個人の顧客からの翻訳依頼には記憶に残っているものが多い。これもそんな個人顧客からの依頼だった。
依頼者は初老の紳士だった。自分の所有する車を寄贈したい旨の文書を英訳して欲しいという。
彼の愛車は1962年式のBMW。購入したのは1987年で、それ以来30年以上可能な限りの整備を重ねながら車を運転、維持しているとのことだった。
ただ、自分の年齢、車の寿命等を考えるといずれは手放さざるを得ず、それがあまりに忍びないため何とか寄贈という形が取れないかという文面だった。
当初はドイツ領事館を通じてドイツのBMW本社に掛け合ったが相手にされず、何処から調べたのか東京の在日スイス大使館を通じて「スイス交通博物館」への寄贈検討の依頼だった。
彼の手紙には、30年以上苦楽を共にしてきた人生の伴侶のような愛車への思いが切々と綴られていた。
「…… 一年、一日でも長く乗っていたいのですが、近い将来、私の命、または車の寿命、どちらにしても必ず来るであろう別れの時、こればかりは避けて通ることは不可能です。」
「…… これは私のわがまま、こだわり、夢かもしれませんが、ご検討いただければうれしく思います。最後にスイス連邦共和国、並びにスイス交通博物館の益々の発展、繁栄を心からお祈りいたします。」という言葉で締めくくられていた。
本件は、外注の登録翻訳者に任せることは無く、私自信が一次翻訳を担当し元・上司のGさんにチェックを依頼して納品した。
納品時、翻訳とは人の夢を叶えさせることができる素晴らしい仕事なんだと改めて思えた案件だった。
その後、依頼者から連絡は無かったが今も彼の夢が実現できたであろうことを祈って止まない。
閑話休題 ……。今年は梅雨明けが早く既に暑い日が続いているが、今回は環境関連の専門用語について少々書いてみる。
「省エネ」は英訳すると普通は energy saving である。これを「節約」という意味のやや格式のある語 conservation を使って energy conservation ということがある。
「法」は普通 act を使うので「省エネ法(略称)」を英訳すると energy saving act となる。実はある翻訳者がこれを energy conservation law と訳していた。なんとなく違和感を持ったので調べてみた。
なんと! energy conservation law の意味は、物理学でいう「エネルギー保存の法則」のことであった。全く異なるものを示すので英訳の際には注意されたい。
なお、省エネ法の正式名称は「エネルギー使用の合理化に関する法律」でその英訳は Act on the Rational Use of Energy である。