流離の翻訳者 日日是好日 -48ページ目

流離の翻訳者 日日是好日

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

当時のS社社長の紹介で新日鐵関連のE社の知財部門から特許関連文書(「権利要求書」)の中文和訳(簡体字⇒日本語訳)の案件が入ったのは2013年5月のことだった。

 

以前から地元の製造業から時々特許関連案件が入っていたようだが、私がS社に入社して以降は本件が初めてだった。

 

 

特許権など知的財産権関連の文書は、和訳であろうが英訳であろうが、独特な文体が使われており素人には理解しづらいものである。この知財分野に進出するためには、英語を理解するよりは「まず知的財産権について日本語で法的に理解すること」が必要だと以前から私は考えていた。

 

 

翻訳・通訳部門の売上がピークを迎えた2016年3月から一息ついた2016年5月、部門の将来のためにもこの知財分野の勉強をやろうと決意した。そして巷に「知的財産管理技能検定」という資格試験があることを知った。

 

試験のスケジュールを確認すると、直近で2016年7月に3級、2016年11月に2級が受験できることがわかった。「これしかない!」と確信した。

 

以来、毎日会社に居残って18:00以降1時間程度、帰宅してからも2時間程度は眠い目をこすりながら知財の勉強を頑張って続けた。

 

知的財産権は私の専門である法務と実務で経験している工業技術が触れ合う領域であり取っ付き易いかと思われたが、然に非ず、思いのほか歯ごたえがある分野だった。参考書の内容がすんなり頭に入るようになるまで1か月くらいかかった。

 

とは言いながら、勉強の甲斐あって2016年7月に3級に合格、また11月に2級に合格した。得点率は3級が90%(合格基準は70%以上)、2級が94%(合格基準は80%以上)だった。

 

特に、派遣詐欺により精神的に傷ついた心を抱えた8月以降、知財の勉強に専念することにより加害者に対する毒気を昇華させていくように努めた。2級の得点率が3級より高かったのはそんな努力の結果かも知れない。

 

会社の総務に相談し名刺に「2級知的財産管理技能士」の肩書きを追加してもらった。これで自信を持って知財関連の営業ができると同時に自分にもプレッシャーをかけた。

 

 

NOVAで英会話を学んだ頃の知り合いに弁理士をされているNさんという方がいた。2級に合格したら営業方々事務所を訪ねてみようと考えていた。

 

果たして2016年12月、Nさんの国際特許事務所を訪問し、旧交を温めるとともに貴重な営業情報を得ることができた。

 

 

そんな充実した気持ちの中で2016年が暮れて2017年が穏やかに始まった。2017年のブログの書初めには「荀子」宥坐編から「何のために学ぶのか?」について以下の記事を掲載している。

 

敢えて「荀子」を選択しているのは自分の考えが性悪説に傾き始めていたことを示しているのかも知れない。

 

https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-12234265784.html

 

 

今はちょうどこんな季節だ。台風が過ぎるまで今年の夏は終わらない。

 

「あかあかと日はつれなくも秋の風」 松尾芭蕉

 

(現代語訳)

秋の風が吹き始めていることを知ってか知らずか残暑の夕日が赤々と燃えている。

 

この句ついて幾つかの英訳が見つかった。

 

(英訳)

1) Glowing red

    Merciless the sun yet

    A wind in the autumn

 

2) Reddy, reddy the sun shines heartlessly.

    But the wind is autumnal.

 

3) Red, red is the sun.

    Relentless, still

    The autumn wind

 

4) Red and bright

    The pitiless sun

    And yet the autumn wind

 

 

 

通訳者の派遣にはリスクが伴う。2016年そんな2つのリスクケースを体験した。

 

(ケース1)

2016年3月。下関市のK社から派遣中の通訳者についてある連絡があった。「通訳者のMBさんを正社員として採用したい ……」と。彼女がやり手なことはわかっていた。K社の判断もまあ当然のことだった。

 

結局、彼女の年齢や資質、また本人の希望等について面談し「ここでK社の正社員になっておいた方が彼女にとってベター」と判断して彼女の背中を押した。

 

S社⇔K社間の契約は紹介予定派遣ではなく一般派遣であるため基本的に手数料(紹介料)は請求できない。今思えば、利益を削って派遣単価を下げ少しでも派遣契約を継続させるなどの手があったかもしれない。

 

結論的に言えば、派遣契約には貴重な人材を社外に流出させるリスクがあるということである。

 

 

 

(ケース2)

2016年夏。新日鐵関連のE社から米国アラバマ州C社への2回目の通訳者派遣の案件が入ってきた。今回は季節が悪い。現地は毎日35℃を超える猛暑だという。高齢のUさんの再度派遣は難しかった。

 

適当な男性通訳者の手持ちが無くネットで募集をかけることにした。茨城県のT市の60代前半の男性Aから応募があった。

 

歳は食っていたがAの「職務経歴書」によればそれなりの工業系通訳の経験を有しているように思われた。とりあえず「一般ビジネス」および「工業技術」の和訳・英訳のトライアルを実施して翻訳能力をチェックした。60%程度の出来だったが技術会議の議事録等の作成は可能と判断した。

 

さらに通訳者のUさんを茨城県のT市に赴かせ直接Aと面談させた。通訳能力をチェックする必要があった。Uさんの判断は「まあ大丈夫だろう」というものだった。

 

これらの結果を受けてAを契約社員としてS社で雇用しE社に派遣する手続きを進めた。2016年7月にAの採用面接をS社の本社で実施し8月上旬にAを渡米させた。

 

私が受けたAの印象は「人が好い田舎者」といったもので決して悪い印象はなかったが ……、この男渡米後に豹変した。

 

E社のプロマネから国際電話で連絡(クレーム)が入ったのはAが渡米して間もなくの日本の盆休み前のことだった。クレームの内容は、①Aに全く通訳の能力(やる気)が無いこと、また②Aに工場構内の通訳に耐えうる身体的能力(体力)が無いこと、だった。

 

①ついては、逐次通訳の際にAは「全然わかんねぇ!」などと平気で口走るらしい。プロの通訳者たる意識が無い、と言うか全然真面目にやっていない。②については現場が35℃を超える猛暑で建屋が3階建でエレベーターも無いなど過酷であることは事前にAに説明済みだったが、年齢的に厳しかったのかも知れない。

 

プロマネが言うには「Aが作業中脚を引きずるような仕草をするため労災でも起きやしないかと心配でならずとりあえずホテルで待機してもらうことにした」とのことだった。これも演技(仮病)かも知れないが日本から連絡してもAに繋がらず問い質すこともできなかった。

 

とにかくAを一刻も早く帰国させて雇用契約を解除しようと思ったが、雇用契約は簡単に解除できない。少なくとも30日前の解雇予告(または解雇予告手当)が必要となる。

 

今回のように労働者(派遣通訳者)側に悪意がある場合、実に面倒な交渉や結果的に無駄なコスト(損失)が生じることとなった。このときは自社の総務グループリーダーが対面で対応してくれた。男気のある人だったが大変な負荷をお掛けしてしまった。

 

私のAに対する調査不足が今回のトラブルの原因であることは明らかだった。後に判ったことだが、Aはある派遣詐欺グループのメンバーだったようである。

 

このとき、派遣契約・雇用契約は安易に締結してはならないこと、また赤の他人を簡単に信用してはならないことを肝に銘じた。

 

 

 

2016年の夏は休暇を取って旅行に行くこともなく後悔の念の中で虚しく過ぎていった。その一方で、私はこのトラブルが生じる前から将来に備えてある分野の勉強を密かに進めていた。

 

こちらでは今日も気温が33℃を超えた。平年より5℃ほど高いらしい。しつこい残暑が続いている。

 

 

一昨日の「中秋の名月」は生憎の曇天でこちらでは拝むことができなかったが、今日やっと夜空が晴れた。今日の月は「立待月」(たちまちづき)と呼ばれる。

 

以下は「中秋の名月(中秋月)」を詠んだ「蘇軾(蘇東坡)」(1036-1101)の漢詩である。ブログ開設当初の2011年9月の記事でも紹介している。光陰矢の如しである。

 

 

「中秋月」                     蘇軾

 

暮雲収盡溢清寒               暮雲(ぼうん)収まり尽きて 清寒(せいかん)溢(あふ)る

銀漢無聲轉玉盤               銀漢(ぎんかん)声無く 玉盤(ぎょくばん)を転ず

此生此夜不長好               此の生(せい)此の夜 長(とこしなへ)に好(よ)からず

明月明年何處看               明月(めいげつ)明年 何れ(いずれ)の処にか看(み)ん

 

(現代語訳)

日暮に雲は消え去り爽やかな涼気が溢れている。

音も無く流れる銀河(天の川)に宝石で作られた皿のような明月が現れた。

これほどに素晴らしい人生、素晴らしい夜だが、それが永遠に続くことはない。

来年はこの月を、果たして何処で眺めていることだろう。

 

 

今が素晴らしい人生などとは決して思ってないが「まあまあの人生かな?」と昨今やっと思えるようになった。そこが11年前と大きく異なるところだ。今後も緩やかに穏やかに楽しく人生を送ってゆきたい。

 

 

毎年この時期になると「夏の思い出」を振りかえる。コロナ禍での三度目の夏。大した思い出も作れなかったが、自分の街にこんなに素晴らしい夜景があったことを初めて知った夏となった。

 

また杏里の「夏の月」はパートナーと付き合い始めた頃よく聴いた曲である。儚くも美しいメロディが哀しい。

 

 

「永遠の美少女」と聞いて思い浮かべる往年のアイドルや女優は人それぞれだろう。私の場合、自分と同じ年の岡田奈々さん。彼女こそ私にとっての永遠の美少女である。彼女の映像に同年齢の自分への思いを馳せる。

 

 

 

 

 

閑話休題 ……。新日鐵関連のE社から環境関連の納期も近づいた2016年2月下旬、同社別部門から今度は海外(米国)への通訳者の中期派遣(2か月程度)の案件が入ってきた。

 

E社はSV(スーパーバイザー)と取引先である米国企業C社に派遣し、通訳者はC社工場構内でE社の設備の据付や試運転についてSVとC社米国人労働者の間のコミュニケーションをサポートする。

 

年齢や体力が懸念されたが、本案件について私は技術通訳に豊富な経験を持つUさん(S社OB)をアサインした。季節的に熱中症などの心配も無かった。工場は米国アラバマ州のMという港町にあった。

 

 

 

環境の大型翻訳案件のチェック・納入を進めながら、海外への通訳者派遣の段取りをこなしてゆくのは相当な負荷があったが、他人に任せられる仕事でもなく頑張るしかなかった。

 

環境の大型翻訳案件はどうにか顧客の指示通りに2016年3月中旬に納入を終え、またUさんも3月下旬に無事渡米した。

 

 

①2015年10月からの下関市のK社への通訳者の長期派遣、②E社からの環境関連設備に関する大型翻訳案件、③同じくE社からの米国C社への通訳者の中期派遣などの案件を受けて、2015年4月~2016年3月期の翻訳・通訳部門の売上・収益は過去最高を記録した。

 

S社では毎年3月に業績賞与(インセンティブ)が支給されるが、予想以上の報酬を得ることができた。

 

 

 

翻訳・通訳部門の行く末は順風満帆に思われた。また、翻訳・通訳のコーディネートや営業についても自分なりに自信を持ち始めていた。

 

 

ただこのひと時こそが翻訳・通訳部門の最盛期(zenith)だったことを後々知ることになった。

 

2015年12月下旬、新日鐵関連のE社から環境関連の英訳案件について連絡が入った。

 

内容は環境関連設備の取扱説明書、運転方案書、検討書、計算書などでファイル数約70、原稿の日本語文字数約100万文字、ページ数はA4サイズで約1,000ページあった。但し納期は2016年3月中旬という。

 

「果たして引き受けるべきか ……?」と思案した。一案件でこれほどの規模のものは経験が無かった。また納期も相当厳しい。ただ売上高は単独で確実に1,000万は超える。結局「やるしかないか!」と引き受けた。

 

 

 

2015年12月末までに第一期の原稿群が入ってきた。原稿の内容を確認して数名の翻訳者をアサインした。近郊の翻訳者には来社してもらい直接原稿を見てもらった。英訳対応の可否を確認のうえ翻訳したい原稿を選択してもらった。

 

年内最終営業日は、通常昼から大掃除、午後3時から納会というスケジュールとなっていたが翻訳・通訳部門は大掃除の時間が無く納会のみ参加し、物々しい雰囲気まま年末・年始の休暇へと突入していった。

 

 

2016年は大型案件の緊張感の中で明けた。2016年の冬は一般的には暖冬と言われているが、ここ北九州では1月下旬から厳寒となった。一日の最高気温が零下という異常な低温が続いた。

 

 

 

私は訳語の標準化、英訳のチェック、編集後の最終チェックと全体の進捗管理を担当したが、原稿量に対する納期の厳しさを日々感じつつ完成品の納入を随時進めていった。

 

 

2016年1月下旬、巷ではインフルエンザが流行り始めていた。インフルエンザには30代の前半に罹ったのが最後で「俺が罹るわけがないっ!」と高を括っていた。

 

……が、過労が祟ったのか2月初旬インフルエンザに罹患した。4日間ほど病休を取ることになった。進捗状況がだんだん厳しくなっていった。

 

設計部門と合わせて100名以下の職場だったが、社長を含めて20名以上がその年インフルエンザに罹患した。翌年以降、会社はインフルエンザ・ワクチン接種費用を会社負担することとし、私も翌年以降は必ずインフルエンザ・ワクチンを接種している。

 

 

 

インフルエンザの影響はあったものの本案件は納期までに何とか全ての原稿の英訳を納品することができた。ただ、一部品質のキープが難しいところもあった。

 

 

やはり品質と納期を両立させることは難しいということを改めて思い知らされた案件となった。

 

以前のJR折尾駅は実にわかりにくい構造だった。

 

JR鹿児島本線、福博ゆたか線、筑豊線、若松線のジャンクションになっており、乗り換えのために一旦駅改札を抜けて再度駅構内に入らなければならないケースもあった。

 

折尾駅の鹿児島線下りホームに以前は「東筑軒」があり名物の「かしわうどん」を何度か食べたことがあった。

 

 

 

 

この折尾駅の近くに門司港レトロに次ぐ北九州のもう一つのレトロ地区がある。折尾堀川沿いの飲み屋街だ。昭和のノスタルジックな風情が漂っている。

 

ベテラン翻訳者のKTさんに誘われて堀川沿いに行くようになったのは2015年の秋頃からだった。角打ち、居酒屋、そば屋、ラーメン屋、餃子専門店などいずれも安くて美味い。

 

但し居酒屋のママさん等の平均年齢は70歳に近い。こんな店を別名「おばけ屋敷」という。

 

居酒屋に入ると何故か英語圏の外国人が多いのも不思議な話だ。店内で英語が飛び交っていたりする。結構飲んで食って1,500円くらいの店もある。果たして採算は取れているのか?

 

 

歴史を紐解くと、堀川沿いの飲食店街は筑豊の炭鉱の隆盛ともに発展したそうで、最盛期は昭和30から40年代。当時は40軒ほどの店があったらしい。

 

折尾駅周辺の再開発に伴い飲食店街を含む区画は閉店や移転されることになったが、昨今の状況は知らない。「門司港は残されて何故堀川沿いは撤去なのか!?」と長年愛されたノスタルジックな街並みを残したいと願う声も多い。

 

 

 

 

2015年12月、そんな堀川沿いで翻訳者有志による忘年会を挙行した。一次会はKTさんお勧めの堀川にしては綺麗な店だった。二次会はカラオケ・スナック「てんとう虫」(果たして今もあるのだろうか?)

 

忘年会のときでは無かったが、俳句を嗜むKTさんが「てんとう虫」前の路上で夕空を眺めながら以下の句を詠んだ。

 

「飛び立ちて空色になるてんとう虫」

 

 

 

そんな穏やかな2015年の暮れだったが実は「嵐の前の静けさ」だった。その後年末にかけて新日鐵関連の顧客から環境関連の超大型案件が入ってくることは、このとき知る由も無かった。

昨晩少し(?)古い日本映画を観た。

 

映像はセピア色のモノクロでスタートする。「シンドラーのリスト」(1993年)でもそんな演出があったが、この映画はそれよりも古い。

 

場面は高校一年の春休みのスキー合宿。その帰りの列車の中のやり取り。その辺りから遠い山脈の青、近くの山の緑、菜の花の黄色、電車の赤が着色されて映像がカラーになってゆく。

 

 

「三部作」を英語で trilogy という。英英辞典の定義は以下の通り。

 

Trilogy:

A trilogy is a series of three books, plays, or films that have the same subject or the same characters.

 

「同じテーマまたは同じ登場人物による三部構成の物語、演劇または映画」

 

 

大林宣彦(1938~2020)監督の作品に「尾道三部作」と呼ばれるものがある。すべて尾道を舞台にした青春映画だ。昨日観たのは「時をかける少女」(1983年)である。

 

因みに残りの二つは「転校生」(1982年)と「さびしんぼう」(1985年)。

 

 

主演の原田知世さんは当時15歳。前歯の可愛い高校生。この映画では高校2年の1学期がメインの舞台となっているが、高校内での様々なシーンに自分の高校時代を彷彿とさせられる。

 

男子高校生の制服が地元の名門小倉高校の制服に似ていることもそんな気持ちになる理由かも知れない。

 

 

 

「時をかける少女」はその後も映画、テレビ番組、アニメなどでリメイクされているがオリジナル以外は知らない。

 

主題歌は松任谷由実作詞・作曲の「時をかける少女」でアルバム「VOYAGER」に収録。なお「時をかける少女」と全く同じ歌詞で違うメロディの「時のカンツォーネ」はリメイク版の主題歌でアルバム「スユアの波」(1997年)に収録されている。

 

 

尾道から呉への旅行を計画したのは2016年の夏だったが、仕事上の理由で実現できなかった。コロナ禍が治まったら「時をかける少女」の故郷への旅をもう一度計画してみたい。

 

 

 

 

時期は少し遡る ……。

 

2010年は異常な猛暑で9月の彼岸を過ぎても真夏並みの暑さが続いていた。

 

「小石原焼」は「道の駅 小石原」を中心に多くの窯元が林立している。ここをゆっくりと訪ねたのは、そんな2010年の秋の彼岸の「民陶祭」のときだった。

 

小倉から国道322号線を香春町まで行き右折して国道201号線に入る。暫く201号線を走って今度は左折して国道211号線沿いに遠賀川を南に遡ってゆく。211号線は嘉麻市を通って東峰村に入る。

 

道沿いには次第に山間の風景が拡がってきた。所々に赤い彼岸花(曼珠沙華=マンジュシャカ)の群生が見られた。

 

 

 

「道の駅 小石原」に車を停め、まずは施設内で展示・販売されている色々な窯元の焼き物を見てまわった。

 

 

 

 

それから道の駅周辺の窯元を幾つか訪ね歩いた。暑い彼岸でも結構な人出だった。ある窯元で紅茶(べにちゃ)色の調味料入れと匙を見つけて購入した。これはお気に入りで今も塩壺として使っている。

 

 

いつも思うが焼き物を見ていて飽きることは無く、時間の経つのすら忘れてしまう。

 

 

それ以来、東峰村を通ることが多くなり道の駅や窯元に何度となく立ち寄ることになった。最近はパートナーと訪ねることも多くなったが、道の駅から少し南に走ったところに高取焼の「鶴見窯元」がある。その窯元のモダンなデザインがユニークで一輪挿しなどを購入した。

 

 

 

2010年秋の小石原焼から窯元巡りにはまって行った。以来、近場の窯元「小鹿田(おんた)焼」(大分県)、「上野(あがの)焼」(福岡県)、「萩焼」(山口県)、「有田焼」(佐賀県)、「波佐見焼」(長崎県)などを順次巡ることになった。

高千穂・宮崎への旅の少し前、5年ほど暮らした九州工大前を離れて八幡東区のCという地区に移り住んだ。あまりに職住接近だったこともあり、また工場の近くは想像以上に空気が汚かったことも理由である。

 

C地区には以前登録翻訳者の方が住んでおり何度か原稿を届けに行った。大きな公園があり澄んだ小川が流れ、またスーパーや市場も近くにあり便利な場所だった。引っ越すならこの辺りかと以前から目を付けていた場所だった。

 

引っ越しは2015年7月下旬の暑い日だったが、当日の夜は近くで夏祭りが開催されていた。

 

その時の心境を以下の記事に書き残している。一体何と戦っていたのだろうか …… ? 

 

https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-12057245692.html

 

 

 

 

鵜戸神宮の「運玉投げ」のご利益について少し書いてみたい。

 

下関市の土木・建設会社K社からネットを通じて翻訳の問合せがあったのは2015年の春先のことだった。同社はシンガポール港の大型岸壁築造工事を受注しており、翻訳対象の原稿はそれに伴う浚渫作業のための揚土搬出装置などの取説類の英訳だった。

 

「技術系の英訳はできますか?」という問い合わせに対し、いつも通り「弊社は新日鐵の系列で工業・技術系の翻訳は得意としており本件ならば新日鐵OBのベテランの翻訳者が担当させていただきます」と私は答え、受注・納品を済ませていた。

 

 

 

 

 

高千穂・宮崎への旅から戻って暫く経った2015年9月、K社から今度は通訳者の中長期派遣について問合せがあった。

 

当初は「通訳の場所はシンガポール港内で男性通訳者を希望」という要件だった。船上での作業もあることが男性希望の理由だったが「海外長期派遣が可能な男性で船上での作業を考えれば年齢も若い方がいいだろうなぁ~」などと考えるとなかなか人材が居なかった。

 

これが途中で先方の要件が変わってきた。「通訳の場所は下関の本社事務所内で性別も男女どちらでも可」と変更になった。「これなら対応できる!」と勝算を得た。

 

 

私は、新日鐵構内で技術系の通訳の実績があるベテランの女性通訳者、MBさんに白羽の矢を立てた。また、彼女は下関本社への通勤にも便利な場所に住んでいた。

 

 

9月下旬、彼女をK社の下関本社に連れてゆき業務内容の説明を受け、派遣単価の交渉や当社と彼女との間の雇用契約、また当社とK社間の労働者派遣契約の準備などバタバタと必要な手続きを進めていった。

 

かくして、当社とK社間にめでたく派遣契約が締結され、2015年10月から2016年3月末までの中長期の通訳者派遣ビジネスが成就した。

 

 

 

これがまさに鵜戸神宮の「運玉投げ」のご利益だった。

「晩夏光」とは「夏の終わりの頃の衰えぬ暑光」をいう。そんな晩夏光を探して高千穂・宮崎へと一人旅をしたのは2015年8月後半のことだった。宮崎県に入るのは実に30数年ぶりだった。

 

 

往路は東九州道を大分で降りて一般道に入り豊後大野市、竹田市通って宮崎県に入った。天気は快晴。幾つかの道の駅などに立ち寄りながら天孫降臨の地、高千穂に着いたのは午後2時くらいだった。

 

 

まずは高千穂峡へ。清流に暑さを忘れることができたひと時だった。高千穂峡を後に天岩戸神社へ。駐車場から神社まで歩いたが物凄い暑さだった。

 

高千穂峡へ戻り高千穂神社へ。パワースポット巡りの旅が続いた。高千穂を後に国道218号線沿いに延岡に向かった。日之影町を通って長い下り坂の道を走って延岡に入った。

 

 

 

 

 

 

延岡市内のホテルにチェックインしたのが午後6時くらいだった。延岡の町を散策してから食事をとった。五ヶ瀬川の橋上から見えた夕映えがとても綺麗だった。

 

 

 

翌日は延岡から国道10号線を走り国道220号線に入って海岸線沿いをひたすら南下した。青い空と青い海。南国の太陽は眩しかった。日向市、宮崎市を過ぎて青島で停車し暫く休憩をとった。

 

その後、日南市に入り鵜戸神宮に参拝した。此処は幼い頃に父母に連れられて来た記憶があった。実に風光明媚なスポットである。運玉投げに挑戦。3球目にして窪みに入った。

 

運玉が窪みに入ると願い事が叶うそうだが、実際に仕事の面でのご利益があったのは翌月のことだった。

 

 

 

 

鵜戸神宮を後に、さらに海岸線を南下して国道448号線に入り日南海岸沿いに走った。南国気分が高まってきた。都井岬を目指したが残念ながら道が工事中で途中通行止め。仕方なくその日宿泊予定の宮崎市へと引き返した。

 

 

 

宮崎市内のホテルにチェックインして繁華街、橘通りを散策した。街は夏祭りのような賑わいだった。地鶏など地元の名物を堪能した。

 

 

 

一人旅をしていると時折道に迷う。そんなときは直ぐに近くの人に尋ねた。宮崎の人は皆優しかった。そんな人の親切がとてもありがたく感じられた旅となった。