以前、市内のある廃棄物処理業者、N社からホームページの英訳の依頼を受けたことがあった。
ホームページのコンテンツには廃棄物処理(廃品回収)の起源・歴史に触れた学術的な部分もあり楽しみながら一次翻訳ができた記憶が残っている
その後、市内にコストコ(COSTCO)が進出することに関連して、その廃棄物処理の全般を請け負わんとしてN社から通訳者を立てて欲しい旨の依頼もあった。その時は通訳者を東京に派遣したが残念ながらN社の受注は獲得できなかった。
通訳者の派遣にあたって、通訳者を同伴してN社に赴きミーティングを行ったときN社の社長と少し話をすることができた。当時、同社は東南アジアの各国での破棄物処理も企画しており、コストコの受注についても社運を賭けている様子が社長の言葉から窺われた。
私の先入観とは明らかに異なり、廃棄物処理業はリサイクルを中心とした国際的なビジネスとなっていた。その時の社長の言葉で記憶に残っているのが「くず屋にはくず屋のプライドがある」というものだった。苦労されたであろう昔が偲ばれた。
私の幼い頃は廃棄物処理業者(廃品回収業者)のことを「バタ屋」と呼んでいた。何となく差別的な響きがあった。
少し歴史を紐解くと、江戸初期の浮世草子作者・俳人、井原西鶴の「好色一代女」や江戸中期の国学者、山岡浚明(やまおか・まつあけ)の「類聚名物考」に関東地域に紙屑拾いが存在したことが記述されており、既に江戸時代の日本にいわゆるリサイクル・システムの基礎が構築されていたようだった。
それが近代になって「くず屋」は手車やリヤカーを引いて廃品や不用品を買い集めるようになり、紙屑拾いは「バタ屋」と呼ばれるようになった。1970年代には「バタ屋」は廃品回収業と呼ばれるようになり、拡声器を備えたトラックで町や村を巡回して古新聞や古雑誌を回収して「チリ紙交換」していたことは私の記憶にも残っている。
それから2~3年経ってN社からの案件が途絶えたので、営業方々同社の様子を見に行った。あいにく社長は出張中で国際業務担当の女性と面談することができたが、その訪問は実に印象的なものとなった。
本社事務所は改築されていたが、玄関を入ってまず感じたのが微かな香水の香が漂っていたことだった。玄関ロビーにはお洒落な調度品が配備されていた。受付の女性もきちんとした服装を身に着けており社長秘書のような雰囲気があった。
「これが廃棄物処理業者の事務所!?」と思わせるような演出だった。セールストークを行いながら「もしかして、これがくず屋のプライド!?」と社長が言った言葉を思い出していた。
残念ながら、その後社長が代替わりして我々が英訳したホームページは跡形も無くなってしまったが、今も市内を走る同社の廃棄物回収のトラックを見かけると当時のことが思い起こされる。