流離の翻訳者 青春のノスタルジア -49ページ目

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

確定申告を終えて一息ついた2011年3月11日(金)14時46分。東日本大震災が発生した。地震の規模はマグニチュード9.0とされ、日本観測史上最大の地震であった。

 

夕刻が近づくにつれ社内が次第に物々しくなってきた。取引先である新日鐵・釜石製鉄所(現・日本製鉄㈱釜石地区)が被害を受けているらしい。またS社は千葉県君津市にも事業所を持っておりそちらの状況も気になった。

 

その日は定時過ぎには退社し自宅でテレビにかじりついた。壮絶な津波の映像に目が釘付けになった。東北で大災害が起こっていることを改めて認識した。

 

 

震災から3日後のホワイトデーに以前勤務した会社に挨拶に伺った。途中立ち寄った洋菓子店「ALA MODE(アラモード)」にも何処かしら自粛ムードが漂っていた。

 

 

 

以前の同僚たちは快く私を受け入れてくれた。名刺を渡すと「○○さん!よく頑張ったね!」と声を掛けてくれた人もいた。ここにもう一つの故郷があった。4年余り前に心がタイムスリップしていた。

 

 

以後、2~3か月の間、娯楽系のテレビ番組は全く放送されなくなった。思い出すのはAC JAPANの以下のCMである。「あいさつの魔法」というものと金子みすゞさんの詩「こだまでしょうか」からの引用である。

 

 

 

 

なお山口県長門市仙崎の「金子みすゞ記念館」に足を運んだのは、それから暫く経った2011年6月のことである。

 

 

1か月くらい経って新日鐵・釜石製鉄所関連で新日鐵、関連会社・取引先の従業員、その家族を含めた100名余りが犠牲になったことを知った。社内で募金活動などが行われる中、2010年度が終わって2011年度が始まった。

 

 

翻訳の方は日鉄エンジニアリングからの工業・技術系の英訳、KITAからの環境や安全衛生関連の英訳をこなしながら、随時取引先企業から入ってくる契約書の和訳や英訳を処理してゆくという状況が続いていた。

 

 

そんな2011年4月、山陰路をドライブしていて不思議な祭りに遭遇した。山口県下関市豊北町の「浜出祭(はまいでさい)」というもので7年に1度行われる奇祭のようである。

 

海から吹いてくる風が冷たかったが、車を停めてぼんやりと祭りの成り行きを眺めていた。

 

2010年から2011年の年末・年始は乾燥した晴天が続いた。年末ふらっと日帰りで行ったのが大分県中津市の八面山 金色温泉だった。ここは一軒宿「こがね山荘」の温泉で、随分後にパートナーと泊りがけで行くことになった。

 

その時は八面山の頂上まで行った。山頂には「大池」と展望台があった。娘さんを連れた若い父親と少しだけ言葉を交わした。山頂からの眺めは素晴らしかった。

 

 

 

この年末・年始、ひとりドライブの途中、日頃あまり見かけない動物たちに出会った。猿とキジ(雉)である。猿の群れを見たのは田川郡香春町の国道322号線の旧道付近で、寒さからか餌を探してか人里に降りてきたのだろう。

 

キジを見たのは山口県下関市豊浦の風力発電施設の周辺だった。車を停めて風力発電設備が林立する丘陵を散策していて気がつくと逃げもせずに隣にいた。実に綺麗な鳥だった。

 

 

今にして思えば ……、この猿とキジ、まるで桃太郎の「鬼退治」である。S社への入社は2011年3月に決まっていた。何かを暗示していたのかも知れない。

 

 

2011年の年明け以降S社の行事に呼ばれることが多くなった。2月にはUさんが長期間にわたる住友金属工業㈱小倉製鉄所(現・日本製鉄㈱八幡地区(小倉))構内での通訳を終えて職場に戻ってきた。その慰労会や社内レクレーションのボーリング大会にも参加した。

 

 

2011年3月1日(火)。K社長から辞令を交付されてS社に入社した。役職はマネージャーだった。前の職場を退職してから4年4か月(52か月)ぶりに再びサラリーマンになった。年齢もこの月数と同じ52歳で妙な符合を感じていた。

 

 

2011年3月4日(金)。若松区本町の「栄寿司」で私の歓迎会が行われた。翻訳・通訳グループのメンバーたちが私の入社を祝ってくれた。この店の店員さんは絣(かすり)の作務衣を着た可愛い娘さんが多く、寿司も肴も美味かった。

 

 

 

3月上旬、確定申告のため午前中休暇をもらって税務署に申告に行った。昼から出社して一息着いたところに、突然のニュースが舞い込んできた。

2010年11月上旬。中学3年時のクラス会の幹事を行った。ペアは兵庫県西宮市在住の同級生で、小学校6年、中学の1~3年、さらに小倉西高でも同窓の女子だった。

 

小学校の時は家も近くて時々一緒に帰っていた。優しい子で恋心に近い感情を持った時期もあったが、2010年当時、彼女はご主人と別居状態にあったようである。人の人生はわからない。

 

 

彼女が遠方なので、幹事はほぼ一人でやった。一次会は見栄を張って「リーガロイヤルホテル 小倉」の洋間個室の宴席を用意した。さらに当時お世話になった英語のN先生に声をおかけした。快くご参加いただいた。

 

会場が「リーガロイヤルホテル」だと同級生に知らせると「着ていく服がない」などとのブーイングが女性陣から出たが「化粧でカバーしろ(笑)!」と返答しておいた。

 

 

一次会は、例の大手新聞社の酒乱男、Fの吊るし上げと各自の近況報告でたいそう盛り上がった。二次会は「なべげん」へ。殆どの同級生が参加した。こちらでも会話を存分に楽しんだ。英語のN先生も楽しそうにお話しされていた。当時78歳と仰っていたのでご存命なら今年90歳になられる筈である。

 

同級生たちと話しているとき、自分の心が幽体離脱して中学3年の教室に一時的にワープしているような不思議な感覚を覚えた。

 

 

2010年も暮れが迫った頃、Gさんから「私を社員として採用したい」旨、K社長に話してみると告げられた。「わかりました。よろしくお願いします。」と答えておいた。

 

 

2010年の11月から暮れにかけて、日鉄エンジニアリング㈱の他社との技術ミーティングの議事録を多数英訳した。この中で修得したのが、助動詞 shall と will の使い分けだった。

 

相手方当事者(取引先)には shall 用い、一方で自ら(日鉄エンジ)には will を用いる。これは契約条件の交渉において自らが相手方よりも優位に立っていることを反映しており、契約上の「優越的地位」(superior (or dominant) bargaining position)という。

 

因みに shall は「~しなければならない」「~するものとする」と訳し、shall not は「~してはならない」「~できない(しない)」と訳す。これを「立法のshall」(shall of legislation)という。

 

一方で will は「shallよりも柔らかい義務」を表す。同一文書内で shall とwill の両方が用いられている場合、will 側(優越的地位がある方)が 作った文書であることが殆どである。

 

 

S社のような日本製鉄㈱関連企業は、年内の最終営業日に「納会」を催すところが多い。S社の場合、当日は午前中が営業、午後15:00まで大掃除、15:00~各部門にて納会というスケジュールだった。

 

Gさんから「○○さん!納会には参加してくださいね!」と言われていたので、大吟醸の4合瓶2本を差し入れて参加した。久しぶりに男が中心の大宴会を経験した。「技術屋の会社はやっぱちょっと違うな!?」と感じた。

 

 

「納会」を終えて会社を出たのは18:00近かった。それからGEOSの仲間のYIとのカラオケが待っていた。結局明け方まで歌い続けることになった。

 

2010年秋。結構大きな英文和訳の案件が入ってきた。依頼主は日鉄エンジニアリング㈱で原稿は同社の取引先、トルコ・エルデミール社の設備の取扱説明書だった。これを自分を含む翻訳者数名で分担して和訳した。用語等を統一してチェック、最終的に編集・製品化して納品するというプロセスだった。

 

 

基本的に、日本製鉄㈱の英和・和英用語集記載の語彙を使用した。誰がどのパートを担当するかについてはGさんが翻訳者の希望・得意分野などを考慮して割り振った。私は安全衛生など法務っぽい部分を担当した。訳語のほか文体を「~である」、「~するものとする」調にするなどを取り決め和訳作業に入った。S社に詰めてから最初の大規模な協同作業だった。

 

自分の担当部分の和訳が終了してから各翻訳者の訳文のチェックに入った。それにしても訳文は各自様々だ。主要な訳語の統一だけでなく「及び」・「又」とするか「および」・「また」とするかなど細かなコントロールも必要だった。

 

 

読んでいて意味がわかりにくいところがあれば英文を見て訳し直す。大きな訳抜けがあれば翻訳者に連絡して追加で翻訳させる ……などなど手間のかかる作業だったが、製品が見え始めるとだんだん楽しくなりファイトが湧いた。「これが翻訳なんだ!」と思えるようになっていった。

 

 

チェックが終わったデータは編集者に渡す。編集者のYさんはWORD、EXCELのプロで大概の編集がこなせた。また仕上がりが実に見事だった。やはり製品の見栄えは大切である。受注から2週間ほどでどうにか製品が完成し、納期内に依頼主に納品することができた。一つの翻訳プロセスの全体を経験することができた。

 

 

そんな作業が済んだ2010年10月下旬の土曜日。山口県周南市(旧・徳山市)まで車を走らせた。その年の長い猛暑がやっと終わり始めた頃だった。

 

国道2号線から望んだ化学工場のコンビナートが10月の風に光って見えた。徳山は亡くなった叔父夫婦が昔住んでいたところで、中学校に上がる春休みに行って以来30数年ぶりだった。

 

 

新徳山駅に車を停めて近くの鄙びたアーケードを散策して昼食をとった。いかにも昭和然とした食堂「まつき食堂」で焼肉ラーメン風のものを食べた。味は悪くなかった。

 

 

 

徳山からの帰り道、ある祭りに遭遇した。車を停めて立ち寄ると「末田・堀越 秋の壺まつり」というものだった。この地域にはタコツボみたいな壺がメインの窯元があるらしい。その他様々な陶器類が展示・販売されていた。ちょっと変わったコーヒーカップを見つけて購入した。

 

 

 

国道2号線から離れて海沿いの県道に入った。景色が実に素晴らしかった。両側を海に囲まれた「周防大橋」を渡ると胸がすくむ思いがした。暫く走ると「道の駅 きららあじす」に着いた。そこで暫く休憩をとった。秋の夕暮れに黄昏れた気持ちになった。少し肌寒くなってきた。

 

 

 

「道の駅 きららあじす」を出て車を西に走らせた。辺りは夕映えから濃い宵闇に変わっていった。「埴生(はぶ)漁港」辺りを走っていたとき、20:00くらいではなかったか、突然「パアーン!ポオーン!」という音が遠くの空から聞こえてきた。

 

なんと季節外れの花火大会である。これは「お祝い夢花火」と呼ばれるもので、山陽・小野田市民祭りの前夜祭であることを後に知った。車を停めて眺めた秋風の中に上がる花火がとても綺麗だった。

 

 

 

九工大前の部屋に着いたら22:00を回っていた。それからイベントの多い一日を振り返りつつ杯を重ねることになった。

S社の翻訳・通訳部門に詰めた2010年5月中旬から工業・技術英語との戦いが始まった。当初は毎日がいわゆる「生みの苦しみ」の連続だった。日々の英訳および校閲(チェック)実務の中で工業・技術英語独特の文体や表現、また語彙を理解し吸収していった。

 

 

日本製鉄㈱は、既に昭和の頃から社内で使用される専門用語の英和・和英用語集(紙ベース)を編纂しており翻訳や通訳でそれを辞書として使用していた。さらに以下のような書籍を購入して自宅や職場で随時使用した。

 

・「和英・英和 国際環境科学用語集」(KITA環境協力センター編/日刊工業新聞社)

・「機械を説明する英語」(野澤義延著/工業調査会)

・「続・機械を説明する英語」(野澤義延著/工業調査会)

・「図面の英語」(板谷孝雄著/総研出版)

 

 

S社の翻訳・通訳部門の起源は、工業図面内の「図面注記」に英訳を併記するサービスを提供し始めた1960年代に遡る。それをベースとして技術仕様書や取扱説明書などの工業・技術翻訳へと事業を発展させてきた経緯があった。

 

「図面注記」は日本語自体も省略された簡潔な表記が多くてわかりにくい。これは図面上のスペースが限られていることも理由だが、まず日本語の意味をしっかり理解し、それをさらに簡潔な英語で表現しなければならなかった。日本語の意味がわからず設計部門のエンジニアに確認することもしばしばあった。

 

 

当初は10:00~17:00くらいまでだった作業時間も、毎日9:00~20:00近くまでになり、さらに土・日に出勤することも多くなった。収入は当然にして増えたがサン・フレアやサイマルの案件に対応できなくなってきた。

 

そんな葛藤の日々の中、梅雨が明けて2010年の記録的猛暑が始まった。朝から36℃という日々が続いていた。そんな2010年8月、ある決断をした。それは「S社の近くに転居して工業・技術の翻訳に専念しよう!」というものだった。

 

実際のところGさんは既に60代だったが後継者がいない状態にあった。S社の翻訳・通訳部門はそれなりの収益を上げており誰かが後を継がざるを得なかった。自分のためにもS社のためにも「自分がいずれはS社翻訳・通訳部門を引き継ごう!」との意思を固めた。

 

 

2010年盛夏。JR九州工大前近くのアパートに転居した。苦渋の決断だったが、今にして思えば正解だったようである。アパートの周りは学生街だったが夏休みで通りも大学の構内も閑散としていた。

 

 

S社の人材は工業高校の機械科や高専、また大学の工学部など理科系の人材が殆どで自分のキャリアは随分と異質だったように思われる。それもある意味ストレスだったが、兎も角も、当時は英語を通じて工業・技術の世界を少しでも理解しようと必死に格闘する日々が続いていた。

 

 

JR九州工大駅前の学生街には学生向けの安い食堂や居酒屋も多かった。そんな食堂や居酒屋を利用しながら、猛暑が続く中も真面目な学生たちに囲まれた生活を通じて、ストレスに満ちた心が次第に解き放たれていった。

 

2010年の2月中旬に受験したTQE「金融・経済」英訳の出題は「金融危機とジャパン・プレミアム」と題する内容で東大大学院経済学研究科の教授の論文から出題された。「法務・契約書」とは異なり原稿にトラップは見当たらなかったが、最新の経済事情や金融用語の訳語を知っておくか、または調査する能力が問われる難解なものだった。

 

金融英語の文体については、法務・契約書の「~するものとする」の shall というわけもいかず以前紹介した参考書の文体を参考としたが結局自分なりの正解を見いだすことができなかった。やはり最新の英字新聞などを読んで文体に慣れておく必要があったように思う。2010年4月に発表された結果は69点。1点に泣く結果となった。

 

 

2010年以降、S社からは(公財)北九州国際技術協力協会(KITA)の環境案件が多数入るようになった。これはKITA経由でJICA北九州にて実施される外国人研修生に対する研修テキストの英訳をS社が一手に引き受けていたからで、公害克服都市である北九州の環境対策関連の内容が多かった。

 

 

それと前後して日本製鉄㈱関連の案件でCDQと呼ばれる設備関連の論文の英訳が入ってきた。CDQ(Coke Dry Quenching)とは「コークス乾式消火設備」のことで、コークス炉から出てくる赤熱コークスを搬送に適した温度まで冷却する設備をいいその際に赤熱コークスの顕熱を回収して発電や蒸気に利用する省エネルギー設備を指す。こちらも環境に配慮した(environment-friendly)設備であり工業・技術英語も次第に深みにはまっていった。

 

 

その当時TQEに「環境」分野も追加されており「環境」科目の英訳の受験も視野に入ってきた。「法務・契約書」⇒「金融・経済」⇒「環境」という英訳専門翻訳者としての道筋が見え始めていた。

 

 

一方で、サン・フレアから2010年春、ある案件の募集があった。「京都プロジェクト」というものである。これはWikipediaに掲載されている京都に関連した語句を片っ端から英訳してゆくというもので、単価は安いが次々に案件が入りスピーディな英訳の練習のつもりで応募した。

 

京都に関連した歴史上の人物や、京都および京都周辺の寺院や施設などに関する記述の英訳を随時こなしていった。英訳の方向性が別の分野にも拡がりつつあった。

 

 

そんな2010年の5月中旬、S社のGさんからある依頼があった。「S社にオンサイトで詰めて翻訳をしてくれないか!?」というものだった。業務内容は英訳および英訳のチェックが中心、報酬は出来高ではなく時給だという。

 

確かに工業・技術英語やコーディネーションを学ぶチャンスではあるが、一方でサン・フレアの法務案件やサイマルの金融案件に対応できなくなる可能性もある。「さて!どうしたものか?」と悩んだ結果、とりあえずS社に詰めてみることにした。

 

 

これが私の翻訳者としての一つの分岐点となった。

 

S社の忘年会は市内・戸畑駅近くの居酒屋で行われた。戸畑区全体が新日鐵(現・日本製鉄㈱)の企業城下町と言っても過言ではない。

 

待合わせはJR戸畑駅改札だったが、地元の翻訳・通訳の同業者にはどんな人がいるんだろうかと少しワクワクしていた。

 

最初にGさんが現れしばらくして女性が2名現れた。Gさんから彼女たちがS社登録の英語と中国語の翻訳・通訳者だと紹介された。Gさんを駅に残して3人で会場の居酒屋に向かった。女性のうちの一人は小倉西高の後輩であることがわかった。

 

居酒屋ではS社のK社長、翻訳・通訳部門から日本製鉄㈱の通訳がメインのUさん、編集・事務担当の女性のYさん、その他、S社登録のフリーランス翻訳者の男性2名ほどが我々を待っていた。Gさんが戻ってきて宴会が始まった。

 

 

K社長はご挨拶・乾杯が終わった開口一番、私に向かって「実は僕も京大卒なんだよ!」と仰った。私は「えっ!?」と驚き「まさかこんな場所で大学の先輩にお会いするとは思ってもいませんでした!」と正直な気持ちを言葉にした。

 

K社長は京都出身で京大・工学部⇒京大・大学院修士卒で日本製鉄㈱のOBだった。日本製鉄㈱では本部長クラスまで昇進した方で米・スタンフォード大学での留学経験があった。

 

私より7~8歳年上で会話の端々に京都弁を滲ませていた。英語も得意なようで「時々遊びで自分で英訳したりもしているよ!」と楽しそうに杯を重ねていた。

 

 

さらに、翻訳者・兼コーディネーターのGさん、K社長より1~2歳上だが、彼も私と若干の縁があった。静岡県出身で東北大・経済学部卒。学部は違えども、東北大は私が現役時に受験したところである。受験した事情を話すと彼は「先輩になり損ねましたねぇ~!」と言った。

 

Gさんは新卒で日立金属㈱に入社した。最初の配属は戸畑工場(後に廃止)だったが、一年ほどで退職し、以後は長きにわたり小・中・高校生向けの学習塾を営んで生計を立ててきたらしい。その後、S社の登録翻訳者を経て社員になって既に10数年という人だった。

 

その後、彼の英文をお手本に工業・技術英語を学ぶことになるが、実に良い師匠に師事したと思ったのは随分先のことである。

 

さらにこの忘年会では、私の生涯のパートナーとなる人に出会うことになったが、この時点では想像してもいないことだった。

 

 

あの思い出深い忘年会から既に12年余りの時が経過した。西高の後輩の女性翻訳者は2014年の秋、若くして亡くなった。また通訳のUさんが亡くなったのがコロナ禍前の2019年の秋のことである。

 

たまたまネットで地元にロシア語学習のサークルがあることを知った。2009年9月のことである。暇を持て余していたわけではなかったが遊びのつもりでメールを送ってみた。

 

サークル活動は週一回、ロシア人の女性講師が2名、活動の場所は公的な施設の会議室だった。生徒は私を含めて3名だけで授業料が実に安くボランティアに近いものだった。

 

生徒にはロシア語がかなり喋れる下関在住の70代の男性と、半導体関連の企業に勤務する30代の男性がいた。

 

若い方の男性は国内ランキングに掲載されるほど強いテニスプレイヤーでマリア・シャラポワ(Мари́я Ю́рьевна Шара́пова)の熱狂的なファンだった。ロシア語を勉強する理由は、シャラポワと直接話がしたいからだと言っていた。彼がサークルのリーダー的な存在だった。

 

先生のうちの一人はオリガ(Ольга)という女性だった。色白で小柄な美人だった。歳は30代前半でご主人は日本人、小学校低学年の娘さんがいた。

 

 

ロシア語の文字はキリル文字といい、ギリシャ文字がドイツからポーランドなど東欧を経由して変化したもので、アルファベットとは似て全く非なるものだった。発音はギリシャ文字の読み方に近くて響きが美しかった。文法には非論理的なところもあったがとにかく難しかった。また単語のスペルがやたら長いのも特徴だった。

 

キリル文字にも筆記体があった。芸術的に美しく書けるようになろうと相当に練習した。当時、毎日2時間くらいをロシア語の勉強に充てていた。

 

講師の女性たちとある程度英語で意思疎通ができると思っていたが、それは大きな誤りで彼らの第一外国語はドイツ語だった。英語は全く通じず日本語の方がまだましだった。

 

 

年末には小倉の居酒屋で忘年会をするなど楽しかったが、2010年に入って講師の一人が病気で帰国することになり結局サークル自体が消滅した。5か月ほどのロシア語の不思議な世界だけが脳裏に残った。

 

 

ロシア語の学習と前後してサン・フレアから変わった案件が入った。TQE「金融・経済」の英訳の一次採点と講評で「こういうものも翻訳者に依頼するんだ!」と思った。

 

サイマルの「金融」のトライアルに合格したことはサン・フレアにも報告しており、まあそれも依頼があった理由かなと感じた。

 

 

20数名ほどの答案を拝見・採点したがWORDのフォントやポイント数など基本的なルールを守っていない受験者も見られた。まあ英訳文は「ピンからキリまで」といったところだった。それでも2名くらい合格点を付けて提出した。

 

その後、二次採点者、最終採点者を経て発表されたその回のTQE「金融・経済」には残念ながら和文英訳の合格者はいなかった。私の採点は甘かったようである。

 

なお、この案件に触発され、結局2010年2月にTQE「金融・経済」の英訳に挑戦した。その結果は、いずれ何処かで書くこととしたい。

 

 

2009年12月上旬、S社の翻訳部門の忘年会に招待された。S社の社長や翻訳部門のスタッフ、また地元の翻訳者・通訳者の方々と初めて顔を合わせた。その忘年会の席上、私の人生において貴重ないくつかの出会いを経験することになった。

 

2009年度開始早々、地場のS社からやや大きな規模の英訳が入った。ある製造業の安全衛生関係マニュアルの一式で、工業技術の知識に加えて、労働安全衛生法およびその施行令・規則などの知識も必要な難解なものだった。ネットで調査しながらの英訳、また訳文のEXCELへの入力も面倒だったが、1か月近くかけて何とか仕上げた。

 

 

その一方で2009年の春過ぎから、同じくS社から契約書の英文和訳のチェックの依頼が入るようになった。「誤訳・訳抜けなどをチェックして契約書らしい日本語にしてほしい」との依頼だった。一時翻訳者は地元の年配の女性で昔は東京・丸の内でBG(笑)(今でいうOL)だったそうで、確かに訳文が古臭く不自然なところがあった。

 

例えば「それぞれ」と訳すべきところが「夫々」(笑)と表記されていた。これではまるで漢文の書き下し文である。ただこの人、パソコンが使えずワープロユーザーだったが、恐ろしく翻訳速度の速い人だった。確かに一次翻訳はある程度のスピードが要求された。

 

フロッピーディスクに格納されたデータを、PCに読み込ませWORDにコピーしてチェックするのだが、これがなかなか面白い。古臭い訳語などは一括変換できるのでさほど負荷は掛からなかった。訳文がどんどん契約書らしくなっていった。

 

チェック後の訳文の顧客からの評価も高かったようで、これ以降、契約書の和訳チェックは必ず私に来るようになった。

 

 

さらにS社からは工業・技術関連の大規模な英文和訳(一次翻訳)も入るようになった。和訳はトライアルを受けたわけではなかったが、先方からの依頼を断るわけにもいかなかった。工業製品・設備の仕様書や取扱説明書が中心である。中には数百ページにわたる英文もあった。

 

このような大規模な翻訳では、数名の翻訳者で分担して訳すのが普通である。但しその場合、主要な語彙の訳語の統一を図る必要があった。S社にはベテランの工業・技術系翻訳者・兼コーディネーターのGさんという人がいて、その人がこのような訳語のテーブルを作成して翻訳者に配布していた。

 

地元に同業者がいることやこんな協同作業があることが、日頃感じていたフリーランス翻訳者としての不安定な心境に「自分は一人じゃない!」のような微かな安心感を与えていた。

 

 

そんな英文和訳や協同作業を通じて少しずつ翻訳コーディネーターの仕事に興味を持ち始めた。さらに、何時の日か「S社の下で地元の翻訳者を束ねて大きな製品を作ってみたい!」のような気持ちを持つようになっていった。

 

なお、このS社の翻訳者・兼コーディネーターのGさんの下で、私が一から工業・技術系の翻訳やコーディネーションの実務を学び始めるのは、それから1年ほど先の2010年5月半ばのことになる。

 

 

2009年春の選抜高校野球大会(センバツ)では、長崎の清峰高校が長崎県勢として春夏通じて初めて全国制覇を果たし紫紺の大優勝旗が関門海峡を渡った。

 

センバツの大会歌、谷村新司さんの「今ありて」が歌われるようになったのは前年2008年の春からである。その歌詞の中に以下の文面がある。

 

 

「♪~ 新しい季節(とき)のはじめに 新しい人が集いて

頬そめる胸のたかぶり 声高な夢の語らい

ああ甲子園 草の芽 萌え立ち 駆け巡る風は 青春の息吹か

今ありて 未来も扉を開く 今ありて 時代も連なり始める ~♪」

 

 

少しだけそんな気持ちになった2009年の春が過ぎていった。

 

2008年11月下旬から2009年の年越しに掛けて、翻訳者として最初の繁忙期を迎えた。いわゆる「翻訳冬の陣」である。3社から入ってくる仕事の納期をコントロールしながらこなしていかなければならなかった。

 

長時間椅子に座る翻訳者にとって目・肩・腰の疲れは恒常的なものであった。コルセットを付けて作業するのが普通で、必要に応じて整骨院や温泉施設で疲れを癒していた。

 

 

サイマルからは金融のほか財務諸表関連の英訳も入るようになり、会計英語取得のため以下の書籍を読んだが、IBMの財務諸表を前提としたケース・スタディ的なもので基礎知識の修得にはあまり使えなかったように思う。

 

・「英文会計の基礎知識」(西山茂著/ジャパンタイムズ)

 

納期に追われつつその合間に金融や会計英語などの勉強を続けながら「翻訳冬の陣」が過ぎ去り年度も替わりイベントが少ない日々が続いていった。

 

 

ここで少し、私が生まれ育った町、すなわち小学校や中学校の校区に目を転じてみたい。

 

私が生まれ育ったのはJR南小倉駅が最寄りのKという町で、昭和の頃は子供も多く賑やかな町だった。ただ町の開発時期がモータリゼーションより前だったため、道幅が狭く平成に入った頃から大型店などが進出できず市街地化が立ち遅れていた。

 

その後、数少ないスーパーなどの店舗も閉店し不便で老人ばかりが住む「化石の町」となっていた。

 

 

私の生家には母方の伯父夫婦が住んでいた。夫婦には子供が居なかったため私や弟を小さい頃からよく可愛がってくれた。伯父の話はいつも脚色がなく面白かった。伯父は地場の電力会社に定年まで勤務した。電柱を建てるための土地の買収などを担当した時期もあった。

 

ある時、土地買収のために地主である農家の兄弟を接待した。彼らは当初「私ら酒はあんまり飲みきりまっせんけっ!」などと接待を断ったが、それでも伯父は「まあそう言わんと!」と店を予約した。

 

接待の当日、伯父は緊急な会議が入り1時間ほど遅れて宴会場に参上した。するとその農家の兄弟は …… 「何があんた!『酒はあんまり飲みきりまっせん?』どころか、完全にでき上がって二人で裸踊りをしとった!」状態だったという。

 

そんな、私と弟が大人になっても大笑いできるような話をしてくれた伯父だった。

 

 

伯母は早くに亡くなり、独り暮らしの伯父が倒れて施設に入ったのは私が翻訳者になって直ぐのことだった。生家は空き家状態となったが懐かしさから時々近くを車で通った。町は凋落する一方だった。

 

それが昨今やっとバイパスが通ることになり、2010年くらいにその一部が開通した。少しだけ町に血液が流れだしたように感じた。

 

 

近くの山頂に立つ観音像が私や私の家族、また優しかった伯父夫婦をずっと見守ってきた「化石の町」。その伯父が亡くなってもう5年余りとなる。