流離の翻訳者 日日是好日 -50ページ目

流離の翻訳者 日日是好日

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

2010年の2月中旬に受験したTQE「金融・経済」英訳の出題は「金融危機とジャパン・プレミアム」と題する内容で東大大学院経済学研究科の教授の論文から出題された。「法務・契約書」とは異なり原稿にトラップは見当たらなかったが、最新の経済事情や金融用語の訳語を知っておくか、または調査する能力が問われる難解なものだった。

 

金融英語の文体については、法務・契約書の「~するものとする」の shall というわけもいかず以前紹介した参考書の文体を参考としたが結局自分なりの正解を見いだすことができなかった。やはり最新の英字新聞などを読んで文体に慣れておく必要があったように思う。2010年4月に発表された結果は69点。1点に泣く結果となった。

 

 

2010年以降、S社からは(公財)北九州国際技術協力協会(KITA)の環境案件が多数入るようになった。これはKITA経由でJICA北九州にて実施される外国人研修生に対する研修テキストの英訳をS社が一手に引き受けていたからで、公害克服都市である北九州の環境対策関連の内容が多かった。

 

 

それと前後して日本製鉄㈱関連の案件でCDQと呼ばれる設備関連の論文の英訳が入ってきた。CDQ(Coke Dry Quenching)とは「コークス乾式消火設備」のことで、コークス炉から出てくる赤熱コークスを搬送に適した温度まで冷却する設備をいいその際に赤熱コークスの顕熱を回収して発電や蒸気に利用する省エネルギー設備を指す。こちらも環境に配慮した(environment-friendly)設備であり工業・技術英語も次第に深みにはまっていった。

 

 

その当時TQEに「環境」分野も追加されており「環境」科目の英訳の受験も視野に入ってきた。「法務・契約書」⇒「金融・経済」⇒「環境」という英訳専門翻訳者としての道筋が見え始めていた。

 

 

一方で、サン・フレアから2010年春、ある案件の募集があった。「京都プロジェクト」というものである。これはWikipediaに掲載されている京都に関連した語句を片っ端から英訳してゆくというもので、単価は安いが次々に案件が入りスピーディな英訳の練習のつもりで応募した。

 

京都に関連した歴史上の人物や、京都および京都周辺の寺院や施設などに関する記述の英訳を随時こなしていった。英訳の方向性が別の分野にも拡がりつつあった。

 

 

そんな2010年の5月中旬、S社のGさんからある依頼があった。「S社にオンサイトで詰めて翻訳をしてくれないか!?」というものだった。業務内容は英訳および英訳のチェックが中心、報酬は出来高ではなく時給だという。

 

確かに工業・技術英語やコーディネーションを学ぶチャンスではあるが、一方でサン・フレアの法務案件やサイマルの金融案件に対応できなくなる可能性もある。「さて!どうしたものか?」と悩んだ結果、とりあえずS社に詰めてみることにした。

 

 

これが私の翻訳者としての一つの分岐点となった。

 

S社の忘年会は市内・戸畑駅近くの居酒屋で行われた。戸畑区全体が新日鐵(現・日本製鉄㈱)の企業城下町と言っても過言ではない。

 

待合わせはJR戸畑駅改札だったが、地元の翻訳・通訳の同業者にはどんな人がいるんだろうかと少しワクワクしていた。

 

最初にGさんが現れしばらくして女性が2名現れた。Gさんから彼女たちがS社登録の英語と中国語の翻訳・通訳者だと紹介された。Gさんを駅に残して3人で会場の居酒屋に向かった。女性のうちの一人は小倉西高の後輩であることがわかった。

 

居酒屋ではS社のK社長、翻訳・通訳部門から日本製鉄㈱の通訳がメインのUさん、編集・事務担当の女性のYさん、その他、S社登録のフリーランス翻訳者の男性2名ほどが我々を待っていた。Gさんが戻ってきて宴会が始まった。

 

 

K社長はご挨拶・乾杯が終わった開口一番、私に向かって「実は僕も京大卒なんだよ!」と仰った。私は「えっ!?」と驚き「まさかこんな場所で大学の先輩にお会いするとは思ってもいませんでした!」と正直な気持ちを言葉にした。

 

K社長は京都出身で京大・工学部⇒京大・大学院修士卒で日本製鉄㈱のOBだった。日本製鉄㈱では本部長クラスまで昇進した方で米・スタンフォード大学での留学経験があった。

 

私より7~8歳年上で会話の端々に京都弁を滲ませていた。英語も得意なようで「時々遊びで自分で英訳したりもしているよ!」と楽しそうに杯を重ねていた。

 

 

さらに、翻訳者・兼コーディネーターのGさん、K社長より1~2歳上だが、彼も私と若干の縁があった。静岡県出身で東北大・経済学部卒。学部は違えども、東北大は私が現役時に受験したところである。受験した事情を話すと彼は「先輩になり損ねましたねぇ~!」と言った。

 

Gさんは新卒で日立金属㈱に入社した。最初の配属は戸畑工場(後に廃止)だったが、一年ほどで退職し、以後は長きにわたり小・中・高校生向けの学習塾を営んで生計を立ててきたらしい。その後、S社の登録翻訳者を経て社員になって既に10数年という人だった。

 

その後、彼の英文をお手本に工業・技術英語を学ぶことになるが、実に良い師匠に師事したと思ったのは随分先のことである。

 

さらにこの忘年会では、私の生涯のパートナーとなる人に出会うことになったが、この時点では想像してもいないことだった。

 

 

あの思い出深い忘年会から既に12年余りの時が経過した。西高の後輩の女性翻訳者は2014年の秋、若くして亡くなった。また通訳のUさんが亡くなったのがコロナ禍前の2019年の秋のことである。

 

たまたまネットで地元にロシア語学習のサークルがあることを知った。2009年9月のことである。暇を持て余していたわけではなかったが遊びのつもりでメールを送ってみた。

 

サークル活動は週一回、ロシア人の女性講師が2名、活動の場所は公的な施設の会議室だった。生徒は私を含めて3名だけで授業料が実に安くボランティアに近いものだった。

 

生徒にはロシア語がかなり喋れる下関在住の70代の男性と、半導体関連の企業に勤務する30代の男性がいた。

 

若い方の男性は国内ランキングに掲載されるほど強いテニスプレイヤーでマリア・シャラポワ(Мари́я Ю́рьевна Шара́пова)の熱狂的なファンだった。ロシア語を勉強する理由は、シャラポワと直接話がしたいからだと言っていた。彼がサークルのリーダー的な存在だった。

 

先生のうちの一人はオリガ(Ольга)という女性だった。色白で小柄な美人だった。歳は30代前半でご主人は日本人、小学校低学年の娘さんがいた。

 

 

ロシア語の文字はキリル文字といい、ギリシャ文字がドイツからポーランドなど東欧を経由して変化したもので、アルファベットとは似て全く非なるものだった。発音はギリシャ文字の読み方に近くて響きが美しかった。文法には非論理的なところもあったがとにかく難しかった。また単語のスペルがやたら長いのも特徴だった。

 

キリル文字にも筆記体があった。芸術的に美しく書けるようになろうと相当に練習した。当時、毎日2時間くらいをロシア語の勉強に充てていた。

 

講師の女性たちとある程度英語で意思疎通ができると思っていたが、それは大きな誤りで彼らの第一外国語はドイツ語だった。英語は全く通じず日本語の方がまだましだった。

 

 

年末には小倉の居酒屋で忘年会をするなど楽しかったが、2010年に入って講師の一人が病気で帰国することになり結局サークル自体が消滅した。5か月ほどのロシア語の不思議な世界だけが脳裏に残った。

 

 

ロシア語の学習と前後してサン・フレアから変わった案件が入った。TQE「金融・経済」の英訳の一次採点と講評で「こういうものも翻訳者に依頼するんだ!」と思った。

 

サイマルの「金融」のトライアルに合格したことはサン・フレアにも報告しており、まあそれも依頼があった理由かなと感じた。

 

 

20数名ほどの答案を拝見・採点したがWORDのフォントやポイント数など基本的なルールを守っていない受験者も見られた。まあ英訳文は「ピンからキリまで」といったところだった。それでも2名くらい合格点を付けて提出した。

 

その後、二次採点者、最終採点者を経て発表されたその回のTQE「金融・経済」には残念ながら和文英訳の合格者はいなかった。私の採点は甘かったようである。

 

なお、この案件に触発され、結局2010年2月にTQE「金融・経済」の英訳に挑戦した。その結果は、いずれ何処かで書くこととしたい。

 

 

2009年12月上旬、S社の翻訳部門の忘年会に招待された。S社の社長や翻訳部門のスタッフ、また地元の翻訳者・通訳者の方々と初めて顔を合わせた。その忘年会の席上、私の人生において貴重ないくつかの出会いを経験することになった。

 

2009年度開始早々、地場のS社からやや大きな規模の英訳が入った。ある製造業の安全衛生関係マニュアルの一式で、工業技術の知識に加えて、労働安全衛生法およびその施行令・規則などの知識も必要な難解なものだった。ネットで調査しながらの英訳、また訳文のEXCELへの入力も面倒だったが、1か月近くかけて何とか仕上げた。

 

 

その一方で2009年の春過ぎから、同じくS社から契約書の英文和訳のチェックの依頼が入るようになった。「誤訳・訳抜けなどをチェックして契約書らしい日本語にしてほしい」との依頼だった。一時翻訳者は地元の年配の女性で昔は東京・丸の内でBG(笑)(今でいうOL)だったそうで、確かに訳文が古臭く不自然なところがあった。

 

例えば「それぞれ」と訳すべきところが「夫々」(笑)と表記されていた。これではまるで漢文の書き下し文である。ただこの人、パソコンが使えずワープロユーザーだったが、恐ろしく翻訳速度の速い人だった。確かに一次翻訳はある程度のスピードが要求された。

 

フロッピーディスクに格納されたデータを、PCに読み込ませWORDにコピーしてチェックするのだが、これがなかなか面白い。古臭い訳語などは一括変換できるのでさほど負荷は掛からなかった。訳文がどんどん契約書らしくなっていった。

 

チェック後の訳文の顧客からの評価も高かったようで、これ以降、契約書の和訳チェックは必ず私に来るようになった。

 

 

さらにS社からは工業・技術関連の大規模な英文和訳(一次翻訳)も入るようになった。和訳はトライアルを受けたわけではなかったが、先方からの依頼を断るわけにもいかなかった。工業製品・設備の仕様書や取扱説明書が中心である。中には数百ページにわたる英文もあった。

 

このような大規模な翻訳では、数名の翻訳者で分担して訳すのが普通である。但しその場合、主要な語彙の訳語の統一を図る必要があった。S社にはベテランの工業・技術系翻訳者・兼コーディネーターのGさんという人がいて、その人がこのような訳語のテーブルを作成して翻訳者に配布していた。

 

地元に同業者がいることやこんな協同作業があることが、日頃感じていたフリーランス翻訳者としての不安定な心境に「自分は一人じゃない!」のような微かな安心感を与えていた。

 

 

そんな英文和訳や協同作業を通じて少しずつ翻訳コーディネーターの仕事に興味を持ち始めた。さらに、何時の日か「S社の下で地元の翻訳者を束ねて大きな製品を作ってみたい!」のような気持ちを持つようになっていった。

 

なお、このS社の翻訳者・兼コーディネーターのGさんの下で、私が一から工業・技術系の翻訳やコーディネーションの実務を学び始めるのは、それから1年ほど先の2010年5月半ばのことになる。

 

 

2009年春の選抜高校野球大会(センバツ)では、長崎の清峰高校が長崎県勢として春夏通じて初めて全国制覇を果たし紫紺の大優勝旗が関門海峡を渡った。

 

センバツの大会歌、谷村新司さんの「今ありて」が歌われるようになったのは前年2008年の春からである。その歌詞の中に以下の文面がある。

 

 

「♪~ 新しい季節(とき)のはじめに 新しい人が集いて

頬そめる胸のたかぶり 声高な夢の語らい

ああ甲子園 草の芽 萌え立ち 駆け巡る風は 青春の息吹か

今ありて 未来も扉を開く 今ありて 時代も連なり始める ~♪」

 

 

少しだけそんな気持ちになった2009年の春が過ぎていった。

 

2008年11月下旬から2009年の年越しに掛けて、翻訳者として最初の繁忙期を迎えた。いわゆる「翻訳冬の陣」である。3社から入ってくる仕事の納期をコントロールしながらこなしていかなければならなかった。

 

長時間椅子に座る翻訳者にとって目・肩・腰の疲れは恒常的なものであった。コルセットを付けて作業するのが普通で、必要に応じて整骨院や温泉施設で疲れを癒していた。

 

 

サイマルからは金融のほか財務諸表関連の英訳も入るようになり、会計英語取得のため以下の書籍を読んだが、IBMの財務諸表を前提としたケース・スタディ的なもので基礎知識の修得にはあまり使えなかったように思う。

 

・「英文会計の基礎知識」(西山茂著/ジャパンタイムズ)

 

納期に追われつつその合間に金融や会計英語などの勉強を続けながら「翻訳冬の陣」が過ぎ去り年度も替わりイベントが少ない日々が続いていった。

 

 

ここで少し、私が生まれ育った町、すなわち小学校や中学校の校区に目を転じてみたい。

 

私が生まれ育ったのはJR南小倉駅が最寄りのKという町で、昭和の頃は子供も多く賑やかな町だった。ただ町の開発時期がモータリゼーションより前だったため、道幅が狭く平成に入った頃から大型店などが進出できず市街地化が立ち遅れていた。

 

その後、数少ないスーパーなどの店舗も閉店し不便で老人ばかりが住む「化石の町」となっていた。

 

 

私の生家には母方の伯父夫婦が住んでいた。夫婦には子供が居なかったため私や弟を小さい頃からよく可愛がってくれた。伯父の話はいつも脚色がなく面白かった。伯父は地場の電力会社に定年まで勤務した。電柱を建てるための土地の買収などを担当した時期もあった。

 

ある時、土地買収のために地主である農家の兄弟を接待した。彼らは当初「私ら酒はあんまり飲みきりまっせんけっ!」などと接待を断ったが、それでも伯父は「まあそう言わんと!」と店を予約した。

 

接待の当日、伯父は緊急な会議が入り1時間ほど遅れて宴会場に参上した。するとその農家の兄弟は …… 「何があんた!『酒はあんまり飲みきりまっせん?』どころか、完全にでき上がって二人で裸踊りをしとった!」状態だったという。

 

そんな、私と弟が大人になっても大笑いできるような話をしてくれた伯父だった。

 

 

伯母は早くに亡くなり、独り暮らしの伯父が倒れて施設に入ったのは私が翻訳者になって直ぐのことだった。生家は空き家状態となったが懐かしさから時々近くを車で通った。町は凋落する一方だった。

 

それが昨今やっとバイパスが通ることになり、2010年くらいにその一部が開通した。少しだけ町に血液が流れだしたように感じた。

 

 

近くの山頂に立つ観音像が私や私の家族、また優しかった伯父夫婦をずっと見守ってきた「化石の町」。その伯父が亡くなってもう5年余りとなる。

 

京都旅行と前後して2つのイベントをこなした。一つは父の一周忌、もう一つは中学3年時の同窓会である。

 

父の一周忌は母や弟の家族と市内の寺院にて済ませた。翻訳者となった姿を父に見せられなかったことが悔やまれた。

 

 

中学3年時の同窓会は、マスコミ勤務の同級生Fが幹事だった。Fは中学の生徒会で書記を務めた男で小倉高校から九大・法学部へ進み、卒業後は大手新聞社に勤務していた。

 

私はFを小学校の頃から知っていた。頭脳では親友のJと張り合っていたが、人望や男らしさの面で明らかに劣った。まあ陰でいじめなどもする奴だった。なおJについては「北からの使者」や「六月の冷たい雨」に記載している。

 

 

中学3年時の同窓会に参加したのは随分と久しぶりだった。会場は市内の「小倉飯店」だった。飲み会は昼から始まったが、大方の予想通り、担任の暴力教師(笑)のS先生は一次会で早々とでき上った。同級生たちは喫茶店で喋ってからカラオケへ。カラオケが終わった時点でお開きにする予定だった。

 

なお、中学3年時の担任のS先生については「遅刻撲滅運動と全体リレー」にそのお人柄などについて記載している。

 

 

そのときFが「もう一軒行こう!」と誘ってきた。「まあいいか」と考え付き合うことにした。当時、市・水道局の冊子「水道事業の概要」の中規模英訳に取り組んでいたが納期は迫っておらず時間的に余裕があった。

 

はっきり言ってFは酒癖が悪い、というより酒乱だった。やたら私に絡んできた。最初は黙って聞いていたが「多額の国税を投入した大学を卒業したんなら翻訳などやらずもっとまともな仕事をやれ!」などと言い始めた瞬間、Fを思いっきり殴っていた。「たかがマスコミが何を偉そうに!お前は大蔵省か!?」と吐き捨てるように言って代金を払って飲み屋を出た。

 

その場ではスッキリしたが後味が悪かった。翌日、担任のS先生や同級生にFとの経緯を相談してみた。その結果、Fがそれまでも酒の上で同級生とトラブルを起こしていることを知った。「なんでそんな奴に幹事なんかさせるんだ!」と思った。

 

 

Fとの確執は以後も続いた。それから2年後の2010年秋、同窓会の幹事を私と同級生の女子のペアで行うことになった。その同窓会の席上で担任のS先生が酔いつぶれる前、先生の眼前でFは同級生の全員から吊るし上げられることになった。まあ当然の報いであった。

 

 

英語に関して言えば2008年秋くらいから2つのことに悩まされていた。一つは冠詞の使い方、もう一つは技術英語における数量や単位などの表現である。

 

冠詞は「前置詞3年、冠詞8年」と言われるほど難解であり、以前から理論的に学ばなければと思っていた。また、数量や単位などの表現についてはS社からの工業・技術の案件で正確な知識を得る必要があった。これらに関して、当時読み始めた書籍は以下の通りである。

 

①冠詞について

・「英語の冠詞ドリル」(椎名照雄著/ジャパンタイムズ)

・「わかりやすい英語冠詞講義」(石田秀雄著/大修館書店)

 

②数量などの表現について

・「基礎からわかる数量と単位の英語」(銀林浩・銀林純/日興企画)

・「基礎からわかる数・数式と図形の英語」(銀林浩・銀林純/日興企画)

 

 

2008年9月中旬。トライアルに合格した㈱サイマル・インターナショナルの話を聞きたいと思い大阪まで行くことにした。電話だけでも良かったがこれからの翻訳業務について実際のところを聞いてみたかった。

 

 

サイマルの関西支社は当時淀屋橋にあった。淀屋橋は「実録・淀屋橋の戦い」以来、随分久しぶりだった。コーディネーターの方、男性1名と女性2名と1時間余り話をした。サイマルからは一次翻訳および校閲(チェック)も入ることがわかった。

 

サイマルの単価はやや割高だった。これは設定方法の違いも関係した。S社やサン・フレアが、①訳文200ワードあたり○○円という形であるのに対し、サイマルは②原稿400文字あたり○○円という形だった。①の場合、冗長な訳文を作れば翻訳料金が高くなるが、②では変わらない。以前書いたように、当時の私は節より句を多用していたため何となく割高感があった。

 

 

淀屋橋を後に京阪電車で京都に出た。岡崎にホテルをとっていた。夕刻から学生時代の友人たちと一乗寺の「炉端焼 京八」で飲むことになっていた。

 

ホテルにチェックインして荷物を置き、徒歩でとりあえず大学へ向かった。大学1・2回生時は吉田二本松町に下宿しており岡崎から吉田にかけては思い出が多い街並みが続いていた。喫茶「風媒館」は健在だった。

 

下宿の横を通って京大正門にたどり着いた。時計台を一周して構内を北に抜けて今出川通りに出た。時計台の背面は近代的に改築されていた。「進々堂」に入りコーヒーを飲んだ。木製の長机に腰かけて中庭を眺めていると時の流れに黄昏れた。

 

 

今出川通りから、若草色の市バスに乗り一条寺に向かった。銀閣寺道を左折して白川通りへ入ると再び懐かしい街並みが車窓を流れていった。バスを「一乗寺下り松町」で降り、思い出深い「曼殊院道」を京福電鉄の一乗寺駅まで歩いた。引き返して大学3・4回生時に住んだ一乗寺燈籠本町へ向かった。

 

当時新築だった雲母坂(きららざか)沿いのアパートは28年余りの時を超えても健在だった。銭湯「雲母湯」が目に入った。既に営業しており入浴したい衝動に駆られて暖簾をくぐった。京都の銭湯は何処も湯温が高い。残暑厳しい京都で却って汗をかいてしまった。

 

 

「雲母湯」を出て、友人たちが待つ一乗寺宮ノ東町の「炉端焼 京八」へ向かった。「京八」のマスターとママさんは私にとって「京都の両親」と言えるくらいお世話になった方々だった。

 

店の風情もメニューもあまり変わっていなかった。友人たちとマスター、ママさんに囲まれて学生時代の話に花が咲いた。懐かしさに涙が出た。

 

 

翌日は大学の周辺、百万遍から北白川、今出川通りを散策した。喫茶「アラビカ」ではママさんと少し話ができた。懐かしいメニューはワンコインの「オムライスセット」。昼下がりの通りには蜩の鳴き声だけが響きわたり雑音を消していた。

 

 

リフレッシュできた京都の旅を終え、翌日からまた気持ちを新たに翻訳原稿との格闘の日々が始まることになった。

 

 

2008年5月下旬以降、地元S社の工業・技術中心の英訳に加えてサン・フレアから法務・契約書の英訳業務が入り始めた。だんだん多忙にはなってきた。

 

地場のS社と東京の大手翻訳会社サン・フレアの翻訳業務の違いは以下のような感じだった。

 

①S社

・原稿は新規が多い

・語彙は翻訳者任せ(調査は必要、自由度が高い)

・文体も翻訳者任せ(受注時に相談、自由度が高い)

・EXCEL・PPT原稿への英訳の入力は任意(入力時は有償)

・納期はコーディネーター⇔翻訳者で相談(比較的楽)

・単価はやや割高

・翻訳後のコメントの提出は任意

 

②サン・フレア

・原稿は新規および既存文書の一部変更あり

・語彙はコーディネーターが指定(用語テーブル送付、自由度が低い)

・文体もコーディネーターが指定(仕様書に記載、自由度が低い)

・EXCEL・PPT原稿への英訳の入力指示有り(原則無償)

・納期はコーディネーターが指定(対応不可なら他の翻訳者へ、比較的厳しい)

・単価はやや割安

・翻訳後のコメントは指定フォームでの提出が必須

 

②サン・フレアでは明らかに翻訳製品の製造工程が標準化されており、品質管理ができる環境が確立されていた。しかし翻訳者にとってみれば、自由度が高い①S社の方が楽しくかつ面白く翻訳作業ができた。

 

なお、EXCEL・PPTへの英訳の入力については翻訳ソフトなどを使えば自動入力ができるため一概に②サン・フレアの負荷が高いとは言えなかった。単価についてあまり差は無かったが、納期に関しても②サン・フレアにライバル翻訳者が多いことは間違いなかった。

 

 

しかし、翻訳ソフトなどを導入していない私にとって②サン・フレアの厳しい納期やEXCEL・PPTへの英訳の入力は随分負荷が高かった。睡眠時間を削りながらの辛い作業が続いた。また、品質を落とせば次の仕事が来なくなる可能性もあった。これがフリーランス翻訳者の辛いところであり弱みでもあった。

 

 

そんな厳しい翻訳作業にも慣れてきた2008年7月以降、作業の合間を縫って他の翻訳会社数社のトライアルに挑戦した。ネット上で翻訳者を募集している翻訳会社は多数あった。法務と金融分野の和文英訳に挑戦したが、トライアルの申込みを行っても反応が無い会社や、トライアルの訳文を送ってもいつまでも結果を通知して来ない会社もあった。

 

 

なお金融分野に挑戦するにあたり、当時読み始めた金融英語関連の書籍は以下のものである。

 

・基礎からわかる金融英語の意味と読み方(西村信勝他著/日興企画)

・Economistの記事で学ぶ「国際経済と英語」(吉本佳生他著/日本評論社)

・Economistの記事で学ぶ「国際金融と英語」(吉本佳生他著/日本評論社)

・経済ニュース英語リーディング教本(小西和久編/朝日出版社)

 

 

2008年8月下旬、ある翻訳会社のトライアルに合格した。㈱サイマル・インターナショナルという会社で、連絡は関西支社(大阪)から入った。合格分野は「金融」だった。

 

 

2008年5月。サン・フレア アカデミーでのTQE合格者説明会に参加した。上京するのは随分久しぶりで、前回は日本長期信用銀行(後に経営破綻、現・新生銀行)主催の金利スワップのセミナーに参加した地方銀行勤務の時代だった。

 

中央線の阿佐ヶ谷にホテルをとった。チェックイン後、中央線を西へ移動し思い出深い吉祥寺や武蔵境へと向かった。吉祥寺をブラブラと散策「キンテツウラ」は跡形も無かったがサンロードなどの商店街に以前の風情が残されていた。

 

武蔵境北口は大きく変貌を遂げていた。駅前の目抜き通りに昔の面影は殆ど残っていなかった。ちょうど退勤時刻に重なったのか、見覚えのあるバスが北口駅前に到着した。損保ジャパン(旧・安田火災)事務本部経由の便だった。降り立った乗客に見覚えのある顔があったが敢えて声は掛けなかった。

 

 

ホテルに戻った後、N証券(当時はN信託銀行に出向中)に勤務しているGEOSの仲間、JYに連絡をとった。20:00くらいから赤坂見附で軽く飲んで旧交を温めた。大手町あたりのビル群も大きく変貌していた。交通システムを含めた東京の全てが変わっていた。

 

 

翌日は5月らしからぬ冷たい雨となった。西新宿のサン・フレア アカデミーでTQE合格者説明会に参加した。午前中は認定証の交付などの式典と翻訳業務の一般的な説明、また機関誌掲載用の写真撮影もあった。

 

このとき「翻訳で何が一番大切か?」という本質的な話があった。答えは「納期を守ること!」らしい。品質はチェッカーやネイティブチェッカーによりカバーできるが納期が守られなければ全体の工程が狂ってしまうことが理由だった。自分が翻訳製品の製造工程の一部を担当する一次翻訳者であることを改めて認識した。

 

 

午後、翻訳コーディネーターと個別面接があった。これまでの業務経験や資格、また翻訳単価や今後の希望など本音で話ができた。この時のコーディネーターの方にはそれからも数年にわたりお世話になった。

 

 

夕刻から西新宿で旧・安田火災「いいとも会」のメンバーと飲むことになっていた。場所は新宿センタービルの「音音」という居酒屋だった。

 

飲み会までまだまだ時間があったので埼京線で池袋に出た。雨の池袋西口を散策した。西口は大きくは変わっておらず「ロマンス通り」などは昔の猥雑さをあちこちに残していた。

 

 

夕刻、旧・安田火災「いいとも会」メンバーが「音音」に集合した。公認会計士になったITのほか、メンバーの全員が安田火災本体を離れて別会社で勤務しているという不思議な符合が見られた。安田火災・関前寮時代の懐かしい話に花が咲いた。

 

 

この日は祝勝ムードの中で浮かれていたが、地元に戻りサン・フレアから実際の翻訳業務を受託するようになって、翻訳の苦しさ、納期の厳しさ、また翻訳業務自体の恐ろしさを嫌というほど思い知ることになった。

 

2008年3月。S社から最初の仕事が入った。技術文書の英訳で小規模なものではあったが初めて自分の英文が金に変わった。NOVAで英会話を勉強しようと一念発起してからまる9年が経過していた。

 

初仕事を終えてから、市内の学習塾や予備校講師の面接を受けた。英語の模擬授業をさせられたが人にものを教えた経験も乏しく得意でも無かった。ただ当時は翻訳をまだ副業と考えていた。

 

 

2008年4月に入り、S社に対して初めて請求書を発行しまさに個人事業主になった。それと入れ替えにS社から中規模の英訳が入った。今度は内部統制に関するもので法務関連の規定であり専門分野だった。

 

 

その一方で、2月のTQEの結果発表を翌週に控え落ち着かない日が続いていた。

 

2008年4月15日(火)。TQEの結果が郵便で届いた。英文和訳は67点で不合格だったが和文英訳は76点で合格した。手ごたえ通りの結果だった。

 

 

翻訳会社㈱サン・フレアからTQE合格者説明会のお知らせが届いた。また正式な履歴書を作成してサン・フレアに送った。合格者説明会は5月上旬に東京・西新宿のサン・フレア アカデミーで開催が予定されていた。

 

それに備えて、産業翻訳者としての名刺を作ったり新しいジャケットを作ったりと、まずは外観から翻訳者としての体裁を少しずつ整えていった。

 

 

当時の問題は「法務・契約書の英文和訳をこれから先どうするか?」ということで、すなわち、①法務・契約書を専門として英訳・和訳とするか?または②和文英訳を専門として法務・契約書を中心に周辺分野の金融、またS社関連の技術分野などに範囲を拡げてゆくか?のいずれを選択するか、ということだった。

 

自分の気持ちは明らかに②だった。3回のTQEの受験を通じて英訳の面白さにとり憑かれていた。ちょっと悩んだが「英訳専門の翻訳者で行こう!」と決断した。

 

 

当時のサン・フレア アカデミーの機関誌【ぷらす】PLUSに掲載された「TQE合格者喜びの声」に、以下のような文を私は寄稿している。

 

因みに、その回のTQE合格者の内訳は英文和訳が23名(全員3級)、和文英訳が12名(全員3級)、また文芸分野の英文和訳に2級合格の男性が1名いた。法務・契約書分野では英文和訳2名、和文英訳5名が合格した。和文英訳は私以外の4名はすべて女性だった。

 

 

「……  和文英訳の醍醐味は単語・表現や構文の選定にあると思います。ただし法務文書に関しては、できるだけ法務で多用される単語や表現を用いること、また節より句を用いたほうが文体がすっきりして冗長性がなくなること、講師よりご指導いただいたこの2点を念頭において英文を完成させました。 ……  将来的には、法務だけでなく他の分野の日英翻訳についても学びたいと考えております。 ……」