福岡・博多慕情(その1)-福岡・博多の街へ-「帰去来」再び | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

昨年12月は季節外れの寒さに見舞われましたが、こちらは晴天に恵まれ穏やかな年明けとなりました。拙ブログの読者の皆様、2022年、新年明けましておめでとうございます。

 

昨年6月から中学3年後半以降の自叙伝を掲載してまいりましたが、お陰様で昨年は「筆まめ」な一年となりました。

 

今年は、年頭「福岡・博多慕情編」と題して、19899月からの福岡・博多でのエピソードを掲載していこうと考えております。本年も拙ブログをどうぞよろしくお願いいたします。

 

また、本年が皆様にとって幸多き年となりますようお祈り申し上げます。

 

202211

流離の翻訳者

 

 

ブルートレイン「あさかぜ」の車窓から暗くなってゆく東京の街を眺めていた。7年半の東京暮らしが闇の中に沈んでいった。

 

翌朝、徳山を過ぎたあたりで目が覚めた。寝台車で隣り合わせた旅客と言葉を交わした。40代後半くらいの熊本の製薬会社の方だった。所属は情報システム部という。同業者か!と思うと会話が弾んだ。

 

東京でIT関連の研修を受けての出張帰りらしい。研修の内容はコールセンターのネットワークの構築のようなものだったと聞いた。もしかしたら「再春館製薬」の方だったかも知れない。

 

転職やUターンした理由などについて色々話をした。彼は私の話をよく聞いてくれた。そして「やっぱり九州がよかですよ!」と結論付けた。

 

 

暫くして「あさかぜ」は終点下関に着いた。下関着は10:27となっている。在来線に乗り換えて自宅に着いたのは正午頃だった。久しぶりに母手作りの昼食を食べたら眠くなった。2~3時間昼寝したようである。

 

2日ほど経って、東京からの引っ越し荷物が博多のマンションに届いた。マンションの場所は中央区黒門、地下鉄「唐人町」駅から徒歩5分ほどのところにあった。領事館通り沿いでそばに大濠公園・大濠池からの疎水が流れていた。

 

弟の車で父母と私の4人で博多に向かった。祖母が留守番をした。引っ越し業者とともに家具などを配置した。久しぶりの家族全員での作業だった。高校の頃の年末の大掃除を思い出していた。帰りの車の中、何故か母は涙ぐんでいた。

 

 

唐人町駅周辺には「唐人町商店街」があった。商店街には雑貨店やスーパーも2軒あり古くからの食べ物屋も数軒あった。だが「何でも揃う」ほどの町ではなかった。

 

ちょっとした買い物・飲食は隣の駅「西新」が便利だった。西南学院大学や県立修猷館高校がある学生の街で、安くて美味い食べ物屋・飲み屋が多かった。

 

通勤は地下鉄を利用してドア・ツー・ドアで30分以内だった。自宅最寄りの「唐人町」から会社がある「祇園」の途中に「天神」と「中洲川端」があった。

 

安田火災でお世話になったT課長が「○○!自宅と会社の間に『中洲』があるじゃないか?!ちょっとまずいなぁ~!」と仰っていたことを思い出した。T課長は独身時代、博多での勤務経験があった。

 

確かに中洲は西日本一の歓楽街だった。中洲大通り沿いにはバーやキャバレーなど飲食店が密集しており、国体道路を渡った南新地エリアには風俗店が集積していた。物凄い街だった。

 

一方で天神には、オフィス街、西鉄天神駅やデパートも2つあったが、今年(2021年)8月末閉店した「イムズ(IMS)」が、その年(1989年)4月に開店したばかりだった。

 

IMSは金色の幾何学的な形状をしたビルで、IMSと聞いてIBMのデータベース管理ソフトウェア、IMS(Information Management System=情報管理システム)を思い出した。

 

 

そんな新しい環境に慣れる暇もなく、1989918日(月)C社に入社した。C社はN銀行本店ビルの裏手の事務センタービルにあった。本店ビルと事務センタービルは地下通路で連結されていた。

 

このビルにホスト・コンピュータを設置する電算室があり、銀行のシステム部門、事務企画部門などがあり、C社の事務所はビルの4階だった。

 

N銀行のホストは日立で、C社に2セットあったホストは富士通だった。N銀行の日立のOSは安田火災に導入されていたものと同種でIBMのものと互換性があったが、C社の富士通のOSは互換性の無い古いバージョンのものだった。

 

私が配属された部門は「研究・開発グループ」と呼ばれていた。N銀行からの出向・転籍者と私のような転職組を中心に組織されていた。総勢7名ほどであった。

 

入社して1か月もすると、上記のOSのバージョンだけでなく、C社に様々な問題が内在することが判明してきた。以後、この研究・開発グループにて、これら多くの問題の解決に当たることになった。

 

 

ブルートレイン「あさかぜ」から夕闇に沈んでゆく東京の街を眺めていると、陶淵明の「歸去來辭」が再び脳裏に浮かんだ。「あさかぜ」が、まるで故郷に向かう舟のように思えた。

 

https://ameblo.jp/sasurai-tran/entry-11401697436.html