皆さんこんにちは。
前回まで、文禄の役(壬辰倭乱)の激戦地、晋州城や殉国の義女官妓論介についてご紹介しましたが、晋州城の中には国立博物館もあります。韓国内でも各道毎に地域の文化財を中心にする国立博物館がありますが、晋州国立博物館はかなり異色の博物館です。晋州城の歴史的性格によるのですが、晋州国立博物館は壬辰、丁酉の両度にわたる倭乱を扱った唯一の博物館です。
この前にあるのが国立晋州博物館です。広々とした敷地にあり、ゆったりした雰囲気ですね。
博物館の敷地には慶尚南道山淸群泛鶴里三層石塔が安置されています。二重基壇に三層塔身を乗せた典型的な統一新羅時代の石塔で、上層気団には八体の甲冑姿の神将像が、塔身部には四体の菩薩像が刻まれており、端正に仕上げられています。
展示室は1階と2階に分かれ、壬辰倭乱・丁酉再乱(文禄・慶長の役)の発端から、戦争後の状況までを含めて、興味深く展示されています。
1階展示室入口です。これを通り過ぎるといよいよ常設展示です。
戦争の発端に関する展示です。日本では豊臣秀吉が1590年に小田原や奥州を平定し天下を統一します。領土欲に狂った秀吉は明(当時の中国)を従えようと、肥前名護屋に足掛かりとなる城を築きます。そして諸国の大名に明進出への足掛かりとして朝鮮出兵を命じます。
日本軍は1592年4月13日に釜山に到着し、釜山鎮城と東萊城を陥落させると、破竹の勢いで漢城(現在のソウル)へ向かい、7年間にわたる戦争がはじまったのでした。上は最初の戦い釜山鎮城の戦闘の様相を描いた「釜山鎮殉節図」(부산진순절도)です。城に周囲をアリの這い出る隙間もないくらい日本軍に囲まれている様子が窺えます。
上は釜山鎮城を陥落させた後に日本軍が襲いかかった東萊邑城の様子を描いた東萊府殉節図(동래부순절도)です。防備が手薄だったところを大軍に襲撃されます。軍民共に決死の抵抗を試みますが、ここもあえなく陥落してしまいます。
これは秀吉軍の朝鮮進出の前線基地肥前名護屋城図です。ここには出兵した諸大名の陣地があり、まるで一大都市のようですね。
戦争がはじまると、朝鮮では正規軍の兵士だけでなく各地から義兵が参加しました。義兵とは民間人で構成される兵で、身分的には両班から賎民までの幅広い層を含んでいます。義兵の活躍が目覚ましいのもこの戦争の特徴です。
義兵将権応珠(권응수)の像です。彼は永川(慶尚北道)出身で、壬辰倭乱では義兵を率い一度敵の手に落ちた永川城を奪還するなどの大きな功績を残している人物です。
そして1592年にはじまった文禄の役は途中、明軍も参戦し、平壌、晋州などで多くの軍民の犠牲を出し、翌年、停戦します。しかし朝鮮を諦めきれない秀吉は1597年に再び朝鮮に派兵します。二度目の戦争が慶長の役(丁酉再乱)です。慶長の役を象徴するのが、上の写真にある蔚山城の攻城戦です。加藤清正や浅野幸長らが2万の兵力で籠城しますが、6万もの明軍に取り囲まれます。苦戦の末撃退するのですが、1598年、秀吉の死によって日本は朝鮮水軍の活躍に阻まれながら辛くも脱出します。
しかしこの戦争が東アジアに与えた影響は大きいものがありました。朝鮮は多くの民衆が殺され、国土が荒廃し、立ち直りには時間がかかりました。朝鮮に援兵した明も一挙に国力が傾き、後金の台頭を許すことになりました。また日本も撤兵の二年後、関ヶ原合戦で西軍がやぶれ、徳川家康が江戸に幕府を作り、長年にわたる天下太平の時代を呼んだのでした。
そして戦争で使われた武器の展示室です。刀や槍、砲筒など多様な武器があります。
この戦争の記憶を後世に残そうといろいろな書籍が編纂されました。7年間の戦争を記録した書物の展示です。戦争の記憶はこういう記録類によっても引き継がれていくのでした。
(次回へ続く)