公務員試験も差し迫った1981年の6月のある土曜日。E2の友人に「近くのパブ『話飲亭』で飲み放題やっとるぞ!今晩飲みに行かんか?」と誘いの電話を掛けた。彼は「ええなぁ~、行こか!」と承諾した。
「農学部のJも誘ってみるわ!」と彼に告げJの下宿に電話を掛けた。Jは「すまん!月曜までにやらにゃいかんことがあるんや!」と答えた。「そうか!じゃあまた今度な!」と答えて電話を切った。「レポートでもあるんかな?」と思ったが……。これがJと交わした最後の会話となった。なお、農学部のJは「自叙伝(その15)-北からの使者」に記載している。
その日、私は友人と『話飲亭』で大酒を飲み泥酔、友人は私のアパートに泊った。翌日、二人とも二日酔いの酷い頭痛を抱えつつ、近くの喫茶店で朝食を済ませ昼頃には友人と別れた。
週明け月曜日の夕刻、部屋のベルが鳴った。ドアを開けると隣室の農学部の4回生だった。彼とは全く付き合いがなかったので少し驚いた。彼は「うちの学部のJさん……、こちらによく遊びに来られていましたよね?!実はJさん亡くなったんですよ!」と言った。
「えっ!何でっ!俺Jとは先週土曜日に電話で話したよっ!」と言うと「Jさん先週末に自殺されたんですよ!ご両親も今京都に来られていて、今日学部葬があったところです。」と言った。紛れもない事実のようだった。「自殺」という言葉がショックだったが「とにかく友人たちに知らせるんでっ!」と彼に告げドアを閉めた。
私の友人には教養部のE2の友人の他、北予備の同級生など同郷の者が多かった。Jは私を介して私の友人たちと知り合い、飲みに行くなど親しくなっていた。Jを含め友人たちと「京八」にも何度も行っていた。
とにかく、一刻も早くこの事件を友人たちに伝えなければならなかった。大慌てでJと親しかった友人たちに電話を掛けた。法学部のH(既出)や文学部のM(後述)に電話を掛けたが繋がらなかった。とりあえずアパートを出ると、Hの下宿がある北白川に向かって歩き出していた。
Hの下宿までは歩いて30分以上掛かったが、その程度歩くのは当時は当たり前だった。京都は既に梅雨入りしていたが、その日雨は降っていなかったように思う。曇った少し肌寒い日だった。Hの下宿まで歩く道すがら、学生時代のJとの様々な出来事を思い出していた。Hの下宿に着いた頃には薄暗くなっていた。
Hの下宿に着き部屋を訪ねたが不在、同じ下宿の経済学部のKOの部屋を訪ねた。KOも小倉高出身で北予備の黒崎校にいた生徒だった。KOはJと親しくは無かったがJの事を話すと「とりあえず、これでも飲んで落ち着け!Hが戻るまでここに居ていいから!」とウィスキーの水割りを作ってくれた。
ウィスキーの水割りを飲んでいると確かに少し落ち着いてきた。午後8時過ぎにHの部屋を再度訪ねたが帰宅しておらず「Jが自殺した。電話してくれ!〇〇」と書いた張り紙をドアに残し、アパートに戻ることにした。
KOに別れを告げ、アパートに戻る途中で雨が降り出した。傘は持っていなかった。雨はだんだん強く冷たくなっていった。ずぶ濡れになって歩きながら、ハイ・ファイ・セットの「冷たい雨」という曲を何度も繰り返し口ずさんでいた。