1992~1996年のサザンとユーミン⑩~1995年『輪舞曲(ロンド)』と『たたかうお嫁さま』~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1992(平成4)~1996(平成8)年にかけて、サザンオールスターズ松任谷由実(ユーミン)が、

テレビドラマとのタイアップで、大ヒット曲を連発していた頃、私は10代の中高生の時期であり、私はその頃に青春時代を過ごしたが、その時代のサザンとユーミンの活躍を描く、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

というシリーズを、このブログで断続的に書かせて頂いている。

そして、私が10代だった頃の事を、色々と思い出しながら(?)、私自身、楽しんで書いている。

 

 

というわけで、これまで書いて来た、

「1992~1996年のサザンとユーミン」

のシリーズの記事は、下記の通りである。

 

①1992年『涙のキッス』と『ずっとあなたが好きだった』

②1993年『真夏の夜の夢』と『誰にも言えない』

③1993年『エロティカ・セブン』と『悪魔のKISS』

④1994年『Hello, my friend』と『君といた夏』

⑤1994~1995年『祭りのあと』と『静かなるドン』

⑥1994~1995年『春よ、来い』

⑦1994年『砂の惑星』と『私の運命』(第1部)

⑧1995年『命の花』と『私の運命』(第2部)

⑨1995年『あなただけを ~Summer Heart break~』と『いつかまた逢える』

 

…という事であるが、今回は久々に、その「続編」を書くが、

今回、取り上げるのは、1995(平成7)年にリリースされた、ユーミン(松任谷由実)の楽曲、

『輪舞曲(ロンド)』

と、その曲が主題歌として起用された、松本明子が主演した日本テレビのドラマ、

『たたかうお嫁さま』

である。

 

 

『輪舞曲(ロンド)』

は、1995(平成7)年11月13日にリリースされた、ユーミン(松任谷由実)の通算27枚目のシングルであるが、

詞も曲も本当にカッコイイ曲であり、

「ユーミン節」

が全開といった趣である。

そして、実はつい最近、私は『輪舞曲(ロンド)』という曲の素晴らしさを再認識する機会が有った。

 

<今年(2024年)NHKで放送された『ユーミン・ストーリーズ』と、「COVERS ~ユーミン・ナイト」>

 

 

今年(2024年)、つい先日の事だが、NHKで、

『ユーミン・ストーリーズ』

というドラマが放送されていた。

これは、ユーミン(松任谷由実)の、

・『青春のリグレット』

・『冬の終り』

・『春よ、来い』

という、それぞれの楽曲を元に、それをドラマ化したものであり、NHKの「夜ドラ」の枠で、各4回シリーズとして、放送されていた。

「アーティストの楽曲を元に、ドラマを作るって…このブログの『サザン小説』と同じだ!?」

と、私は思ってしまったが、まあ冗談はさておき(?)、私は、

『ユーミン・ストーリーズ』

を、非常に興味深く、見させて頂いた。

 

 

 

そして、前述の『ユーミン・ストーリーズ』と連動して、

NHKの「COVERS」という番組で、

「COVERS ~ユーミン・ナイト」

という番組が放送されていた。

この番組は、様々なアーティストが、色々な曲をカバーするという企画の番組なのだが、

「COVERS ~ユーミン・ナイト」

では、女性アーティストのReiが、音楽プロデューサーにしてベーシストの亀田誠治とコラボし、1995(平成7)年のユーミン(松任谷由実)の楽曲、

『輪舞曲(ロンド)』

をカバーしていたのである。

私は、それを聴いて、改めて、

「『輪舞曲(ロンド)』って、めっちゃカッコイイ曲だな!!」

と、感銘を受けた。

…というわけで、前置きはそれぐらいにして、当時、私が高校生の「青春ど真ん中」だった頃、1995(平成7)年に、しばしタイムスリップ(?)し、

「1992~1996年のサザンとユーミン」の「第10回」、「1995年『輪舞曲(ロンド)』と『たたかうお嫁さま』」を、ご覧頂くとしよう。

 

<「CDメガヒット時代」だった、1995(平成7)年~何と「オリコン・ベスト30」の内、「上位28曲」がミリオンセラーの大ヒット>

 

 

1995(平成7)年といえば、とにかく、日本の歴史上でも、最もCDが売れていた頃であり、

「CDメガヒット時代」

と言って良い時代だった。

上記の表は、1995(平成7)年のシングルCDの「年間売上ベスト10」を示したものであるが、この10曲は全てミリオンセラーであった。

 

 

 

 

それどころか、

「年間売上ベスト30」

に、幅を広げて見ても、何と、その内の「上位28曲」ミリオンセラーという、凄まじい売上を示していた。

つまり、当時はCDを100万枚売っても、やっと「上位30位」に入れるかどうか…という、物凄い時代だったわけである。

そして、これらの曲は、当時、高校生だった私としても、勿論、全部覚えているが、やはり10代の頃に聴いた曲は、未だに鮮明に覚えている。

という事で、1995(平成7)年の、オリコンの「年間売上ベスト30」は、下記の通りである。

 

①『LOVE LOVE LOVE』(DREAMS COME TRUE)

②『WOW WAR TONIGHT~時には起こせよムーブメント』(H Jungle With t)

③『HELLO』(福山雅治)

④『Tommorow Never knows』(Mr.Children)

⑤『シーソーゲーム ~勇敢な恋の歌~』(Mr.Children)

⑥『Hello, Again ~昔からある場所~』(MY LITTLE LOVER)

⑦『奇跡の地球(ほし)』(桑田佳祐&Mr.Children)

⑧『TOMMOROW』(岡本真夜)

⑨『ロビンソン』(スピッツ)

⑩『LOVE PHANTOM』(B'z)

⑪『CRAZY GONNA CRAZY』(trf)

⑫『【es】~Theme of es~』(Mr.Children)

⑬『ねがい』(B'z)

⑭『love me, I love you』(B'z)

⑮『masquerade』(trf)

⑯『KNOCKIN' ON YOUR DOOR』(L⇔R)

⑰『ら・ら・ら』(大黒摩季)

⑱『MOTEL』(B'z)

⑲『ズルい女』(シャ乱Q)

⑳『Going Going Home』(H Jungle With t)

㉑『everybody goes ~秩序の無い現代にドロップキック~』(Mr.Childeren)

㉒『突然』(FIELD OF VIEW)

㉓『MAICCA ~まいっか』(EAST END×YURI)

㉔『シングルベッド』(シャ乱Q)

㉕『あなただけを ~Summer Heart break~』(サザンオールスターズ)

㉖『サンキュ.』(DREAMS COME TRUE)

㉗『OVERNIGHT SENSATION ~時代はあなたに委ねてる~』(trf)

㉘『旅人のうた』(中島みゆき)

㉙『碧いうさぎ』(酒井法子)

㉚『涙がキラリ☆』(スピッツ)

 

 

…という事であるが、

前述の通り、「上位30曲」の内の「28曲」が、ミリオンセラーという、凄まじい売上であった。

何しろ、サザンオールスターズ『あなただけを ~Summer Heart break~』が、ミリオンセラーの大ヒットだったにも関わらず、やっと「25位」というのだから、いやはや、何とも…といった所である。

そして、1995(平成7)年のCD売上を見ると、

 

・ビーイング系(B'z、大黒摩季、FIELD OF VIEW、ZARDなど)

・小室ファミリー(trf、H Jungle With t、安室奈美恵、華原朋美、globeなど)

・Mr.Childeren

 

…が、CD売上の「3強」を形勢していた。

これらのアーティスト達が、競って新曲を出しまくり、そしてCDを出す度に、飛ぶように売れていた時代だった。

それにしても、「ビーイング系」「小室ファミリー」の売れっぷりも目立つが、

当時、ミスチル(Mr.Children)は、たった1組のバンドで、それらのアーティスト群に匹敵するぐらい売れていたというのが、本当に凄い。

当時、最強のバンドは、紛れもなくミスチル(Mr.Childeren)だったと、当時、リアルタイムで見ていた私も、そう思っている。

 

 

この年(1995年)、桑田佳祐&Mr.Childrenという、夢の共演によって、

『奇跡の地球(ほし)』

という楽曲がリリースされ、大ヒットしたが、当時、私の高校の同級生などは、

「この曲は、ミスチルのお陰で売れたんだろう」

などと言っていた。

「何言ってんだ、この曲を作ったのは桑田さんなんだぞ!!」

と、私は反論(?)したが、やはり、今になって客観的に見ると、当時、超売れっ子だったミスチル(Mr.Childeren)と組んだからこそ、この曲はあれだけ売れたのだと、認めざるを得ない。

それはともかく、こんなにCDが売れまくっていた時代、サザン(桑田)もそれらのアーティストの中で、最前線に立って奮闘していたのだ…という事を、ここで改めて強調しておきたい。

 

<「CDメガヒット時代」の寵児・小室哲哉…「カラオケ・ブーム」の立役者でもあった「小室ファミリー」>

 

 

 

では、当時は何故こんなにCDが売れていたのか…と言えば、

「CDを買って、その曲を覚えて、カラオケで歌う」

というサイクルが、若者達の間で定着していたから…という要因も大きかった。

1995(平成7)年当時、小室哲哉プロデュースのアーティスト達、

trf、H Jungle With t、安室奈美恵、華原朋美、globe…

といった人達のCDは、売れに売れていたが、当時のシングルCDには、A面、B面(カップリング)の他に、

「カラオケ・バージョン」

が、必ず入っていた。

それは何かと言うと、A面曲の、ボーカルが無い演奏だけのバージョンであり、

「これを聴いて、カラオケで歌って下さい」

という事を意図して入れられているのは、明らかであった。

当時、10代~20代の若者達は、競ってお気に入りのアーティストのCDを買い、新曲を覚え、シングルCDの「カラオケバージョン」で練習し、そして、覚えた曲を、友人達と共にカラオケで披露していた。

また、当時は「激安カラオケ店」が増え、若者達がカラオケで歌いやすい環境も整っていた。

そして、小室哲哉は、

「どうだ、今度はこの曲を歌ってみろ」

と言わんばかりに、早いサイクルで、皆がカラオケで歌いたくなるような新曲を、次々に作り続けていた。

つまり、小室哲哉という人が、そういうサイクルを作り上げてしまった…と言っても、過言ではあるまい。

なお、ここで付記しておくと、サザンオールスターズ桑田佳祐は、CDには「カラオケ・バージョン」は絶対に入れなかった。

「歌が入っていない楽曲を出すのは、邪道だ」

…もしかしたら、サザン(桑田)には、そういう「こだわり」が有ったのかもしれない。

 

<松本明子という女~「不作の83年組」の「売れないアイドル」から、「1990年代のバラドル女王」へ…>

 

 

 

 

さて、ここで時代は1980年代に遡る。

1982(昭和57)年にデビューしたアイドル達は、

「花の82年組」

と称されていた。

その「花の82年組」というのは、

中森明菜・小泉今日子・松本伊代・早見優・堀ちえみ・三田寛子・石川秀美・シブがき隊…

といった人達であり、レコードはよく売れ、ヒット曲に恵まれれていた。

そして、この人達は、その後も長く芸能界の第一線で活躍した、スター揃いだった。

「大豊作の82年組」

などと言われ、本当に華やかな顔ぶれといった印象が有る。

 

 

 

 

それに対し、翌1983(昭和58)年にデビューしたアイドル達、

松本明子・森尾由美・桑田靖子・小林千絵・徳丸純子・大沢逸美・木元ゆうこ…

といった人達は、レコードはあまり売れず、歌手としてはパッとしなかった。

彼女達は、そんな自分達について、

「不作の83年組」

などと言って、自虐的に語り、今ではそれがネタになっているが、

「『花の82年組』に比べると、83年組は全然パッとしない」

と言われ、長く不遇の時代を過ごしていた。

 

 

 

1966(昭和41)年4月8日生まれの松本明子は、

1983(昭和58)年、当時17歳だった時に、

『♂♀Kiss(オス・メス・キッス)』

なる曲でデビューしたが、この曲は全くと言って良いほど売れなかった。

その後も、松本明子は何枚かレコードを出したが、歌手としては鳴かず飛ばずであった。

「不作の83年組」

と言われるだけあって(?)、松本明子は、どうやら歌手として大成できそうな見込みは薄かった。

「このまま、自分は芸能界から消えてしまうのか…」

当時、松本明子は、そんな危機感を持っていた。

 

 

そんな松本明子は、ある時、大事件を起こしてしまった。

1984(昭和59)年4月1日、フジテレビで放送された、

「オールナイトフジ1周年&笑福亭鶴光のオールナイトニッポン10周年記念特番」

という生放送番組の真っ最中、何と、松本は「放送禁止用語」を口走ってしまった。

今ならSNSも大炎上間違い無しという事態を引き起こし、この後、約2年間、松本明子は芸能界から干された。

歌手として先が見えず、松本は「ヤケッパチ」という精神状態だったのかもしれないが、

おまけに、こんな「不祥事」まで引き起こしてしまい、当時の松本は、まさに「お先真っ暗」…といった状況であった。

 

 

そんな「お先真っ暗」だった松本明子に、救いの手を差し伸べたのが、中山秀征だった。

中山秀征は、松本明子に対し、

「バラエティ番組に出てみたら?」

というアドバイスを贈ったが、「謹慎処分」が明けた(?)松本は、1989(平成元)年から、

「高田文夫のラジオビバリー昼ズ」

というラジオ番組で、放送作家の高田文夫と共にパーソナリティーを務めた。

そして、この番組では、松本は持ち前の明るさで人気を博し、以後、「バラエティー路線」へと進んで行った。

 

 

 

1992(平成4)年は、松本明子にとって、大きな「転機」となった年だった。

この年(1992年)、松本明子は、田中義剛・東ちづると共に、テレビ東京の、

「TVチャンピオン」

という番組でMCを務めた。

この番組は、「素人」を番組に出し、得意分野で競わせる…といった番組だったが、後年、大流行した、

「大食い選手権」

の走りも、この番組だった。

その企画は、他局でパクられてしまったが、元々はテレ東の「TVチャンピオン」の企画だったのである。

そして、私が松本明子という人を知ったのも、この番組がキッカケであった。

 

 

 

 

同じ年(1992年)、松本明子をバラエティー路線へと進ませた人・中山秀征と、松本明子・飯島直子という3人が出演する、日本テレビの土曜の深夜番組、

「DAISUKI!」

が放送開始された。

この番組は、中山秀征・松本明子・飯島直子の3人が、仲良く腕を組みながら、その辺の街をブラブラと散策する…という、ただそれだけの「ゆるい」番組だったが、その「ゆるさ」故に、深夜に何となくダラダラと見るには、ピッタリの番組だった。

そして、この番組も、その後に雨後の筍のように増えて行った、タレントがその辺の街を散歩するというコンセプトの、

「お散歩番組」

の走りだったと言って良い。

当時、私も「DAISUKI!」はマッタリと楽しみながら(?)見ていたものである。

 

 

 

そして、テレビタレント・松本明子の名を不動の物とした、日本テレビの日曜夜の番組、

「進め!電波少年」

も、この年(1992年)に放送開始されている。

この番組は、松村邦洋・松本明子がMCを務め、この2人が、

「アポ(※アポイント)なし」

で、色々な所に突撃取材をして、その様子を放送する…という内容だったが、

「アポなし」

で突撃するので、その取材先に迷惑がられてもお構い無し(?)というか、とにかく過激な内容の番組であり、今の時代では、まず考えられないような番組だった。

1990年代の日テレ(日本テレビ)は、総じて、ドラマもバラエティーも過激な内容が多かったが、その刺激的な内容が当時の視聴者には大ウケし、1990年代、日テレ(日本テレビ)はフジテレビから、

「視聴率三冠王」

の座を奪い、1990年代は、

「日テレ黄金時代」

と言っても良かった。

その1990年代の「日テレ過激路線」を象徴する番組こそ、

「進め!電波少年」

であり、この番組で、松村邦洋と共に、身体を張った突撃レポートを繰り返した松本明子は、

「1990年代のバラドル女王」

の座を手にした。

私にとって、当時の松本明子の印象は、

「とにかく明るくて、バイタリティーが有り、何でもやる人」

という印象だったが、あの「放送禁止用語事件」で、暫く干されていた松本は、

「芸能界で生き残るためには、何でもやる」

という覚悟が有ったのであろう。

 

<1995(平成7)年10月~12月…松本明子・保阪尚輝が主演の日本テレビのドラマ『たたかうお嫁さま』放送~ユーミン(松任谷由実)の『輪舞曲(ロンド)』が主題歌に起用>

 

 

このように、波乱万丈の道のりを経て、

「1990年代のバラドル女王」

の座を勝ち取った松本明子は、1995(平成7)年10月~12月にかけて放送された、日本テレビのドラマ、

『たたかうお嫁さま』

で、遂に主演に抜擢された。

松本明子、当時29歳の事である。

「あの松本明子が、遂にドラマの主演か…」

と思われたが、当時の松本は「日テレのバラエティのエース」であり、その人気を見込んで、日テレが松本を主役に抜擢した。

 

 

『たたかうお嫁さま』

は、早稲田大学出身の漫画家・けらえいこが描いた(※小室哲哉と同時期に早稲田に在学していた時期も有り)、

『セキララ結婚生活』

シリーズの作品、

『たたかうお嫁さま』

を原作として、それをドラマ化したものであるが、そのタイトルの通り、

「結婚生活の現実」

を、リアルに描いた作品として、当時、大人気であった。

 

 

なお、けらえいこは、当時、1994(平成6)年から、

『あたしンち』

という漫画を描き、これまた大ヒットさせており(※後にテレビ朝日でアニメ化された)、

まさに、飛ぶ鳥を落とす勢いだった。

それにしても、当時から日本テレビというのは、漫画を原作とした作品をドラマ化するのが好きだったのだな…と、ある感慨を持って見てしまう。

 

 

 

 

さて、日本テレビでドラマ化された、

『たたかうお嫁さま』

では、松本明子は、当時、イケメン俳優として人気絶頂だった、保阪尚輝と、カップルの役として共演している(※この2人は、結婚を前提として交際しているという設定だった)。

このドラマでは、保阪は「ロン毛」だったが、当時はSMAPキムタク(木村拓哉)「ロン毛」であり、

「男のロン毛」

が、流行っていた時代でもあった。

しかし、キムタク(木村拓哉)保阪尚輝はともかく、「男のロン毛」は、あまり清潔感は無く、よほどの美男子でない限り、あまりやらない方が身のため(?)である。

 

 

 

 

それはともかくとして、

『たたかうお嫁さま』

では、松本明子保阪尚輝は「婚約者」同士という関係だったが、

松本明子の父親役を演じたのは、あの「冬彦さん」のドラマ、

『ずっとあなたが好きだった』

で、賀来千香子の父親役を演じていた、橋爪功であった。

橋爪功は、そういう父親役が、とてもよく合っていたが、

松本明子も、ドラマ初主演ながらも好演し、このドラマは大好評で、

翌1996(平成8)年に、

『たたかうお嫁さま 結婚スペシャル』『たたかうお嫁さま 出産スペシャル』

という、2本のスペシャル・ドラマも放送された。

そして、

『たたかうお嫁さま』

の主題歌として起用されたのが、ユーミン(松任谷由実)が歌う、

『輪舞曲(ロンド)』

という曲だった。

 

<1995(平成7)年11月13日…ユーミン(松任谷由実)の通算27枚目のシングル『輪舞曲(ロンド)』リリース>

 

 

 

1995(平成7)年11月13日、ユーミン(松任谷由実)の通算27枚目のシングル、

『輪舞曲(ロンド)』

がリリースされたが、前述の通り、松本明子が主演したドラマ、

『たたかうお嫁さま』

の主題歌として起用され、『輪舞曲(ロンド)』はオリコン最高「2位」の大ヒットを記録している。

 

 

 

この記事の冒頭でも書いた通り、

『輪舞曲(ロンド)』

は、詞も曲も本当にカッコイイのだが、ユーミン(松任谷由実)自身によると、この曲は、

「L.A.レコーディングの時、フェアファックス通りのユダヤ人街で、何千年に一度のお正月に誘われたときに、産み落とされた歌」

との事である。

そう言われてみると、確かに、エキゾチックというか、独特の雰囲気が有る曲であり、

「流石は、ユーミン」

と言いたくなるような曲である。

という事で、

『輪舞曲(ロンド)』

の歌詞をご紹介させて頂き、この記事の締めくくりとさせて頂く。

 

 

 

『輪舞曲(ロンド)』

作詞・作曲:松任谷由実

編曲:松任谷正隆

唄:松任谷由実

 

キャンドルに灯をともしましょう 思い出みんな照らすように

あなたのくれた微笑みで 泣き出しそうに見えるでしょう

おどけてほほを寄せれば 背中に置かれた手のひら

あなたの知らぬ傷跡も 雪解けに咲くクロッカス

 

さあ ヴェール上げて 初めての瞳で

誓いのキスに 高くはばたかせて

さあ ページあけて 名前綴ったなら

愛の証しは フォルクローレになる

 

奏でて消えないメロディー 思い出かき消すくらいに

誰ともできなかったほど 幸せそうに踊りましょう

私を愛したことを 後悔はしていないかしら

あなたと紡ぐ年月が たったひとつのタピストリィ

 

あなたに抱かれ まわるまわる輪舞曲(ロンド)

涙も夢も めくるめく フィエスタ

もう神様しか 二人を離せない

語り継がれる フォルクローレになる

 

歓びとは 溶けて落ちる 哀しみの上に揺れる炎 Ah

 

さあ ヴェール上げて 初めての瞳で

誓いのキスに 高くはばたかせて

さあ ページあけて 名前綴ったなら

愛の証しは フォルクローレになる

 

あなたに抱かれ まわるまわる輪舞曲(ロンド)

涙も夢も めくるめく フィエスタ

もう神様しか 二人を離せない

語り継がれる フォルクローレになる

 

さあ ヴェール上げて 初めての瞳で

誓いのキスに 高くはばたかせて

さあ ページあけて 名前綴ったなら

愛の証しは フォルクローレになる

 

あなたに抱かれ まわるまわる輪舞曲(ロンド)

涙も夢も めくるめく フィエスタ

もう神様しか 二人を離せない

語り継がれる フォルクローレになる

 

(つづく)