英語の散歩道(その15)-六月の冷たい雨③ | 流離の翻訳者 青春のノスタルジア

流離の翻訳者 青春のノスタルジア

福岡県立小倉西高校(第29期)⇒北九州予備校⇒京都大学経済学部1982年卒
大手損保・地銀などの勤務を経て2008年法務・金融分野の翻訳者デビュー(和文英訳・翻訳歴17年)
翻訳会社勤務(約10年)を経て現在も英語の気儘な翻訳の独り旅を継続中

Jが自ら命を断ってからというもの、彼の死を悼む友人たちが私のアパートに何となく集まっては飲んでいた。飲んではJのことを語り、思い出しては泣くという日々が続いた。

 

その間、様々なことがあった。まずは、Jの下宿(岩倉近辺)を訪ねてご両親に挨拶し、Jが所属していた研究室やその他農学部の仲間たちとの追悼の飲み会にも参加した。また、交際中の女子大生の自宅に事情を説明に行ったりした。その他、Jの下宿で所持品などの形見分けがあった。また、亡くなった現場をH、Mと訪ね酒と煙草を供え(川に流し)たりもした。結局、公務員試験は受験せず、気がつけば7月半ば近くになっていた。

 

そんな中、Jの部屋からあるカセットテープが見つかった。その中には一連の問答がJの肉声で録音されていた。それらは、①誰かがJを叱責(叱咤激励)する⇒②それに対してJが言い訳(回答)する、という形式だった。叱責するのが父親や母親だったり、友人だったり、また研究室やサークルの先輩・同僚だったり、など様々だったらしい。

 

私はこのテープは直接聴いていない。法学部のHは肉声を聴いたようだが、私なら怖くて聴けなかったかも知れない。小学校以来、周囲の生徒や先生からも期待され続けてきた優等生の22年ほどの短い人生。人知れず自分にプレッシャーを掛け、自分を責め続けたのか……。でも、それは本人のみが知ることである。

 

 

Jとは楽しい思い出も多い。私が20歳の大学2回生の夏休み、Jが突然小倉に来た。電話があり「今、小倉に着いたけど、何日か泊めてくれんか?!」と言う。両親とも働いていたし弟も受験生だったが、どうにか両親の了解を得た。だが、Jのおかげで小学校の同級生と旧交を温めたり、当時の恩師ともお会いすることができた。

 

Jはまず、小学6年時のリーダー格の女子に連絡した。彼女が皆との再会の段取りをしてくれた。彼女は西高・普通科を卒業後、近郊の短大を経て私が卒園した幼稚園の先生になっていた。小学校時代はよく話したが西高では全く付き合いが無かった。

 

Jと彼女の自宅に行くと、彼女は小学6年時に私やJが書いた「サイン帳」を出してきた。私の書いた内容を見ると……、まあ!彼女を侮辱して好き勝手に失礼なことを書いており顔が赤くなった。一方で、Jの書いたものは、彼女との別れを惜しんだ真面目な内容だった。さすがは優等生である。なお、一言付け加えておけば、この幼稚園の先生の女史、西高では書道部のエースで我々の卒業アルバムの表題「あしたへ」を書いた人である。

 

 

他にも、同級生の女子2人が彼女の自宅に集合した。このうちの1人は私も仲良しの子だった。彼女は明治学園中学・高校から広島大・薬学部に進んでいた。また、私は、彼女が小学校時代からずっとJに憧れていたことを知っていた。

 

小学校の頃から現在の大学生活のことまで話が尽きることは無く、あっという間に楽しい時間が過ぎて行った。話が一段落して、今度は小学校6年時の担任のS先生のご自宅へと向かった。実はS先生のご主人は西高の社会科の教師をされており、私の西高での成績なども全て筒抜けとなっていた。

 

先生は、小学5年時、私、J、UTの3人の担任もされたが、私については、夏休みなどに漢字の書取り帳を提出してきたのを覚えておられたそうで「〇〇さんは、あの頃漢字を書きながら力を蓄えとったんやね!」と仰った。先生は男子も女子も大人とみなして「~さん」付けで呼んでいた。UTについても覚えておられ「3人とも私の自慢の生徒よ!」と言ってくださった。ほんとに嬉しい言葉だった。なお、UTについては「英語の散歩道(その7)-「英文表現法」と迷走する心」に記載している。

 

 

Jは数日間小倉に滞在して帰っていった。旧交を温める楽しさを知った私が次に取った行動が「英語の散歩道(その10)-「黄昏」と「恋路が浜」」に繋がることになった。

 

 

大学4回生の夏、京都でのJの件が一段落して帰省したのは7月下旬だった。だが、私にはJの件を、これらの地元の旧友たちに報告するという悲しい役割が残っていた。