流離の翻訳者 青春のノスタルジア -47ページ目

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

昨晩少し(?)古い日本映画を観た。

 

映像はセピア色のモノクロでスタートする。「シンドラーのリスト」(1993年)でもそんな演出があったが、この映画はそれよりも古い。

 

場面は高校一年の春休みのスキー合宿。その帰りの列車の中のやり取り。その辺りから遠い山脈の青、近くの山の緑、菜の花の黄色、電車の赤が着色されて映像がカラーになってゆく。

 

 

「三部作」を英語で trilogy という。英英辞典の定義は以下の通り。

 

Trilogy:

A trilogy is a series of three books, plays, or films that have the same subject or the same characters.

 

「同じテーマまたは同じ登場人物による三部構成の物語、演劇または映画」

 

 

大林宣彦(1938~2020)監督の作品に「尾道三部作」と呼ばれるものがある。すべて尾道を舞台にした青春映画だ。昨日観たのは「時をかける少女」(1983年)である。

 

因みに残りの二つは「転校生」(1982年)と「さびしんぼう」(1985年)。

 

 

主演の原田知世さんは当時15歳。前歯の可愛い高校生。この映画では高校2年の1学期がメインの舞台となっているが、高校内での様々なシーンに自分の高校時代を彷彿とさせられる。

 

男子高校生の制服が地元の名門小倉高校の制服に似ていることもそんな気持ちになる理由かも知れない。

 

 

 

「時をかける少女」はその後も映画、テレビ番組、アニメなどでリメイクされているがオリジナル以外は知らない。

 

主題歌は松任谷由実作詞・作曲の「時をかける少女」でアルバム「VOYAGER」に収録。なお「時をかける少女」と全く同じ歌詞で違うメロディの「時のカンツォーネ」はリメイク版の主題歌でアルバム「スユアの波」(1997年)に収録されている。

 

 

尾道から呉への旅行を計画したのは2016年の夏だったが、仕事上の理由で実現できなかった。コロナ禍が治まったら「時をかける少女」の故郷への旅をもう一度計画してみたい。

 

 

 

 

時期は少し遡る ……。

 

2010年は異常な猛暑で9月の彼岸を過ぎても真夏並みの暑さが続いていた。

 

「小石原焼」は「道の駅 小石原」を中心に多くの窯元が林立している。ここをゆっくりと訪ねたのは、そんな2010年の秋の彼岸の「民陶祭」のときだった。

 

小倉から国道322号線を香春町まで行き右折して国道201号線に入る。暫く201号線を走って今度は左折して国道211号線沿いに遠賀川を南に遡ってゆく。211号線は嘉麻市を通って東峰村に入る。

 

道沿いには次第に山間の風景が拡がってきた。所々に赤い彼岸花(曼珠沙華=マンジュシャカ)の群生が見られた。

 

 

 

「道の駅 小石原」に車を停め、まずは施設内で展示・販売されている色々な窯元の焼き物を見てまわった。

 

 

 

 

それから道の駅周辺の窯元を幾つか訪ね歩いた。暑い彼岸でも結構な人出だった。ある窯元で紅茶(べにちゃ)色の調味料入れと匙を見つけて購入した。これはお気に入りで今も塩壺として使っている。

 

 

いつも思うが焼き物を見ていて飽きることは無く、時間の経つのすら忘れてしまう。

 

 

それ以来、東峰村を通ることが多くなり道の駅や窯元に何度となく立ち寄ることになった。最近はパートナーと訪ねることも多くなったが、道の駅から少し南に走ったところに高取焼の「鶴見窯元」がある。その窯元のモダンなデザインがユニークで一輪挿しなどを購入した。

 

 

 

2010年秋の小石原焼から窯元巡りにはまって行った。以来、近場の窯元「小鹿田(おんた)焼」(大分県)、「上野(あがの)焼」(福岡県)、「萩焼」(山口県)、「有田焼」(佐賀県)、「波佐見焼」(長崎県)などを順次巡ることになった。

高千穂・宮崎への旅の少し前、5年ほど暮らした九州工大前を離れて八幡東区のCという地区に移り住んだ。あまりに職住接近だったこともあり、また工場の近くは想像以上に空気が汚かったことも理由である。

 

C地区には以前登録翻訳者の方が住んでおり何度か原稿を届けに行った。大きな公園があり澄んだ小川が流れ、またスーパーや市場も近くにあり便利な場所だった。引っ越すならこの辺りかと以前から目を付けていた場所だった。

 

引っ越しは2015年7月下旬の暑い日だったが、当日の夜は近くで夏祭りが開催されていた。

 

その時の心境を以下の記事に書き残している。一体何と戦っていたのだろうか …… ? 

 

https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-12057245692.html

 

 

 

 

鵜戸神宮の「運玉投げ」のご利益について少し書いてみたい。

 

下関市の土木・建設会社K社からネットを通じて翻訳の問合せがあったのは2015年の春先のことだった。同社はシンガポール港の大型岸壁築造工事を受注しており、翻訳対象の原稿はそれに伴う浚渫作業のための揚土搬出装置などの取説類の英訳だった。

 

「技術系の英訳はできますか?」という問い合わせに対し、いつも通り「弊社は新日鐵の系列で工業・技術系の翻訳は得意としており本件ならば新日鐵OBのベテランの翻訳者が担当させていただきます」と私は答え、受注・納品を済ませていた。

 

 

 

 

 

高千穂・宮崎への旅から戻って暫く経った2015年9月、K社から今度は通訳者の中長期派遣について問合せがあった。

 

当初は「通訳の場所はシンガポール港内で男性通訳者を希望」という要件だった。船上での作業もあることが男性希望の理由だったが「海外長期派遣が可能な男性で船上での作業を考えれば年齢も若い方がいいだろうなぁ~」などと考えるとなかなか人材が居なかった。

 

これが途中で先方の要件が変わってきた。「通訳の場所は下関の本社事務所内で性別も男女どちらでも可」と変更になった。「これなら対応できる!」と勝算を得た。

 

 

私は、新日鐵構内で技術系の通訳の実績があるベテランの女性通訳者、MBさんに白羽の矢を立てた。また、彼女は下関本社への通勤にも便利な場所に住んでいた。

 

 

9月下旬、彼女をK社の下関本社に連れてゆき業務内容の説明を受け、派遣単価の交渉や当社と彼女との間の雇用契約、また当社とK社間の労働者派遣契約の準備などバタバタと必要な手続きを進めていった。

 

かくして、当社とK社間にめでたく派遣契約が締結され、2015年10月から2016年3月末までの中長期の通訳者派遣ビジネスが成就した。

 

 

 

これがまさに鵜戸神宮の「運玉投げ」のご利益だった。

「晩夏光」とは「夏の終わりの頃の衰えぬ暑光」をいう。そんな晩夏光を探して高千穂・宮崎へと一人旅をしたのは2015年8月後半のことだった。宮崎県に入るのは実に30数年ぶりだった。

 

 

往路は東九州道を大分で降りて一般道に入り豊後大野市、竹田市通って宮崎県に入った。天気は快晴。幾つかの道の駅などに立ち寄りながら天孫降臨の地、高千穂に着いたのは午後2時くらいだった。

 

 

まずは高千穂峡へ。清流に暑さを忘れることができたひと時だった。高千穂峡を後に天岩戸神社へ。駐車場から神社まで歩いたが物凄い暑さだった。

 

高千穂峡へ戻り高千穂神社へ。パワースポット巡りの旅が続いた。高千穂を後に国道218号線沿いに延岡に向かった。日之影町を通って長い下り坂の道を走って延岡に入った。

 

 

 

 

 

 

延岡市内のホテルにチェックインしたのが午後6時くらいだった。延岡の町を散策してから食事をとった。五ヶ瀬川の橋上から見えた夕映えがとても綺麗だった。

 

 

 

翌日は延岡から国道10号線を走り国道220号線に入って海岸線沿いをひたすら南下した。青い空と青い海。南国の太陽は眩しかった。日向市、宮崎市を過ぎて青島で停車し暫く休憩をとった。

 

その後、日南市に入り鵜戸神宮に参拝した。此処は幼い頃に父母に連れられて来た記憶があった。実に風光明媚なスポットである。運玉投げに挑戦。3球目にして窪みに入った。

 

運玉が窪みに入ると願い事が叶うそうだが、実際に仕事の面でのご利益があったのは翌月のことだった。

 

 

 

 

鵜戸神宮を後に、さらに海岸線を南下して国道448号線に入り日南海岸沿いに走った。南国気分が高まってきた。都井岬を目指したが残念ながら道が工事中で途中通行止め。仕方なくその日宿泊予定の宮崎市へと引き返した。

 

 

 

宮崎市内のホテルにチェックインして繁華街、橘通りを散策した。街は夏祭りのような賑わいだった。地鶏など地元の名物を堪能した。

 

 

 

一人旅をしていると時折道に迷う。そんなときは直ぐに近くの人に尋ねた。宮崎の人は皆優しかった。そんな人の親切がとてもありがたく感じられた旅となった。

 

立秋を過ぎ甲子園で熱戦が続く中、今年も終戦の日を迎えた。戦後77年。猛暑の盆が静かに過ぎている。

 

NHKで太平洋戦争の特集番組が組まれたりして人は悪しき歴史を振り返る。最近昔の戦争映画を観ることが多くなったが、気が付けば歳をとったものだ。

 

 

先日の日経新聞の「春秋」にこんな言葉があった。「私たちもやがて誰かの思い出の中で生きる」寂しいような ……、少しほっとしたような ……。

 

 

「鎮魂歌」とは死者の魂を鎮めるための歌のことで英語では requiem という。ラテン語のrequies(休息・安息)が語源らしい。英英辞典の定義は以下の通り。

 

Requiem (or requiem mass):

A Christian ceremony for a person who has recently died, at which people say prayers for his or her soul, or a piece of music for the ceremony.

 

「最近亡くなった人の霊魂に人々が祈りを捧げるキリスト教の儀式、またはその儀式で演奏される音楽」

 

 

以下の曲は Fiction Junction の「花守の丘」というもので作詞・作曲は梶浦由記。元々「真救世主伝説 北斗の拳 トキ伝」の主題歌らしい。

 

アニメは見たことがないが動画の映像は映画「俺は、君のためにこそ死にに行く」(2007年)のものである。

 

戦後77年の終戦の日に寄せて以下のレクイエムを英霊たちに捧げたい。

 

ある年の11月下旬、新規の顧客から一本の電話が入った。「おたくは技術系の英訳はできますか?取説と図面とかもあるんだけどぉ~」という。「弊社は新日鐵(現・日本製鉄㈱)の系列で技術系の英訳は得意としております!」と私は回答した。

 

先方は「原稿が結構あるんで、一度見に来てもらえませんかね?」というので「もちろん原稿を確認させていただきます。スケジュールを確認して再度ご連絡いたします。」と回答して電話を切った。

 

 

その企業は福岡県筑豊地方にあるK製作所というところだった。ホームページを確認すると代表取締役社長からの直々の電話だったことがわかった。

 

このK製作所は実にユニークな製品を製造していた。斜面走行モノレール(スロープカー)である。ホームページのスロープカー導入例を見ていると子供のようにワクワクしてきて訪問が待ち遠しくなった。

 

 

 

 

 

 

12月初旬の小雪が舞うような寒い日、筑豊地方のある駅に降り立った。改札を抜けようとすると「昼食中です。お声をお掛けください。」という立札が出ていた。「何じゃこの駅は!?」と思った。

 

駅員に声を掛けて改札を抜けて「さて!飯でも食おうか!」と思ったが食べ物屋が全く無い。「しまった!」と思った。幸い小さなスーパーがあったので弁当とお茶を買って、寒風の中駅前のベンチに腰かけてどうにか腹ごしらえを済ませた。

 

 

 

K製作所までは駅からタクシーで20分くらい掛かった。社長にご挨拶して早速原稿を見せていただいた。

 

原稿は残念ながらスロープカーのものではなく「クレーンエレベータ」の取扱説明書、図面、出荷検査基準、工場試運転記録などだった。十分対応可能という感触を得たので「宅急便などで原稿を弊社までお送りいただけないでしょうか?」依頼して了解を得た。

 

社長が「工場を見学して行きませんか?」と仰ったので「是非ともお願いします」と答えて工場を見せていただいた。

 

安全のためにヘルメットを被り社長に連れられて工場に入った。工場内には様々な製造機械・設備の他にスロープカーの試運転ができる斜面レールが配備されていた。またレール上には出荷を待つスロープカーが1基停車していた。

 

社長はスロープカーのブレーキの仕組みなどを素人の私にもわかるように説明してくれた。思わず「面白い仕事ですねぇ~」と本音で言葉がでた。

 

 

原稿が届いて数日間で見積りを作成して提示し同案件の和文英訳を受注した。まずは「機密保持契約書」を締結してから翻訳作業に入った。

 

取扱説明書、出荷検査基準、工場試運転記録の一次翻訳をベテラン翻訳者のKTさんに依頼し、チェックを元上司のGさんにお願いした。また図面の一次翻訳も図面経験が豊富なGさんに依頼した。

 

取扱説明書、出荷検査基準、工場試運転記録および図面の最終チェックは私が行い、翻訳後の編集作業を事務担当のYさんにお願いし、すべて精鋭部隊で処理することにした。

 

因みにKTさんは東大・工学部卒で新日鐵のOBのベテラン翻訳者で、若い頃マドリード大学に留学しており英語だけでなくスペイン語もできた。私に俳句(連句)の世界を教えてくれた師匠でもある。

 

結局、翻訳者作業は年明け早々に開始し、3月下旬に納品した。凡そ3か月の作業となった。

 

 

長崎市の夜景は札幌、北九州と並び日本新三大夜景の一つであるとともに、モナコ、上海と並び「世界新三大夜景」にも選出されている。稲佐山公園の展望台は夜景の絶好のビュースポットであり私とパートナーとの最初の旅行の思い出の場所でもある。

 

稲佐山公園にK製作所が製造した中腹駐車場から山頂までを結ぶ「長崎稲佐山スロープカー」が導入されたのは2020年1月のことであった。

 

 

以前、市内のある廃棄物処理業者、N社からホームページの英訳の依頼を受けたことがあった。

 

ホームページのコンテンツには廃棄物処理(廃品回収)の起源・歴史に触れた学術的な部分もあり楽しみながら一次翻訳ができた記憶が残っている

 

その後、市内にコストコ(COSTCO)が進出することに関連して、その廃棄物処理の全般を請け負わんとしてN社から通訳者を立てて欲しい旨の依頼もあった。その時は通訳者を東京に派遣したが残念ながらN社の受注は獲得できなかった。

 

 

 

通訳者の派遣にあたって、通訳者を同伴してN社に赴きミーティングを行ったときN社の社長と少し話をすることができた。当時、同社は東南アジアの各国での破棄物処理も企画しており、コストコの受注についても社運を賭けている様子が社長の言葉から窺われた。

 

私の先入観とは明らかに異なり、廃棄物処理業はリサイクルを中心とした国際的なビジネスとなっていた。その時の社長の言葉で記憶に残っているのが「くず屋にはくず屋のプライドがある」というものだった。苦労されたであろう昔が偲ばれた。

 

 

私の幼い頃は廃棄物処理業者(廃品回収業者)のことを「バタ屋」と呼んでいた。何となく差別的な響きがあった。

 

少し歴史を紐解くと、江戸初期の浮世草子作者・俳人、井原西鶴の「好色一代女」や江戸中期の国学者、山岡浚明(やまおか・まつあけ)の「類聚名物考」に関東地域に紙屑拾いが存在したことが記述されており、既に江戸時代の日本にいわゆるリサイクル・システムの基礎が構築されていたようだった。

 

 

 

それが近代になって「くず屋」は手車やリヤカーを引いて廃品や不用品を買い集めるようになり、紙屑拾いは「バタ屋」と呼ばれるようになった。1970年代には「バタ屋」は廃品回収業と呼ばれるようになり、拡声器を備えたトラックで町や村を巡回して古新聞や古雑誌を回収して「チリ紙交換」していたことは私の記憶にも残っている。

 

 

それから2~3年経ってN社からの案件が途絶えたので、営業方々同社の様子を見に行った。あいにく社長は出張中で国際業務担当の女性と面談することができたが、その訪問は実に印象的なものとなった。

 

本社事務所は改築されていたが、玄関を入ってまず感じたのが微かな香水の香が漂っていたことだった。玄関ロビーにはお洒落な調度品が配備されていた。受付の女性もきちんとした服装を身に着けており社長秘書のような雰囲気があった。

 

「これが廃棄物処理業者の事務所!?」と思わせるような演出だった。セールストークを行いながら「もしかして、これがくず屋のプライド!?」と社長が言った言葉を思い出していた。

 

 

 

 

残念ながら、その後社長が代替わりして我々が英訳したホームページは跡形も無くなってしまったが、今も市内を走る同社の廃棄物回収のトラックを見かけると当時のことが思い起こされる。

 

中国四大奇書の一つに「水滸伝」がある。英語で「水滸伝」を Heroes of the Marshes とか Water Margin ともいう。Marsh は「湿地・沼地」のことであり「水滸伝」の物語の主たる舞台となるこの marsh は「梁山泊」と呼ばれた。

 

 

「梁山泊」の英訳を調べてみたが説明的な訳語しか見つからなかった。

 

 Place of assemblage for the bold and ambitious

 

「大胆で野望に燃えた英雄・豪傑たちが集うところ(塞)」

 

 

「水滸伝」ではいわゆる好漢たちが中国全土を旅して一芸に秀でた者など見どころのある英雄・豪傑を仲間にして最終的に「梁山泊」に集結させる。彼らのスローガンが「替天行道」(天に替わって道を行う)というものだった。

 

「替天行道」の英訳を探してみると

 

 Enforce justice on behalf of the Heaven

 

というものがあった。

 

「梁山泊」で軍隊を組織・訓練して悪徳官吏を倒して勢力や領土を拡大し最終的には勅令を得て殿帥府太尉である奸臣・高俅を打倒するストーリーとなっている。

 

 

 

 

私が翻・通訳者の戦力の増強を本格的に開始したのは2014年に入ってからのことだった。当時特に必要としたのが環境分野を含めて工業・技術分野の英訳がこなせる翻訳者だった。2014年当時、受注案件の7割くらいが工業・技術および環境分野から入っていた。

 

 

翻・通訳者はネットを通じて全国から募集した。翻訳者には翻訳トライアルを課し、通訳者には面接を実施した。当初の翻訳トライアルは一般ビジネス・工業技術・環境の3分野について英文和訳および和文英訳の計6種類の問題を準備した。

 

毎回、募集を掛けて3日間くらいで20名ほどの応募があった。応募者には履歴書・業務経歴書を提出させたが皆様々なキャリア・資格・経験を持っていた。さながら「水滸伝」の英雄・豪傑集めを彷彿とさせるものだった。

 

 

トライアルの提出には一週間程度の納期を定めたが納期厳守とはしなかった。トライアルの和訳・英訳を見て初めて応募者の真の実力が判明した。まあいつも玉石混淆といった感じだった。

 

英検1級など上位資格を持っていても英訳で基本的な動詞の使い方すら間違っている者もいた。「少しは辞書で調べりゃいいのに!」と思った。

 

そんな中でも毎回2~3人はトライアル合格者がおり2014年~2019年の6年間で40名余りの翻・通訳者登録することができた。言語は英語、中国語、韓国語、ロシア語などで翻訳者が凡そ6割、通訳者が4割ほどだった。性別でいえば女性が7割、男性が3割程度だった。

 

 

トライアルでは素晴らしい英文を提出してきたのだが、実際の案件を英訳させると品質が極端に低い者もいた。正直言って「騙された!」という感じだったがそういう者には2度と仕事を依頼することは無かった。結局、どんな案件でも安心して依頼できる翻訳者は10名ほどで、いつもそのくらいのメンバーで案件をこなしている状況だった。

 

 

いずれは翻訳者の能力を高めて翻訳者軍団を組織し、同業他社を凌駕して市場から大型案件を受注しよう(「替天行道」)などと夢をふくらませていたが、現実はそんなに甘くは無かった。

 

翻訳・通訳部門の責任者となった2014年10月頃、そんな現実が見えるようになった。夢を追うよりは、まずは「どのように翻訳・通訳の営業を行うか?」が課題だった。

 

元々このブログを立ち上げたのは地元の翻訳会社に社員として入社した2011年3月だったのでもう11年と5か月になる。

 

当初は翻訳実務の中で気が付いた事項を備忘録的に綴っていた。また好きな漢詩、日本の詩歌、俳句などの自作英訳を公開していた。これが2017年5月くらいまで続いた。

 

プライベートな理由から暫くの間ブログの更新を休止した。ふとしたきっかけでブログを再開したのが2021年2月のことだった。

 

2021年6月以降は、中学3年(15歳)くらいからの「自叙伝」を時系列で綴るようになった。自分の記憶が確かなうちにそれらを文字にしておきたいと考えたことが掲載の理由である。その構成は以下の通りである。

 

 

・「自叙伝(その1)」~「自叙伝(その41)

 

中学3年の後半から小倉西高校に入学し、卒業後北九州予備校での1年の浪人生活を経て、京都大学経済学部に合格するまでのエピソード・思い出を時系列に綴っている。時期は1973年10月頃から1978年3月までの内容である。

 

 

 

 

 

 

・「英語の散歩道(その1)」~「英語の散歩道(その36)

 

小学校時代にに遡って自分とローマ字⇒英語との関わりについて時系列に思い出を綴っている。後半は大学時代のエピソードや大学の友人たちのこと、また大阪・淀屋橋での就職戦線についても綴っている。時期は1969年頃から大学を卒業する1982年3月にわたる内容となった。

 

 

 

 

 

・「安田保険学校(その1)」~「安田保険学校(その6)

 

安田火災海上保険㈱に入社した内務部での新入社員研修の1年間の内容を綴っている。時期は1982年4月から1983年3月までで楽しい思い出もあれば失敗談も数多い。

 

 

 

 

・「効率化の牙城にて(その1)」~「効率化の牙城にて(その34)

 

内務部での新人研修終了後に配属された総合システム部電算オンライン課勤務時の楽しくも苦労した思い出やエピソードを綴っている。時期は1983年4月から1989年9月までの内容となっており、ほろ苦い恋バナ、同期の「いいとも会」のメンバーたちのこと、また三多摩地区のグルメに関する話題も記載している。

 

 

 

 

 

・「福岡・博多慕情(その1)」~「福岡・博多慕情(その23)

 

地方銀行(関連会社および本体)に転職して博多で勤務した頃の思い出を綴っている。銀行本体の資金証券部勤務時は辛くも楽しいエピソードが多い。時期は1989年9月から銀行を退職する阪神淡路大震災直後の1995年1月までの内容となっている。

 

 

 

 

 

・「特集・入試英作文への挑戦(その1)」~「特集・入試英作文への挑戦(その20)

 

受験シーズンを終えて今年の大学入試の日本語指定型の英作文問題について、産業翻訳者としてプロの英訳を作成して公開している。2022年については東京大学、京都大学、大阪大学、東北大学の問題に挑戦したが、京都大学については過去問についても多くの英訳を公開している。

 

 

 

 

 

・「続・英語の散歩道(その1)」~「続・英語の散歩道(その47)

 

NOVAでの英語(英会話)の再勉強を決意した1999年3月から始まり、2006年に一念発起してフリーランス翻訳者を目指し、それを実現した後に地元の翻訳会社に入社し翻訳者、翻訳・通訳コーディネーターさらに営業マンとして勤務した時代を含めた現在までのエピソード・思い出を綴る予定である。現在2014年あたりをうろうろと漂っている状況にある。

 

 

 

 

今後も、翻訳・通訳に関して記憶を頼りに印象的な内容を逐次綴ってゆく予定である。

一人ドライブの話題をもう一つ。山口県下関市豊田町に「蛍街道」と呼ばれるところがある。

 

 

観光の中心のスポットは「道の駅 蛍街道西の市」である。ここは日帰り温泉「蛍の湯」やバイキングも人気が高くて週末はいつも混雑していた。

 

2010年の師走にこの道の駅を訪れたときは陶器市が開催されていた。値切って買った群青色の丼と大皿は今も手許に置いている。

 

毎年6月には「ホタル舟」を運航しており木屋川の川下りを楽しめるが、未だに乗れていない。いつも「来年こそは ……」と思いつつ歳を重ねている。

 

 

 

 

この蛍街道の近辺にあるカフェを2つほど紹介する。1つ目はガーデンカフェ「カモミール」(Chamomile)。まさに林の中に埋もれたようなカフェだ。

 

ちょっと風変わりなホワイトソースのオムライスが美味しい。店内に猫が居た。結構走りまわって愛嬌(?)を振りまいていた。

 

 

 

 

 

もう1つは「カフェリーフ」(Café Leaf)。コーヒーがとても美味しい。最近は茶道で使う茶器にたっぷりの量のコーヒーが出されている。ハンバーグなどの食事もできる。

 

店内では一日中ユーミンの曲がかかっている。アルバムではなくオーナーが厳選した曲目らしい。一度「今かかっているのは何という曲ですか?」オーナーに尋ねたことがあった。

 

曲名、アルバム名を即答されたのには恐れ入った。ユーミンの曲は90%以上知っているが曲名となると知らないものが多い。

 

またここは冬は暖炉が楽しめる。ユーミンの曲を聴きながら暖炉の炎を見つめているだけで心が癒される。従って、ここに行くなら季節は晩秋から冬がお勧めだ。