私が大好きなサザンオールスターズや桑田佳祐の楽曲を題材に、「原案:桑田佳祐」として、私が「短編小説」を書くという、「サザンの楽曲・勝手に小説化」シリーズは、今まで14本を書いて来た。
そして、現在は『流れる雲を追いかけて』に始まる、「4部作」を連載中である。
その「4部作」は、それぞれが独立した「短編小説」ではあるが、全て繋がっている物語であり、「リレー小説」形式で書いている。
私が、これまで書いて来た「サザンの楽曲・勝手に小説化」シリーズは、下記の14本である。
①『死体置場でロマンスを』(1985)
②『メリケン情緒は涙のカラー』(1984)
③『マチルダBABY』(1983)
④『Ya Ya(あの時代(とき)を忘れない)』(1982)
⑤『私はピアノ』(1980)
⑥『夢に消えたジュリア』(2004)
⑦『栞(しおり)のテーマ』(1981)
⑧『そんなヒロシに騙されて』(1983)
⑨『真夜中のダンディー』(1993)
⑩『彩 ~Aja~』(2004)
⑪『PLASTIC SUPER STAR』(1982)
⑫『流れる雲を追いかけて』(1982)
⑬『かしの樹の下で』(1983)
⑭『孤独の太陽』(1994)
前述の通り、上記のシリーズの内、⑫~⑭は、「4部作」としての物語として書いた。
そして、その「あらすじ」を簡単に記しておく。
(1)『流れる雲を追いかけて』(1982)…満州に移住した妙子と脩が出逢い、2人は結婚する。そして、博と敏子という2人の子供が生まれるが、やがて脩は出征して行く…。
(2)『かしの樹の下で』(1983)…ある中国人の女の子の物語。実は、その女の子には重大な「出生の秘密」が有った…。
(3)『孤独の太陽』(1994)…野球が大好きで、早稲田の野球部の選手として早慶戦に出場した経験も有る脩は、移住先の満州で妙子に出逢う。しかし、脩は出征してしまい、やがて脩に過酷な運命が待ち受ける…。
そして、今回、私が書くのは、その「4部作」の「最終回」である。
その「4部作」の「最終回」の題材として私が選んだのが、1994(平成6)年の桑田佳祐のソロ・アルバム『孤独の太陽』に収録されている、『JOURNEY』という楽曲である。
まさに、「人生という旅路」を思わせる名バラードを、桑田佳祐が切々と歌っており、この曲を聴くと、とても胸が打たれる。
それでは、「サザンの楽曲・勝手に小説化」シリーズの第15弾、「4部作」の「その4」(最終回)としての、『JOURNEY』(原案:桑田佳祐)を、ご覧頂こう。
<序章・『第4の手記』>
私は、これまで、ある家族から「手記」を託され、その「手記」に基づいて、その家族が辿って来た人生を描いて来た。
今、私の手元には4冊の「手記」が有る。
これまで、私はその「手記」に基づき、『流れる雲を追いかけて』『かしの樹の下で』『孤独の太陽』と題した物語を書いた。
そして、これから私が書こうとしているのは、
「第4の手記」
に基づいた物語である。
この「第4の手記」を書いたのは、外ならぬ私自身であり、私が辿った人生を書かせて頂く。
私の人生は、常に家族の「愛」と共に有った。
その「家族の愛の物語」を、ここに記させて頂きたい。
<第1章・『母の子守唄』>
我が人生を振り返った時、まず真っ先に思い出すのは、
「母の子守唄」
である。
私は、1939(昭和14)年に、満州の大連で生まれた。
私の両親は、元々、日本で生まれ育ったが、1932(昭和7)年、中国東北部に「満州国」が建国された後、満州に移住した。
そして、2人は1937(昭和12)年に大連で出逢い、翌1938(昭和13)年に結婚した。
その両親の間に、私が長男として生まれたのが、1939(昭和14)年であった。
私の母は、とても優しい人であり、私は常に母の愛情をタップリと貰っていた。
そんな私の母は、とても歌が大好きであり、私が赤ん坊の頃から、母はよく私に「子守唄」を聞かせてくれた。
「お母さん、何ていう唄なの?」
私が少し大きくなり、物心ついた頃も、母は私に「子守唄」を歌ってくれたが、一体、何の唄なのかはわからなかったので、私は母に聴いてみた。
「私のお母さんが、よく私にも歌ってくれた唄よ」
母は微笑みながら、私に答えてくれたが、題名はよく知らないという。
でも、母の歌声はとても優しく、子供心にも胸に沁みた。
私は、母の歌が大好きであった。
もう一つ、幼い頃の私にとって、忘れられない光景といえば、
満州の大地に沈む、真っ赤な夕陽である。
満州の広大な大地に沈む夕陽は、特に秋の季節は素晴らしかったが、私は、それは美しいのと同時に、
「寂しくて、怖い夕陽」
とも思っていた。
今にして思えば、それは私の家族が歩んで行く道を暗示していたのかもしれない。
<第2章・『僕のお父さん』>
私の両親は、とても仲が良かった。
私の父は、大連の街で、父親の家業である「造り酒屋」を継ぎ、「造り酒屋」の若旦那という身分だったが、
その「造り酒屋」に嫁入りした私の母は、大変な働き者であり、私の父の両親にも凄く可愛がられていたようだ。
「あんたには、勿体ないお嫁さんだわね」
私の父方の祖母…つまり、私の父のお母さんから、父はよくからかわれていたらしい。
「ようだ」とか「らしい」と書いたが、そもそも、私が4歳の時に、私の父親は「出征」してしまったので、私が小さい頃は、父の事はハッキリとした記憶は無い。
だが、私の母と同じく、父もとても優しい人だったというのは、間違いない。
父は、昔、野球をやっていたので、腕っぷしもとても強く、私はよく父から、
「高い、高い!!」
と、父の両手で高く持ち上げられたりして、遊んでもらっていた事は、よく覚えている。
そして、子供心にも、私の両親は、とても固い絆で結ばれているように思われた。
1943(昭和18)年、私の母は、2人目の子供を身籠っていた。
しかし、この年(1943年)、その子が生まれる前に、私の父は「出征」してしまった。
その頃の日本は「日中戦争」と「太平洋戦争」の真っ最中であり、健康な男子は、どんどん兵隊に取られてしまった。
大連の駅で、私の母と一緒に、出征して行く父を見送った時、私は俄かに、
「お父さんが、遠くに行ってしまう…」
という、言い知れぬ淋しさに襲われた。
その事はハッキリとわかったが、私は淋しさに耐えかねて、思わず父に抱き着いた。
「お母さんを、頼んだぞ…」
その時の父の言葉は、ずっと私の脳裏に残った。
やがて、父を乗せた列車が大連の駅から出て行き、私と母は、いつまでも、その列車を見送っていた。
「…お母さん、お父さんは帰って来るよね?」
私は不安になって、母を見上げて、そう聞いたが、
「勿論。帰って来るに決まってるでしょ」
母は、即座にキッパリと答えた。
1943(昭和18)年、父が出征して行った後、母は女の子を生んだ。
私にとっては、可愛い妹である。
「おー、よちよち…」
母は、目の中に入れても痛くないほど、私の妹を可愛がっていたが、私も、自分の妹が生まれたのが、とても嬉しかった。
そして、母は私に歌ってくれたのと同じく、妹にも「子守唄」を歌っていた。
「早く、お父さんが帰ってくるといいわねえ…」
母は、妹をあやしながら、よくそういう事を言っていた。
だが、この2年後、私達は想像を絶するような、酷い目に遭う事となる。
<第3章・『地獄の1945(昭和20)年・夏』>
それは、突然の出来事であった。
私が6歳の年、1945(昭和20)年8月8日、ソ連軍が一方的に「日ソ中立条約」を破棄して、満州へと侵攻して来たのである。
この事を日本軍は全く予想しておらず、ソ連軍の侵攻に対し、満州を防衛する「関東軍」…つまり日本軍は、全く為す術も無かった。
ソ連軍は、まさに無人の荒野を進むが如く、一斉に満州に攻め込み、日本軍は、あっという間に蹴散らされた。
私達の家族が住んでいた大連の街も、あっという間にソ連軍に攻め込まれ、そしてソ連軍に占領された。
私が、子供心にハッキリと覚えているのは、大連の街に掲げられていた「日の丸」の旗が全て撤去され、
それに替わって、当時の中国の国旗…「青天旭日旗」が、一斉に掲げられた事である。
「日本は、この戦争に負けた。日本による、満州国の支配は終わりを告げた」
ソ連軍は、戦闘機から一斉に、そのようなビラを蒔いたが、それから1週間後の1945(昭和20)年8月15日、昭和天皇の「玉音放送」によって、日本の戦争は終わった。
「日本が戦争に負けた…」
そんな事になるなんて、その時が来るまで、私達、満州で暮らしていた日本人は、誰一人、思っていなかった筈である。
しかし、それは現実に起こった。
こうして、「満州国」は一夜にして崩壊してしまったが、
「国が崩壊する」
というのは、どういう事かというと、その瞬間に、その国で暮らす国民の生命や財産が、全く保証されなくなるという事である。
我々は、一瞬にして、全財産を失った。
いや、財産を失っただけなら、まだマシだった。
この時、ソ連軍に殺された人も沢山居たからである。
それは、まさしく1945(昭和20)年の夏に現実に起こった「悪夢」であった。
<第4章・『別れ』>
当時6歳の私にとって、ソ連軍は「悪魔」そのものに見えた。
ソ連軍は、大連の街を占領し、我が物顔に振る舞っていたが、ソ連軍は、ちょっとでも逆らう日本人が居ると、容赦なく撃ち殺したり、家を破壊したりしていた。
私達が暮らしていた家…父が受け継いだ、あの「造り酒屋」も、ソ連軍の気に障ったのか、メチャクチャに破壊されてしまった。
その時、母は私と妹を連れ、間一髪で逃げ出したが、その時、私の父方の祖父と祖母…つまり、私の父のお父さんとお母さんとは、はぐれてしまった。
私の祖父母は、その後、何処に行ったのかもわからず、「生死不明」となった。
「お父さん、お父さんは無事なの!?」
母が、血相を変えて言った。
母が言う「お父さん」とは、母の実の父親…つまり、私から見れば、母方の祖父である。
その頃、私の母方の祖父は、身体を壊して入院していた。
母は、急いで病院に向かったが、病院はソ連軍に荒らされ、酷い有様だった。
「お父さん…」
母は、私の祖父が寝ているベッドに近付くと、父の手を握った。
「妙子…。今まで色々とすまなかったな…」
祖父はそう言うと、母の頭を撫でていた。
母は泣いていたが、祖父は母の涙を拭うと、
「ここも、いつまで無事か、わからない。お前も、早く逃げなさい」
祖父は、母にハッキリとそう告げた。
そして、孫である私と、私の妹を見ると、祖父は微笑んだ。
「お母さんを、守ってあげるんだよ…」
祖父にそう言われ、私は頷いた。
「お父さん、今まで本当に有り難う…」
母は涙を拭き、そう言うと、私と妹を連れ、病院を後にした。
それが、私達と祖父との、「永遠の別れ」になった。
悪い事は、更に続いた。
私達は、大連から、日本への引き揚げ船が出ている、葫芦島を目指した。
その葫芦島を目指す間、私達が乗った、すし詰め状態の列車は、何度もソ連軍に爆撃を受け、その度に沢山の人が死んで行った。
「絶対に、この手を離したらダメだからね」
母は、私に厳命し、いつも私の手を固く握っていた。
そして、母は幼い妹を、自分の身体に紐を括りつけ、しっかりと「おんぶ」していた。
だが、無理な旅が祟ったのか、妹は病気に罹り、どんどん衰弱して行った。
私達、親子3人は、ようやく葫芦島に辿り着いた。
だが、その時、妹はグッタリとしており、「半死半生」の状態だった。
「お母さん、敏子が…」
私は、今にも死んでしまいそうな妹の様子を見て、泣き出さんばかりに、母に言った。
母も勿論、そんな事はわかっていた。
そして、いよいよ引き揚げ船に乗り込もうという時、
「こんなに衰弱した子供を、乗せるわけにはいかない。途中で死んでしまう」
と、無情にも係員に告げられてしまう。
「そんな…」
母は途方に暮れていた。
そして、母は遂に苦渋の決断を下す。
現地に居た、中国人の若い夫婦に、
「この子を、くれぐれもお願いします…」
と言って、母は妹を託したのだ。
この時、私はすぐ近くに「かしの樹」が立っていたのを、ハッキリと覚えている。
そして、母は中国人の夫婦に、2枚の写真を渡した。
1枚は、私の両親と私の3人で写った写真、もう1枚は、父の出征後に、母と私と妹の3人で写った写真である。
こうして、やむを得ない状況だったとはいえ、私達は、可愛い妹と、泣く泣く「生き別れ」になってしまった。
こうして、私と母は、2人で引き揚げ船に乗り込んだ。
船内は、ぎゅうぎゅう詰めで、酷い衛生環境だった。
確かに、こんな船に乗せたら、妹は死んでしまっていたかもしれない。
だが、母にとっては、身を切られるような思いだったであろう。
こうして、私達の母子は、命からがら、満州から日本へと帰って来た。
<第5章・『涙の跡』>
日本に帰って来た後、母は、親戚を頼り、東京に行った。
かつて、母の実家が有ったという長崎は、「原爆」で壊滅していたので、他に行く所も無かったのである。
私達は、親戚の家の一角に、どうにか住まわせてもらったが、その後、母は力仕事でも何でもやって、歯を食いしばって、私を育ててくれた。
私は、母は本当に凄いと思うのは、どんな過酷な状況でも、絶対に笑顔を絶やさず、
「何とかなるわよ」
と言って、私を元気付けてくれた事である。
母は、私の前では決して泣かなかったし、私はいつも、母に守ってもらっているのを感じていた。
しかし、私が寝静まった後、毎晩のように、母がそっと涙を流していた事を、私は知っていた。
母の頬には、涙の跡が有ったが、私は何も言わなかった。
私も、靴磨きだろうと、廃品回収だろうと、出来る仕事は何でもやって、母を支えた。
その頃、終戦直後の日本には、両親を亡くした「戦災孤児」や「浮浪児」も沢山居たのだから、こうして母が生きてくれているだけで、私は充分に幸せだった。
母が仕事で家に居ない時、私は、母が歌ってくれた、あの名もなき「子守唄」を歌い、寂しさを紛らわせていた。
そして、辛い事ばかりだった私達に、遂に「歓喜の時」がやって来た。
<第6章・『再会』>
1949(昭和24)年、私が10歳の頃、日本とソ連はようやく「国交」を回復し、
少しずつ、ソ連の捕虜となっていた日本兵が「帰還」するようになっていた。
そして、この年(1949年)の秋、何と、私の父が日本に帰って来たのである。
「ただいま!!」
ある日、私達が住んでいたバラックの扉を開け、突然、父が帰って来た。
その時の母の様子は、忘れられない。
最初、母は「夢でも見ているのか…」といった、半信半疑の様子だったが、我に返ると、父に駆け寄った。
「脩さん!!」
母は、父に抱き着き、2人は暫く、固く抱き合っていた。
それまで、私の前では決して泣かなかった母が今、喜びのあまり、大泣きしていた。
「妙子、元気だったか?」
父は、私の記憶に残っていた頃より、だいぶ痩せていたが、飛びっきりの笑顔であった。
「博か?…お前、大きくなったなあ…」
父は私の姿を見ると、とても嬉しそうだった。
「うん…」
私は、懐かしさと照れ臭さと、何とも言えない気持ちで、胸がいっぱいになり、それ以上は何も言えなかった。
こうして、私達は実に6年振りに「再会」を果たした。
「…脩さん、どうしてここがわかったの?」
やがて、少し落ち着きを取り戻し、母は父にそう聞いていたが、
「なーに。野生の勘ってやつかな」
と、父は言っていた。
きっと、父はあらゆる伝手を使って、私達の居所を探し当ててくれたのであろう。
「貴方、でも敏子は…」
母は、父が出征した後に生まれた、私の妹の事を父に告げた。
妹を、泣く泣く中国人の夫婦に預けた事を知り、父は表情を曇らせたが、
「とにかく、こうやってまた会えたんだから、良かったよ…」
と、言ってくれた。
ともかく、父が帰って来た事により、ようやく、私達の家族に、本当の「戦後」がやって来たような気がした。
<第7章・『早稲田へ』>
その後、父は、学生時代の友人の伝手で、鉄工所に勤める事となり、私達家族の暮らしも、ようやく安定した。
私は、中学を出た後、定時制の高校に通い、高校を出た後は、小さな印刷工場に勤めていた。
だが、実は私は、本を読む事が好きであり、
「もっと勉強してみたい」
という気持ちを抑えられなくなっていた。
そして、私は父に、
「お父さん、僕は大学に行きたいんだ…。早稲田大学に」
と、伝えた。
私は、早稲田で「文学」を勉強したいと思っており、その気持ちを父に伝えた。
すると、父は私の言葉を聞き、ニヤリと笑った。
「…どうしたの?」
私が不思議に思い、父に聞くと、父は、
「昔、お前と同じ言葉を、俺も親父に言った事を思い出したんだよ」
と言った。
そう、私は父と同じ大学…早稲田に行きたいと思っていた。
ちなみに、大連で一時、はぐれてしまった父の両親は無事で、今は高松の本家に戻り、余生を送っていた。
「早稲田は難しいぞ…まあ、頑張れ。迷ったら、ゴーだ」
父はそう言って、私の背中を押してくれたが、その言葉を聞き、母も笑っていた。
「迷ったら、ゴー」
という言葉は、私も母も、耳にタコが出来るぐらい、聞いていたからである。
そして、私は「2浪」の末に、1960(昭和35)年、早稲田の第二文学部に入った。
その頃の早稲田には「夜学」が有り、私も働きながら、大学に通う事にした。
私は、学費の足しになるように、昼間は、ある喫茶店でアルバイトをしていた。
その喫茶店で、私は恵梨というウエイトレスの子と知り合ったが、彼女はとても本好きで、何故か、初めて逢った時から、私と恵梨は気が合っていた。
そして、私が大学に入った年…1960(昭和35)年秋に、早稲田と慶応が優勝をかけて早慶戦で6度も続けて戦った、
「早慶6連戦」
という伝説の戦いが有ったが、その時、私は恵梨を両親に引き合わせた。
「お父さん、お母さん、今度、早慶戦を見に行こうよ」
私は、両親を、その時の早慶戦に誘い、神宮球場のスタンドに「招待」した。
父は、かつて早慶戦に出場した事も有る、早稲田の選手だったが、スタンドで早慶戦を見るのは初めてだという。
また、あまり野球に興味が無かった母も、早慶戦を見に来るのは、初めてあり、超満員の早慶戦の観客席を見て、目を丸くして驚いていた。
だが、それよりも、もっと両親を驚かせたのは、
「お父さん、お母さん、僕の彼女を紹介するよ…」
と言って、恵梨を紹介した事である。
実は、彼女を両親に引き合わせようとして、あらかじめ、ここに連れて来ていたのである。
「…あんたも、隅におけないわね」
母は苦笑いしていたが、私は両親に、
「まあ、迷ったらゴーだよ」
と言うと、両親は笑っていたが、恵梨は、きょとんとしていた。
そして、私は早稲田で4年間、「文学」を勉強した後、某新聞社へと就職した。
<第8章・『季節は過ぎて』>
私は、大学卒業後、某新聞社に勤める事となったが、
それと同時に、恵梨と結婚した。
言い忘れたが、恵梨は私と「同い年」である。
そして、結婚してすぐ、長男の修久が誕生した。
私の両親にとっては、待望の「初孫」である。
勿論、両親はとても喜んでくれた。
だが、両親や私にとって、片時も忘れられなかったのは、満州で「生き別れ」になった、私の妹・敏子の事である。
戦後の中国は、「激動の時代」であった。
1966(昭和41)年、それまで政治の部隊の第一線から退いていた毛沢東が突如、権力の座への復権を狙い、「文化大革命」を引き起こして、劉少奇を追い落としたり、
1972(昭和47)年、日本の田中角栄首相が中国に渡り、「日中国交正常化」を成し遂げたりと、様々なニュースが有った。
そんな中国のニュースを見る度、私の両親は食い入るようにテレビのニュースを見ていた。
「何処かに、敏子が映っていないか…」
と、藁にもすがる思いだったに違いない。
しかし、なかなか敏子の手がかりは掴めなかった。
しかし、それから数年後、遂に私達は、敏子と奇跡の「再会」を果たした。
「ちょっと、すぐにテレビを見て!!あれ敏子じゃない!?」
1981(昭和56)年のある日、突如、私の家に母から電話がかかって来た。
その頃、戦争により、肉親と生き別れになってしまった「中国残留孤児」の帰国事業が大々的に行われていた。
「中国残留孤児」は、日本に居ると思しき肉親の行方を捜し、日本に来ていたが、
その時、テレビに映し出されていた、1人の女性が、2枚の写真を、テレビカメラに向かって、見せていた。
それは、1枚目が私の両親と、幼い頃の私が写った写真、そして、2枚目が、私の母と私、そして生まれたばかりの妹の3人で写っている写真だった。
「私を育ててくれた、中国のお父さんとお母さんから、この写真を見せてもらいました…」
その女性は、そう語っていた。
そう、間違いなく、それは敏子であった。
両親と私は、すぐに、彼女が居るという成田空港へ飛んで行った。
両親と私の顔を見るなり、その女性は、私達に抱き着いて来た。
「お父さん、お母さん、お兄さん…」
後は、言葉にならない。
私達は皆、大泣きしてしまった。
あの日、生き別れになって以来、36年の時を経て、私達4人の家族は、遂に顔を揃えたのだった。
父は、敏子に会うのは初めてだったが、遂に愛娘に会う事が出来て、感涙に咽んでいた。
「敏子…。会いたかったわ…」
母は泣き腫らした目で、そう言った。
なお、敏子は既に劉さんという中国人の男性と結婚し、2人の子供(※男の子と女の子)を生んでいた。
つまり、両親に、また2人の孫が増えたという事である。
その夜、私達は、いつまでもいつまでも、語り明かしたというのは、言うまでもない。
<終章・『旅路の果てに』>
こうして、私達4人の家族の、長い長い旅路は、ようやく終わった。
「博、お前が、家族の物語を書いてくれ」
私は父・脩にそう頼まれたが、母・妙子と、妹・敏子も、その考えに賛同していた。
こうして、私は3人が書いた「手記」と、私自身が書いた「手記」を元に、私達4人の家族が辿って来た「旅路」を、物語として綴る事となった。
「色々有ったけど、まためぐり逢えて良かったわ…」
母が、私達の気持ちを代弁し、そう言った。
どんなに長い夜でも、決して明けない夜は無い。
「またひとつ、夜が明けて…」
私は、幼い頃から母に歌ってもらった、あの子守唄を口ずさんでいた。
そして、万感の思いを込めて、家族の物語を書き上げたのであった。
(「サザンの楽曲」勝手に小説化シリーズ・妙子の物語「4部作」・完)
『JOURNEY』
作詞・作曲:桑田佳祐
唄:桑田佳祐
我れ行く在(え)に あては無く
人も岐(わか)れゆく 遥かな道
旅立つ身を送る時
帰り来る駅は なぜに見えない
大空を駆け抜けたまぼろしは
世の中を憂うように
何かを語るだろう
とうに忘れた幼き夢はどうなってもいい
あの人に守られて過ごした時代さ
遠い過去だと涙の跡がそう言っている
またひとつ夜が明けて
嗚呼 何処(いずこ)へと "Good-bye Journey"
雲行く間に 季節(とき)は過ぎ
いつか芽生えしは 生命(いのち)の影
母なる陽が沈む時
花を染めたのは雨の色かな
淋しくて口ずさむ歌がある
名も知らぬ歌だけど
希望に胸が鳴る
きっと誰かを愛した人はもう知っている
優しさに泣けるのは ふとした未来さ
今日もせつなく秋の日差しが遠のいてゆく
さよならは永遠(とわ)の旅
嗚呼 黄昏の "Good-bye Journey"
とうに忘れた幼き夢はどうなってもいい
あの人に守られて過ごした時代さ
遠い過去だと涙の跡がそう言っている
またひとつ夜が明けて
嗚呼 何処(いずこ)へと "Good-bye Journey"