自叙伝(その1)-暗黒の中学3年 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

日経新聞の「私の履歴書」を読まれている方も多いだろう。先日書いた「国立の思い出」シリーズでもう少し自叙伝的なもの書いてみようかという気持ちになった。

 

流石に幼少期からの自分の生涯をふり返るのは難しいが、中学3年の高校入学前(15歳)くらいに遡って少しずつ書いてみたい。

 

私が入学した中学は篠崎中(篠中)で、1年のクラスが13もあり私はその13組だった。1クラスが4045人くらいだったので1年だけで生徒数は600人ほどだったと思う。

 

3学年で合計2,000人弱のマンモス校だったが、私が2年に進級する時点で中学が2つに分割され、篠中は篠中と南小倉中(南中)(新設)になった。

 

私は南中側だったが、南中の校舎は私が中学2年に進級した時はまだ建設中で、篠中の敷地内に一時的に2つの中学が併存する形だった。たぶん冬前に新しい校舎に移転したと思う。

 

思い起こせば、中学3年は私にとっては暗黒時代だった。勉強も含め何もかも中途半端だった。また身体的にも精神的にも周りに比べて幼かったからかイジメも経験した。

 

高校は地元に県下屈指の進学校の小倉高校(倉高)があった。中学3年になったとき、入試に向けた勉強は何もしてなかったが、当然にして自分は倉高に行くものだと思っていた。だが、世の中そんなに甘くない。

 

中学3年の夏前、両親は私に家庭教師を付けた。自宅裏のお宅のお姉さん(千鶴さん)がその春、倉高から九大・経済学部に進学しており自宅から通学していた。

 

千鶴さんは綺麗な人だった。彼女が弾くピアノのメロディが時々聞こえてきた。ビートルズもあったように思う。

 

彼女は私に主に英語と数学を教えた。英語は元々好きだったが、この時数学も好きになった。当時習った因数分解では、どんどん難しい問題が解けるようになって面白かった。

 

ただ、英語・数学以外では、国語は「日本人なら勉強などしなくてもできる」と高を括っていたし、社会も好きな歴史以外の地理・公民については中途半端、理科も同じようなものだった。

 

結局、当時から嫌いな科目の勉強は真剣にはしなかった。またやり方もわからなかった。

 

当時の高校入試は、国・数・英・社・理の5科目で40点×5200点満点の試験だったと記憶している。倉高合格のボーダーラインは170点/200点くらいではなかったか。模擬試験での私のハイスコアは165点くらいだったと思う。

 

担任教師・親を含めた年末の三者面談で倉高に次ぐ進学校、小倉西高(西高)の受験を決めた。結局安全策を図った。

 

その春、私は西高の普通科に進学することになった。これでやっと南中の暗黒時代から解放されたのである。