「国立の思い出」(その⑥) | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

1979年の秋に最初に訪れて以来、国立という街は何度か私の人生とすれ違い、その進路に少なからぬ影響を与えてきたように感じる。実に不思議な街である。まあ、人にもそんな人がいるだろうが…。

 

1983年の春、内務部での研修が終わりに近づいた頃、私の父母が東北旅行の帰りに東京に立ち寄って私の独身寮に来た。その時、私の両親と寮の玄関の応接で話をしたのが、同期のHYとSHだった。

 

このHYも一橋・商学部の出身だが彼とは新入社員の合宿研修で同じ班になって以来の腐れ縁(?)で今も親交が続いている。またSHは私と同じ課で大分県出身だが、彼の当時のボロ車で私の両親を職場(事務本部)と国立に連れて行ってもらった記憶がぼんやりと残っている。

 

 

話は戻るが、中和寮での麻雀について言えば私の成績は酷いものだった。これには東・西の麻雀ルールの違いも若干関係したかも知れないが、まあ私の実力はその程度だったと思う。

 

仮面浪人⇒一橋の友人はその年(1979年)の暮れに京都を訪れた。私の下宿に泊まり大学、学生街、行きつけの飲み屋などを巡り、当然にして私の雀友たちと麻雀を打った。

 

雀友たちが「自分!麻雀、結構やるらしいな!?」と関西弁で尋ねると、彼は「いえいえ!牌を揃える程度で!」と慇懃に答えた。それに対して、雀友たちは笑いながら「何言うてんねん!!」と返した。

 

こちらは精鋭部隊で迎え撃ったが、彼はほぼトントンの成績で京都を去っていった。これについては今でも少し屈辱的な思いが残るが、それだけ(勉強もせず)麻雀を打っていたからだろうと推測する。

 

彼とは、地元で共通の友人の結婚披露宴で会って以来、35年以上音信が無い。何時か何処かでこの記事を読んで連絡をくれることを期待している。