流離の翻訳者 日日是好日 -46ページ目

流離の翻訳者 日日是好日

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

昨日、この秋初めての干し柿を食べた。糖度は今一つだったが、日本最古のドライフルーツ、秋も酣(たけなわ)の感があった。

 

 

この時期、ちょっと田舎道を走ると、あちこちの軒下に柿が吊るされているのが見られる。たくさんの柿がまるで簾のように吊るされている光景を柿簾(かきすだれ)とか柿暖簾(かきのれん)と呼ぶそうだが、これも秋の風情に彩りを加えている。

 

干し柿にするのは渋柿で、実は元々甘柿より糖度が高い。乾燥させることで渋み成分であるシブオールというタンニンが水溶性から不溶性になる変化(脱渋反応)が起こり渋みが無くなるらしい。干し柿の糖度は甘柿の約4倍と言われている。

 

なお干し柿の表面に吹いた白い粉はブドウ糖、果糖、ショ糖などの糖分が結晶したもので柿霜(しそう)と呼ばれており、中国では生薬とされ「柿が赤くなれば医者が青くなる」とも言われている。

 

          里古りて柿の木持たぬ家もなし             松尾芭蕉

 

 

 

 

北九州市環境局から「日中韓三カ国環境大臣会合(TEMM21)」の通訳の話が来たのは2019年7月中旬のことで、かなり大規模な通訳案件だった。

 

中国語⇔日本語の同時・逐次通訳各1名、韓国語⇔日本語の同時・逐次通訳各1名、英語⇔日本語の逐次通訳が5名の合計9名の通訳者を手配する必要があった。会合の開催は11月下旬ということで、当初は概算見積りという形で話を進めていった。

 

各国の環境大臣他VIPには各国がそれぞれ複数名の通訳者を同伴してくるので、当社に依頼があったのは、ホストである北九州市長および福岡県知事、並びに局長クラスに対する通訳だった。なお当時の日本の環境大臣は小泉進次郎氏だった。

 

また、メインの会合自体の通訳ではなく、会合後夕刻からの歓迎レセプション、および大臣一行に同行する中国・韓国の学生や若手ビジネスマンが昼間に市内を視察することに対応する通訳だった。

 

中国語・韓国語の通訳は、同時通訳が歓迎レセプションでの北九州市長および福岡県知事のスピーチに対応し、同時・逐次通訳双方でメインの円卓でのVIPの歓談に対応した。

 

また、英語の逐次通訳5名は、その他の円卓の間に配置し、日本語⇔中国語⇔韓国語のコミュニケーションのサポートを行う形だった。実際のところ、中国および韓国のVIPは英語が話せる方が多く、英語の通訳は想像以上に活躍することができた。

 

 

英語、中国語の通訳者は問題なく手配できたが、韓国語については確保していなかった。本番まで時間があったので、登録通訳者の紹介などで何とか市中から確保することができた。結局英語の男性通訳者1名を除いて残り8名が女性という陣営になった。

 

「イケメンの小泉氏に会える!」ということから女性陣からは黄色い声が上がっていた。

 

 

果たして本番当日、私は朝一で「北九州国際会議場」赴いた。市内を視察する中国・韓国の学生や若手ビジネスマンを乗せる貸切バスが10:00に出発することになっていた。

 

 

 

視察に同行する中国語と韓国語の逐次通訳各1名と国際会議場で事前におち合い簡単な打ち合わせを行った。2人の通訳者とはその時が初対面だった。2人ともかなり緊張していた。何度となくこんな雰囲気を味わってきたのか私は冷静だった。「まあ、何とかなる!」と思えた。

 

二人を貸切バスに放り込んで一段落した。これから14:00くらいまでは一息つくことができた。喫茶店で当日の行程を確認したり昼食を取ったりしながら時間を潰し早めに歓迎レセプション会場の「リーガロイヤルホテル小倉」に入った。

 

 

 

ホテル周辺にはテロに備えて機動隊を乗せたバスが3台くらい停まっていた。またホテル内のあちこちに厳つい黒服のSPが配備されており、物々しい雰囲気を醸し出していた。

 

コロナ禍前の2019年の夏休みについてはあまり思い出がないが、8月の前半、熊本の菩提寺を訪ねて墓参りをして近郊の山鹿温泉で一泊して町を散策した。

 

 

 

山鹿温泉は芝居小屋「八千代座」とレトロな町並みが有名である。残念ながら「八千代座」は週末営業していなかったが、骨董品屋や雑貨屋を物色したり古風なカフェに入ったり、また醸造元で日本酒を試飲したりしながら楽しいひと時を過ごすことができた。

 

 

 

 

 

2019年9月中旬、突然新日鐵関連のE社(東京)からロシア語の通訳の案件が舞い込んできた。通訳はロシアから来日するエンジニアのグループに対するものだった。

 

彼らは夕刻福岡空港に到着し当日は北九州・若松で懇親会を催し翌日朝から技術ミーティングが行われる予定で、ロシア語⇔日本語の通訳を懇親会と技術ミーティングの両方に対応して欲しいという依頼だった。

 

 

 

その当時ロシア語の通訳は抱えておらず、付き合いがある福岡の通訳エージェンシーに相談した。同社は快く広島在住の女性ロシア語通訳者を紹介してくれた。

 

顧客他、ロシアのエンジニア達とおち合う予定のホテルのロビーで、定刻の1時間余り前にロシア人通訳の女性と待合わせ事前打ち合わせを行った。

 

通訳のロシア人女性は日本語が堪能な明るい方で一安心した。まあ、通訳はいつもこんな綱渡りの連続なのだが ……。ご主人は日本人、日本在住20年以上で頼りになれそうな方だった。

 

暫くして、顧客と大きな荷物を抱えたロシア人エンジニアの一群がロビーに到着した。第一印象は「とにかくでかい奴らだ!」で、まるでアイスホッケーのチームみたいだった。通訳の女性は彼らに気軽に話しかけて面倒をみていた。「大丈夫だ!」と確信した。

 

翌日の技術会議にも最初に顔を出したが、通訳は首尾よく通訳業務を遂行していた。

 

 

 

その後も、2019年末から2020年初にかけていくつかの通訳案件の見積り依頼が入ってきた。ビジネスは通訳を中心に順風満帆に進むかに思われた。

 

大分県内の案件は今まで殆ど実績が無かったが、大分市に本社を置くファミリーレストラン「ジョイフル」の海外進出パンフ(改訂版)の和文英訳、和文繁体字訳を地元の印刷会社N社経由で受注したのが2019年3月だった。

 

 

 

その後、N社の紹介で大分市内の印刷会社、O社からも翻訳の見積り依頼が入るようになった。令和が始まった2019年5月、O社から大分市が作成した原稿「大分市市政要覧」の和文英訳の見積りが入ってきた。

 

内容は大分市長の挨拶に始まり、大分市の市域概要、観光・グルメ、文化・スポーツ、歴史・文化、産業経済、環境、教育・社会、行政など多岐にわたるもので相当の翻訳量があった。また、顧客(大分市)からネイティブチェック要との指示があった。見積りを提示し、価格交渉を経て何とか本案件を受注することができた。

 

 

 

 

本案件の翻訳者の選定に当たっては、内容が九州地域(大分)に深く関係したものであることから、可能な限り大分近郊のメンバーを選定するようにした。一次翻訳は鹿児島在住の翻訳者、校閲(チェック)は私が行い、ネイティブチェック宮崎県在住のアメリカ人(夫アメリカ人/妻日本人)チェッカーを選定した。

 

原稿(大分)⇒一次翻訳(鹿児島)⇒校閲(福岡)⇒ネイティブチェック(宮崎)

 

上記の九州在住メンバーで翻訳作業を進めたが、原稿には大分市内の細かい地名や施設の名前、また祭祀や地場のイベントなど伝統・文化的な用語も多く含まれ、難解ながらも結果的には楽しい作業となった。

 

一時翻訳者の英文の漏れなどをチェックしつつ、市長の挨拶文をより格調高いものに改訂したり、訳語のチェックや改善を進めるうちに自分自身も大分市に興味が持てるようになり大分市の文化や歴史の概要を理解することができた。

 

 

自分がチェックした英文をネイティブチェッカーに送り、それがチェックされて戻ってきたものを見て愕然とした。

 

私は、ネイティブチェックについて、従来、英語として違和感のある表現を排除して改訂する程度のものと考えており、それまでその程度のネイティブチェックを施した製品を納品してきた。

 

だが今回ネイティブチェック結果は従来と全く異なるもので、かなり大胆な改訂が施されていた。改訂後の英文には格調高さだけでなく自然な勢いが付加されている印象を受けた。

 

「この英文はネイティブじゃなきゃあ書けないな!」とはっきりと認識できた。本ネイティブチェック結果は一次翻訳者にもフィードバックしお互いに感想を語り合った。

 

 

 

 

この仕事でもう一つ印象に残っているのが大分市の本件の担当者(女性)の能力の高さである。一次納品後の英文の校正結果について問い合わせたところ実に明快な回答が返ってきた。海外留学、海外勤務経験がある管理職の方だった。特に英文表記のルールについて「自分はまだまだ勉強が足りないな!」と反省させられた。本件を何とか納品できたのは2019年7月中旬、梅雨明けが近づいていた。

 

 

なお「大分市市政要覧」は以後も毎年改訂が続けられ、現在も大分市のホームページにPDF版が掲載されている。

 

https://www.city.oita.oita.jp/o029/shisejoho/annai/shiseiyoran/2022.html

新しい元号「令和」が2019年4月1日(月)に発表され、同年5月1日(水)から適用されることになった。当時の菅義偉官房長官(前・総理)が4月1日、新元号「令和」を発表した。ここに「令和時代」の幕が開けた。

 

 

 

新元号が発表されて直ぐのこと、地元の中堅企業Y社から海外への通訳者派遣の案件が飛び込んできた。派遣先国はオランダ(アムステルダム)とイタリア(ヴェネチア)、言語は英語⇔日本語、期間は一週間程度だった。

 

通訳の内容は、Y社のエンジニアの方に同行してアムステルダムで開催される欧州臨床微生物学会議(ECCMID)の展示会においてY社製品(医療機器)の売込みや見込先との商談、また取引先との会議をサポートして欲しい旨の依頼だった。

 

但し、話が来たのが週の半ば、週末にはオランダに飛んで欲しいという緊急性が高いもので通訳として同行する予定だった職員が弔事で急に行けなくなったことによる依頼だった。

 

 

 

「通訳ができるなら自分が行きたい!」と思えるような案件だったが「果たして対応できる通訳者は居るのか?」と人選に悩みつつある若手男性通訳者に連絡を取った。彼の回答は「今の仕事をキャンセルしてでも行きます!」というものだった。

 

人選が決まり、通訳を来社させ顧客との打ち合わせなど取り急ぎ段取りを進めていった。通訳者は首尾よく本案件を遂行した。

 

 

2019年の5月1日(水)は「天皇の即位の日」として祝日となり、祝日法の兼ね合いから2019年のゴールデンウィークは10連休となった。日本中が「令和改元」に浮かれていた。

 

大日本帝国では、かつて「紀元二千六百年」(1940年)に大祝典が開催されている。私は軍歌の映像を通じて知っただけだが、その翌年の1941年に日本は太平洋戦争へと突入していった。

 

 

 

そんな日本中がお祭り気分に沸いていた2019年の春過ぎ、日本のあちこちである奇妙な現象が発生していた。

 

奇妙な現象とは「竹に花が咲く」ことである。120年に1度の珍事という。凶事の前触れともいわれているらしいが、果たして何を暗示していたのだろうか?

 

 

昨日から朝冷えるようになった。朝歩くと指先が少し寒い。今朝はこの秋一番の寒さだったところもあるようだ。これも「放射冷却(radiative cooling)」によるものらしい。

 

年末の話題がちらちら聞こえ始めるこの時期、そろそろ「鍋」が恋しくなる季節である。

 

 

母が亡くなって三年余り、時々三好達治の詩「乳母車」が思い浮かぶことがある。この詩は昭和の秋の夕暮れを思い起こさせる。「紫陽花いろのもの」が何かわからないが薄紫や薄いピンクの光のかけらみたいなものように思われる。

 

思えば昭和は遠くになったものだ。

 

 

 

 

「乳母車」  三好達治

 

母よ――

淡くかなしきもののふるなり

紫陽花(あじさい)いろのもののふるなり

はてしなき並樹のかげを

そうそうと風のふくなり

 

時はたそがれ

母よ 私の乳母車(うばぐるま)を押せ

泣きぬれる夕陽にむかって

轔轔(りんりん)と私の乳母車を押せ

 

赤い総(ふさ)のある天鵞絨(びろうど)の帽子を

つめたき額にかむらせよ

旅いそぐ鳥の列にも

季節は空を渡るなり

 

淡くかなしきもののふる

紫陽花いろのもののふる道

母よ 私は知っている

この道は遠く遠くはてしない道

 

 

翻訳会社と印刷会社は関係が深い。様々なドキュメントの翻訳を印刷会社経由で請け負っていた。観光スポット関連のもの、会社案内やパンフレット、地方公共団体関連のドキュメントなどが多かった。

 

 

地場の大手印刷会社N社から北九州市のお隣りの京都郡苅田町(みやこぐん・かんだまち)の案件の見積り依頼が入ったが2018年の夏の終わりごろだった。原稿は「苅田町生活情報ガイドブック」というものだった。

 

翻訳の方向は、和文英訳、和文中国語(簡体字)訳、和文韓国語訳、和文ベトナム語訳の4方向だった。見積り提示後、秋口には同案件を受注した。

 

英語、中国語(簡体字)は自社の登録翻訳者、韓国語は付き合いが長い大阪の韓国語専門の翻訳会社、ベトナム語は福岡の大手翻訳会社に再委託した。とにかく品質を最優先して翻訳を進めた。

 

 

苅田町には日産自動車、トヨタ自動車、三菱マテリアル、日立金属など大手の製造業、さらにその下請け会社などが数多く存在する。それらの企業で働く外国人が多く、今回の案件は彼ら外国人向けに町役場が町内での生活便利情報を提供するものだった。

 

 

 

 

原稿は苅田町の役人の方が作ったものだったが、最も苦労したのが地名や企業名や施設名(病院・学校など)などの固有名詞だった。

 

地名(漢字)の場合、中国語は問題ないが、韓国語、ベトナム語では、英語同様に日本語での読み方がわからないと翻訳できない。特に細かい地名や寺院などの読み方の調査に苦労した。

 

一方で、中国語は固有名詞内のひらがな・カタカナの処理に苦労した。日本語では漢字表記のものでも医院名などではひらがな、カタカナを使用しているケースがある。例えば「やまだクリニック」とか「サイトウ皮膚科医院」のようなケースである。

 

このような場合、表音文字が無い中国語では、名前の中の固有名詞部分を原則アルファベットの大文字で表記し、一般名詞部分は中国語(簡体字)に翻訳して表記する。上の例では以下のようになる。

 

◎「やまだクリニック」⇒「YAMADA诊所」

◎「サイトウ皮膚科医院」⇒「SAITO皮肤科医院」

 

もし「やまだクリニック」を「山田诊所」と訳すと中国人が医院の看板を見ても判りづらいからだ。「山田」=「やまだ」と認識しづらいからである。まだアルファベットのYAMADAの方がわかりやすいのである。

 

そんなことも知ったのもこのときが最初だった。

 

 

因みに、中国語の簡体字・繁体字の違いについて書いておくと、簡体字は従来の漢字(繁体字)を簡略化した字体をいい、中国本土、シンガポール、マレーシアで使用されている。英語では Simplified Chinese と表す。

 

繁体字は正字、正体字とも呼ばれ、簡体字や日本の漢字に比べても圧倒的に画数が多いのが特徴で、台湾、香港、マカオで使用されている。英語では Traditional Chinese と表す。

 

 

 

 

そんな苦労があったが翻訳は無事終了し、2018年12月初旬に納品することができた。

 

 

2020年1月から外国人技能実習生の監理団体に職を得たが、その団体の職員たちが外国人技能実習生の監理・指導にこの「苅田町生活情報ガイドブック」を有効活用していることを知り、過去の自分の仕事が誇らしく感じられた。

 

https://www.town.kanda.lg.jp/_1021/_1058/_5657.html

 

旧友との再会は楽しいものである。杯を重ねるにつれて当時のことが思い出されてタイムスリップしたような気持ちになる。還暦を過ぎてからそんな機会が多くなってきた。

 

 

路を歩けばあちこちから金木犀の甘い香りが漂ってくる。柿の実が日々熟れてゆき紅葉が少しずつ始まる季節となった。日本の秋は美しい。

 

もう一つだけ「秋風」関連する漢詩を掲載する。

 

 

「曹丕」(字は子桓(しかん)、187-226)は「曹操」の子で、最終的には彼の後継者として魏の初代皇帝となった。

 

幼い頃から巧みに文章を書き武術では騎射や剣術を得意としたらしい。魏の皇帝としても博聞強識、才芸兼備で詩賦を能くしたと伝えられている。

 

「典論」を著述して文学独自の価値を宣言し、また多くの儒者に命じて最初の類書(内容を事項によって分類・編集した書物)とされる「皇覧」を編集させたことでも知られる。

 

 

 

「燕歌行」の冒頭部は、武帝「秋風辞」を彷彿とさせる。このように古詩に倣う技法を「擬古(ぎこ)」という。但し、中身は戦場の夫を想う妻の心境を切々と詠んだもので「秋風辞」とは全く趣が異なる。

 

enkakou

 

 

 

 

「燕歌行」                       曹丕子桓

秋風蕭瑟天気涼                 秋風蕭瑟(しょうひつ)として天気涼し

草木搖落露為霜                 草木搖落して露霜となる

羣燕辭帰雁南翔                 群燕辞し帰りて雁南に翔び

 

念君客遊思断腸                 君が客遊を念えば思ひ腸(はらわた)を断つ

慊慊思帰戀故郷                 慊慊(けんけん)として帰るを思ひ故郷を恋わん

君何淹留寄佗方                 君何ぞ淹留(えんりゅう)して他方に寄るや

 

賤妾煢煢守空房                 賤妾煢々(けいけい)として空房を守り

憂来思君不敢忘                 憂い来りて君を思い敢えて忘れず

不覚涙下霑衣裳                 覚えず涙下りて衣裳を霑(うるお)すを

 

援琴鳴絃發清商                 琴を援(ひ)き絃を鳴らして清商を発し

短歌微吟不能長                 短歌微吟すれども長くすること能わず

 

明月皎皎照我牀                 明月皎皎として我が牀(しょう)を照らし

星漢西流夜未央                 星漢西に流れて夜未だ央(きわま)らず

 

牽牛織女遥相望                 牽牛織女遥かに相望む

爾獨何辜限河梁                 爾独り何の辜(つみ)ありて河梁に限らる

 

 

(拙・現代語訳)

秋風が侘しく吹く涼しい季節となり、草木は葉を落とし露は霜となりました。燕の群は去り、雁は南へと飛んで行きました。

 

あなたが旅の憂いに沈んでいることを思うと腸(はらわた)が引き裂かれそうな気持ちになります。心が満たされないまま、すぐにでも帰りたいと故郷を懐かしんでおられるのではありませんか。何故いつまでも異国に留まっておられるのでしょう。

 

私はあなたの留守の家を独りで守っていますが、あなたのことを片時も忘れることができず、知らず涙がこぼれて衣装を濡らします。

 

琴を弾き弦を鳴らし澄んだ音を出してみましたが、歌えば声が小さくなってしまい、とても長く歌うことはできません。

 

月光が煌々と私の寝床を照らし、天の川も西に傾きましたが夜の帳はまだ明けることはありません。

 

牽牛と織女は遥か天の川を隔てて向かい合っています。私達は一体何の罪があって、このように引き離されてしまったのでしょうか。

『三国志の英雄で誰が好きか?』と聞かれれば、昔から迷うことなく『曹操!』と答えていた。

 

曹操は「治世之能臣亂世之奸雄」(治世の能臣、乱世の奸雄)と評される。これは「平和な世の中ならば有能な役人、乱世ならば悪知恵に長けた英雄」という意味であり、中国で曹操が長年にわたり悪役扱いされてきたことの根拠がここにある。

 

少し前に、中国の長編ドラマ「三国志Three Kingdoms」全48巻を観終えた。物語を通じて曹操の評価が、昨今随分と見直されているように思われた。「名誉回復」・「復権」と言った感じだろうか?

 

 

曹操(字は孟徳、155-220)は、政治家・兵法家としての才能に加えて文才にも恵まれ多くの詩を作った。曹操の詩は楽府(がふ)と呼ばれる伴奏を伴った歌詞の形式で、作風は簡潔ながら力強いものと言われている。

 

その文才は子の曹丕・曹植に受け継がれ三人で「三曹(さんそう)」と称され「建安文学」と呼ばれる詩文学を築き上げた。五言絶句・律詩、七言絶句・律詩などの漢詩の形式の基盤が確立されたのもこの時期のようである。

 


 

 

以下は「赤壁の戦い」(Battle of Red Cliffs、208年・冬)に臨み、曹操が詠んだとされる詩「短歌行」である。彼の豪快で潔い性格が垣間見えるとともに、如何に彼が有能な人材を集めようとしていたかが窺われる。

 

 

 

 

 

 

「短歌行」                       曹操孟徳

對酒當歌                          酒に対して当(まさ)に歌ふべし

人生幾何                          人生幾何(いくばく)ぞ

譬如朝露                          譬(たと)ゆるに朝露(ちょうろ)の如し

去日苦多                          去る日は苦(はなは)だ多し

慨當以慷                          慨して当に以て慷(こう)すべし

幽思難忘                          幽思(ゆうし)忘れ難し

何以解憂                          何を以てか憂ひを解かん

惟有杜康                          惟(た)だ杜康(とこう)有るのみ

 

青青子衿                          青青(せいせい)たる子が衿(えり)

悠悠我心                          悠悠たる我が心

但爲君故                          但(た)だ君が為の故

沈吟至今                          沈吟(ちんぎん)して今に至る

呦呦鹿鳴                          呦呦(ゆうゆう)と鹿は鳴き

食野之苹                          野の苹(よもぎ)を食らう

我有嘉賓                          我に嘉賓(かひん)有らば

鼓瑟吹笙                          瑟(しつ)を鼓し笙(しょう)を吹かん

 

明明如月                          明明(めいめい)たること月の如きも

何時可採                          何れの時にか採るべき

憂從中來                          憂ひは中より来たり

不可斷絶                          断絶(だんぜつ)すべからず

越陌度阡                          陌(はく)を越え阡(せん)を度り

枉用相存                          枉(ま)げて用(も)って相存(そうぞん)す

契闊談讌                          契闊(けいかつ)談讌(だんえん)して

心念舊恩                          心に旧恩を念(おも)う

 

月明星稀                          月明らかに星稀に

烏鵲南飛                          烏鵲(うじゃく)南に飛ぶ

繞樹三匝                          樹を繞(めぐ)ること三匝(さんそう)

何枝可依                          何れの枝にか依るべき

山不厭高                          山は高きを厭(いと)はず

海不厭深                          海は深きを厭(いと)はず

周公吐哺                          周公は哺(ほ)を吐きて

天下歸心                          天下心を帰したり

 

 

(拙・現代語訳)

酒を前にしては歌おうではないか。人生は短い、譬えれば朝露のようなものだ。月日はあっという間に過ぎてゆく。憤慨して怒りを晴らそうとしても、心の蟠(わだかま)りを消すことはできない。どうしたらこの憂いを解くことがきるだろうか。そのためには酒を飲むしかないのだ。

 

青い襟のある服を着た君よ。私の心は悠々と遥か遠くを見つめ、ただ私は君を待ちつつ、これまで思い悩んできた。鹿が呦呦(ゆうゆう)と鳴いて野の蓬(よもぎ)を食べるように、もし良き客があれば、私は瑟を奏で笙を吹いて客をもてなそう。

 

明るい月の光を手に掬い取ることができないように、有能な人材を味方に取り込むことは難しい。それを思えば、悲しみが心中から沸き起こり、断ち切ることができない。だが君は東西の道を越え、南北の道を渡り遠路遥々私に会いに来てくれた。さあ久しぶりに酒を酌み交わして、昔の誼(よしみ)を温め直そう。

 

月が明るく星が稀な夜、烏鵲(かささぎ)は南へ飛ぼうと、樹々の上を三度まわり、止まるべき枝を捜し求めている。山がどれだけ高かろうが、海がどれだけ深かろうが。昔、周公は口に含んだものを吐いてまで有能な人材をもてなした。天下の人々もその意気に感じたという。どうか私の許にも有能な人材が集まって欲しい。

秋風が心地よい日々が続いている。毎年のことだが「こんな季節がずっと続けばいいのに ……」と思う。

 

 

漢帝国・第7代皇帝の武帝(156B.C.-87B.C.)は、生涯を通じて、宿敵たる北方民族「匈奴」との戦いに明け暮れ、終にこれを打ち破り帝国の最大版図を築いた。

 

その一方で外征による国家財政の窮乏を招き、また自らの独断的な性格から、治世後半、帝国は衰退への道を辿ることになった。以下の詩は武帝44歳(全盛期)の時の作と伝えられている。

 

 

 

「秋風辞」                       漢・武帝(劉徹)

 

秋風起兮白雲飛                 秋風起こりて 白雲飛び

草木黄落兮雁南歸              草木黄落して 雁南に帰る

蘭有秀兮菊有芳                 蘭に秀(しゅう)有り 菊に芳(ほう)有り

懷佳人兮不能忘                 佳人(かじん)を懐(おも)いて 忘るる能(あた)はず

泛樓船兮濟汾河                 楼船を泛(うか)べて 汾河を済(わた)り

橫中流兮揚素波                 中流に横たはりて 素波(そは)を揚ぐ

簫鼓鳴兮發棹歌                 簫鼓(しょうこ)鳴りて 棹歌(とうか)を発す

歡樂極兮哀情多                 歓楽極りて 哀情多し

少壯幾時兮奈老何              少壮幾時(いくとき)ぞ 老いを奈何(いかん)せん

 

(拙・現代語訳)

秋風が吹いて白雲が飛び草木は黄葉して落ち雁は南に帰っていく。蘭の花が咲き菊が芳しい香りを放つこの季節、あの美しい女(ひと)のことが思い起こされ忘れることができない。

楼船(多層櫓付き軍船)を浮かべて汾河を渡れば、船は中流に横たわって白い波飛沫(しぶき)を上げている。笛や太鼓の音や舟歌が聞こえ歓喜極まる中、何故か哀しい気持ちになる。

若くて元気な時は後どれくらい続くのだろうか?老いていく我が身をどうしようか、どうすることもできない。

 

 

 

 

「佳人」を有能な家臣とする解釈もあるらしいが、やはり「美人」の方が自然に思われる。秋風が吹く中、大河の中流に浮かび波飛沫を上げる軍船。笛や太鼓、また舟歌が聞こえてくる船上の宴席で「老いの哀しみ」が詠われている。

 

 

「美女を想う英雄の孤独」といった感じか。いずれ英訳に挑戦してみたい。

 

 

一雨ごとに秋が深まっているが今週末には最後の残暑が戻ってくるらしい。そろそろ衣替えをする時期だがタイミングが難しい。

 

 

「秋の日は釣瓶落とし」とは秋の日が急速に暮れる様子を井戸に落とす釣瓶に喩えたものである。なお、近畿・東海地方の一部には「釣瓶落とし」という名の妖怪の伝説があり、大入道の生首然とした姿で、人が木の下を通ると急に落ちてきて人を襲う、人を食べると言われている。アニメ映画「千と千尋の神隠し」にもチラッと出てくる。

 

 

 

日が沈んだばかりの薄暗い頃を「逢魔時」と呼ぶ。「大禍時」とか前漢末の王莽(おうもう)(45B.C.~23A.D.)の災禍に擬えて「王莽時(おうもうがとき)」と書かれることもある。一般的には酉(とり)の刻(17時~19時、正刻18時、暮6つ)を指すが、いかにも魔物に遭遇しそうな時刻、大きな災禍が起こりそうな不吉な時刻を意味する。

 

「逢魔時」は英語で eventide, gloaming, spooky dusk, twilight などと訳す。Eventide は evening の《古・詩》(古語・詩的表現)のことである。秋分を越えて、「逢魔時」が日々長くなってゆく。

 

 

 

 

先週末の日経新聞にこんな記事(一部改訂)があった。今回は米国の労働需給と金利の関係である。

 

「9月の雇用統計で失業率が3.5%に低下し米労働市場の過熱感がまだ強いことが示され、企業が求人を減らしても失業率が上昇しないという米連邦準備理事会(FRB)の見方を裏付ける内容となった。このためインフレ抑制を優先するFRBは11月の米連邦公開市場操作委員会(FOMC)で大幅利上げを継続する見通しとなった。」

 

(拙訳)

In the US employment statistics in September, the unemployment rate down to 3.5% revealed a still overheated US labor market, which confirmed the Federal Reserve Bank’s (FRB’s) view that the unemployment rate would not increase even if companies reduced their job recruitments. For this reason, the FRB giving priority to curbing of inflation was forecast to continue its policy of substantially raising interest rates at the Federal Open Market Committee (FOMC) in November.

 

 

失業率が低下したことは、引き続き人手不足の状態が続いており、賃金の上昇通じてインフレの長期化につながると判断されたためである。米・ダウ工業株30種平均は、失業率の低下を受けて急落した。

 

失業率の低下⇒賃金の上昇⇒インフレの長期化⇒利上げの継続⇒景気の減速⇒株価の下落

というロジックだろうか?よくわからないしややこしい!

 

 

一からマクロ経済学のテキストを読み直すことにした。