効率化の牙城にて(その1)-事務種類と「Zの悲劇」 | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

内務部から事務管理部付に異動になった者の内訳は、自動車内務課1名、火災内務一課・二課で合計3名、新内一課2名、および新内二課1名の合計7名であった。

 

我々は、これから2か月間、事務管理部で情報処理の基礎についての研修を受けることになった。またまた研修である。

 

研修内容はIBMMVSMultiple Virtual Storage)と呼ばれるオペレーティングシステム(OS)や、COBOLCommon Business Oriented Language)という共通事務処理用のプログラム言語が中心だった。研修は事務管理部・電算課およびオンライン課が中心で担当した。

 

我々7名を除く同期116名は、引き続き内務部で研修を受けながら61日付けの人事異動を待つことになり、我々も61日付けで事務管理部の各課に配属されることになった。

 

事務管理部の講習は、我々7名に加え19834月入社の女子社員で事務管理部(情報処理部門)に配属された4名も受講した。全員が短大卒だったので私より4歳年下だったが、彼女たちは事務管理部では同期という位置づけになった。

 

 

情報処理と聞いて、学生時代の「情報処理論」の講義を思い出した。その講義ではフォートラン(FORTRAN)と呼ばれる科学技術計算用の言語が使われたが、COBOLは事務計算用なので加・減・乗・除のみで平方根(ルート)すら無いもので少し興ざめだった。

 

どちらかと言えば、フローチャートを書くなど論理的な思考が中心で、プログラムのコーディングも面倒臭い部分が多く、私にとっては決して得意な領域ではなかった。

 

とは言いながら……、何とか2か月間の研修を終えた1983527日(金)17:00頃、講習室内で事務管理部電算課配属の内示を受けた。7名中2名が電算課、1名がオンライン課に配属された。この2つの課は後に「電算オンライン課」に統合されることになった。

 

残り4名は、それぞれ火災保険課、積立保険課、精算課および本店システム課に配属された。

 

 

異動内示の日は、自分のことより新内一課の同期のことが気になっていた。自分の内示の発令が終わると直ぐに5階の新内一課に向かった。私が到着したときは、既に発令が終わった状況で、課内では同期たちの阿鼻叫喚(あびきょうかん)(?)の嵐が吹き荒れていた。その日は、午後7時くらいから内務部各課ともに大送別会が予定されていた。

 

同期の異動先の詳細については、いずれ何処かで書くこととしたい。なお、宴会が終わって寮に帰り着いたのが翌朝6時頃だったこと、また寮に、どういうわけか、何処かの飲み屋か喫茶店の立て看板や、バス停のベンチまでが運び込まれていたことをここでは付記しておきたい。

 

それから10日間ほどのうちに、同期116名は本店を含め、北は北海道から南は沖縄まで全国の支店・支社に散っていった。

 

人事異動直後の日曜日、新内一課の同期何人かで井の頭公園を散策した。湖面を戯れる水鳥を見つめながらある同期が言った。「いいなぁ~鳥は!人事異動が無くて……!」。別名「ポケノオー」と呼ばれた男が残した名台詞(せりふ)だった。

 

 

事務管理部では「事務種類」と呼ばれる保険種目や業務内容毎の区分があり、それがアルファベットのA~Zで表現されていた。詳細な区分は以下の通りである。

 

事務種類

業務内容

事務種類

業務内容

事務種類

業務内容

積立

住公

株式

精算

経理

人事・給与

自動車

財形

財務

YES

貨物海上

新計上システム

船舶

新種

代理店管理

火災

O

沖公

オンライン

営業店成績

パッケージ

システム管理

保険金

営業サービス

運用管理

自賠責

再保険

 

※事務種類DのYESはYasuda Enhancement Systemの略、また事務種類Vの新計上システムともに1988年頃から適用。

 

因みに、当時の電算課の事務種類はYとZ、私が配属された電算課内データ管理チームの事務種類はZだった。電算課ではアプリケーション担当各課(上記、X、Y、Z以外の事務種類)のプログラム開発(システム開発)の支援なども行っていたが、その実、課内で作成されたプログラムの管理は、医者の不養生とも言うべきか、杜撰極まりない状態だった。

 

当時、事務本部内でまだQCサークル活動が行われていた時代で、年1回発表大会も行われていた。この杜撰なプログラム管理を改善すべく、電算課1年目の秋、課内でプログラム管理をテーマとしたQCサークルが結成され、そのリーダーに任命された。

 

そのQCサークル活動のサークル名は「Zの悲劇」であった。