効率化の牙城にて(その34)-補遺-哀愁の「ロマンス通り」と「天下一品」 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

池袋は不思議な街である。当時、西口に東武百貨店、東口に西武百貨店があり実に紛らわしかった。池袋で待合わせして間違ったことが2回くらいあった。

 

最初に池袋に行ったのは内務部の頃で、営業店実習でお世話になった京都支店の数名の女子社員が、1982年の秋、東京を観光で訪れた時である。京都支店に実習に行った同期は、皆、関西の大学の出身者だったが、そんな東京をあまり知らない同期数名で彼女たちに東京を案内した。

 

彼女たちの要望に応じて、表参道のファッション・ブランド、ブルックス・ブラザーズ(Brooks Brothers)に行ったが、門外漢の私はただただ皆に付いていくだけだった。 

 

それから、彼女たちが宿泊していたホテル近くの、当時日本一の高さを誇った池袋東口の「サンシャイン60」(19784月竣工)や「サンシャイン・シティ」に行った。

 

なお、この時の男女のうち一組が結婚まで辿り着いたが、その後円満かどうかは知らない。

 

 

また、翌1983年春、安田火災内の京大のOB会「洛友会」の年一回の旅行(箱根)があった。通常入社2年目が幹事を行うことになっているが、私の場合1名だけだったので、入社5年目くらいの事務管理部の先輩がサポートしてくれた。

 

それにしてもよく飲むOB連中だった。食事のたびに「幹事!ビール〇〇本!」と声が上がった。日曜日の夕方、やっとのことで解散となり、その後、幹事の慰労会を兼ねて先輩が連れて行ってくれたのが池袋西口だった。費用は洛友会費から出た。

 

 

以来、池袋を訪れることは無かったが、入社5年目くらいの頃、午前中会社で先輩と言い合いになり、頭に血が上って「昼から休みます!」と言って事務本部から車を走らせた。その時辿り着いたのが池袋西口だった。

 

池袋西口には「西一番街」や「ロマンス通り」があり、飲食店や風俗店も多く猥雑な雰囲気が漂っていた。しかし、全般的に通りが明るく新宿と違って危険なところは無かった。

 

池袋西口で遊ぶと何となく癒された気持ちになった。会社でカッカしていた自分がバカらしく思えてきた。また「やっぱり自分の方がおかしかったかな?!」と素直に非を認められるようにもなった。

 

以来、池袋西口には、ストレス発散のためによく行くようになった。

 

 

 

当時、池袋へは早稲田通りを経由して環状七号線を通って行っていた。その途中で見つけたのが大学時代によく食べたラーメン「天下一品」江古田店である。今は東京もあちこちに店舗があるようだが、当時は最寄りの店舗が此処だった。

 

学生時代、吉田二本松町に下宿していた頃、深夜「天下一品」銀閣寺店に食べに行き、食べた後に財布を忘れたことに気づいた。店の人に「済みません、財布を下宿に忘れてきました!」と謝った。

 

「学生さんやろ?!今度でいいよ!」と言われ、翌日お金を持っていくと店はお金を受け取ったものの「ラーメン食べていきっ!」と一杯ラーメンをおごってくれた。

 

そんな京都のエピソードを思い出させるラーメンを食べに、会社帰りにわざわざ一時間近く車を走らせて「天下一品」江古田店に月に一度くらい通うようになった。あれから35年くらいになるが、この江古田店は今も営業しているようである。機会があればもう一度訪ねたい味である。

 

 

福岡・博多で働いていた頃、セミナーなどを受講するために何度か上京した。その時も、必ずと言っていいくらい池袋西口に足を運んだ。「池袋演芸場」のそばを通るといつも懐かしさが込み上げてきた。

 

今は随分変わっているだろうが、高校の「四人組」のYやSと飲んだり、そういう店で働いていた娘を好きになったりなど、今も少しほろ苦い思い出が残る街である。