、曲の始まりから終わりまで、とにかく隙が無いというか、本当に非の打ちどころの無い名曲である。

そして、『赤いスイートピー』も、当然の如く、オリコン「1位」の大ヒットとなり、スーパースター・松田聖子の名声は、更に不動の物となった。

 

<1982(昭和57)年…石川ひとみが「レッツゴーヤング」の司会に就任~太川陽介&石川ひとみの「名コンビ」が誕生>

 

 

 

1982(昭和57)年、田原俊彦松田聖子の「後任」として、石川ひとみが、

「レッツゴーヤング」

の司会に就任した。

そして、太川陽介石川ひとみは「名コンビ」として、

「レッツゴーヤング」

の司会を、1985(昭和60)年まで務めたが、司会は「卒業」しても、松田聖子は「レッツゴーヤング」に、度々、ゲストとして出演する事となった。

そして、1980年代は「アイドル歌謡全盛時代」だったが、「レッツゴーヤング」も、華やかなアイドル達が共演し、視聴者を楽しませた。

当時、民放の「夜ヒット」や「ザ・ベストテン」と共に、NHKの「レッツゴーヤング」を楽しみに見ていた人達も多かった筈である。

 

<1982(昭和57)~1984(昭和59)年…「作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂、唄:松田聖子」のゴールデン・チームが、次々に「名曲」を生み出す>

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、1982(昭57)~1984(昭和59)年にかけて、

「作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂、唄:松田聖子」

というゴールデン・チームは、「名曲」を次々と世に送り出し、そして、いずれの曲も大ヒットさせた。

以下、それらの楽曲を、ご紹介させて頂く。

 

【1982(昭和57)~1984(昭和59)年の「作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂、唄:松田聖子」の楽曲】

・『赤いスイートピー』(作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂)

・『小麦色のマーメイド』(作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂)

・『秘密の花園』(作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂)

・『Rock'n Rouge(ロックン・ルージュ)』(作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂)

・『瞳はダイアモンド』(作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂)

・『時間の国のアリス』(作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂)

 

 

…という事であるが、いずれも、素晴らしい曲ばかりである。

後年、松本隆は、こんな事を言っている。

「僕は、よくユーミン(松任谷由実)の事を『戦友』っていうけど、間違い無く、聖子さんも『戦友』だった。新曲を次から次に書かなければいけないというプレッシャーは有ったけど、聖子さんは、必ず、期待以上の歌を歌ってくれた。聖子さんは、本当に凄い歌手だった…」

そして、ユーミン(松任谷由実)も、松田聖子に関して、下記のコメントを残している。

「聖子さんの曲を作る事が出来て、私はとても光栄だった。聖子さんの活動に携われて本当に良かった…」

松田聖子は、そんな2人の言葉を聞き、感無量の表情であった。

という事で、松田聖子という最高の歌手のために、松本隆ユーミン(松任谷由実)が、最高の曲を作り続けたという、素晴らしい時代が確かに有った。

 

<もう一人のスーパーアイドル・中森明菜の躍進~「松田聖子VS中森明菜」の時代>

 

 

さて、1982(昭和57)年、松本隆と、呉田軽穂ことユーミン(松任谷由実)が、松田聖子の作家陣に加わり、以後、名曲を量産して行った…という事は、前述の通りだが、

1982(昭和57)年といえば、中森明菜が彗星の如く登場した年でもある。

そして、中森明菜も、次々に大ヒット曲を連発して行き、忽ち、トップアイドルとなった。

当時は、松田聖子中森明菜が人気を二分し、

「聖子派か、明菜派か」

…といった事が、ファン達の間で「論争」となるほどだった。

という事で、ここで中森明菜の事も詳しく語って行きたい所だが、残念ながら(?)スペースの都合上、それはまたの機会に…という事にさせて頂くとして、ここでは、1982(昭和57)~1986(昭和61)年の中森明菜の楽曲と、作家陣をご紹介させて頂く。

 

 

【1982(昭和57)~1986(昭和61)年の中森明菜の楽曲】

・『スローモーション』(作詞:来生えつこ、作曲:来生たかお)

・『少女A』(作詞:売野雅勇、作曲:芹澤廣明)

・『セカンド・ラブ』(作詞:来生えつこ、作曲:来生たかお)

・『1/2の神話』(作詞:売野雅勇、作曲:大沢誉志幸)

・『トワイライト -夕暮れ便り-』(作詞:来生えつこ、作曲:来生たかお)

・『禁区』(作詞:売野雅勇、作曲:細野晴臣)

・『北ウイング』(作詞:康珍化、作曲:林哲司)

・『サザン・ウインド』(作詞:来生えつこ、作曲:玉置浩二)

・『十戒』(作詞:売野雅勇、作曲:高中正義)

・『飾りじゃないのよ涙は』(作詞・作曲:井上陽水)

・『ミ・アモーレ』(作詞:康珍化、作曲:松岡直也)

・『SAND BEIGE -砂漠へ-』(作詞:許瑛子、作曲:都志見隆)

・『SOLITUDE』(作詞:湯川れい子、作曲:タケカワユキヒデ)

・『DESIRE -情熱-』(作詞:阿木燿子、作曲:鈴木キサブロー)

 

 

 

…という事であるが、中森明菜の楽曲も「名曲」揃いである。

そして、中森明菜のために曲を作っているのも、超豪華な作家陣であるが、

「中森明菜のために」

という事で、毎回、様々な趣向を凝らし、作家陣が素晴らしい曲を作っていた。

そして、中森明菜という歌手は、それを抜群の歌唱力と表現力で歌い、素晴らしい名曲の数々が生まれて行った。

 

 

なお、これは「余談」だが、私は子供心に、

「松田聖子って、可愛くて歌が上手いな…」

と思っており、それ以来、ずっと松田聖子ファン(?)だったが、近年、熱狂的な中森明菜ファンの人と知り合い、その人の影響で、改めて中森明菜の魅力に気付いた(?)という経緯が有る。

私は、今では、松田聖子も中森明菜も、どちらも大好きな歌手である。

そして、

「松田聖子VS中森明菜」

という対比が、よく語られ、兎角この2人はライバル同士として見做される事が多いが、聖子と明菜は、お互いをリスペクトし合っており、共に実力を認め合っているという。

という事で、1980年代の日本の歌謡界は、松田聖子中森明菜という、2人のスーパーアイドルが牽引した時代でもあった。

 

<1980年代~「作家」としての中島みゆきの活躍>

 

 

 

さて、1980年代の「呉田軽穂」ことユーミン(松任谷由実)の活躍ぶりについて、述べて来たが、

ユーミン(松任谷由実)のライバル、中島みゆきも負けてはいない。

1980年代に入り、中島みゆきは、

『ひとり上手』(1980)、『悪女』(1981)

…といった曲を大ヒットさせたが、中島みゆきの曲というのは、

「中島みゆきという人が、原作、脚本、主演を全て務める映画のようである」

と、私は思う。

とにかく、中島みゆきは、僅か数分の曲で、見事に「世界観」を構築してしまう。

そういう意味では、中島みゆきは「作家」のような歌手であり、こんな歌手は他には誰にも居ない…と、私は思っている。

 

 

 

 

中島みゆきは、「作家」として、他の歌手にも、素晴らしい楽曲を提供し続けていたが、

・『しあわせ芝居』(1977・桜田淳子)

・『すずめ』(1981・増田けい子)

・『春なのに』(1983・柏原芳恵)

…といった曲は、特に素晴らしい。

中島みゆきが作った曲を歌うと、その歌手は輝きを増す…という事を、桜田淳子・増田けい子・柏原芳恵…といった歌手達は証明していると言えよう。

桜田淳子は、『しあわせ芝居』で、改めて歌手としての存在感を示し、

ピンク・レディー解散後、ソロ歌手となった増田けい子は、『すずめ』で新境地を開いた。

柏原芳恵も、『春なのに』の大ヒットで、トップ・アイドルの仲間入りを果たした…。

このように、中島みゆきも、「作家」として、良い仕事を果たしたが、その中島みゆきが、工藤静香という歌い手と出逢うのは、もう少し後の事である。

 

<「歌手」としての薬師丸ひろ子~「呉田軽穂」ことユーミン(松任谷由実)も、『Woman "Wの悲劇"より』で、薬師丸ひろ子に楽曲提供>

 

 

さて、続いてご紹介させて頂くのは、薬師丸ひろ子である。

1980年代といえば、沢山の女性アイドル歌手が活躍していたが、その中で、私が何故、薬師丸ひろ子を「歌手」として紹介するのかと言えば、薬師丸ひろ子は、単純に私の好みのタイプ(?)だからである。

…まあ、冗談はさておき(?)として、薬師丸ひろ子は、角川映画の主演女優として活躍し、テレビにはあまり出なかった。

そして、「映画スター」として、独特の存在感を発揮した薬師丸ひろ子は、自らの主演映画とのタイアップで、

 

・1981年『セーラー服と機関銃』(作詞:来生えつこ、作曲:来生たかお)

・1983年『探偵物語』(作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一)

 

…といった大ヒット曲を出した。

どちらも素晴らしい曲だが、私は特に『探偵物語』が大好きである。

薬師丸ひろ子は、とても素直な歌い方をする人だが、その薬師丸ひろ子の歌声と、切ない歌詞と曲が、とてもよく合っている。

松本隆・大瀧詠一という、「はっぴいえんど」以来の盟友が、とても素晴らしい曲を作り、その名曲を薬師丸ひろ子という歌手が、あまり小細工もせず、素直に歌っている。

それが、とても良いのである。

 

 

そして、1984(昭和59)年、既に松田聖子のために、次々に名曲を作っていた、

「作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂」

のゴールデン・コンビが、今度は薬師丸ひろ子のために、

『Woman "Wの悲劇"より』

という名曲を作った。

これまた、薬師丸ひろ子が主演した、角川映画とのタイアップで、大ヒットした。

という事で、1980年代は、

「音楽作りの職人達」

が、腕によりをかけて、当時のアイドル歌手達に素晴らしい名曲の数々を提供し、それをアイドル歌手達が歌い、次々に大ヒットさせていたという、

「アイドル歌謡の黄金時代」

であった。

 

<1980年代~桑田佳祐の、他アーティストへの楽曲提供>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

では、この稿の最後に、1980年代に、サザンオールスターズ桑田佳祐が作詞・作曲し、他アーティストに提供された楽曲のついて、ご紹介させて頂く。

なお、サザンの原由子が、サザンのアルバム収録曲として先に歌い、後に他の歌手に提供されたのが、

『私はピアノ』『そんなヒロシに騙されて』『シャボン』

…といった曲である。

 

【1980年代の桑田佳祐の他アーティストへの主な楽曲提供一覧】

・1980年『私はピアノ』(高田みづえ)

・1981年『狂い咲きフライデイ・ナイト』(タモリ)

・1982年『夏をあきらめて』(研ナオコ)

・1982年『恋人も濡れる街角』(中村雅俊)

・1982年『六本木のベンちゃん』(小林克也とザ・ナンバーワン・バンド)

・1983年『そんなヒロシに騙されて』(高田みづえ)

・1983年『アミダばばあの唄』(アミダばばあ(明石家さんま)&タケちゃんマン(ビートたけし))

・1984年『シャボン』(長山洋子)

 

(つづく)