福岡・博多慕情(その23)-「そして神戸」と粉雪の朝(完) | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

退職したい旨、営業部のA副部長に話したのは1994年の師走も押し迫った頃だった。副部長の反応は「残念だが、まぁ仕方ないなぁ ……」だった。引継ぎ等を考慮して、退職時期は1995年1月末となった。因みにK課長の退職は2月末とされた。

 

たった3人のうち2人がいなくなれば、当然にして営業部・外為部門は回らなくなる。これに対応するために、急遽、東京支店の外為課長が1月下旬から応援に来られることになり、いずれは営業部の外為課長に就かれることが予定された。

 

私が退職する話は、営業部のA副部長から古巣の資金証券部や東京の市場証券部にあっという間に広まった。数名の同僚や元・上司から「本気かっ!やめとけ!」とか「また勉強する気かっ?本当に大丈夫かっ?」など様々な声があった。

 

 

1995年はいつもより静かに明けた。銀行は1月4日(水)からの勤務だった。1月の人事異動が週末の1月6日(金)に発令された。もちろん、退職予定の私は異動の対象外だが、異動が目されていた貸付の主任などを含めて営業部でも結構な人数の動きがあった。

 

そんな中、本部のある部門の副部長が神戸支店長に異動された。何度か話したことがある穏やかな方だった。神戸支店は資金証券部の部内旅行でもお世話になったところである。銀行を去る立場にありながら「神戸かあ!外為もあるし良いなぁ~」などと暢気(のんき)に考えていた。

 

このような長距離の異動の場合、赴任までに1週間程度の猶予があるのが普通だった。その副部長の赴任日は翌々週の3連休明けの火曜日に予定されていた。

 

 

その日、1995年1月17日(火)未明。マグニチュード7.3(震度7)の兵庫県南部地震(阪神・淡路大震災)が神戸の街を襲った。これによりN銀行神戸支店は甚大な被害を受けて壊滅した。その副部長は前日には神戸に入っていたが、赴任日当日「赴任しようにも支店に辿り着けない。それどころか支店がない。」状況だったと後に聞いた。

 

1995年1月17日(火)朝、自宅でNHKニュースを見ていたが地震の話は無かった。チャンネルを回していてある映像に目が留まった。テレビ東京系だった。

 

そこには、灰色の寒空の下、高速道路が見える大都市のあちこちから炎や黒煙が上がっている光景が映しだされていた。また高速道路が倒壊しかけていた。映像に目が釘付けになった。どうやら神戸らしい。「神戸でとんでもないことが起こってる!」と思いながらも、自宅を出て駅への道を急いだ。

 

 

1995年1月の後半は、送別会を兼ねての飲み会が多かった。資金証券部の同僚、営業部の同僚、また中途採用組との飲み会もあった。その頃、二次会などでカラオケに行くと、何となく「そして神戸」を歌っていた。涙があふれてきた。 

 

すべての飲み会が終了した1995年1月31日(火)N銀行を退職した。

 

 

当時の取締役・M本店営業部長は実は小倉西高の先輩だった。M部長は私の4年ほどの銀行員としての生活を大学に喩えられ「N銀大学を卒業したと思ってこれからも自分の目標に向かって頑張って欲しい」との(はなむけ)の言葉を下さった。

 

私は「N銀行の本部や本店営業部で働けて光栄でした。神戸の街の復興を見つめながらこれからも頑張っていきます。」と挨拶をした。

 

 

翌、1995年2月1日(水)朝、目が覚めると博多の街は突然の粉雪に見舞われていた。

 

 

本記事にて「福岡・博多慕情」編は終わりとする。なお、本福岡・博多慕情」編の記述は過去および現在の特定の企業(金融機関)や官公庁、また大学や個人を何ら誹謗・中傷するものではないことを付記しておく。

 

 

次回からは時計を少し進めて、英語の再勉強を始める1999年3月あたりから「続・英語の散歩道」編を始める予定である。