英語の散歩道(その14)-六月の冷たい雨② | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

その日、アパートに戻ったのは午後10時近かった。とりあえず、友人たちからの連絡を待った。この辺りの記憶が曖昧だが、午後11時を過ぎたくらいに法学部のHがアパートに来た。彼も涙を流していた。その後、文学部のMが一升瓶をぶら下げて来たのが当日だったのか翌日だったのか。とにかく飲まずにはいられなかった。

 

私とH、Mを中心にJの自殺の原因について様々な推理を試みた。どれくらいの時間を費やしたか知れないが、ついに真相には至らなかった。ただ、就職・進学に対する様々な不安と失恋が複雑に絡んでいるように思われた。

 

当時を思い出しつつ、以下に事実だけを書いてみる。

 

1981620日(土)。Jがバイクで下宿を出たのは午後10時前くらいで、直前までNHKラジオで深沢七郎の「楢山節考」の朗読を聴いていたようである。当時このような番組があることさえ知らなかったが、「(うば)捨て」の悲しい物語である。下宿を出たJは、バイクを高野川沿いに停めて川に身を投げたが死にきれず、川岸に廃棄されていたタイヤのチューブで首を吊って命を断ったらしい。

 

Jは上級公務員を受験する予定だったが、農学部大学院修士課程への進学も考えていた。また、民間企業でも総合商社(丸紅?)のOBを訪問するなどしていたが、そのOBとの面談中、総合商社のビジネスのやり方について批判したらしく大喧嘩になったと聞いている。その他、「海外青年協力隊」についても興味を持っていたが、帰国後の隊員の受入れ先が保証されていないことについてよく不満を漏らしていた。

 

Jには農学部の同級生にガールフレンドがいたが、あまり深い付き合いではなかったようである。その一方で、3回生の冬に我々が企画したS女子大との合コンに参加、そのメンバーの一人と交際を始めていた。どうも、自殺の直前、Jはこの彼女にプロポーズしたらしいが、彼女の答えは「ノー」だった。そんな事情から、彼女にはJはあくまで事故死と告げるにとどめ、最後まで自殺の件は明かさなかった。

 

Jは、東京の駿台で浪人して寮生活を送っていた頃、様々な経験をしたようである。未成年にもかかわらず酒や煙草、またディスコに通い詰めたこともあったそうで、酒を飲んで終電に間に合わず公園で寝て浮浪者と語り明かしたりもしたらしい。

 

Jと再会した1回生の頃、そんな話をJからよく聞かされたが、私には何となく滑稽で作り話っぽく聞こえた。また、1回生当時、彼は既にいくつかのサークルに所属したり、学生運動に首を突っ込んだりしていたが「ちょっと、無理をしているんじゃないかな?」と感じていた。

 

ただ、Jから紹介されたディスコ・ミュージックを好きになりよく聴くようになったし、また、こちらもJから紹介された高野悦子の「二十歳の原点」を購入して読んだ。学生運動のバイブルのような書(日記)だった。

 

この日記の作者、高野悦子さんは、栃木県立宇都宮女子高から立命館大学文学部に進学、20歳の1969年の624日に自ら命を断っているが、何かとJと符号するところが多い。

 

 

この「二十歳の原点」に「旅に出よう……」で始まる無題の詩がある。以前のブログに記載している。ご一読いただければ幸甚である。