自叙伝(その2)-遅刻撲滅運動と全体リレー | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

中学3年時の担任(男性)については思い出が多い。当時256歳くらいで「技術・家庭」を担当していた。同時に陸上部の顧問だったが、とにかく生徒は男女を問わずよく怒られ、よく殴られた。今ならとんでもない体罰教師である。

 

先生について覚えていることが2つある。1つは「遅刻撲滅運動」。これは2学期からではなかったか?先生は「いいかお前らっ!『撲滅』の『撲』は『打撲』の『撲』ということを忘れるな!」と言い放った。以来、遅刻する生徒は激減した。それでも遅刻する生徒は、例外なく『打撲』を負うことになった。

 

もう一つは運動会である。先生は「運動会は、参加することには意味は無い!勝つことにこそ意味がある!」と言い切った。当時は学年ごとのクラス対抗だった。種目の中で最も得点の高い「全体リレー」というものがあり、クラス全員が参加する競技だった。

 

運動会は10月だったが、「全体リレー」のため本番前の2週間くらい朝6:00には学校に行き主にバトンタッチの練習をさせられた。バトンタッチの巧拙で差がつくらしい。さすが陸上部の顧問である。早起きで眠くはあったが秋の冷気が清々しかった。

 

果たして、我々3年5組は「全体リレー」で1位になり学年でも優勝した。運動は得意ではなかったが、皆で努力すれば何とかなる!という貴重な経験が残った。

 

この担任の体罰先生、実は西高出身だった。彼は福岡教育大を経て中学教師になっていた。私の父も昔西高の定時制に在籍していたが、在学中に体を壊して入院、卒業はできなかった。そんな縁や、自宅から近いことも西高に進もうと決めた理由だった。

 

これは後で知ったことだが、実は倉高にも縁があった。父方の祖母の親族が倉高の教師(化学)をしていた。祖母の一番下の妹のご主人である。東大・工学部出身で教師になる前は鉱山会社のエンジニアだったらしい。父母も祖母も私に気を遣って秘密にしていたようだ。

 

結局、私のクラスから倉高へ4名(男子3名、女子1名)、西高へ5名(男子1名(私)、女子4名(全員が家政科))が進んだ。

 

あれほど怒られ殴られもしたが、不思議なもので高校に入ってからも中学3年時の同級生が何度か先生の家に集まった。先生の家は足立山の麓にあり、先生も含めて全員で山登りになることもあった。山から下りて先生の家に着くと「まあ!飲め!」と先生は平気で我々にビールを出した。勿論、全員が未成年である。

 

大学に入ったくらいから、夏休みや正月に同級生が集まり、先生の家や居酒屋で宴会を開くことが恒例になった。これが結構長く続いたようだが、私は大学卒業後、東京勤務で心に余裕が無かったのか全く参加しなくなった。

 

4半世紀ほどのインターバルを空けて同窓会に参加したのが翻訳者になった2008年である。以後2010年には幹事をやり、東日本大震災の2011年も参加した。それが最後でもう10年になる。

 

今でもクラスの男子1人と女子1人との年賀状の交換が続いている。あの体罰先生ももう70代半ばになる。同級生の年賀状には「そろそろ同窓会しようよ!」などと書くのだがなかなか実現できていない。

 

先生がお元気なうちにもう一度みんなに会いたいものである。