安田保険学校(その6)-13本のカメリア-事務管理部へ | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

武蔵野女子大(現・武蔵野大)が近くにあったからか、喫茶「タンパ」には少女マンガがたくさん置いてあった。

 

会社帰りのある日「タンパ」で夕食を食べながらある少女マンガを読んでいた。どういう訳か涙が止まらなくなった。そのタイトルは「13本のカメリア」というものだった。カメリア(Camellia)とはツバキ(椿)のことである。

 

寮に戻ってから新内一課同期のSHにその話をした。SHは九州出身で何かとお互い悩みを打ち明け合っていたが「〇〇のそんな純粋で優しい心は失わずにずっと持っていた方がいいぞ!」と私に言った。実はこのSH、課内では「鬼畜」と呼ばれていたのだが……。

 

2~3年前、この「13本のカメリア」を思い出し、AMAZONで中古品を入手して読んでみた。わたなべ雅子著の哀しい物語だった。ただこの程度のもので涙が止まらなくなるとは……、当時かなり感傷的になっていたように思われる。

 

http://frostmoon.sakura.ne.jp/diary/archives/4044

 

新内一課内はいくつかのシマにわかれていた。審査担当がAデスクからFデスクまであり、各デスクに主査が居て10名弱のメンバーで構成されていた。主査はベテラン女性社員が殆どで、先輩男性が主査のデスクもあった。それ以外に計上デスク、照合デスク、課長席があり総勢80名くらいの課だった。

 

各デスクに3~4名の新人男子が所属していた。定期的に「デスク会」と呼ばれる懇親会が催された。若い女子社員も多く公的な合コンみたいなものだった。デスク会の場所は吉祥寺が殆どだった。

 

当時、吉祥寺駅南口(?)のガード近くに「ひまつぶし」というカラオケスナックがあった。デスク会や同期との飲み会の二次会で「ひまつぶし」でよく歌った。以後、内務部を出て事務管理部(総合システム部)に異動した後も「ひまつぶし」には随分お世話になった。

 

 

通勤は基本的にバスだったが、ある日の帰りのバスの中、私の目の前に課内計上デスクの女性が座っており少し話をした。会社経験は長いが私より年下、ちょっと魅力的な人だった。ほんの10分ほどの会話だったが心がときめいた。

 

そのバスは吉祥寺駅行きだったが「飲みに行きませんか?!」と誘う勇気も無ければ、財布の中に金も無かった。情けない話である。だが、この計上デスクの女性、その後HYを交えたグループで何度か遊びに行ったり飲みに行ったりすることになった。

 

実は、私はジェットコースターなどの絶叫マシーンが大の苦手なのだが、課内でそんな話をしたところ……、なんと上記グループで「豊島園」(20208月閉園)に行くことになった。

 

時期的には事務管理部に異動になった後のことだが「豊島園」で絶叫マシーン8つくらいに乗った後、渋谷のキングスベンチ(King’s Bench)というパブで飲んだ。絶叫マシーンで心身ともに緊張していたためか、いくら飲んでも酔えなかった記憶がある。

 

 

1983年の3月下旬、父母が東京に来た。父が俳句を嗜むからか平泉、山寺や立石寺など芭蕉の「奥の細道」の足跡を辿った帰途、東京に立ち寄り私に会いに関前寮に来た。父母とも寮の設備の素晴らしさに感激していた。この時のエピソードは「国立の思い出」(その⑥)にも記載しているが、父母とも何となく安心して九州に帰って行った。

 

 

その翌週の1983324日(木)、41日付けで事務管理部付異動の内示を受けた。同期123名のうち7名が事務管理部付に異動になった。新内一課にも他に1名いた。彼には、以後、部内・課内で随分とお世話になった。

 

19834月以降、当時の安田火災のスローガンである「拡大・均衡・効率化」の「効率化」の一翼を担う戦士として、事務管理部で壮絶な戦いが始まることになった。